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【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第43話: オクラの揚げ出汁と黒糖焼酎


内容紹介

今日の一皿は、とろりとしたねばりが出汁と絡み合う「オクラの揚げ出汁」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、黒糖焼酎と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。

本編

のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。

 裏路地に入ったのは、ただの気まぐれだった。コンクリートの匂いと排気のざらつきが消え、湿った苔の香りが鼻をかすめる。ビルとビルの隙間に生まれたその道は、まるで人の気配を拒むかのようにひっそりとしていた。
 大庭葵おおばあおいは歩を進めた。研究発表が流れたことも、誰にも会わずに宿へ戻るのも、どちらでもよかった。
 ただ、どこかで引っかかっていたのだ。同じセッションに名を連ねていた映像作家、海老原澪えびはらみおという名。彼女の発表が終わったとき、遠くからその声だけが届いていた。農家の名に聞き覚えがあり、立ち止まった。そこは2年前、自分がオクラの開花調査をしていた畑だった。

 偶然か、それとも何かの巡りか。足元に咲いたオシロイバナをよけるように、彼女はのれんの前で立ち止まった。白無地。染めもないその布は、まるで色を受け入れるために在るようだった。淡い行燈が、誰かの帰りを待つように灯っている。葵は迷わずくぐった。

 店内は静かだった。空調の機械音もなく、照明も穏やかで、外界と切り離されたような時間が流れていた。

 「いらっしゃいませ」

 カウンターに腰掛けると、奥から真城一献ましろいっこんが現れて、静かに水の張ったグラスを置いた。

 葵は植物学者だ。専門は熱帯植物で、八重山、小笠原、奄美、そしてインドネシアまで足を運んだ。人と植物の境界に宿る文化と記憶を探ることが仕事だ。だが、学会という場はときに、科学という形式の中で、人の介在を捨て去ることを求めてくる。今日もまた、発表の機会は失われ、誰にとっても何も起きなかった一日になった。

 会場の空気は乾いていた。フロアを歩くハイヒールの音、マイクのハウリング。ふいに響いた「次のセッションは、時間の都合により─」というアナウンスに、肩を落とす聴衆と、無言でPCを閉じる登壇者たち。その一人だった葵は、ただ手帳を閉じ、無言で会場を出た。
 その時、澪の声が背後から追ってきた。

 「─この映像の中に、風が吹いた瞬間がある。音ではなく、揺れでもなく、葉が光をどう受けたかを、どうぞご覧ください」

 その言葉だけが、不思議と耳に残った。

 「オクラの揚げ出汁です」

 やがて、目の前に器が置かれた。深い飴色の出汁のなかに、緑鮮やかなオクラが並び、その上にふわりと鰹節が踊っていた。細長いその姿は、かつて畑で見た朝の風景を思い出させた。
 一本を箸で持ち上げると、オクラの纏った油がほのかにきらめいた。口に入れる。香ばしさ、出汁のふくよかさ、そしてオクラからとろりと溢れ出してくる粘りが、舌のうえでひとつになる。静かだが確かな旨味に、思わず目を細めた。

 真城の手元は静かで流れるようだった。揚げ油から引き上げられたばかりのオクラが、淡く湯気を立てる。カウンター越しに見るその所作に、葵はしばらく見入っていた。無駄がなく、焦りもない。ただひとつの食材に向き合う手の動き。自分もかつて、そうしてオクラの葉を一枚一枚採取していた、おぼろげな情景が目の奥に立ち上がった。

 その直後、真城が再び現れ、小さなグラスと瓶を置いた。

 「よろしければ。奄美黒糖焼酎、朝日です」

 水割りだった。グラスの中には、ほどよく角の取れた氷が一つ。
 グラスに口をつけると、まろやかな香りとともに、微かな甘みが広がった。その瞬間、夏の記憶がはっきりとよみがえった。
 奄美の畑。朝露に濡れたオクラの花。農家の娘が「昼には閉じるんだよ」と笑った声。白いブラウスが風に揺れていた。彼女の姿はオクラの花とともに、いつしか自分の記憶のなかにしっかりと根を張っていた。

 「植物って、咲いてるときだけじゃなくて、食べられるときも、生きてますよね」

 ふいに出た言葉に、真城はひとつ頷いた。

 「植物に限りません」

 その一言が、なぜか嬉しかった。

 葵はグラスを置き、再び料理に箸を伸ばした。
 鰹節が出汁を吸い、しんなりと味を変えている。口に運ぶたび、別の記憶がほどけていくようだった。植物は、記録されなくても、確かにそこにあった。誰かが忘れても、風や土や香りが覚えている。
 研究者として記録を残す役割を担ってきた葵は、ふとその必要すら忘れていた自分に気づいた。ただ味わうことでしか触れられない何かが、確かにあるのだと。

 カウンターに背を預け、ひと息つく。顔を合わせることのなかった誰かの声が、耳の奥に微かに残っている。交差したことのない視線が、どこかで一瞬だけ、確かに触れた気がした。その感覚があったから、葵はこの店に辿り着けたのかもしれない。

 立ち上がると、真城は静かに会釈した。言葉はいらなかった。葵もまた、小さく頭を下げてのれんをくぐった。

 葵は再びのれんをくぐった。二回目は、奄美の夏を纏わせて。
 真城一献は、葵の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。

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第44話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』

おまけレシピ

オクラの揚げ出汁
  1. まな板の上に塩を振って、オクラを擦り付けて産毛を取ってから洗う。

  2. 180℃の油で手早く素揚げし、出汁パックなどで取った出汁に少量のみりん、醤油を入れたものに熱いうちに漬けて、鰹節をまぶす。

材料紹介

  1. 黒糖焼酎朝日 : オクラの揚げ出汁と、奄美の夏を。

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