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創作大賞ミステリー小説部門「北鎌倉 忘れられた約束」④


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

    朝の空気は、ほんの少しだけ肌を刺すように冷たい。
    今日は、和楽商店街の年に一度の福引大会の日。
    地元の人たちはもちろん、毎年この日をめがけて訪れる観光客も多く、商店街が一年でいちばん賑やかになる日だと聞いていた。
    商店街で千円の買い物ごとに一回の福引券がもらえる仕組みで、毎年、多くの人がこの日を狙って、少し多めに買い物をするという。
    普段は穏やかな通りが、この日ばかりはとても賑やかになるそうだ。
    特賞は大分県の別府温泉の豪華ペア宿泊券。
    その他にも商品券や米、たい焼き券、電化製品、日本酒と豪華な景品が並び、それを目当てに、普段はあまり顔を見せない人たちもやってくる。
    私はまだその光景を見たことがなかった。
    会場となる公民館は商店街の外れにある。
    公民館は、入ってすぐに20畳ほどの広さのホールになっている。
    普段は町内会の集まりや体操教室に使われるこの空間が、今日は特別な顔をしていた。
    隣では七海が、小さくあくびを噛み殺している。
    私たちは足早に玄関をくぐった。
    会場には、大きな赤いガラガラ抽選器が中央に置かれ、色とりどりの景品や手描きのポスターが目に飛び込んできて、
    思わず「うわあ」と声が漏れた。
    「これ、すごいね」私が思わず言うと、隣で七海も足を止める。
    「え、別府温泉? しかもペア? 本気じゃん」
    「商店街の福引って、もっとこう、ふきんとか、乾麺とか」
    「それ、偏見だよ」と七海はクスッと笑って、私の耳元に顔を寄せる。
    「ママ、あれ当ててくれたら、二人で行けるよね? 別府温泉」
    綾乃は思わず吹き出した。
    「その前に、私のクジ運のなさを忘れてるでしょ」
    会場内には、ひな壇のように景品がずらりと陳列されていた。
    中央には金色の縁取りで「特賞 別府温泉 豪華ペア宿泊券」と書かれたボードが飾られている。
    その下には、ひときわ高級感のあるパンフレットが、立派なフレームに入れられていた。
    そしてその周囲を囲むように、
    ・五穀屋の「新潟産こしひかり10kg」
    ・鯛福の「たい焼き10個分の回数券」
    ・布袋電気店店からは「コードレスハンド掃除機」
    ・私の店からは「くるくるカレー300円分お食事券」
    ・千年蔵からは「高級日本酒 一升瓶」
    ・祥文堂からは「図書券3000円」
    ・会長の大河内からは「商品券(商店街共通)5000円、1万円、3万円分」
    そして参加賞として、玲央くんがデザインした商店街オリジナルパッケージの液体洗剤とトートバッグ。
    会場全体が、ちょっとした百貨店の催事場のような華やかさだった。
    「じゃ、そろそろ始めましょうかね」
    背後で声がして、私は振り向いた。
    集まったのは、会長の大河内仁さん、鯛焼き屋の福丸喜一さん、電気屋の亮介さん、米屋の黒崎幸助さん、古本屋の長谷川祥吾さん、そして酒屋の千年蔵の若いアルバイト、坂本涼―くん、いずれも福引イベントの運営役員たちだった。
    「今日初めての参加ってのは綾乃さんと、七海ちゃんだけだね?」と福丸がにこにこと話しかけてくる。
    「綾乃さんと七海さんが加わってくれて、一気に華やかになりますね」と大河内がいう。
    「ありがとうございます、がんばります」と私も力をこめる。
    「あの~、私もくじを引いてもいいんでしょうか」と七海が遠慮がちにいう。
    「もちろんですよ。福引券があれば、挑戦してくださいね」と大河内が抽選器を回すしぐさをする。
    進行係の亮介さんが手にしたクリップボードを見ながら、持ち場や注意事項を口にする。
    「大河内さん、金の玉の投入は会場がはじまる午前11時でいいですか」
    「そうですね。抽選器に入れる前に、皆さんの前で投入しますよ。では皆さん今日は、順番で2人ずつの当番でお願いしますね。開始は11時からです。10時50分には開場します」
    大河内が締めくくると、全員がゆるやかに動き出した。
    私はまた、背後の目録ボードの「特賞:別府温泉の豪華ペア宿泊券」の金色の文字を眺める。
    七海の耳打ちを思い出していた。
    「ほんとに当たったら、どうする?」
    「え、行くしかないじゃん」
    七海が即答する。
    私は、笑いながらも、だけど、“当たる”って、そんなに簡単な話なのかなと、胸の奥でふと冷静な自分がささやくのを感じていた。
     
    カレーの香りがまだ微かに残る店内で、ようやく昼の営業を終えた。
    「クルクルカレー」も、普段以上の賑わいを見せていた。
    エプロンを外しながら時計を見ると、すでに午後3時を回っている。
    七海と黒崎の番が終わるころだ。遅くなってしまったことを心の中で詫びつつ、店のドアを開けて外へ出た。
    クルクルカレーは商店街のいちばん端にある。
    そこから商店街全体のにぎわいが目に映った。
    たい焼きを頬ばる親子連れ、手提げ袋をいくつも抱えた買い物客、
    景品の封筒を振って中身を確かめる高校生、
    そして店先に椅子を出して世間話に花を咲かせる顔なじみの店主たち。
    どこから人がこんなに湧いてきたのかと思うほどの賑わいで、初めてみた商店街の活気だった。
     
    抽選会場の公民館の扉を開けると、がらがらと抽選器の音が響いてくる。
    抽選器のまわりには列ができ、誰かが玉を回すたびに「おーっ」「白ー!」「残念〜」と歓声が上がる。
    景品台の前ではすでにきている亮介さんと七海が賑やかに盛り上げていて、当たった商品を黒崎さんが渡している。
    ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、奥から七海が嬉しそうに駆けてきて、
    「ママーっ!」と七海が駆け寄ってきた。
    頬が赤く、手にはなにか白い封筒を握っている。
    「どうしたの? そんなに嬉しそうに」と問いかけると、七海は息を弾ませながら封筒を開いてみせた。
    「じゃーん! 商品券、1万円分、当たった!」
    「ええっ、ほんとに? すごいじゃない!」目を丸くすると、すぐそばにいた亮介も声をかけてきた。
    「おー、やるな七海ちゃん。何回引いたの?」
    「10回!ご褒美にもらった役員分の抽選券。赤と白ばっかだったけど、これだけ青玉!」
    封筒の中には、和楽商店街共通の商品券がきちんと入っていた。
    金色のロゴ入りの台紙に、1万円の文字がまぶしい。
    「でね……」
    七海は綾乃の顔をのぞきこみながら、声を落とした。
    「別府温泉の豪華ペア宿泊券、まだ出てないの。会場の人にも聞いたけど、誰も知らないって。だからね」
    一拍おいて、ニッと笑う。
    「ママに任せたから。ちゃんと当ててね、私たちの分」
    「え、なにそれ、プレッシャー!」
    綾乃が笑うと、亮介が肩をすくめて言った。
    「任されちゃったねぇ、あとは金玉を出すだけだ」
    「軽く言わないでよ。そんな簡単に出るなら誰も苦労しないわよ」
    「でも、ママならやってくれるって思ってるから」
    七海はポーチをぱたんと閉じると、
    「じゃ、私はちょっと休憩してくる。福丸さんのたい焼き買いに行くって約束してるの」
    手を振りながら、軽やかな足取りで会場を後にしていった。
    抽選器の前にいた小さな子どもが駆け寄ってきて、お母さんと一緒にガラガラを回す。
     出た玉は白玉の参加賞で景品は小さいウエットティッシュ。
    場内の熱気と笑い声が続く中、列の途中に見覚えのある姿を見つけた。
     七海の同級生のたしか山田くんといったかな。七海と同じ美術部で学校の発表会でやけに工作が上手かったのを覚えていた。
    細身でおとなしそうな子で灰色のフードつきのだぼだぼのパーカーの袖がたるんでいる。
     「どうぞ」と声をかけると、少しだけ緊張したようにレバーに手をかけた。
    その時、入り口付近で小さな子供が大声で泣き出した。何か食べていたお菓子を落としてしまったようで、そばにいた母親がなだめている。
    そちらに気をとられていると、後ろに並んでいた人達がざわついて「金色? えっ、出た!? 金の玉だよ!」とささやいている。
     私は身を乗り出して、皿の上を見るとそこには、まばゆい金色の玉が、ころんと転がっていた。
    「特賞、出ました! 別府温泉ペア宿泊券です!」と叫ぶと、場内から拍手と歓声が広がった。
    山田くんは気まづそうに小さく会釈しながら、玉を手のひらにのせている。
     そのとき少し離れていたところで見ていた亮介が、近づいてきて「ちょっと、ごめん。それ、貸して」
     亮介は山田くんの手から玉を受け取ると、指先で転がし、まじまじと見つめている。
     「ちょっと綾乃さん、俺、彼と一緒に控室に行くね」
     亮介は山田くんに目配せしながら、そっとその場を離れた。
     私は驚いて声をかけかけたが、すぐに次の人が抽選台に立ってしまい、対応せざるを得なかった。
    「えっと、次の方、どうぞ」と声が少しだけ上ずる。
     なんなの、いったい。私は笑顔を作って、次の子どもに「がんばってね」と声をかけるしかなかった。
    「たいやき、買ってきたよ。あれ、電気屋さんは?」と七海があったかいたい焼きの袋を片手に持ちながら状況を伺う
    「うん。ちょっと、トイレかな。すぐ戻ってくると思う」と咄嗟に嘘をつく。
    真相はわからないけど、七海の同級生がからんでいることだ。あまり大げさに広げてはいけないと思った。
    「じゃ、私がしばらくカバーするね。はい、どうぞ〜、がんばって回して!」と七海はにこやかに次のお客さんに声をかけ、流れるように抽選のサポートに入ってくれた。
    中学生だけど七海は本当に頼もしい。
    私はランチタイムが忙しく昼食を摂っていなかったから、たい焼きを一口ちぎった。
     皮がサクサクで、あんこがまだ熱かった。じんわりと甘さがしみて、ちょっと涙が出そうになる。
    大河内が様子を見にやってきたので、抽選器担当を七海に任せて亮介と山田君のいる控室に行く。
    控室のドアをそっと開けると、 折りたたみの椅子に座る山田君は、目の前の床を見つめたまま、両手をぎゅっと膝の上に置いている。
     亮介は壁に寄りかかって腕を組んでいたが、私に気づくと神妙な顔を向ける。
    「ごめんなさい」
     山田くんの声は小さかったけれど、よく通った。
    「ぼくが作ったんです。金の玉、自分で」
     私はドアを静かに閉めてから、彼の正面に腰を下ろした。
    「どういうことか、話してくれる?」
     山田君は何度か口を開きかけて、それでもすぐ閉じた。
     言葉を探しているのか、それとも自分の中の気持ちを整理しているのか。
     やがてかすれた声でぽつぽつと話し始めた。
    「僕、工作とか細かいの作るの、好きなんです。プラモデルとか、ジオラマとか。夏休みにも、学校で賞もらって」
     「そうだよね。私も学校で作品を見たよ。ほんとに上手いよね」
    「去年、兄貴が別の所で当てた福引の金の玉がうちにあって。それをを手に取って、ふと思ったんです。“これ、作れるかな”って。金色のスプレー、買って。重さとか、バランスとか、できるだけ近づけて」
     彼は自分の手のひらを、じっと見つめた。
    「ただ作って終わりじゃつまらないって思って。バレてもいいから、“これ、偽物じゃない?”って誰かに言われるか、気づかれたら、面白いかもって。なんていうか、いたずらです。ほんとただの。ごめんなさい」山田くんの声は、震えていた。
    私と亮介は、無言で顔を見合わせた。
     悪気があったわけじゃないだろう。
     でも、実際に「金の玉が出た」となれば、商店街全体に影響が出る。
     「本当のことをいってくれて、ありがとう」
     少しだけ間を置いて、私は言葉を続けた。
     「山田くんがしたことは、たしかに“いたずら”のつもりだったかもしれない。
     でもね、誰かが困ったり、信用を失ったりする可能性があることは、“試してみた”じゃ済まないの」
     山田くんはうつむいたまま、小さくうなずいた。
     「悪意がなかったってことは、ちゃんとわかってる。それに、怖くなって逃げたり、言い訳をしたりしなかった。あなたはちゃんと、自分で話してくれた。それは、すごく勇気がいることだったと思うよ」
     山田くんの肩が、ほんの少しだけ震えた気がした。
    私は声のトーンを落として、やさしく微笑んで「ねえ、今回のこと。“私たちだけの秘密”にしようか」
     山田くんが顔を上げた。驚いたような、けれど少しほっとしたような目をしていた。
     「もちろん、あなたが本当に反省して、これからちゃんと考えて行動できるって、約束してくれるなら、だけどね」
     「はい。約束します」
     しっかりとした声だった。
     ようやく、山田くんの顔に少しだけ色が戻ってきた。
     「それじゃ、手を出して」
     「え?」
     「秘密の約束。小指で、きゅっとね」
     ちょっと照れくさそうに笑いながら、山田くんは小指を差し出してきた。
     私はその小指にそっと自分の小指を絡めた。
     「よし。じゃあこれは、君と私、そして亮介さんの三人だけの秘密。いい?」
     「はい」小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。
     亮介が軽く咳払いをして「じゃあ、その偽物はどこにあった?」
    「さっき回すふりして、手の中から受け皿に置きました。レバーは回したけど、玉は入れてません」
    「なるほどね。ってことは本物の金の玉はまだあの抽選器に入ってるってことだな」と亮介が私を見る。
     
     山田君を帰して、私と亮介が抽選器のところに戻ると、七海が「二人でどこにいってたの」と少し不満気味にいう。
    私はすでに空っぽになっていた、たい焼きの袋を持ち上げて「あ~!食べたな~」と七海を攻めて「手伝ってくれてありがとう。助かったよ」と軽く笑う。
     七海は少し照れ笑った七海の表情は、なにも知らないままだ。
     私も亮介もまたもとの持ち場に戻り、列をさばく。
     担当の時間が終わり集会所所を出た頃には、すでに空が夕闇に染まり始めていた。
     和楽通りの街灯がぽつりぽつりと灯り、時計を見ると、午後5時ちょうど。
     やばい、ディナータイムが始まる。急いでお店に戻るとクルクルカレーの前には、さっきの抽選会でうちの店で出した3000円のお食事券当たった親子連れがすでに並んでいた。
     そこから先は、まるで洪水だった。
    福引帰りの家族連れ、口コミを聞きつけたらしい学生グループ、観光客らしき夫婦であっという間にすぐに店内は満席になり次の組がもう店の外に並んでいる。
    ひとりで対応するには、どう考えても人手が足りないと思い、まだ集会場にいる七海に助けを求める連絡をした。
    しばらくして七海が戻ってきて、エプロンをしてすぐに接客に入ってくれる。
    いつの間にか身につけたのか七海はにこやかに注文を聞き、配膳し時折、カレー鍋をかき混ぜるて盛り付けまでしてくれる。
    わが娘ながらの立ち回りに感心してしまう。
    そして「こういうカレー、久しぶりに食べた」「この商店街、いいね」
     そんな言葉が聞こえるたびに、体の芯が少しずつ温かくなっていく。
    最後のお客さんが帰ったのは、夜の8時半だった。
     普段の倍の量を用意したカレーも一皿分だけ残り、それを七海が食べている。
     「今日はホントに七海に助けられたわ」とカウンターの七海の隣に座る。
     そのとき、ポケットのスマホが震えた。亮介からのメッセージだった。
    「今、集会場。特賞の件でみんな集まってる。来れたら来てほしい。綾乃さんにも関係ある話になると思う」
    私はスマホを見つめたまま、七海に声をかけた。
     「ちょっと、集会場に行ってくるね」
     「うん、気をつけて」
     それだけのやりとりをして、私は上着を羽織り、エプロンを外して外へ出た。
     冷えた風が頬をなでていく。
     集会場のドアを開けると、中には朝と同じ顔ぶれが並んでいた。
     亮介さん、大河内さん、蔵本さん、黒崎さん、長谷川さん。福丸さんが揃っていた。
     「綾乃さん、来てくれてありがとう」と大河内さんが静かに声をかけてくる。
     私は黙って席に着き、空気の重さに背筋を伸ばした。
     大河内さんが特賞が誰も当選していなく、抽選器の中にも金の玉が入っていないことを説明してくれる。
    朝の抽選会の開始の時に亮介や他の役員が立ち合いのもと、大河内さんが金の玉を含めた当たりの玉を入れている。
    山田君は、自分が作った偽物の玉は抽選器には入れていないと言っていた。
    では一体本物の金の玉はどこに消えてしまったのだろう。
    「それって金の玉がどこかに紛失したってことですか」と私は大河内さんにいう。
    「そうなんだ。特賞以外の景品は全てでたんだけどね。最後まで誰も特賞を当てられなかったんだ。それで抽選器の中を確認したら、いれたはずの金の玉がないんだよ」と大河内さんが私を真っすぐに見つめる。
    「ずっと抽選器の前には誰からしら役員がいたから、金の玉が無くなることはないはずなんだ」と亮介さんが続ける。
    そして大きな白板に、亮介がペンを持って立ち、誰がいつ、抽選器を管理していたのか。
    福引大会の一日を時系列で整理していく。
     「午前10時から11時は長谷川さんと坂本くん」
     「11時から12時からは黒崎さんと蔵本さん」
     「12時から13時は七海ちゃんと福丸さん」
    「13時から14時は七海ちゃんと大河内さん」
    「14時から15時は俺と大河内さん」
    「15時から16時は俺と綾乃さん」
    「16時から17時は長谷川さんと黒崎さん」
    「17時から18時は俺と大河内さん」
    と亮介が書き終えて、みんなを見て「今この場にいないは坂本くんか」
     「彼に直接、話を聞く必要があるかな。でも今夜は無理だろうから。蔵本さん、明日、店に出てきたら聞いてください」と大河内さんが蔵本さんにいう。
     その日は、そこで解散となった。
     
    翌日の夜、集会場のドアを開けたときには、すでに昨日の役員全員がそろっていた。
    私は「遅れてすみません」と小声で頭を下げ、空いていた席に腰を下ろす。
     坂本くんは、私の斜め前に座っていた。
     大河内さんが静かに「昨日、抽選会で特賞の金の玉が紛失していることがわかったんだけど、みんなで確認したいのは、金の玉がどこにいってしまったことなんだ」
    蔵本さんが腕を組みながら「玉が入れ忘れられたのか、途中で誰かが抜いたのか、それとも別の理由か。誰かを犯人にしたいんじゃない。ただ、事実が知りたいだけだ」
    静かな沈黙がしばらく続いた。
    坂本くんが、ぽつりと小さな声で口を開いた。
     「僕が、抜きました」
     誰も言葉をかぶせなかった。
    「特賞を母のために当てたかったんです。母は病気で、最近また入退院の繰り返しで。でも、少しだけ調子がよくなって。昔、父と行った別府温泉に“もう一度だけ行きたい”って言っていて。妹にくじ引きを引かせようと思っていたら、急に来れなくなって。そのまま戻せなくなって」のと坂本くんが静かにいう。
    全員が静かに見守る。
      「あのさ」蔵本さんの低い声が場を破った。
     「馬鹿だよ。ほんと、馬鹿。でもお前の気持ちもわかる。でもなやったことは許されることじゃない。俺からも皆さんに迷惑をおかけして、申し訳なかった」蔵本さんが立ち上がり、深く頭をさげる。
    それにならって、坂本君も立ち上がり、深く頭をさげる。
    大河内さんがゆっくりと頷いて「不正は不正だ。坂本君正直に話してくれてありがとう。だがこのままにはできない。1週間後の日曜日に特賞だけの再抽選を行おう」
    その場の全員が頷く。
     
    1週間後の日曜日、準備のために、今日は朝から集会場に役員たちが集まっていた。
    私も開店前に少しだけ顔を出す。
    「これが新しい金の玉です」亮介が、手のひらに載せた玉を見せてくれた。
     前よりも少しだけ大きくて、しっかりと重みがある。
    「真鍮製で、底に小さなICチップ入れてある。抽選器の底に反応センサーをつけてるから、出たら自動的に“特賞”ってアラームが鳴るんだ」
    「すごい。なんか、近代的になったわね」と私は、新しい金の玉をつまんで手の上でころがしてみる。
    「文明の力だよ。もう誰にも抜かせない」よ亮介が力をこめる。
    蔵本さんが、抽選所の横に置く新しい「特賞当選ボード」を持ってきていた。
    派手な赤いリボンがついていて「目立たないと意味がねぇんだよ、こういうのは」と言いながら、嬉しそうに設置していた。
    「抽選券はもう配ってあるし、今回は“特賞だけ”の一発勝負だからね」黒崎さんが言う。
    「そうそう、夕方の5時から、抽選は1回きり。参加者は、今日の再抽選用の特別券を持ってくること」
    「失くした人のために、控え番号もチェックできるようにしてあるよ」と長谷川さんが、一覧表をしっかりホチキスで留めながらうなずく。
     
    夜のくるくるカレーは、最近ちょっと忙しい。
    秋祭りのあと、名前が広がったらしく、夜の営業にも家族連れやご近所さんがぽつぽつと来てくれるようになった。
    この日もテーブル席はすでにいっぱいで、カウンター席も残り二つ。
    厨房とホールを行ったり来たりしながら、サフランライスの炊き具合を気にしていた。
    カラン、とドアベルが鳴ったとき、とっさに顔を上げた。
    「あら〜、にぎわってるのね」
    店に入ってきたのは、小柄ではつらつとした小池さんと、その後ろに長谷川紀子さんが控えめに続いていた。
    二人とも、めずらしく外出用の明るい色の上着を羽織っていて、なんだかちょっと嬉しそうな顔をしている。
    「いらっしゃいませ。お席、カウンターになっちゃいますけど……」
    「いいの、いいの。端っこ空いてるわよね」と小池さん。
    紀子さんも黙ってうなずきながら、カウンターの一番奥に腰を下ろす。
    小池さんはレジの横、いつものぽかりん人形に目を留めて「今日も元気そうね」と微笑みかけたあと、私の方に向き直った。
    「ご報告にきたのよ。あの別府温泉の特賞、わたしが当てたって話、聞いた?」
    私は時計を見て「そうですよね。抽選会5時からでしたもんね」
    「ふふふ、見事に金の玉が出たの。わたし、今年は運を使い果たしたかもしれないわねぇ」
    「すごいじゃないですか!」
    私は嬉しくて、思わず手に持っていたスプーンを置いた。
    「でもね、一人で行ってもしょうがないでしょ。だから、紀子さんを誘ったの」
    隣の紀子さんは、ぽっと頬を染めたような顔で「なんだか、巻き込まれたみたいなんですけど」と小さく言った。
    でもその声には、ちょっと嬉しそうな響きがあった。
    「紀子さんと旅行、楽しそうですね「」
    「ね? この人、しっかりしてるから、旅の段取りも安心なのよ」
    「私はただの荷物持ちです」
    ふたりのやり取りに、胸がじんわりとあたたかくなった。
    「じゃあ、今日は何にします?」
    「もちろん、おひさまカレー! 今日はそれを食べに来たのよ」
    「わたしもそれで」紀子さんも続けるようにうなずいた。
    私は厨房に戻りながら、ふと嬉しくなっていた。
    カウンター越しに、小池さんがぽかりんに「温泉、行ってくるわね」とささやく声が聞こえた。
    私はフライパンを熱しながら、そっと笑った。
    ──いいな、こういう夜。
    そう思いながら、ふたりのために、心を込めて切ったゆでたまごをカレーに乗せた。
    ちょうどいい感じに、おひさまカレーが仕上がっていく。
     
    クルクルカレーのランチタイムが落ち着きはじめ、カウンターで亮介がチキンカレーをのんびりと食べていた。
    店の外の営業の看板を支度中に変えて、店に戻るとテーブル席で食事を終えた二人の女性が、そっと立ち上がった。
    どちらも似た顔立ちで、姉妹のような雰囲気をまとっていた。
    「とってもおいしかったです。なんだか懐かしい味で。私たち姉妹で実家がこの近くで、両親が亡くなって家の片付けできたんですよ。それでこの商店街も昔よくよく来てたんです」姉の方が、そう言って微笑む。
    「ありがとうございます」
    「こちらは、昔あったぽかぽかさんと関係があるんですか?味がなんだか似ているようなので」妹が首を傾げてそう言う。
    ぽかぽかカレー、その名前は最近何人かの人から聞いた名前だ。
    「かなり昔にぽかぽかカレーさんがあったことは、何人かのお客様からも聞きました。でも私はそのお店の方とは何の関係もないんですよ」と、私はカウンターの縁に指を添えて静かにいう。 
    「御夫婦でやっていてね、仲良くてね。小さな娘さんがいたわね」と姉が私をじっと見つめる。
    「そういえば、タイムカプセル、覚えてる?」と妹が姉にいう
    「あ~、そんなことあったわね」と姉が懐かしいそうに微笑む。
     「あれもうほりおこしたのかしら?」
    「タイムカプセルですか?」とカウンターでカレーを食べ終わった亮介に視線を向けると、亮介は知らないと首をふる。
    「確か大樹の下に埋めたって聞いたけど違ったかな。30年後くらいに開けるって言ってたけど、もうすぎてるわよね」と姉がいう
    「そんなこと、あったんですね。俺そのころまだ小さくって全然知らないです」亮介さんが思案顔でいう。
    姉妹たちが帰って、客は誰もいなくなった店内で「タイムカプセルって、開けると何が入ってるんだろうな」
    と亮介さんがアイスコーヒーを飲みながら呟いた。
    「手紙とか、絵とか、未来の自分へのメッセージとかなのかな」
    「大河内会長に聞いてみるかな」
    「この場所に昔あったというぽかぽかカレーの味と私の味が似ているって言われるのも気になるんだ」
    「タイムカプセルで、なんかわかるかもな」亮介さんはいつもの調子であっさりと言っただけだったけど、そのひとことにとても心がざわついた。
    ぽかぽかカレーのことを知ることが、何か自分自身の根幹を変えることのような胸騒ぎがした。
    亮介さんが大河内さんにタイムカプセルのことを聞いてくれて、福引大会の翌週の日曜日の朝に掘り起こすことになる。
    11月の下旬の午前10時
    空気はぴんと張りつめていて、私は七海と並んで広場へ向かった。。
    商店街を抜け、公民館のある広場が見えてきた。
    視界の先、大きなケヤキの木の根元には、すでに20人くらいの人が集まっていた。
    周囲を見回しても、知っている顔はほとんどない。
    年配の方が多く、中には杖をついた人や、懐かしい顔で話し込んでいる人もいる。
    小さな町だから、すれ違ったことくらいはあるかもしれない。
    でも名前も、昔話もなにも知らない自分が、少しだけ場違いなような気がした。
    広場の端に大河内さんや長谷川さん、黒崎さん、そして亮介の姿が見えた。
    私たちを見つけると、亮介さんが軽く手を挙げた。
    私も小さく手を振り返し、七海と並んでそちらに向かう。
    「おはようございます。」
    「おう、寒いな」と大河内さんが腕をふりながら笑った。
    「でも、天気がもってよかったですよ」亮介さんが空を見上げて言う。
    見上げると空はうっすら曇っているけれど、今のところ雨の気配はない。
    周囲では、集まった人たちがざわざわと話をしている。
    懐かしい顔を見つけたのか、「ああ、久しぶりだね」
    「元気だったかい?」と、小さな再会を喜び合う声も聞こえた。
    私はふと、そんな光景を眺めながら思う。
    みんなこの場所に、思い出を埋めた人たちなんだ。
    私だけが、その思い出を持たない。
    「それじゃあ、始めようか。」大河内さんの声が広場に響いた。
    周囲がすっと静まる。
    みんなが自然と、ケヤキの根元へと視線を向けた。
    準備されていたスコップを、大河内さん、亮介、それに何人かの住民の方々が手に取った。
    土の表面は固く、スコップを差し込むにも力が要った。
    ざく、ざく。スコップが土をかき分けるたびに、冬の冷たい空気に、かすかな土の匂いが立ち上る。
    七海が私の袖を引いて「ねえ、何が出てくるのかな?」と言う。
     
    夜の八時すぎ店を閉めて、私は七海と一緒に公民館に向かった。
    空気はさらに冷え込み、夜の町は静まり返っていた。
    公民館の戸を開けると、ほんのり暖房の匂いが鼻をかすめる。
    中には亮介さんがひとり、山積みになった段ボールのそばで座っていた。
    「おう、来たか」亮介は笑って手を挙げた。
    「持ち主がわかるものは引き取り済みだけど、いくつか誰のかわからないものが残ってるよ」
    私と七海は、段ボールの前にしゃがみ込んだ。
    小さな木箱や古びたアルバム、色あせたおもちゃが並んでいる。 
    その中に一枚、ふと目を引く写真があった。
     木造りの看板に書かれた『ぽかぽかカレー』という手書きの文字。
    店の前に立っているのは、若い男女とその間に立っている7歳くらいの小さな女の子。 
    私は写真に手を伸ばして、じっとみつめる。
    その若い男女は私の両親だった。
    『ぽかぽかカレー』を営んでいたのが、私の両親だったということ。
    そこに映っている小さな女の子は私だということ。
    七海が私の肩越しにのぞき込み「ねえ、この子ママに、すごく似てない」
    私は凍りついたように、その写真をじっと見つめた。
    頭の奥で、何かがかすかにざわめく。
    こめかみがずきりと痛んだ。
    軽いめまいを覚え、私はその場に思わず手をついた。
    「おい、大丈夫か?」亮介の声がすぐそばに聞こえたが、返事をする余裕がなかった。
    遠い霞がかった記憶の底で、何かがひとひら、光を放っていた。
    「これ、持ち帰ってもいい?」私はかすれた声で聞いた。
    亮介は一瞬驚いたように眉を上げ、それから優しくうなずいて「持ち主は不明だしな。どうぞ」 
    私は写真を胸に抱き、七海と一緒に、公民館をあとにした。
     
    家の中には、静かな湯気のにおいが残っていた。
    熱めの風呂に浸かったせいか、
    体の芯までぼんやりと温かい。
    私は髪をタオルで拭きながら、二階の部屋に戻った。
    灯りは小さなスタンドライトだけ。
    カーテンの向こうには、冷たい夜空が広がっている。
     
    ベッドに腰掛けて、カバンを引き寄せる。
    中から、あの写真を取り出した。
    ぽかぽかカレーの前で微笑む、若い両親と、小さな子ども。
    写真を、そっと両手で包み込む。
    この子が、私。
    それは、もう疑いようのないことだった。
    でも、記憶はない。
    笑っているのに、なぜだか、遠く感じる。
    胸の奥が、きゅうっと小さく痛んだ。
    私は、指先で写真の表面をなぞった。
    看板の文字。
    店の扉。
    父の手、母の笑顔。
    そして、小さな自分の、あどけない表情。
    ひとつひとつを、そっとなぞる。
     
    「なにも、思い出せない。」
    声に出すと、少しだけ涙がにじみそうになった。
    私は写真を持ったまま、仰向けにベッドに倒れ込む。
    天井をぼんやり見つめながら、目を閉じた。
    遠い、遠い記憶の底。
    まだ言葉にならない、何かが、そこにある。
    胸の奥で、かすかなざわめきがした。
    まるで、長いあいだ眠っていた何かが、静かに目を覚まそうとしているみたいに。
    だけど、焦らなくていい。
    すぐにすべてを知ろうとしなくてもいい。
    そんなふうに、自分に言い聞かせた。
    私はもう一度、そっと写真を見つめた。
    幼い私の笑顔。
    それを包む両親のやさしい視線。
    たった一枚の写真の中に、失われたはずの時間が、確かに生きている。
    私は、写真を胸に抱き、そっと目を閉じた。
    少しずつでいい。
    これから、ちゃんと、取り戻していこう。
    冬の夜の静けさが、やさしく、私を包み込んでいた。
     
    夜の営業が始まって、まだお客さんの気配はない。
    スパイスの香りが店内にふわりと漂い、厨房から湯気が立ちのぼる。
    私はフライパンの火を弱めてから、カウンター越しに目をやった。
    七海が、いつもの一番端の席に座っている。
    制服から部屋着に着替えて、肩の力が抜けたような姿。
    目の前には、おひさまカレーの皿。
    「どう? 今日のはちょっと甘みを強めにしてみた」
    「うん。すっごくおいしい」
    そう言って、七海はカレーをひと口食べ、口元をほころばせた。
    厨房を出て、私もカウンターの内側に腰を落ち着ける。
    お客さんが来るまで、あと数分あるだろう。
    「ねえ、七海」
    私は、ためらいながらも封筒を差し出した。
    「これ見てほしいんだ」
    七海がスプーンを置き、封筒を受け取り、中から一枚の写真を取り出した。
    それは、あの店の前――今のくるくるカレーの場所で、若い夫婦と、小さな女の子が笑っている写真。
    七海はしばらく見つめてから、ふっと息を吐いて「……やっぱり、そうだったんだ」
    私は少し目を見開いて「え?」
    「うすうす気づいてた。ぽかりんのこととか、スケッチブックの絵とか。ママがここに来てから時々見せる表情とか。なんか、全部がつながってる気がしてた」と写真を指先でなぞりながら、七海がつぶやく。
    「おじいちゃんと、おばあちゃん……そして小さい時のママ。三人とも、まるで時が止まったみたいに、ここにいるね」
    私はうまく言葉が出てこなくて、ただ小さくうなずいた。
    「この写真を見て、ようやく確信したの。私、ぽかぽかカレーの娘だったんだって」
    「うん。そう思う。だって、ぽかりんがここに似合いすぎてる」
    七海が視線をレジの方に向ける。
    ぽかりん人形が、いつものようにレジの横にちょこんと座っていた。
    店の全体を見渡すように、ちょこんと座っているその姿が、なぜか心強く見える。
    七海が立ち上がり、ぽかりんをそっと持ってくる。
    カウンターの上に置かれたぽかりん人形を、ふたりで見つめた。
    「ぽかぽかの頃から、ここにいたんだよね、この子も」
    「うん……」
    「ママが描いたキャラクターだもんね?」
    「うん。記憶にはないけど、小さい頃の私が描いて、手芸屋さんが作って」
    「じゃあやっぱり、ママは、ここに帰ってきたんだね」と七海が、ぽかりんを指で軽くつつく。
    その言葉が、胸の奥にじんわりと染みてくる。
    「うん。帰ってきた。やっと」私はそう言いながら、写真を見つめた。
    ぽかぽかカレーの店先。若い母と父、そして小さな私。
    あの頃を知らないはずなのに、懐かしさで胸がいっぱいになる。
    「こんどの役員会で、ちゃんとみんなに報告しようと思うの。私がぽかぽかカレーの娘だったって」
    「いいと思うよ」七海は素直に頷いた。
    「ここでまた、ママのカレーを出してるって、すごく意味があることだと思うし。ぽかぽかカレーを知ってた人たちも、きっと喜ぶと思う」
    「ありがとう、七海。そう言ってもらえて、ほんとにうれしい」
    「うん。でも、おひさまカレーの味だけは、ちゃんと守ってよね?」
    「はいはい、責任重大だわ」
    ふたりで小さく笑った。
    夜の始まりの静けさの中で、私は確かに思った。
    この子と一緒にここで生きていくって決めたことは、やっぱり間違ってなかった。
    私は帰ってきたのだ。
    カレーの香りと、ぽかりんと、そしてこの店と共に。
     
    日曜日の営業を終え、店の片付けもそこそこに私は足早に歩いていた。吐く息が白く、冬の入り口がすぐそこまで来ているのを感じる。
    商店街の並びを抜け、小さな坂道を越えて、公民館が見えてきた。
    灯りはまだついている。ドアの前で一度、息を整えてから中に入った。
    玄関を抜けてすぐの広いホール――そこが会議の会場だった。
    長机がロの字型に並べられ、パイプ椅子には役員たちが座っていた。
    私は駆け足で会場に入る。
    「遅くなりました!」と声を上げると、真ん中にいた大河内会長が顔を上げた。
    「ああ、綾乃さん。来てくれたか」
    その声は穏やかで、どこか笑みを含んでいた。
    「すみません、営業終わってすぐ飛び出してきたので……」
    「もう会議は終わったよ。秋祭りの反省と、来年の活性化案も一通り話し合ったところだ」
    その言葉に、私は少し肩の力が抜けた。
    「そうでしたか……」
    椅子に腰を下ろそうとして、でもその動きを止めた。
    今だ。今言わなければ、きっと言えなくなる。
    私は鞄から小さな封筒を取り出した。そして、それを手に、机の中央まで歩み出る。
    「皆さん、せっかくこうしてお集まりの場なので、一つだけ、私からお話させてください」
    全員の視線が私に集まる。
    私は封筒から一枚の写真をそっと取り出し、机の中央に置いた。
    「この写真、先日タイムカプセルから出てきたものなんです」
    写真には、かつてのぽかぽかカレーの店の前で、若い夫婦と幼い女の子が並んで写っていた。
    どこか懐かしげな光に包まれて、三人は笑っていた。
    「この子が、私です」
    自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
    「ぽかぽかカレーを営んでいた両親と、そこで育った私です。火事のあとのことは、よく覚えていません。でも」
    写真の中の笑顔を見つめながら、言葉を継いだ。
    「この写真を見て、確信しました。私はたしかに、この場所で暮らしていた。そして今、くるくるカレーとして、同じ場所で、もう一度カレーを作っているんです」
    沈黙が流れた。
    けれどそれは重苦しいものではなく、たしかに受け止めようとする静けさだった。
    最初に口を開いたのは、大河内さんだった。
    「そうか……そうだったのか。いや、実は、どこかでそうじゃないかって思ってたんだよ」
    「このカレーの味、どこか懐かしい気がしてた。まさか、ぽかぽかの娘さんだったとはなあ」と黒崎さんが笑う。
    「わたしの妻も言ってたよ」長谷川祥吾さんが穏やかに頷いて「ぽかりん人形の話や、あの砂時計を見た時から……もしかしてって。やっぱり、間違いなかったんだな」
    その言葉に、私は小さく頷いた。
    「この写真を見て、ようやく、自分の中で繋がりました」
    「いいじゃないか。立派だよ」そう言って蔵本さんが、ぽんと手を打って「この商店街はさ、戻ってくるべき人が、ちゃんと戻ってくる場所なんだよ」
    私は、胸の奥があたたかくなっていくのを感じた。
    「皆さんに、ちゃんと伝えたかったんです。私が、ぽかぽかカレーの娘だということを。そして、これからもこの場所で、頑張っていきたいということを」
    「ようこそ、ぽかぽかの娘さん」福丸さんがにこにこしながら、言ってくれた。
    誰からともなく、ゆるやかな拍手が起こった。
    笑い声と、頷く人の気配。空気が、静かに、でもしっかりと変わっていくのを感じた。
    ようやく、本当に私は、この場所に帰ってきたんだ。
    会議が終わり、私と亮介だけが残り、ペットボトルを片付けながら、私はホッと肩の力を抜く。
    さっきまでの緊張が嘘のように、体が少しふわふわしていた。
    「ゴミ、こっちでまとめとくよ」
    亮介が手慣れた様子で机の上を拭きながら、私の方にちらりと目をやる。
    「ありがとう。私、椅子、畳むね」
    「よし、じゃあ早く終わらせて、帰ろうか」
    玄関を出ると、夜の空気が思ったよりも冷たくて、私は無意識に首元をぎゅっとすぼめた。
    ふたり並んで、ゆっくりと歩き出す。
    公民館の周囲はしんと静かで、頭の上には、星がいくつか瞬いていた。
    「びっくりしたよ」と亮介がぽつりと口を開いた。
    「ぽかぽかカレーの娘さんだったとはな」
    「自分でも、夢みたいな感じ。写真を見るまでは、信じられなかった」
    私は、ポケットの中で手をぎゅっと握った。
    「記憶、ないんだ。火事のあと、町を出たってことしか商店街で過ごした記憶は、まるで空白みたい」
    亮介は、しばらく黙っていた。でもその沈黙は、やさしかった。
    「俺もさ、たぶん、その頃一緒にいたんだよな。小さい頃の記憶なんて、曖昧だけど」
    「えっ、そうなの?」
    「うん。俺んち、もうあの頃から電気屋だったから。きっと、カレーも食べたことあると思う」
    亮介は少し笑って、夜空を見上げて「今になって、やっと同じ景色を見てるって感じがする」
    「うん、そうだね」
    足音だけが、夜道にぽつ、ぽつと響く。
    「子どもの頃に一緒にいて、今こうして、また一緒にいるって、すごいよね」を夜空を見上げる。
    「だろ?」と亮介が笑う。
    私はふっと、その横顔を見た。
    涼しい夜風が、彼の前髪をすこし揺らしていた。
    「この商店街ってさ、人を引き寄せるっていうか。帰ってくる場所、なのかもな」
    「うん。やっと、そう思えるようになった」
    私はそう言って、小さく息を吐いた。胸の奥がじんわりと温かかった。
    そのとき、亮介が少しだけ歩みを緩めた。
    「今日、よく言ったよな。写真、出して。あれ、俺だったら躊躇してたかも」
    「ううん。亮介さんがいたから、言えたんだと思う」
    思わず、正直な気持ちがこぼれていた。
    亮介は驚いたように私を見て、でもすぐに、照れくさそうに目をそらした。
    「そっか。じゃあ、これからも、ちゃんと一緒にいないとな」
    「え?」
    「いや、ほら。商店街の仲間としてって意味だよ?」
    いたずらっぽい笑顔に、私はつい吹き出してしまう。
    「もちろん。……仲間として、よろしくお願いします」
    「光栄です」
    寒いはずの夜道が、なんだかあたたかく感じた。
    この道はきっと、これからも並んで歩いていける。
    そう思える夜だった。
     
    ランチの営業が終わって片づけを済ませた頃、厨房の時計は午後3時前を指していた。
    風がひんやりしてきて、上着を引っかけて私は店を出た。
    向かうのは、商店街のはずれにある蔵本酒店。
    昔ながらの木の引き戸に、手書きの酒蔵札。看板の色も少し褪せているけれど、店構えはびしっとしていて、古びた感じはない。
    店に入ると、酒の匂いとほんのり味噌の香りが混ざって鼻をくすぐる。
    右手の冷蔵ケースにはクラフトビールとワインがぎっしり、棚の奥には焼酎やウイスキーもあった。
    でもこの店の一番の特徴は、正面奥に並ぶ八つの大きな味噌樽。
    「仙台」「信州」「八丁」「西京」「米こうじ」「麦みそ」「越後」「加賀」──
    すべて日本各地の選りすぐり。どれを取っても美味しいと評判で、私も時々分けてもらっている。
    蔵本さんはレジ横でノートパソコンになにか打ち込んでいたけど、私の顔を見るなり手を止めた。
    「おう。来たな」
    「こんにちは。酒粕、届いたって」
    「ちょうど昨日、入ったばかりだ」
    カウンターの後ろから紙袋を出してくれた。
    袋を開けて香りをかいでみる。やさしい甘みの中に、ほのかに酒のきりっとした香り。想像していたより、ずっと上品。
    「これ、初めて頼んでみたんですけど、いい香りですね」
    「クセが少なくて使いやすいと思うよ。長野の蔵のやつで、うちでも評判がいいから」
    私は頷きながら袋の口を閉じた。
    今回、酒粕を使ったカレーを作ってみようと思い立ったのは、ごく最近のこと。
    身体に良くて、でもクセになりそうな、そんな味が出せたらいいなと。
    「実はね、酒粕カレーって話で思い出したことがあるんだ」
    ふいに蔵本さんが言った。
    「昔、綾乃さんのお母さんの京子さんと、料理研究家の雨宮華さんって人とでね。俺も混ざって、健康カレーを開発しようとしてた時期があったんだよ」
    「えっ、うちの母が?」
    「そう。ぽかぽかカレーの最後の頃だ。途中まではいい感じだったけど、急に京子さんが引っ越しちゃったから。レシピもそのまま、お蔵入りになっちちゃったんだ」
    私は袋を持つ手に力が入るのを感じた。
    母がそんなことをしていたなんて、知らなかった。それも、今の自分と同じ“酒粕カレー”を。
    「その雨宮さん、今もいらっしゃるんですか?」
    「ああ。今でも健在だよ。ちょっと気の強いとこはあるが、話はできる人だ」
    「会ってみたいです。ぜひ、会わせてください。母がどんな思いで作ってたのか、知りたいです」
    蔵本さんは一瞬だけ驚いたような顔をして、それから静かに頷いた。
    「わかった。話つけとく。今度、一緒に行こう」
    それから数日後、蔵本さんが母と一緒に酒粕カレーを試作した料理研究家の雨宮華さんのとの約束を取ってくれた。
    私はランチ営業を終えたあと、蔵本さんの運転する車で一緒に住宅地の奥へ向かった。
    商店街からは少し離れた静かな一角。小さな坂を上がったところに、その家はあった。
    白い壁に木製の雨戸。外構は古いけれど、玄関の前はきれいに掃き清められていて、
    植木鉢の山茶花が控えめに花を咲かせていた。
    蔵本さんの声でインターホンを押す。
    ドアがゆっくりと開いた。
    出てきたのは、ふっくらとした体格の女性だった。
    白髪まじりの髪をすっきりと後ろにまとめ、ベージュのカーディガンの下には落ち着いた柄のブラウス。
    肌の艶はよく、年齢より若く見えるけれど、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっている。
    「どうぞ。お入りください」
    声は低めで穏やかだけれど、にこやかという感じではない。
    挨拶は丁寧なのに、私の目を見ないまま言葉が流れていく。
    歓迎されていない、というわけではないけれど。
    でも、私がここに来ることを“本当に望んでいたわけではない”と、そんな感じがした。
    「はじめまして。藤倉綾乃です。今日はお時間を取って頂きありがとうございます」
    「いえ。お母様には、ずいぶんお世話になりましたから」
    一瞬だけ目が合ったがすぐにそらされてしまう。
    通された応接間は、よく整えられていた。
    棚には薬膳に関する専門書がきちんと並べられ、その横に和紙に包まれた乾物の小瓶。
    奥のローテーブルには、湯気の立つ急須と湯飲みが三客が用意されていた。
    蔵本さんが話を切り出す。
    「今日は、綾乃さんが“昔のレシピ”のことを知りたいって言ってて。酒粕を新メニューに使おうとしてるんだよ」
    私も続けた。
    「母が作ろうとしていたメニューを私が完成させたいと思っています。もし、その頃の記録が残っていたら、見せていただけたらと思って。レシピノートがもしまだ残っていたら、見せていただくことって、できますか?」
    雨宮さんは私の目を見ず、小さくうなずいて「たしか、この部屋の棚にずっと置いてあったわ。京子さんと一緒に書いていたものね」
    そう言って、ゆっくり立ち上がると、私たちのすぐ後ろの棚へ向かった。
    手を伸ばして、迷いもなく中央の段をのぞきこむ。
    けれど、彼女はすぐに振り返って、困ったように言った。
    「あれ? ないわね。おかしいわ。ずっとここに置いてあったはずなんだけど」
    私は思わず棚に目をやる。
    確かに、ファイルが整然と並んだ中央に、一冊分だけ隙間が空いていた。
    「昨日、蔵本さんが来られましたよね?酒粕を届けに」
    一瞬、時が止まった。
    「えっ?」蔵本さんが眉を上げた。
    「昨日、夕方頃。ちょうど私が台所にいたとき。棚の前で、何か探しているように見えたんですけど」
    「探してたって、俺は、酒粕の資料を見てただけだよ」
    「ええ、たしかにそうでした。でも、棚の扉、開けてませんでしたか?」
    私は黙って二人のやり取りを聞いていた。
    雨宮さんの声には責めるような響きはない。でも、その冷静な言い方は、逆に重く感じた。
    蔵本さんは、目線を棚に向けた。
    「確かに前に立ってたけど、開けた覚えはないし、中のノートなんて、知らないよ」
    空気がすこし固くなる。
    私は視線を棚の段へ戻した。
    本が並ぶ中、空いた一冊分のスペース。
    端の本がまったく崩れていない。きれいに間を空けたような、まるで“抜いた人”がそれを整えたような形跡。
    そのとき、ふと私は気づく。
    この棚はオープン式で、扉がない。つまり、「扉を開けた」という言い方自体が、少しおかしいのだ。
    そもそも、蔵本さんは棚の中を見ていない可能性がある。
    華さんの言葉に、何か違和感があると感じた。
    そして、もうひとつ。
    「昨日もそこにあったはず」と言いながら、「見た」とは言っていなかった。
    本当に“昨日まであった”のなら、なんで今日確認しないのかしら?私たちが訪ねてくることは知っていたはずだし。
    私は、小さく息を吸って、言った。
    「雨宮さん、昨日、ノートがあったのは“見た”んですか? それとも、“あるはず”だと思っていただけですか?」
    雨宮さんは言葉に詰まり、ふと視線を逸らした。
    「“あったと思っていた”の。確認はしていないわ」
    その言葉に、私は確信した。
    「蔵本さんが立っていたのは、棚の前だったかもしれません。でも、ノートがなくなったという証拠にはなりませんよね」
    私は棚の中央にある整った隙間を指差した。
    「だってこの空間、抜いた跡としては、きれいすぎます。普通は、少し崩れるものだと思うんです」
    「それに、今日、私たちが来るとわかっていて、確認を“しなかった”のは不自然ですよね」
    「雨宮さん。ノート、どこかにしまってあるんじゃないですか?」
    静かに問いかけると、雨宮さんはしばらく黙って、それから小さく、ため息をついた。
    「ええ。ノートはあります。ここに」
    そう言って、雨宮さんは棚の下段、引き出しをひとつ開けた。
    その奥から、布にくるまれた一冊を取り出す。
    墨で書かれた文字は、かすれて読みにくくなっていたけれど、
    確かに表紙には「京子×華 試作ノート」と書かれていた。
    雨宮さんはうつむいたまま「あなたに見せるのが、怖かったの。あの頃のことを、思い出すのが。あなたのお母さんは、本当にすごい人だった。私は“専門家”としていたけれど、次第に“追われてる”ような気持ちになってしまって」
    蔵本さんが「雨宮さんそれって」
    その声に、華さんは顔を上げて「そうです。私は京子さんに嫉妬してました。最初は私の方が知識や経験があって上回っていると思っていたのに。京子さんはとても感性の良い方で、私の技術なんか軽く超えてきたの」
    「もう、昔の勝ち負けの話じゃないでしょう。今は“誰がどうやって完成させるか”だろ?」と蔵本さんが優しくいう。
    「私、母の味を受け継ぎたいんです。だから雨宮さんのお力をお借りしたいんです」
    雨宮さんが、ノトをそっとページをめくる。
    「京子さんは、毎日食べて、体が健康になるカレーを作りたいって言って、私のところに来られたの」
    そこには、母の文字と、華さんの書き込みが交互に並んでいた。
    小さなメモや、カレーの試作メモ、日付、印象などが書かれている。
    「ああ、これだよ。酒粕の量を何度も変えてたんだよな」蔵本さんがつぶやいた。
    母が、どんなふうに味と向き合っていたのか。初めて知ることばかりだった。
    味はもちもんのこと、人を笑顔にして健康にするカレーを作ること。
    その母が果たせなかった夢のカレーを私も作りたい。
    「この続きを、作ってもいいですか?」
    そう言った私に、雨宮さんは目を合わせて、静かにうなずいた。
    「ええ。ぜひ一緒に。今なら、作れる気がします」
    蔵本さんが、少し照れたように笑った。
    「俺もやるよ。京子さんが途中で置いてったもんだ。今度は最後までやろう」
    私はノートを見つめた。
    母の書きかけたレシピ。
    今度は、私たちで完成させる。
    外の風が、ふっと障子を揺らした。
    なんだか、母が「がんばれ」って言ってくれた気がした。
     
    12月に入ったばかりの朝は、きりりと冷たく澄んでいた。
    北鎌倉のこのあたりは、観光地のにぎわいから少し離れていて、朝はまるで別世界みたいに静かだ。
    私は、両手をポケットに突っ込みながら、商店街を歩く。
    午前九時を少し回ったところ。くるくるカレーの仕込みに入る前に、どうしても寄っておきたい場所があった。
    米屋「五穀屋」。
    ガラガラと引き戸を開けると、ふわっと、温かく甘い米の香りが鼻をくすぐった。
    目に飛び込んできたのは、ずらりと並ぶ米俵と、木の樽。
    古風な秤やすりきれた帳簿も棚に飾られ、時代を越えたような空間に、ふっと心が緩む。
    けれど、それだけではない。
    入口近くには、色とりどりの雑穀米、黒米、赤米、もち麦などが可愛らしく瓶詰めされ、
    さらに奥の棚には、千代さんの趣味が存分に発揮された、華やかな健康食品コーナーが広がっていた。
    アマニ油、もち麦クッキー、有機ドライフルーツ、スーパーフード。
    どれもカラフルなラッピングが施され、手書きのポップには千代さんらしい賑やかなイラストが添えられている。
    「食べてキレイに!元気に!幸せに!」
    そんな言葉が大きく描かれたボードまであって、
    どことなく昭和っぽい懐かしさと、今どきの可愛らしさが混ざっていた。
    なるほど、観光客に人気なのもわかる。
    私は自然に口元がほころぶ。
    このお店は、黒崎さんの温かさと、千代さんの元気さ、その両方でできているんだ。
     「おはようございます、黒崎さん」
     声をかけると、カウンターの奥から、
     ころりと丸い体つきに、つややかな白い肌、光を受けてやわらかく光るスキンヘッドの店主の黒崎幸助さんが顔を出した。
     まぶたの重たい目元は細められ、誰が見ても「いい人」と思わずにはいられない雰囲気。
     その笑顔は、どこか柴犬を思わせた。
     「おお、綾乃さん。寒いなぁ、朝早くからご苦労さんだねぇ」
     黒崎さんが、福々しい笑みを浮かべて迎えてくれる。
     私はカウンターに手を置きながら、息を吐いた。
     「今週分の発注に来ました。それとあの特別なお米も」
     母が理想としていた、野菜とスパイス、酒粕でで作る健康カレー。
     それを実現するために、私は黒崎さんに無農薬で育てた特別な米を取り寄せてもらっていた。
     「それがな」
     黒崎さんの顔から、福々しい笑みがすっと消える。
     「その特別なお米が、一袋だけ、なくなっちまったんだ」
     私は一瞬、耳を疑った。
     そんな馬鹿な。
    そのとき「なに、なに!? お米が盗まれたって!?」
     奥のほうから、鮮やかな花柄のエプロンをひらひらさせて、
     ベージュのダウンコート姿の小柄な女性が飛び出してきた。
     栗色に染めた髪には、さらに明るいメッシュが入り、陽の光を受けてふわりと光沢を見せている。
     黒崎さんの奥さんの千代さんだ。
     「誰!? 誰がやったの!? あたし見たわよ、昨日のリサイクル屋さん、あやしかったもん!」
     今にも町内放送で呼びかけそうな勢いで、千代さんは目をぎらぎら輝かせた。
     私は思わず、胸の内でため息をついた。
    千代さんは、ベージュのダウンをバサバサ揺らしながら、
     興奮した小鳥のように店の中を飛び回り始めた。
     「見たのよ! あたし、見ちゃったのよ!」
     やけに小声のつもりなのか、かえってよく響く声で叫ぶ。
     「昨日のお昼過ぎ! あのリサイクル屋さん!裏手をうろうろしてたのよ!」
     黒崎さんが「千代、落ち着け」と声をかける間もなく、
     千代さんは店の片隅に駆け寄り、手作りの健康クッキーの箱をバンバン叩く。
     「大きな袋持ってたわ! 何か隠してたに違いないわ!」
    いや、なぜ健康クッキーに八つ当たりする。
     私は心の中でツッコミながら、黙って見守る。
     千代さんはすぐにペンとメモ帳を引っ張り出してきた。
     《要注意! リサイクル屋に気をつけろ!》書き方がもう完全に指名手配。
     「すぐよ! すぐ知らせなきゃ! あたし、みんなにLINEしとくから!」
     バッグから携帯を取り出し、リズミカルに指を動かし始める。
     グループLINEの通知が、この瞬間、商店街のあちこちでピコンピコンと鳴り響いたに違いない。
     「甚八さんにも! 禄文堂の長谷川さんにも! あ、鯛福の福丸さんにも!」
     千代さんは、嬉々として「緊急連絡網」を展開しようとしている。
    「ちょ、ちょっと待ってください!」
    私は慌てて千代さんの腕を押さえた。
    「まだ確定じゃないですよ! リサイクル屋さんがやったって、まだ」
    「でも、怪しいのよ! 間違いないわ!」千代さんは得意げに胸を張る。
    「だいたい、昨日もあの人、うちの健康食品コーナーの前でニヤニヤしてたのよ?
    絶対何かたくらんでる顔だったわ!」
    単にドライフルーツを眺めてただけではと、そっとツッコミを入れる。
    黒崎さんは顔を両手で覆いながら、肩を落として「千代、それ、たぶんただ見てただけだろ」
    「いいえ! リサイクル屋さん、あやしい説、今、急上昇中よ!」と千代さんは、自作の"要注意リスト"をひらひら振りかざしながら言い放つ。
    私は深く息を吸い込んで、穏やかに言う「とりあえず、まず状況を整理しましょう。お米が無くなったのはいつなのか。その時、誰が出入りしたのか」
    「もぉ~綾乃ちゃんは、慎重すぎるんだからぁ!」千代さんはぷくっと頬を膨らませたが、それでもしぶしぶLINEの手を止めてくれる。
    そんなこんなで、千代さんの"緊急連絡網"はギリギリのところで止められた。
    私たち三人が、あたふたと話していると、ガラガラと店の引き戸が開いた。
    冷たい朝の空気と一緒に、ひとりの男性が入ってきた。
    グレーのジャンパーに、黒いニット帽。
    無愛想なほどに無表情で、無言のまま店内に入ってくる。
    さきほどから千代さんがお米泥棒の犯人を騒いでいるリサイクル業者さんだった。
    「あっ……!」千代さんが、目を丸くして私の腕をつかんだ。
    まるで幽霊でも見たかのような勢いだった。
     リサイクル業者さんは、こちらにろくに目もくれず、カウンター近くの「不要品回収コーナー」に向かって、のそのそと歩いていく。
    そはこに、空になった米袋、ダンボール、木箱などが積み上げられていた。
     彼はおもむろに、ガサガサと音を立てて、手慣れた動きで荷物をまとめ始める。
    「ほらね! あやしい!」千代さんが、ささやき声で、しかしはっきりと耳元でささやいた。
    リサイクル業者が荷物まとめる様子は普通じゃない?と私は心の中で冷静に突っ込む。
    とはいえ、私も違和感を覚えた。
    リサイクル屋さんは、大きなダンボールを抱えたとき、その後ろに、ぽっかりと空いた棚が、一瞬見えた。
    そこには、本来、特別な無農薬米が積まれていたはずだった。
    棚板には、 かすかな埃のあとにずれた荷物の隙間が、わずかに残っている。
    まるで、何かが一袋だけ、抜き取られたかのように。
    リサイクル屋さんが運び出そうとしている荷物は、どれも軽そうなものばかりだが、
    もし、重い米袋を積み込もうとしたなら、もっと大きな動きがあったはずだ。
    「あの、黒崎さん」
    私は小声で黒崎さんに声をかけた。
    「今日、リサイクル屋さんに渡すもの、これだけですよね?」
    「ああ。空き箱と、古いダンボールだけだよ」と黒崎さんは、ちょっと不安そうに答えた。
    私たちが話している間に、リサイクル屋さんは荷物をトラックの荷台に積み、無言でぺこりと一礼すると、再びガラガラと引き戸を開けて去っていった。
    戸口に冷たい風が吹き込む。
    千代さんは、ぎゅっと私の腕をつかんだまま、息を呑んだ。
    「やっぱり、絶対、あの人よ」
    私は、静かに首を横に振った。
    違う。たぶん、リサイサイクル屋さんじゃない。
    だけど、確かに、お米は、なくなっている。
    いったい、どうして?
    私は、倉庫のほうを振り返った。
    リサイクル屋さんがトラックで去ったあと、「やっぱり怪しい」と言い続ける千代さんを何とか落ち着かせ、
    私は黒崎さんと顔を見合わせた。
    「一度、ちゃんと整理しましょうか」と私が言うと、黒崎さんも深くうなずいた。
    「そうだな。こっちもごちゃごちゃしてきた」
    まず、倉庫へ向かう。
    冷えた空気の中、埃っぽい独特のにおいが鼻をついた。
    問題の奥の棚。特別なお米が置かれていたスペースは、やはり不自然にぽっかりと空いていた。
    「ここの、上から二段目に積んでたんだよ。無農薬の特別米。全部で五袋、だったはず」
    黒崎さんが眉をひそめる。
    私は、棚に積もったうっすらした埃の跡に目を凝らした。
    ほかの米袋の跡と比べて、真ん中だけ、やけに新しい。
    ここだけ、誰かが最近動かした。
    私はしゃがみ込んで、床も確認した。
    もし重い米袋を持ち上げたなら、少しは擦れた跡があるはずだ。
     だが、床にはそれらしい跡はなかった。
     「これ、誰かが持ち上げたんじゃなくて、自然に軽く持ち出された感じですね」
     私が言うと、黒崎さんは「うーん」と腕を組む。
     次に、私は伝票類を見せてもらうことにした。
     カウンターの裏には、昨日の出入りリストが簡単にまとめられている。
     見てみると、 午前中、配達業者が来店、正午すぎ、リサイクル業者さんが回収に来店 。
    午後、常連の岡本さんが米を引き取りに来店とあり、私はそこに引っかかった。
     「岡本さん?って」黒崎さんに顔を向けた。
     「うん。いつも頼んでる定期便の米を引き取りに来たんだ」と黒崎さんが答える。
     伝票を指差した。
     「これ、岡本さんが受け取った米、品種の記載が抜けてますね。通常米か、特別米か」
     黒崎さんは、ハッと目を見開いた。「まさか!」
     「岡本さんに渡した米、間違えた可能性、ありませんか?」とゆっくりと言う。
    伝票を持ったまま、ちらりと千代さんを振り返ると、千代さんは、カウンターの端で健康食品のラッピング作業をしていて、袋の中にもち麦クッキーを詰めながら、
     「怪しいわよねえ、リサイクル屋さん」とぶつぶつ言っていた。
    「千代さん。昨日、岡本さんが来たときのこと、覚えてますか?」と私は柔らかく声をかけた。
    「え? 岡本さん?」と千代さんは顔を上げ、ぱちぱちと瞬きをした。
    「覚えてるわよ~。あの人、うちのお米、気に入ってくれてるのよね。あ、ほら、"例のいいやつ"を渡してあげたのよ!」
     とにっこりと、まるでいいことをしたかのように微笑む千代さん。
    私は、伝票をそっと持ち上げて「その"例のいいやつ"って、どっちのお米ですか?」
    「え? どっちって、もちろん、いちばんいいやつよ!」と胸を張る千代さん。
    「ほら、あそこに積んでたやつ。無農薬で、特別栽培で」千代さんは言いながら、倉庫の棚を指差し指先が、ぽっかり空いた、特別米のスペースを指していた。
    私と黒崎さんは、そろって固まった。
    やっぱり、これだ。
    千代さんは、私たちの沈黙にようやく気づいたらしい。
    「え? え? もしかして?」と千代さんは目をぱちぱちさせ、両手でほっぺたを押さえる。
    「えぇぇぇ!? あたし、やっちゃった!?」
    バサバサとダウンコートをはためかせながら、千代さんは店内をぐるぐる回り始めた。
    「だって、だって、あっちの方が高級感あったんだもん!岡本さん、元気なかったし、元気出してほしくてぇ!」
    わかる。わかるんだけど。
    私は心の中で、静かに顔を覆った。
    黒崎さんも、頭をかきながら苦笑して「つまり、岡本さんに、特別米を渡しちゃったってことか」
    「ううぅぅ、ごめんなさいぃぃ」千代さんは、半泣きになりながらエプロンの端っこを握りしめた。
    結局、真相は千代さんのうっかりだったとわかり、私たちは急ぎ、岡本さんの家を訪ねることにした。
    商店街から少し外れた、古い二階建ての家。
    庭先には小さな柚子の木があり、黄色い実がたわわに実っている。
    黒崎さんが玄関のチャイムを押すと、少しして、玄関から岡本さんが顔を出した。
     やせぎすの体に、くたびれたセーター。
     顔には深い皺が刻まれているけれど、目元はどこか優しかった。
     「黒崎か。それに、ええと」
     「くるくるカレーの藤倉です」と私が軽く頭を下げると、岡本さんは「ほう」と小さく笑った。
     「今日は、ちょっとすみません。お渡しするお米、間違ってたみたいで」と黒崎さんが恐縮しながら切り出す。
     岡本さんはすぐに首を振って「いや、俺が頼んだ普通の米より、すごい米だった。開けた瞬間、香りがぜんぜん違ったんだ」
     岡本さんは、台所の方をちらりと振り返った。
     「さっき、炊いてみたよ。びっくりした。あの頃の、ぽかぽかカレーのご飯の匂いがしたんだ」
     私は息を呑んだ。
     黒崎さんも、黙って立ちすくんでいる。
     岡本さんは、静かに語り始めた。
    「若いころな、俺、仕事辞めたあと、どうしようもなく落ち込んでてさ。引きこもるようになっちまって、食欲もなくして、何にも楽しくなかったその時、ふらっと立ち寄ったぽかぽかカレーで、最初に出された水と、ごはんの香りに泣きそうになったんだ」
    と岡本さんは、遠い目をしていった。
    「味も、優しかった。無理やり励まされたんじゃない。ただ、"ここにいていいよ"って言われた気がして」
    ぽつり、ぽつりと絞り出すように語るその声に、私は胸がじんわりと温かくなった。
    「だから今日、炊いたご飯を食べて、思ったんだよ。〝ああ、まだ、繋がってる"って」と岡本さんは、微笑んだ。
    「お米が間違いだった? そんなもん、気にしちゃいないさ。むしろ、ありがとうって言いたいくらいだ」
    岡本さんの話を聞き終えたあと、私たちはしばらく、言葉もなく立ち尽くしていた。
     冬の冷たい風が、庭の柚子の葉をさらさらと揺らしている。
     それが、妙に胸にしみた。
     岡本さんは、ゆっくりと頭を下げた。
     「あの店は、俺にとって、生き直すきっかけだったんだ。忘れない。ありがとうな」
     そして、またふっと笑った。
     私も、自然と笑みがこぼれていた。
    「また、クルクルカレーにもいらしてください。ぽかぽかカレーとは違うけど、母の気持ちだけは、きっと受け継いでますから」
     そう言うと、岡本さんは少し驚いたように目を見開き、それから、静かに頷いた。
    商店街へ向かう細い坂道を、黒崎さんと並んで歩く。
    冷えた空気に、ほおが少し痛い。
    だけど、心の中は不思議と、温かかった。
    ふと、黒崎さんがぽつりと言った。
    「ぽかぽかカレーは、ただの味じゃなかったんだな」
    横を向いて、黒崎さんの横顔を見た。
    スキンヘッドの頭に、冬の光が柔らかく反射している。
    「そうですね。きっと、"心がぽかぽかする場所"だったんだと思います」と私の声も、自然と優しくなっていた。
    「だから、私……」
    歩きながら、自分の中に小さな灯がともっているのを感じた。
    「母の味をそのまま再現するんじゃなくって、今の私たちで、"ぽかぽか"を、もう一度作りたいです」
     黒崎さんは、ふっと笑って「いいな、それ」
     そして、照れくさそうに頭をかいて「そん時は、俺も協力するからさ。米だけじゃなく、な」
     驚いて黒崎さんを見た。
     でも、黒崎さんは照れたように目を細めるだけだった。
     この商店街で、いろんな人の想いが少しずつ繋がって、あたたかい輪になっていく。
     そんな未来が、確かに見えた気がした。
     12月の中ごろの冬の朝。
     吐く息は白く、空はどこまでも澄んでいる。
     私たちは、ひとつの小さな約束を胸に、歩き出した。

    ⑤に続く


     
     
     

    Katy Moon

     
     
    映像化を目指して物語を書いています。 このブログでは私の「好き」を、 エンタメとして発信しています。 創作作品:https://qr.paps.jp/EM4nC

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