
小説『フロック』
玄関のドアを開けると、知らない女が待っていた。
とてつもない大女だ。
大根を片足に三本まとめてきつく縛り上げたような、極太の足、ウエストは100センチをゆうに超え、きっちり腹も段をなしている。
その腹はさながら、スターウォーズのジャバ。
体格に合わせるように、顔もまんまるだ。
これ以上ないくらいにパンパンに膨れている。
身長168センチの日向護は、靴も脱げずに、その女を見上げていた。
「あたしMG、よろしく」
女はかん高い声で言った。
日向が苦手なタイプである“いきなりのタメ口”も、異様な状況が打ち消した。
間違いなく俺の部屋だよな?
足元に散らばる見慣れたスニーカーを確認した。
大女のものと見られる靴はなかった。
「ちょっと、そんなに驚かないでよ。あんたの家よ」MGは言った。
右手に持っていたカギがキーホルダーに当たる音で、日向は我に返った。
が、女はまだ目の前に立っている。夢じゃない。
「ほら、早く入りな」
日向は靴を脱ぎ、MGを追い抜くようにして狭い廊下を進んだ。
そして言われるがまま、2人掛けのソファに腰をおろした。
近くで見るとMGは、わりと整った顔立ちをしていた。
目は大きく、鼻が高く、唇はすっと薄い。髪も眉もしっかりと手入れがされている。
「痩せれば、きっと美人になるだろう」と日向は心の中でつぶやいた。
白のパンツに、青のノースリーブ、ワンポイントで首に巻いている赤のスカーフも、なんだかペットの首輪のようだが不思議と似合っている。
自分のカラダをよく理解しているファッションだ。
「ねえ護、落ち着いて。そうだ、お茶でもいれよっか」
これはドッキリなのだろうか?どこかに隠しカメラがあるのではないか?
MGは冷蔵庫を勝手に開け、2つのコップにお茶を注いだ。
その動作は一定の向き(カメラ)を意識したものではなかった。
「あなたには悪いと思っているわ」MGはお茶を一口飲んで言った
「メールもLINEもなしに家にあがりこんでしまっているのだもの」
日向は黙ってMGの目を見ていた。
「そりゃ驚くのも無理ないわ。でも、そんなことが吹っ飛ぶくらいの大事な用件なの。わかる?」
「俺に…なにか?」日向は蚊の鳴くような声で言った。
「そうよ。じゃなきゃ、こんなわけのわからない怪獣に囲まれたアパートにのこのこと来るわけないじゃない」
MGは、4段ラックに並ぶフィギュアコレクションを指差して言った。
「ごめんなさい。護があまりにもわからず屋だから」
「落ち着いてください。とりあえず、その用件とやらを聞かせてください」
「護、驚かないで聞いてちょうだい」と言ってMGはコップを手にした。
大きな爪に広がる赤いマニキュアが駅の記念スタンプのように見えた。
「もしかして、新手の風俗かなにかですか?」日向は思い切って尋ねた。
「ぷっは」MGは吹きだして笑った。高圧的な態度とは似つかわしくない愛嬌のある笑い声だった。ついには手をたたいて笑った。左手には青色のマニキュアが塗られていた。
赤と青が視界で入り混じり、一瞬、紫色に見えた。
「バカね。あんたがどんなに風俗好きだろうが、こんな売り込みはかけないわ。第一、暇じゃないのよ、風俗嬢は」
MGのたるんだ頬に緊張が走った。
「結論から言うわ。明日、あんたの大事な人が死ぬわ」
MGの表情は真剣そのものだった。
「俺の大事な人ですか」
「宝田博美」
「博美が死ぬって、どういうこと…」
宝田博美は、小学校の同級生で護の初恋の相手だった。といっても、付き合ったわけではない。一方的に好意を抱いていただけだ。成人式以来会っておらず、いま彼女が何をしているかも知らない。
「彼女はいま、結婚して東京に住んでいるわ。そして、DVを受けている。あんたが守るのよ」
日向は混乱していた。
仕事から戻ったら自分の部屋にSっ気の強い大女が待っていて、初恋の相手が明日死ぬという。疲れているのかもしれないと日向は思った。
「信じるかどうかはあなた次第。なんて悠長なことは言ってられないの。ノストラダムスやマヤ文明のまやかしと一緒にしないで」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「なあに」
「なぜ彼女のことを知っているんですか」
「あたしに知らないことなんてほとんどないわ」
「もうひとつ聞いていいですか」
「彼女はいったいどんな終わり方をするのですか」
「殺されるのよ」半ば面倒くさそうにMGは言った。
「イスラム国の殺戮動画が霞んで見えるくらい、それはそれは残虐なDVの末にね」
そこまで言うとMGはコップに残っていたお茶を一気に飲み干した。
日向には整理したいことがたくさんあった。できるかぎりの情報を集め、それを薄らとでも一本の線にすることが急務だった。物事の真偽を見定めるのはそれからでも遅くない。
「もうひとつ聞いていいですか」
「なによ」
「あなたは何者ですか」
「あたしが初音ミクに見える?ヒト科の女よ」
そういうとMGはおもむろに服を脱ぎ、全裸になった。
「韓国から来ました。みんなのアイドル、ミラクルガールことMG、17歳です。あなたの胸に、この歌届け!ハートショット!!」
別人のようなかわいらしい声と全身の肉をたぷたぷさせる奇妙な動き、そしてフレーズに、日向は目をまるくした。
「どう?金しか持ってないハゲオヤジの前で何百回も練習したあたしの決めポーズ」床に対して直角にあげた右足をゆっくりとおろしながらMGは言った。
「 “みんなのアイドル”って」日向はMGの言ったフレーズを反芻した。
「今度日本でもデビューするわ」下着をつけながらMGは続けた。
「韓国でアイドルをやっているの。自分でいうのもなんだけど、そこそこ売れているわ」
「MG・・・聞いたことない」
「そりゃそうよ。あんたみたいな三流リサーチャーにはアンテナの届かないところにいるもの」
日向は、リサーチャーとしてテレビ番組の制作に携わっている。
リサーチャーとは、たとえばクイズ番組なら面白い問題、旅番組なら時節やタレントに合った旅先、びっくり人間コンテストならびっくり人間を探す仕事だ。最近は各局のコンプライアンス強化により地位が認められてきたが、古くは放送作家の下積みとして知られ、日向もそのクチだった。専門学校を出てADとして制作会社に入社後、“放送作家になりたい”とリサーチャーに転身。一向にチャンスに恵まれないまま7年が過ぎた。しかし、リサーチャーとしてはゴールデンのヒット番組を5本掛け持ちする売れっ子で、業界内でも多少名前を知られる存在となっている。
日向はとても丁寧な仕事をした。クイズを一問作るのに、同業者がインターネットに頼るところを、日向は大宅文庫に駆け込み何十冊もの雑誌をめくった。一般のお宅への電話取材も、持ち前の人の好さで気分を害することなく進んだ。自らアポを取り、番組出演を引き受けてくれたレストランにはその後もことあるごとに足を運んだ。医療のドキュメンタリーで血液バンクを取材した際には、日向の血が日本では珍しいRH-の持ち主だということがわかり、「何かの役に立てるなら」とその場で血液提供者に登録したこともある。
そして日向は仕事に関する自分の努力に矜持があった。
だから、MGの三流発言には少しイラついた。
「調べてもいいですか」日向は左ポケットの奥からスマートフォンを取り出して言った。
「好きにしたら。それよりこの家、ラジオはないわけ?」
返事を返さない日向をよそに、MGは年季の入ったMDコンポを見つけ出し、スイッチを入れ「InterFM」にチャンネルを合わせた。
タイトルはわからないが、相変わらずセンスのいい音楽が流れている。
MG
――――――――――――――――――――――――――――――――――
MG(エムジー)は、韓国の女性アイドルである。BoA、少女時代、東方神起などが在籍するレコード会社兼芸能事務所のSMエンターテインメントに所属し、韓国や東南アジアを中心に活動している。2009年から2011年までは4人組ボーカルグループで活動していたが、うち3人が所属事務所を離籍して別グループ「AOB(エーオービー)」を結成し脱退したため、ソロデビューとなった。
「歌って踊れるポチャかわアイドル」を自称しており、韓国では類を見ない大型アイドルとして新ジャンルを確立した。
「つまり、そういうことよ」とMGは言った。
日向はMGの図体を見ながら“ポチャかわ”とはよく言ったものだと思った。
まあ、今のテレビ・雑誌の技術ならある程度の映像・画像加工はお手の物なのだろう。
「仕事ができるリサーチャーさんには、特別に歌も聴かせてあげる」
MGがそう言うと、今度はDJが話を引き取った。
「・・・さあ、続いては北区にお住まいの東京オリンピック楽しみ!さん。
リクエストはMGで『ロンリー・ボーイ』。韓流好きの友人に誘われ韓国旅行に行ったところ、CDショップで彼女の歌を知り、はまってしまいました、とのこと。いいよね、MG。私もね、彼女の新譜はチェックしていますよ。そんなMGの最新情報ですが、ついに、日本でのCDデビューが決定しました。来年夏を予定しているそうです。韓国できちんとキャリアを積み上げてきた彼女ですから、きっと日本でもすぐに人気者になるんじゃないでしょうか。それでは聞いていただきましょう。東京オリンピック楽しみ!さんのリクエスト。MG『ロンリー・ボーイ』」
『ロンリー・ボーイ』は、テクノのサウンドを取り込んだダンスナンバーだった。サビのメロディはキャッチ―で、J‐POPの売れ線をよく研究している。以前、音楽のランキング番組を担当し1週間に50枚以上の最新邦楽CDを4年間聞き続けた日向は、AメロBメロサビを聞いたところでそこそこ売れるに違いない、と確信した。
「そこそこじゃないのよ。爆発的に売れるの。デビューシングルも、セカンドも、サードも、ファーストアルバムも、Tシャツも、ストラップも、ペンケースも、ブロマイドも、プロデュースしたつけまつげも・・・ぜ~んぶよ。破壊的に円が韓国に流れるの。
そしてそのひとつの穴から日本は世界金融の餌食になる。国の命令でそんな役割も担っているわ」
MGはそう言ってひとつ咳払いをした。
「わかる?あたしはすべてを知っているの。ねえ護、私を甘く見ないで」
“甘く見ないで”
その言葉だけが日向の頭の中に残響した。
すべてを理解するには時間が必要だった。
結果、それは長い沈黙という答えを生んだ。
「聞いてもいいですか」日向は言った。
「なによ」
「MGは、僕に博美の死を告げるためにわざわざここへ?」
「そういうこと」
「でも、なんで?」
「君に幸せになって欲しいからよ」
一度瞬きをしたあと大きくうなずいて、MGは続けた。
「つまりは、そういうこと。日本を終わらせないために、あなたがあたしを”イカせる”の」
ある種のゲシュタルト崩壊に近いものがあった。
イカセル?いかせる?イカせる?逝かせる?生かせる?行かせる?
日向は言葉をこじらせた。
「イカセルとはいったいどういうことですか?」日向はおそるおそる尋ねた。
「護が好きな方の“イカセル”よ。あたしの中にあなたをいれて、それからあらゆる手を駆使して絶頂へ導くの」とMGは言った。「そして、新たな命を宿してあたしの中の強大なエネルギーをその子に分散させるのよ」
「MGと私の子どもを作るということですか?」
「子どもが出来れば、デビューもなくなるわ。日本は守られる」
「なんだかまだよくわからないのですが、なぜ俺があなたとそういった行為、つまりはSEXをする相手に選んでいただけたのでしょうか?」
「それはわからない」MGは言った。
「小さい頃からあったの。商店街の福引きでキムチが当たったり、バーゲンの限定モノが私で終わったり、大手芸能事務所に稀代のデブ専がいたり…そういうものが。どちらかと言えば、人が見えるということになるのかしら。街ですれ違った人の目を見ると、あの人の近くに行くとイイコトがありそうとか、家で暴力ふるっていそうとか、トイプードル飼っていそうとか。オーラとかスピリチュアルとかそんな安っぽい言葉でまとめられるのはイヤだけどそれに近いものかも知れない。
護は夢破れかけながらよく頑張っていると思うわ。まともに考えて、運さえあれば必ず放送作家として成功していた。ほんとよ。あなた、決して面白くはないけど賢いから。7年間の下積み、頭が下がる思いで見てきたわ。横柄なプロデューサー、理不尽なディレクター、無茶ぶりする大御所作家、すべてのクソ野郎たちに常に合格点以上のネタを提供してきた。彼らは当然のごとく安いギャラでそれを受け取っていたけれど、護の血と汗と涙の結晶はもっと評価されてしかるべきものだわ。護は最短距離で最上のネタを探し出す嗅覚を持っている。グーグルの使い方なんか世界レベルだわ。楽天やDeNAへ行けばもっとその能力が活かせるのに護の夢はそうじゃない。そして護はまだテレビが一番だと信じている。頑ななまでに。ねえ、護。あなたの思いの強さはわかるけど、そんな地味な仕事を続けていていいの?」
「僕の見つけたヒトカケラが、巡り巡ってきっとどこかの誰かに届いているはずだから」
日向の心の奥底から出た言葉だった。
「誤解しないで。別にあなたに好意を持って行為を望んでいるわけではないから。鏡を見てもらえばわかる通り、護の顔はどんな風によく見たって中の下。フィギュアオタクの、風俗好きの素人童貞なんてむしろ嫌悪する存在だわ。そうよ、まったく」
「ねえMG、どうしてそんなに僕のことを知っているの?」日向は言った。
「あたし、ありとあらゆるコネを使ってあなた以上にあなたをリサーチしているから。最短距離で」
「おっしゃる通り、僕は素人童貞だし、自分のテクニックに自信があるわけでもありません。世の中にこれだけ男がいれば、もっとMGの相手にふさわしい人がいるのではないでしょうか。それこそ絶頂を目指すのであれば、日本には福山雅治とかマイケル富岡みたいなイケメンもいるでしょうし、加藤鷹とかチョコボール向井のようなテクニシャンもいます」
「ねえ護、もう一度言うわ。あたしを甘く見ないで。絶頂なんてものはいくらでもコントロールできるの。護が想像している以上に女の子は自分で自分を開発しているのよ。いい?大事なのは護があたしを愛せるかということ。あなたの『誠意』をあたしに注げるかということ。1ミリの虚栄心もないその誠意を」
MGはコップにお茶を並々と注いでから続けた。
「あたしだって処女を捨てるのは怖いわ。初恋は幼稚園の時だし、恋人は歌だし、好きな人と手もつないだことがないのよ。プラトニックMG、つまりPMGとして生きてきたあたしが“ピー”なことをしてPが取れるというわけね。あんたみたいな男と。でもこれは避けられないことなの。だからやるわ。むしろヤッてやろうと思っているわ。ねえ、護はどうなの?」
「正直に言いますと、僕のタイプは細身の貧乳ですし、MGをイカせる、ひいてはうまく愛せるかどうかは聊か不安です」日向は言った。
「けれど、かといって事態は、このゲートをくぐり抜けなければ終息へは向かわないわけですよね」
MGは黙って日向を見つめた。そしてゆっくりと口を開いた。
「例によって、仮に護がこの物語のHEROになったとしてもエンドロールにあなたの名前は流れない。もちろん、あたしもね。あたしは全盛期に知らない男と子供を作って引退したイカれたアイドル」
「僕は」
「心配しないで。護に迷惑はかけないわ。日向護は1週間後も1年後も、いまと変わらない生活を送る」
「そんなわけにはいかない」日向は間髪入れずに言った。
「ばあか。誠意は自分のために使いなさい」
日向は何か言い返そうと思ったが、うまく言葉が出てこなかった。脳内から溢れ出る情けなさを一旦沈め、深呼吸した。深い、深い呼吸だった。
「それ・・は、いつどこで行うつもりですか?」
MGは日向にプランを伝えた。計画はシンプルなものだった。
明日18時、帝国ホテル1046号室で性交する。
「包み隠さず申し上げますと、先ほどから勃起をしています。完全なものではありませんが。何と表現したら誤解のないように伝わるかわからないのですが、もし少しでも確率を上げるのでしたら、何と言いましょうか、今からでも準備はできておりますが」
“SEXができる”
どんな現実離れした話が展開されていても、その揺るがざる使命は日向を興奮させた。エッチなDVDをレンタルした帰り道の高揚感、ギャラ日前日の幸せな気持ちを足して2で割って5倍させたようなふわふわした感覚だった。目の前にいるタイプとは真逆の大女も10割増しでかわいく見えてきた。もはやSEXしか頭になかった。日向の目で見るMGは裸のMGであり、そんなことならばもっとあの裸を見ておけばよかったと彼は後悔していた。
「ふざけないで」MGは日向の股間に蹴りを見舞った。
「ねえ護、あたしはロボットじゃないの。それなりの準備も必要だし、なにより肝心の排卵日が明日なの。余計なこと言わせないで。いい?すべては計算にもとづいている」
「謝ります。すみません」日向は小さくなって言った。
MGは、明日までにできるだけ肉をたくさん食べることと禁欲することの2つを日向に命じ部屋を出て行った。
グラスにブラックニッカを半分注ぎ、二口で空けた。
ソファに座り、大きなため息をついた。茶色の長い髪が落ちていた。
テーブルでは、持ち主を失ったグラスが鈍い光を放っていた。
電話が鳴ったのは、翌日の昼過ぎのことだった。
「もしもし日向護さんでいらっしゃいますか。こちら国立血液バンクセンターですが、至急で日向さんの血液を必要とする患者さんがいるんです」
以前、医療ドキュメンタリーの取材で登録した血液バンクからの電話だった。
「いまから病院へ向かってもらうことは出来ないでしょうか。必要とあらば救急車を回します」
センターの担当者の口調は冷静さを十二分に意識したものだったが、それ以上に有無を言わせない確固たる意思と逼迫した状況を電話口から伝えていた。
病院に入れば当然、18時の帝国ホテルには間に合わない―――
“ひとつの命を救うか、日本を救うか”
日向は大宅文庫の前で、左手に携帯電話を持ったまま立ち尽くした。
鈴虫の鳴き声が徐々に耳を支配していった。
そして思考を意識的に停止させるようにして、ゆっくりと目を瞑った。
雨が窓を叩きつける音で目が覚めた。
日向は自宅のベッドの上にいた。
まず目を閉じたまま、ベッドの横にゆっくりと手を伸ばし携帯を掴んだ。
それから起動ボタンを押し、重い瞼を開けた。
よれよれのヒモがぶらさがった室内灯、その奥にキングギドラとコモドドラゴンが見える。
携帯ディスプレイの明かりで着慣れた寝巻きを身に着けていることがわかった。
『15:51』
ぶ厚いカーテンを動かす気力もなく目視はしなかったが、外は大雨のようだった。
何度が起き上がろうとチャレンジしたものの全身のだるさに耐えきれずもう一度目を閉じた。
日向は自分がこれとは違うベッドに横たわっていたことを思い出した。
そのときは確か左の腕に針が刺さっていた。
右手でおそるおそる左腕をさすった。ひとつ異様に隆起している場所を見つけた。
背筋を気持ちの悪い感覚が襲った。
ああ、そうか。
俺は血を、病院で血を取られていたんだ。
同時にもうひとつ記憶の波がやってきた。
“ヤクソクヲホゴニシタ”
心臓が音を立てた。
日向は携帯を手に取り、日付を確認した。
『9月26日』
血液バンクの電話から1週間が経っていた。
日向は携帯のディスプレイを片手でスライドさせながら電話帳からMGの番号を探した。
その時、玄関のドアが開く音と同時に高飛車な声がベッドに届いた。
「あ~ら、お目覚め?」
MGはコンビニの袋をぶら下げ、日向の枕元までやってきてさらに付け加えた。「まだ動かない方がいいわよ。あなた相当疲れていたみたいだから」
日向は何か返したかったが、口元が思うように反応してくれない。
「それでも7日近く寝てたわけだから一度くらい起きておかないと死んじゃうわね。ねえ護、知ってる?あんた好き放題、糞尿を垂れ流すからシーツ変えたり着替えさせたり大変だったんだから」MGはせきを切ったように話を続けた。「それにしてもあんたホントばかね。あんな闇医者の電話に引っかかって。日本のアイドルの歌で言うなら“マジで死んじゃう5ml前”ってとこね。いいように血抜かれちゃって・・・今頃海を渡って高値で取引されているわよ、あんたの血。それでもリサーチャーの端くれ?ああ、ヘソデオチャガワクワ」
「本当にごめん」目線を天井に向けたまま日向は言った。「MGの話を信用しなかったわけじゃないんだ。ただ、僕にしかできない事柄がもうひとつ降ってきて、気がついたら病院に向かっていた」
MGは黙っていた。
「それで、日本は終わるのかな」
その言葉に反応するロボットかのようにMGはすぐさま洗面所に入り、15センチほどのスティックを持ち出してきた。すると、日向と天井の間にそれを差し込んだ。
「日本は救われたわ。護が救ったのよ」
「僕が?」
「情熱的なSEXだったわ」
日向は混乱した。あのとき確かに病院にいたことは日向自身、鮮明に覚えていた。
「深夜2時を過ぎてから護はホテルへやってきた。あたしはもう諦めて、マッコリを一本空けてベッドで寝ていたわ。そしたらいきなり、あたしの上に護が乗っかってきたのよ。とにかくびっくりして、声を上げたわ。でもそんなの全然お構いなしという感じで、わめいているあたしの唇を唇でふさいだの。上手なキスだったわ」
「ちょっと待って。そんな記憶はない」
「すぐに思い出させてあげる。舌を絡ませながら、護はあたしの胸をまさぐった。ガウンを剥がし、膨らみのはじまりからちょうど円を描くように丁寧な愛撫。その手は焦らすように中心へとゆっくりと動いて、ピンクの突起を探し当てた。瞬間、あたしは声をあげたわ。護は漏れる声を楽しみながら、親指と人差し指でつまんだり、人差し指と中指で挟んだりしていた。続いて、乳首へのキッス。今度は舌の上で弄ばれたわ。身体が火照って、どこか遠くへ飛んでいきそうだった。初めての感覚。ぐっしょり濡れた下半身に☞が触れるとあたしは自分でもわからないほど大きな声をあげた。ああ、これがあえぎ声なんだって思った。護はぐちょぐちょになった下半身に舌を入れた。さっきまであたしの口と重なっていた口は、もうひとつの口も悦ばせた。そして、言ったの。挿れてって。怖かったわ。だけど我慢できなかったの。あれってメスの本能なのね」
護は黙って続きを待った。
「本当は護のものも触ったり、しごいたり、舐めたりしようと思ったんだけど、そんな余裕はなかった。早く欲しかったの。そして護とひとつになった。全身が震えた。たぶんあたしあの時おしっこを漏らしたと思うわ。力が抜けたの。護のリズムがあたしのリズムになって、そのリズムに合わせて声が漏れた。上になった護があたしの腕を自分の背中に回して、抱き合うようにしてSEXは続いた。たまに、護があたしを引き上げていろんな体位を求めた。導かれるままに応えたわ。もうあたしは護のもの。そう思った時、あたしの奥に生温かいものが解き放たれた。護は鈍い声を漏らして、あたしに全身を預けた。そしてそのまま動かなくなった」
「本当に妊娠しているの?」
「そうだと思う。うちの社長も納得したわ。デビューは中止。ネットではちょっとした騒ぎになったのよ」
「なんだかごめん」
「護ってほんとバカ。人助けをして謝るヤツがいる?」
「ごめん」
日向はまだ戸惑いの海の中にいた。
身体が動かないせいもあって、脳がやたらと働く。
だが、その働きは無意味な運動を繰り返すばかり。
物事を整理できないまま次の扉が開いて、以前あった扉が閉まる。
ふと、この一週間と、それまでの人生を考えてみた。
何が整理できて、何が整理できていないかを。
振り返れば、たいして何も整理できちゃいない。
たいして変わっちゃいない。速いか、遅いかだ。
玄関で靴を履く音がする。
日向は、何か言いかけて、やめた。
扉が開いた。時化たベッドに光が射し込んだ。
〆