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壊れたまま出勤する ― 複雑性PTSDで働くということ


    戦場育ちと呼びたい

    私は両親から虐待を受けて育った被虐待児だ。
    いわゆる毒親育ちという分類なのだろう。
    虐待を受けながら生き残って成人した。
    毒親育ちではなく、戦場育ちと呼びたい。
    地獄のような日々を過ごしてきたからだ。
    成人後、親から離れることはできても戦場での後遺症は消えない。
    後遺症を抱えながら日々を過ごしていく―。

    台風の日

    台風の日、私は出社した。電車が動いていたからだ。
    前日の夜、私はとてもワクワクしていた。
    「みんなが出社しない日にあえて出る。遠足気分ですごく楽しい」
    夫にそう告げたら、彼も「分かる、俺もそういう日出社したくなる」と返してくれて似た者同士なんだなとほっこりとした。
    在宅勤務推奨だろうと心の安全は確認できたので出社したかった。
    トリガーとなる存在が安全性を優先して外出しないことが予測できたからだ。

    普段は混みあっている改札も人がまばらでいつもはギュウギュウ詰めの満員電車がその日はガラガラだった。
    朝の通勤で座れたのはいつぶりか分からない。
    座れて私の両隣も空いている。パーソナルスペースのある電車には不思議な安心感があった。
    いざオフィスに到着して、私を含めそのフロアは5人しか出社していなかった。
    上のフロアも覗いてみたら同様だった。
    親しい人しかいないオフィスは快適でとても仕事が捗った。
    …トリガーのいない職場で働けたのは初めてだった。なんて心地いいんだろう。

    私は複雑性PTSDという病を抱えている。
    この病は日常的に繰り返された体験によって発症する、戦争帰還兵のPTSDに近い精神疾患だ。
    私は繰り返された父親からの性加害と見て見ぬふりをした母親により、この病を発症した。

    日常の光景

    家を出る前、夫にぎゅっと抱きしめてもらい、うさぎさんの頭をなでる。
    三人暮らしのこの小さな城が私にとっての安全基地だ。
    朝、満員電車に揺られ、出社する。
    私の業務は出社しないとできない内容なので基本毎日出社している。
    通勤中も会社でもトリガーに遭遇することがあり、しんどい。
    トリガーは何も悪くない。私の心身が勝手に過剰な反応を起こしているだけだ。

    さて、トリガーとはなにか。
    どこにでもある身近な人や物・言葉がフラッシュバックを誘発する材料になる。
    私の場合はそれが「妊婦さん」と「幼い我が子の子育ての話題」なのだ。
    社会生活を営む以上、どこにも逃げ場なんてない、居場所なんてない。

    普通に仕事ができている時間は短い。
    連続して集中できる時間に気合いで取り組んでいる、納期を守りその日中にやるべきことは対応できている。
    もっと頑張りたい、もっと会社に貢献したいのに病気があることで作業が進まなかったり、新しい業務にチャレンジする余力がないことがとても悔しくて歯がゆい。

    重いトリガーと接触すると涙やパニック、希死念慮が爆発するのでトリガーを回避せざるを得ない。
    何時間も涙が止まらない。この苦しみが永遠に続くかのように錯覚する。
    苦しみから解放されるたった1つの正解が「自ら命を絶つこと」に思えてしまう。
    発作のような衝動と感覚を必死で抑える。
    逃げ続けることで複雑性PTSDは悪化してしまう。
    しかし不意打ちのようなトリガーの言葉を浴びて「避けなかったとしても」
    脳はフリーズ・解離してシャットダウンするか、感情に完全に飲み込まれて爆発してしまう。
    過去のトラウマを現在進行形で起こっている出来事として捉え続けるのだ。

    何が地獄なのか

    普通のご家庭で育った方は、目の前に被虐待児がいると想像しない。
    彼らにとって戦場育ちとは、ニュースの中かフィクションの存在なのだ。
    飲み会の場で雑学ネタとして、中学生の娘さんがいる人が「思春期になると女の子は父親のにおいを嫌がる」と話していた。
    続けて「自分の身を守らなければならない年齢で」「父親が一番嫌いになる時期で」「近親相姦を避けるために本能的に拒否する」とまで続けた。
    自分の人生って一体なんだったんだろう。
    自分の身を守ることができなかった私って何なんだろう。
    なんで生きているんだろう。
    その場では苦笑いでやり過ごし、帰宅後私は猛烈に泣いて吐いた。

    性的な経験を楽しい話題として語る同性もいる。
    虐待された記憶を彷彿させるため、性的な話題を見聞きしたくない。
    「そういった話題はちょっと苦手で…」とやんわり伝えても「なんで!?楽しいじゃん!」とか「純情なんだね~」と訳の分からない答えが返ってくる。

    私の人生は回避してばかりだった。
    高校は性的な話題を耳にするとトイレで吐き続けるくらいフラッシュバックが酷かったのと、離婚して父から逃げられた後もダメージが大きく出席日数が足りずに中退。
    高卒認定をとって大学へ進学。
    大学は性的な話題から逃げたくて合格した大学より偏差値を落とした女子大へ進学した。
    同性同士の方が生々しい話をするとは知らなかった。
    ゼミが始まるまで特定の友人は作らず、ぼっちだった。
    多くの人が思い出を作る大学生活も複雑性PTSDのため無駄にしてしまった実感がある。
    ゼミで好きな文学作品を研究できたのはとても楽しかった。

    大学時代、ありのままの自分が嫌で別の人生を体験してみたくて、演劇の勉強を始めた。
    夫とはその時に出会った、初めてお付き合いをした人と結婚できたことはこれ以上ないくらい幸福だと思う。
    夫は私の生育環境を受け入れてくれ、複雑性PTSDに振り回される私に寄り添ってくれた。
    「俺にとって〇〇は普通の子だよ」という言葉は今でも大切な宝物だ。

    治療を決意するまで

    私は今まで複雑性PTSDを放置していた。
    正確にはカウンセリングや精神科に通ったが、改善できず治療を諦めていた。
    カウンセリングには数年かけて数百万円を費やした。
    CBT(認知行動療法)やEMDR(眼球運動による脱感作および再処理法)も試してみたが、何も変わらなかった。
    CBTでは体に染みついたトラウマを拭えず、EMDRでは消しても消しても新たなトラウマが湧き出てくる。
    対話中心のカウンセリングでも「他の人はこれでよくなっている」と言われ、根本的なところがよくならない自分に問題があるのかと絶望していた。

    そんな私が、ついに専門治療の門を叩くことにした。
    きっかけは複雑性PTSDにより正常な判断ができず、自分の大切な存在を失ったからだ。
    大切な存在とは結婚して5年半目にやっと授かった我が子だ。
    出産予定日が夫婦の結婚記念日で特別な存在だった。
    そんな大切な存在を失ってから希死念慮が日に日に高まり、服用する薬を変えても希死念慮が変わらず、このままでは治療して生きるか、諦めて死ぬかのどちらかになってしまうとようやく気づいたのだ。
    治療をしないと生きられない、近々自分は死んでしまうという実感があった。
    このまま命を絶つか、苦しくても治る日は来ると信じて生きるか。
    私は後者を選んだ。
    …そして大切な存在という表現自体が回避行動そのものだ。

    複雑性PTSD患者に対応しているクリニック自体はわりとすぐ見つかった。
    なぜなら複雑性PTSDを受け入れてくれる病院が少ないからだ。
    はっきりと診察を断っていると書いてある病院が多かった。
    発達障害で通っている精神科の先生にも相談してみたが、『専門外である、紹介もできない』と言われた。
    クリニックの予約も争奪戦で朝早くから申し込みが必要だった。
    何日か早起きしてチャレンジしてやっと予約を取れた。
    一番大変だったのはクリニックを見つけることで、予約が取れてからは気持ちが少し楽になった。
    事前に1,000字ほどの生育歴を提出する必要があったが、この作業も苦ではなかった。
    悪夢のような生育歴のおかげで治療に繋がったというのはなんとも皮肉である。

    両親が私にかけた呪い

    父からの性的虐待が始まった時、私はその意味が分かっていなかった。
    母は性的な情報を徹底して遮断していた。
    保健体育の授業で意味が分かって、私は妊娠を恐れた。
    妊婦や赤ちゃんが汚らわしい行為の結果のように思えた。
    父親は妊婦さんも性的な対象として見ていた。
    母からは「虐待するから絶対に産むな」「父親のような性犯罪者が産まれたらどう責任をとるんだ」と15年以上にわたって繰り返し言われてきた。
    特に私が結婚してからは毎週のように上記のLINEが届き、妊娠・出産に対する強い恐怖と恥の感覚が植えつけられた。
    母の言葉に耐えられず、「でも彼との子どもだよ!あいつのじゃないよ」と反論すると「2分の1はあいつの血だ」と返ってきた。

    夫との間に命を授かったことが分かった時、最初に浮かび上がった感情は喜びだった。
    しかしすぐに恐怖に支配された。
    「虐待してしまうのではないか」
    「産むことで子どもを不幸にしてしまうのではないか」
    「病気を抱えたまま、子育てをすることはできるのだろうか」
    今までに経験したことのないようなフラッシュバックが私を襲った。
    「この子を不幸にしてしまう、守らなければいけない」
    壊れた頭で出した結論は、我が子の命を手放すことだった。
    …私は初めて複雑性PTSDの恐ろしさを痛感した。
    この病が自分以外の存在を傷つけ、命まで奪ってしまったからだ。

    全てが終わったあとに

    あの子はたくさんの生きたいというメッセージを送ってくれていた。
    出産予定日が夫婦の記念日だったこと、つわりがなかったこと。
    順調に育ってくれていて、区役所や分娩予定の病院で新しい命は社会から歓迎されていることを体感として初めて知ることができた。
    あの子がお腹にいた間は妊婦さんや赤ちゃんを見ても心が動揺することがなく、一時的にあの子がトリガーを取り除いてくれたようだった。
    分娩予定先の病院で最終的な出産予定日が父の誕生日の翌日と父の誕生日から1日ずらしてくれたこと。
    中絶手術当日、医師が到着する時間が遅れたこと。
    看護師さんと麻酔医の先生から2回「大丈夫ですか」と声掛けがあったこと。
    全部、あの子からの“生きたいよ“というメッセージだったと思っている。
    …私はそんなあの子からの贈り物を全て無視してしまった。

    手術直前、喉まで出かかった「やめたいです」という言葉を飲み込み、「今耐えなきゃみんなが不幸になる」「今だけ耐えれば自分だけ耐えれば丸く収まる」と信じていた。
    私はぼんやりと似た感覚を思い出していた。
    「目をつぶって終わるのを待って父親の加害に耐えていた時と似ている…」
    「この子と一緒に自分も消えたい…」

    時間が経つにつれ、私は正気を取り戻していった。
    手術翌日。「悲しくても辛くてもこうするしかなかったんだ」
    手術から2日後。「苦しくてもあの子と一緒にいたかった」
    手術から3日後。「不幸になるというのは本当に確定した未来だったのか…?」
    3日目以降、私はずっと地獄の中にいる。自分で深化させた地獄のどん底にいる。
    時が傷を癒すどころか、あの子に会えるはずだった日がどんどん近づいてくる。
    性別も分からなかったあの子。丸い頭と小さなおててのエコーが頭から焼き付いて離れない。
    5年半不妊だった私のもとへやっと来てくれたあの子…。
    そんな大切な存在を呪いに支配されて手放してしまった。
    毎朝、自分の声で目が覚めるようになった。
    「あの子の清らかな魂はどこへ行くの…?」
    「どうしてお腹から取り出しちゃったの?」
    穏やかで優しい私の声は淡々と私を責めている。
    あの子がいないという喪失から私の一日が始まる。
    あの子も夫も私を責めてはいない。
    私だけが私の存在を許せないまま、今日も生きている。

    トラウマ治療クリニック初診の日

    私は発達障害があり、知覚統合のIQが低く地図が読めない。
    学生時代の就職活動では面接の会場に辿り着けないこともしばしばあった。クリニックのHPに写真付きで道順が掲載されていたのがたいへんありがたかった。おかげで迷わず到着することができた。

    私の生育歴を見た先生が「正直生きているだけで辛いでしょう」「妊娠中は本当にしんどかったと思います」と病状に理解を示してくれたことが、何よりも嬉しかった。
    病院でできる治療方法を提案してもらった。
    実際に何に取り組むかはカウンセラーさんと相談になるとのこと。
    私のように重度の虐待を受けた人はCBT(認知行動療法)やEMDR(眼球運動)ではあまり効果がないと言われ、今までのカウンセリング体験の結果にも納得がいった。
    先生からは、話し合い次第になるがPE(持続エクスポージャー療法)を勧めると言われた。
    PEの治療内容のハードさに驚くと同時に「これなら治るかも……」という希望を抱いた。
    PEはあえてフラッシュバックをバンバン起こす。
    トラウマ記憶をカウンセラーの前で現在の出来事として語る。
    カウンセリング内容を録音して毎日聞く。
    回避してきたトラウマのトリガーとも向き合う。
    というかなりハードな治療だ。
    「3ヶ月間休職は必須、診断書を出す」と言われた。
    また治療に専念するために現在の精神科から転院することになるとも。
    PE治療中は薬を一切服用できない。
    素の自分でトラウマと向き合うことを余儀なくされる。
    治療が始まったらパニックを起こして泣き喚くことだろう。
    直視したくなかった自分の醜い面とも対面させられるだろう。

    私は戦争映画が好きなので、ベトナム戦争を描いた『プラトーン』を思い出した。
    ベトナム戦争もまた多くのPTSD患者を生み出した悲惨な歴史だ。
    PEは「帰還兵があえてもう一度ベトナムのゲリラ戦に挑むようなもの」だと感じた。
    異なるのは専門の先生がいること、カウンセラーさんと24時間メッセージで繋がれること、孤独じゃなくて私の周囲に味方になってくれる人達がいること―サポート体制が整っていることだ。

    先生は『予約が取れても初診をバンバン断っている』とおっしゃっていたので治療に繋がれたことに安堵した。
    落ち着いて感情的にならずに事前にメールで生育歴をお伝えできたこと、私に治療の意思があり、改善の見込みがあると判断していただけたことが何よりも嬉しかった。

    診察券とヒトカラ

    私は毒親に呼ばれ続けた本名を捨てたく、診察券も通称名での発行を依頼した。
    現在は法的な改名の許可を得るために通称名の使用実績を重ねている最中だ。
    ―その診察券の番号は、あの子の誕生日だった。
    4桁の診察券番号がその並びになるのは1万分の1の確率だ。
    私はあの子が応援してくれているように感じ、胸がぎゅっとなった。
    複雑性PTSDは治らないと思っていた。
    でも長い道のりのゴールがようやく見えてきた。

    帰り道、感情がいっぱいで数年ぶりにヒトカラに行った。
    先生と話したことを夫にLINEで報告し、学生の頃に好きだった曲、子どもの頃に聴いていたアニメソングをたくさん歌った。
    『Butter-Fly』を歌っているとなぜか毎回泣いてしまう。
    歌っていて涙が溢れた。私にとっての‘’無限大な夢‘’とは守れなかったあの子のことなのか、治療できることへの安心感なのか―その正体は分からなかった。
    ずっと好きなことが変わらないのもASDのこだわりというよりは心の成長が止まっているからかもしれない。

    周囲の優しさと埋められない溝

    私の複雑性PTSDという病気については、職場では部長が知っている。
    障害者雇用で働く私について、他の人へは私の発達障害しか共有されていない。
    対人関係の困り事は発達障害によるものではない。
    複雑性PTSDからくる回避行動(トリガーとなるものや場所を避ける)だ。
    部長は仲間を増やすため同じ部署の2人にも3ヶ月間休む可能性があることを踏まえて話せる範囲で相談しようと提案してくれた。
    そして2人に「自分の困りごとは発達障害ではないこと、複雑性PTSDの根本的な治療のため、休職が必要となること」を粛々と伝えた。
    私は感情が高ぶると逆に全く感情を感じなくなってしまう、機械が説明しているような抑揚だった。
    それでも自分がなぜ業務の出来にムラが発生してしまうことがあるのか、本当の理由を伝えられたことが嬉しかった、ずっと隠している感覚があったから。
    二人とも「治療を応援する、すごい勇気だと思う」「戻ってきたときの場所は守っておく」と言ってくれた。

    世界は基本的に優しいと思う、両親以外の人たちは温かい心や共感性といったものを持っている。
    実家と違って帰れる場所があるという事実に安心感を覚える。
    そう、毒親という戦場で育った者たちにとって実家は‘’安心して帰れる場所‘’では決してないのだ。

    虐待を受けて育った自分とそうでない家庭環境の人の間には埋められない溝がある。
    親に守ってもらえるだとか無償の愛とかそういった言葉がどこか遠い異国の物語に聞こえる。
    父の加害により出血した私に対して母は「生理が2回来ちゃったのかな」と誤魔化した。
    「父の行いを職場や警察に言う!」と声を荒げた私の声を母は「そんなことをしてもあなたが恥をかくだけ」「夏になったら離婚するからそれまで我慢して」と封じた。
    いつになったら離婚するという約束は何度も反故にされた。
    季節がいくつも変わった。
    やっと父から解放されたのは私が16歳の時に自殺未遂をして入院したことがきっかけだった。
    父から離れられればもう加害されず、普通の生活が送れるようになれると夢想していた。
    私はとても甘かった。
    戦場を退いてからが複雑性PTSDという地獄の始まりだった。
    加害された時の悪夢を毎晩のように繰り返し見て自分の叫び声で目覚める。
    歯を食いしばりすぎて前歯の一部が欠けた。
    17歳の頃は意識のある時はずっとフラッシュバックと過覚醒に苦しみ、精神科で処方された薬で半日以上寝ていて3食食べていたにも関わらず、体重が38kgまで落ちた。
    廃人のような日々を送っていた。18歳の頃の記憶はほぼない。
    数か月予備校に通ったが続けることができなかった。
    19歳で「このままでは人生が終わってしまう」と一念発起し、猛勉強し大学へ合格、進学した。
    大学は奨学金を借りて進学したため、成績・出席日数ともに審査基準となったため、泣きながらトラウマと戦いながら通い、卒業した。

    社会人になってから、会社で実家に帰省する話や親孝行の話が出る度に私は曖昧に言葉を濁すしかなかった。
    「家族とは疎遠でして…。元気だとは思います」
    正直健在だろうが私には何の関係もない。接点を持てば負傷するだけだからだ。
    毒親という言葉は温い。
    彼らのやってきたことは徹底した人格破壊と虐待だ。
    自分に害しか与えない両親とはすでに絶縁している。
    父とは16歳の時の離婚以来会っていない。母には今年の1月末に絶縁を宣言した。

    それでも出勤する

    自分が正直毎日なぜ働けているか分からない。
    ルーティンとなっているからではない。
    職場の人達を尊敬しているが、全ての原動力というわけでもない。
    私が働かなくなったら夫とうさぎさんを支えられなくなるというのが大きい。
    家を出る前、夫は必ず私を抱きしめてくれる。
    うさぎさんの頭を撫でる。こうすることで私は働けるのだ。

    ベトナム戦争を描いたもう1つの名作―『フルメタル・ジャケット』で主人公のジョーカーがこう呟く。
    "I am so happy that I am alive, in one piece and short. I'm in a world of shit... yes. But I am alive. And I am not afraid."
    「俺は生きている。五体満足で、除隊まであと少しだ。地獄のような日々だが、俺は生きている。そして、もう恐れはしない。」
    私に除隊の日は来ない。除隊されないように治療をする。
    複雑性PTSDとは家庭の中で起こった戦争である、家庭の中で起こった長きにわたる密室での虐待が私を壊した。
    私は負けない。治療を終えて必ず生還する。
    子どもの頃、自分を守るために必要だった防弾ジャケットを下ろす、鎧を外す。
    トラウマに人生を左右されない私になるために。
    今度こそ大切な命を守れる私になるために。

     
     
     
    毒親育ちという戦場を生き延びた私が、 回復の記録と、小さな綿毛を綴ります。 家族の言葉に傷ついてきた誰かへ― そっと届きますように𓂃 𓈒𓏸 𓋜 . * 複雑性PTSD治療中🏥

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