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🧠 「正義」はアルゴリズムで測れるのか?


正義とは、誰の手のなかに宿るものなのだろう。

古い寓話のなかで、正義は目隠しをした女神として描かれてきた。右手に剣を、左手に天秤を持ち、身分も名前も知らぬまま、ただ公平に量る。私たちは長いあいだ、その像を理想として掲げてきた。誰にも肩入れせず、誰にも情を移さず、ただ事実だけを量る者。それが正義の姿だと、疑うことなく信じてきた。目隠しをするという行為そのものが、すでにひとつの倫理だった。見えてしまえば、人は必ず何かに傾く。だからこそ、あえて見ないという選択を、正義の像は選び取っていたのだ。

けれど、いま目の前にある「量る者」は、もう女神ではない。数式であり、確率であり、無数のデータから静かに学習を重ねたモデルである。目隠しをしているわけではない。むしろ逆だ。あらゆるものを見尽くし、記録し尽くしたうえで、判定を下す。見ないことによる公平ではなく、見すぎることによる公平を、私たちは新しく手に入れたつもりでいる。剣も天秤も持たず、姿すら持たないその審判者は、法廷にも祭壇にも立たない。サーバーの奥、名もない場所で、静かに、絶え間なく、判定だけを下し続けている。

SNSに投稿したひとことが、深夜のうちに「不適切」と判定され、跡形もなく消される。理由を尋ねても、返ってくるのは規約の一文だけで、判断のプロセスは誰にも開かれない。ローンの審査では、会ったこともない誰かの人生の記録から導かれたスコアが、あなたの信用を静かに決めている。採用の一次選考では、履歴書の言葉づかいや経歴のパターンを解析したアルゴリズムが、面接に進める人間をあらかじめ選び出している。そして司法の現場でさえ、再犯のリスクを予測するプログラムが、量刑を左右する助言として、すでに静かに導入されはじめている。海外のある量刑支援プログラムをめぐっては、人種によって再犯リスクの予測に偏りが生じていたのではないかと、複数の調査報道が指摘している。真偽の細部はここでは措くとしても、その報道が広く受け止められたという事実だけで、ひとつのことが見えてくる。私たちはもう、機械の判断を「無条件に公正なもの」としては信じきれなくなっている、ということだ。

それでも、判定はそのどれもが、同じ言葉で説明される。「感情に左右されない、公正な判断です」と。

その言葉を聞くたびに、胸の奥のどこかがざわつく。公正であることと、正しいことは、本当に同じ意味なのだろうか。一貫していることと、公平であることは、本当に重なり合うものなのだろうか。

想像してみてほしい。ある朝、あなたのスマートフォンに一通の通知が届く。昨夜投稿した何気ない一文が、コミュニティガイドラインに違反したという理由で削除されている。あなたはその文章を、何度も読み返す。悪意はなかった。誰かを傷つけるつもりもなかった。けれど、通知の向こうには、説明を求める窓口すら見当たらない。異議を申し立てるボタンを押しても、返ってくるのは、また別の自動応答だけかもしれない。判定した「誰か」に、あなたは会うことができない。顔もなければ、声もない。ただ、結果だけが、静かにそこに置かれている。この感覚を、私たちはまだ、正確に名づける言葉を持っていない。理不尽さとも違う。孤独とも少し違う。強いて言うなら、それは「相手のいない対話」に取り残されたときの、あの独特の心細さに近いのかもしれない。

「正義」という漢字を、あらためて見つめ直してみる。羊の下に我と書く。古代中国において、羊はしばしば、犠牲として神前に捧げられる清らかなものとされた。「我」の在り方を、その清らかさに照らして正すこと。それが「義」という文字の、もともとの成り立ちだったとも言われる。西洋のジャスティスの語源であるラテン語のイウスティティアもまた、単なる規則の遵守ではなく、「あるべき秩序に釣り合っている状態」を意味していた。どちらの語にも共通しているのは、正義が、外側から与えられる採点結果ではなく、内側から絶えず問い直される「釣り合い」だったということだ。数値としての正解ではなく、姿勢としての正しさ。そう考えると、アルゴリズムが出力する「正しい答え」という表現そのものが、すでに、正義という言葉の古い成り立ちから、少しだけ外れてしまっているのかもしれない。

ジョン・ロールズは、正義を「無知のヴェール」という思考実験で考えた。もし自分がどんな立場に生まれるか分からないまま、社会のルールを決めるとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。金持ちになるか、貧しく生まれるか。健常であるか、そうでないか。多数派であるか、少数派であるか。その一切を知らないまま設計するルールこそが、公正なのだとロールズは考えた。誰もが「自分が最も弱い立場になるかもしれない」という緊張感のなかでルールを選ぶとき、はじめて社会は、弱い者を切り捨てない設計へと近づいていく。

アルゴリズムによる判断は、一見この思考実験に似ている。属性を見ない。感情を見ない。個人的な事情を見ない。ただデータのパターンだけを見る。だから公平だと、私たちは説明される。

けれど、そこには決定的な違いがある。ロールズの「無知のヴェール」は、人間が想像力によって自分の立場を消し去る営みだった。誰かの痛みを、自分のものとして想像しなおす行為だった。想像するという行為には、必ず痛みを伴う。想像すればするほど、決めることが怖くなる。その怖さこそが、ルールを慎重にする力になっていた。一方でアルゴリズムは、はじめから誰の痛みも知らない。想像するのではなく、ただ知らないだけなのだ。無知であることと、無知を選び取ることのあいだには、埋めがたい距離がある。前者には葛藤があり、後者には葛藤がない。葛藤のない公平さを、私たちは本当に公平と呼んでよいのだろうか。

カントは、道徳の根拠を「格率」に求めた。ある行為をするとき、その行為の理由が、誰にでも当てはまる普遍的なルールとして成り立つかどうか。それが道徳の判断基準だとカントは考えた。人を手段としてではなく、目的として扱うこと。この考え方の核心にあるのは、判断する主体が、自分自身の行為に責任を持つという構造だった。判断するということは、その結果を引き受けるということと、切り離せない一組の行為だったのだ。

だがアルゴリズムには、責任という概念そのものが存在しない。判定を下したのは誰か、と問うたとき、返ってくるのは「モデルがそう出力しました」という言葉だけだ。モデルを設計した人間がいる。学習データを集めた人間がいる。運用を決定した企業がいる。けれど、その判断の瞬間に立ち会い、痛みとともに決断を引き受ける「誰か」は、どこにもいない。判断はあるのに、判断した者がいない。これは、正義という概念にとって、静かに、しかし深く矛盾した状態ではないだろうか。

実際のところ、ひとつのアルゴリズムの背後には、驚くほど多くの人間が関わっている。仕様を決める経営者がいる。設計するエンジニアがいる。学習データを選び、ラベルを付けるアノテーターがいる。導入を承認する現場責任者がいる。そして、その出力をただ受け取るだけの利用者がいる。それぞれが、自分の持ち場の判断には自信を持っている。仕様は正しく決めた。設計は仕様通りに行った。データは規定の手順で選んだ。導入は稟議を通した。利用は指示された通りに使っただけ。こうして、責任は一つひとつの持ち場のなかでは正当化されながら、全体としては、誰の手にも残らないまま、静かに霧散していく。

ハンナ・アーレントは、ある戦争犯罪の裁判を傍聴し、そこに座っていた被告人が、怪物のような悪人ではなく、ただ上からの命令を淡々とこなしただけの、ごく平凡な官僚だったことに衝撃を受けた。彼女はそれを「悪の凡庸さ」と呼んだ。悪は、必ずしも強烈な悪意から生まれるとは限らない。むしろ、誰も判断していないという状態のなかから、静かに、事務的に生まれることがある。命令に従っただけ、規則に沿っただけ、システムの出力に従っただけ。そう語る声のなかには、責任の所在がどこにもない。アルゴリズムに判断を委ねる社会の構造は、この「凡庸さ」を、もっと洗練された、もっと見えにくい形で再生産してはいないだろうか。誰も悪意を持たないまま、誰も責任を取らないまま、それでも不正義だけが、静かに積み重なっていくとしたら。

アルベール・カミュは、不条理を「世界に意味を求める人間の願いと、意味を与えない世界の沈黙とのあいだの断絶」として描いた。人は理由を求める生き物だ。なぜ自分がこう扱われるのか、なぜこの結果になったのか、理由を知りたいと願う。

アルゴリズムによる判断は、この不条理をさらに深いところへ運んでいく。かつて理不尽な扱いを受けたとき、人はせめて「誰かの悪意」や「誰かの怠慢」のせいにすることができた。怒りを向ける先があった。けれどモデルの判断には、悪意も怠慢もない。ただ確率の高い出力があるだけだ。怒りを向ける先を失った不条理は、これまでよりも静かで、これまでよりも深く人の内側に沈んでいく。抗議する相手すら見つからない怒りは、行き場を失ったまま、自分自身のなかで固まっていく。

サルトルは、人間を「自由の刑に処せられた存在」と呼んだ。人は選択から逃れられない。何も選ばないことさえも、ひとつの選択である。そして選択した以上、その結果に責任を持たねばならない。自由と責任は、切り離すことのできない一対の概念として、サルトルの哲学の中心に据えられていた。自由であることは、軽やかなことではない。むしろ、常に自分の選択の重みを背負い続けるという意味で、ひどく苦しいことでもある。

私たちがアルゴリズムに判断を委ねるとき、実はそこで起きているのは、判断の精度を上げることだけではない。自由の重さを、そっと肩から下ろす行為でもあるのだ。難しい判断を、自分でしなくてよくなる。責任の所在を、システムのなかへ溶かし込むことができる。それは楽になる、ということでもある。楽になることそのものは、悪いことではない。けれど、その軽さに慣れすぎてしまったとき、私たちは自分がどれほどのものを手放したのか、気づかなくなるのかもしれない。

エーリッヒ・フロムは、著書『自由からの逃走』のなかで、人がなぜ自由を手放し、権威に従属することを選ぶのかを描いた。自由とは、可能性であると同時に、孤独と不安の源でもある。何が正しいかを自分で決めなければならないという重さに、人は耐えきれなくなることがある。そのとき、確かに見える権威に判断を委ねることは、自由からの、ある種の逃走として機能する。フロムが生きた時代の権威は、国家であり、指導者であり、群衆の熱狂だった。

アルゴリズムは、フロムが描いた「権威」の、もっとも現代的な姿なのかもしれない。感情的でなく、疲れることもなく、いつでも同じ基準で答えを出してくれる。その一貫性は、私たちに安心を与える。けれど、その安心の裏側で、私たちは静かに、自分で考えることをやめてはいないだろうか。判定に従うことが、思考することよりも、ずっと楽だと知ってしまったあとで。

これまで人間がつくってきた司法の仕組みには、必ず「控訴」という道が用意されてきた。一審の判断に納得がいかなければ、二審に訴えることができる。判事にも間違いがあることを、制度そのものが最初から織り込んでいたからだ。誤りうる存在が判断するからこそ、もう一度、別の目で見直す機会が必要だった。ところがアルゴリズムによる判定の多くには、この「もう一度」に相当する道が、まだ十分に用意されていない。異議を申し立てる窓口はあっても、そこにいるのは人間の耳ではなく、また別のシステムであることが少なくない。誤りうる存在として設計されていないものに対しては、誤りを正すための回路もまた、うまく組み込まれないままなのだ。

韓炳哲(ビョンチョル・ハン)は、現代社会を「透明社会」と呼んだ。かつての権力は、何かを隠すことによって人を支配した。秘密こそが、権力の源だった。けれど現代の権力は、逆の方法で人を支配する。すべてを見えるようにし、すべてを数値化し、すべてを共有可能にすることによって。隠されているから怖いのではなく、見せることを強いられているから、人は静かに疲弊していく。ハンはこれを「成果社会」とも呼んだ。誰かに強制されるのではなく、自分自身が自分自身を絶えず評価し、最適化し、駆り立てていく社会。そこでは搾取する者と搾取される者の境界すら曖昧になる。人は、自分自身の管理者になることで、休むことのできない主体へと変わっていく。

正義を測るアルゴリズムもまた、この透明社会の延長線上にある。評価されること、数値化されること、判定されることに、私たちはすでに、驚くほど慣れてしまっている。スコアを上げるために振る舞いを調整し、削除されないために言葉を選ぶ。それは強制ではない。むしろ、自ら進んで行っている調整だ。だからこそ、この支配は見えにくい。誰かに命じられているわけではないのに、私たちは自分の内側に、判定者のまなざしを住まわせてしまっている。

ミシェル・フーコーは、誰にも見られていないかもしれないという、その「見られているかもしれない」という不確かさこそが、人の振る舞いを内側から律していくと考えた。中央に監視塔を置き、周囲の独房からは監視塔の内部が見えない構造を持つ刑務所を思考の素材にしながら、彼は近代社会そのものが、そうした「見えない視線」によって秩序づけられていく仕組みを描き出した。見張られているかどうかは、もはや重要ではない。見張られているかもしれない、という感覚だけで、人は自分自身を律しはじめる。

ジャック・ラカンもまた、人間の欲望が「他者の欲望」を映すものだと考えた。人は自分自身のまなざしだけでなく、常に「見られている」という感覚のなかで、自分の振る舞いを調整していく。誰かに見られているという意識が、行動の輪郭を形づくっていく。

SNSのタイムラインに投稿するとき、私たちはすでに、目に見えないアルゴリズムのまなざしを感じている。この言葉は削除されないか。この投稿は表示されにくくならないか。誰かに嫌われないか、それ以前に、システムに弾かれないか。人間の視線よりも先に、機械の判定を気にしてしまう瞬間が、確かに増えている。フーコーの監視塔とラカンの他者は、いまや同じひとつの姿として、私たちの手のなかのスマートフォンに宿っているのかもしれない。見えない審判の前で、私たちはすでに、無意識のうちに振る舞いを整えはじめている。

こうして考えていくと、アルゴリズムによる正義の測定というものが、単なる技術の話ではないことが見えてくる。それは、人間が自由をどう扱うか、責任をどこに置くか、そして何を「正しさ」と呼ぶかという、もっとも古くからの問いに、新しい形で触れ直す作業なのだ。

もちろん、アルゴリズムのすべてを否定する必要はない。人間の判断には、偏見がある。疲労がある。気分の波がある。同じ罪でも、審理の時間帯や裁く者の機嫌ひとつで量刑の傾向が変わってしまうという指摘さえ、複数の研究のなかで語られてきた。そう考えると、一貫性を持つ機械の判断のほうが、ある側面では公平である、という主張にも一理ある。感情に流されないという性質は、確かにひとつの美徳になり得る。

けれど、一貫性があることと、正しいことは、やはり同じではない。偏った学習データから導かれた判断は、偏りごと一貫して繰り返される。人間の偏見は場面ごとに揺らぐが、機械の偏見は揺らがない。むしろ、揺らがないぶんだけ、静かに、確実に、社会の隅々まで浸透していく。目に見える不正よりも、目に見えない一貫した偏りのほうが、時に恐ろしいのかもしれない。誰も気づかないまま、同じ形の不公平が、何万回、何十万回と繰り返されていくとしたら。

では、私たちはどうすればいいのだろうか。

ひとつだけ、はっきりしていることがある。それは、アルゴリズムに判断を任せることと、その判断を検証しつづける責任を手放すことは、まったく別の話だということだ。便利さを受け取ることと、思考を停止することは、本来イコールではない。にもかかわらず、その境界線は、日々の忙しさのなかで、いつのまにか曖昧になっていく。判定を疑うことすら、面倒に感じられる日が増えていく。

大きな制度を、一人の力で変えることはできない。けれど、日々のなかで「判定をそのまま受け取らない」小さな習慣を、自分の内側に持っておくことはできる。何かの結果を受け取ったとき、すぐに納得せず、いったん立ち止まって、自分の言葉で書き直してみること。頭のなかだけで考えるのではなく、手を動かして、その違和感の正体を言葉に落としてみること。静けさのなかで、誰にも急かされずに、自分の考えをゆっくりと辿り直す時間を持つこと。そうした小さな営みの積み重ねが、判定に流されない思考の筋力を、少しずつ育てていくのかもしれない。答えを機械に求める速さと、問いを自分の中で育てる遅さと、そのどちらも手放さずに持ち続けることが、これからの時代を生きるための、静かな技術になっていくのだろう。

正義という言葉は、もともと完成された答えではなかったはずだ。ロールズもカントもカミュもサルトルも、正義を「すでにある正解」としてではなく、「問い続けるべき営み」として描いてきた。答えを出すことよりも、問いを手放さないことのほうが、実は正義という概念にとって、はるかに本質的だったのかもしれない。アーレントが描いた「悪の凡庸さ」から人を遠ざけるのも、結局のところ、立ち止まって考えるという、ただそれだけの行為だった。

アルゴリズムが得意なのは、答えを出すことだ。速く、大量に、迷いなく。けれど、問いを持ち続けることは、いまのところ、人間にしかできない営みとして残されている。判定された結果の前で、それでも「本当にそうだろうか」と立ち止まる力。誰かの下した判定を、そのまま自分の内側に流し込まずに、いったん手のなかで転がしてみる時間。その一瞬の逡巡こそが、正義という概念を、単なる計算から守っている最後の砦なのかもしれない。

いつか、判定の速さそのものが、正しさの証明であるかのように扱われる日が来るかもしれない。速く答えが出るということは、迷いがないということであり、迷いがないということは、正しいということだ。そんな短絡が、静かに、当たり前の顔をして広まっていく未来を、想像することはそれほど難しくない。だからこそ、いま、この揺らぎのなかにとどまっておくことに、意味がある。速さに抗うのではなく、速さのかたわらに、遅さの居場所を残しておくこと。それだけで、まだ十分なのかもしれない。

「正義」はアルゴリズムで測れるのか。

この問いに、きれいな結論を出すことは、たぶんできない。できないことにこそ、意味があるようにも思う。答えを急がず、この揺らぎのまま、もうしばらく、あなたの中に置いておいてほしい。急いで結論を出すことよりも、結論の出ないまま考え続けることのほうが、実は、はるかに勇気のいる営みなのかもしれない。あなたがこれから何かの判定を受け取るとき——あるいは、何かを判定する側に立つとき——その一瞬に、この問いをそっと思い出せるかどうか。それこそが、これからの時代の「考える力」なのではないだろうか。

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