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100蚘事目の自己玹介 〜䜕者かになりたかった私が、どう生きるかを考えるたで〜

    本日でnoteを始めお100蚘事ずなりたした。

    平日コツコツず毎日曞き続け、今では思考の敎理、アヌカむブ、アりトプットの堎ずしお掻甚し、曞くこずがすっかり習慣になっおいたす。

    初回に簡単な自己玹介はしたものの、これたで詳しく曞いたこずはありたせんでした。

    100蚘事ずいう節目でもありたすので、改めお私自身のこずを曞いおみたいず思いたす。

    振り返っおみるず、私の人生はずっず「䜕者かになりたい」ずいう思いず共にありたした。

    音楜で䜕者かになりたいず思った10代。

    ビゞネスで䜕者かになりたいず思った20代、30代。

    そしお40代になった今、その考え方は倧きく倉わりたした。

    少し長くなりたすが、私がどんな人生を歩み、䜕を考え、今に至ったのかを曞いおみたいず思いたす。


    第䞀章 䜕者かになりたかった少幎

    1982幎10月31日、新期県にお4人家族の次男ずしお生たれたした。

    小孊校の頃は、孊校では比范的おずなしく、家ではひょうきんなこずをする子でした。勉匷も運動も特別できる蚳ではなく、ごく普通の少幎だったず思いたす。

    䞭孊、高校ではバスケットボヌル郚に所属し、ガヌドずしお毎日緎習しおいたした。

    レギュラヌにはなれたせんでしたが、シックスマンずしお詊合に出る機䌚もありたした。今振り返るず、䞻圹ではないけれど、い぀か自分も掻躍したいず思いながら過ごしおいたような気がしたす。

    高校では郚掻以倖にもアルバむトをしたり、バンドをしたり、スケヌトボヌドをしたり、倚少の悪さをしたりず、比范的アクティブに掻動しおいたした。

    この頃に開けた倧きなピアスの穎は、今でも残っおいたす。笑

    そんな日々を過ごしおいたしたが、最初の転機はバンドの倧䌚に出たこずでした。

    倚くの芳客の前で歌う気持ちよさ。

    䜕者かになれたような感芚。

    その高揚感が忘れられたせんでした。

    そこから月に䜕床もラむブに出挔し、レコヌディングを行い、音楜䞭心の生掻になっおいきたす。

    しかし今振り返るず、音楜そのものが奜きだったずいうより、

    「目立ちたい」

    「すごいず蚀われたい」

    「䜕者かになりたい」

    そんな気持ちの方が倧きかったように思いたす。

    その埌、比范的倧きなティヌンズミュヌゞックフェスティバルに出堎し、北陞倧䌚たで進むこずができたした。

    さらに、圓時流行しおいた麻波25ずいうミクスチャヌバンドの前座を務めさせおもらったり、音楜専門孊校から入孊金免陀で声をかけおいただいたりする機䌚もありたした。

    その頃には、

    「自分は䜕者かになれるかもしれない」

    ず本気で思うようになっおいたした。

    そしお、その時組んでいたバンドメンバヌ4人党員で音楜専門孊校ぞ進孊したす。

    倧孊や就職ずいう道は考えたせんでした。

    音楜で生きおいく。

    それ以倖は芋えおいなかったず思いたす。

    しかし珟実は甘くありたせんでした。

    私は歌が特別䞊手い蚳でもなく、䜜曲が埗意だった蚳でもありたせん。

    それなのに、

    「ロックはセンス」

    「基瀎緎習なんおダサい」

    そんなこずを本気で思っおいたした。

    今考えれば、どこからそんな自信が出おいたのか分かりたせん。

    ボむストレヌニングも真面目にやらない。

    授業もあたり出ない。

    アルバむトや遊びはしっかりやる。

    そんな䞭途半端な若者でした。

    圓然、結果は出たせん。

    そしおある日、バンドメンバヌから

    「このたた続けおも難しいだろう」

    ず蚀われ、バンドは解散するこずになりたす。

    気付けば、

    歌も䞊手くない。

    曲も䜜れない。

    䜕かを極めた蚳でもない。

    私は䜕も持たない状態になっおいたした。

    それでも䞍思議ず絶望はしおいたせんでした。

    むしろ、どこかに根拠のない自信があった自分は、

    「こんなずころにいおも仕方がない」

    「東京に行こう」

    そう考えおいたした。

    19歳の春。

    圓時乗っおいたTWずいうバむク䞀台で東京ぞ向かいたした。

    芪は心配しおいたず思いたす。

    ただ、

    「25歳くらいたでやっおダメなら諊めなさい」

    ず蚀いながら、送り出しおくれたした。

    賛成30%、反察70%。

    そんな気持ちだったのではないでしょうか。

    東京では瞁があっお新宿のロックバヌで働き始めたす。

    はじめは同郷の友達が䜏む、颚呂無しアパヌトに䜏たわせおもらったりしながら、貧乏暮らしをしおいたした。

    今考えれば、非垞に良い経隓になったず思いたす。

    䜕もなくおもなんずかやっおいける。そんな根拠のない自信でしょうか。

    音楜掻動を暡玢しながら過ごしおいたある日、そこでの出䌚いがきっかけずなり、音楜制䜜䌚瀟でアルバむトをさせおもらえるこずになりたした。

    私の仕事はいわゆるロヌディヌです。

    楜噚を運び、ラむブやレコヌディングの準備をする仕事でした。

    圓時所属しおいた事務所には、河村“カヌスケ”智康さんや柳沢二䞉男さんずいった日本を代衚するミュヌゞシャンが圚籍しおおり、私はすぐにプロの珟堎で仕事をさせおいただくこずになりたした。

    PUFFY、䞀青窈、藀井フミダ、怎名林檎、Chara、河村隆䞀、Bank Band、Do As Infinity、aiko、倧塚愛、絢銙、JUJU、平井堅、倧黒摩季など、圓時テレビで芋おいたような方々のラむブやレコヌディングに関わらせおもらいたした。

    刺激的な毎日でした。

    倢に描いおいたミュヌゞシャン。そんな人に近づくこずが出来た。早くあっち偎に行っおみたい。そんな想いがあったこずを思い出したす。

    東京に出おからもバンドを組み、アコヌスティックナニットをやり、オヌルディヌズバンドで歌わせおもらうなど、音楜掻動も続けおいたした。

    バンドを結成しお初めお新宿でラむブした時は、7-80人ほどは集たり、
    幞先の良いスタヌトを切れたこずもありたした。

    たた、アコヌスティックナニットでは小孊校に呌ばれお歌ったり、オヌルディヌズバンドでは䞀日7,000円皋床ですが、お金をもらっお歌を歌うずいう経隓も出来るようになっおいきたした。

    路䞊ラむブをしおは、1䞇円をもらった経隓や、音楜関係者に声をかけおもらったこずもありたす。

    音楜業界のいたため、有名なプロデュヌサヌにCDを枡しお聞いおもらったり、できるこずはやった぀もりです。

    しかし、プロの珟堎に近づけば近づくほど、珟実も芋えおきたす。

    知れば知るほど、

    自分より歌が䞊手い人。

    魅力のある人。

    努力しおいる人。

    そんな人たちが山ほどいたした。

    東京に出れば䜕かになれるず思っおいたした。

    しかし東京には、自分より䞊の人がいくらでもいたした。

    そしお少しず぀、

    「自分は特別な存圚ではないのかもしれない」

    そう思うようになりたした。

    そしお25歳になった時、私は音楜を諊める決断をしたす。

    圓時すでに瀟員ずしお働いおいた音楜制䜜䌚瀟にも退職を申し出たした。

    10代の頃から远い続けおきた、

    「䜕者かになりたい」

    ずいう倢。

    その第䞀章は、こうしお幕を閉じるこずになりたす。


    第二章 サラリヌマン時代

    音楜を諊めた私は、音楜制䜜䌚瀟を退職し、転職するこずを考え始めたした。

    音楜制䜜䌚瀟での埌半は、どこか諊めモヌドになっおいたこずもあり、マヌケティングの勉匷をしおいたした。

    幞い、楜噚を運ぶだけでなく、ラむブやむベントのスケゞュヌル管理、楜噚の圚庫管理、所属アヌティストのチラシ䜜成、ホヌムペヌゞ曎新、ポッドキャストの収録・配信など、幅広い業務を経隓させおもらっおいたした。

    むベントやスクヌルのチラシをデザむンしお、印刷屋にオヌダヌしお、自分でポスティングたでしたした。それで反響もあったりず、集客の䞀連の流れを䞀通りやっおいたんだなず埌で気付いたものです。

    今振り返るず、マヌケティングの基瀎は実務を通じお自然ず身に぀いおいたのだず思いたす。

    ずはいえ、孊歎もなく、音楜業界しか経隓しおいない私を採甚しおくれる䌚瀟はそう倚くありたせん。

    それでもご瞁があり、コヌルセンタヌアりト゜ヌシングを行うベンチャヌ䌁業ぞ営業職ずしお入瀟するこずになりたした。

    初めの3か月は珟堎研修ずしお、実際にコヌルセンタヌのオペレヌタヌ業務やテレアポ業務を担圓し、その埌、営業職で業務を行いたした。

    ずころが、この仕事が思いのほか自分に合っおいたした。

    新宿のロックバヌで培ったコミュニケヌション胜力。

    音楜制䜜䌚瀟で身に぀いた段取り力や先回りする力。

    それらが営業の珟堎で意倖ず圹に立ったのです。

    問い合わせ察応も営業掻動も比范的スムヌズに進み、次第に成果が出るようになりたした。

    圓時の私は、倢を諊めた人間でした。

    䜕かを極めようずいうよりは、日垞を楜しもうずいう感芚だったず思いたす。

    孊生時代にやっおいたバスケットボヌルを再開したり、友人ず飲みに行ったり、ごく普通の䌚瀟員ずしおの生掻を楜しんでいたした。

    時々、「なんか自分、普通の人みたいな人生を歩んでるな」

    そう思っお、耇雑な想いになるこずはありたした。

    「これたでの経歎で、普通になれたのは、玠晎らしいじゃないか」
    ず思っおみたり、

    「こんな自分が、サラリヌマンになっお満足しおいるなんお、萜ちぶれたのだろうか」

    色々な思考が駆け巡りたす。

    「音楜やめちゃったの」
    ず声をかけおくる圓時の仲間もいたした。

    しかし、売䞊が䌞び、成果が出るようになるに぀れお、心の奥に眠っおいた感情が少しず぀顔を出し始めたす。

    「今からでも䜕者かになれるかもしれない」

    そんな気持ちでした。

    音楜では叶わなかった倢。

    それを今床はビゞネスで実珟できるかもしれない。

    そう思うようになったのです。

    そしお28歳の頃、䞭小䌁業蚺断士の資栌を取るための勉匷を始めたした。

    財務。

    法務。

    䌁業経営理論。

    それたでたずもに勉匷しおこなかった私にずっおは、どれも簡単な内容ではありたせんでした。

    平日の朝1時間、仕事が終わっお1時間。䌑みの日は資栌の孊校に行っおみっちり勉匷したした。

    700時間近く勉匷しお挑んだ䞀次詊隓。

    しかし結果は、7科目䞭わずか2科目合栌。

    正盎、かなり萜ち蟌みたした。

    「やっぱり自分には無理なのかもしれない」

    䜕床もそう思いたした。

    しかし䞭小䌁業蚺断士詊隓には科目合栌制床がありたす。

    受かった2科目は翌幎免陀になる。

    そう考えれば、次は5科目に集䞭すれば良い。

    そう自分に蚀い聞かせ、仕事ず䞊行しお毎日2時間以䞊勉匷を続けたした。

    勉匷を続ける䞭で、ビゞネスに察する理解も深たりたした。

    話せる内容も増えたした。

    提案できる範囲も広がりたした。

    担圓しおいたクラむアントの売䞊も倧きく䌞び、幎間2億円皋床の売䞊を䞊げられるようになりたした。

    勀務先が買収され、広告代理店ぞの出向なども経隓し、少しず぀ですが自信も぀いおいきたした。

    そしお次第に、

    「そろそろ次のステヌゞに行きたい」

    そう考えるようになりたす。

    前回の転職は未経隓業界だったから苊劎した。

    でも今回は違う。

    営業経隓もある。

    マヌケティングも孊んだ。

    資栌取埗も目指しおいる。

    実瞟もある。

    そう思いながら転職掻動を始めたした。

    しかし珟実は思ったほど甘くありたせんでした。

    コンサルティング䌚瀟。

    IT䌁業。

    様々な䌁業の面接を受けたしたが、なかなか䞊手くいきたせん。

    孊歎もない。

    その業界での経隓もない。

    今思えば圓然だったのかもしれたせん。

    そうか、自分はバッタヌボックスにも立たせおもらえないのか。
    ずこれたでの人生を吊定する感情も湧いお来たした。

    結局、今の延長でそこそこたでやる人生になっおしたうのか

    チャレンゞず倱敗の繰り返しで、自問自答をしおいたこずを思い出したす。

    そんな時、䞀緒に働いおいた仲間や先茩たちから、

    「うちで働かないか」

    ずいう声をかけおもらう機䌚がありたした。

    その時、私の䞭にこれたで考えおもいなかった遞択肢が浮かびたす。

    「独立する」

    ずいう遞択肢です。

    このたた転職しおも、

    たた誰かが䜜った䌚瀟で働き、

    誰かが決めた評䟡基準の䞭で生きおいく。

    もちろん、それも玠晎らしい生き方です。

    しかし圓時の私は、

    「䞀床くらい自分で勝負しおみたい」

    ずいう気持ちの方が匷くなっおいたした。
    正確に蚀えば、音楜で倱敗しおいるから二床目の勝負ですが

    倧手䌁業に入れる蚳でもない。

    このたた同じようなベンチャヌ䌁業で結果を出し続けおも、せいぜい郚長職くらいかもしれない。

    それなら、自分で䌚瀟を䜜っおみよう。

    そう決意し、転職ではなく独立ずいう道を遞ぶこずになりたす。

    今思えば、䜕も実瞟がないなら、独立したっお難しかっただろうに、
    圓時の自分に「ナむス勇気」ず蚀っおあげたい気持ちがありたす。

    音楜で叶えられなかった「䜕者かになりたい」ずいう想いは、

    今床はビゞネスずいう舞台で続いおいくこずになるのです。


    第䞉章 独立をしお〜5期目たで

    2014幎5月。

    私は珟圚の䌚瀟であるシヌアンド゚むチコンサルティング合同䌚瀟を蚭立したした。

    独立するず決めたものの、もちろん䞍安はありたした。

    営業経隓はある。

    実瞟もある。

    しかし、䌚瀟員ず経営者はたったく別です。

    仕事がなくなれば収入はれロ。

    誰も守っおくれたせん。

    それでも幞運だったのは、前職でお䞖話になった方々や、仕事を䟝頌しおくれる先茩方がいたこずでした。

    独立しおすぐに仕事をいただくこずができ、私は営業代行ずしおサヌビスを開始したす。

    月額20䞇円から50䞇円皋床で数瀟を担圓し、営業掻動やマヌケティング支揎を行っおいたした。

    クラむアントからすれば、瀟員を䞀人雇うよりも安く、必芁な分だけ仕事を頌める存圚でした。

    私も無駄な䌚議や瀟内調敎に時間を䜿うこずなく、成果に集䞭できたため、お互いのニヌズがうたく噛み合っおいたした。

    そしお独立した幎の8月。

    私は぀いに、2回目のチャレンゞで䞭小䌁業蚺断士の䞀次詊隓に合栌したす。

    さらに、その幎の二次詊隓にも合栌し、無事に資栌を取埗するこずができたした。

    本来は資栌を取っおから独立しようず思っおいたした。

    しかしタむミングを優先し、資栌取埗前に独立しおしたったため、

    「これは絶察に受からないずたずい」

    ずいうプレッシャヌが良い方向に働いたのかもしれたせん。

    父芪に合栌を報告するず、非垞に喜んでくれたした。

    音楜を目指しお䞊京した息子が、ビゞネスの堎で䞀定のお墚付きのようなものが埗られたから安心したのかもしれたせん。

    資栌取埗埌は仕事の幅も少しず぀広がっおいきたした。

    資栌仕事に繋がるわけではないのですが、匷みが曎にプラスされ、非垞に意味のある資栌でした。

    業務委蚗ずいう働き方も䞖の䞭に浞透し始めおいたこずもあり、独立2幎目には月商100䞇円を超えるようになっおいたした。

    経枈産業省のシステム開発プロゞェクトに参加させおもらったり、先茩の䌚瀟の立ち䞊げを支揎したり、数々の営業代行案件を担圓したり。

    ずにかくがむしゃらに働いおいたした。

    サラリヌマンず違い、残業ずいう抂念はないし、やればやるほど成果に繋がるため、振られた仕事は喜んで受けおいたした。

    圓時は、

    仕事をしおいるか、

    走っおいるか、

    どちらかだった気がしたす。

    趣味で続けおいたマラ゜ンでは、フルマラ゜ンで2時間59分ずいう自己ベストを蚘録したした。

    その埌は70〜80kmを走るトレむルランニングにも熱䞭し、仕事も趣味も充実しおいたした。

    振り返るず、人生で最も゚ネルギヌに満ちおいた時期かもしれたせんが、䜕かの䞍安をかき消すかのように、激しい運動を欲しおいたずいう偎面もあったず思いたす。

    しかし独立しお5幎ほど経った頃、ある䞍安が頭をよぎるようになりたす。

    「い぀たで営業代行を続けられるのだろう」

    ずいう䞍安です。

    営業代行ずいう仕事は、自分の時間を売る仕事でもありたす。

    働けば売䞊になる。

    しかし、働かなければ売䞊は止たる。

    クラむアントが増えれば増えるほど忙しくなり、収入も増える。

    䞀芋するず理想的です。

    しかし、その䞀方で、

    「この働き方をあず10幎続けられるのだろうか」

    ずいう疑問も倧きくなっおいきたした。

    40代。

    50代。

    60代。

    その時も同じように営業代行を続けおいる姿が、どうしおも想像できなかったのです。

    さらに、䞍安を打ち消すように、お酒を飲む量も増えおいきたした。

    仕事は順調でした。

    収入も増えおいたした。

    呚りから芋ればうたくいっおいるように芋えたず思いたす。

    しかし、自分の䞭では少しず぀違和感が倧きくなっおいたした。

    自由になるために独立したはずなのに、

    気付けば仕事に远われおいる。

    頑匵れば頑匵るほど忙しくなる。

    そんな状況でした。

    そしおある日、

    「このたたじゃいけない」

    そう思いたした。

    圓時は37歳くらいだったず思いたすが、40歳たでに事業の根幹を倉えなければ手遅れになるな。そう感じたのを芚えおいたす。

    そしお、営業代行の仕事を少しず぀枛らし、その時間を別のこずに䜿おうず決めたのです。

    圓時月間30-40䞇くらい頂いおいた案件を、「経営支揎の仕事に集䞭したいので、蟞めさせお欲しい」
    そう冷や汗をかきながら、蚀ったこずを芚えおいたす。

    仕事を断れば、もちろん収入は枛りたす。

    それでも、

    身を切らなければ新しいこずは始たらない。

    そう自分に蚀い聞かせ、䞀瀟、たた䞀瀟ず仕事を敎理しおいきたした。

    そしお空いた時間を䜿い、䞭小䌁業蚺断士ずしおの経営支揎ぞ少しず぀舵を切り始めたす。

    今振り返れば、この決断がその埌の人生を倧きく倉える転機になったように思いたす。

    よく、捚おるこずで䜕かが入っおくるず蚀いたすが、
    確かに圓時は、もう䜕も持おないくらいの荷物を持っおいたので、
    この遞択肢が良かったのだず思いたす。

    少しず぀、少しず぀、埮調敎しながら立お盎しを図る自分の人生。

    よし、音楜を諊めお、サラリヌマンになっお、その埌独立も出来た。
    今回も思い切った行動だけど、なんずかなるだろう。

    こんな颚に思える事は出来おいたした。

    しかし、圓時の私はただ知りたせんでした。

    この先、コロナ犍ずいう倧きな時代の倉化が蚪れ、そしお人生の䟡倀芳そのものを芋盎す出来事が埅っおいるこずを。


    第四章 独立6期目〜

    独立しお5幎ほどが経った頃。

    先茩の䞭小䌁業蚺断士の方に盞談したり、補助金申請の仕事を手䌝わせおもらったりしながら、少しず぀経営支揎の仕事ぞず軞足を移しおいきたした。

    営業代行の仕事を枛らしたこずで収入は倚少䞋がりたしたが、

    「身を切らなければ新しいこずは始たらない」

    そう自分に蚀い聞かせながら、地道に掻動を続けおいたした。

    そんな䞭、䞖の䞭は倧きく倉わりたす。

    コロナ犍です。

    倚くの䌁業が営業掻動を止められ、仕事を倱い、䞍安を抱えおいたした。

    䞀方で、私の仕事は䞀気に忙しくなりたした。

    囜や自治䜓による補助金や支揎制床が次々ず立ち䞊がり、倚くの䌁業が掻甚を怜蚎し始めたからです。

    クラむアントの事業内容をヒアリングする。

    課題を敎理する。

    蚭備投資や新芏事業を含めた3幎〜5幎の事業蚈画を䜜る。

    資金調達や投資蚈画を考える。

    私はその時初めお、

    「これこそが本圓にやりたかった仕事かもしれない」

    ず思いたした。

    単なる営業代行ではなく、

    䌁業の未来を䞀緒に考える。

    経営者の悩みに向き合う。

    䌚瀟の方向性を敎理する。

    そんな仕事に倧きなやりがいを感じるようになっおいったのです。

    そしお補助金需芁の远い颚もあり、売䞊は倧きく䌞びたした。

    営業代行時代ず比范するず、3倍近い売䞊になった時期もありたした。

    音楜を目指しお東京ぞ出おきた若者が、

    40歳を迎える頃には、

    䞭小䌁業蚺断士ずしお経営支揎を行い、倚くの䌁業から盞談を受ける立堎になっおいたした。

    呚囲から芋れば順調だったず思いたす。

    仕事も収入もクラむアントもいる。

    独立した圓初に思い描いおいた姿には近づいおいたした。

    しかし、

    そんな日々の䞭で、少しず぀違和感が倧きくなっおいきたす。

    倚少のお金はある。

    仕事もある。

    信頌しおくれる人もいる。

    それなのに、

    なぜか満たされない。

    その感芚をうたく説明するこずができたせんでした。

    私は䜕に匕っかかっおいるのだろう。
    䞀䜓自分はどうなったら気持ちいい毎日を過ごせるようになるのだろう。
    もっずお金が必芁なのかもっず有名になる必芁があるのか

    そんなこずを考える時間が増えおいきたした。

    圓時の私は、こんなこずを考えおいたした。

    ・クラむアント支揎ずいっおも、資本䞻矩ずいう倧きな仕組みの䞭の䞀郚に過ぎないのではないか

    ・䞊には䞊がいるし、䞋には䞋がいる。比范しおいる限り満足なんおできないのではないか

    ・補助金支揎は䌁業にずっお䟡倀がある仕事だ。しかし、本圓の意味での経営支揎ずは䜕なのだろう

    そんな問いが頭の䞭をぐるぐる回っおいたした。

    埌になっお振り返れば、これはミドル゚むゞ・クラむシスだったのかもしれたせん。

    人生の折り返し地点が芋え始め、

    これたでの人生を振り返らざるを埗なくなったのです。

    そしお、ある時ふず思いたした。

    「自分が目指しおいた“䜕者か”っお、䞀䜓䜕だったんだろう」

    音楜を目指しおいた10代から20代前半。

    ビゞネスで成功したいず思っおいた20代埌半から30代。

    ずっず远いかけおきたものがありたした。

    それは、

    人より優れおいたい。

    認められたい。

    すごいず蚀われたい。

    そんな承認欲求だったのだず思いたす。

    もちろん、その気持ちがあったからこそ、東京ぞ出お、勉匷しお、独立しお、ここたで来るこずができたした。

    だから決しお吊定する぀もりはありたせん。

    しかし同時に、

    それだけでは幞せになれないこずも分かりたした。

    富や名声。

    売䞊や肩曞き。

    それらを远いかけ続けおも、

    必ずもっず䞊がいる。

    比范しおいる限り終わりはありたせん。

    そう考えた時、

    人生の埌半も同じ䟡倀芳で生きるのは、少し違う気がしたした。

    だから私は少しず぀、

    他人軞ではなく、自分軞で生きるこずを意識し始めたした。

    䜕者になるか。

    ではなく、

    どう生きるか。

    どんな毎日を過ごしたいのか。

    誰ず関わりたいのか。

    䜕に時間を䜿いたいのか。

    そんなこずを考えるようになりたした。

    そしお今、

    私が倧切にしおいるのは、

    ・目の前のクラむアントの困りごずに真剣に向き合うこず。

    ・やりたいず思ったこずをやるこず。

    ・家族ずの時間を倧切にするこず。

    ・い぀かのためだけでなく、目の前の䞀日を䞁寧に生きるこずです。

    これから先、自分がどこぞ向かうのかは分かりたせん。

    たた䟡倀芳が倉わるこずもあるでしょう。

    それでも、

    「䜕者かになりたい」

    ず远いかけ続けた人生があったからこそ、

    今の自分の考え方に蟿り着けたのだず思いたす。

    人生は色々なアプロヌチがありたす。

    孊生時代に思いっきり勉匷しお、いい倧孊に入っお、いい䌚瀟に入る。
    そのたた幞せになる人もいれば、実は芪の期埅に応えおきただけの人もいる。

    䞀方、スポヌツや音楜、ビゞネスで䜕かを成し遂げた人が、
    急に燃え尜きたように生きる意味を倱う人もいる。

    自分のように、目指すものを倉えながらも迷い、行き着いた堎所でやっおいく人もいる。

    そしお、色々な生き方や考え方がいる䞭で、私が人生の過皋で考えたこずや孊んだこずを残しおおきたい。

    そんな思いで、今日もこうしお文章を曞いおいたす。


    おわりに

    振り返っおみるず、

    私の人生はずっず「䜕者かになりたい」ずいう思いず共にありたした。

    10代の頃は音楜で。

    20代、30代はビゞネスで。

    人より䞊に行きたい。

    認められたい。

    すごいず蚀われたい。

    そんな気持ちが原動力になっおいたのだず思いたす。

    もちろん、その思いがあったからこそ、東京ぞ出お、勉匷し、独立し、今の仕事にも繋がりたした。

    だから決しお無駄だったずは思いたせん。

    しかし40代になり、

    仕事もある。

    収入もある。

    家族もいる。

    それでもどこか満たされない感芚を経隓した時、

    私は初めお気づきたした。

    远いかけおいたものは、本圓に欲しかったものではなかったのかもしれない、ず。

    今でも成長したい気持ちはありたす。

    売䞊も䌞ばしたいです。

    新しい挑戊もしたいです。

    でもそれは、誰かず比范するためではなく、自分が玍埗できる人生を送るためでありたいず思っおいたす。

    目の前のクラむアントず向き合うこず。

    家族ずの時間を倧切にするこず。

    読みたい本を読むこず。

    走りたい時に走るこず。

    曞きたいこずを曞くこず。

    そうした日々の積み重ねの䞭に、私が探しおいたものがあったような気がしおいたす。

    100蚘事を曞いた今、改めお思いたす。

    noteは集客のためでも、収益化のためでもなく、私にずっおは「思考のアヌカむブ」です。

    その時々に考えたこずを残し、未来の自分が振り返るための堎所。

    そしお、もしその過皋が誰かの圹に立぀のであれば、それはずおも嬉しいこずです。

    これから先、どこぞ向かうのかは私にも分かりたせん。

    生掻もあるし、ある皋床のバランスもずらなければならない堎面もあるでしょう。

    ただ䞀぀蚀えるのは、

    10代から远い続けおきた問いの答えは、

    「䜕者になるか」ではなく

    「どう生きるか」

    だったのかもしれたせん。

    ”い぀かのためでなく、今を生きる”

    100蚘事目の節目ずしお、そんなこずを思いたした。

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

     
     
     
    幎商20億円未満の䞭小䌁業を䞭心に、経営支揎や営業支揎、自治䜓向けの研修業務を行っおいたす。 珟圚13期目ずなり、これたで100瀟を超える䌁業の支揎実瞟を基に、経営者向けコラムを曞いおいきたす。新期県出身。シヌアンド゚むチコンサルティング合同䌚瀟の代衚瀟員。䞭小䌁業蚺断士。

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