
掌編:「狼」
金色の満月を見る度に、思い出す人が居る。
寡黙な、とある部族の血を引く青年。
太陽に焼かれ、緑と、砂と、風の匂いを孕んだ、赤い肌をした青年。
深夜のスーパーで清掃員をするには不似合いな、引き締まった腕と、分厚い胸板をしていた。
彼は誰の前でも決して声を上げ、口を開けて笑うことがなかった。
私が覚えている限り、ではあるけれど。
私を含む白い肌の同僚が歯を見せて笑う中、彼はただの一度も歯を見せて笑ってくれることはなかった。
どんな時も少し困ったように、はにかむ様に笑う。そんな時にたまに垣間見える白い歯が好きだった。日に焼けた赤い肌に覗く白いそれが美しくて、私はもっと堂々と笑えばいいのにと思っていた。
いま思えば、私は彼が好きだったのだと思う。
人の目に怯えがちで、彼にそれを伝えたことはなかった。でも、私に向けて笑ってくれたら、そう思いはしていた。
若く貧しい私がそれを認められたのは、もっと歳をとって、差別という言葉の意味を肌身で知ってからだったけれど。
私は、彼にとってはただのスーパーの清掃員の同僚、この程度に過ぎない、と思っていた。
けれど、彼は、あの月のない夜、街灯のない暗い帰り道、私の前に現れた。
悲鳴をあげても誰も来ないうらびれた場所で、暗がりに連れ込まれた私の前に。
大きな、大きな、金の瞳の、灰色の獣の姿で。
四足で現れたそれは、昔に動物園で見たものよりも遥かに大きかった。
目と口を見開く私の前で、それは二足で立ち上がり、唸り声をあげた。
私は、それの口元に覗く白い牙の色に、暗闇にきらめく真っ直ぐな金の瞳に、見覚えがあった。
私は、地響きのような唸り声を忘れない。
私を振り返った満月の色の瞳を忘れない。
白く輝く命を奪う大きな牙を忘れない。
なぜ、私は確信を持って彼の名前を呼んでしまったのだろう。
あの頃の私は愚かで若かった。ロマンスに憧れる愚かな娘だった。
暴漢を追い払ったそれは、私の声に振り向き、けれど、満月の瞳は揺らいで陰る。
それは悲しげに鼻を鳴らし、裏路地の深い暗闇に歩を進めていった。
やがて、二足から四足へと戻ったそれは姿を闇に紛れ込ませると、もうそれきり二度と戻ってくることはなかった。
そして、彼も、また。
私と時を同じくし深夜のスーパーで背を丸め、モップを握ることはなくなった。
その夜以降、二度と。もう二度と。
私は、金色の満月を見る度に思い出す。
あの暗闇に走る、白い牙と、金のきらめきと、銀になびくあの毛並みを。
私は、彼ほどに美しいいきものを、きっとこの先で見ることはないだろう。
見ることは、ないだろう。
参考文献:ワーウルフ ジ:アポカリプス
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