
東の果ての月の下に
作 Mellow
あらすじ
——半世紀を彷徨った、一枚のレコードをめぐる物語。
雨の夜、わたしは、一枚の古いレコードと出会う。
誰かが誰かと生きた時間の名残のようなその一枚から、
止まっていた物語が、静かに動き出す。
過ぎ去った時間を、レコードが紡ぐ一つの物語。
月夜のように透明で切ない現代ファンタジー。
* * *
東の遥か、果ての時を待つ、月の透き通る夜に。
* * *
序章 傘がない
その夜、雨は朝から降り続いていて、止む気配がなかった。
六月の雨は、夏のそれみたいに激しくはない。ただ、しつこかった。朝に降りはじめて、昼を過ぎても、夜になっても、同じ強さで、同じ音で、街を、ぬるく濡らしつづけていた。空に、表情がなかった。怒ってもいないし、泣いてもいない。ただ、降る事だけを、淡々と続けている。そういう雨が、わたしは、嫌いじゃなかった。何も要求してこないから。
バイトを上がったのが、九時過ぎ。
駅前の、二十四時間やっているファミレスで、わたしは皿を下げたり、注文を運んだりしている。誰とも、深く話さない。話さなくても、できる仕事だから選んだ。店長も、同僚も、わたしの事は、苗字でしか呼ばない。それでいい。下の名前で呼ばれると、なんだか、胸がざわつく。何事も起こらないように、わたしは、いつも気をつけている。
雨の夜は、客が少ない。早めに上がっていい、と言われて、外に出た。
コンビニの灯りだけが、妙に白かった。そのほかの街はぜんぶ、雨に溶けて、輪郭をなくしていた。信号の赤も、青も、濡れたアスファルトの上で、滲んで、長く尾を引いている。わたしの傘は、骨が一本折れていて、左に傾く。だから、左の肩が、いつのまにか濡れていた。べつに、どうでもよかった。濡れた所で、困る人なんて、いない。わたしが濡れて帰っても、心配する人は、いないのだ。
帰り道に、いつもは素通りする、中古レコード屋の灯りがついていた。
「全品千五百円」と、段ボールに手書きされた札が、店先で雨に滲んで、青く流れている。古いビルの一階の、間口の狭い店。こんな時間に、こんな雨の日に、開いているのが不思議なくらいだった。なんとなく、吸い込まれるように、わたしは中に入った。理由は、なかった。理由のない事ばかり、わたしはする。理由のある事のほうが、わたしには、難しい。
店の中は、カビと、紙と、古い埃の匂いがした。
店主らしい老人が、奥のレジで、舟を漕いでいた。客は、わたし一人。狭い通路の両側に、レコードがぎっしりと、背を並べていた。誰かが、好きで、買って、何度も聴いて、やがて飽きて、あるいは死んで——こうして手放された、誰かの時間たち。一枚一枚に、知らない人の、知らない夜が、仕舞われている。そう思うと、棚全体が、巨大な、墓地みたいにも見えた。静かで、優しい、墓地。
指で、背を撫でていく。ジャケットの、すり切れた角。色の褪せた文字。やがて、一枚が、指に引っかかった。
井上陽水の、古いレコードだった。
歌手の名前は、知っていた。曲は、たぶん、どこかで聞いた事がある。けれど、ちゃんと聴いた事は、なかった。ジャケットの角が擦り切れて、白く毛羽立っている。隅に、小さく、印字された年。一九七二年。わたしが生まれるより、三十年以上も前。わたしの母が生まれるより、たぶん、前。
なぜ、そのレコードを選んだのか、自分でもわからない。ただ、手が、離れなかった。
千円札と五百円玉を一枚、レジの脇にそっと置いて、店を出た。店主は、最後まで、起きなかった。
部屋に帰って、濡れた上着も脱がずに、わたしは、レコードに針を落とした。
プレーヤーは、去年、リサイクルショップで買った、安物だ。ろくに使っていなかった。針を落とすと、ぱちぱちという、雨だれみたいなノイズが、しばらく続いた。それから、その声が、流れてきた。
古い録音のはずなのに、すぐ隣で歌っているみたいに、近かった。
世界には、もっと大きな問題が、いくらでもある。死んでいく若者の事も、うまくいかない世の中の事も。歌は、そう歌っていた。だけど、今夜の、いちばんの問題は——そういう大きな事じゃなくて。傘が、無い事。たった、それだけ。
〈行かなくちゃ〉
その一行の所で、わたしの手が、止まった。
なぜだか、息が、うまく吸えなかった。胸の奥の、ずっと錆びついて、動かなかった蝶番が、軋む音を立てて、開きかけた。〈行かなくちゃ〉わたしは、その言葉が——昔から、どうしても、きらいだった。耳にすると、体のどこかが、ギシ、と鳴る。理由は、ある。でも、思い出さないように、している。思い出すと、たぶん、立って居られなくなるから。
わたしは、針を上げて、もう一度、その曲の頭に戻した。何度か、聴いた。行かなくちゃ、って言う言葉を聴くたびに、蝶番は、少しずつ、軋んだ。
針が規定コースの軌道を芯まで辿り着いて、レコードを裏返した。曲順を確かめようとジャケットのライナーノーツを引っ張り出した時、
それに、気づいた。
ライナーノーツの、いちばん端の、余白。印刷された活字の上に、青いインクの、手書きの文字が、滲んでいる。万年筆だろうか。半世紀ぶんの時間で、紙に溶けて、にじんで、それでも、まだ、読めた。
《好きだった君へ》
その下に、もう一行。
《一九七四年、十八歳》
心臓が、変なふうに鳴った。
誰かが、誰かに宛てて、書いた文字だった。半世紀前の、知らない誰かの、たぶん、いちばん柔らかい所。本棚の奥にしまった日記を、勝手に開いてしまったような、後ろめたさ。盗み見てはいけないものを見た気がして、わたしは、ジャケットに仕舞おうとした。
その指が、ジャケットの奥底の、別の感触に、触れた。
ライナーノーツを、丁寧にジャケットに押し戻したその先に、一通の封筒が、挟まっていた。
薄い、ずいぶん黄ばんだ封筒。中には、四つ折りの便箋が、一枚。表には、同じ青いインクで、住所と、宛名が、書いてあった。少し癖のある、けれど、丁寧な字。古い書き方の、町名。番地まで、きちんと。そして、その下に。
《仁奈子さんへ》
裏を返しても、差出人の名前は、どこにもなかった。
封は、されていなかった。
糊づけも、切手もない。ただ、封筒の口が、開いたまま。便箋を開けば、半世紀前の誰かが、誰かに、いちばん言いたかった事が、ぜんぶ、わかる。
なのに——わたしは、開けなかった。
指は、折り目にかかっていた。けれど、そこから先に、動かなかった。
なぜ、この人は、封をしなかったんだろう、と思った。読まれても、いいと思ったのか。それとも——封をしてしまったら、もう、永遠に渡せなくなる気が、したのか。糊で閉じるというのは、たぶん、けっこうな、覚悟がいる。閉じた瞬間に、それは「いつか、渡すもの」になってしまう。渡せなければ、ずっと、責められる。でも、開いたままなら、まだ、迷っていられる。渡すか、渡さないか、今日じゃなくても、いい。明日でも、来年でも。
迷ったまま、この手紙は、五十年以上、彷徨い続けてきたのだ。
誰の手にも渡らず、レコードに挟まったまま。誰かの本棚から、誰かの本棚へ。中古屋から、中古屋へ。持ち主が、何人も入れ替わって、それでも、誰も、中を開けなかった。開けるほど、誰も、その手紙に、関心がなかった。または、開けた人の優しさが、そのまま次の人へ引き継がれたのか。そして今夜——千五百円の値札をつけられて、わたしの所に、流れ着いた。
封筒の表の、その住所。たぶん、宛先の——仁奈子さん、という人の、家。
わたしは、しばらく、その住所を、見つめていた。スマホの地図に、打ち込んでみる。すぐに、青い点が、灯った。歩いて、二十分ほど。電車に乗るほどでもない、近さだった。
雨は、まだ、降っていた。窓の外は、墨を流したみたいで、月も、星も、見えない。
けれど、わたしの頭の中では、さっきの一行が、消えずに、鳴り続けていた。行かなくちゃ。行かなくちゃ。あれほど、きらいだった言葉が、今夜にかぎって、まるで、別の意味みたいに、響いた。
届けに、行かなくちゃ。
と、思った。
筋の通らない話だと、自分でも、わかっている。五十二年前の、知らない人が、知らない誰かに宛てた手紙。仁奈子さんという人は、もう、この住所には、いないかもしれない。生きているかどうかも、わからない。届けた所で、誰も、わたしに、頼んじゃいない。誰も、わたしを、待っていない。
それでも——無性に、そう思った。
たぶん、わたしは、ずっと、誰かに、会いに行きたかったのだ。行けなかった。言えなかった。会いたい、と思う事すら、自分に、許してこなかった。だから、せめて。他人の、言えなかった言葉くらいは。宛先まで、連れていって、やりたい。
そんなふうに、その夜のわたしは、自分でも気づかないまま、思っていたのかもしれない。
立ち上がって、脱ぎかけていた、まだ濡れている上着を、もう一度、羽織った。傘立ての、骨の折れた傘は、置いていく事にした。
どうせ、もう、濡れている。これ以上、濡れたって、同じだ。
部屋を出る前に、癖で、窓から、空を見上げた。雲ばかりで、月は、見えない。けれど、見えないだけで、たぶん、ある。あの人が、そう言っていたから。——見えない夜も、お月さまは、ちゃんとそこにいるんだよ。新月でも、雨でも。見えないだけで、いなくなったわけじゃ、ないの。
ルナ。わたしの名前。月、という意味だと。けれど、その名前が、本当に、自分のものなのか、わたしは、もう何年も、わからずにいる。あの人が置いていった名前を、ただ、借りているみたいに。預かったまま、持ち主の現れない、落とし物みたいに。
ドアを開けると、雨の匂いが、流れ込んできた。土と、アスファルトと、夜の匂い。五十二年前の誰かも、こんな夜に、傘も差さずに、歩き出したのだろうか。同じ、雨の匂いを、嗅いだのだろうか。
行かなくちゃ。
わたしは、雨の中へ、出た。
* * *
1 雨の路地、黒猫
雨の中を、わたしは歩いた。
地図の青い点を頼りに、川沿いの道を行く。歩いて二十分ほどの距離が、夜の雨の中では、妙に遠く感じられた。街灯は、等間隔に、濡れた歩道を照らしている。その光と光のあいだの暗がりを、わたしは一つずつ、踏み越えていった。手紙は、上着の内ポケットの、いちばん奥。濡らしてはいけない気がして、出かける前に、ビニールで、ていねいに包んできた。半世紀、誰にも濡らされなかったものを、いまさら、わたしが濡らすわけには、いかない。
着いてみると、そこに、家は、なかった。
正確には、家の、あった場所、というべきだろう。コインパーキングに、なっていた。アスファルトに引かれた白い線が、雨に濡れて、てらてらと光っている。何台かの車が、無言で停まっていて、精算機の青いランプだけが、誰も乗せていない夜の上で、無意味に、点滅していた。番地は、合っている。スマホと、封筒の住所を、何度も、見比べた。間違いない。けれど、五十二年前、ここに立っていたはずの建物は、もう、跡形も、なかった。
当たり前だった。半世紀、なのだ。人が引っ越し、家が壊され、土地が、まったく別の何かに変わるには、じゅうぶんすぎる時間だった。わたしの母が消えてから、まだ十一年。それでも、わたしの中の景色は、もう、ずいぶん変わってしまった。半世紀あれば、きっと、何もかもが、変わる。残るもののほうが、おかしいくらいに。
それでも、わたしは、しばらく、そこに突っ立っていた。雨が、フードの上を、ぱたぱたと叩いていた。
ばかみたいだ、と思った。
知らない人の、知らない誰かへの手紙を、雨の夜に、駐車場まで届けに来た。届ける相手の家は、もうない。ここから先、どうしたらいいのか、何ひとつ決めていない。わたしはいつもそうだ。衝動だけで歩き出して、その先の事を考えない。考えた所で、どうせ、行きたい所なんて、どこにもなかったから。
帰ろう、と思って、踵を返したときだった。
足元に、ふと、何かが、すり寄った。
黒猫だった。
雨の中だというのに、その毛は、ほとんど濡れていなかった。まるで、どこか、雨のかからない場所から、たったいま、歩いてきたみたいに。街灯のオレンジを弾いて、目だけが、金色に、光っていた。猫は、わたしを見上げて、一声、短く鳴いた。それから、当然のように——まるで、ずっと前から、そう決めていたみたいに——すっと、路地のほうへ、歩き出した。
二、三歩進んで、立ち止まる。振り返る。金色の目が、わたしを見る。まるで、「ついてこないの」と、言うように。
ついていく理由なんて、なかった。
なかったけれど、わたしは、ついていった。理由のない事ばかり、わたしはする。それに——どうせ、行く先なんて、決めていなかったのだ。誰もいない駐車場の前で、途方に暮れているよりは、濡れない猫の背中を追っているほうが、まだ、ましな気がした。
黒猫は、迷いなく、路地を抜けていった。表通りから一本、中へ入ると、街は、ぐっと古くなった。褪せた看板。下りたままのシャッター。錆びた室外機が、低く唸っている。雨の音だけが、両側の壁にこだまして、二重に、三重に、重なって聞こえた。黒猫は、ひらひらと立てた尻尾を揺らしながら、濡れた路面に、小さな肉球の跡だけを、点々とわたしの前に残して行った。一歩ついていくたび、その跡は、後ろのほうから、雨に溶けて、消えていった。来た道は、もう、引き返せない。なぜだか、そんな気が、した。
路地の、突き当たり。
そこに、灯りが、あった。
一軒だけ、灯っている店。すりガラスの嵌まった木の扉に、内側から橙色の光が滲んでいる。古い喫茶店だった。庇の下に、手書きの木の看板。雨で半分濡れた文字。喫茶「月」。
黒猫は、その扉の前で猫背を伸ばしてこちらに向き直り、わたしを待っていた。
扉の前に着くと、内側から先に開いた。
黄色い傘を手にした女の子が、わたしと鉢合わせた。雨に濡れた立て看板を、仕舞いに出たのだろう。エプロンをつけている。同い年か、少し下くらい。前髪が、まっすぐに切りそろえられている。彼女はわたしを見て、それから足元の黒猫を見て、少しだけ目を見開いた。
「クロ」と、彼女は、足元の猫に呼びかけた。「あんた、お客さん、連れてきたの?」
わたしは、何も答えられなかった。連れてこられた、というのが正しいのか、自分でもわからなかったから。
「うちの子なんだ」と彼女は言って、しゃがみこんだ。黒猫は、彼女の手にも、わたしの濡れた足にも、等しく頭をこすりつけた。「っていうか、勝手に住み着いてる子。」
彼女は笑った。雨の音の中で、彼女の声だけが、やけにくっきりと聞こえた。
「ここ、おばあちゃんがやってた店。いまは、ママとわたしが継いでて」彼女は、店の中を指した。「喫茶『月』。……もう看板下ろす所だったけど、入る? すごい濡れてるし」
断る理由は、やっぱりなかった。
店の中は、時間が、止まっていた。
そう、感じた。古いけれど、荒れては、いない。きちんと手入れされて、大切に、古びている。長く使い込まれた、木のカウンター。革の擦り切れた、丸いスツールが、いくつか。壁の一面は、天井近くまで、レコードの棚で、埋まっていた。その上の段には、額に入った、何枚かの写真。どれも古いものらしく、背表紙がセピアに、褪せている。天井からは、傘のかたちをした、琥珀色のランプが、ひとつ、下がっていた。コーヒーの匂いと、古い紙の匂いと、雨に湿った木の匂いが、混ざりあって、低く、沈んでいる。
ここだけ、外の時間と、切り離されているみたいだった。雨も、夜の街も、わたしのこれまでの二十年も、ぜんぶ、あの木の扉の外に、置いてきたみたいに。
彼女は、遥、と名乗った。「みんなに、そう呼ばれてるだけ、だけどね」
「あなたは?」
訊かれて、わたしは少し黙ってしまった。名乗るのが、なぜだか、うまくできなかった。母の置いていった名前を口にするのは、その名前を本当に自分のものだと認めるみたいで、怖かった、のかもしれない。
「言いたくないなら、いいよ」遥は、あっさり笑った。「適当に呼ぶから」
それきり、彼女はわたしの名前を訊かなかった。慣れた手つきでタオルを渡すと、カウンターの内側に戻り、やがて、湯気の立つカップが、わたしの前に置かれた。頼んでいない。
「サービス。こんな夜に、傘もなしで来る人、クロのお客さん、だから」
わたしは、両手で、カップを包んだ。冷えきった指に、熱が、痛いくらいに、沁みた。
ひとくち、飲む。ミルクが、多めだった。甘くて、柔らかくて、いつか、ずっと昔に、誰かに淹れてもらった何かみたいな、味がした。なぜだろう。鼻の奥が、つんと、した。
黒猫は、カウンターのいちばん左端のスツールに、ひらりと飛び乗った。そこだけ、座面の革が、ほかより深く色が変わっている。何十年も、誰かが——あるいは何かが——座り続けてきた席みたいに。
「あの子、いつもそこなんだ」と、遥がカウンターの中から言った。「ほかの席にも座れるのに、ぜったいそこ。奥の窓のほう、向いてさ。なんか、誰かを待ってるみたいでしょ」
黒猫は、窓の外の雨を、背中を丸くして、じっと見つめていた。
わたしは、内ポケットの手紙の事を、言おうか迷っていた。五十二年前の手紙を、突然取り出すのは、なんだか、間違っている気がした。
代わりに、壁のレコード棚を見た。背表紙を、ひとつひとつ。古い日本のフォークが多い。その中に、見覚えのある一枚を見つけて、心臓が小さく跳ねた。井上陽水。けれど、わたしの買った、あの一枚とは、別の。
「ねえ、音楽、好き?」
「……うん」わたしは、小さく頷いた。「今夜、たまたま。レコードを、一枚買って」
「へえ。何買ったの?」
言おうとして、やめた。その一枚に挟まっていたものを、届ける為に来たなんて、きっと、おかしい。あるいは——もう少しだけ、この、時間の止まった店に居たかったのかもしれない。雨は止まない。帰る理由も、相変わらず、ない。
遥はそれ以上聞かず、布巾でカウンターを拭きはじめた。黒猫は、窓の外を見続けていた。琥珀色のランプの下で、わたしは、温かいカップを、ただ握っていた。
壁のねじ巻き時計が、こつ、こつ、と、時を刻んでいた。やがて、針が、十時を回って鐘がなった。
その音だけが、店の静けさを、いっそう際立たせていた。
* * *
2 一九七二年の写真
雨は、一向に、止まなかった。
入り口の横の窓ガラスを、いく筋もの雫が、下りていく。ひとつが、別のひとつに追いついて、ふたつになって、また下りていく。わたしは、それを、ぼんやり、目で追っていた。
帰るに帰れず、コーヒーを、もう一杯、おかわりした。遥は、嫌な顔ひとつせず、二杯目も、ミルクを多めにして、出してくれた。「これ、おばあちゃんのやり方」と、彼女は言った。「冷えてる人には、ミルク多め」。
店は、静かだった。レコードは、かかっていない。ただ、雨の音と、壁の時計の音と、遥がグラスを拭く、かすかな布の音だけが、低く、重なっている。その静けさが、心地良かった。誰も、わたしに、何も、訊かない店。
手持ち無沙汰に、わたしは、カウンターの壁を見ていた。レコード棚の、その上の段に、額に入った写真が、何枚か、飾られている。どれも古い。セピアに焼けたもの。白黒のもの。眺めるともなく、眺めているうちに——その、一枚に、目が、留まった。
カウンターを写した、モノクロの写真だった。
いまわたしがいる、この店のカウンター。木目も、奥の棚の配置も、天井から下がる傘のかたちのランプも、何ひとつ変わっていない。違うのは、そこに写っている人たちだけだった。
心臓が、ことりと音を立てた。
写真の中で、ふたりの若い男女が笑っていた。カウンターの内側に、エプロンをつけた女の人。たぶん、十六か、十七。きれいな人だった。笑うと目が細くなる、やわらかい笑い方をする人。そしてカウンターの外側、スツールに腰かけた青年。痩せて、髪が少し長くて、照れたみたいに半分だけ笑っている。手には、レコードのジャケットを持っていた。
そして——スツールのいちばん端。左側の窓のほう。
黒猫が、丸くなっていた。
いま、まさに同じ場所で、同じように丸くなっている、あの黒猫と。区別がつかないくらいだった。
「それ、おばあちゃんだよ」と、遥が、写真をのぞきこんで言った。「若いころの。笑い方、いまのママと、そっくり。——この店ね、もともとは、おばあちゃんのお父さんが始めたの。喫茶『月』。野菜と果物だけでコトコト煮込んだカレーと、ハンバーグが名物でさ。それを、おばあちゃんが継いで。」
「おばあちゃん——仁奈子っていうの。仁に、奈良の奈に、子。可愛い名前でしょ」「六年前に、亡くなったの。コロナで。あっという間だった。わたし、まだ中学生だったな」
仁奈子。
その名前に、わたしは、息を、飲み込んだ。手紙の、宛名。《仁奈子さんへ》。——同じ、名前だ。でも、口にして、確かめるのが、怖かった。
六年。十一年でも、五十二年でもなく、六年。手の届きそうな近さで、その人は、居なくなっていた。
「おばあちゃん、シングルマザーでね」と、遥は続けた。片付け物をする手は、止まっていた。「ママを、一人で育てたの。ママは、自分のお父さんが誰なのか、知らないんだって。おばあちゃん、昔の事、ほとんど話さない人だったから」
遥は、写真の中の、もう一人に目をやった。仁奈子の隣で、半分だけ笑っている、痩せた青年。
「この人が誰なのかも、わたし、知らないの。何回か聞いたんだけど、おばあちゃん、いつも笑ってごまかしてた」
ポケットの中の手紙が、急に重くなった気がした。
わたしは、迷った。さっきまで、見せるのは間違っている気がしていた。でも、いまは逆だった。ここで見せなければ、たぶん、永遠に間違える。そんな気がした。
「あの」わたしは、内ポケットから、ビニールに包んだ封筒を取り出した。「これ、変な話なんだけど。聞いてもらえる?」
遥が、こちらを、まっすぐ見た。
わたしは、ぜんぶ話した。今夜、中古屋でレコードを買った事。ジャケットの余白の、青いインクの文字。挟まっていた、封のされていない手紙。そして、封筒の表にあった住所が、ここからすぐの、いまはもう駐車場になっている場所だった事。
封筒の表を、遥に見せた。
《仁奈子さんへ》
遥の顔から、すっと表情が抜けた。
しばらく、何も言わなかった。雨の音だけが、店を満たしていた。それから、遥は、封筒の宛名を、もう一度、見た。
「……おばあちゃん宛の、手紙」声が、少しだけ掠れていた。「五十二年前の」
手紙は、宛先にたどり着いた。同じ笑い方をする人の、その孫娘の、手のなかに。
たどり着いて、そして、間に合っていなかった。六年、遅かった。
「ねえ」と、遥が顔を上げた。目のふちが、少し赤くなっていた。「この手紙、書いたの、誰?」
「わからない。差出人の名前は、どこにも書いてなくて」
わたしたちは、もう一度、写真を見た。
カウンターの外側で、半分だけ笑っている、痩せた青年。レコードを手にした、髪の長い人。仁奈子の隣で、彼だけが、こちらを見ていなかった。彼が見ていたのは、カウンターの内側——若い仁奈子の、横顔だった。
「この人、なんだと思う?」と、わたしは言った。
「……うん」遥は、しばらく考えてから、ぽつりと答えた。「おばあちゃん、晩年、よく変な事言ってたんだ。探しものがあるって。何を探してるのって聞いても、自分でもわからないんだって。題名も思い出せないレコードなんだけどねって、笑ってた。ぼけちゃったのかなって、そのときは思ってたけど」
題名も思い出せないレコード。
わたしの手のなかの封筒は、あの、井上陽水のレコードに、挟まっていた。
「探したい」
「この人を。この、手紙を書いた人を」
言ってから、自分でも驚いた。さっきまで、何のためにここに来たのかわからなくなっていたのに。でも、いまははっきりしていた。仁奈子さんには、もう届かない。それでも——この手紙を書いた人が、まだ、どこかにいるかもしれない。半世紀前、ここのスツールに座って、好きな人の横顔を見ていた、あの青年が。
届けられなかったものが、まだ、ここにある。それを、いちばん知るべき人に、知らせたい。
遥は、わたしの顔を、まじまじと見た。それから、ふっと笑った。仁奈子と同じ、目の細くなる笑い方で。
「変なの。会ったばっかりなのに」
「うん……」
「わたしも行く」と、遥は言った。「だって、うちのおばあちゃんの話だもん。それに——」彼女は、スツールの黒猫を見た。「この子が連れてきた人を、放っておけないし」
黒猫は、相変わらず、窓の外の雨音を片耳で聴きながら、膨らみかけた丸いパンのように、静かに呼吸をしていた。
*
一九七二年。雨の多い、初夏だった。
その喫茶店には、午後になると、いつも同じ青年が来た。
透、といった。痩せていて、髪が少し長くて、煙草は吸わないのにいつもポケットにマッチ箱を入れている。近所の町工場の息子で、けれど工場の油の匂いより、レコードの匂いのほうが似合う男だった。
はじめは、ただの客だった。けれど、ある日、店の、鳴らなくなった古いステレオを、ふらりと直してやってから——透は、すっかり、入り浸るようになった。試聴だと言って、自分のレコードを、何枚も持ち込んでは、客のいない午後を狙って、断わりもなく、店のプレーヤーにかけた。フォーク、ジャズ、時々は、ジェームス・ブラウンみたいな、ソウルなもの。棚は、いつのまにか、透の持ち込んだレコードで、すこしずつ、埋まっていった。そのたびに、カウンターの中の仁奈子は、困った顔をしてみせた。
「勝手にかけないでって、いつも言ってるでしょう?」
「でも、いいだろ。客、いないんだから」
「お客さんが来たら、止めますからね!」
「来ないよ。こんな雨の日に」
そういう、なんでもない応酬を、ふたりは、飽きずに、くり返した。
午後の光が、すりガラス越しに、やわらかく差し込んでいた。雨の日の光には、輪郭がない。店じゅうの色を、淡く、にじませていく。勝手に淹れたコーヒーの湯気が、その光の中で、ゆっくりと、立ちのぼっていく。仁奈子は、カウンターの内側から、それを見ている。透は、レコードの溝を、指先で、愛おしむように、撫でている。言葉は、少なかった。けれど、その少なさが、二人には、丁度、良かった。多くを言わなくても、伝わってしまう。だから、言わない。言わずに済む午後を、二人は、いくつも、いくつも、重ねていった。
一度、こんな事が、あった。
夕立の、激しい日だった。早めの閉店間際に来た透が、帰ろうとして、戸口で、立ちすくんだ。突然の雨。傘が、ない。透は、いつも、傘を持たない男だった。濡れて帰ればいい、と、笑うのが、癖だった。
仁奈子は、奥から、一本の傘を持ってきた。黄色い、女物の傘。彼女の、お気に入りだった。
「さして。風邪、ひくでしょう」
「いいよ。男が、こんな色」
「いいから」
押し問答の末、結局、二人は、その一本の傘に、いっしょに入って、店を出た。透の肩は、傘からはみ出して、濡れていた。仁奈子の肩も。雨の音が、黄色い布の内側で、やけに、近く、聞こえた。ほんの、数十歩。工場の、角まで。それだけの距離を、二人は、できるだけ、ゆっくり、歩いた。
別れ際、透は、傘を、仁奈子に返した。
「ありがとう。——いい傘だな」
それだけ、だった。けれど、その黄色い傘は、それからずっと、仁奈子の、いちばん大切な持ち物に、なった。色が褪せても、骨が折れても、買い替えは、しなかった。何度も、直して、直して、使い続けた。
*
カウンターのいちばん端のスツールには、いつも黒猫が丸くなっていた。透が来ると、ちらりと振り返り、また丸くなって寝ていた。
「なあ」と、ある午後、透が言った。「この猫、何を思ってるんだろうな」
仁奈子は、グラスを拭きながら、玄関横の窓から外の雨に目をやった。
「さあ。何かを待ってるんじゃない?」
「何を?」
「分からないけど。でも、ずっと誰かを待ってる気がするの。」
透は、レコードに針を落とした。いつもの一枚だった。古い録音の、柔らかい男の声。雨の午後に、いちばん似合う声。
ふたりは、その雨が、いつまでもやまなければいいと思っていた。止んでしまえば、透は工場へ帰らなければならない。止まなければ、もう少しだけ、この午後の中に居られる。
* * *
3 断絶
雨は、明け方近くにようやくやんだ。
帰り際、遥がスマホを差し出してきた。「連絡先。交換しとこ。手がかり見つかったら、すぐ動けるように」。わたしが番号を打ち込むと、彼女は登録名の所で、少しだけ手を止めた。
「えっと……名前、聞いてないや」
わたしは、黙ってしまった。
「だよね」遥は笑って、画面に何か打ち込んだ。登録名は、《傘なしの人》だった。「これでよろしく」
わたしのスマホには、《遥/喫茶月》と入れた。彼女の名前は、本当かどうかわからない。わたしの名前も、本当かどうかわからない。たぶん、おあいこだった。
その三日後から、わたしたちの、おかしな旅が始まった。
*
最初の手がかりは、あの写真だった。
遥が額から外すと、裏に、鉛筆の走り書きがあった。長い時間で、ほとんど消えかけている。光にかざして、二人で目を凝らした。
《'72・6 ノクターン 〈断絶〉》
「ノクターン?」と、わたしは読み上げた。
「夜想曲って意味だよね、たしか」遥が言った。「で、断絶って……なんだろ。喧嘩でもしたのかな」
ノクターン、と検索しても、それらしいものは出てこなかった。けれど、写真を外したとき、額の裏にもう一つ、挟まっていたものがあった。
小さな、紙のマッチ箱。
すっかり茶色く焼けて、角が潰れている。表に、かすれた文字。《JAZZ喫茶 ノクターン》。下に、いまはもう使われていない、市外局番のない電話番号と、町名。
「ノクターンって、お店の名前だったんだ」
もう一つの言葉、《断絶》のほうは、すぐにわかった。
わたしが買った中古レコード、井上陽水の、ファーストアルバムの名前だった。
わたしは、鞄から、あのレコードを取り出した。あの夜、千五百円で買った、井上陽水の『断絶』。
遥が、写真の青年の、手元を、指さした。黒く日焼けした腕が抱えている、レコードのジャケット。それは、わたしの手の中の一枚と、おなじ——『断絶』だった。
「これ……この人が持ってるの、同じレコード」
半世紀前、この店のスツールで、好きな人の横顔を見ていた青年が、抱いていた一枚。それが、めぐりめぐって、千五百円の値札をつけられて、わたしの所に、帰ってきていた。手の中で、急に、その重さが、変わった気がした。
「『傘がない』、この中に、入ってる」と、わたしは言った。
遥が、写真の青年を、見つめた。「じゃあ、この人……これを、聴いてたんだ。仁奈子さんと」
おかしな事だ、と思った。好きな人と過ごす、いちばん柔らかい午後に、よりによって「断絶」なんて名前のレコードをかける。——よく晴れた朝に、まだ降ってもいない雨の為に、傘を選んでおく、みたいに。
*
その夜、わたしたちは、マッチ箱の町名を頼りに、街を歩いた。
ジャズ喫茶ノクターンは、とっくに、なかった。町名の場所には、コインランドリーが、明るく灯っていた。誰もいない店内で、乾燥機が一台だけ、ごとん、ごとん、と、回っている。誰かの服が、温かい風の中で、ぐるぐると、踊っていた。わたしたちは、それを、ガラス越しに、しばらく、見ていた。手がかりは、また、消えていた。この街は、わたしたちの探しているものを、片っぱしから、駐車場や、コインランドリーに、変えてしまう。古いものは、こうして、少しずつ、別のものに、上書きされていく。誰も、覚えていないまま。誰の手紙も、誰の恋も、なかった事みたいに。
それでも、わたしたちは、歩きつづけた。意味があるのかわからない事ばかり、わたしはする。でも今は、隣に、同じくらい、意味がない事に、意味を見つけてくれる人がいた。
歩きながら、わたしは、イヤホンを、片方だけ、遥に渡した。コードが短いから、自然と、肩が触れるくらいの近さに、なった。遥は、何も言わずに、それを、耳に入れた。二人で、ひとつの音を聴くというのは、少しだけ、秘密を分けあう事に、似ていた。
流れていたのは、わたしの、いちばん好きな曲だった。「雨の中で、誰かが踊って」。雨の向こうで、誰かが、傘も差さずに、踊っている——そういう歌。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも、わからない曲。明るいメロディなのに、聴くたびに、なぜか、泣きそうになる。そして、いつも、同じ、誰かの後ろ姿を、思い出す。雨の中へ、出ていった、背中。振り返らなかった、背中。
「いい曲」と、遥が言った。
「...うん」
「だれの後ろ姿だと思って聴いてるの?」
わたしは、驚いて、遥を見た。そんな事、言ってもいないのに。
遥は、前を見たまま、続けた。「だって、いま、すごく遠くを見てる顔してた」
雨上がりの、濡れた路面に、街灯が滲んでいた。わたしは、少しだけ、話してみる事にした。名前の事は、言えない。でも、それ以外なら——たぶん、この子になら。
「……母さんが」と、わたしは言った。「昔、月の話をよくしてた」
「月?」
「...うん。見えない夜も、月はちゃんとそこにいるんだよって。新月でも、雨でも。見えないだけで、消えたわけじゃないんだって」わたしは、空を見上げた。雲が切れて、細い月が出ていた。「だから、わたし、雨でも、夜空を見上げる癖があって。母さんがそう言ってたから」
「素敵なお母さんだね」
わたしは、答えなかった。
母は、素敵だった。素敵で、そして、居なくなった。月は見えなくてもそこにいると言った人が、自分は、見えない所へ行ったきり、帰って来なかった。その話を、わたしはまだ、誰にもした事がない。今夜も、そこまでは言えなかった。
遥は、それ以上聞かなかった。ただ、片方のイヤホンから流れる同じ歌を、わたしと一緒に、黙って聴いていた。雨の中で、誰かが踊っている。その誰かが、母なのか、写真の青年なのか、それとも、まだ会っていない誰かなのか——わからないまま、わたしたちは、ただ、夜の街を、歩いた。
*
一九七四年の、秋だった。
雨の午後は、もう来なくなっていた。
透の家の町工場は、その夏、傾いた。父親が背負った手形が、次々と、不渡りになった。油で汚れた作業着の男たちが、一人、また一人と、工場を去っていった。残ったのは、機械の音の消えた、がらんとした建物と、積み上がった借金だけ。
止まった機械は、ただの、大きな鉄の塊だった。透は、ときどき、その前に立って、油の匂いの残る空気を、ゆっくりと、吸い込んだ。子どものころ、この音の中で、眠ってしまった事が、ある。父の背中が、まだ、大きかったころ。旋盤の、規則正しい響きが、子守唄のようだった。——もう、戻らない。何ひとつ。透には、それが、はっきりと、わかっていた。わかっていて、それでも、その匂いだけは、手放したくなくて、しばらく、そこに、立っていた。
そもそも透は、工場を継ぐような柄ではなかった。高校のころ、友達が、根も葉もない言いがかりで殴られているのを見かねて、割って入った。気づいたら、相手を、やり返しすぎていた。退学は、自分から、願い出た。誰のせいにも、したくなかったから。それからは、親父の鉄工所で、油にまみれて働いた。——もっとも、旋盤の音より、レコードの溝の音のほうが、ずっと好きな男では、あったけれど。
透は、もう、昼間に喫茶店へ来る事はなくなった。来られなかった。日雇いの仕事を掛け持ちして、それでも、底の抜けた桶に水を注ぐような日々だった。
ある晩、店の戸が、乱暴に開いた。
仁奈子が一人で店じまいをしていた所へ、見た事のない男が入ってきた。やくざ、というには崩れた、けれど目だけが妙に鋭い男だった。男は、カウンターに肘をついて、透の事を訊いた。あいつ、どこに隠れてる。ここによく来てたんだろう。
仁奈子は、知らない、と答えた。声が震えないように、グラスを磨く手を止めなかった。
男は、しばらく店を見回して、それから、鼻で笑って出ていった。「あいつのために、嘘つくのか。健気なこった」
戸が閉まったあと、仁奈子は、ようやく手を止めた。磨いていたグラスを、そっと置いた。指先が、白くなるほど冷えていた。
* * *
4 遥のママ
遥が「ママ」と呼ぶ、その人。灯さん、といった。五十くらいの、静かな人で、たいていは厨房の奥にいて、たまに、カウンターに出てきては、コーヒーを淹れた。その淹れ方が、仁奈子さんゆずりの、ミルク多め。笑うと、写真の仁奈子さんと、同じ垂れ目になった。
わたしと遥が、カウンターで例の封筒を囲んで、レコード棚の写真を見ているのに気づくと、灯さんは、コーヒーを運んできた手を、止めた。しばらく、黙って、それを見ていた。
「その写真ね」と、灯さんは言った。「お母さんが——仁奈子が、いちばん大事にしてた一枚なの。レコード棚の上の、一番いい場所に飾って、毎朝、埃を払って、神棚みたいに大事にしてた。」
「ママ」と、遥が遠慮がちに切り出した。「この、隣に写ってる人、誰か知ってる?」
灯さんは、首を振った。
「知らない。何度か聞いたけどね。お母さん、笑ってはぐらかすだけ」
灯さんは、わたしたちが囲んだ、封筒の宛名に目をやると、長い間、見つめていた。
《仁奈子さんへ》
「……でも、こうして考えると、お母さんが、ずっと何かを探してたのは、本当だったのかもしれない」
灯さんは、それから、ぽつりと、わたしたちに背を向けたまま言った。
「わたしね、自分の父親を、知らないの」
手元のカップを、そっと棚に戻す音がした。
「お母さんは、わたしを一人で産んで、一人で育てた。父親の事は、最後まで、一言も。気にしてないって言ったら、嘘になるけど——もう、聞ける人もいないから」
遥が、わたしの隣で、小さく息をのんだのがわかった。たぶん、母のその話を、ちゃんと聞いたのは、はじめてだったのだろう。家族のあいだには、近すぎて聞けない事が、ある。わたしには、よくわかった。
灯さんは、振り返って、いつもの店主の顔に戻った。
「ま、昔の事。それより、その写真の人を探してるんでしょ。だったら、角の金物屋の、勝さんに聞いてみなさい。この商店街でいちばんの古株。あの人なら、昔のこの辺の事、何でも知ってるから」
*
金物屋の勝さんは、八十を過ぎた、小さな老人だった。
店は、商店街の角にあった。鍋や、ヤカンや、ざるや、用途のわからない金物が、天井まで、所狭しと吊るされている。半分は、もう、売り物というより、店の一部みたいに、埃をかぶっていた。シャッターの増えた通りで、その店だけが、昔のままの時間を、頑固に、保ちつづけているようだった。
勝さんは、店先の丸椅子に座って、わたしたちが差し出した写真を、皺だらけの手で、受け取った。老眼鏡を押し上げて、しばらく、見つめる。それから、ふう、と、長い息を、ついた。その息は、半世紀ぶんの時間の、匂いが、するようだった。
「ああ……透ちゃんだ。これは、透ちゃんだよ」
わたしと遥は、顔を見合わせた。透。それが、あの青年の名前。
「下村透。下村鉄工所の、一人息子。優しい子でね。高校を退学して、工場を継いだんだけど、本人は、音楽のほうが好きでさ。いつも、月さん——そこの喫茶店だ——に入り浸って、レコードばっかり聴いてた」勝さんは、写真の中の仁奈子を、節くれだった指でさした。「で、こっちが、月さんの娘の、仁奈子ちゃん。この二人はねえ、見てるこっちが、もう、わかるくらいでね。お互い、好きで好きで。なのに、どっちも言わないの」
胸の奥の蝶番が、また、軋んだ。
「鉄工所はね、昭和四十九年だったかな、その年の夏に、潰れたんだ」勝さんの声が、少し沈んだ。「親父さんが、人の保証を被ってね。オイルショックがあったしね、手形が回らなくなって、あっという間だった。柄の悪い連中が、毎日のように出入りしてた。透ちゃんは、昼間の仕事を掛け持ちして、それでも追いつかなくて」
「透さんは、どうなったんですか?」と、わたしは聞いた。
「消えたんだよ」勝さんは、写真を膝に置いた。「ある晩、ふっと。誰にも何も言わずに。夜逃げ、ってやつだ。借金取りに追われて、町全体から、居なくなった。仁奈子ちゃんにも、何も言わずにね。——あれは、ひどい話だと、みんな思ったよ。好いた娘に、別れの一言も無く」
別れの一言も無く。
わたしは、内ポケットの封筒の事を思った。言わずに消えた青年。でも、本当は、一言、書いていた。封もせずに、レコードに挟んで。ただ、それが、誰の手にも渡らなかっただけで。
「でもね」と、勝さんは続けた。声が、不意に、柔らかくなった。「そのあとさ。透ちゃんが消えて、半年か経ったころ。仁奈子ちゃんが、お腹を、大きくしてたんだよ」
店先の空気が、止まった気がした。
「誰の子だなんて、誰も聞きやしない。聞けるもんか。でも——まあ、町のみんな、心の中じゃ、わかってたさ。仁奈子ちゃんは、何も言わず、一人で産んで、一人で育てた。気丈な子でね。月さんの店も、守り通して」勝さんは、ふっと笑った。「あの子も、強かった。月さんに、負けないくらい」「灯ちゃんも良い子だしね」
わたしは、隣の遥を見た。
遥は、写真を見つめたまま、動かなかった。その横顔が、何を計算しているのか、わたしにはわかった。わたしも、同じ計算をしていた。透が消えて、半年か一年後に生まれた子。仁奈子さんが、一人で産んだ子。それは——遥の、お母さんだ。灯さんだ。
言葉には、しなかった。
たぶん、ここで口に出す事じゃない、と、二人とも思った。それは、灯さん自身が、いつか知るべき事で、わたしたちが軽々しく組み立てていい話じゃない。だから、わたしたちは、ただ、勝さんに礼を言って、店を後にした。
でも、わたしの中で、何かが、静かに繋がっていく音がした。
手紙の差出人。探していた青年は、いま隣を歩いている遥の——たぶん、半世紀前の、はじまりの人だ。
*
商店街を出て、川沿いを、歩いた。
夕暮れだった。川の水は、ゆっくりと、流れている。西の空が、淡い橙に染まって、その色が、水面に、長く、滲んでいた。遥は、しばらく、何も言わなかった。わたしも、言わなかった。川の音と、二人の足音だけが、並んで、続いていった。言わなくてもいい時間を、わたしたちは、もう、持ちはじめていた。
「ねえ」と、やがて、遥が、川を見たまま、言った。わたしの事だ。遥は、いつも、わたしを「ねえ」と呼ぶ。「もし、もしもだよ。あの青年が、わたしの、おじいちゃんだったら。——どう、思う?」
「わからない」と、わたしは正直に言った。「でも、もしそうなら。あなたのおばあちゃんは、その人の事、ずっと、待ってたんじゃないかな。二人で聴いた、あの一枚を、また聴きたがるみたいに、ずっと」
遥は、何も言わなかった。ただ、川の水面が、夕方の光で、細かく光っていた。
「わたし」と、遥が言った。「おばあちゃんっ子だったんだ。ママは店で忙しいから、わたしを育ててくれたの、半分はおばあちゃんで。コロナで、あっという間に逝っちゃって。最後、会えなかった。面会、出来なくて」
会えなかった。最後に。
その言葉が、わたしの、いちばん柔らかい所に刺さった。わたしも、そうだ。最後に、何も言えなかった。けれど、遥のそれと、わたしのそれは、少し違う。遥のおばあちゃんは、もう、どこにも居ない。わたしの母は——どこかに、居る。たぶん、まだ。
*
一九七四年の、冬のはじめ。
北風が、商店街の幟を、はためかせていた。喫茶『月』の窓も、その年は、よく曇った。仁奈子が、指で、その曇りを拭うと、向こうに、灰色の空が、あった。透の来ない午後が日常になっていた。レコードの止まった店は、しんと、寒かった。
取り立ては、いよいよ、酷く、なっていた。
透の名前は、すでに、まっとうな働き口からは弾かれていた。父の作った借金は、利息が利息を生んで、もう、一人の若者が背負える額ではなくなっていた。柄の悪い男たちは、透の居場所を探して、知り合いという知り合いを、しらみつぶしに当たっていた。喫茶『月』にも、何度も。
透は、決めた。
自分がこの町にいるかぎり、連中は、仁奈子の店に来つづける。仁奈子を、月さんを、巻き込みつづける。好きだと、一度でも口にしてしまえば、仁奈子はきっと、「一緒に逃げる」と言う。そういう娘だ。だから——言わない。言わずに、消える。それが、十九歳の透に思いつく、たった一つの、彼女の守り方だった。
最後に一度だけ、と思った。
誰もいない時間に、あの店のプレーヤーで、いつもの一枚をかけよう。それから、書いておいた手紙を、どこかに。読まれるかどうかは、わからない。でも、封はしない。封をしてしまったら、決意が、揺らいでしまう気がしたから。
* * *
5 九歳の雨
その夜は、酷い雨だった。
夕方から降りはじめて、バスも電車も止まった。わたしと遥は、喫茶『月』に閉じ込められたかたちになった。灯さんは「泊まっていきなさい」と言って、二階へ上がっていった。看板の灯りを落とした店に、わたしと遥と、黒猫だけが残った。
雨が、窓を、叩いていた。
看板を落とした店の中は、ひとまわり、狭く感じられた。昼間の、客のための明るさが消えて、カウンターの上の、小さな灯りだけが、ぽつんと、灯っている。その光の届かない所で、レコードの棚も、壁の写真も、闇に、沈んでいた。雨の音だけが、店中に、静かに、満ちていた。
遥が、二人分のココアを、淹れてくれた。湯気の向こうで、彼女の顔が、柔らかく、揺れた。二人きりの夜は、最初にここに来た時以来だった。雨が、それを、許してくれたみたいに。
わたしは、イヤホンを片方、遥に渡した。「雨の中で、誰かが踊って」。あの曲だ。
雨の向こうで、傘も差さずに、誰かが踊っている——そういう歌。今夜の雨に、いちばん似合ってしまう歌。
遥は、しばらく黙って聴いていた。それから、言った。
「ねえ。あなたの『誰か』の話、聞かせてよ。雨の中で、踊ってる人」
わたしは、ココアのカップを、両手で、包んだ。あたたかかった。手のひらから、その熱が、ゆっくりと、わたしの中へ、沁みていくのを、感じた。
誰にも、話した事のない事だった。父にも、昔の、数えるほどの友達にも。ずっと、喉の奥の、いちばん深い所に、沈めてきた事。口に出せば、それが、本当の事に、なってしまう気がして。けれど、今夜は——雨のせいか、この店のせいか、それとも、隣にいる、この子のせいか。話しても、いい気が、した。名前は、まだ、言えない。でも、それ以外なら。たぶん、この子に、なら。
「……九歳のとき」と、わたしは言った。「母が、居なくなったんだ」
遥は、何も言わずに、わたしを見ていた。急かさない目だった。
「うちも、お金の事で、ずっと揉めてた。父と母と。詳しい事は、子どもだったから、わからない。借金と、たぶん、ほかの男の人の事も。母は、だんだん、家に居なくなっていって。ある雨の夜——今夜みたいな雨の夜だった」
窓の外で、雨が、いっそう強くなった。
「母が、玄関で、靴を履いてた。傘も差さずに、出ていこうとしてた。わたし、廊下に立って、見てた。母は、振り返って、笑ったの。すごく、優しい顔で。それで、言った。『行かなくちゃ』って」
話しながら、目の前に、あの夜が、はっきりと、蘇った。母の、白いうなじ。すれ違い様の、いつもと違う、甘い匂い。開いたドアから、いっぺんに大きくなった、雨の音。母は、傘立ての傘を、見向きもしなかった。濡れる事なんて、どうでもいい、と、いうみたいに。そうして、出ていった。ドアが、ゆっくり、閉まって、雨の音が、また、遠くなった。
行かなくちゃ。
「わたし、その背中に、言いたい事が、あったの。たった三文字。『待って』って。喉まで、出かかってた。でも——言えなかった。何でか、言えなかった。言ったら、困らせる気がして。子どもなのに、変だよね。母を、困らせちゃいけない気がして」
わたしは、息を吸った。
「それっきり、母は、帰って来なかった」
遥の手が、テーブルの上の、わたしの手に、そっと重なった。暖かかった。
「だから、わたし、『行かなくちゃ』って言葉が、ずっと、嫌いだった」と、わたしは続けた。「あの言葉が、母を連れて行ったから。あの言葉が、わたしから、母を奪ったから。なのに——」
わたしは、イヤホンの向こうの、歌を思った。それから、あの夜の、レコードの一行を。
「あの夜、レコードで、井上陽水の『傘がない』を聴いたとき。同じ言葉が、流れてきたの。〈行かなくちゃ〉。同じ言葉なのに、まるで、逆を向いてた。誰かを置いていく言葉じゃなくて、誰かに、逢いに行くための言葉。それで、わたし、なんだか——訳が分からなくなって、気づいたら、雨の中を、知らない人の手紙を持って、歩き出してた」
遥は、長い間、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。「お母さん、今は、どこに居るの?」
「...わからない」と、わたしは言った。「でも、生きてる。たぶん。一度だけ、葉書が来た事があって。わたしが、中学生の頃。文章は、何にも無かった。ただ、海の写真の絵葉書で。消印だけ、知らない町の名前だった。父さんは、それを、わたしに見せないように、引き出しの奥に入れてた。でも、わたし、見つけて、覚えてる。町の名前」
生きてる。どこかで。海の見える、知らない町で。
その事実を、わたしは、ずっと、引き出しの奥みたいな所に、閉まって来た。会いに行こうと思えば、行けたのかもしれない。でも、行かなかった。行ったら、また、あの顔で笑われる気がして。『行かなくちゃ』のあの顔で。だから、わたしは、母を、居ない人にして、生きて来た。見えないものを、消えたものにして。
——見えないだけで、消えた訳じゃないのに。
黒猫が、窓の外を見ていた。雨の向こうの、何かを。遥は、わたしの手を握ったまま、片耳のイヤホンで、同じ歌を聴いていた。雨の中で、誰かが、踊っている。その誰かが、母なのか、写真の青年なのか、それとも、まだ会っていない誰かなのか。——今夜は、少しだけ、分かる気が、した。
*
一九七四年の、雨の夜。
閉店後の喫茶『月』に、透は、一人でいた。合鍵は、ずっと前に、仁奈子から渡されていた。「お客さんいない時間に、勝手にレコード聴いてていいから」と。それが、どれだけの信頼だったか、いまの透には、痛いほど、わかった。
ストーブは、消えていた。息が、白かった。棚のレコードたちが、暗がりの中で、静かに、背を並べている。何百枚もの、誰かの夜。その中に、これから、自分も、一枚、まぎれ込ませる。誰にも気づかれない、たった一枚を。透は、かじかむ指に、息を吹きかけた。それから、棚に、手を、伸ばした。
明日には、この町を出る。誰にも言わず。仁奈子にも。
透は、棚から、いつもの一枚を取った。井上陽水『断絶』。仁奈子と何十回も聞いたレコード。ライナーノーツの隅に、万年筆の、青いインクで、《好きだった君へ》《一九七四年、十八歳》——仁奈子が、いま十八。
便箋は、薄い封筒に、入れた。封筒の表には、喫茶『月』の近くにある彼女の実家の住所と、《仁奈子さんへ》。裏に、自分の名は、書かなかった。封筒を、ただ挟んだだけでは、気づかれないかもしれない。だから、ライナーノーツにも、ひと言、書き残した。——いや、本当は、ただ、書いておきたかったのかもしれない。思い出に。
透は、針を落とした。
「傘がない」。柔らかくて、しなやかな男の声が、誰もいない店に、流れた。〈行かなくちゃ〉。皮肉なものだ、と透は思った。この歌は、逢いに行く歌だ。なのに自分は、これから....。
透は、その封筒を、レコードとジャケットの間の奥に、そっと挟んだ。封は、しなかった。封をしてしまったら——きっと、渡したくなる。渡せば、彼女は読む。読めば、追ってくる。だから、封はしない。誰かが、いつか、ぜんぶ終わったころに、見つけてくれたらいい。仁奈子が、おばあさんになって、笑い話に出来る頃に。
カウンターの端で、黒猫が、こちらを見ていた。
「なあ」と、透は、猫に話しかけた。「おまえ、いつも、何を待ってるんだ」
黒猫は、答えなかった。ただ、薄目を開けて、チラリと、透を見ていた。
透は、レコードを棚に戻した。手紙の挟まった、その一枚を。
戸を開けると、雨の匂いが、流れ込んできた。
「……行かなくちゃ」
透は、傘も差さずに、雨の中へ出ていった。振り返らなかった。振り返ったら、足が、止まる気がしたから。
雨は、降り続いていた。
* * *
6 すれ違い
朝には、雨が止んでいた。
二階から降りてきた灯さんが、目を腫らしたわたしを見て、何も言わずに、コーヒーを淹れてくれた。仁奈子さんのやり方の、ミルク多め。冷えた人には、ミルク多め。それは、もう、この店の三代にわたる、合言葉みたいなものなのかもしれなかった。
わたしと遥は、勝さんからもらった名前を、手がかりに、動く事にした。
下村透。下村鉄工所。
それから、何日か。バイトのない日のわたしと、喫茶が定休日の、火曜の遥とで、街じゅうを、調べて回った。古い住宅地図。図書館の、郷土資料の部屋。黄ばんだ、商工会の名簿。半世紀前に、夜逃げした人間の足取りは、そう簡単には、出てこなかった。下村鉄工所は、とうに、別の会社の倉庫に、なっていた。透の親の代の戸籍をたどる権利なんて、わたしたちには、ない。調べれば調べるほど、半世紀という時間の、ぶ厚さが、わかるだけだった。何度も、行き止まりに、ぶつかった。
それでも、二人で、行き止まりにぶつかるのは、なぜだか、ひとりで途方に暮れるより、ずっと、ましだった。図書館の帰りに、自販機の、暖かい缶を、半分こにして飲んだ。遥は、わたしの事を、相変わらず「ねえ」と呼んだ。わたしも、それで、良かった。名前なんて、なくても、わたしたちは、ちゃんと、二人だった。
けれど、分からなかったのは、「透がどこへ行ったか」だった。
「どうして、届かなかったか」のほうは——その日、分かってしまった。
*
一九七四年の、冬の朝。
透が消えた、その翌朝の事だった。
空気が、しん、と、冷えていた。霜の降りた、朝だった。仁奈子が、いつものように、店の鍵を開けに来ると、表に、見慣れない軽トラックが、停まっていた。荷台に、段ボール箱が、いくつも、積まれていく。白い息を吐きながら、男が、店の中から、何かを、運び出している。古道具の、買い取り屋だった。
胸が、ざわついた。透とは、ずっと連絡が、つかない。なぜ、こんな朝に。仁奈子は、足を、速めた。
店の中では、父親が、苦い顔で、男に何か指図していた。床に、レコードが、無造作に積み上げられていた。透が、何年もかけて、この店に持ち込み、カウンターの棚を埋めていった、私物のレコードだった。何百枚も。何箱分も。いつも、断わりも無くかけていた、あの音楽たち。
「お父さん、何してるの!」
「あの子のだ」と、父親は、吐き捨てるように言った。「ゆうべ、借金取りが、家に二度も来た。あの子の物が、うちにあると知れたら、店まで持っていかれる。——いいから、ぜんぶ売る。関わりたくない」
「待って」
仁奈子は、レコードの山に、駆け寄った。けれど、もう、半分は箱に詰められ、軽トラックの荷台に載せられていた。
「すみません。それ、ちょっと——」
「もう、伝票切っちまったよ、お嬢さん」
軽トラックは、行ってしまった。
透の置いていったレコードは、ぜんぶ、町を出ていった。透自身が、町を出ていったのと、同じ朝に。仁奈子宛の手紙を、その一枚に、挟んだまま。
手紙は、宛先を失って、旅に出た。
そして、五十二年。何人もの手を渡り、何軒もの中古屋の棚をめぐって——ある雨の夜、千五百円の値札をつけられて、わたしのもとに、流れ着いた。
*
その話を、わたしは、遥にした。勝さんが、つけ足してくれた事だった。「あの朝の事はな、よく覚えてる。月さんの親父さんが、レコードを、ぜんぶ買い取り屋に出しちまってな。仁奈子ちゃんが、泣いて止めようとしてたよ」と。
遥は、長い間、黙っていた。
「おばあちゃん」と、やがて、彼女は言った。「探してたんだ。ずっと。あの一枚を。——だって、その中に、自分への手紙があったかもしれないって、心のどこかで、わかってたのかな?」
「わからない」と、わたしは言った。「でも、たぶん、本当に大事なものをなくした時って、無くした事だけ、わかるんだと思う。なくしたものが、何だったのかは、わからなくても」
わたしは、母の絵葉書の事を、思った。海の写真。消印の、町の名前。わたしも、ずっと、引き出しの奥に、しまったままだ。無くした事だけ、わかっていて。
*
旅は、しばらく、足踏みを、続けていた。
ある晩、店仕舞いのあと、灯さんが言った。「ごはん、食べていきなさい。どうせ、まかないだから」。断る理由を、わたしは、もう、探さなくなっていた。
その夜のまかないは、カレーだった。喫茶『月』の、名物。玉ねぎと、人参と、じゃがいもと、それから、すりおろした林檎。野菜と果物を、何時間も、コトコト煮込んだ、やさしい色の、ルー。具は、ぱさりとした大きな鶏胸肉が、ひと切れだけ。そのパサパサの身に、ルーをよく染み込ませて食べるのが、この店の——そして遥の、流儀らしかった。
「ひいおじいちゃんの代から、おんなじレシピなんだって」と、遥が、よそいながら言った。「おばあちゃんが、ちょっとだけ、変えたらしいけど。林檎を、足したの。お客さんに、子ども連れが多かったから、辛いの、だめでしょって」
ひとくち、食べた。
甘くて、やわらかくて、どこにも、角がなかった。胸の、いちばん奥の、こわばった所が、ゆっくり、ほぐれていくような、味がした。——ああ、これだ、と思った。あの、はじめての夜の、ミルク多めのコーヒーと、おなじ。この店の味は、全部、たぶん、「冷えた人を、暖める」為だけに、出来ている。
わたしは、いつから、こんな風に、誰かと、食卓を、囲んで居なかっただろう。
母が出ていって、父と二人になって。それから、その父とも、別々になって。わたしの食事は、いつも、コンビニの白い灯りの下か、誰もいない部屋の、ひとり分だった。暖かいものを、暖かいうちに、誰かと、食べる。そんな、当たり前の事を、わたしは、もう、ずいぶん長く、忘れていた。
灯さんは、わたしのお皿が空くと、何も言わずに、おかわりを、よそった。仁奈子さんが、そうしていたみたいに。遥が、それを見て、笑った。黒猫は、カウンターのいつもの席で、丸くなって、時々、尻尾をパタリと振った。
不思議だった。
わたしは、他人の家族に、居なくなった父親を、連れて帰ろうとしている。なのに、その家族の食卓で、いちばん、暖められているのは、わたしの方だった。届けに来たはずが——いつのまにか、わたしの方が、何かを、貰っていた。
「また、おいで」と、帰り際、灯さんは言った。名前も知らない、わたしに。「あなたは、もう、お客さんじゃ、無いんだから」
その言葉を、わたしは、家までの夜道で、何度も、思い返した。お客さんじゃ、無い。——じゃあ、わたしは、何だろう。考えると、なぜだか、少し、泣きたくなった。
*
手がかりが、また途切れたかに思えた、その週末だった。
雨が、また、降りはじめた夜だった。喫茶『月』の、いつもの席で、わたしと遥は、何度目かもわからない検索を、くり返していた。下村透。下村。時計。鉄工所。出てくるのは、関係のない、知らない誰かばかり。指が、疲れて、画面を、ただ、なぞっていた。
その、ふとした、一回だった。
遥が、スマホの画面を、わたしに、突きつけた。声が、上ずっていた。
「ねえ、これ。これ、見て!」
地図アプリだった。隣町の、古い商店街の一角。小さな店の、ストリートビュー。色褪せた庇に、手書きの看板。
《下村時計店》
「下村」と、わたしは、声に出した。
「うん。下村。それでね」遥は、画面をスクロールした。古いタウン情報サイトの、一行だけの紹介文。《店主・下村透。時計・眼鏡の修理。昭和の腕の良さ、健在》。「……透、って。下村、透」
わたしの心臓が、変なふうに鳴った。あの、雨の夜から、ずっときしんでいた蝶番が、今度は、はっきりと、音を立てて、開いた。
生きている。
写真の中で、レコードを手に、仁奈子の横顔を見ていた、あの青年が。五十二年前、雨の中へ、傘も差さずに消えた人が。いま、ちょっと離れた隣町で、時計を直して、生きている。
壊れた時間を、直しつづけて。
「行こう」と、遥が言った。
「うん」と、わたしは言った。今度は、迷わなかった。
* * *
7 商店街
下村時計店は、数駅先の所沢、和ヶ原商店街の、いちばん端に、あった。
わたしと遥は、電車に乗った。国分寺から、ほんの少し、揺られただけの、終着駅。改札を出て、地図を頼りに、歩いた。胸の奥が、ずっと、ざわざわしていた。これから、五十二年前の人に、会う。写真の中で、笑っていた人に。生きているのか、いないのかも、ついさっきまで、わからなかった人に。
半分シャッターの下りた通りで、その店だけ、小さな灯りが、ついていた。色褪せた庇。手書きの、古い看板。《下村時計店》。それは、写真の中の、あの青年の名字と、同じ字だった。
ガラス戸を、押す。頭の上で、古い呼び鈴が、ちりん、と、鳴った。
中は、時計で、いっぱいだった。
壁にも、棚にも、床の上にも、所狭しと、柱時計、掛け時計、置き時計。文字盤の、大きいの、小さいの。金色の振り子。錆びた歯車。ガラスの曇った、古いもの。それだけの時計が、チク、タク、チ、ク、タ……。みんな、ばらばらの速さで、ばらばらの時刻を、指していた。三時のものも、十時半のものも、針の止まったままのものも、あった。まるで、この店の中だけ、時間が、いくつもに、枝分かれして、迷子になっているみたいで、くらくらした。
カウンターの奥に、老人が、一人。
背を丸めて、片目に、時計屋の使うルーペをはめて、小さな部品を、ピンセットでつまんでいた。白髪の、痩せた人だった。手元だけが、年季の入った、確かな動きをしていた。
「いらっしゃい」と、顔も上げずに、その人は言った。「...修理かい?」
わたしは、遥を見た。遥も、わたしを見た。どちらも、声が出なかった。
わたしは、鞄から、あのレコードを取り出した。井上陽水『断絶』。五十二年かけて、巡り巡って、わたしのもとへ、辿り着いた一枚。そして、レコードに挟んであった封筒から、封もされていない、黄ばんだ封筒を、抜いて、カウンターの上に、そっと、置いた。
「……これを、お返しに来ました」と、わたしは言った。
老人は、ピンセットを止めた。ルーペを、ゆっくりと外した。そして、封筒の宛名を見た。
《仁奈子さんへ》
刻が、止まった気がした。あれだけ鳴っていた、ばらばらの秒針の音が、ふっと、遠のいた。
老人は——透は、その青いインクの文字を、長い間、見つめていた。それから、震える指で、便箋に触れた。表書きの、自分の字を、なぞるように。
「……これは」と、透は言った。声が、掠れていた。「私が、書いた....」
わたしは、頷いた。
「五十二年間、中古のレコードに、挟まったままでした。封は、されていなくて。」
透の顔から、ゆっくりと、色が引いていった。
わたしには、その一瞬に、透の中で何が起きたのか、わかった気がした。この手紙が、いま、自分の手に戻ってきたという事。それは、つまり——届かなかった、という事だ。仁奈子は、これを読まなかった。透が何を思って消えたのか、何ひとつ知らないまま、生きたのだ。そのあとの、長い歳月を、ずっと。
「....仁奈子さんは?」と、透は、おそるおそる、聞いた。まるで、答えを、怖がるように。「……いまも、あの店に?」
遥が、一歩、前に出た。
「わたしの、祖母です」と、遥は言った。声を、まっすぐに保とうとしていた。「仁奈子は、わたしの、おばあちゃんです。——六年前に、亡くなりました。コロナで」
透は、遥を見た。
はじめて、まともに。
そして、その顔が、くしゃりと歪んだ。遥の顔を見て、何かに気づいたように。遥の、目の細くなる垂れ目な笑い方を——いや、いまは泣きそうな顔を——昔、誰かの隣で、毎日のように見ていた、その面影を。
「……似てる」と、透は、つぶやいた。「君は、仁奈子さんに、よく似てる」
遥の目から、涙が、溢れた。
透は、両手で、顔を覆った。そして、声を殺して、泣いた。老人の、骨ばった肩が、震えていた。半世紀、ばらばらの時計の音の中で、たった一人、止まったままだった時間が——いま、ようやく、動き出して、そして、間に合わなかった事を、知った。
わたしは、ただ、それを見ていた。何も、できなかった。
*
しばらくして、透は、ぽつり、ぽつりと、話しはじめた。
借金を返し終えるのに、二十年かかった事。各地を転々として、最後は、あの町から、そう遠くない、この所沢に、腰を落ち着けた事。手先が器用だったから、時計の修理を覚えて、小さな店を持った事。結婚は、しなかった事。
「一度だけ」と、透は言った。「戻ったんだ。国分寺に。消えてから、何年か、経ったころだ。借金は、まだ、全く終わっていなかった。それでも、いてもたっても、いられなくて。仁奈子の顔を、ひと目だけでも、見られたら、と思って」
わたしの隣で、遥が、息を詰めた。
「でも、店の、窓の外から、中を、のぞいたとき」透の声が、震えた。「仁奈子が、いたんだ。カウンターの奥の席に。昔のまま、綺麗で。——腕に、二つか、三つの、小さな子を、抱いて、寝かしつけてた」
チク、タク、と、どこかの時計が鳴った。
「ああ、この人は、もう、新しい家庭を持ったんだ、と思った。幸せそうだった。私が、今更、のこのこ現れて、何になる。この人の、積み上げた時間を、壊すだけだ。——だから、私は、また、帰ったんだ。声も、かけずに。それが、せめてもの、と思って」
わたしは、遥の顔を、見られなかった。
わたしには、もう、わかっていた。遥にも、わかっていた。透が、その日、窓ごしに見た「小さな子」。仁奈子が、透が消えたあと、一人で産んで、一人で育てた子。それは——灯さんだ。遥の、お母さん。
透が見たのは、仁奈子の「新しい家庭」じゃ、なかった。
わたしは、言おうとした。その子は、あなたの娘です、と。遥さんは、あなたの孫です、と。
でも、遥が、わたしの手を、そっと握った。
だから、わたしたちは、その日は、それ以上、何も言わなかった。
透は、封筒を、両手で、押し頂くように持って、「これを、貰っても、いいだろうか?」と聞いた。わたしは、頷いた。それは、もともと、彼のものだった。彼が、五十二年前に、誰かに届けたかった、たった一つの、願いだったのだから。
「あの」と、別れ際、わたしは、思い切って、言った。「もし良かったら。一度、あの店に。喫茶『月』に、来てください。仁奈子さんの、居た場所に」
透は、しばらく、黙っていた。それから、小さく、頷いた。
*
帰り道、わたしと遥は、ほとんど、喋らなかった。
夕暮れの、商店街を、野良猫が、数歩先を歩いていた。
わたしは、ずっと、透の、あの泣き顔を、思い出していた。間に合わなかった人の顔。声にするのが、五十二年、遅すぎた人の顔。あの、たくさんの時計の中で、一人だけ、止まったままだった時間。仁奈子は、もう、居ない。透が、これから、どれだけ言葉を尽くしても、もう、彼女には、一言も、届かない。
間に合わない、という事が、あるのだ。世界には。どんなに、悔やんでも、どんなに、愛していても。手を伸ばした時には、もう、その人が、居ない。そういう事が。
——でも。
わたしの母は、生きている。
海の見える、知らない町で。消印の、あの町で。
わたしは、まだ、間に合うのかもしれない。透のように、すべてを失ってからじゃ、なくて。まだ。
その考えが、胸の奥で、小さな灯みたいに、灯った。怖かった。会いに行って、また、あの顔で笑われるのが。でも、透の泣き顔を見たあとでは、会いに行かない事のほうが、もっと、怖い気がした。
* * *
8 思い出のアルバム
喫茶『月』に戻ると、灯さんが、閉店の片づけをしていた。
わたしと遥は、カウンターに座って、しばらく、言葉を、探していた。閉店後の店は、しんとしていた。灯さんが、洗ったカップを、布巾で拭く音だけが、ことり、ことり、と、響いている。どこから話せばいいのか、わからなかった。話してしまえば、灯さんの、これまでの五十年が、根っこの所から、揺れてしまうかもしれない。それでも——黙っているのは、もう、違う気が、した。けれど、わたしより先に、遥が、口を開いた。
「ママ。おばあちゃんが、よく言ってた事、覚えてる? 探しものがある、って」
灯さんの手が、止まった。
「……ああ。題名も思い出せない、レコードがどうとか。最後のころ、よく言ってたわね。ぼけちゃったのかと思って、聞き流してた」
「ぼけてなんかなかったんだよ」と、遥は言った。「ほんとに、探してたの。これを」
遥は、カウンターに、あの『断絶』を置いた。そして、封筒の事を、写真の青年の事を、時計屋を営んでいる下村透という人の事を、ぜんぶ、灯さんに話した。透が、借金から仁奈子さんを守るために、何も言わずに消えた事。最後の夜、このレコードに、封もしない手紙を挟んで、いつか届く事だけを願った事。けれど翌朝、レコードは、ぜんぶ売られてしまって、仁奈子さんは、それを知らないまま生きた事。
灯さんは、『断絶』の、擦り切れたジャケットを、手に取った。ライナーノーツの隅の、青いインクの、かすれた文字を。《好きだった君へ》。
「お母さんは」と、灯さんは、静かに言った。「手紙が、あった事も、知らなかったの?」
「うん」と、遥。「でも——たぶん、心のどこかでは、わかってた。だから、ずっと、探してた。二人の記憶を。見つからないってわかってても、ずっと。」
「思い出のアルバム、だから。」
わたしは、思った。それは、月みたいだ、と。新月の夜も、雨の夜も、見えないけれど、ちゃんと、そこにある。仁奈子さんは、その、見つからないアルバムが、どこかに、あると、信じて、探しつづけた。無くした事「だけ」を、抱えたまま。題名も、顔も、声も、年月が薄れさせていくのに——無くした、という感覚だけは、いつまでも、胸の真ん中に、残りつづける。
形を忘れても、無くした、という事だけは、消えない。——わたしの、母みたいに。
灯さんは、長いあいだ、写真の中の、若い青年を、見ていた。レコードを手にした、痩せた人。仁奈子の隣で、こちらを見ずに、彼女の横顔だけを、見ている人。その、母の横顔を見つめる、青年の目を、灯さんは、じっと、見ていた。まるで、自分の中で、ずっと、答えの出なかった問いの、答え合わせを、しているみたいに。
わたしは、灯さんが、何を考えているのか、わからなかった。ただ、灯さんは、写真から、そっと、目を離して、言った。
「その、下村さんって人。——うちに、来てくれるって?」
「はい」と、わたしは言った。「仁奈子さんの、いた場所に、一度、と」
灯さんは、頷いた。それから、ふっと、笑った。仁奈子と、遥と、同じ、目の細くなる垂れ目な笑い方で。
「じゃあ、一番、美味しいコーヒーを、淹れなきゃね」
それ以上は、何も言わなかった。
*
その夜、わたしは、遥と、店の外で、別れ際に、話した。
雨は、上がっていた。濡れた路地に、街灯が、ひとつ。
「わたし、決めた事が、あるの」と、わたしは言った。
「うん」
「母に、会いに行く」
思っていたより、ずっと、自然に、口から出た。
「ずっと、行けなかった。会いに行ったら、また、置いていかれる気がして。あの、『行かなくちゃ』の顔で、笑われる気がして。だから、居ない人にして、生きて来た」
わたしは、夜空を見上げた。雲の切れ間に、月が出ていた。
行かなくちゃ。
「ひとりで、行くの?」と、遥が聞いた。
わたしは、遥を見た。
「……一緒に、来てくれる?」
はじめて、わたしから、誰かに、そう言った。一緒に居て欲しい、と。
遥は、にっと笑った。
「もちろん」
*
透さんを店に招く日取りを決めて、それから、わたしは、ひとりで、父の家に帰った。
二年ぶり、だった。
駅から、坂を上がった先の、古い建売住宅。表札の字は、もう、掠れていた。チャイムを押すのも、なんだか、他人みたいで、わたしは、合鍵で、ドアを開けた。
家の中も、時間が、止まっていた。喫茶『月』とは、別の意味で。手入れもされず、ただ、古びていくだけの時間。流しには、洗っていない、ひとり分の食器。母が居た頃の、あの、家族の匂いは、もう、どこにもなかった。
父は、居間のこたつにいた。テレビを、音もなく、つけたまま。わたしを見ても、驚かなかった。「ああ」とだけ言って、また、画面に目を戻した。痩せた、と思った。白いものも、増えた。母が出ていってから、父は、少しずつ、しぼんでいった。怒りもせず、泣きもせず、ただ、空気が抜けるみたいに、静かに。
「父さん」と、わたしは言った。「あの、絵葉書。まだ、ある?」
父の、テレビに向けていた目が、一瞬曇った。
長い、沈黙があった。音のないテレビの中で、誰かが、声を出さずに、笑っていた。やがて、父は、立ち上がって、奥の部屋へ行った。戻ってきた手に、一枚の、絵葉書があった。海の写真。色が、少し、褪せている。わたしが、中学生のとき、引き出しの奥で見つけた、あれだった。父は、ずっと、捨てていなかった。
「捨てられなかったんだ」と、父は、ぽつりと言った。「捨てたら、もう、本当に、居なくなる気がして。……お前に、見せなかったのは。お前が、これを見て、会いに行きたいと、言い出すのが——怖かったんだ。お前まで、居なくなるのが」
わたしは、絵葉書を、受け取った。消印。その町の名前を、わたしは、ずっと、覚えていた。忘れたふりを、していただけで。
父も、わたしも、同じだったのだ。母が、雨の中へ消えた、あの夜から。二人とも、「待って」を、言えなかった。そして、その後も、ずっと、「会いに行く」も、言えなかった。引き出しの奥に、海を、しまったまま。十一年。父は父で、この止まった家の中で、わたしと同じ夜を、何度も、何度も、くり返していたのだ。
「わたし、会いに行こうと思う」と、わたしは言った。「母さんに」
父は、しばらく、わたしを見ていた。それから、ふっと、笑った。寂しそうな、でも、どこか、ほっとしたような顔で。
「...そうか」とだけ、言った。引き止めは、しなかった。たぶん、父にも、わかっていたのだと思う。誰かが、この家の、止まった時間を、動かさなきゃいけない、と。そして、それができるのは、自分じゃなくて、たぶん、わたしのほうだ、と。
帰り際、父は、玄関まで、出てきた。そんな事、久しく、無かった。
「……気をつけて、な」
ドアの外は、もう、夜だった。雲の切れ間に、月が、出ていた。わたしは、いつもの癖で、それを、見上げた。父も、つられて、空を、見た。二人で、しばらく、おなじ月を、見ていた。
見えない夜も、ちゃんと、そこにいる。
その言葉を、わたしたちに、残していった人に——わたしは、これから、会いに、行く。
* * *
終章 喫茶『月』
透が、喫茶『月』に来たのは、よく晴れた日の、夕方だった。
ガラス戸の呼び鈴が鳴って、透が、おそるおそる、入ってきた。一歩、足を踏み入れて、立ち止まった。
店は、何も、変わっていなかった。
五十二年前と、同じ木のカウンター。同じ、革の擦り切れたスツール。壁一面の、レコードの棚。天井から下がる、傘のかたちの、琥珀色のランプ。同じ場所に、同じ匂い。コーヒーと、古い紙と、雨に湿った木の匂い。まるで、この一軒だけ、時間に、置き去りにされたみたいに。透の目が、ゆっくりと、店の中を、たどっていった。棚のほうへ。窓辺のほうへ。そして、カウンターの内側へ。
たぶん、彼には、見えていたのだと思う。この場所に、まだ、十八の仁奈子が、エプロンをつけて、カウンターの中で、困った顔で、笑っている姿が。『勝手にかけないでって、いつも言ってるでしょう?』——そう言う、その声まで。
カウンターの奥に、灯さんが、立っていた。
二人は、しばらく、何も言わなかった。透は、灯さんの顔を見ていた。仁奈子に似た、目の細くなる、その面影を。灯さんも、透を見ていた。自分が、生まれるよりずっと前から、母の隣にいたかもしれない人を。
「……いらっしゃいませ」と、灯さんが言った。
ただ、それだけだった。お父さん、とも、言わなかった。透も、名乗らなかった。
「この席に」と、灯さんは、カウンター席を案内した。黒猫が、ちょうど、ひらりと飛び降りて、場所を空けた席の隣を。「どうぞ。母が——仁奈子が、いつも、誰かのために、空けていた席です」
透さんは、その席に、腰を下ろした。席には、あのアルバムが、置かれていた。
わたしと遥は、少し離れて、入り口近くのカウンター席で、それを見ていた。
透さんは、震える手で、その『断絶』を、手に取った。五十二年前、自分が、この店に置いていった、その同じ一枚。擦り切れたジャケットの角。陽に灼けて、薄くなった、青いインク。指の腹で、その手ざわりを、たしかめるように、なぞった。半世紀の埃と、雨の匂いが、染み付いた一枚。巡り巡って、今、その人の手に、戻って来た。透は、アルバムからレコードを優しく抜いて、そっと、灯さんへ手渡すと、プレーヤーに載せて貰った。灯さんは、針を、二曲目の、溝の頭に、静かに落とした。
ぱちぱち、というノイズのあとで、柔らかくて、黄昏た声が、流れた。「傘がない」。〈行かなくちゃ〉。五十二年前、透が、仁奈子と聴いた、あの歌。
透さんは、胸ポケットから、あの封筒を、取り出した。指が、震えていた。中の便箋を取り出すと、四つ折りの、黄ばんだ紙を、ていねいに、開いていく。五十二年分のその折り目を、確かめるように、そっと。
そして、誰もいない、隣の席に向かって——もう、どこにも居ない人に向かって、その手紙を、声にならない声で、読んだ。
「仁奈子さんへ」
声が、震えていた。
「君と過ごした時間は、月が綺麗だった。本当にありがとう。」
店の中に、ばらばらの時計はなかった。ただ、一枚のレコードの、針の音だけが、静かに、時を刻んでいた。
そのとき、灯さんが、カウンターから出てきた。
湯気の立つコーヒーカップを、そっと、透の前に——いや、透の隣の、誰もいない席のほうに、置いた。仁奈子の、席に。
「……いちばん、おいしく淹れました」と、灯さんは言った。「母の、レシピで」
透は、そのコーヒーを、見つめた。それから、顔を覆って、また、声を殺して、泣いた。
灯さんは、何も言わなかった。透の背中に、そっと、手を置いた。ただ、その手の暖かさだけが、二人の間に、あった。
*
わたしと遥は、そっと、店を出た。
二人の時間に、わたしたちは、もう、いらなかった。それに、わたしには、これから、行く所が、あった。
空に、東の月が、白く、出ていた。まだ夕方の、淡い空に、ぽつんと。昼の名残の中でも、ちゃんと、そこにいる月。
「ねえ」と、わたしが言った。「そういえば、まだ、言ってなかったね。わたしの名前」
遥が、月を見ていた目を、わたしに向けた。
ずっと、言えなかった。母が置いていった名前。本当に自分のものなのか、わからなかった名前。借りもののように、仕舞っていた名前。
でも、今なら、言える気がした。
「ルナ」と、わたしは言った。「わたしの名前、ルナ。——月、っていう意味なんだって。見えない夜も、ちゃんとそこにいるから。母さんが、付けてくれた」
言ってしまうと、それは、ちゃんと、わたしの、名前だった。誰かに借りた、落とし物なんかじゃ、なかった。母がくれて、わたしが、引き受けて来た、わたしの、名前。口にすると、胸の奥の、あの蝶番が、もう、軋まなかった。すっと、軽く、開いたまま、そこに、あった。
「ルナ」と、遥が、繰り返した。確かめるように。それから、にっと笑った。「いい名前。——うん。あなたは、ルナだ」
「行かなくちゃ」と、わたしは言った。「海の見える、あの町に。母さんに、会いに」
「うん」と、遥は言った。「一緒に行く」
そして、
歩き出したわたしたちは、静かに照らされていた。
(了)
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