耳を澄ますと聞こえるもの(耳ビジnote部)
原稿が止まると窓を開ける癖がある。車の音が引いた時刻でも、外は無音ではない。どこかの換気扇、電線をなぶる風、遠い踏切。静けさとは音が消えた状態ではなく、大きな音が退いたあとに残る細かな層のことだ。そんなことを考えながら、手元の記事を読んでいた。
2023年3月、学術誌『Cell』に載ったテルアビブ大学の研究である。トマトやタバコは、水を絶たれたり茎を切られたりすると、短いクリック音を発する。音量は人の会話と大差ない。ただ周波数が40〜80キロヘルツと高く、16キロヘルツあたりが限界の人間の耳には届かない。3〜5メートルの範囲なら、コウモリやガには聞こえている可能性があるという。
もうひとつ、見過ごせない数字がある。水を与えられた株が出す音は1時間に1回に満たない。渇いた株は、同じ1時間に数十回鳴く。つまり、あの音は独り言ではない。困っているときにだけ出る声だ。
畑は静かなのではない。私たちが聞けないだけである。しかも聞けていないのは、いちばん切実な声のほうなのだ。
この話の眼目は、植物が喋るという点にはない。人間の耳の性能が、世界の広さを勝手に決めていたという点にある。聞こえないものは、長いあいだ「ない」ものとして処理されてきた。超音波マイクという道具が現れて、はじめてそこに音があったとわかった。逆にいえば、道具のまだ届かない領域では、今も何かが鳴りつづけているのだろう。
人の世でも同じことが起きている。会議で黙っている人を、意見のない人として片づける。あれは声がないのではない。こちらに受信の帯域がないだけだ。断りきれずに引き受けた仕事、飲み込んだ不満、言いかけてやめた一言。どれも音は出ている。トマトと同じで、出ているのはたいてい、困っているときだ。拾う側の性能が足りないのである。
本を紹介してきて思うのは、いい本ほど声が小さいということだ。派手な帯や刺激的な見出しは、人間の可聴域に合わせて設計されている。だから届く。一方、著者が本当に言いたかったことは、章の途中の地味な一文に埋まっている。読み飛ばしても支障がない。だから、読み飛ばされる。
耳を澄ますとは、静かにすることではない。自分の側の帯域を、少しだけ広げてみることだ。木の声を聞く装置は持っていない。それでも、人の小さな声を拾う余地なら、まだいくらか残っている気がする。
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