
オンナ、ハシル、アサ。第八話(冬・後編)最終話
摩耗
あれから、何度も金曜日が過ぎた。
私は、走っていた。
あの女とすれ違った。
何度も、何度も。
あの女には何一つ変化がなかった。
私も何も変わっていない。
お互いに同じことを繰り返していた。
しばらく、彼から電話やメールがあったが無視していた。
トリッキー。
面白い。
彼が口だけの男だとわかって、煙のように興味が消えた。
どうせ、わかってもらえない。
薄っぺらい。
その程度の男だった。
そのうちに連絡が全く来なくなった。
最後がいつだったか、もう覚えていない。
意味のないことだから。
今シーズンは大会に出ていない。
申し込みもすっかり忘れていたし、大会を走ることに興味がなくなっていた。
自己ベスト更新とか、年代別の順位とか、どうでもよくなっていた。
ただ、走り続けていた。
そうしないと、いけないのだから。
言霊
寒い寒い金曜日の朝。
いつも通り走って、あの女とすれ違った。
変わらない。
足音も、呼吸も、汗も。
その瞬間、女の方から飛んで来た。
大丈夫、大丈夫。
最初は何かわからなかった。
直接、脳に小さな塊が直撃したと思った。
あの夏の蝉のように。
その衝撃に耐えられず、私は思わず足を止めてしまった。
足元に、視線を、落とした。
大丈夫が、落ちていた。
地面に落ちてバタバタともがいていた。
それをボーッと眺めた。
大丈夫は、しばらく動いていた。
そのうち、段々と動かなくなり、完全に静止した。
あぁ、死んだ。
金曜日の朝、すれ違う度にそれが飛んで来た。
当たっては、地面に落ちて、死んだ。
次第に、その塊が音になった。
そして、その音が声になった。
最後には、その声に感情が乗った。
そうか。
あの女は、私とすれ違う度に伝えようとしていたのか。
「大丈夫、大丈夫。」と。
憔悴
あの女は、呟きながら走っていた。
その後も何回もすれ違った。
あの女は遅くなっていった。
足音がして、呼吸が荒くなり、獣のような荒々しさが徐々に削がれていった。
年が明けてしばらく経った金曜日。
いつものように河川敷のサイクリングロードを走っていた。
何も考えずに、何も変わらずに。
あの女が、ゆっくりと歩いて来た。
背中が丸まり、歩幅も狭く、老女のように成り果てていた。
まるで地面を這いつくばる芋虫のように醜かった。
あの女が私に気が付いた。
10m、5m、3m、1m。
お互いに向かい合って立ち止まった。
俯いていた女がぼんやりと顔を上げた。
目深に被った黒色のキャップの下から女の目が見えた。
しばらく、お互いを見つめていた。
「疲れた。」
その女が疲れ切っていた。
無理矢理に微笑もうとしているようだった。
ただ、顔の筋肉が強張って能面のような表情が変わることがなかった。
もう、笑うこともできないか。
その目も。
哀れな芋虫。
女はゆっくりと這い出し、私の横を通過した。
なんだ。
そうだったのか。
私は走り出した。
もう振り返る必要はなかった。
ritual
金曜日の朝、自然に目が開く。
布団からゆっくりと出る。
何も考えない、感情の揺らぎを出さない。
淡々と儀式をこなすだけ。
冷蔵庫に行く、グラスに氷を乱暴に放り込む。
蛇口を捻って水道水を注ぐ。
それを机に置いてトイレに行く。
戻る頃には水がしっかりと冷えている。
水滴だらけになったグラスを掴んでゴクゴクと音を立てて飲み干す。
身体を強引に起動させる。
再び冷蔵庫に行って、グラスに氷を放り込み、水道水を注いで置く。
グラスが寒さで縮み上がる。
飲みかけだったサプリの容器は埃を被っていじけている。
外を眺める。
晴れ。
大して寒くない。
どんな天気でも走りに行く。
絶対に。
それだけは変わらない。
朝の静けさの中、箪笥から服を出して着替える。
前日から走りやすいショーツとスポブラはつけて寝ている。
どこのメーカーかわからないロンTとタイツ、ランニングソックスを引っ張り出して履く。
なんでもよい。
この時点で、いつも日焼け止めを塗っていないことに気がつく。
もう、面倒臭い。
いつものこと。
キャップを被る。
最近、唯一買ったランニンググッズ。
視界が狭くなって集中できる。
寒さで震えるグラスを掴む。
ガタガタするな。
今度は何回かに分けて、グビッ、グビッと音を立てて水を流し飲む。
アップは完了。
残った氷を何個か口に入れて、ガリガリと砕いて飲み込む。
内臓に刺激を入れる。
流しも完了。
ストレッチはしない、無駄だから。
走る準備が整う。
残った氷とコップをシンクに放り出した。
玄関で古びたナイキを履く。
これもいつ買ったか忘れた。
走るのに支障がなければ、何でもよい。
玄関を開けると、空は重く、暗く、寒々しい。
走るのに何も問題はない。
外に飛び出す。
一気にペースを上げる。
考えたら負け。
感覚だけに従って猛然と走る、はしる、ハシル。
街の景色などは見ない、必要がないから。
ふと、左腕を見る。
以前のくだらない癖が抜けない。
Garminをつけていたところだけが、白くなっており、日焼けしていない。
随分、Garminを見ていない。
どこに置いていただろう、忘れた。
あんなものに意味はないから。
限界までペースを上げる。
冷たい空気が肺にズドンと入って重い。
苦しい。苦しくない。
そんなことはどうでもよい。
無意味。
ただ、いつものコースを駆け抜ける。
淡々と、淡々と、何も考えずに。
いや、一つだけ、頭の中で繰り返している。
「大丈夫、大丈夫。」と。
これが私の金曜日の静かな儀式。
淡々と続けるだけ。
延々と続けるだけ。
オールライト
しばらく経った金曜日。
道の端で座り込んでいる女性がいた。
冬なのに、真夏のように汗をかいていた。
顎から汗が滴り落ちているのが見えた。
今までにすれ違ったことがあっただろうか。
覚えていない。
思い出す気にもならない。
視界に入ってきた。
靴底が剥がれてしまったらしい。
走れなくなって座り込んでいる哀れなランナー。
羽を捥がれた蝶。
なぜだろう。
鋭く睨みつけてきた。
汚いもの。
気持ち悪いもの。
そんなものを見るような目で睨んでいた。
何かに激しく苛立っているようだった。
そんな時もあったような気がする。
少しだけ、ほんの少しだけ、その女性に興味が湧いた。
すれ違う瞬間、私はその女性をチラリと見た。
そして、ふんわりと微笑んだ。
「オールライト、オールライト。」
『オンナ、ハシル、アサ。』は、全八話で完結しています。
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