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🌱100歳現役プロジェクト_精神・知性 🔯廓然無聖――達磨はなぜ「聖なるものなどない」と答えたのか


【プロローグ】

すみれ「導師、『廓然無聖』って、ずいぶん過激な言葉ですね」
導師「そうかのう」
すみれ「だって、『聖なるものなんかない』って意味でしょう?」
導師「だいたい、そうじゃ」
すみれ「お寺でそんなこと言って大丈夫なんですか」
導師「達磨は寺の広報担当ではなかったからの」
すみれ「スポンサーに怒られそうです」
導師「実際、皇帝との面談はあまり成功しなかったようじゃ」

■ 皇帝が達磨に尋ねた

禅の有名な逸話に、達磨と中国・梁の武帝との問答がある。
武帝は仏教を厚く保護した皇帝だった。
寺院を建て、僧侶を支援し、仏教の普及にも尽くした。
そこで達磨に尋ねた。
「私はこれまで多くの寺を建て、僧侶を助けてきた。どれほどの功徳があるだろうか」
達磨は答えた。
「無功徳」
功徳などない。
すみれ「えっ」
導師「なかなかの初対面じゃろう」
すみれ「皇帝ですよね?」
導師「うむ」
すみれ「もう少し言い方というものが……」
導師「禅は接客業ではない」

■ さらに武帝は尋ねた

武帝は続けて尋ねる。
「では、仏教における最高の真理とは何か」
達磨の答えが、
廓然無聖。
廓然とは、からりと開けて何も遮るものがないこと。
無聖とは、そこには「これこそ聖なるものだ」と特別扱いできるものなどない、という意味である。
すみれ「最高の真理を聞いたら、『聖なるものはない』」
導師「そうじゃ」
すみれ「禅問答って、質問した人が損をする仕組みなんですか」
導師「損をしたと思う心まで見られておる」

■ 達磨は仏教を否定したのか

ここで誤解してはいけない。
達磨は、
「仏教には意味がない」
「善い行いには価値がない」
「聖人など存在しない」
と言いたかったわけではない。
問題にしたのは、**人間が勝手に作る『聖と俗の区別』**である。
「これは尊い」
「これはくだらない」
「私は善いことをした」
「だから私は偉い」
そうやって世界を分類した瞬間、人はその分類に縛られる。
すみれ「寺を建てるのは善いことですよね」
導師「善い」
すみれ「じゃあ功徳があってもよさそうですが」
導師「『わしはこれだけ善いことをした。さあ何点じゃ』となった瞬間、少し匂いが変わる」
すみれ「善行のポイントカードですね」
導師「十個たまったら悟り一回無料、とはならん」

■ 「私は立派だ」が入った瞬間

武帝の行いそのものが問題なのではない。
達磨が切り込んだのは、
善いことをした自分を、善い人間として確定したくなる心
だったのかもしれない。
寄付をした。
人を助けた。
勉強した。
仕事をした。
毎日努力した。
そこまではよい。
ところが人間はすぐに、
「だから私は立派だ」
「だから評価されるべきだ」
「だから報われるはずだ」
と続けてしまう。
すみれ「努力しても褒めてもらえないんですか」
導師「褒めてもらってもよい」
すみれ「では?」
導師「褒められなければ腹を立てるようになると、少し怪しい」
すみれ「心当たりがあります」
導師「人類のかなり広い範囲にある」

■ 聖なるものを作ると、俗なるものも生まれる

何かを「聖なるもの」と決めれば、その反対側に「俗なるもの」が生まれる。
立派な仕事と、くだらない仕事。
価値ある時間と、無駄な時間。
成功者と、失敗者。
賢い人と、愚かな人。
若さと、老い。
だが禅は、その境界線そのものを疑う。
掃除をしている時間も人生。
茶を飲んでいる時間も人生。
失敗している時間も人生。
何者でもない時間も人生。
すみれ「つまり、特別な瞬間だけが人生ではない」
導師「そうじゃ」
すみれ「悟りを開いた瞬間だけが尊いわけでもない」
導師「その悟りを待ちながら飲んでおる茶が、もう冷めておる」
すみれ「まず飲め、と」
導師「禅は案外、実務的じゃ」

■ 「聖なる自分」を作らない

人は年齢を重ねるほど、自分の肩書きを増やしていく。
社長。
先生。
専門家。
成功者。
ベテラン。
人格者。
そうした肩書きは社会生活では必要である。
しかし、自分までその肩書きを信じ込み始めると窮屈になる。
「先生なのだから間違えてはいけない」
「ベテランなのだから知らないと言えない」
「年長者なのだから立派でなければならない」
その瞬間、自分で自分を「聖人」にしてしまう。
すみれ「聖人になるのも大変ですね」
導師「本人より周囲が大変じゃ」
すみれ「確かに」
導師「自分を偉いと思っている人ほど、扱いにくいものはない」

■ 廓然――からりと晴れた心

「廓然」という字には、広々として何の遮りもない感じがある。
あれが正しい。
これは間違い。
私は立派。
あいつは駄目。
成功。
失敗。
勝ち。
負け。
そうした札をいったん外してみる。
すると世界は、少し広くなる。
何かを成し遂げなくてもよいという話ではない。
努力をやめる話でもない。
努力はする。
仕事もする。
学ぶ。
鍛える。
人を助ける。
ただし、
それを材料にして「立派な私」という像を作りすぎない。
それが廓然無聖の軽やかさなのだろう。

■ 100歳現役と「無聖」

すみれ「100歳現役を目指すのも、『すごい老人になろう』と思ったら駄目ですか」
導師「駄目ではないが、疲れそうじゃの」
すみれ「ではどう考える?」
導師「今日やることをやる」
すみれ「普通ですね」
導師「禅は最後には、だいたい普通になる」
すみれ「100歳まで毎日?」
導師「朝起きて、学び、働き、身体を動かし、飯を食い、眠る」
すみれ「それだけ?」
導師「それだけを百年続けられたら、たいしたものじゃ」

■ 今日の禅

廓然無聖とは、「何も尊くない」という冷たい言葉ではない。
むしろ、
特別なものだけを尊いと思わなくてよい
という解放の言葉である。
善いことをしたなら、善いことをした。
学んだなら、学んだ。
人を助けたなら、助けた。
それ以上、自分の胸に勲章をつけなくてもよい。
すみれ「つまり、『私はこんなに立派です』と言わなくていい」
導師「うむ」
すみれ「では導師も、立派な禅僧ではない?」
導師「もちろんじゃ」
すみれ「ずいぶん簡単に認めますね」
導師「廓然無聖じゃからな」
すみれ「便利に使ってません?」
導師「それもまた、見抜かれたか」
聖人になろうとしなくていい。
ただ、その場でやるべきことをする。
もしかすると達磨が言いたかったのは、
悟った人になることではなく、悟った人という看板さえ必要なくなるほど自由になれ
ということなのかもしれない。

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