メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byparklifetokyo

    『蹲る』


    〜あらすじ〜
    上ノ山拓実は生まれて間もなく父を亡くし、
    母と二人で生きて来た。母は拓実を育てるのに
    精一杯だった。
    拓実は家でも学校でもいつも一人で過ごした。
    母に甘えたり我儘を言うのは許されないと、いつの間にか自分の気持ちを抑え、隠し、何も感じないのが一番と思うようになっていた。
    大学卒業前に母も亡くなり、本当に一人になった
    拓実は教師になり初めて地元を離れることになる。
    亡き父は教師だったが何故自分が教師の道に進もうと思ったのか自分でも分からなかった。
    拓実は赴任した小学校で同僚となる大野陽介
    と出会う。
    教え子小林隼人、谷山瑞樹。
    彼等と関わり変わっていく拓実。
    拓実は生きるために何を選ぶのか。


    今朝目覚める直前に見た夢
    夕暮れ時のホーム
    自分に向かってくる新幹線
    あれは誰かのインスタのポストだったのかも
    しれない。
    瞼の裏に焼きついたその光景を思い出すと、
    気持ちが掻き立てられるような、焦燥感で
    ちょっと胸がざわつく様な妙な感覚に陥る。

    学校までの道程に桜のトンネルがある。
    花びらは散っても横を流れる中川の水面に、
    花筏となって絶え間なく流れている。

    赴任先の小学校で同僚の教師達を紹介され
    学年主任の大野陽介と軽い自己紹介を
    交わした。
    大野陽介は名前の通り明るい虹彩を放つ
    大きな瞳で拓実をまじまじと見つめた。
    『君の瞳は何を見てるのかな。子供は怖いよ。
    そんな風に目線を逸らす教師を信用しないよ。』
    『そんなこと分かってる』
    拓実の声にならない反発に大野は何故か微笑んで言った。
    『大丈夫。うまくやってこ』
    踵を返し背中を向けた大野に何か言いたかったが何も言えぬまま拓実は後に従った。

    拓実は5年2組を受け持つことになった。
    新任で担任を持たされるとは意外だったが
    大学のアルバイトでずっと小中学生の塾講師を
    していたので勉強を教えるのには経験があった。

    生徒達の顔と名前が一致した頃、コンビニ弁当にも飽きたので、入った駅前の食堂に見知った子供の顔を見つけた。
    小林隼人という受け持ちの生徒だった。
    一人でオムライスを食べていた。
    空席も少なかったので相席させて貰おうと
    声を掛けた。
    『ここの席いい?』
    隼人は驚いたように一瞬だけオムライスから
    視線を拓実に向けて、曖昧に頷いた後はまた
    黙々と食べ続けた。
    隼人はどこか気にかかる生徒だった。
    何もみていないかのような瞳が、何も感じまいと決めたかつての自分と重なったからなのか。
    拓実にも分からなかった。
    注文した鯖味噌定食が運ばれるまで、
    何か話した方がいいのか迷い、隼人に尋ねた。
    『ここよく来るの?』
    彼はまた曖昧に首を傾けただけだった。
    定食が運ばれ夢中で食べていると、ガタッ
    と音がした。
    食べ終わった隼人が帰るところだった。
    慌ててその後姿に声を放った。
    『小林くん、また明日』
    隼人はちょっと頷いたようにも見えたが、
    黙って視界から消えていった。
    それから何度か同じ食堂で隼人を見かけたが
    会話することはなかった。
    四月は瞬く間に過ぎていった。
    五月にちょっとした事件が起きた。
    女子の間でのグループラインのやり取り
    で一人の女子生徒を標的にしたイジメが
    発覚した。
    エスカレートした何人かが『死ね』と
    送信した。
    事情を聞くと他愛もない事が原因だった。
    グループ内でアイドル的存在の坂口陸と
    今回標的にされた佐久間玲がショッピング
    モールの休憩スペースで並んで座っているのを
    目撃されたのだった。
    『だって、玲だけずるい』
    たったこれだけのことでずっと残り続ける
    媒体に毒を吐く直情に少しげんなりした。
    立ち会ってくれていた大野が口火を切った。
    『死ねと言う言葉をそんなに簡単に使うものじゃないことは分かっているよね。自分が言われたらどう思うかを考えればいいだけのことだからね』
    子供に教えるというのはここからなのか、と
    気が重くなった。
    自分は教師を続けられるだろうか。

    憂鬱という漢字を何度か心の中で書いた
    梅雨も過ぎ、夏休みの水泳教室が
    行われた日また事件が起きた。
    学校の西門の前の家で飼っていた猫を
    網戸越しにからかっていた生徒達が、
    うっかり外に逃してしまった。
    帰省していたその家の孫の雅也くんが
    逃げた猫を追いかけたまま戻らないと
    家主の爺さんが学校に乗り込んできた。
    夏休みでも日直やら何やらで出勤していた
    教師達が慌てて探しに出て行った。
    拓実も公園や住宅の植え込みや車の下など
    猫の好きそうな場所を探して歩いた。
    なかなか見つからず警察に連絡かと
    誰もが感じ始めた頃『見つかった』と
    一報が入った。
    逃げた猫と雅也くん、そして
    一緒に姿を現したのが小林隼人だった。
    隼人は黙って下を向いていた。
    心配で血が上った爺さんが隼人を
    怒鳴りつけた。
    『お前がわしの猫をわざと逃がして、雅也を
    連れ回していたのか!』
    隼人はまだ黙ったまま俯いていた。
    『おい!聞いとるのか!』
    さらにエキサイトしそうな爺さんを
    遮ったのは雅也だった。
    『おじいちゃん違うよ。お兄ちゃんが逃がしたんじゃないよ。ずっと一緒にめめを探してくれただけだよ』
    『なんだと!』
    『めめが見つからなくて、お兄ちゃんは家族が心配してるから帰ろうって言ったけど、僕がめめも一緒じゃなきゃやだって泣いたんだ。だからお兄ちゃんは悪くない』
    爺さんは急にしょげて力なく謝罪した。
    『よく知りもせずすまんかった』

    帰り道、拓実は隼人を食堂に誘った。
    猫を探し続けて腹が減っていたのか
    隼人は大人しくついてきた。
    『ご注文は?』
    『えっと、この間先生が食べてたやつ』
    『えっ』
    思わぬ言葉に一瞬たじろいだが
    『この間って?生姜焼きかな?』
    『多分、そう』
    『じゃあ生姜焼き定食と唐揚げと卵焼き
    あとジュースとグラスビールちょうだい』
    隼人は食事がくるまで落ち着かない様子で
    キョロキョロしながらジュースを飲んだ。
    『小林くん、今日は最後まで雅也くんに付き合ってくれてありがとう』
    隼人が初めてはにかむように笑んだ。
    空きっ腹のビールが効いたのか、つい自分の
    話をしてしまった。
    『先生は小さい頃から夕飯は大抵一人だったんだ。父さんは先生が赤ん坊の時に亡くなったし
    母さんは僕のために朝から晩まで働いてくれてたからね。それでもうちはずっと貧乏だった。休みにどこか出掛けたこともなかったよ。』
    聞いてるのか聞いてないのか無表情だった
    隼人が急かすように言った。
    『先生、僕が良い所に連れてってあげる』
    『えっ、なに?どこ行くの?』
    『いいから早く。日が暮れちゃうよ』
    拓実は慌てて唐揚げを掻き込んで隼人の促すまま急ぎ足でついて行った。
    神社の境内への長い石段を息を切らせて上がり
    社務所の裏側の一見獣道の様な先の見えぬ道を
    さらに上へ上へと進むとやっと開けた高台に出た。
    『先生、見て!』
    オレンジ色のグラデーションが目に飛び込んできた。
    温かい橙色が身体の深いところに染み込んでくるようだった。
    隼人はいつになく上機嫌で言った。
    『ここから見る夕焼けが一番綺麗なんだ
    絶対誰にも内緒だからね』
    一番星が夕闇に包まれる前のグレーの空で
    震えるように瞬いていた。

    昼間の最高気温が三十五度の日だった。
    熱がこもる昼下がりのアスファルトの道を
    汗を拭きながら歩いていた。
    小さい公園の木陰のベンチに少女が
    ひとりぽつんと座っていた。
    受け持つ児童の一人、谷山瑞樹だった。
    手足の長い大人しい印象の娘だった。
    あまりの暑さに遊ぶ子供も休憩する老人も
    いなかった。
    自動販売機で水と冷たいお茶を買って、近寄っても瑞樹は気付かなかった。
    隣に座って声をかけた。
    『誰か待ってるの?』
    瑞樹はハッとして身構えたが、拓実だと認識すると力を抜いて答えた。
    『別に』
    拓実は両手の飲み物を差し出して
    『どっちにする?』と聞いた。
    瑞樹が指差した水を渡し、拓実はお茶のペットボトルの蓋を開け勢いよく飲んだ。
    瑞樹はペットボトルを両手で揺らすだけで
    すぐに飲もうとはしなかった。
    『いつからここにいるの?』
    『さっきから』
    『もしかして、佐久間玲さんを待ってるの?』
    瑞樹は少しビクッとして拓実を見た。
    『なんで?』
    『前に放課後の教室に二人でいるところを見たから』
    『ふーん。それでなに?』
    『佐久間さんはここに来るの?』
    『分からない』
    『分からないのにいつまで待つの?』
    『うるさいな。あっち行ってよ』
    『行くけど。水分はとった方がいいよ』
    つれない瑞樹を一人置いて立ち去るのは
    後ろ髪を引かれる気がしたが、拓実は席を立って歩き出した。振り返ると瑞樹はまだペットボトルを持ったまま遠くを見ていた。
    佐久間玲は来るのだろうか。
    瑞樹はいつまで待つ気だろうか。
    アスファルトから立ち昇る陽炎が、少し先の視界を歪んで見せていた。

    二学期に入り毎日が断然と忙しくなった。
    九月の終わりに運動会。十一月には展覧会が
    控えていた。
    連日準備に追われた。
    運動会で披露する五年生の演目は、
    ソーラン節と組体操に決まった。
    拓実はあたふたとすべき事をこなすのに
    精一杯だったが、大野の指示は的確で
    分かりやすかった。
    生徒達もクラスの垣根を越え五年生
    全員で盛り上げるんだという気持ちが
    日に日に育っていくようだった。
    運動会が間近に迫って準備に拍車がかかり
    夕飯を食べながら最終打ち合わせをしようと
    なり、拓実がいつもの食堂に大野を誘った。
    普段より遅い時間なので隼人はいなかった。
    何故かちょっとほっとした。
    生ビールで乾杯してから、枝豆や塩辛をつまみに
    運動会の進行の話など色々話してるうち、大野に婚約者がいる事を初めて知った。
    拓実は胸がチクッと痛んだことに気がついて、
    慌てて打ち消した。
    『違うこれは違う。』何が違うのか。
    最初は僅かなささくれのようだったのが
    日にちが経つにつれモヤモヤが膨らみ続ける
    事に恐怖を覚えた。
    それでも毎日大野と二人の作業は続いた。
    大野は何も気付いていない様子だった。
    運動会当日、生徒達は見事にソーラン節と
    組体操をやり切った。
    五年生が最優秀賞をもぎ取って、全員が
    高揚感に包まれていた。
    『お前のおかげだ。ありがとう』
    大野の言葉が優しく拓実を包み込み
    思わず鼻の奥がツンとした。
    拓実は人生が色づき動き始めたことを
    認めずにはいられなかった。
    十月になると朝晩めっきり涼しくなってきた。
    小林隼人は運動会以降少しずつ周囲に心を開く
    ようになり、クラスメイトと談笑する場面を
    幾度か目にした。

    拓実は大野を意識しないよう意識していたが
    大野から展覧会の打ち合わせ兼の食事に
    誘われた。
    断れぬままついて行き食事の後、一杯だけと
    約束して路地裏のバーに入った。
    その夜の大野は一杯かどころかピッチが速くて、酔って珍しく彼女への不満を口にした。
    酔い潰れた大野を無理やりタクシーに押し込み
    マンションの住所を何とか聞き出し鍵を探し当て倒れ込むように部屋まで届けた。
    その間大野は酔っ払ってふざけて拓実の首に
    腕を巻き付けたり、くすぐったりと
    やりたい放題だった。
    酔っ払いに水を飲ませてネクタイを緩めてやるとあっという間に寝息を立て始めた。
    早く帰らなきゃと思いながらも大野の寝顔を
    暫く見つめていた。
    頬に触れてみたい衝動に駆られたが何とか理性で抑え付け鍵をドアポストに落とし家路についた。
    ベッドに横になっても大野の腕の感触が首に残っていた。
    ワイシャツのボタンを外した時にちょっとだけ
    見えた鎖骨が目に焼き付いていた。
    翌日は日曜で昼前にやっと起きて、食事をしに
    外へ出た。足は自然と大野が住む街に向かった。
    偶然会えるわけもなく、ファストフードで食事を済ますと隼人が教えてくれた高台に上った。
    陽だまりの公園が眼下に見渡せた。
    転げ回る子供や飼い主を引っ張る子犬が
    スローモーションで動いているように見えた。
    どの位の時間ここにいたのだろう。
    気がつくと黄昏時だった。
    ずっと昨夜の大野を思い出していた。
    それから休日になると、大野が使う駅近くの
    喫茶店の窓際で珈琲を飲んで過ごすことが
    多くなっていた。
    ぼーっと外を眺めていると、グレーの
    カーディガンを羽織った大野を目が捉えた。
    大野は後ろから駆け寄る女性と笑顔を交わしていた。
    一瞬で周囲の景色が止まった。
    飲み始めたばかりの珈琲が少しずつ
    冷めながら忘れ去られていた。
    いつの間にかまた高台に来ていた。
    さっき見た二人がずっと頭から離れずに
    いた。
    逢魔時の光と影を見ていた。
    表裏一体のそれ。
    光が明るく熱いほど
    影は黒く冷たい。
    どこまでも沈み込む沼のようだと
    拓実は思った。

    展覧会で隼人の作品が優秀賞に選ばれた。
    高台からの夕焼けを描いた心の温まる
    絵だった。
    体育館に飾られたその絵を拓実は何度も見た。
    隼人が照れて、もういいからと言われても
    何度も見ては隼人の頭をぐりぐり撫でた。

    季節は校庭に銀杏の葉が舞い散る晩秋へと
    移っていた。
    期末試験も終わり、冬休み目前に大野から
    食事に誘われた。
    彼女と連れ立って歩く姿を見て以来
    大野のことは諦めようとしていたのに
    呆気なく誘いに応じてしまう自分に
    舌打ちしたくなる。
    それでも大野と過ごす時間は楽しかった。
    二人でいるだけで気持ちが浮き立つのを
    抑えようもなかった。
    目を合わせるのが気恥ずかしくて
    俯いて声を聞く。『あぁ、この声も好きだ』
    なんてかなり重症だと声を出さずに笑った。
    大野はそんなに飲んでいた様子はなかったが
    帰りには強か酔っていた。
    またタクシーで部屋まで運んで、急いで帰ろうと踵を返したら手首を掴まれた。
    酔っているとは思えない程力強く。
    身体が固まって動けなくなった。
    心臓の音が煩くて大野に聞こえるん
    じゃないかと心配になった。
    『お前は俺のこと好きなのか?』
    大野が突然口を開いた。
    やっぱり酔ってなんていないんじゃん。
    そう思うだけで、言葉は出てこなかった。
    『俺はお前が好きだ』
    『はっ?』
    意外すぎて何を言われたのか分からなかった。
    振り返って大野の口元を見るのがやっとだった。
    大野は少し笑って歩み寄ってきた。
    目の前に自分より少し背の高い大野がいて、
    唇がすっと近づき
    拓実の唇を掠め取って離れていった。
    その後のことは覚えていない。
    多分転がる様に玄関を出て、駅まで走って
    電車に乗り気付いたら自分のベッドで
    荒い息をなんとか整えていた。
    『俺はお前が好きだ』
    イヤーワームされた楽曲のように
    大野の言葉が脳内で繰り返し再生された。

    翌日、学校での大野はいつも通りだった。
    その事に安堵しながら落胆もしている
    自分を持て余した。
    冬休みに突入しいつもと同じく
    一人でクリスマスを過ごし、正月を迎えた。
    正月は雑煮だけ自分で作って食べた。
    冬休みの間も何回かあの高台に一人で上って
    夕焼けを見た。
    寒くて手が冷たくて帰り道は走って下った。
    街にぽつぽつと明かりが灯り始めるのを
    見て何故か寂しくなった。
    一人が寂しいと感じたのは、ほんの
    幼い頃以来だった。

    三学期が始まり断片的に大野の破談の
    噂が漏れ聞こえてきた。
    確かめたかったがどうしても
    直接大野に聞く事が出来なかった。
    ある日大野から話しがあると誘われた。
    ビールを飲みながらいつ切り出されるの
    だろうと落ち着かないでいると
    『俺、婚約解消したんだ』
    『全部俺のせい。俺が悪い。』
    『俺、我儘でさ。いざ結婚となったらびびっちゃった』
    『彼女の人生に責任取れねえなぁって思ってたの彼女にばれちゃった。』
    『結局最後は彼女から別れましょうって。』
    『情けねぇよな。いい年こいてなんも出来なかった。傷付けただけ。アホだろ』
    何も言えなかった。
    大野さんは悪くない。優しい人だと言いたかったのに言葉にはならずただ大野の口を手のひらで覆っていた。

    『明日夕焼けを一緒に見にいきませんか』
    ようやく出た言葉がそれだった。
    『夕焼け?そう言えば暫く見てねえな。
    無意識には見てたんだろうけどな』
    翌日二人で白い息を吐きながら、ゆっくり歩いて坂を上るとちょうど空が淡いピンクに染まり始める時間だった。徐々に橙色に変わりゆく空を眺めながら拓実は内緒だよと人差し指を立てた隼人を思い出していた。
    大野とくっついて見た夕焼けは
    綺麗だった。こんな夕焼けは初めてだと
    大野も言った。
    お互いを恋人として意識していると感じた。

    翌日、隼人が登校しなかった。
    家に電話しても誰も出なかった。
    母親の携帯からも折り返しの連絡は
    なかった。
    その翌日も隼人は登校せず、連絡もなかった。
    放課後隼人のアパートを訪ねた。
    ドアを何回かノックすると、暫くしてようやく
    隼人がドアを少し開けた。
    隼人の目は拓実の訪問を迷惑だと語っていた。
    『小林くん何かあった?
    どうして学校に来ないの?』
    閉まりそうになるドアに何とか靴の先を
    突っ込んだ。
    『もしかして日曜日にあの高台にいた?』
    『あそこで先生達をみた?』
    何も言わない隼人の口が泣くのを堪えるように
    少し歪んだ。
    『やっぱりそうなんだね。誰にも内緒って約束したのに破ってごめん。無神経だった。ほんとにごめん。』
    隼人が拓実の胸を突いて少し後退った隙に
    ドアがパタンと閉められた。
    結局隼人の声は聞けなかった。
    その後、母親から連絡がきたが
    彼女は何故隼人が学校に行かないのか
    見当がつかないとただ困っていた。
    その翌日もアパートを訪ねたが
    今度はドアが開くこともなかった。
    何度も謝ることしか出来なかった。
    『小林くんがもう先生と話しもしたくないと
    思うのは分かったよ、当然だと思う。でもね
    クラスの中には君を心配してる友達がいるよ。
    君はどう?友達とは思えない?友達はいらない?』
    暫く待ったが部屋からは何の音も聞こえてこなかった。
    最後に『明日学校で待ってるから』と言い残し
    自分の無力を噛み締めながら歩いた。

    翌朝隼人は登校した。
    拓実とは会話も目を合わすことも
    なかったが、クラスメイトには
    時折笑顔も見せていた。

    夜まで残業して重い気持ちを引きずりながら、
    大野のマンションに向かった。
    マンションのオートロックを解除する
    女性の横顔に見覚えがあった。
    駅前の喫茶店で見た大野と笑顔を交わし合っていた彼女だった。
    目の前が真っ白になっていく。
    膝から頽れそうになるのを必死で
    耐えて、来た道を戻る。
    でも自分の部屋には帰りたくなかった。
    帰れなかった。
    気づけば母と暮らした古いアパートの
    部屋の前にいた。
    まさかと思ったがドアノブを回すと
    ドアが開いた。罪悪感も持たないまま
    部屋に入り窓際の隅で膝を抱えた。
    子供の頃いつもこうして母を待った。
    携帯電話もゲームも漫画も何一つ
    持たなかった自分。
    お腹が空くと冷やご飯をレンジでチンして
    生卵をかけて一人で食べた。

    寂しくなんてなかった。
    寂しいって何か分からなかった。
    いつも一人だったから。
    一人が当たり前だったから。
    こんな気持ち知りたくなかった。
    やっと気持ちを開きかけた教え子を
    裏切り、恋人に慰められたくて、
    のこのこ訪ねて行ったら
    彼女と鉢合わせして、
    一丁前に傷ついて、寂しがって
    馬鹿みたいだ。
    元に戻っただけじゃないか
    一人で蹲って母を待ったあの夜に。
    そうだ母はもういないんだった。
    この空っぽの部屋はまさに俺だ。
    何にもない。
    でも癒される。
    この孤独だけは俺のものだ。
    誰にも分かられたくない。
    誰にも触れさせはしない。
    悟られるのもごめんだ。
    もういい。このままがいい。
    誰にも気づかれず、ずっとこのまま
    ここにいたい。寒いけど寒くない。
    手足は冷たくて痛いけどそのうち
    感じなくなるから。
    それがいい。
    ポケットに入れたスマホは
    大野からの着信を何度も伝えていたが
    俺の耳にも心にももう届かない。
    外から聞こえる誰かの声も風の音も
    空っぽの身体を素通りしていく。
    今夜、イヤーワームする曲は
    忌野清志郎が歌う
    デイドリームビリーバー。
    もう今は彼女はどこにもいないと
    繰り返すその歌詞を抱きしめて眠ろう。
    今夜も明日も明後日も。




    #創作大賞2023
    #オールカテゴリー部門

    あなたへのおすすめ