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谷村海那 ジョーカーからトリックスターへ

 谷村海那が日本代表に選出された。

 このニュースは、海那が現在所属する横浜F・マリノスのサポーターだけではなく、昨年途中まで所属した我々いわきFCサポーターの間でも、とてつもなく大きな話題となった。

 国士舘大学を卒業後、JFLに所属していたいわきFCに加入。クラブとともにJ3、J2と階段を上り、2025年シーズン途中でJ1横浜F・マリノスへ移籍。残留争いの渦中にあったマリノスで、15試合6ゴールを記録し、J1残留に大きく貢献した。いわきサポーターにとって、とてつもなく誇らしく、そして少しだけ寂しい瞬間だった。

 決して順風満帆とはいえなかった、いわきFC在籍時代。その5年半を振り返りながら、初めて日の丸を背負う谷村海那の活躍を祈念したい。

JFL時代

2020年

 2020年1月19日。新型コロナ禍突入直前、イオンモールいわき小名浜で行われた新体制発表会に、初々しい表情の海那がいた。前列には、この年からいわきFCに加入した鈴木翔大、田中龍志郎という元ソニー仙台の「目立ちまくる」2人。対して海那は後列で控えめに立っていた。同期の岩渕弘人、山口大輝に挟まれ、今と比べれば体型も違い、現在のようなギラギラした表情もまだ見えない。どこか「坊っちゃん」風の佇まいが印象に残っている。

 公式戦デビューは8月23日、第17節。実質的なシーズン第2節となったヴェルスパ大分戦。87分にボランチで途中出場しJFLデビューを果たしたが、目立った活躍は見せられず、試合も1-4で敗れた。奇しくもこの試合は、2016年に現体制となったいわきFCが、リーグ戦で初めて黒星を喫した試合でもあった。
 その後もFCマルヤス岡崎、当時ホンダロックSCだったミネベアミツミ戦でベンチ入りするも、出場はミネベアミツミ戦の10分間にとどまった。
 転機となったのは9月13日の高知ユナイテッド戦。同期昇格組との一戦で初先発を勝ち取った海那はFWとして出場すると、開始7分、右サイドの金大生からのグラウンダーパスをワンタッチで合わせ、JFL初ゴールを記録。さらに後半10分には、9番・鈴木翔大が胸で落としたボールに素早く反応し、再びワンタッチシュートを決めた。

 しかし、この年のリーグ戦でのゴールは、この2得点にとどまった。

 翌2021年3月に公開されたYouTube「サトシの部屋」で、大倉代表は海那にこう声をかけている。
「去年途中から出て2点取って……あれが最初で最後の活躍だったから。今年は頼むよ」これに対し海那は「今年は出たら点を取ります」と答える。田村雄三監督の「ま、出たらね」という返しが、当時の海那に対する評価を象徴していたようにも思う。
 この年は鈴木翔大をはじめ、岩渕弘人、山口大輝、平岡将豪ら現在らが在籍、海那にとっては、序列を覆していくことが簡単ではないシーズンだった。

2020年
出場7試合
スタメン2試合/途中出場5試合/サブ9試合
出場時間165分
得点2

2021年

 2021シーズンはヴィアティン三重戦からスタート。FW争いは熾烈だった。

 バスケス・バイロン、鈴木翔大、平岡将豪、山口大輝、吉澤柊、岩渕弘人、古川大悟。現在もJリーガーとして活躍する選手たちが前線に並ぶこの年は、前年に増してスタメン獲得が容易ではなかった。海那自身も「このままでは試合に出られない。これからもプロの世界で生きていく」と決意し、同年2月から身体を絞るトレーニングを開始した。

 当初はベンチスタートが多かったものの、プロとしての身体を作っていく過程で徐々に先発出場を増やしていく。一方で、後半から投入され、相手を突き放すジョーカーとしての存在感も増していった。

 身体を絞ったことで走れるようになり、前線からのプレス、プレスバックにも切れが出る。田村監督から「奪い切る力はFWで一番」と評価されるまでになった。振り返れば、この時期に海那のプレースタイルは大きく変わり始めていたのだと思う。

 森保一監督は今回の代表招集に際して、海那について「点を取ることだけではなく、点を取る過程でチームの戦術の中により多く関わり、最後に点を取ることができる」と評価している。

 「点を取るだけではない谷村海那」

 その原型が形作られたのが、この2021年だったのではないだろうか。

2021年
出場23試合/スタメン10試合/途中出場13試合/サブ16試合
出場時間891分
得点5

Jリーグ

J3・2022年

 Jリーグ初年度は、海那にとって試練の年だったに違いない。
 村主博正監督のもと、4-4-2でスタートした2022年。序盤は古川大悟と、この年加入した有馬幸太郎が2トップを務めた。さらに夏以降は、有田稜がFWとして急成長。2トップの一角をつかみ、最終的に17得点を挙げた。

 その中で海那は、後半から登場するジョーカー役として6得点。

 不調や大きな怪我も少なく、コンスタントに得点を重ねていた一方で、90分を走り切るスタミナへの信頼や守備面には課題が残り、スタメン定着には至らなかった。後に海那は、この時期についてこう振り返っている。

 「スタートから出たい。試合を見ていて、J3には正直、心の底から強いと感じるチームはなかったし、実際に勝てていた。自分自身としても、やれる自信は十分あった。それなのに出場時間をなかなか伸ばせず、本当に悔しかったです」

 その悔しさが、次のステップにつながっていく。

 第14節の松本山雅戦で初先発。その後は徐々に出場時間を伸ばし、フル出場できる身体を作るための試行錯誤を続けた。

 「フルで出場したい」その渇望と、そのために何をすべきかを考えること。身体とプレーを少しずつ変えていったこの年は、海那が「ジョーカー」から、その先へ進むための準備期間だった。

2022年
出場29試合/スタメン3試合/途中出場26試合/サブ28試合
出場時間1121分
得点6

J2・2023年

 J2昇格1年目の2023年は、開幕戦の藤枝戦からスタメンに定着した。

 開幕戦でゴールを決め、第2節の水戸戦でも得点。

 しかし、主にセンターバックの怪我人が相次ぐ中で、海那、有田の2トップもゴールから遠ざかり、チームは低迷。降格圏に沈んだ。第20節のモンテディオ山形戦をもって村主監督が解任され、田村雄三が1年半ぶりに監督へ復帰。

 そこからクラブは復調の気配を見せ、海那も再びゴールを重ね始めた。

 圧巻だったのは第37節、町田ゼルビア戦。

 こぼれ球に素早く反応すると、ボックス外から豪快なミドルシュートを叩き込んだ。首位を走る町田を相手に勝利し、降格ラインとの差を10ポイントに広げたこの試合は、残り5試合を考えれば「残留」が見えてきた試合でもあった。個人的にも、このゴールは強く印象に残っている。

 そしてこの年、海那はサブを含めて全試合に出場。怪我をせず、コンスタントに試合に出続けた。そして、その翌年。谷村海那は、ついに爆発する。

2023年
出場41試合/スタメン29試合/途中出場12試合/サブ12試合
出場時間2478分
得点7

J2・2024年

 2024シーズンは「充実」の年だった。

 前年に続いて全38試合に出場。スタメンは36試合に及び、絶対的なエースとしての存在感を示すようになった。第3節の鹿児島ユナイテッド戦で2得点を挙げた翌日、市内で行われたイベントで、海那は「今のところエース、谷村海那です」と挨拶し、会場の笑いを誘った。

 しかし、この時点でも「いわきFCのエースは誰か」と問われて、明確に「谷村海那」と答えるサポーターが多数派だったかといえば、そうではなかったと思う。2022年は有田がチーム得点王。2023年は海那と岩渕が7得点で並んだ。「絶対的なエース」と呼ばれるようになったのは、2024年以降のことだ。

 ただ、ここまでの歩みを振り返れば、それは決して「急に覚醒した」という話ではない。

 田村監督は当時、こう語っている。

身体とメンタルを少しずつ変え、頑張れるようになったことでもともとのセンスが開花し、大きく進化した。時間をかけて、やっとアスリートになりましたね。紆余曲折を経て、いわきFCのプレースタイルを体現する選手に成長してくれたと思います。

 まさに、その言葉の通りだった。第24節の山形戦から第27節の千葉戦までの4試合で5得点。1年間を通してコンスタントにゴールを積み重ね、最終的にはキャリアハイとなる18得点を記録した。

 23得点を挙げた小森飛絢(当時・千葉)に得点王の座は譲ったものの、マテウス・ジェズス(長崎)と並ぶ得点ランキング2位。そして、この年のベストイレブンにも選出された。JFLで出場機会を得られなかった青年は、いつの間にかJ2を代表するストライカーの一人になっていた。

2024年
出場38試合/スタメン36試合/途中出場2試合/サブ2試合
出場時間3194分
得点18

J2・2025年

 「このクラブでJ1に行きたい」。

 海那がそう語っていた夢が、果たされることはなかった。怪我人が続いたことでシーズン序盤から得点が伸びず、チームは9試合勝利なし。

 守備はできている。それなのに、得点が生まれない。

 大倉代表は4月に行われた「新スタジアム整備候補地に関するサポーターカンファレンス」の冒頭、チーム状況に触れ、「ここまで勝てないのは想定外」とした上で、「データ上少しずつ回復はしていく。ここから頑張っていきます」と説明した。その言葉から約2週間後の4月20日、いわきFCはついにシーズン初勝利を挙げる。

 海那も徐々に調子を上げていった。

 5月25日のベガルタ仙台戦以降、天皇杯を含めて5試合5ゴール。
さあ、ここから。そう思っていた矢先だった。


 7月5日の大宮戦をもって、海那がいわきFCを離れる。そのリリースは、サポーターに大きな衝撃を与えた。行き先はまだ分からない。けれど、海那が旅立つ。

 もともと多くのサポーターが駆けつける予定だった大宮戦には、リリースを受けてさらに多くのサポーターが集まった。いわきFCの海那を、最後に目に焼き付けるために。

 自分自身はこの試合に行くことができなかった。それでも、これから長く続いていくであろういわきFCの歴史の中で、最も記憶に残る試合、そして試合後の風景の一つとして、きっと語り継がれていくのだと思う。

 そして翌7月6日。移籍先が横浜F・マリノスであることが正式に発表された。その後、海那はJ1の舞台で結果を残し、そして2026年9月、ついに日本代表へと選出された。

動画「Behind The Scene」のロッカールームで、海那はいわきFCの仲間たちに「サッカー選手でも何でもない選手から、ここまでこれた。みんなも成長だけを求めて頑張ってほしいと思います」と語り、クラブに対する感謝と絶対的な信頼感を寄せた。そして県内放送では、サポーターに向けてこう語る「いわきFCから育った選手が日本代表になることを目指している。いわきFCで育ったことを誇りに思って、日本代表を目指したいと思います」と。

ジョーカーからトリックスターへ 

改めて考える。谷村海那という男は、なぜここまで愛されるのだろう。

JFL初年度の海那は、非凡な才能を持ちながらも、走れなかった。いや、走らなかった。「いわきに合うのだろうか」。そんなことを思った時期もあった。

それでも
いつの間にか出場するようになった。
いつの間にか得点を重ねるようになった。
いつの間にかスタメンにいる選手になった。
いつの間にかJ2でベストイレブンに選ばれる選手になった。
いつの間にか求められ、名門クラブへ移籍する選手になっていた。

ただ、ここまで海那の成績や発言を振り返ると、当然ながら「急に覚醒した」のではない。身体とメンタルを少しずつ変え、もともとのセンスを開花させていった。

思えば海那は、与えられた序列を一つずつひっくり返してきた選手だった。ジョーカーとして与えられた役割を超え、スタメンを奪い、エースとなり、ついには周囲が想像もしなかった場所までたどり着いた。それは、既存の秩序や常識、期待されていた役割をひっくり返す存在―「トリックスター」と呼ぶにふさわしい歩みだったのかもしれない。

海那は、いわきと一緒に昇ってきた仲間だ。
だから、いわきサポーターにとっては、マリノスで輝く今も、やっぱり「俺たちの海那」なのだ。

マリノスサポーターの皆さん。
海那のことを「俺たちの海那」と呼ばせてくれて、ありがとう。

そして、いよいよ海那が日本代表としてピッチに立つ日が来る。

6年半前、イオンモールいわき小名浜のステージで、後列に控えめに立っていた「坊っちゃん」は、もういない。

けれど、あの日から続いてきた物語は、まだ終わらない。

目指すゴールは、まだまだ先にある。

2015年に発刊された岩手県のスポーツ誌「Standard」


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