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人生の花を探す旅へ~風の丘キャリアプラン講座~


    #創作大賞2026 #ビジネス部門

    キャリアプランをつくる前に

    こんにちは。
    土曜日の午後という、ふつうならのんびりしたり、美味しいお店にでもいって楽しい時間を過ごすはずの休日のこの時間に、わざわざお集りいただきましたこと、心から感謝申し上げます。
    今日のこれからのプログラムは、キャリアプランです。
    これまで学校や企業でキャリアプランを作成したことがある人はいますか?

    A 高校生のとき、つくった記憶があります。あと大学でも、ちょっとやったかな…。あまり、覚えていませんけど…

    B はい。私は、いまいる会社で、もう何度も…(笑)。ウチの会社は製造業ですけど、営業にするとか、製造にまわりたいとか、わりと選べるんです。海外にも支社があるので、海外にいきたいとか。一年に一度は、少なくともつくりますね。

    どんな内容でしたか?

    B フォーマットがあります。5年、10年といった中長期的なプランをたてて、そこから、それを達成するためにどう行動するかのアクションプラン完成させていく、みたいな感じですね。

    A わたしは、もう遥か前のことなので(笑)、忘れました…。高校のときは、進学するか、就職するかみたいな、そんなことを書かされた記憶があります。

    ありがとうございます。
    だいたい、それがベーシックなキャリアプランだと思います。大まかな方向性を決めて、具体的に今日から何をどうするか、とかんがえを進めていって、計画に落としていく。
    ただ、風の丘のキャリアプランは、根本的に異なった発想からプランをつくっていきます。それで、中心的なテキストになるのがこれです。

    『風姿花伝・花鏡』(世阿弥)。


    世阿弥の『風姿花伝』との出会い

    この本、知ってました?

    C 私は演劇が好きなので、若い時から読んでいます。偶然、風の丘のX(旧Twitter)を見ていたら、『風姿花伝・花鏡』でキャリアプランをつくると知って、すぐに申し込みをしました。

    ありがとうございます(笑)。

    B 私は歴史が好きで、世阿弥という人物に興味があります。いろいろと謎が多い人物で、最後もどうなったかよくわかっていないそうですし。今日は楽しみにしてきました。

    Bさんは、宇都宮からわざわざお越しいただきました。本当にありがとうございます。

    B 栃木県にいると、なかなか世阿弥についてなんて、話せる場所がありませんからね(笑)。

    もう、まったく(笑)。
    世阿弥については、歴史的にも興味深い人物ですが、今日はあまり深入りせず、伝説的な能楽師、というくらいでおさめておきましょう。
    能楽師もいまひとつピンとこないようなら、役者でいいと思います。現代風で言うなら、三船敏郎さんとか高倉健さんとか、そんなイメージでいいと思います。

    そんな伝説の役者が記した、優れた演技ができるようになるための心構え、そして訓練法をあますところなく書き、実際に直系の弟子しか読むことが許されなかった、まさに秘伝の書が、この『風姿花伝・花鏡』です。
    この本は、本当に名言ばかりなんですよ。「秘すれば花」とか、「初心忘るるべからず」とかね。

    読めば読むほど、味わい深い。
    個人的な感想では、何百年に一冊の本だと思います。


    我見・離見・離見の見

    それで、今日は何をするかですが、まず3つの言葉を書いてみます。

    「我見」 「離見」 「離見の見」

    ざっと、最初に解説しますね。
    いま自分が、俳優として演劇の舞台に立っていると思ってください。
    まず、自分の眼には、多くのお客さんが見えていると思います。この自分から見ている視点を「我見」と言います。

    そして、お客さんの視点。お客さんの眼には、俳優である自分が映っている。このお客さんの視点を「離見」。
    と、ここまではなんとなくわかると思います。
    平たく言えば、自分と他人の視点です。

    世阿弥は、優れた俳優になるには、この二つの視点だけではだめだよ、と言っています。
    そこで世阿弥が、特に強調するのが「離見の見」。
    簡単に言えば、自分の心を客席に置いて、まるで客が自分を見るような視点で、わが身を見直せ、ということです。
    ここはとても重要なところなので、直接読んでみます。


    自分の後ろ姿は見えているか

    『観客席から見る役者の演技は、客体化された自分の姿である。つまり自分の意識する自己の姿は、我見であって、けっして離見で見た自分ではない。離見という態度で見るときには、観客の意識に同化して自分の芸を見るわけであって、そのとき、はじめて自己の姿というものを完全に見きわめることができる。自分の姿を見きわめることができれば、前後左右、どこだって完全に見るわけである。けれども自分の眼で自分の姿を見れば、目前と左右とだけは見られるが、後姿はわからない。自分の後姿が感じ取れなければ、たとえ姿に洗練を欠く点があっても、よくわからない。
    だから、いつも離見の見をもって、観衆と同じ眼で自己の姿をながめ、肉眼では見えない所までも見きわめて、身体ぜんたいの調和した優美な姿を完成しなければならない。(中略)どこまでも、離見の見ということをよく理解体得し、「眼は眼自身を見ることができない」筋あいを腹に入れて、前後左右を隈なく心眼で捉えるようにせよ。そうすれば、花や玉のように優美な芸を理想境に到達することは、はっきり立証されるであろう』(小西甚一訳)

    これだけを読んでも、世阿弥がとても「離見の見」を重視していたことわかります。
    まずはこの「離見の見」。
    この言葉を、理解しておいてください。


    世阿弥が語る「花」とは何か

    今日のキーワードの二つ目は、「花」。
    先ほど引用した文章でも「花や玉のように優美な芸」とありましたが、世阿弥が役者にとって最も大切なものが、この「花」なのです。

    では、世阿弥の言う、「花」とは何か?
    世阿弥に言わせれば、能楽の役者というのは、「花」を究めること以外にはない、という言い方をしています。「花」を究めることが究極の目的なのだと。
    しかし、植物の「花」には散る時期、枯れる時期があるのと同様、一見すると役者の「花」にも、時期があるだろうとかんがえるの普通だ。

    若いときは、それこそ華々しい輝きを帯びていた人が、歳をとるにつれて輝きを失い、枯れ木と同様になってしまう。
    これは役者だけではなく、僕たちの身近な人でもいますよね。
    若いときはものすごく輝いていたのに、歳をとるにつれて、あれれ?、となっていくという(笑)。
    ところが世阿弥はそうじゃないというんです。


    若さではなく、育まれる花

    「ただ真の花は、咲くわけも散るわけも、心しだいである。それで、久しく花を保つことができるのである」

    世阿弥は別のところでも言っていますが、若いときに人気が出てしまうと、自分の「花」を勘違いしてしまう役者がいる。
    ただ若いから華々しいように見えているだけなのに、それを自分の「花」だと思ってしまうヤツがいる、と。

    世阿弥のいう「花」とは、そうではなく、日々の稽古の中で培われるものだ。
    だから、10代では10代の「花」があり、20代では20代の「花」がある。50代には50代の「花」があり、70代には70代の「花」があるんだと。
    だから、「心しだい」なんだというわけです。

    このあたりの世阿弥の見解、いかがですか?

    A あの~、自分はもう50代でして(笑)…。やっぱり若い子をみると、ときどき、何とも言えない、まぁ、焦りというか、やるせなさ、みたいなものを感じるときがあるんです。ぜも、こんなふうに、50代には50代の「花」がある、と言ってもらえると、あ、がんばろう、という気持ちになりますね(笑)。

    B いまのお話、会社にいると、とてもよくわかります。若いときは調子がよかったけど、途中でダメになっちゃう人と、若いときはそんなにパッとしていなかったのに、歳をとってから、すごくオーラというか、雰囲気がよくなる人と。「花」と言われれば、そうかなと思う。

    C 役者も、そうですよ。若いだけの役者は、その時期を終えれば、もうおしまいですからね。私は、樹木希林さんが好きですけど、彼女は本当に、歳をとればとるほど、華やかとなっていった。

    その点で言えば、僕は作家であり、デザイナーでもある、宇野千代さんが好きです。
    宇野さんは、まさに死の間際まで、もっと言えば、亡くなってからも、ずっと自分という「花」を咲かせ続けた。
    「花」は年齢ではない、というときに、樹木希林さんや宇野千代さんは、具体的にわかりやすいと思いますね。


    人を幸せにする力としての花

    なんとなくみなさん、「花」のイメージはついてきたみたいですね。
    ちなみに、世阿弥はこんなことも言っています。

    「すぐれた役者で万人が認めるほどの人は、どんな芸態を演じても、おもしろいはずである。芸態や演じかたは、それぞれ別だが、おもしろいという点は、いずれも共通なのである。この『おもしろい』と感ずるところが、すなわち『花』である」

    つまり、「花」というのは、自分がそう思っているだけじゃ、「花」じゃないんだよ、それをお客さんが「おもしろい」と感じてもらえるかどうかなんだと。
    要するに、「花」は自己満足じゃだめで、周囲の人を幸せにするものだ、ということです。

    これは、すごく重要な着眼点だと思います。
    自己紹介などで、よく自分の長所や強みを言わされますけど、世阿弥に言わせれば、周囲の人を幸せにできない長所や強みなんて、意味があるの?ということになると思います。


    なぜ風の丘は「花」を探すのか

    そこで今日のテーマですが(笑)、前口上が長かったですか(笑)…、ごめんなさい。
    そうです、自分の内なる「花」を探しましょう、ということです。

    キャリアプランと言って、これからのことをかんがえましょうと言ったって、自分がこれから、自分のどこを育てていくべきなのかがわからなければ、そもそも、どうやってこれからをプランニングしていいのか、わからないでしょう?
    だからまず「花」。
    自分の内にあり、人を幸せにする「花」を見つける旅にでましょう。


    人生という舞台、死者という観客

    じゃあ、どうやって「花」を見つければいいのか?
    ここで思い出していただきたいのが、先ほどの「離見の見」です。
    ただちょっと、工夫をしてみましょう。
    先ほど、自分の見方である我見、客の見方である離見、自分を客の立場に置き、客の立場に置いて自分をみる見方を「離見の見」と言いました。

    世阿弥の書は、あくまでも能楽の書ですから、能の舞台を前提して書かれています。
    ここで飛躍するようですが、では僕たちにとって舞台とは、どんな舞台でしょうか?
    簡単に言ってしまえば、人生という舞台、いまこうして生きている、「生」の舞台ということになると思います。

    ではそのときお客さんとはどんな存在か?
    ちょっとびっくりするかもしれませんが、あえて「死者」と呼ばせていただきます。
    じつは能という舞台は、死者の視線でこの生の世界を眺めるという構造になっているんです。
    この能の舞台を一つの世界観のヒントとして、いまを生きる僕たちの舞台を構想してみます。


    死者として、自分の後ろ姿を見つめる


    ここから浮かび上がるイメージは、まさに生の舞台に臨在している私が、死者の前で踊る舞踏。
    それがまさしく人生なのです。

    このときの我見とは、死の世界である客席を見ている見方。
    離見とは、客である死者の見方。
    では、離見の見は、どうなるか?
    いったん、自分を死の側に置き、そこからいま生きている自分を眺める視線。

    言ってみれば、まさに死者としての自分。
    死者としての自分とは、どのような存在か?
    生活の不安や人間関係の葛藤など、現世の苦しみから解き放たれた自分です。
    そして、先ほどの世阿弥の言葉によれば、離見の見を用いて自分のどこを見るかと言えば、「後ろ姿」ということだった。

    まとめてみると、現世の苦しみから解き放たれた死者としての自分が、いままさに生の苦悩の最中にいる自分の後ろ姿を見つめている。
    これが、風の丘のキャリアプランの肝となります。



    私は何を大切に生きてきたのか/自分の花を見つける旅へ

    ここからワークとなります。
    お渡しした紙に、5歳の私、10代の私、20代の私、30代の私、と書いてあります。
    死者としての私が、そのときどきの私の後ろ姿を見て、そのときの私にどんな言葉を投げかけますか?

    そして、改めてここまでの私の後ろ姿を眺めながら、自分がこれまで何を大切にしてきたのか、ゆっくりと思い返してほしいのです。
    そのときどきでは気づかなかったけど、じつは自分が秘かに大切にしてきたこと。

    それが私の「花」ということになります。
    では、はじめてみてください。


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