
自分のためと他人のためどちらに生きるのか
自分の事情を知ってもらいたいばかりで他人の事情を斟酌しないことは人において当然でありどちらかと言えば集団的な存在ではなく個人的な存在だからだ。もしそれを超越できるのなら、稀に、集団を個人だとみなして思える、行動できる人がいるくらいで、往々にしてどこまでも利己的なのが人間存在でありなぜならば、生命とは生まれる前から、自らだけが勝ち抜く競争の連続だからである。
譲歩させれば勝ち。
すなわち自分の事情を押し付ける。
もちろんいつも押し負けがちな人もいるにはいるし、別に珍しくもない。なぜなら勝者がいるには敗者がいるからである。当然に、勝ち進んでいって”頂点”にたどり着かない限りは誰かが必ず負けていくのだ。この世界はそういった事情の押し付け合いの会場であり日々、私たちはそれを繰り返して、普通は勝ったり負けたり、勝たせたり負けさせたりして、バランスの取れた一生を終える。
そのバランスの崩れた人間が一定数いることには何ら不思議はない。
だが誰も、自ら負けたいなどと思わないはずだ。
何らかのメリットがなければそう思うはずがない。自らだけが勝ち抜く競争の連続を放棄する意思とは、死ぬことに他ならない。
死を望まないならば、競争に打ち勝とうとせざるを得ない。
どんな人も、そういうわけで自分の事情を知ってもらいたいし、反対に他人の事情を斟酌せずに物事を為せるものならしたいのである。
それを自分勝手と名付けるのなら、それは単なる方便でしかない。他人の事情を放棄させる正義のふりをした嘘。
虎視眈々と、誰もが狙っていることを隙あらば盛り返そうとすることを考えねばならない。自分の事情と他人の事情を天秤にかけた時、傾くのは誰しも必ず自分になるのだということを。
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