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小説 『併走』 (全文)

    <あらすじ>
    携帯電話もインターネットもない時代。大学生・瀬川隆史は、通学電車と並走する別路線の車内で、いつもピンク色の服を身につけた美術学校生・倉田景子に心を惹かれる。互いの視線はやがて無言の会話へと変わり、二人は駅で出会い親しくなっていく。しかし、二人の特別な交流を見抜いた中年会社員・矢村が現れ、読唇術で会話を読み取りながら景子に接近する。恋愛とも友情とも言い切れない曖昧な関係の中で、隆史は嫉妬や不安、自らの未熟さと向き合うことになる。「併走する二台の電車」を象徴として、人と人が寄り添いながらも決して完全には重なり合えない心の距離を描いた青春恋愛小説。 


    朝の満員電車ほど嫌なものはない。大学生の瀬川隆史はいつもそう思っていた。暑い季節になると余計にそう感じた。車内は冷房機が作動しているが、まるで効き目がなかった。
    わずかな隙間もないほどに、押し込められた一人一人の人間から滲み出てくる何とも言えない熱気で、車内はムッとするような空気に包まれている。
    さらに彼の気分を不快にするのは車内の匂いだ。
    それは一言では言い表しのないような汗の匂いと一緒に、それぞれの生活が染み付いている洋服の匂い、女性が思い思いにつけている香水や化粧の香りが彼の鼻を掠める。
    その度に水槽の中で酸素が足りなくなって口をパクパクさせている魚のように彼は追い詰められた気持ちになって、早く電車から降りて外の空気を吸いたくなってしまう。
    ところが 一週間ほど前から彼に電車に乗る苦痛を忘れさせる出来事が起こった。出来事と言っても彼自身にだけに起こったことで、周りはいつもの満員電車の光景に変わりはなかったが、それ以来電車に乗ること自体が彼の目的になってしまった。
    隆史は郊外のある駅から電車通学していた。その駅には他の路線も乗り入れていて、彼の電車と併走している。電車によってはピッタリと並んで走ることがあった。二台の電車が同じ速度で走っていると一瞬止まっているような感じになる。
    その時乗客はちょうど向かい合わせた格好になって互いの車内の様子をすっかり眺めることができる。
    けれども誰もそのことを意識していないようだった。それは少し不自然で異様な光景だ。吊り革を持った客などは車窓越しに明らかに顔を合わせているのに、その視線の中に先には何も存在していないかのように虚ろな目をしている。
    彼も普段は何気なく見過ごしでいるのだが、この日は妙にそのことが気にかかった。よし今日は乗客を観察してやろう。彼はそう考えてほとんど身動きが取れない車内で目だけを窓の外に向けた。
    座席に座っているものは揃って目を瞑っている。中には疲れているのか首をうなだれたまま熟睡しているものもいた。スポーツ紙の大きな活字が彼の目に入ってきた。サラリーマン風の男が器用に四つ折りにして食い入るように読んでいる。
    この混雑の中でも一向に気を散らしている気配がない。すごい集中力だと、彼は幾分皮肉を込めてそう思う。その男を見ていると それが唯一の楽しみのように思えてくる。通勤のひと時が気晴らしの一つなんだろう、と勝手な想像を巡らしたりした。
    吊り革に掴まっている客の中には中年女性がいた。サラリーマンや若いOLが大部分を占めているラッシュアワーにその女性の存在は意外だった。彼女はさっきから電車が駅に近づくたびにキョロキョロと異常なほどせっかちに黒目を動かして辺りを見回して、探りを入れてるようだ。席が空けば素早く座ろうとする雰囲気が伝わってくる。
    その様子を見ていて最初のうち彼は中年の醜さを垣間見た気がしたが、次第に彼女の行為が憎めないものに思えてきた。
    その時彼の電車が少しスピードを落とした。途端に向かいの緑色の電車が先に進んでスポーツ紙の男も中年女性も彼の前から消えてしまった。
    しばらくしてまた二台の電車の速度が一致して、別の車両が瀬川の目前に来た。彼が再び観察をしようと視線を転じた瞬間、一人の少女の姿が飛び込んできた。その少女はこちらを向いて立っていた。
    すぐに彼の目についたのは少女の持つ雰囲気が周りと違っていたためだ。 それは彼女が着ているピンクのワンピースのせいらしい。
    その時彼の目には、モノトーンの車内の中で彼女のワンピースだけがピンクの色をつけているように映ったのだ。それは一瞬の感覚だったが 、しばらくの間彼の心に余韻を残した。
    同じピンクでも毒々しさを感じさせるような押し付けがましいものだったら彼の心をとらえなかっただろう。それが桜の花びらを思わせる淡い控えめなピンクだっただけに 彼の気持ちにしっくりくるものがあった。
    満員電車という殺気立った空間の中で、彼女のいるところだけ気分をほっとさせてくれるものが漂っていた。

    次の日から隆史は毎朝同じ時刻の電車に乗るようになった。そうすればきっと彼女の姿を見られるだろうと思ったからだ。不思議なことに彼女を最初に見かけた時に。その顔も見たはずなのにどうしても思い出せなかった。
    目に浮かんでくるのはピンク色のワンピースだけで顔がない。だから余計に彼女がどんな顔をしているのか、しっかり見ようという気もあった。
    彼女が乗っている電車は彼と同じ駅から出ていた。行き先の違う二台の電車が二人を乗せて同じ時刻にホームを離れる 。彼の電車は決まっていきなりスピードを上げて走り出す。その後を少し経って彼女を乗せた電車が追いついてくる。
    次第に速度を増しながら、彼の目の前を一両目、二両目と追い抜いていく。徐々に彼の神経は窓の外に集中していく。四両目あたりから二台の電車はほぼ同じスピードになり、五両目が目前に来た時にちょうど並んだ格好になる。その車両にいつも彼女は立っていた。
    彼は今度は冷静に彼女を見ることができた。彼女は取り立てて美人というわけではなかったが、その表情には愛らしさがあった。
    目の前の彼女の様子からあれこれと想像を巡らしていた。ふと我に返って彼女を見るとその大きな瞳が彼の方を見ていた。彼は少し長く見過ぎたようだった 。
    さっきまで別の方を向いていた彼女が、彼の視線を感じてか、じっと彼の方を見つめている。不意に二人の間を下り電車がすれ違った。
    彼女の視線から逃れて一息つくことができたが、電車が過ぎ去り再び前を見ると、彼女の顔は前と変わらぬ位置にあった。彼は途端に緊張してまともに彼女を見られなかった。いつのまにか彼の方が見られる立場になってしまっていた。
    時々ちらりと彼女の方に目をやって様子を伺ってみたが、彼女の瞳からはその気持ちまで読み取ることはできなかった。その瞳は一瞬咎めているようでもあるし、対象物を失った焦点の定まらないぼんやりした感じに見えることもあった。
    どちらとも言えないその曖昧さが彼を迷わせ後ろめたさを感じさせた。
    そのことがあって以来、逆に毎日自分が観察されている気分になってしまっていた。事実いつものように二台の電車が並んだ時に前方に目を向けると、必ず彼女は同じ車両の同じ位置でじっとこちらを見ていた。
    そして、可笑しなくらいまともに顔を合わせているのに、少しも動じる気配がなく、いつも彼が先に目を背けてしまう。
    そういう状態が数日続くうちに次第に落ち着きを取り戻し 、彼女についても気づいたことがあった。彼女の様子を見ていると、明らかに自分のことを意識していて、むしろ自分が彼女に持った興味以上にその気持ちが強いようだった。
    それに何より気になったのは、彼女の身なりのことだ。彼女は毎日必ず服装のどこかにピンクの色をつけていた。
    それは初めて見かけた時にもピンクのワンピースを着ていたようにスカートがピンクだったりシャツがピンクの花柄だったりした。時にはリボンがピンク色をしていたこともあった。
    またある日は見た目にどこにもピンクの色がない日があったが、それもおそらくは見えない足元の靴がピンクなのだろうと予測がついた。それほど彼女はいつもピンクの色を身につけていた。
    最初のうち彼女がそれだけピンクにこだわるのは、その色が特に好きなのだろうと思っていたが、一日も欠くことなく続くので、何か変わった理由があるに違いないと感じ始めた。それはほとんど予感に近いものだったが、そう感じさせるものが彼女にはあった。
    彼女との見つめあいは毎日続いた。どちらかが反対側の吊り革に掴まるなり 、座席に坐りなりすればそれは終わるはずだった。彼も幾度となくそれを考えたが、いざ電車に乗ると同じ場所に立っていた。そうすることが義務であるかのように忠実に繰り返していた。
    ある日いつものように彼は八時二分の電車に乗った。電車が走り出して一分ほどで、向かいの緑の電車が追いついてきた。そして五両目で彼の電車と並んだ。彼は前を見た。彼女はすぐに見つかった。今日もまた薄いピンクのブルゾンを着ている。
    普段だとこれから二台の電車が併走する五分間に、互いの無表情な見詰め合いが始まる。だがこの日は違った。今まで人形のように表情を変えなかった彼女が、こちらに向かって微笑みかけている。
    彼は急な変化に戸惑い、思わず周りを見回した。しかし誰も反応しているものはいない。明らかに彼女は彼に向かって微笑んでいる。
    どういう態度を取ればいいのか迷ったが、とりあえず笑顔を作った。頬が強張ってぎこちなくなった。彼女も彼の顔を見てまた笑いかけていたが、ふと真顔に戻ると突然、ゆっくりと口を動かし始めた。
    一言一言強調して口だけを大きく横に広げたり、上下に開けたりして、何かを言っているようだ。彼女が唇を前に突き出すようにした時に、隣の女性が変な目つきで見ていた。
    彼女は少しも悪びれずにその動作を三回繰り返した。三回目に彼はやっと何を言っているのか理解できた。
    「ロ・ク・ジ・エ・キ・デ・マ・ツ」
    彼女は確かにそう言った。彼は自分の目を疑った。けれどはっきり彼女の口はそう動いていた。彼は今度は逆に自分の方から思い切って言ってみた。「ロ・ク・ジ・エ・キ・デ・マ・ツ」
    彼女は頷いた。これで間違いなかった。彼女は今日の六時に瀬川と会う約束をしたのだ。電車はT駅に近づいていた。ここからは二台が別々に走る。彼女の電車の速度が上がり始めた。彼女は軽く手をあげた。 彼もすぐにそれに応えたが遮るように二台の電車はそれぞれのホームに滑り込んだ。

    その日の六時。 彼は駅の改札口の近くに立っていた。ちょうど帰りのラッシュ時で電車が着くたびに人の波がどっと改札口に押し寄せる。彼女との約束はただ駅で会うというだけだったので、混み合う改札にいなければならなかった。十分ほど前から彼女を見つけるために改札をくぐる人の顔をずっと見続けているので、目がチカチカしてきた。視線を逸らして腕時計を見ようとした時、不意に肩を叩かれた。振り向くとそこに彼女がいた。
    「大分待たせてしまったかしら」
    「いや 僕も十分前に来たばかりだから。だけど驚いたな。てっきり電車から降りてくるとばかり思っていた 」
    「ちょっと早く着いてしまって近くの喫茶店で休んでいたの」
    彼は奇妙な感覚にとらわれた。彼女とはいつも互いに顔だけは見知っているが、声を聞くのは初めてだ。なのに少しも違和感がない。まるで以前からの知り合いのように会話をしていた。

    二人はその喫茶店に行くことにした。その店は駅前通りから少し入ったところにあって一見 誰かの住まいに見えた。よく見ると小さな木造りの看板があって『 アニエール』と書いてある。かなり古い店らしく その文字も所々消えかかっていた。
    「こんな店があるなんて知らなかったなあ」
    コーヒーを注文した後で彼が言った。
    「私も初めは偶然見つけて入ってみたの。それからこの雰囲気が気に入ってよく来ているわ 」
    彼は店内を見回した。なんだか全体にポーっとした明るさを感じた。それは電灯の明るさではなく周りの壁から放たれている。じっと見てみるとそれは絵画だった。
    「スーラーという画家の絵なの。もちろん本物じゃないけれど、かなり上質のコピーだそうよ。この店のマスターが大好きな画家で 、それで店の名前もアニエールなのよ」
    「アニエール?」
    「そう。スーラーの代表作に『アニエールの水浴』というのがあるの」
    「君は絵のことに詳しいんだね」
    「これでも私 一応美術学校に通っているのよ 」
    「そうだったのか 。でも君は一体何歳なの。初めて見た時は高校生かと思ったよ」
    「どうせ私は童顔よ。本当は二十歳だけれど仕方ないでしょう。丸顔だし口も人よりずっと小さいんだから 」
    「そんなに気にしないでよ。別に悪気があるわけじゃないからさ 」「別に気にしていないわ。いつもみんなに言われてるもの。気にしていたら女性が自分の顔のことは言わないわよ 」と言って、悪戯っぽく笑った。
    「私のことばかり聞いてずるいわ。今度はあなたのことを聞かせてよ」
    「僕の名前は瀬川隆史 。 今大学の二年で二十歳 。学部は文学部。趣味は読書と音楽を聴くこと。君の名前は?」
    「私は倉田景子。でもあなたの言い方じゃまるでお見合いしてるみたいでおかしいわ 」
    「君が自分のことを言えと言ったからさ。それにそういう言い方はないだろう。元はといえば君の方からいきなり会う約束をしてきたんだからね」
    「それどういう意味。嫌だったら来なければよかったでしょ。私わかっているのよ。あなただって話をしたかったはずよ。だって電車の中で私の方ばかり見ていたじゃない 。最初に気がついた時ちょっと気味が悪かったわ 」
    「確かに初めは僕から君を見ていた 。でも途中から僕の方が見られている気がしていた」
    「だって それは・・・・」
    「大分話が弾んでいるようだね」
    彼女の言葉を遮るように店のマスターらしい六十前後の男性がコーヒーを持ってきていった。
    「景子さんがボーイフレンドを連れてきたのは初めてだね」
    手慣れた無駄のない動作でカップをテーブルに置いていく。
    「ボーイフレンドなんかじゃないわ」
    「まあ そう向きににならなくてもいいさ。 じゃあごゆっくり 」
    そういうとマスターはさっと引き下がっていった。
    「もうこの店もマスターが一言多いのが玉に傷ね」と彼女は言いながらわざと頬を膨らませて見せた。
    その顔があまりにも子供っぽいので彼はは思わず吹き出してしまった。彼女もつられて笑い出した。それから二人は自然に打ち解けて話をした。
    彼女は今一人暮らしをしていて美術学校に通っている。そこでは絵画に限らず、彫刻や版画、陶芸 など様々なことをやっているが、自分では将来絵をやりたいと彼女は言った。彼も大学の話をした。彼女は自分が大学に行かなかったのですごく興味があるといい、色々と質問をした。
    彼女が描いている大学のイメージはかなり理想化されていて、彼の話はそれを一つ一つ壊していくようだった。
    「あなたの話を聞いていたら大学へ行く意味がないみたいね 」
    口ぶりに不満な気持ちが表れている。
    「全て意味がないとは言えないよ。 本当に自分のやりたいことをやれるし、いろんなことを考えられる時間もあるしね。君だって少しは学校に不服なところがあるだろう」
    「そうね、何だってそういうものかもしれないわね」
    少し考え込むようにして コーヒーを一口飲んだ。
    「そうだ君にぜひききたいことがあるんだ」
    「急にどうしたの」
    「いやちょっと思い出してね。君がいつも電車の中でピンク色のものを身につけていたのとても不思議に思ってね。君にそのことをききたいんだ 」
    「やっぱり気がついていたのね。でも男の人でそれを訊ねたのはあなたが初めてよ。私ね、色には不思議な力があると思っているの。ピンクはね、人の心を和らげたり和ませる作用があると思うの。毎日、満員電車に乗って通学しているといつも思うの。 どうしてみんなこんなにピリピリしなくちゃいけないんだろうって。だからピンクを身につけることで少しでも車内の雰囲気が和らげばいいなと思ったの」
    彼は初めて見かけた時のことを思い返していた。あの時見たピンクのワンピースは今でもはっきり思い浮かべることができた。
    「色によって人の気分を変えられるなんてあまり考えもしなかった。それじゃあ よく人の性格を知る手がかりに色の好みを尋ねるのも、案外的を射ているのかもしれないな」
    「そうだと思うわ 。どうしても魅かれる色っていうのは、その人の気持ちにしっくりくるものがあるのよ」
    「友達は君がいつもピンクを身につけていることをどう思っているのかな」
    「気づいた子は少ないわ。それにただ面白がって、私が理由を言っても変わっているのねって言われるだけ。 あなたみたいに興味を持った人は初めて 。だけどわかっていたわ 。あなたなら私の気持ちを理解してくれるって 。だから思い切って誘ってみたの 」
    そういうと彼女は彼の顔を下から覗き込むようにして微笑んだ。彼は曖昧な表情を浮かべたまま彼女を見つめていた。その日から二人はどちらかともなく 誘い合うようになった。

    彼は彼女と次第に親しくなるにつれて、 会うたびごとに変わる 捉えどころのない彼女に戸惑いを覚えた。 それは決して不快ではなかったが、どこか翻弄されているようだった。
    ある時互いに電話番号を知らせることになった。それが彼をますます惑わせることになろうとは夢にも思っていなかった。
    その日の夜、彼がそろそろ寝ようと思い、明かりを消して布団に横になった途端 、電話のベルが鳴った。 時刻は0時半だった。一体誰からだろうと受話器を取ると彼女からの電話だった。
    「遅くにごめんなさい 。もう寝てた?」
    「いや 今寝ようかと思っていたところさ。でもどうしたの。何かあった」
    時間が時間だけに彼は真剣になってたずねた。
    「ごめんなさい。でもどうしても眠れなくて」
    「自分が眠れないからって 電話して来なくても 」
    「急にあなたの声が聞きたくなったの」
    「 眠れないなら 羊でも数えたら」
    投げやりな言い方になった。
    「 ええ 私もやってみたの。でもダメなの。 目を瞑って羊の群れのいる草原を思い描いてみる。 そこまではいいんだけど羊が一匹ずつ柵を越えて行くのを数えていくと、十匹くらいまでは数えられるけどそれ以上になると逃げ出してしまう羊がいるの。だからいくら数えようとしてもダメなの 」
    「羊が逃げる 」
    「そうなの。逃げようとして柵を超えないの」
    彼は唖然としてしまった。
    「僕をからかっているの」
    「そんなんじゃないわ。本当なのよ。信じてくれないのね」 と向きになるので付き合うより仕方なかった。
    そういう 子供じみたことを言うかと思うと 、またある夜は 、
    「私最近ある男性に口説かれて困っているの 」と 隆史がドキッとするような話をし始めるのだ。
    「男性って」ともう彼は彼女の話に釣り込まれていた。
    「バイト先の社員の人 」
    彼女はある会社の事務のアルバイトをしていた。彼女の話によるとその男性は歳は三十半ばで結婚もしているらしい。彼女は夕方からの仕事だから、相手は残業をしていて、いつも声をかけてくるらしい。
    会社には彼女の他にも若い女の子はいたが、みんな社員とはあまり口をきかなかった。彼女は年上の人と話すことには抵抗がなかったので、よく話し相手になっていた。それがある時気がつくとその男は、彼女のアルバイトの日にだけ残業しているのが分かった。そして、だんだん妙に馴れ馴れしくなって、彼女が帰るのを待ち伏せするようになった。
    「それで君にちょっかいをかけてくるんだね」
    「そうなの。私が一応話に乗るから自分に気があるって、誤解しているみたい。この頃はすごくいやらしいことも言うの 」
    「例えばどんなこと?」
    「 最近の君たちのぐらいの女の子はみんな体験済みなんだろうとか、帰り際に頻りにきいてくるの。私ってそんなに遊んでいるように見えるのかな 」
    彼は言葉に詰まった。彼女が男に口説かれていることよりも 、どういうつもりで自分にそのことを話すのかが気になる。彼女は困っていると言いながら、その口ぶりには少しも表れていない。
    「 それでどうするつもり 」
    「そんなこと決まっているでしょう。相手になんか絶対しないわ 」
     彼女が突然声を強めたので ちょっと気まずい雰囲気になった。
    「ごめんね大きな声を出したりして。あなたがあんまり落ち着き払っているから、少し腹が立ったの。私 がこんな目にあっているのに平気なの 」
    「平気じゃないさ 。心配だよ。ただ君が割と冷静にしゃべっているんで落ち着いていられるだけさ」と 彼が言った後で彼女は急に黙ったかと思うと不意に、
    「もういい、わかったわ 。あなたってどんなことがあっても取り乱すことなんてない人なのね」 と言って、電話を切ってしまった。
     彼はしばらくそのままの姿勢でいたが、大きくため息をつくと受話器を置いた。
     けれども次の日になると
    「昨日はごめんなさい。怒ってる。別に本気じゃなかったの。愚痴を聞いて欲しかっただけなの 。だから許してね」と言ってはまた電話をかけてきた。
    「 私ね 昨日はあんなこと言ったけど、あなたの落ち着いてるところそんなに嫌じゃないの。却って好きなくらいだわ 。だって今までに付き合った男の子ってある程度親しくなると急に馴れ馴れしくなるんだもの。 私は相手にそうされるとなんだか逆に離れたくなってしまうの。そのまま馴れ合ってしまうのが嫌なの 。相手に頼り切ってしまうのが。だから一定の距離を置いて付き合いたい。そういう関係ってできないかしら」
    「相手が戸惑うんじゃないかな 」
    「そうなのよね。私が離れようとすると相手はわからなくなるみたい。私を見た目だけで判断していた人は、余計そうみたい 」
    「僕は君を初めて見た時に、普通と違うものを感じてたから、少しはわかるような気がする 。だけどそういう関係って何なんだろう。友達っていうのかな? 恋人かな?」
    「どちらでもないわ。 多分、何か別のものなのよ 」
    「僕と君との関係は?」と彼は言いかけてやめた。 今、彼女の口から その答えを聞くことにためらう気持ちが起こった。彼女との関係が何であるかは、まだ朧げではっきりしなかった。
     隆史と彼女が付き合うようになってからもほとんど毎日電車の中で見つめ合いは続いていた。ただ前と違うのは二人が会話をしていることだ。
     彼女が隆史を誘った時のようにお互いに口を動かして話をするのだ。最初は慣れなくて一語一語 ゆっくりと口を動かさないと何を言っているのかわからなかったが 、この頃では普通にしゃべるより少し遅い程度で何でも自由に話せるようになっていた。
    初めは周りの目が気になって短い単語をポツリポツリと言っていたが、次第に目立たないような口の動きでも会話ができるようになった。ただ困るのは話の内容が何であっても表情に出せないことだ。吹き出してしまうようなことや気に障ることを言っても、満員電車の中では声を出して笑うわけにはいかないし 、怒るわけにもいかない。ひたすら口だけを動かして、顔は無表情のままでいなければならない。互いに無理して真顔になろうとするのでそれがまたおかしくて笑い出しそうになったりもする。
     彼女は彼が怒れないのをいいことに、からかうようなことばかり言った。
    「今日もまたそのトレーナーを着ているのね 」
     彼女は隆史の着ているもののことをよく口にした。
    「いいだろう 。気に入っているんだから」
    「 ブルーのズボンにブルーのトレーナー はおかしいわ。何だかパジャマみたいよ 」
    「君が思うほどおかしくないさ。ブルーが好きなんだからいいだろう」
    「君の方こそ相変わらずピンクばかりでよく飽きないね 」
    彼女につられて彼もからかう調子になった。
    「あなたって色のセンスがないんじゃない。明日はその格好の上にブルーの帽子でもかぶってきたら」とまた憎まれ口を叩いた。彼が言い返そうとすると、彼女の電車がちょうどスピードを上げて勝ち誇ったような顔をした彼女が彼の前から離れて行ってしまう。
     彼女はいつもT駅に近づく寸前にわざと一言気に障ることを言う。それが小憎らしいほどタイミングが良くて、彼はその度に歯がゆい思いに駆られながら彼女を見送った。

    ある日曜日の午後。アニエールで彼女と会う約束をした。
    アニエールには彼女と来て以来何度か大学の帰りに立ち寄っていた。彼女が言っていたように店の雰囲気が良かった。店に入ってお茶を飲んでいると不思議にほっとした心持ちになれた。
    この日も隆史は約束の時間より三十分も前に店に来た。いつもの通り店内は柔らかい明るさに包まれている。彼は自分のテーブルの横にかかっている絵を見た。川べりで水遊びをしている子供や日光浴をする人が描かれている。これもスーラーの絵なのだろう。それにしても不思議な明るさだなと彼は思った。
    「その絵のタイトルを知っていますか」
    突然見知らぬ男が話しかけてきた。
    「スーラーの絵だってことはわかるんですけど 」
    一応相手に合わせてそう答えた。
    「この絵が店の名前にもなっている『アニエールの水浴』ですよ 」
    「そうですか」 と彼は答えながら不審に思った。この男はどういうつもりで話しかけてきたのだろうと感じて男を観察した。男は妙に優しい声をしていたが顔つきは違った。銀縁のメガネの奥の目が異様に険しく見える。相手を竦めるような鋭さがあった。
    「この川はセーヌ川なんですよ。アニエールはセーヌ川沿いの小さな町で行楽地として有名なところでしてね、この絵はスーラーの代表作の一つですよ 」
    男は勝手に説明を始めた。彼は黙って聞くことにした。
    「 あなたもご存知かもしれないがスーラといえば点描画ですよね。絵の具を混ぜないで 、原色のまま画面を点で構成していく画法です。この画法によって描かれた絵を展覧会に出した時は人々に嘲笑されたそうですが、スーラーはあくまで主張したわけです。人の好みの激しい絵でしょうが、私はこの独特な淡い光彩が好きですね。
    「 大分詳しいんですね 」
    「いや全部マスターからの受け売りですよ」
    「よく店に来られるんですか 」
    「まあ そうですね 。一応常連でしょう。あなたとだって私の方は初めてじゃないんですよ」
    「ええ?」
    彼には どういう意味かわからない。
    「ちょっといいですか 」と男は言うと向き合って座った。
    「あなたが知らないのも当然ですよ。私が一方的に知っているんだから。ほらひと月ほど前の夕方にあなたここで可愛い女の子と会っていたでしょう。あの時私も来ていましたね。よく覚えていますよ。確か大分話が弾んでましたね 。ちょうど客が少ない時間だったからお二人の声が私の方まで聞こえてきましたよ」
    彼は驚いた。この男の口調はいかにも温厚そうな感じを与えるが、話していることは随分不躾で刺がある。警戒する必要がありそうだと思った。
    「そうでしたか。僕は全然気がつきませんでした」
    「それにあなたにあったのは、この店だけじゃないんですよ」 と男は言って含み笑いをした。
    「 他にもどこかで一緒でしたか 」
    記憶を辿ってみたが思い当たるところはない。
    「分からないようですね。電車ですよ、電車。あなた毎日八時二分の電車の前から四両目に乗っているでしょう。私もあれに乗っているんですよ。最初はあなたと気がつかなかったけどしばらくして思い出しましたよ。あなたはいつも必ず南側の吊り革に捕まって立っている場所も同じだった。不思議に思いましたよ。これは何かあるに違いないって興味を持ちましてね。あなたのことを注意して見ていたんですよ。すると電車が走り出して、隣の路線の電車と併走している時に、あなたが急に口を動かし始めるじゃないですか 。独り言を言っているのかと思いましたよ。でもあなたがずっと前を見つめているので、その視線の先を追うと向こうの電車の中にあの彼女がいるじゃないですか。びっくりしましたね。思いもよらなかった。それでやっと疑問が解けました。それにしても大胆だなあと感心しました。なにせ満員電車ですからね 。あれだけの人の前で彼女と話をしているんだから」
    「そういう言い方はないんじゃないですか 」
    堪えきれなくなって、強い調子になった。
    「まあそう向きにならないでくださいよ 」と言って男は煙草に火をつけて、煙を吐き出すと、
    「ただ羨ましいなと思ってね。見ての通り私はもう中年に差し掛かっている年齢だし、あなたたちみたいに若くない。結婚して子供もいるが毎日うんざりした気持ちで会社に通っている。その電車の中であんな光景を見せられると、ますます自分が虚しくなってきますよ」
    男はそう言いながらタバコをもみ消した。
    「それに夢があるじゃないですか。毎朝同じ時刻の電車に乗って、それぞれの電車が併走しているわずかの間に、車両越しに向き合って声のない会話をするなんて。その上相手があんなに可愛い女の子なんだから」
    男はそこまで一気にしゃべると、ふっとため息をついた。
    そしてふと思い出したように、また話し始めた。
    「あなたは読心術って知っていますか?」
    「ドクシンジュツ?」
    「つまり あなたと彼女が電車の中でやっていることですよ。 相手の唇の動きだけから言っていることを理解するわけです。 実は私もそれができましてね。悪いとは思ったんですが、あなたたちの会話を盗み取らせてもらいました」
    「何ですって」 と思わず大きな声を上げた。
    「じゃあ僕たちが話していたことを全部知っているのですか」
    「 悪いけれども知っています。さっきも言ったように羨ましくてね。あなたたちが何を話しているのか知りたかった。それに彼女はなかなか魅力的な女の子ですね 」
    「それどういう意味ですか 」
    「いや見た目の可愛さもそうですけど、話すことが面白くてユニークですね。あなたも大分やり込められているようですね。彼女の様子や雰囲気を見ていると何か魅かれるものがありますね」
    男がそう言った時 、店の扉が開くベルの音がして、彼女が入ってきた。
    店内を見回して、隆史の姿を見つけると笑顔を見せたが、同じテーブルに知らない男がいたので一瞬怪訝な顔をした。
    「 私いいのかしら 」と彼女は近づいてきてそう言うと訊ねる目をした。
    「いやこれは失礼しました。私は矢村と言います。この店にはよく来ているものなんですが、彼とちょっとお話しさせてもらいました。まさかお待ち合わせとは知らなかったもので 」
    男は一層優しげな声でよく喋った。隆史はさっきの男の言葉が頭に残っているので 、今男がどういう思いで彼女を見ているのかと考えると不愉快になった。
    「そうですか。私も最近ここによく来ているんです」
    「やっぱりスーラーですか 」
    「そうスーラ。この絵がとても好きなんです」
    「なるほどマスターがあなたの話をよくするわけだ」
    「それどういうことですか 」
    「あなたみたいな 若くて可愛い人がこの絵を好きでいてくれるんで、マスターも嬉しいんだろうってことですよ 」
    「お世辞が上手なんですね 」
    「とんでもない。本当にそう思っているんですよ。常連の間であなたのことは噂になっているぐらいですからね 」
    「矢村さんってうまいことをおっしゃるのね。もしかしてセールス関係のお仕事じゃないですか。これは冗談ですけど」と彼女は笑顔でそう言った。
    矢村と名乗ったその男も彼女を見ながら、やはり目を細めて笑いかけている。二人の時には見せなかった表情だ。
    彼はなんとなく取り残されている気分だった。矢村と話している彼女を見ていると、彼の知らない彼女の側面に触れた気がした。
    電話でさんざん 聞かされた外での彼女の姿とは、こんな感じなのかもしれないと思った。矢村はその後も立ち去ろうとせず、そのまま話し込んでしまった。
    矢村の存在が鬱陶しかったが彼女が嫌な気配を見せるどころか、すっかり打ち解けて話しているので離れてくれとは言えなかった。
     結局隆史が彼女と二人きりになれたのは店を出てからだった。
    「まったくあの矢村って男は参るよ。少しは遠慮すればいいのにさ」
    店を出た途端に我慢していたものを、一気に吐き出すように口を開いた。
    「そうかしら面白い人じゃない。話していても歳の差なんて少しも感じなかった」
    「君はあいつの本性を知らないからそんなことが言えるんだよ」
    「大袈裟ね。あなたにはわかっているとでも言うの」
    「そうさ。君が来る前に話していて分かったんだ。あいつはね、毎朝電車の中で僕たちが話していたことを盗み取っていたんだよ 。読心術ができるらしいんだ 」
    「そうだったの。でも別に知られて困るようなことは何もないもの 」
    彼は拍子抜けした。店にいた時から 二人きりになった時に、これさえ彼女に教えてやれば、彼女も自分と同じように矢村を嫌うだろうと、じっと胸に留めていたことだっただけに、がっかりして言葉をなくしてしまった。

    翌朝。彼はいつもの電車に乗ることをためらった。同じ車両にあの矢村が待ち受けてるに違いなかった。
    しかし一方で、あんな男のことで臆している自分を奮い立たせる気持ちが起こった。
    結局彼は、普段と同様に八時二分の電車に乗った。電車が走り出しても彼は周りを意識してみないようにした。
    矢村がいようがいまいが無視するつもりだった。けれどもそれは無駄だった。
    いつものように二台の電車が並んで、目の前に現れた時、彼女は隆史よりも右方に目を向けて微笑んだ。気になってそちらに目を向けるとそこに矢村がいて、彼女に向かって軽く手を上げているところが目に入ってきた。
    隆史は否が上にも意識しなければならなかった。
    「今度の日曜日に学校の展覧会があるの。あなたも来ない 」
    彼の顔を見るなり彼女が言った。
    「君も何か発表するの」
    「当然よ。そのためにこの一ヶ月間かかりきりになって絵を書いたんだから 」
    彼女はそう言うと、不意にまた矢村の方を見た。矢村が彼女に何か言ってるらしい。
    「ええどうぞ。詳しいことはまたお話しするわ」と彼女の口が動いた 。どうやら矢村が彼女の展覧会に、自分も行ってもいいかたずねたようだ。彼は矢村を見た。矢村は彼の方には見向きもしないで彼女ばかり見ている。
     矢村はその後も彼女に何かと話しかけてきた。彼も彼女が答えるとすぐに自分の方から別の話題を向けた。そういう状態になっても彼女はいちいち二人の話に答えた。
    しかし 二人が矢継ぎ早に話すので、彼女の答えはごく短いものになっていった。彼は自分でも向きになっていることに気づいていたが、もう抑えられなかった。
    彼女の方からは二人が言っていることがわかるが、彼の位置からは不自然な姿勢を取らない限り、矢村の口の動きはわからない。そのことが益々焦る気持ちを駆り立てた。
    その日から矢村は毎朝、隆史と彼女の間に割り込むようにして話しに加わってきた。矢村は見かけの取っつき悪そうな印象と違って、実に話題が豊富だった。
    それも彼女の興味がありそうな話を次々にするので、隆史はどうしても会話に遅れがちになる。
    矢村の様子を見ているとわざと当てつけているようでもある。矢村が若い自分をからかっているだけなのか、それとも本気で彼女に近づいているのかわからない。
    矢村という男が彼女との間に闖入してから、彼は自分でも不思議なくらい落ち着きがなくなった。電車に乗っていない普段の時にも何かに苛立っていた。
    彼女が電話で話した中年男のことを、あの時どこか絵空事のように思っていたが、今やそれが目の前で実際に起こりかけている気がしていた。そういえば以前は再三かかってきた彼女からの電話が、全くかかってこなくなった。それもただの偶然とは思えなかった。
    近頃夜になると彼女の電話を待っている自分にふと気づくことがある。あれほど煩わしく思っていたのが嘘のように何かの拍子にすぐに電話に目がいく 。
    けれども自分からかけることはしなかった。電話をかけても彼女に何を言っていいのか、彼の中でまだ整理がついていなかった。
    そのまま日が経ち日曜日になった。結局彼女から誘われた展覧会に行かなかった。矢村が一緒だと思うととても行く気にはなれなかった。
    それでも夜になると彼女に直接様子を聞きたくなり、思い切って電話をかけた。
    「あらあなたからかけてくるなんて珍しいわね。何かあったの」
    「 用はないけどかかってこないからどうしてるかなと思ってさ 」
    「最近色々忙しくて それどころじゃなかったもの。 睡眠時間もちゃんと取れなかったわ」
    彼女は今日の展覧会のことに少しも触れない。そのことが気になった。
    「今日行かなくて悪かったね」
    「 何が?」
    「何がって、展覧会だよ。君が誘ってくれた 」
    「あー そのこと。いいのよ気にしなくても。多分来ないと思ってたから」
    「どういう意味」
    「どうせ私の絵なんか見たくなかったんでしょう。いいわよ分かっているんだから」
    やはり彼女が行かなかったことを怒っていたと分かって、言い訳をするのをやめた。
    「矢村が言ったんだろう 」 
    「そうよ。ちゃんと来てくれた。私の作品ばかりじゃなくて全部見てくれて、見終わった後で感想も聞かせてくれたわ 」
    「どっかで一緒だったの」
    「二人で食事をしたわ。あの人昔は自分でも油絵をやっていたんですって。だから話を聞いていると参考になることも多いわ。 今日はとても楽しかった 」
    最後の言葉は取ってつけたようなわざとらしさがあった。
    電話を切ってからも彼女が今日一日矢村と一緒だったことが、心に引っかかって離れない。矢村の含み笑いをした顔が目にちらついてくる。
    そしてしばらくするとやっと頭の中でモヤモヤしていたものが、一つにまとまっていく気がした。いつまでも矢村から避けていてはいけないと思い、一つの決心をした。
    彼は矢村が居そうな日曜日の午後を選んで、アニエールに出かけた。店に入ると矢村はすぐに見つかった。カウンターで数人の客とマスターとで話をしていた。
    彼は傍まで行くと「話したいことがあるんですが」 といった。
    「ああいいですよ 」と気軽に言うと奥のテーブルに自分から誘った。
    「彼女のことですか」
    席に着くとすぐに矢村が言った。彼は不意を突かれて
    「えっ」と声にならない言葉を呟いた。
    「あなたを見れば分かりますよ。今日はえらく深刻な顔つきですね。それでどんなことですか 」
    その時マスターが水を運んできた。彼はそれを一口飲んだ 。
    「この前は彼女の展覧会に行かれたそうですね。どうでしたか 」
    「そのことですか。よかったですよ。彼女の作品は抽象画なんですが、技術的にはまだまだでしょうが、 構図や発想が大胆で彼女らしくていいと思いましたよ 」
    「あなたも絵を描くそうですね 」
    「いや昔の話ですよ。若い頃と違って最近では描こうという気にもなりませんよ 」と言うと煙草を取り出して、勧める仕草をした。彼が結構ですと言うと、じゃあ失礼してと一本口に加えて火をつけた。
    この男の物腰の柔らかさに騙されてはいけないと彼は気を引き締めた。いつも気がつくと調子を外されて男の術中にはまっている感じだった。彼は率直に言うことにした。
    「 あなたは一体どういうつもりなんですか」
    「何のことですか」
    「電車のことですよ。分かっているでしょう。どうして僕たちの邪魔をするような真似をするんですか」
    「 邪魔をしているつもりはありませんがね。それはあなたがそう思ってるだけでしょう。彼女は少しも嫌ではないようですよ」
    「 あなたは僕をからかっているのですか」
    「からかっているだなんて。私はただ最初にあなたたち二人を見かけて興味を持って、今は彼女に惹かれているだけですよ 」
    矢村があまりにあっさりと言ってのけるので、戸惑ったが、すぐ言い返した。
    「 本気で言っているんですか。あなた前に奥さんも子供もいるって言ってましたね。そういう立場にいるいい大人が、どうして簡単に他の女性に惹かれているなんて、口にできるんですか」
    彼の言葉を聞いていた矢村はふふっと笑いを漏らした。
    「そう来ましたか 」とまるで将棋の指し手でも読むような言い方をした 。
    「結婚している男は、他の女性に興味を持つのも、話をするのも食事をするのもいけないというわけですか」
    「その程度なら別ですが、それだけでは済まないでしょう 」
    「あなたの言いたいことは分かっていますよ。あなたのような若い人から見れば、私くらいの世代の男が若い女性に近づくのは、下心があるからだと思うのでしょう。確かに彼女の若さは魅力的ですよ。妻とは比べ物にならない。男なら誰でも自分のものにしてみたいと思いますよ 」
    「とうとう本音を吐きましたね」とテーブルを挟んで矢村の目をじっと見た。矢村も彼を見たが、すぐにそらすと灰皿に手を伸ばした。
    「本音ですか。まあそういうことにしておきましょうか。その方があなたも納得するでしょう 」
    「それじゃあ違うとでも言うんですか」
    「本音でないとも言えませんね。だけどそれだけじゃない。でもあなたには分からないでしょうね。私の気持ちは。展覧会に行けなかったあなたにはね」
    「・・・・・・」
    「あれは私が一緒だったんで、逃げたんでしょう。分かっていますよ。私と顔を合わせるのが嫌だった。どうです図星でしょう。彼女は顔にこそ出さなかったが、あなたが来ないことを気にしていましたよ。おかげで私は彼女と二人きりで過ごせましたがね 」
    「あなたにどうしてそこまで言われなきゃいけないんだ 」
    彼は思わず声を荒げた。カウンターの客が驚いて二人の方を見た。矢村は少しも動じていない。
    「あなたに怒る権利がありますか。あなた自分の気持ちを偽ってるじゃないですか。彼女を大切に思うなら なぜ私から逃げたんです 」
    矢村がそう言った後 二人はしばらく黙ったまま向かい合った。
    それからおもむろに矢村が口を開いた。
    「少々言い過ぎましたかね。でもこれだけは言っておきましょう。彼女はあなたには荷が重すぎますよ。あなたも本当は彼女を持て余しているんじゃないですか」
    「・・・・・・」
    「私はね毎朝のあなたたちを見ていて思うんですよ。あなたと彼女の関係は二人が乗っている二台の電車に象徴されているんじゃないかってね。二台が併走していて同じ速度の時、互いに止まっているように見える。しかし、それはあくまでもそう見えるだけのことです。それと同じであなたが彼女のことを分かっていると感じるのはほんの一瞬だけだし、そう思えるだけにすぎない。結局は追いつ追われつただ併走するばかりで、いつまで経っても彼女の心を捉えることはできない。私にはそう思えるのですがね・・・・」
    矢村の口調は、次第に淡々と語りかけるようになっていった。 矢村の言葉は、激していた彼の気持ちをすっかり萎えさせてしまった。
    矢村が店を出て行った後も彼は動かずにぼんやりとしていた。頭の中は矢村の言葉で一杯だった。自分でも気づきながら、見ないようにしてきたものを、いきなり目の前に突きつけられた感じがした。
    座っている横の壁にも絵がかかっていた。彼はふとその絵を眺めた。描かれているものは違っても、この店のどの絵からも受ける印象は同じだった。
    彼女が矢村と顔を合わせた時、スーラーの絵のことをそれが二人の間の符丁でもあるかのように口にしていたことが、彼の頭を掠めた。もう一度その絵を見た。彼にとってもこの絵の明るさは好ましく思える。
    けれども自分にはわからない別の良さがあの二人には分かっているのではないだろうか。そんな気がしてきた『あなたには私の気持ちは分からないでしょう』という矢村の言葉が不意に蘇ってきた。
    矢村の言葉は日が経つごとに、彼の心を揺さぶり、 苦しめた。が、一方で自分の曖昧な心の内を見抜かれて、ずばりと指摘されたことに奇妙な快さを感じていた。そして彼の中で、何かが変わっていくように思った。それは白濁した液が時間が過ぎるにつれ、澱が沈殿していって、無色透明の上澄みが現れてくるように、徐々に自分自身がはっきりと見えてくる気がしていた。

    しばらく経ったある日の夕方、隆史は彼女と会うことにした。
    駅で待ち合わせて二人は近くの公園まで歩いた。その間彼は無口になりがちだった。彼女は彼のいつもと違う様子を気にして、何度も理由を訪ねたが、彼は答えをはぐらかしてばかりいた。
    公園について二人はベンチに腰掛けて、少しの間そのままでいた。夕暮れが段々夕闇に変わっていった。風が少し強くなり木々が時折ざわめく音が聞こえてきた。人は誰もいない。
    「静かね。何だか嘘みたいな静けさね」と彼女は言って、また黙ってしまった。彼も何も言わない。
    「一体どうしたの。さっきから全然喋らないじゃない。人を呼んでおいてどういうつもりなの 」
    彼女は苛立っていた。彼の態度の示す意味がわからなかった。
    「今日はね、君にどうしても言っておきたいことがあるんだ」
    ようやく彼はそれだけをポツリと言った。そして言葉を続けた。
    「僕には君の気持ちがわからない」
    「どういうこと」
    「君の僕に対する気持ち」
    「突然どうしたのよ。あなたらしくないわ 」
    「僕らしくない。そんなことはない。今の僕は本当に素直な気持ちになっているんだ。僕の気持ちはもう はっきりしているんだ。僕はね・・・・」
    「ちょっと待ってよ。私そういう話は聞きたくない。今日のあなたはどうかしている。いつものあなたに戻って。前に行ったでしょう。お互いに適当な距離を置いて付き合いたいって。それなのに・・・・」
    「君の言いたいことはわかる。でもダメなんだ。以前の僕なら君の言う関係は続けられた。けれど、今は違う。僕はねすごく不安なんだ。このままじゃ君のことがわからなくなりそうなんだ。正直に言うと矢村と君とのことだって、僕には気になって仕方がない 」
    「矢村さんのことを 」
    彼女は驚いた表情をした。それは思いもかけないことのようだった。
    「矢村わね、僕の前ではっきりと君に好意を持っていると言ったんだ。今から思えば最初に僕に声をかけた時から、すでに君に興味を持っていたのかもしれない。だから僕は、君の本当の気持ちが知りたいんだ」
    「そんなこと無理よ。あなたと矢村さんを比べてどちらかを選ぶなんて。 二人とも私の中では全く別のものだわ 」
    「じゃあどう違うのか教えて欲しい」
    彼がそう言った後、彼女は急に黙ってしまった。そして彼の問いには答えずに話を変えた。
    「この前展覧会の後で、矢村さんと食事をした時に帰り際に『これからもこうして会ってくれる』ってきかれて、その時普通の友達としてならいいと言ったの。そしたら矢村さん、ちょっと笑って『君らしいね。 私の気持ちをちゃんとわかっていて、平気でそういうことを言うんだね』って言ったわ。そして、あの人も私があなたをどう思っているのか訊ねてきたの。『だから私にわかっているのは 、矢村さんと彼とが全然違うということだけです』って答えた。そのことをあなたにも分かってほしい」
    彼女はそう言いながら、彼の目をじっと見つめた。彼は彼女と目があった途端に、彼女の言葉をそのまま受け入れようという気持ちに傾きかけた。が、やっとのことでそれを押しとどめた。
    「それじゃあ僕の方もただの友達でいたいということ 」
    「どうして分かってくれないの。私にとってあなたは、矢村さんと並べられないのよ。矢村さんはいろいろ教えてくれるし 、素敵な人だと思うわ。これからも友達として付き合っていければいいなと思うの。だけどあなたは少し違うのよ。あなたとは偶然知り合って、こうして会うようになってとても楽しいの。うまく言えないけど今でもその気持ちに変わりはないわ。 だから今あなたを失うことなんて私には考えられない」
    彼女は堰を切ったように一気に喋った。そしてまた黙り込んでしまった。彼も思い詰めていたことを喋りだした後の虚脱感で、急にがっくりしてしまった。
    辺りはすっかり暗くなっていた。彼女は少し俯きがちの姿勢で地面も見つめていた。
    彼はもう話すのをやめようと思った。
    「そろそろ帰ろうか。君の家まで送っていくよ」
    彼は立ち上がって 二、三歩歩き出して彼女を見た。
    彼女はまだ 動こうとしない。少ししてやっと彼女も立ち上がったが、彼と反対の方に歩き始めた。
     彼女はゆっくりと少し離れたところにある電灯の下まで歩いていった。彼はその場で彼女を目で追っていた。彼女が立っている辺りだけ 夕闇の中で ボーっと照らし出されていた。
    「あなたもここまで来て」と彼女が言った。彼は訳がわからなかったが、言われるままに従った。
    彼女の傍まで行くと、向き合う恰好になった。彼女の顔を見た。何かを訴えかけるような目をしていた。彼は動揺した。こんな彼女を見るのは初めてだった。
    「私の体を抱えてみて」
    彼女が囁くように小声で言った。彼はまるで催眠術にでもかかったように、彼女のなすがままになっていた。
    ぎこちない動作で彼女の体を抱え込んだ。
    次の瞬間、彼は彼女の胴に回した腕に力を入れて抱きしめていた。彼女も少しも抵抗しなかった。彼は腕の力を緩めて彼女の顔を見た。彼女の顔はすぐそばにあった。二人は見つめ合うと自然に顔を寄せ合って短いキスをした。そして、何度も互いに唇を求め合った。
    彼は彼女の唇に触れながら、どこかで冷めている自分を感じていた。彼女の行為をどう受け止めたらいいのか迷っていた 。
    けれども彼女とは離れたくなかった。ずっとこうしていたいと思った。二人は夕闇の中に浮かび上がった灯りのもとで、抱き合ったまましばらくじっと立ち尽くしていた。

    翌朝 、二人は普段と同じようにそれぞれの電車に乗った。彼の電車はスピードを上げてホームを離れた。後から彼女の電車が追いついてくる。 矢村は相変わらず同じ車両に立っていた。
    隆史が見ると矢村の方から笑いかけてきた。何もかもいつもと変わらず、昨日のことは夢ではなかったのかと思えたりした。
    ところが彼のそういう思いを一度に忘れさせることが起こった。
    二台の電車が併走して同じスピードになった時、彼は彼女を探した。彼女も同じ場所に立っていた 。
    けれども様子が違っていた。一瞬彼は見間違えたかと思った。彼女が薄いブルーのワンピースを着ているのだ。あれだけピンクにこだわっていた彼女が、体のどこにもピンクをつけていない。
    彼は驚いて声が出なかった。彼女がこんな形で気持ちを表してくるなんて思いもよらないことだった。
    しばらく茫然と彼女の姿を眺めていた。彼女もじっと彼の方を見つめたまま動かなかった。
    そんな二人の様子を さっきから矢村は見ていた。そしてすぐに二人の雰囲気がいつもと違うのを感じ取っていた。どうにか自分に注意を引こうと彼女に話しかけたが、 彼女は正面を向いたままでどうすることもできなかった。
    矢村は隆史を見た。やはり彼も前を向いて彼女を見つめている。自分が全く無視されていることに矢村は少し動揺していた。 しかしまあ気にすることはないと心の中でつぶやいて平静を装った。
    手に持っていた新聞を広げてふふっと笑いをこぼした。自分にゆとりを持たせようとしたその笑いが彼の思惑とは裏腹に、引き攣ったものになっているのを矢村は気づいていなかった。
    電車は T駅に近づいていた。今日はこのまま彼女と別れたくないと隆史は思った。それでも電車は一層 速度を増して走る。いよいよ駅に着くという時、それまでこっちを見つめたまま動かなかった彼女が、不意に手を振った。手だけじゃない、何か持っていた。
    隆史は目を凝らしてじっと見た。それはピンクのハンカチだった。彼女は悪戯っぽい笑顔で人目を憚らずにそれをしきりに振っている。彼女は今日も最後にちゃんと彼をやり込めることを忘れていなかった。
    けれども今日の彼は少しも腹が立たなかった。大声で笑い出したい気分だった。昨日公園で抱き合った時の彼女も、さっきブルーのワンピースを着て自分の方をじっと見つめていた彼女も、今こうして無邪気に 手を振る彼女もどれも愛しいものに思えた。と同時に彼女の全てを理解できるはずがないと思った。
    これからもこうして電車に乗って顔を合わせて話をする。それだけで十分だった。
    彼の電車が急にスピードを落とした。彼女の電車が先に進んで行く。彼女も彼の前から離れてゆく。彼女がまた手を振った。 彼も大きく手を振って応えた。
    二台の電車は車輪を軋ませるようにしてそれぞれのホームへと滑り込んで行った。                                                                                                                                 (了)





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