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私はデザイナーになれなかった。そう思い込んでいた。

    ──人の心が動く瞬間を追い続けたら、仕事の意味が見えてきた

    プロローグ

    私は長い間、
    母のようにはなりたくないと思っていた。

    母は中卒のシングルマザーだった。

    昼も夜も働いていた。

    そして、いつも恋人がいた。

    子どもの私には、
    それがどうしても理解できなかった。

    恋人がいる時は生活が少し楽になる。
    別れると苦しくなる。

    そのたびに引っ越しをした。
    私は振り回されているように感じていた。

    みじめだった。
    恥ずかしかった。
    友達に家のことを知られたくなかった。

    でも、
    かわいそうだと思われるのも嫌だった。

    母は夜の仕事をしていた。
    夜になると家には私と姉だけになる。

    無事に帰ってくるだろうか。
    変なお客さんに絡まれたりしていないだろうか。

    そんなことを考えながら眠った夜もあった。

    母が帰ってくると安心した。
    でも同時に緊張もした。

    部屋が汚い。
    宿題はやったのか。
    ちゃんとしなさい。

    そんな言葉が飛んでくることもあったからだ。

    本当は甘えたかった。
    本当は母が好きだった。

    小さい頃の私は、
    とても甘えん坊で泣き虫だったらしい。

    母は今でも笑いながら言う。

    「気に入らないことがあると、逆さになって泣いてた」

    私は覚えていない。

    でも娘を育てている今なら分かる。

    きっとあの頃の私にも、
    伝えたい気持ちがあったのだろう。

    最近、ふと思い出したことがある。

    小学生の頃、
    私は年下の子をつねったことがある。

    なぜそんなことをしたのか覚えていない。

    ただ、その子は幸せそうだった。
    愛されて育っているように見えた。

    私はその出来事を忘れられなかった。

    どうしてあんなことをしたのだろう。
    どうして私はこんな人間なのだろう。

    その頃から、自分を責めるようになった。

    だから思っていた。

    絶対に母のようにはなりたくない。
    誰かに頼らず、自分の力で生きたい。

    何者かになりたい。

    今思えば、
    その頃の私は仕事というものを何も知らなかった。

    仕事とは立派な肩書きを持つことだと思っていた。
    人から認められることだと思っていた。
    自分に価値を与えてくれるものだと思っていた。

    だから私は、
    ずっと何者かになろうとしていた。

    けれど、
    その旅の終わりに私が見つけたのは、
    まったく別のものだった。


    第1章 ファッションデザイナーを目指した時代

    子どもの頃から服が好きだった。

    中学生になる頃には、自分で服を作っていた。

    姉に褒められるのが嬉しかった。
    おしゃれをするのも好きだった。

    でも同時に、
    自分はどこか野暮ったいとも感じていた。

    何が違うのだろう。
    どうしたらもっと素敵になれるのだろう。

    その答えがファッションデザインの世界にある気がした。
    私は文化女子短期大学服装学科デザイン専攻へ進学した。

    ところが、
    入学してすぐに圧倒された。

    周りの人たちがかっこよかった。

    知っているブランドが違う。
    好きな音楽が違う。
    観ている映画が違う。

    みんな自分のスタイルを持っていた。

    私は話についていけなかった。

    そして何より、
    みんなには作りたい服があった。

    私は服が好きだった。
    でも、作りたい服はなかった。

    自分が着たい服はあった。

    けれど、
    世の中に向けて表現したい何かはなかった。

    周りの人たちは違った。

    服が好きだから作る。
    表現したいから作る。

    私は違った。

    私はデザイナーになりたかった。
    もっと正確に言えば、
    デザイナーになれば自分を好きになれる気がしていた。

    だから苦しかった。

    絵も上手くなかった。
    周囲の画力に圧倒された。

    けれど不思議なことに、
    努力する気も起きなかった。

    今なら分かる。
    私は努力して負けるのが怖かったのだ。

    努力しなければ、

    「本気じゃなかったから」

    と言い訳ができる。

    だから私は逃げた。
    デザインから。

    そして、自分自身から。

    今なら思う。

    私は服を作りたかったのではない。
    デザイナーになりたかったのでもない。

    ただ、
    自分を好きになりたかったのだ。

    当時の私は、デザインを誤解していた。

    デザインとはセンスだと思っていた。
    才能だと思っていた。

    美しいものを生み出す力だと思っていた。

    本当は違ったのに。

    そのことを知るのは、
    20年以上先の話になる。


    第2章 演劇との出会い

    そんな時に出会ったのが演劇だった。

    劇団笑うバラの解散公演『無頼』。

    内容はほとんど覚えていない。
    けれど、
    あの日受けた衝撃だけは今でも覚えている。

    理解できないのに面白かった。
    不条理なのに人間臭かった。

    意味が分からないのに心を揺さぶられた。
    こんな世界があるのかと思った。

    私は夢中になった。

    芝居を観た。
    映画を観た。
    ミュージカルを観た。

    そして、養成所に入った。

    演技や裏方を学んだ。

    いつしか、
    仲間たちと劇団を旗揚げした。

    きっかけは私の脚本だった。
    友人との馬鹿話から思いついた物語を書いて見せた。

    すると友人が言った。

    「面白いやん。やろうや」

    嬉しかった。

    あの一言は今でも覚えている。

    初めて、
    自分の中にあるものが誰かに届いた気がした。

    脚本を書くのは楽しかった。
    セリフが勝手に浮かんだ。

    頭の中の映像に
    キーボード入力が追いつかないこともあった。

    私はもしかしたら脚本家になれるかもしれない。
    そんな根拠のない自信もあった。

    でも今振り返ると、
    それ以上のものがあった。

    私は演劇に救われていたのだ。

    子どもの頃から、
    どこか世界を遠く感じていた。

    今なら離人感と呼ぶのかもしれない。

    周りの人たちが生きている世界を、
    少し離れた場所から眺めているような感覚。

    笑うことはあった。
    ダウンタウンのコントを見て大笑いすることもあった。

    でも、
    それ以外の感情はどこか遠かった。

    『無頼』を観た日、久しぶりに心が動いた。

    いや、初めてだったのかもしれない。

    舞台の上では人が泣いていた。
    笑っていた。
    怒っていた。
    許していた。

    観客席の空気まで変わっていた。

    私はその震えに魅了された。

    空気が震える。
    心が震える。

    舞台と客席が一体になる。

    私は脚本を書いていたつもりだった。

    でも本当は、
    人の心が動く瞬間を追いかけていたのかもしれない。

    後に劇団の役者から、
    私は「感動屋さんだね」と言われたことがある。

    当時は不思議だった。

    自分ではむしろ感情が薄い人間だと思っていたからだ。

    でも今なら少し分かる気がする。

    私は感情がなかったのではない。
    人の心が動く瞬間に、人一倍惹かれていたのだ。


    第3章 演劇を諦めた理由

    私は10年近く演劇を続けた。

    何をやっても長続きしない私が、
    それだけは続いた。

    それほど好きだった。
    それほど生きている実感をくれる場所だった。

    けれど、
    本気になればなるほど苦しくなった。

    劇団運営は想像以上に大変だった。

    役者を集める。
    スタッフと調整する。
    公演を成立させる。

    私は人と向き合うより、
    脚本を書く方が好きだった。

    だからこう考えていた。

    いい脚本さえ書けば伝わる。

    今思えば傲慢だった。

    伝える努力をせず、
    伝わらないことを嘆いていたのだから。

    脚本にはよくこんな感想が寄せられた。

    発想は面白い。世界観もある。

    でも、人の感情が見えない。
    伝わりにくい。

    私自身もそう感じていた。
    何かが足りない。

    でも何が足りないのか分からない。
    書き直しても書き直しても納得できない。

    特にラストが書けなかった。

    何を伝えたいのか分からなくなる。
    説教臭くなる。
    あるいは尻すぼみになる。

    そして何より苦しかったのは、
    フィードバックだった。

    アンケートには辛辣な言葉も並んだ。

    もちろん今振り返れば、
    そこには作品を良くするための
    ヒントも含まれていたのだと思う。

    でも当時の私は受け取れなかった。

    傷ついた。
    否定された気がした。

    意見を聞けば聞くほど、
    自分が分からなくなった。

    何をしたいのか分からなくなった。
    芯がぶれていった。

    当時は自信がないのだと思っていた。

    でも今なら少し違う見方ができる。
    私は作品と自分を切り離せていなかった。

    脚本への批評を、
    自分への批評として受け取っていた。

    だから受け止められなかった。

    認められたかった。
    傷つきたくなかった。
    失敗したくなかった。

    そして苦しくなると、
    私はさらに内側へ潜っていった。

    どうして分かってもらえないのだろう。
    どうして伝わらないのだろう。

    そんなことばかり考えていた。

    今振り返ると、
    私は人に伝えるために書いていたのではなく、
    自分を証明するために書いていたのだと思う。

    何者かになりたかった。
    誰かに価値を認めてほしかった。

    だから苦しかった。

    そして、
    やがて書けなくなった。

    劇団は解散した。
    夢も終わった。

    私は長い間、
    演劇に失敗したのだと思っていた。

    でも今は違う。
    演劇は失敗ではなかった。

    あの十年があったから、
    私は初めて知ったのだ。

    人の心が動くことの美しさを。
    そして同時に、
    人を理解することの難しさを。

    演劇が教えてくれたのは、
    表現の難しさではなかった。
    人を理解することの難しさだったのかもしれない。

    そして、
    その答えは劇場の外にあった。


    第4章 仕事が教えてくれたこと

    演劇を辞めた後、私は燃え尽きた。
    何を目指せばいいのか分からなくなった。

    そんな私を変えたのは夢ではなかった。

    仕事だった。
    生活だった。

    コールセンターで働いた。

    最初の頃の私は、
    自分は仕事ができると思っていた。

    話を聞くのは得意だと思っていた。

    ところが違った。

    お客様の話を途中まで聞いて、

    「ああ、この問い合わせね」

    と勝手に判断していた。

    でも、最後まで聞くと全然違う。

    電話が壊れたと言われても、
    本当に壊れているとは限らない。

    充電切れかもしれない。
    料金未払いかもしれない。
    設定の問題かもしれない。

    私はそこで初めて知った。
    察することと理解することは違う。

    相手のためを思うなら、
    最後まで話を聞かなければならない。

    私はずっと分かったつもりになっていたのだ。

    思えば脚本も同じだった。
    私は人を書いているつもりだった。

    でも本当は、
    人を見ていなかったのかもしれない。

    結婚し、娘が生まれた。

    娘が一歳半になった頃、
    私はグループホームで働き始めた。

    昼は利用者さんと向き合い、
    家に帰れば家族との時間が待っていた。

    今思えば、
    私が人生で最も多くのことを
    学んだ時期だったのかもしれない。

    グループホームでも大切なことを学んだ。

    私は利用者さんに親切にしたかった。
    できるだけ楽をさせてあげたかった。

    でも、
    それが必ずしも相手のためにはならない。
    自分でできることまで奪ってしまうことがある。

    介護度が上がることもある。
    周囲の負担が増えることもある。

    私はそこで初めて考えた。

    優しさとは何だろう。
    支援とは何だろう。

    本当の優しさとは、
    自分が気持ちよくなることではない。

    相手がより良く生きられるよう支えることなのだ。

    これは私にとって衝撃だった。

    なぜなら私はずっと、
    理解されたい側だったからだ。
    認められたい側だったからだ。

    でも仕事は違った。

    相手を理解することが求められた。

    相手が何に困っているのか。
    何を望んでいるのか。
    どうすれば力になれるのか。

    それを考え続けることが仕事だった。

    思えば、
    コールセンターでも、
    グループホームでも、
    私は同じことを学んでいた。

    察することと理解することは違う。
    優しさと支援も違う。

    分かったつもりになることと、
    本当に相手を見ることは違う。

    私はようやく、
    理解されることより、
    理解することの大切さを学び始めていた。


    第5章 娘が教えてくれたこと

    「そうじゃなくてー!」

    まだ二歳くらいだった娘の声を、
    私は今でも覚えている。

    子どもの気持ちを言葉にしてあげると良い。
    そんな話を聞いた私は、真面目に実践していた。

    泣いている娘に向かって、

    「〇〇したかったんだね」

    と言う。

    すると娘は、
    「そうじゃなくてー!」
    と返してきた。

    私は驚いた。

    違うの?

    まだ上手く言葉で説明できる年齢ではない。
    だから結局、何が違ったのかは分からなかった。

    でも、その出来事は妙に心に残った。

    私はまた、
    分かったつもりになっていたのだ。

    コールセンターで学んだはずだった。
    察することと理解することは違う。

    グループホームでも学んだはずだった。
    優しさと支援は違う。

    それなのに私は、
    自分の娘に対しても同じことをしていた。
    相手の気持ちを理解したつもりになっていた。

    娘は、
    その思い込みをあっさり壊してしまった。

    娘に驚かされたことは他にもある。

    幼稚園の頃だった。

    娘に意地悪をする子がいた。

    私は当然、
    その子を嫌っているものだと思っていた。

    ところが娘は言った。

    「いじわるする子でも、
    泣いてたり困ってたりしたら、どうしたの?って聞くんだよ」
    「そうすると仲良くなれるよ」

    私は言葉を失った。

    少なくとも子どもの頃の私にはできなかった。
    私は幸せそうな子に嫉妬した。

    自分の苦しさを抱えきれず、
    年下の子に当たってしまったこともある。

    でも娘は違った。

    相手が困っている姿を見ていた。
    相手の気持ちを想像していた。

    理解されたい私が、
    理解する娘に教えられていた。

    娘の観察力には今でも驚かされる。

    仕事でデザインの相談をすると、
    思いもよらないアイデアを出してくることがある。

    私が見落としていた視点。
    私には思いつかない発想。

    ある企業サイトの
    メインビジュアルを考えていた時もそうだった。

    ロゴマークの形状と企業の想いを踏まえ、
    人物写真の配置アイデアを提案してくれた。

    私は素直に感心した。

    そんな娘だからこそ、
    今振り返ると腑に落ちることがある。

    小学校低学年の頃に描いていた女の子の絵だ。


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    娘は当時、
    右目を描くのが苦手だった。

    だから描かなかった。

    正面を向いた女の子なのに、
    左目しかない。

    普通なら不自然になるはずだった。
    ところが、
    その絵はなぜか魅力的だった。

    私はその絵が好きで、
    しばらく部屋に飾っていたほどだ。

    後になって
    娘から外してと言われてしまったけれど。

    当時の私はただ、
    「かわいい絵だな」と思っていた。

    でも今なら分かる。

    あれは苦手をごまかしたのではない。
    制約をデザインに変えていたのだ。

    描けないから諦めるのではない。
    描けないことを前提に作品を成立させてしまう。

    当時の私は、
    その絵の魅力を説明できなかった。

    でも後になって、
    私は何度もその女の子を思い出すことになる。


    第6章 Webデザインとの再会

    コロナ禍をきっかけに、
    私はWebデザインを学び始めた。

    正直に言うと、最初は甘かった。

    Photoshopは少し触ったことがある。
    パソコンも嫌いではない。

    少し勉強すれば仕事になるだろう。
    そう思っていた。

    現実は全く違った。

    コンペは通らない。
    案件は取れない。
    ポートフォリオも弱い。

    ツールが使えることと、
    仕事ができることは別だった。

    私は必死になった。

    セールスライティングを学んだ。
    セールスデザインを学んだ。
    UIUXを学んだ。
    Figmaも学んだ。

    学びにお金をたくさん使った。
    絶対に失敗したくなかった。

    娘に、
    努力は無駄ではないことを伝えたかった。
    挑戦する背中を見せたかった。

    少しずつ仕事も取れるようになった。

    そんな頃、
    一社の展示会ディスプレイ会社と出会った。

    最初はデザインの仕事ではなかった。
    在宅テレアポだった。

    少しでもデザインに近い業界で働きたい。
    そんな理由で応募した仕事だった。

    面談でデザインもできることを伝えると、
    少しずつホームページ改善の相談を受けるようになった。

    ブログ運用。
    SEO対策。
    Instagram運用。
    メルマガ運用。

    任せてもらえることが増えていった。

    私は施工事例写真を見るたびに思っていた。

    これだけの実績があれば問い合わせは入る。
    絶対に入る。

    そう確信していた。

    なぜなら、
    その会社のブースは明らかに違ったからだ。

    ただ目立つだけではない。
    成果につながる工夫が感じられた。

    けれど私はまだ表面しか見ていなかった。

    本当の驚きは、
    社長の話を聞いてからだった。

    ある時、
    社長が教えてくれた。

    ブースの壁を少し斜めにしているのは、
    人が自然に滞留する場所を作るためだと。

    小さなブースでも商談できるよう、
    スタンディングデスクを配置すること。

    導線の最後にゲームやビンゴを置くこと。
    飲み物を提供すること。
    フォトスポットを作ること。

    それらは全て、
    人の行動を設計するための工夫だった。

    見た目のためではなかった。

    人のためだった。

    人が立ち止まる。
    人が集まる。
    人が話す。
    人が記憶する。
    人が問い合わせる。

    その流れを作るための設計だった。

    その考え方は、今の私の仕事にも大きな影響を与えている。

    例えばLP制作では、

    「HPの実績ページへのリンクを入れてほしい」

    と依頼されることがある。

    もちろん実績を見せたい気持ちはよく分かる。
    でもLPの目的はコンバージョンだ。

    途中で別ページへ移動してしまえば、
    そのまま離脱につながる可能性もある。

    だから私は、
    ただ言われた通りに作るのではなく、

    なぜリスクがあるのかを説明したうえで、

    CTA直下やフッター上部にバナーを設置するなど、
    目的を達成するための代替案を提案するようにしている。

    私は以前、
    デザインとは見た目を整えることだと思っていた。

    でも今は違う。

    本当に大切なのは、
    依頼されたものを作ることではなく、

    相手が実現したいことを理解することなのだと思う。

    私はそこでようやく気づいた。

    デザインとは見た目ではない。
    人を理解することなのだ。

    文化女子短期大学時代の私は、
    デザインを才能だと思っていた。
    センスだと思っていた。

    だから諦めた。

    でも違った。

    本当に足りなかったのはセンスではない。

    人を見る力だった。
    人を理解する力だった。

    コールセンターで学んだこと。
    グループホームで学んだこと。
    娘から学んだこと。

    それらは全部つながっていた。

    私はデザイナーになれなかったのではない。
    遠回りをしていたのだ。

    そして、その遠回りこそが、
    私にデザインの意味を教えてくれたのだった。


    第7章 仕事観が変わった

    Webデザインの仕事を続ける中で、
    私は少しずつ変わっていった。

    変わったのはスキルではない。

    仕事に対する考え方だった。

    きっかけの一つは、
    小規模事業者持続化補助金だった。

    事業計画書を書く中で、
    経営理念を考える機会があった。

    私は何日も悩んだ。
    そして最後に残った言葉がある。

    「自分も家族も社会も大切に出来る仕事を」

    「お家で働くという選択肢が一般化される社会作りの一翼を担う」

    という言葉だった。

    子どもの頃の私は、
    自分の力で生きたいと思っていた。

    演劇をしていた頃の私は、
    何者かになりたいと思っていた。

    認められたかった。
    価値が欲しかった。

    でも、
    いつの間にか考えることが変わっていた。

    どうすれば自分が成功できるかではなく、
    どうすれば誰かの役に立てるかを考えるようになっていた。

    実際に、
    女性デザイナーへ仕事をお願いしたこともある。

    ほんの小さな仕事だった。
    でも私は嬉しかった。

    仕事をもらう側だった自分が、
    仕事を渡す側になれたからだ。

    誰かの収入になる。
    誰かの挑戦につながる。
    誰かの働く場所になる。

    そのことが嬉しかった。

    そして、
    その変化にはもう一つ理由があった。

    あの展示会ディスプレイ会社との仕事だった。

    私は気づけば長く関わらせてもらっていた。

    成果が出たことも嬉しかった。
    感謝の言葉をいただけたことも嬉しかった。

    でも一番嬉しかったのは、
    必要としてもらえたことだった。

    あるペットフードECサイトの改善提案を
    担当した時も同じだった。

    クライアントは、

    「リニューアルしたECサイトが使いづらい」

    と悩んでいた。

    もちろん改善すべき点はあった。

    ヘッダーは煩雑だった。
    購入ボタンも分かりづらかった。

    私はMV改善や導線改善を提案した。

    でも話を聞いているうちに、
    別のことが気になった。

    本当に困っていることは何だろう。

    ECモールでの購入者は多い。
    商品自体の評価も高い。

    それなのに自社ECの利用者が増えない。

    私はそこで視点を変えた。

    リニューアルしたサイトの問題点を探すより、
    すでに商品を買ってくれているお客様を、
    どうすれば自社ECへ案内できるかを考えた。

    そこで商品同梱チラシやLINE誘導施策を提案した。

    ECモールをやめるのではなく、
    ECモールで出会ったお客様をファンにしていく。

    新規獲得よりも、
    まずリピーターとの関係を育てる。

    その方が現実的だと思った。

    後から振り返ると、
    私はデザインをしていたのではない。

    相手を理解しようとしていたのだと思う。

    まだ実績の少なかった私を信じてくれた。
    提案を聞いてくれた。
    挑戦させてくれた。

    そして成果が出ると、
    一緒に喜んでくれた。

    私はこの仕事に苦しさを感じたことがない。
    それは仕事が楽だからではない。

    人の役に立っている実感があったからだ。

    気づけば私は、
    自分の価値を証明したい人間から、
    誰かの価値を届けたい人間へ少しずつ変わっていた。


    第8章 音楽朝会

    忘れられない朝がある。

    娘に「来てほしい」と言われて、
    小学校の音楽朝会を見に行った日だ。

    正直に言うと、
    最初は「見に行ってあげるか」くらいの気持ちだった。

    その日の主役は子どもたちだった。

    六年生が合唱を披露した。
    美しいハーモニーだった。

    でも、
    一年生の中には飽き始めている子もいた。
    ふざける子もいた。

    ごく普通の学校行事の風景だった。

    合唱が終わった後、
    校長先生が一人の男性を紹介した。

    元劇団四季のミュージカル俳優。
    そして娘の同級生のお父さんだった。

    その方は、
    自ら校長先生に想いを伝え、
    この機会を実現したのだという。

    世界では今も戦争が続いている。

    不安定な時代だからこそ、
    平和への想いを伝えたい。

    子どもたちに届けたい。

    だから、

    「幸せはすべての人に」

    を歌うのだと。

    しかもボランティアだった。
    私はその時点で胸を打たれていた。

    顔は見えなかった。
    子どもたちの方を向いて話していたからだ。

    でも声は覚えている。

    自然だった。
    力みがなかった。

    笑顔が声になったような、
    温かい話し方だった。

    そして彼は子どもたちを褒めた。
    ただ褒めただけだった。

    叱らない。
    指導しない。
    まず認めた。

    そして子どもたちはもう一度歌った。

    すると不思議なことが起きた。

    子どもたちの声が変わった。
    特に一年生だった。

    さっきまで落ち着かなかった子どもたちが、
    急に大きな声で歌い始めた。

    表情が変わった。
    空気が変わった。

    私はその変化を見て涙が出そうになった。

    歌が上手かったからではない。
    もちろん歌声も素晴らしかった。

    でも、それ以上に。

    人の心が動く瞬間を見てしまったからだった。

    後日、地域のフェスティバルで、
    学生有志が「幸せはすべての人に」を歌うことになった。

    六年生以外の子どもたちは、
    その日初めてその話を聞いた。

    募集が始まった。
    何人集まるのだろうと思った。

    最終的に集まったのは120人近い児童だった。

    一学年50〜60人ほどの小さな学校であることを考えると、
    驚くような人数だった。

    私は演劇が好きだった。
    ミュージカルが好きだった。

    なぜ好きなのか、
    若い頃は説明できなかった。

    今なら少し分かる。

    私はずっと、
    人の心が動く瞬間を見たかったのだ。

    そしてその朝、
    私はその瞬間を目撃した。

    表現によって。
    想いによって。
    誰かのために届けようとする力によって。

    私はその姿に、
    仕事の本質を見た気がした。


    第9章 AI時代に仕事を見つめ直した

    AIの登場によって、
    私の仕事も大きく変わった。

    最近、
    私はAdobeクリエイティブカレッジで
    Illustrator実践編を学んでいる。

    その中で、
    Amazonとのコラボ企画に参加する機会があった。

    テーマは
    「レインで遊ぼう」。

    生成AIの活用も認められていた。

    私は夢中になった。
    気づけば寝る時間も忘れていた。

    なぜなら、
    今までで一番デザインが楽しかったからだ。

    ファッションデザイナーを目指していた頃の私は、
    描きたいものがあっても形にできなかった。

    画力が足りなかった。
    技術も足りなかった。
    気持ちも足りなかった。

    だから諦めた。

    でも今は違う。

    AIの力を借りることで、
    頭の中にあるイメージを形にできる。

    そして完成したデザインは、
    実際にAmazonで販売できる。

    気づけば私は、
    自分のブランドページを持たせてもらえていた。

    若い頃には叶わなかった夢が、
    思いもよらない形で実現していた。

    遠回りだった。

    でも、その遠回りがあったからこそ、
    今の私はデザインを心から楽しめているのかもしれない。


    画像
    文化女子短大時代の私は、画力が足りずファッションデザインを諦めた。
    ところが二十年以上経った今、AIの力を借りながら、自分のブランドを持つことができた。

    AIが登場した時、私は怖かった。

    仕事がなくなるかもしれない。
    デザインが不要になるかもしれない。
    また学び直さなければならないかもしれない。

    不安だった。
    だから学び続けた。

    案件にも応募した。
    noteも書き始めた。

    その中で気づいたことがある。

    私はいつの間にか、お金ばかり見ていた。
    感謝が減っていた。
    スピードばかりを追いかけていた。
    丁寧な仕事を忘れかけていた。

    でも同時に、
    AIは敵ではないことも分かった。

    むしろ可能性を広げてくれる存在だった。

    自分一人では思いつかない発想。
    専門外のアイデア。
    新しい視点。

    AIはそれを与えてくれる。

    私は今、
    この原稿を書くことにもAIの力を借りている。

    それは少し不思議なことだ。

    でも考えてみれば、
    道具が変わっただけなのかもしれない。

    ミシンがあり、
    パソコンがあり、
    Photoshopがあり、

    そして今はAIがある。

    ただ、
    一つだけ変わらないものがある。

    人の困りごとだ。
    人の不便だ。
    人の願いだ。
    人の喜びだ。

    それは人にしか見つけられない。

    AIは答えを出せる。
    でも問いは人が見つける。

    私はそう思っている。

    そんな時代だからこそ、
    人とのつながりはますます大切になるのかもしれない。


    最終章 母のタイ米チャーハン

    子どもの頃、
    日本で米不足が起きたことがあった。

    母はタイ米を買ってきた。
    そしてナンプラーを使ったチャーハンを作ってくれた。

    パインも入っていた気がする。

    独特の香りがあった。
    香ばしかった。
    少し甘かった。

    初めて食べる味だった。

    私はその時、
    生まれて初めて食べ物にわくわくした。

    そしてもう一つ覚えていることがある。

    母が少し楽しそうだったことだ。

    いつも疲れているように見えた母が、
    その日は少し嬉しそうだった。

    工夫していたのだと思う。

    限られた条件の中で。
    限られたお金の中で。
    家族を食べさせるために。

    子どもの頃の私は気づかなかった。

    でも今なら分かる。

    あれは知恵だった。
    あれは創意工夫だった。

    あれは仕事だった。

    私は長い間、
    母のようになりたくないと思っていた。

    でも今は、
    あのチャーハンを作っていた母の姿を思い出す。

    限られた条件の中で工夫し、
    家族を食べさせ、
    毎日を生きていた姿を。

    あれも仕事だったのかもしれない。

    そう思う。

    振り返ると、
    私はずっと人の心が動く瞬間を追い続けていた。

    『無頼』を観た日。
    役者たちの熱量に心が震えた。

    娘の「そうじゃなくてー!」に、
    自分の思い込みを見せられた。

    展示会ブースに隠された工夫に、
    人を理解することの奥深さを知った。

    音楽朝会で、
    子どもたちの声が変わる瞬間を見た。

    そして、
    あの日のタイ米チャーハンにも。

    私は心を動かされていたのだ。

    子どもの頃の私は、
    仕事の意味を探していたわけではない。

    ただ必死に、
    何者かになりたかった。

    けれど、その答えは、
    立派な肩書きの中にも、
    成功の中にもなくて、
    もっと身近なところにあったのかもしれない。

    私はデザイナーになれなかったのではない。

    遠回りした人生そのものが、
    私をここまで連れてきてくれた。

    そして今も、
    仕事とは何かを考えている。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門

     
     
    40代未経験からWebデザイナーとして独立。 高額講座で遠回りした経験をもとに、 「信じなくてよかった情報」をまとめています。 現在は売れる仕組み設計を軸に活動しています。

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