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『The Moon』 創䜜倧賞2025 ミステリヌ小説郚門

    土井䞭 未子

    あらすじ

    “切り裂きゞャック”ずは、捏造された蚘事から生たれた幻想に過ぎなかった。誰もがその事実を知りながら、130幎もの間、いないはずのゞャックの圱を远い続けおきた。連茉『White Smoke』は、被害者の血を匕く若き女性アニスず蚘者マヌフィヌによる挑戊の蚘録だ。語られなかった真実を掘り起こし、五人の女性の名誉を取り戻すため、そしお本圓に䌝えるべき“物語”のために――圌らは、誰も成し埗なかった解決ぞずたどり着く。



    第䞀章 アニスの倱恋

    オックスフォヌド・ストリヌトのカフェ。
    倏の盛り、午埌3時、曇り空。
    アニスはい぀ものようにアむスラテを頌み、ヘンリヌはアむスののミントティヌを遞んだ。
    圌はい぀も正しい遞択をする。だからミントティヌなんだ。
    けれど、ヘンリヌは飲み物に口を぀けなかった。
    その時から悪い予感がしおいた。

    「母がね、最近いろいろ気にしおるんだ」

    ヘンリヌはグラスに泳ぐ氷を芋぀めながら蚀った。

    「――君の家のこずずか。バックグラりンドずか」

    アニスは䞀瞬、たばたきを止めた。
    そのたたストロヌでラテを混ぜ続けた。
    グラスず氷がぶ぀かり、カラカラず冷えた音がする。

    「ぞえ、あなたのお母様は私の“バックグラりンド”たでチェックなさるのね。䜕か気に障るようなこずでも」

    「そういう蚀い方は 違うよ。ただ――」
    ヘンリヌは蚀葉を遞ぶようにミントの葉を芋おいる。

    「僕たち家族はリノァプヌルのこずをよく知らない――、生粋のロンドン人だからね。それで母が蚀うんだ、君にずっおフェアチャむルドの名前は重荷になっおしたうんじゃないかっお――」

    アニスはストロヌから手を離し、ゆっくりずヘンリヌを芋た。

    「あなたも、そう思っおるの」

    ヘンリヌは答えなかった。
    それが答えだった。

    「今たでありがずう、さようならヘンリヌ」

    アニスは笑っおいた。唇だけで笑っおいた。

    「お宅の玠敵なティヌカップでお茶を飲めなくなるのね、本圓に残念だわ」

    ヘンリヌが䜕か蚀葉を足そうずしたずき、
    アニスは立ち䞊がった。
    本革の茶色いバッグを持っお背䞭を向けたあず、
    思い盎したように、もう䞀床ヘンリヌぞ向き盎った。

    「ねえ、ヘンリヌ」

    「――なに」

    「あなたのお母様もご存知ないこずがあるの」
    圌女はにっこりず埮笑んだ。
    「私の本圓の“バックグラりンド“」

    アニスはカフェのドアを抌しお出おいった。
    四幎の月日が溶けお無くなった瞬間だった。

      

    倜、アパヌトの郚屋に垰る。
    心なしかい぀もより暗い郚屋。アニスの心を反映しおるみたいだ。

    別れたんだ。振られたんだ。
    けれど、涙は出ない。
    ヘンリヌ、母芪の蚀った蚀葉をそのたたなぞっおた。
    今日だけじゃない、い぀だっおそうだった。
    「母がね」そう口にするヘンリヌ。
    二人の間にはい぀だっお、圌の母芪、ノァむオレット・フェアチャむルドがいた。
    あの気高い瞳、高く巻いた豊かな髪、胞元の癜薔薇のブロヌチ。
    ロンドン西郚の倧邞宅に䜏む、誇り高き䞀族フェアチャむルド家。
    アニスはふず、自分のfaceBookのプロフィヌル欄を思い出した。
    確かどこかに「ヘンリヌ・フェアチャむルド 私の運呜の人ですHenry Fairchild: not just my boyfriend, maybe my future」っお曞いおたはず。
    嫌だ、すぐに消さなきゃ。
    暗い郚屋、ラップトップを開き、ブラりザを立ち䞊げる。



    フェむスブック プロフィヌル/ Facebook Profile

    名前 / Name
    アニス・キャンベラAnnis Camberla

    幎霢 / Age
    24

    居䜏地 / Lives in
    むギリス・ロンドンLondon, United Kingdom

    出身地 / Hometown
    むギリス・リノァプヌルLiverpool, United Kingdom

    å­Šæ­Ž / Education
    シティ・ナニバヌシティ・ロンドン ゞャヌナリズム修士課皋 圚籍
    City, University of London – MA in Journalism

    職歎 / Work
    ゜ヌホヌにある家族経営のデリ「キャンベラ・デリカテッセン」でアルバむト
    Part-time at Camberla Delicatessen, Soho

    恋愛状況 / Relationship
    ヘンリヌ・フェアチャむルド 私の運呜の人です
    Henry Fairchild: not just my boyfriend, maybe my future

    自己玹介 / About Me
    曞き手、ゞャヌナリスト志望、ロンドンで倢を远っおいる途䞭
    将来は、公平な人間になるこず
    子䟛を助ける蚘事を曞くこず
    この二぀が叶うず信じおたす
    Writer, aspiring journalist, chasing dreams in London.
    I believe in becoming a fair-minded person, and in writing stories that help children.
    




    あった、慌おお
    恋愛状況 / Relationship
    ヘンリヌ・フェアチャむルド 私の運呜の人ですHenry Fairchild: not just my boyfriend, maybe my future
    を削陀し、ごくシンプルに曞き換える。
    シングルSingle)
    これでいい。

    圌ず撮った写真も党郚削陀。これは静かな戊争だった。

    グリニッゞ公園の芝生で䞊んで座った写真。ヘンリヌは金髪を靡かせお柄たした顔、私は玙コップを持っお笑っおた。
    自然史博物通の階段で、圌の手を匕いた写真。手の冷たさたで思い出す。
    リノァプヌル駅、別れ際に圌のコヌトの袖を぀たんだ写真。キャプションは「次はロンドンで」。
    䞀぀䞀぀を遞択しおは削陀、その繰り返し。

    そうしおこれも忘れちゃダメ。
    ロンドン西郚の邞宅、薔薇園で撮った䞀枚。癜薔薇に囲たれお、私は生成りのワンピヌス、ヘンリヌの母ノァむオレットはツむヌドのスヌツ。これ以䞊ない䜜り笑い。
    屋敷の応接間でのスナップもあった。りェッゞりッドのカップを持぀手が劙に硬い、ロボットみたいだわ。
    クリスマスの晩逐䌚、長いテヌブルで䞊んで笑う写真。私は真玅のワンピヌス、兄嫁のクレアが貞しおくれたもの。私ずヘンリヌずのこず応揎しおくれおたな。

    そのすべおを、削陀。
    続けお、Xのアカりントにもアクセスしお、連続削陀。
    やっずSNSからヘンリヌの気配、フェアチャむルド家の匂いが消え去った。

    そうしお、最埌の倧仕事。
    もう䞀床Facebookを開く。
    自己玹介 / About Me
    曞き手、ゞャヌナリスト志望、ロンドンで倢を远っおいる途䞭
    将来は、公平な人間になるこず
    子䟛を助ける蚘事を曞くこず
    この二぀が叶うず信じおたす
    Writer, aspiring journalist, chasing dreams in London.
    I believe in becoming a fair-minded person, and in writing stories that help children.
    この自己玹介も埌半郚分を削陀。
    公平fair、子䟛達childrenchildフェアチャむルド。
    私ったらずんでもない“匂わせ女“だった。
    でも、それも終わり。
    その空癜郚分に曞き足すのは 
    私の誇りでもあり秘密でもある。
    本圓の“バックグラりンド“


    アニヌ・チャップマンの子孫です
    Great-great-great-granddaughter of Annie Chapman
    アニヌ・チャップマンは、1888幎に発生した「切り裂きゞャック」事件の五人の被害者の䞀人でした
    Annie Chapman was one of the five canonical victims of Jack the Ripper in 1888.


    ゚ンタヌキヌを抌したあず、画面に反射した自分の顔が少し笑っおいるのに気づいた。

    「そうよ、私、アニヌ・チャップマンの子孫。アニヌの名前は知らなくおも、切り裂きゞャックのこずは知っおるでしょ」

    呟いた声は䞍思議ず挑発的な色を垯びおいた。

    アニスは匕き出しから、䞀枚の玙を取り出した。
    元は猶詰のチラシか䜕かの裏。端はすり切れ、小さな穎もいく぀かある。
    ラミネヌト加工を斜したのはアニス自身だった。
    亡くなったおばあちゃんが「宝物なの」ず蚀っお、倧事に財垃にしたっおいた玙片だったから。

    その玙には、黒くかすれた文字でこう曞かれおいる。

    “僕の名前はゞョン・チャップマンです。僕の母はアニヌ・チャップマン。母は悪い人間ではありたせん“

    朚炭のようなもので䜕床もなぞったのだろう、それが跡になり玙がぞこんでいた。

    ゞャックに殺されたアニヌ・チャップマン。その息子、ゞョン・チャップマンが曞いたもの。
    母のために、母を守るために、子どもが絞り出すように曞いた䞀文。
    おそらくろくに孊校にも行っおいない。
    倧人になっおも、きちんずした文字を曞く機䌚すらなかったのかもしれない。
    そもそも、玙もペンも手に入らない暮らしだったのだろう。
    それでもゞョンがどうしおも䌝えたかった倧事な蚀葉。
    嚌婊の息子ず蔑たれたゞョンが残しおくれたもの。
    それが、今、アニスの手の䞭にある。
    だからこれは誇り。
    恥ではなく、誇りなのだ。

      

    第二章 アニヌの子孫ずしお

    朝、目が芚めるず、劙に郚屋の空気が重たかった。
    きっずただ、どこかにあの“フェアチャむルドの残り銙”がある。

    たず最初はクロヌれット。
    やっぱりあった。
    ハンガヌにかけたストヌル。
    どこかの囜の少数民族女性が線んだ物らしい。
    自然玠材で、手觊りはゎワゎワ。䜕床掗っおも銎染たなかった。
    手持ちの掋服にも合わせづらい。
    キッチンの棚の奥、
    フェアトレヌドの手摘み玅茶。味は薄めで奜みじゃない。
    そもそも手摘みじゃない玅茶っおあるのかしら
    掗面台には泡立たない巚倧な石鹞。
    原材料は野草ず泥。バスルヌム党䜓が草むらみたいな匂いになった。
    そしおゞュ゚リヌケヌス。
    癜い薔薇のブロヌチ。フェアチャむルド家の“お印”。
    これだけは、最埌たで䜿わなかった。

    党お、ノァむオレット・フェアチャむルドから莈られたものだった。
    「本物の䟡倀を、わかるようになりなさい」っお。
    それらは、圌女が䞻催する慈善団䜓――ホワむト・ロヌズ・サヌクルで扱っおいた“意識の高い品々”。
    でもアニスは気づいおしたった。
    本物っおなんだろう 誰にずっおの本物
    少なくずも私にずっおこれは、停物だった。
    だっおそうじゃない 党郚奜きじゃないんだもの。

    アニスは倧きなゎミ袋を開き、順番に攟り蟌んでいった。ストヌル、玅茶、石鹞、ブロヌチ。
    以前の私はこれをフェアチャむルドに受け入れられた蚌だず思っおいた。
    でも違った。それは幻想だった。
    だから党郚さようならだ。
    圌女にずっおこれはただの片付けじゃない。“䜕かの終わり”だった。

    そしおその足で近くのドラッグストアに出かけた。
    手に取ったのは、泡で出おくる実甚的なハンド゜ヌプ。
    人工銙料の匂いが劙に安心する。
    次にカヌトに入れたのは、スティックタむプのラテ。
    人工甘味料入り。手摘み玅茶の真逆の存圚。
    䜓に悪いものしか入っおないけど矎味しいや぀。

    アパヌトに垰り、それらを蚭眮したあず、腰に手を眮いお満足そうにアニスは蚀った。

    「これで、ようやく私の郚屋になった」

    甘いラテを入れおから、ノヌトパ゜コンを開いた。
    Facebookのプロフィヌル欄をもう䞀床、ゆっくりず読み返す。

    ゞャヌナリスト志望。
    アニヌ・チャップマンの子孫。

    ふた぀のフレヌズが、隣同士に䞊んでいる。
    これっおもしかしお“運呜“っおや぀じゃない
    アニスはそう思った。
    私のルヌツ、アニヌ・チャップマン。
    無惚に殺された䞀人の女性。
    息子のゞョンは“悪人じゃない“っお信じおた。
    私の未来、ゞャヌナリスト。
    でも、アニヌ・チャップマンはゞャヌナリズムによっお二床殺された。
    嚌婊。だらしのない女。そう決め぀けられお。
    誌面で䜕床も貶められた。

    過去ず未来は繋がっおる。だったら、今の私は䜕をすべき
    アニスは、䞀通のメヌルを曞き始めた。

    件名切り裂きゞャック事件の報道姿勢、その芋盎しに぀いお

    宛先letters@themoon.co.uk
    送信者Annis Camberla


    拝啓
    突然のご連絡をお蚱しください。
    私は珟圚、シティ・ナニバヌシティ・ロンドンでゞャヌナリズムを孊んでいる孊生です。
    きっかけがあり、私自身の祖先に぀いお調べおいたす。
    1888幎に切り裂きゞャック事件で亡くなった、アニヌ・チャップマンずいう人物です。

    報道によっお切り取られた“圌女の姿“ず、家族が信じた“本圓の圌女の姿“ずの間に、倧きな乖離がありたす。
    その溝を埋めるような蚘事を、切り裂きゞャックの事件ず関わりの深い埡瀟The Moonで取り扱っお頂けたらず思っおいたす。

    圌女の子孫ずしおではなく、
    䞀人の人間ずしお、圌女の名誉を回埩したいのです。

    お時間をいただけるようでしたら、ぜひ䞀床お話させおいただけたせんか。

    突然のお願いで恐瞮ですが、ご怜蚎いただければ幞いです。

    敬具
    アニス・キャンベラ
    annis.cam.journo@gmail.com


    P.S.
    添付に圌女に関する叀い蚘録ず、私のプロフィヌルをお送りしたす。
    もし、心に匕っかかるものがあれば――その時点で十分です。

      

    午埌からの授業が終了。
    垰り支床をしおいるず、シェリルが話しかけおきた。

    「ねえアニス、ヘンリヌず別れたっお本圓」

    シェリル、ワナビヌ女子の党おを詰め蟌んだ女。本圓にわかりやすい人。

    「ええ、そうよ。別々の道を遞ぶこずにしたの」

    アニスは事も無げに蚀う。
    シェリルの巻き髪がふわりず揺れる。感情を髪の毛で衚すタむプらしい。

    「ふふっ、ありがずう」

    高い声でお瀌を蚀うず、シェリルはたた髪の毛を揺らしながら去っお行った。いったい䜕に察するお瀌なのやら。

    「アニス、ちょっずいい」

    今床はサミュ゚ル。真面目なメガネ女子。埗意分野はフェミニズム。

    「ええ、䜕」

    そういえば、サミュ゚ルず話すのは初めおだった気がする。

    「あなた本圓にアニヌ・チャップマンの子孫なの」

    ああ、興味を持っおくれたのね。
    そう思ったアニスは鞄から䟋の玙片を取り出した。

    「ええ、そうよこれがその蚌拠」

    サミュ゚ルは玙片を片手で受け取り、じっず芋た埌肩を萜ずした。

    「これだけ これが蚌拠」

    「そうよ、いけない」

    アニスが尋ねるず、サミュ゚ルは「ふヌん」ず蚀っお、玙片を返しおよこした。たるで「华䞋」ず蚀っレポヌトを返すグリヌノス教授みたいな手぀きで。
    なんお䞍愉快な女なんだろう。
    アニスの怒りをよそに、サミュ゚ルは、「じゃね」ず蚀っお去っおいった。
    お瀌を蚀っただけ、シェリルの方がマシだった。
    アニスはため息を぀いお、玙片をバッグにしたった。
    そこぞメヌル着信を知らせるスマホのベルの音。
    誰からだろう、次の嫌なや぀の登堎かしら。
    アニスはメヌルを確認した。

    件名Re: 切り裂きゞャック事件の報道姿勢、その芋盎しに぀いお
    宛先annis.cam.journo@gmail.com
    送信者murphy.knox@themoon.co.uk

    アニス・キャンベラ様

    メヌル、拝読いたしたした。

    たずお䌝えしなければならないこずがありたす。
    残念ながら、あなたのご期埅には沿えそうもありたせん。
    匊瀟では珟圚、瀟䌚的問題に察する扱いには慎重な立堎をずっおおりたす。
    たた、玄癟䞉十幎前の事件ずいうこずもあり、
    詳现な取材状況に぀いおも確認が取れない状況です。
    心苊しいこずではございたすが、ご理解賜りたく存じたす。

    しかしながら、あなたが添付しお来られた資料に぀いおは、
    䞀床盎接確認させお頂きたいず思っおおりたす。
    これは私個人の垌望です。

    今週金曜の午埌、匊瀟線集郚においで頂くこずは可胜でしょうか
    ご返信お埅ちしおおりたす。

    マヌフィヌ・ノックス
    蚘者The Moon
    murphy.knox@themoon.co.uk


    アニスはメヌルを読んだ。
    断られおるけど、断られおない
    少なくずも、このマヌフィヌ・ノックスっお人は嫌なや぀じゃないみたい。
    アニスは急いで、スケゞュヌルを確認した。
    倧䞈倫、金曜日の午埌は空いおいる。
    だからきっずいい事がある。そう、きっずね。

    第䞉章 蚘者マヌフィヌ

    The Moon線集宀。午埌時30分。
    蛍光灯の色はなぜか冷たい。
    倩井に蚭眮された空調機から聞こえる僅かな振動音が空気を揺らしおいる。
    マヌフィヌ・ノックスは、さきほどAIが出力した蚘事の線集画面を睚んでいた。

    『ニュヌペヌク発、革新的スタンドカフェがロンドン進出』
    ありがちなタむトルだ。
    䞭身はもっずひどい。
    プラントベヌスミルク、オヌガニックコヌヒヌ、゚シカルな店舗デザむン。綺麗な蚀葉を䞊べた蚘事。
    誰も珟堎を取材しおいない。
    スポンサヌ䌁業から送られた資料をむンプットするず、AIが蚘事をアりトプットする。
    しかしそれだけでは誌面に茉せられない。
    マヌフィヌはキヌボヌドを叩き、蚘事の䞭から䟋のAI臭を取り陀く䜜業を行う。
    『提䟛されるプラントベヌスミルクの原料は、党おオヌガニック。その芳醇な銙りずコクは本物のミルクを䞊回るほどです』
    銬鹿銬鹿しい。豆や雑穀の搟り汁から芳醇な銙りなんおするものか。
    AIが生成する過剰な文章を敎える。
    『提䟛されるプラントベヌスミルクの原料は、党おオヌガニックです』
    このくらいでちょうどいい。
    そしお、心の䞭で぀ぶやく。
     賭けおもいいが、この『革新的スタンドカフェ』ずやらは、䞉幎埌には跡圢もなく消えおいる 

    マヌフィヌは䞀仕事終えお、ぐるりず肩を回した。
    こんな仕事でも、四十䞃歳のマヌフィヌの䜓はこちこちに固たる。
    銖をほぐしがおら、呚囲を芋枡す。
    静かだ。そもそも人がいない。
    線集宀にはマヌフィヌの他に䞉人の蚘者、あずは倖郚ラむタヌの空垭ず、誰のものずも知れぬコヌトが掛けられおいるだけだった。
    線集宀の片隅にある線集長宀もこの時間は空っぜだ。
    新聞瀟の心臓郚にしおは、静かすぎる空間。

    “Ding.”
    ドアのベルが鳎った。

    振り返るず、ひずりの若い女性が立っおいた。
    芋たずころ、二十代半ば。
    姿勢がいい。目が合っおも逞らさない。

     快掻そうな嚘だな  少なくずも気狂いではない 
    マヌフィヌは立ち䞊がり、手を差し出した。

    「アニス・キャンベラさんかな マヌフィヌ・ノックスだ。たあ、かけお」

    圌女は挚拶を返した埌、カバンからラミネヌト加工の玙片を取り出した。
    マヌフィヌは䞡手でそれを受け取った。たるで壊れ物を扱うように。

    玙片に曞かれた文字を読み取る。時間をかけお䞀文字䞀文字。
    荒い、削るような筆跡。墚でもむンクでもない。䜕かの煀のようなもので曞かれおいた拙い文章。

     『僕の名前はゞョン・チャップマンです。僕の母はアニヌ・チャップマン。母は悪い人間ではありたせん』

    たずは自分の名前、そしお母の名前。最埌に匷く『母は悪い人間ではではありたせん』ず。
    憎しみ、怒り、黒い感情。そこに光はなかったのか 
    いや、あった。マヌフィヌは最埌に曞かれた
    『母は悪い人間でははありたせん』
    の黒い文字から攟たれた匷い光を感じ取った。
    少幎ゞョンは信じたのだ。誰になんず蚀われようず、自分の母芪を信じた。
    この“暗闇の䞭の光“を目の前の女性、アニスの䞀族は代々受け継いだ。
    恥ではなく誇りずしお扱い、子から孫ぞずバトンを繋いだ。
    奇跡ず蚀っおも過蚀ではない。

    マヌフィヌは、もう䞀床その玙片を読み返した。そしお、そっず目を閉じる。䞡手で包み蟌み、指先でじんわりずした熱を感じ取った。そこには――瞑目に倀する、“人間の魂”が宿っおいた。

    やがおマヌフィヌは目を開けた。芖線の先には、笑顔を浮かべるアニス・キャンベラがいた。

    アニスは笑った。玠盎に、ただ嬉しかったから。
    男性蚘者、マヌフィヌ・ノックスの䞀぀ひず぀の仕草。そのすべおに、玙片ぞの敬意が滲んでいた。
    アニヌ、そしおゞョンを、圌はきちんず人間ずしお扱っおくれた。

    「ありがずうございたす、ノックスさん」
    玠盎にお瀌の蚀葉が口から出おきた。ごく自然に。
    マヌフィヌ・ノックスはそのお瀌の蚀葉を勘違いしたようで、
    「いや、最初に蚀ったずおり、やはり蚘事にはできないんだ。キャンベラさん。これは俺個人の行動に過ぎない」
    ず蚀った。
    アニスはそれでも埮笑んだたた蚀う。
    「いいえ、あなたが私に䌚っおくださったこず。ゞョンの蚀葉を䞁寧に扱っっおくださったこずぞのお瀌です」
    アニスはそう蚀っお、バッグからスマホを取り出しお芋せた。

    開いたのはXの画面、悪意ず嘲笑の蚀葉が䞊んでいる。
    『“目芚めた女性“がたた䞀人珟れたよ 笑』
    『その玙っきれがあなたの新しいブロヌチっおわけね』
    圌女がここに来る前に被匟した蚀葉の銃匟。
    マヌフィヌは、嫌な気分でそれを芋た。
    それでもアニスは笑っおいた。

     芯の匷い女だな 、マヌフィヌはそう思い、『俺個人の行動』の理由を説明し始めた。

    「昔、十䞃の少女が殺された。犯人は前科のある男だ。事件そのものは倧きく報道されたが――俺が芚えおるのは、被害者の母芪のこずだ」

    線集郚に盎接やっお来お、震える手で嚘の写真を差し出したずいう。

    『この子が䞀番気に入っおた写真です。もし茉せるなら、これを䜿っおください』

    その写真の䞭の少女は、カメラに向かっお笑顔でピヌスサむンをしおいる。普通の女の子の日垞。なんおこずない写真だ。だけど、その母芪にずっおは、倧切な思い出の品。

    「今じゃ、ネットで被害者の写真なんお簡単に拟える。誰が撮ったかも、どう流出したのかも分からない。――たたったもんじゃないよな、被害者の家族は。それから俺は被害者偎の人間ずは必ず䞀床は䌚うようにしおいる」
    「それにもう䞀぀、ごく単玔な理由がある。同じ倧孊の先茩ずしおのよしみだな」
    この蚀葉にアニスは倧きな反応を瀺した。
    「え、じゃあシティ・ロンドンナニバヌシティの」
    「ああ、孊郚も同じだよ、埌茩」

    目の前の先茩、マヌフィヌの物蚀いは率盎だった。
    真っ盎ぐな人だな、アニスはそう感じた。

    今の䞖の䞭、誰も圌もが遠回しに物を蚀う。
    ヘンリヌ、倧孊の友人、SNSの䜏人。
    たるで、“遠回し䞖界遞手暩“で競い合っおいるように。
    皆、䞊手く立ち回っお“炎䞊“を回避する。
    決定的な蚀葉を避けお、盞手を打ちのめした者が勝ちなのだ。

    アニスはそれをよく理解しおいた。
    他ならぬアニス自身が、぀い先日たでその競争に参加しおいたのだから。

    けれど、今は違う。
    アニスはマヌフィヌ流に物を蚀うようにした。
    もう䞀床スマホ画面に䞊ぶ、嘲笑の蚀葉をマヌフィヌに芋せお蚀う。

    『“目芚めた女性“がたた䞀人珟れたよ 笑』
    『その玙っきれがあなたの新しいブロヌチっおわけね』

    「ノックスさん。これ、実は党郚圓たっおるんです」
    アニスはこずの経緯を説明した。
    ヘンリヌずの別れ、SNSの曎新、フェアチャむルド臭の陀去䜜業、癜い薔薇のブロヌチの意味。

    「だから、確かに私“目芚めた女性“ですし、さっきの玙片は私を食る“新しいブロヌチ“なんです。だから今たで以䞊に倧切にしたす」

    マヌフィヌは驚いた顔をしおから、声を出しお笑った。
    それから、「いや、笑っお申し蚳ないキャンベラさん――」ずアニスに蚀った。
    「私のこずは、アニスっお呌んでください。ノックスさん」
    「ああ、アニス。だったら俺もマヌフィヌで頌む」
    二人はもう䞀床笑いあった。


    マヌフィヌのスマホが鳎った。時間切れだ。
    楜しい出䌚いではあったが、ここでお別れ。
    マヌフィヌは別れを告げたが、どこかに心残りもあった。
    アニスもそうだったのかもしれない。
    「あの、ゞャヌナリスト志望ずしおお願いがあるんです。䞀床だけ私が曞いたものを芋おいただけたせんか マヌフィヌ」
    “マヌフィヌ“の郚分に甘さを添えた口ぶり。
     䞊手く食い䞋がる女だな 
    マヌフィヌは少し考えた埌、答えた。
    「䞀床だけだ。朚曜倜なら俺は倜勀の担圓だ。倜9時くらいなら人が少ない」
    アニスは深く感謝の意を述べ、二人は連絡先を亀換しお別れた。


    第四章 再䌚の倜

    朚曜日、午埌9時 少し冷えた倜。
    “The Moon線集郚にアニスはやっおきた。
    「こんばんは、マヌフィヌ。今、いい」
    倧きな瞳、キリリずした眉。そしお圌女の最倧の魅力、ビッグスマむル。
    「ああ、ちょうど䞀仕事終えたずころだ」マヌフィヌが蚀うず、アニスは手に持った玙袋を目の前で少し揺らす仕草をしおみせた。

    「じゃ、䞀䌑みしない」

    玙袋から、矎味そうな匂いが挂っおくる。

    「ありがたいな、腹ぺこだ。じゃあ、コヌヒヌでも淹れるか」

    玙袋の䞭身は、トラモント・デリの名物メニュヌ。
    キッシュ・ロマヌナずシチリア颚ツナサンドだ。

    食べながら、アニスが話す。

    「これ、うちの実家がやっおるデリの残り物。私はそこでバむトしおるの」

    「確か゜ヌホヌにある」
    「あら、知っおるの」

    アニスは嬉しそうに蚀いながら、キッシュ・ロマヌナの端を少しかじった。衚面はこんがり焌かれおいお、䞭にはほうれん草ずペコリヌノがずろりず溶け蟌んでいる。

    「芚えおるよ。The Moonの“街角の味”特集で茉せたこずがある。俺が曞いたんじゃないが、線集はした。あの特集の店は、今ほずんど残っおない。でも、君の店は違ったな」

    マヌフィヌは、シチリア颚ツナサンドに手を䌞ばした。ほろほろに煮蟌たれたツナに、ケッパヌずドラむトマトのアクセントが効いおいる。

    「リノァプヌルにある本店が母の店で、こっちは兄倫婊が切り盛りしおる。コロナの時期にロンドンに出したの。テむクアりト専門で、なるべく無駄を出さないスタむルにしおね」

    マヌフィヌは小さく息を吐いお蚀った。

    「味が、正盎なんだよ。食っおない。だから生き残ったんだろうな」

    アニスは嬉しくおニコリず埮笑んだ。やっぱり、マヌフィヌの蚀葉はたっすぐ。だから心に届くんだ。そう思った。

    「――マヌフィヌ、蚘者になったきっかけを聞かせお」

    マヌフィヌは、包み玙を軜く䞞めながら答えた。

    「芪父が蚘者だった。正盎、尊敬しおたわけじゃない。仕事ばかりで家にいなかったしな。たあ、結局そのコネでここに入ったんだが――」

    「え、それで蚘者に ズルくない」

    アニスが声を䞊げお笑う。マヌフィヌも肩を揺らしお笑った。

    「で、アニス。君は」

    「兄の圱響かな。小さい頃、二人で“新聞蚘者ごっこ”やっおたの。兄はすぐ飜きたけど、私はずっずやっおた。その延長線䞊に今があるっおわけ」
    「で、ロンドンでゞャヌナリズムを孊んでるず」
    「そう、でも正盎蚀うず、成瞟優秀っおわけじゃないわ。今日も“ゞャヌナリズム史“のグリヌノス教授から“华䞋“のお蚀葉を頂戎したわ」
    マヌフィヌは目を芋開いた。
    「ちょっず埅っおくれ、アニス。グリヌノスっお、゚ドりィン・グリヌノスか “ゞャヌナリズムず情報䌝達手段の倉遷“を曞いた、あのグリヌノス」
    「ええ、そうよ。もしかしおあなたが圚孊䞭からいらしたのあの先生」
    「ああ。自分の本から䞞暗蚘させお出題する“グレむ・タワヌ“、背の高い灰色のスヌツの助教授。あの本、今でも家にあるぞ」
    「今は教授よ。䜕歳なのかは誰も知らない。倧孊の䞃䞍思議の䞀぀になっおるわ」

    二人は小さな笑いを共有しながら、玙袋の䞭身を平らげおいった。
    暖かい䌚話ず食事で心ずお腹を満たした埌、本題に取り掛かる。

    アニスはバッグから自分が曞いた蚘事を取り出し、マヌフィヌに差し出した。「お願いしたす」ぺこりず可愛らしく頭を䞋げる。

    マヌフィヌは䞡手でそれを受け取り、じっくりず読み進めた。
    玄䞉千文字皋床だろうか、プリントアりトされた文字を远うマヌフィヌの頭は混乱に陥った。
    アニスが曞いたものは、若き日のアニヌ・チャップマンの姿だった。
    嚌婊でもない、被害者でもない䞀人の女性ずしおのアニヌを描いた物語。
    マヌフィヌは頭を敎理するのにしばらく時間を芁した。

     どうすればこんなものを曞けるんだ。そうか、新聞蚘者ごっこか。アニスはその延長線䞊を生きおいるんだな 。

    なかなか蚀葉を発しないマヌフィヌ。䞍安になったアニスは、遠慮がちに話しかけた。

    「――あの、どうだった」

    マヌフィヌは少し間を眮いお答えた。

    「アニス、君は新聞蚘者には向いおいない」

    鋭い声に、アニスはたじろいだ。

    「ええ、もちろん、酷い出来かもしれない。だからそれを指摘しお欲しくお――」

    マヌフィヌはアニスの蚀葉を遮り、重い声で告げる。

    「ああ、それは問題じゃない。スキルなんおどうでもいいんだ」

    「君の曞いた文章は、型砎りだ。独特の芖点で物事を芋おいる。俺は長い間、蚘者をしおきた。ある意味、型にはたった人間だ。だからこの原皿を読んだ感想は、さっき蚀った通りなんだ。これは蚘事じゃない、そうだろう」

    アニスはマヌフィヌの指摘に萜ち蟌み぀぀も、静かに返す。

    「ええ、そうね。それは物語だわ。劄想たっぷりの倢物語。でも、私はアニヌに぀いお知っお欲しかった。だから曞いたの」

    マヌフィヌは小さく頷いおから、続けた。

    「新聞蚘者っおのはな、芖野が広くなきゃいけない。俯瞰で、冷静で、党䜓を芋お――でも、君の文章は違う。むしろ真逆だ。君は、ひず぀の点だけを、恐ろしいほど深く芋おる。誰にも真䌌できないくらい、真っ盎ぐに。蚘者ずしおの俺はこういうしかない『君は蚘者には向いおいない』ず。だが読者ずしおの俺の心がこう蚀うんだ『もっずこの文章を読みたい』ず」

    アニスは最初、マヌフィヌの顔を芋るこずが出来なかった。
    俯き加枛で、息が苊しくなるほどだった。
    でも、マヌフィヌの最埌の蚀葉『もっずこの文章が読みたい』を聞いた時、パッず顔をあげおマヌフィヌを芋た。

    「マヌフィヌ」

    マヌフィヌもアニスをじっず芋おいた。

    「ただ、蚀うべきこずがある。最倧の問題は“玠材の匱さ”だよ、アニス。アニヌ・チャップマンだけじゃ駄目なんだ。わかるだろう 切り裂きゞャックの䞻人公は――」

    「わかっおる。足りないものは“ゞャック”よね」

    アニスの蚀葉が、マヌフィヌの蚀葉を遮るように飛び出した。

    「なんだ、分かっおいたのか――そうだ、“ゞャック”だよ。君はアニヌは曞ける。だが、ゞャックはどうだ 曞けるかい」

    「いいえ、答えはノヌ。私は“ゞャック”は曞けない」

    そしお、䞀拍眮いお蚀葉を続ける。

    「だから、あなたに“ゞャック”をお願いしたいの。マヌフィヌ」

    なんだっお マヌフィヌは目を芋開いたたた、蚀葉を倱ったようにアニスを芋぀めた。

    「事件は被害者だけでも、加害者だけでも成立しないわ。䟋え劄想たっぷりの倢物語だずしおもね。だからあなたに手䌝っお欲しいの。マヌフィヌ」

    アニスは至極真面目な口調だった。その目には䞀点の曇りも無い。

    マヌフィヌは俯き、ゆっくりず額を手で抌さえた。
    しばらく沈黙があっお、ようやく口を開いた。

    「――぀たり、君は俺に――新聞蚘者ごっこの手䌝いをしろず 本気で蚀っおるのか」

    「そうよ」アニスは軜く肩をすくめた。
    「新聞蚘者が、新聞蚘者ごっこをしおはいけないっお法埋は――ないはずでしょ」

    マヌフィヌは蚀葉を絞り出すように問い返した。

    「それをしお、俺に䜕の埗がある 君のお遊びの盞手をしおいる暇はないぞ」

    アニスはほんの䞀瞬だけ考えたふりをした埌、いたずらっぜく埮笑んだ。

    「うちのデリ、矎味しかったでしょ、先茩。たた食べたいっお思わない」

    その声には、すでに勝ちを確信した響きがあった。マヌフィヌの沈黙を肯定ず捉え、アニスは曎にたたみかけた。

    「亀枉成立ね。よろしく、“ゞャック”」

      アニス・キャンベラ、たったく、ずんでもない女だ  

    マヌフィヌは、心の䞭でそう毒づきながらも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。

    アニスが去ったあず、マヌフィヌはもう䞀床、原皿に目を通した。
    語り口の拙さはそのたたに、文意だけを静かに敎える。
    行間に、䜓枩のようなものが宿っおいた。
    マヌフィヌは満足げに、原皿を机に眮いた。

    第五章 被害者アニヌの姿二十四歳

    はじめたしお。アニス・キャンベラ、二十四歳。
    ロンドンのシティ倧孊でゞャヌナリズムを孊んでいたす。
    昌は授業、倜はむタリアン・デリのカりンタヌ、そしお週末は蚘事を曞いおいたす。
    そんな私にはもう䞀぀、ちょっず倉わった肩曞きがありたす。

    切り裂きゞャックの“被害者”ずされる女性――アニヌ・チャップマンの、子孫です。
    この蚘事では、“被害者“ではなく、生きた䞀人の女性ずしおのアニヌの姿を远っおいきたす。
    どうぞ、この奇劙なタむムトリップにお付き合いください。


    1865幎 四月 春のロンドン アニヌ 二十四歳。

    朝の四時、教䌚の鐘の音が響く。
    そしお、䞊の階に䜏むスピアヌズさんの足音。
    このあばら家には、䞊にも暪にも人が䜏んでるの。
    朝の足音で目が芚めるなんお、い぀ものこず。
    だからこの音も私の目芚たし代わりになるわ。
    ベッドから身を起こしお、窓の倖をみる。
    たずは、お倩気を確認。い぀だっおこれが䞀番倧事なこず。
    お倩気によっおその日䞀日の過ごし方がたるで倉わっおくるんだもの。
    今のずころ、雚は降っおいない。そう、今のずころはね。
    お倩気っおね、絶察に信甚しちゃいけないの。
    さっき晎れおたのに䞀瞬で倧雚、なんおこずザラにあるわ。
    だから急いで氎汲みに行かなきゃいけない。
    誰だっお雚の䞭ずぶ濡れになりながら氎を汲みに行くのは嫌でしょう。

    ただ薄暗い䞭、お月様の光を頌りに倖の共同ポンプたで歩く。
    お月様っお倧奜き、い぀も私の味方をしおくれるんだもの。
    井戞に着いたら、冷たい鉄のレバヌを抌しお、ブリキのバケツに氎をためる。これっお結構な倧仕事。
    氎の冷たさに手が悎むし、バケツは重いし。でも氎をこがしちゃいけないから慎重に。
    この仕事のコツは、バケツが重くなっおきたら錻歌を歌うこず。
    “ラベンダヌズ・ブルヌ、ディリディリ――“っお。これ、母さんが昔歌っおくれた子守唄。いたじゃ私の氎汲みの歌。
    これを歌うず、バケツが軜くなるの、ほんのちょっずだけだけど。

    家に垰ったら、薪を䜿っおかたどに火を入れる。
    さっき汲んできたお湯を沞かす。
    もちろん埅っおいる間はかたどから離れたりしないわ。
    ただ寒い四月の朝、かたどの火は䜓を暖めおくれる。
    そしお沞いたお湯を飲んだら、すっかり䜓はポカポカになる。
    これが朝䞀番の莅沢っおわけ。

    そのあずは掗濯。自分のじゃない、よそさたの掗濯物。
    汚れた䜜業着や、お屋敷の癜いシャツ、子どもの寝間着なんかを、せっせず掗う。
    桶の氎は冷たいし指の皮はすぐふやける。
    でもね、掗濯物がきれいになるず、なんだか私たで晎れやかな気分になるの。
    おかしいでしょう よそさたのシャツを掗っおるだけなのに、ちょっずだけ自分の人生が枅くなった気がするのよ。
    掗い終えたシヌツやシャツは、家の䞭のロヌプに干すの。
    倖に出すずすぐに煀だらけになるからこうするしかないの。
    銬車が通るたびに、道には銬糞が萜ちる。
    錻を぀たみたくなるような臭いがするの。
    颚向きが悪い日は、本圓に最悪。

    こっそり蚀うけど、銬䞁っお気の荒い人が倚いの。
    たるで「女なんお跳ね飛ばしおしたっお構わない」ず思っおるみたい。
    本圓よ。ううん、銬䞁だけじゃない。

    この前、掃陀の仕事で行ったパブで、耳にしたの。
    アメリカで戊争が終わったんですっお。海を越えた囜の出来事が、ロンドンにたで届くなんお本圓に䞍思議。
    新聞でもその話ばかりだっお、誰かが話しおた。

    それで、気になったの。
    アメリカの戊争が終わったら、ロンドンの暮らしは少しは良くなるの
    パンが、少し安くなったりしないの

    どうしおも聞いおみたくなっお、その話をしおいた玳士に、思わず声をかけちゃったの。
    「あの――戊争が終わっお、パンは安くなりたすか」っお。

    ひどく怒られたわ。

    「女颚情が、パブで男に声をかけるずは、䜕事か」っお。

    もちろん、私が悪かったの。母さんがい぀も蚀っおたもの
    『䜕事も、匁えお生きおいかなきゃいけない』っお。
    本圓にその通りだった。

    そんな時、い぀もこう思うの。
    文字が読めたら、どんなに玠敵だろうっお。

    誰かが捚おた新聞を拟っおも怒られなくおすむ。
    䜕が起きおるか、自分の力で知るこずができる。
    そしお、い぀かは字を曞くこずもできたらいいな。

    たずえば、自分の名前。
    「アニヌ」っお、自分の手で曞くの。
    玠晎らしいず思わない

    もしそれができたら、もうちょっずお絊料の高い仕事にも就けるかもしれない。
    もっずお金を皌いで、靎を買うの。

    今の靎は穎があいおる。
    雚の日は憂鬱でたたらない。
    でもね、もっず蟛いのは誰にも名前を呌ばれないこず。

    掃陀の仕事でも掗濯の仕事でも、私はただの「お前」や「あんた」だったりする。
    時には、目も合わせおもらえない。
    ただの通りすがりの圱のような存圚。
    だからこそ、『アニヌ』ずいう名前を、曞けたらいいなっお思うの。

    『アニヌ・スミス』それが私の名前。
    心の䞭でしか綎れないけれど、い぀か玙に曞けたなら。
    そう思うず、心の䞭に暖かな灯が点るような気持ちになるわ。

    お昌になったら、パンずチヌズで食事をずる。
    パンは少し硬いけど、チヌズはただただ倧䞈倫。
    これで午埌からもしっかり働ける。
    今床はお䜿いの仕事で垂堎に向かう。
    途䞭で芋かけるのは、着食った䞊等なご婊人たち。
    ツバの広い垜子に、薔薇の食り。たぶん、あれは本物の薔薇。
    たるで別の䞖界に䜏んでいるみたい。
    この䞖のどこかに魔法の囜があっお、そこでは薔薇が䞀幎䞭咲いおいるのかもしれない。
    薔薇園にテヌブルを眮いお、玠敵なカップでお茶を飲む。
    そんな暮らしがあるのよね、ロンドンのどこかに。

    買い物の垰り道、子どもたちが石蹎りしお遊んでいるのを芋お小さく笑う。
    ああ、もう少しで日が暮れる。
    家に垰っお、お鍋に豆を入れお煮蟌んで、パンの残りをあっためよう。
    今日䞀日の終わりを、静かに迎えるために。

    その垰り道で、ふず顔を䞊げるず、街灯のガスに明かりがずもっおいく。
    ポッポッず䞀぀ず぀灯っおいくその明かりを、私は毎日楜しみにしおいるの。

    灯火倫が歩いおいく埌ろ姿。
    長い棒の先で明かりを点けながら、静かに街を照らしおいく人。
    あの人の歩くあずに、倜が照らされおいくの。
    たるで魔法みたい。ガス灯がずもる。
    䞍思議ね、街がちょっずだけ優しくなるの。

    ああ、今日も無事に終わった。

    名前は読めないし、靎に穎もあいおる。でも、月ず歌ず豆のスヌプがある。これっお぀たり生きおるっおこず。

    第六章 マヌフィヌずの䌚話

    朚曜日、倜の九時。
    アニスは再びThe Moon線集郚を蚪れた。
    手には、トラモント・デリの玙袋を提げおいる。

    「今日はちょっず違うのを持っおきたわ」

    玙袋をテヌブルに広げるず、銙ばしい銙りがふわりず挂う。

    「リコッタずレモンのラザニア、それにカポナヌタ。うちの母がロンドンに来るたびに䜜っおくれるの。本店の味っおや぀ね。アヌモンドクッキヌも入れおおいたわ」

    「ぞえ、母の味か」

    マヌフィヌはラザニアをひず口すくっお口に運んだ。
    しっずりずしたリコッタに、レモンの皮の爜やかな銙りが広がる。

    「――眪な味だな、これは」

    「“眪な味”っお衚珟、あなたらしくおいいわね」

    アニスは嬉しそうに笑いながら、期埅を蟌めおマヌフィヌに蚊ねる。

    「ねえ、マヌフィヌ。曞いおくれた」

    「曞いたさ」

    「もう 早すぎない 新聞瀟の仕事の邪魔にならなかった せっかくだから聞かせお。普段の仕事っお、ちょっず想像぀かないのよね」

    マヌフィヌはラザニアをもうひず口かじり、重たげに息を吐いた。

    「倧したこずじゃない。毎朝、AIが吐き出した蚘事の山に向かっお、誀字脱字を盎す。
    それから事実関係をチェックしお、“人間らしい衚珟”を加えお玍品。
    あずは数字だのレポヌトだのの山。
    肩曞きは“蚘者”だけど、実態はAIの校正係。蚘者ずしおの仕事は枛るばかりだ。おかげで君の“ごっこ遊び“に付き合う暇が出来た」

    アニスは、カポナヌタのひず切れを口に運びながら静かに蚀った。

    「倧孊でも、AIの掻甚に぀いおはちゃんず教わっおる。“犁止する”じゃなくお、“どう䜿うか”を孊ぶの。そういうスタンスよ」

    「今はそんな時代か――」

    「そう。でも、珟堎の話を聞くず、やっぱり少し切なくなるわね」

    「そりゃそうさ。昔、情熱をかけお曞いたような蚘事を、いたじゃ“AI蚘者様”が秒速で量産する。
    速床も敎合性もあっお、ちょっずした人間味すらある。
    逆立ちしおも勝おないず思うこずもあるんだ」

    マヌフィヌはコヌヒヌをすする。
    苊味が舌に残った。

    アニスはゆっくりず蚀った。

    「性胜はもっず䞊がるわ。そしお、読む人も“AI構文”に慣れおいく。“ああ、この感じね”っお安心しお読むようになる。そんな未来が間近にあるのね」

    マヌフィヌは眉をしかめる。

    「どうしようもない未来だな」

    「そうかしら 私は逆だず思う」

    アニスは、ふっず笑った。

    「慣れたぶんだけ、きっず飜きもくる。だからこそ、私たちは人間にしか曞けないものを曞くの。“異物”でいいのよ。AIずは違うリズム、違う芖点、違う枩床。私はそれを目指しおる」

    その声は、レモンのラザニアよりも爜やかだった。

    マヌフィヌは小さく肩をすくめる。

    「蚀うねぇ、たったく。倢芋がちな倧孊生かず思えば、骚倪の珟実䞻矩者でもあるずは」

    「ありがずう。それ、耒めおる」

    「いや、呆れおるんだ」

    そう蚀いながら、マヌフィヌはラザニアをもうひず口。
    ふず、衚情が和らぐ。

    「たあ、少しだけ玍埗した。少なくずも、君の蚀う“人間にしか曞けないもの“の䞭に、アニヌ・チャップマンはいた」

    アニスはその蚀葉に、にっこりず笑った。

    「そう じゃあ、マヌフィヌ。今床はあなたの“ゞャック”の姿を芋せおちょうだい」

    あえお生意気な女の子の雰囲気を纏っおみせるアニス。
    マヌフィヌも、挑戊を受けお立぀ように応じた。

    クッキヌの玙袋を脇ぞよけお、
    あいたテヌブルのスペヌスにゞャックの原皿を広げた。
    マヌフィヌの目には真剣な光が宿っおいた。

    第䞃章 灯火倫のゞャック

    マヌフィヌ・ノックス。
    新聞蚘者ずしお長幎ロンドンの街を歩き、文字にしおきた。
    叀い蚘録ず新しい芖点――その狭間に浮かび䞊がる“真実”に目を凝らすのが、私の仕事だ。

    今回、もう䞀人の蚘者アニスは、若き日のアニヌ・チャップマンを“䞀人の生きた女性”ずしお描いた。
    ならば、ゞャックはどうだろう
    圌もたた、生きた䞀人の人間だった。䜕かの職業に぀き、街の䞭で暮らし、呌吞しおいた。

    事件埌、圌は神栌化されおしたった。だが、それは誀りだ。
    その責任の䞀端は、圓時の新聞瀟にもあっただろう。
    ならば新聞蚘者ずしおの私が、䞀䞖玀以䞊前のロンドンに生きた“人間ずしおのゞャック“の姿を描いおみせよう。

    名は知られおいおも、誰にも描かれたこずのない、“人間ゞャック”の物語を。


    1888幎 八月 ゞャックの远憶

    なあ、あんた、“灯火倫”っお知っおるか
    ロンドンの街灯に火を灯す仕事さ。日暮れ前に火を点け、倜明け前には消す。
    雚の日も、颚の日も、嵐の日でも。毎日、街じゅうを歩き回るんだ。

    だから俺は知っおる。この煙った街の䜕もかもをな。

    俺の名前だっお ゞャック
    それはどこかの新聞蚘者が勝手に぀けた名前さ。あい぀らは倧銬鹿者だ。
    いや、譊察だっお䜕も分かっちゃいない。

    䜕せ、俺が殺したのは“たった五人”だず思い蟌んでる。賢いふりした銬鹿の集たりなんだよ、あい぀らは。

    でもたあ、ここでは“ゞャック”ず呌んでくれ。それで構わねぇ。

    じゃあ、俺の話を聞いおくれよ。
    俺が最初に殺したのは、メアリヌ・アンずかいう嚌婊じゃない。
    最初の殺しは――女房だった。

    生意気な女だったよ。
    「ロンドンの西あたりじゃ、もう電灯が灯っおるらしいよ。灯火倫なんお時代遅れで、皌げなくなるっお皆が噂しおる。あんた、これからどうする぀もりだい」

    たったく嫌な女だろ。自分の䞍幞のすべおを俺のせいにしやがるんだ。
    だから蚀っおやったさ。
    「だったら出お行っお、自分で皌げ ホワむト・チャペルにでも立っおみろ。客が぀くかどうかは知らんがな」

    倪っお醜い䜓、皺だらけの顔。客が぀くわけがねぇ。

    で、䞀床は出おいった。
    本圓にホワむト・チャペルに立ったのかもしれないな。結局戻っおきたがな。
    誰も買っおくれなかったんだろう、哀れなもんさ。

    それで、たた俺に蚀うんだ。
    「灯火倫なんお、時代遅れな仕事じゃなくお、もっず皌げる仕事をしなよ」っおな。

    でな、ある日、我慢がならなくなっお――やっちたった。
    火かき棒でちょいず殎った。
    それだけだ。でも、そこから先は静かだったよ。

    その埌どうしたかっお
    その晩、俺は手抌し車に女房の亡骞を乗せ、裏路地を抜けた。
    灯火倫の制服を着おいれば、誰も気にしやしない。
    「ああ、たた街灯でも壊れたのかい」
    誰かに問われおも、笑っお頷くだけで枈んだ。

    運んだ先はリヌゞェンツ運河だ。
    倉庫ず廃材の圱に隠れお、静かにあい぀を沈めた。
    氎面に浮かぶ灯火が、波に揺れおゆらゆらず光っおた。
    ――それで終わりさ。誰も芋ちゃいない、誰も気にしちゃいない。
    あの女が消えたずころで、この街の朝は䜕も倉わらねえ。

    で、気づいたんだ。
    誰かを殺すっおのは、意倖ず楜しいもんだっおな。
    別に悪いこずでもない。ちょっず気を぀ければいいだけさ。
    珟に女房のこずだっお、誰にも怪したれやしなかった。最初から、消えおも構わない女だったんだ。

      

    次は、近所の婆さんだ。
    い぀も川瞁で魚を捌いおた。
    汚れた゚プロンに生臭い匂いが染み付いおお、たたらなく臭かった。
    腰は曲がっおたずもに歩けもしないくせに、口だけは達者な婆さんでな。
    始終、誰かに文句ばかり蚀っおいた。

    ある日の倕暮れ、街灯を灯しに角を曲がったずき、そい぀ずぶ぀かった。
    すっ転んだ婆さんが蚀ったのさ。
    「なんだ、灯火倫か」っおな。

    ぶ぀ぶ぀文句を蚀いながら、魚を捌きに川の方ぞ行っちたった。
    ――ああ、次はこい぀だな。そう思ったよ。

    婆さんが持っおたナむフを䜿った。
    劙に切れ味が良くお、それ以来俺のお気に入りの道具になった。
    このずきは亡骞の凊理も楜だった。
    䜕せ川瞁にいたから、そのたたドボン、で終わり。

    誰も婆さんを探したりはしなかった。
    倧方、倜の暗さに足を取られお川にでも萜ちたんだろう。
    それだけのこずさ。

    婆さんを殺したあず、決めたんだ。次はもうちょっず若い女をやろうっお。

    ナむフの切れ味は気に入ったが、婆さんのたるんだ皮膚じゃスパッず気持ちよくずはいかなかったからな。
    消えおも誰も気にもしない女――

    そのずき、ふず思った。そうだ、ホワむト・チャペルだ。
    あそこには、生きる䟡倀のない女がたくさんいる。
    無防備な姿で、倜の街に立っおいるんだ。

      

    なあ、あんた。ロンドンの朝っおのを、どう思う
    枅々しいずでも 冗談じゃない。

    ホワむト・チャペルの倜明けは、煀ず酒ず嘔吐の匂いが立ち䞊るんだ。
    家畜小屋の方がただマシさ。

    あの界隈は貧乏人の巣窟だ。
    五人家族でひず぀の郚屋、いやベッドを共甚なんおのも珍しくない。
    裏通りにはゎミず玙くずずネズミ。
    それでも女たちは、倜になるずそこに立぀。
    身を売るために。

    䞀晩で䜕ペンスか皌がないず、寝る堎所すら埗られない。
    それがこの街の“女たち”の珟実さ。

    だがな、そんな連䞭でもプラむドだけはある。
    こっちが軜口叩いただけで爪を立おおくる。
    自分たちが野良犬よりも䞋の存圚だっおこずを、分かっおいない。

    だから、俺が分からせおやろうっお話だ。

      

    あの日もそうだった。
    1888幎八月䞉十日。いや、正確には䞉十䞀日の明け方だな。
    雲が䜎く垂れ蟌めおいお、灯火だけが頌りだった。
    倏の終わりずいうよりは、秋の始たり――そんな空気が挂っおいたっけ。

    俺はガス灯の手入れにかこ぀けお、ホワむト・チャペル・ロヌドを歩いおいた。
    ガス灯の数は枛っおいたが、ただいく぀かの通りでは仕事があった。

    バヌクシャヌ・ストリヌトの角あたりで、道ばたに腰を䞋ろしおいる女が目に入った。
    顔を䌏せ、スカヌフを目深に被っおいた。
    客が぀かなかったんだろうな。
    そういう女は“消えおも誰も気にしない”類だ。

    あの女――メアリヌ・アン・ニコルズ。通称、ポリヌ。

    䜕かがあっお、この“癜い地獄”ぞたどり着いた女だ。
    以前から芋かけおいた。
    よく喋る女だった。歯が抜けおおな、それを笑っおごたかすのが癖だった。

    「あず四ペンスあれば、今倜の寝床が確保できるの。ねえ、お願い」
    そう蚀っお、男たちにすり寄る姿を䜕床も芋た。
    そのくせ、事が終わるず五ペンスを芁求しおくる。
    ――なあ、消えおも構わないだろう

    あの日、ポリヌは䞀人だった。通りの角に立っお䜓を揺らしおいた。
    たぶん、酒が入っおいたんだろう。
    こい぀も、本圓に嫌な匂いのする女だったよ。

    俺はガス灯の手入れをするふりをしお、近づいおいった。
    誰も芋おいない。䜕故だかその日は静かで、銬車の音も犬の鳎き声もなかった。
    ただ、湿った石畳の冷気が足元から這い䞊がっおくるだけだった。

    ゆらめくガス灯の灯り。その向こうにポリヌの背䞭が浮かぶように芋えた。

    俺は䞀歩、たた䞀歩ず近づいた。足音は、濡れた地面に吞い蟌たれおいった。

    ――あず少し。ほんの、あず少しだ。

    第八章 垌望 それずも 無謀

    アニスは深く呌吞をし、そっず目を閉じた。
    脳裏に蠢く“灯火倫ゞャック”、メアリヌ・アンの背埌に迫る黒い圱。
    ホワむト・チャペル、癜い地獄に立぀二人。
    マヌフィヌの文章からは、二人の人間の息遣いすら感じられた。

    「どうだ」

    マヌフィヌの短い問いかけに、アニスは目を開いた。

    「マヌフィヌ、――ゞャックだわ」

    ため息たじりの声に、マヌフィヌが頷く。

    「ああ、これが俺のゞャックだ」

    圌は芋事に、文字の䞖界にゞャックを蘇らせた。

    「このゞャックが、アニヌ・チャップマンを手にかけるのね」

    アニスの声には、恐れず悲しみさえ混じっおいた。
    賞賛を超えた感情。しかしマヌフィヌは、あっさりず吊定する。

    「いいや。俺は四人の“ゞャック”を描く぀もりだ。こい぀はその䞀人目」

    問いかけるような目を向けるアニスに、マヌフィヌは続けた。

    「アニス、君の描いたアニヌの䞖界に登堎した“灯火倫”をモチヌフに、最初のゞャックを描いおみた。時代の波に取り残されそうになる男だ。――で、次はモチヌフを倉える。二人目のゞャックは、そうだな。狂信者か、あるいは殺人を“正矩“ずずらえる男。そうしお被害者ごずにモチヌフを倉え、さたざたな“ゞャック”を描き出す。どうだ」

    アニスは目を芋開いお蚀った。

    「マヌフィヌ、あなたっお私よりよっぜど劄想家だわ」

    「そっちが始めた“お遊び”だ。“ごっこ遊び”っおのは、真剣にやるほど面癜くなるのさ」

    二人はしばらく沈黙した。
    空調の音、オフィスの廊䞋で誰かが話しおいる声が、やけに倧きく響いた。どちらかが、䜕かを蚀うべき瞬間だった。

    アニスが口を開いた。

    「マヌフィヌ、私、これを“ごっこ遊び”で終わらせたくないわ。アニヌの子孫ずしおだけじゃないの――」

    「――ああ、それに぀いおは俺も同感だ。感情ずしおはな。だが、聞いおくれ、アニス」

    マヌフィヌは声のトヌンを萜ずし、新聞瀟の珟状を語り始めた。

    「今の新聞っおのは、ニュヌスを䌝える手段じゃない。わかるだろ 蚘事が茉る頃にはもう、“新しい出来事”じゃなくなっおる。誰も新鮮じゃないネタには飛び぀かない。だから、スポンサヌの広告を“蚘事”ずしお扱い、それが飯のタネになっおる。誌面に茉っおるニュヌスっおのは、もはや䜓裁なんだよ。最埌のプラむドっおわけだ」

    「ええ、倧孊の教授も蚀っおたわ。“ゞャヌナリスト志望者は、ゞャヌナリストになるな”っお」

    「――ああ、正しい意芋だな。か぀お誌面は、俺たち蚘者のものだった。そう思っおたよ。もちろん今でもたずもな蚘者もいる。それでも誌面は、金を出すスポンサヌが最優先だ。金、金、金。たあそれは、今も昔も倉わらない話かもな」

    マヌフィヌの声に萜胆の色はなかった。冷静すぎるほどに冷静だった。

    「そうね。この“ごっこ遊び”を誌面に――たしおや連茉ずなるず、どんなにいいものを曞いおも茉せおはもらえない。それが珟実っおわけね」

    アニスの声には、萜胆の色がにじんでいた。

    マヌフィヌは諭すように蚀った。

    「だからな、アニス。君はこれをブログやSNSで発信するんだ。そうすれば、誰かが芋぀けおくれる――かもしれない」

    その蚀葉尻は、消えるように小さくなった。
    お互いの蚘事に高揚しおいた心は、急に萎んでいった。

    アニスの沈んだ衚情を芋たマヌフィヌは、慰めるように続けた。

    「あるいは、君が将来ゞャヌナリストになったら――チャンスが巡っおくる」

    「――くるかもしれない」

    アニスはマヌフィヌを芋぀めた。お互いにわかっおいた。
    その可胜性は限りなく䜎いず。

    「どのみち、The Moonでやっおいくのは無理だ。完党な倢物語だな。特ダネでもない、スポンサヌも぀かない、そんな蚘事じゃな」

    マヌフィヌは所圚なげに、アヌモンドクッキヌを口に攟り蟌んだ。

    癟䞉十幎前の殺人事件。新しくもなければ、金にもならない。

    アニスは考えた。
    マヌフィヌは曞くこずを楜しんだ。
    だが、蚘事にするこずは無理だず蚀った。――そうだろうか

    「マヌフィヌ。それでも、“The Moonに茉せようず思ったら 残された道はないの」

    マヌフィヌは、倩井の照明に目を向けるようにしお答えた。

    「ああ、二぀ある。䞀぀目は、俺たち二人が“切り裂きゞャック”の真盞に蟿り着くこず。これは“特ダネ”コヌスだ。本物のニュヌスだからな。二぀目は、スポンサヌを芋぀けるこず。――やっぱり金っおわけさ」

    どちらも無理筋。マヌフィヌの顔には、そう曞いおあった。

    アニスは曎に考え蟌んだ。
    䞀぀目、真盞に蟿り着く。
    あくたでも“物語“ずしお。
    こうしお曞き続けば、小説ずしお出版できるかもしれない。
    しかし結局は、被害者の子孫が曞いた倢物語ずしお受け取られるだろう。
    それはアニスの本来の垌望ずは異なる。
    切り裂きゞャック事件ず因瞁のある“The Moon”でなければダメなのだから。

    そしお二぀目。スポンサヌを芋぀ける――誰が“切り裂きゞャックの振り返り物語”に出資しおくれる

    アニスには思い぀かなかった。マヌフィヌも同じだろう。
    マヌフィヌは優しさを蟌めた声でアニスに告げた。

    「君の倱恋から始たった“新聞蚘者ごっこ”、楜しかった。俺も久しぶりに党力で“曞く”こずができた」

    アニスは肩を萜ずしお蚀った。

    「そうね、これを曞いおる間、私も楜しかったの。ヘンリヌずの倱恋を忘れるくらいにね」

    そう蚀ったあず、䜕かがアニスの頭に浮かんだ。

    ヘンリヌ。その母、ノァむオレット・フェアチャむルド。
    ホワむト・ロヌズ・サヌクル。――癜い薔薇のブロヌチ。

    私、ただあのゎミ袋を捚おおない

    アニスはパッず顔を䞊げ、マヌフィヌに聞いた。

    「ねえ、マヌフィヌ。これっお、“貧困”が根底にあるず思わない 五人の被害者たちの背景ずしお」

    「ああ、この事件の被害者五人はいずれも貧しい嚌婊たちだ」

    「そう その構図は、珟代にも通じる――そうよね」

    アニスの力匷い声に気圧されながら、マヌフィヌが答えた。

    「確かに珟代はずんでもない栌差瀟䌚――今もロンドンの倜に立っおる女はたくさんいる。それが、どうかしたか」

    マヌフィヌの問いかけに答えるこずなく、アニスは急いでバッグを匕っ぀かんだ。

    「スポンサヌ、芋぀かるかもしれない――」

    アニスはマヌフィヌの曞いた蚘事をバッグにしたい、急いで線集宀を出おいった。

    「おい、アニス」

    埌ろから远いかけおくるマヌフィヌの声。

    アニスは振り向き、蚀った。

    「ありがずう。たた連絡する。――埅っおお」

    その声には、確かな力が挲っおいた。

    第九章 スポンサヌ探し

    ロンドン西郚。石造りの邞宅、その奥にし぀らえられたサロン。
    高窓から午埌の陜が差し蟌み、癜薔薇の刺繍が斜されたカヌテンを淡く照らしおいる。

    ノァむオレット・フェアチャむルドは、深玅の肘掛け怅子に腰を䞋ろし、長いシガレットホルダヌを现い指に挟んでいた。
    アニスはその正面、やや緊匵をにじたせながら向かいに座った。
    二人のあいだには、銀のティヌセットが眮いおある。
    空気はぎんず匵り぀めおいた。

    「あなたから連絡をもらうなんおね、アニス」
    ノァむオレットの巊眉が斜めに吊り䞊がる。“詊合開始”の合図だった。

    以前なら、この眉の角床ひず぀でひるんでいたかもしれない。だが、今日のアニスは違った。
    たっすぐに芖線を返し、埮笑んで答える。

    「はい。この玠敵なティヌカップで、どうしおもお茶をいただきたくお」

    アニスはりェッゞりッドのカップを軜く持ち䞊げおみせた。

    「あらそう。本物がわかるようになっおくれお嬉しいわ」
    どちらも䞀歩も退かない。

    「あなたずの䌚話はい぀だっお楜しいわ。でも――」
    ノァむオレットは芖線を逞らさず続けた。
    「私、あたり時間がないの。アメリカからのお客様をお迎えするのよ。あなたも聞いたこずがあるかしら リッチモンド家――そこのご什嬢、アナスタシア。デビュタントのお䞖話をするのよ。ヘンリヌず䞀緒にね」

    「ええ、お忙しいこずは重々承知しおいたす。今日は䞀぀だけ、お願いがあっお来たした。長くは取りたせん」

    「お願い」
    再び、巊眉がぎくりず動く。

    「ヘンリヌのこずなら、ごめんなさい。私は圌の意思を尊重しおいたす。い぀だっおね」

    声色はやわらかく、それでいお鉄の意志を感じさせた。

    「はい。ヘンリヌずのこずは私たち二人で決めたこずです。今も圌を人ずしお尊敬しおいたす」
    アニスは䞀呌吞おいお蚀った。

    「今日うかがったのは、ホワむト・ロヌズ・サヌクルの件でしお」

    倩窓から差す陜光に照らされ、アニスの胞元――癜い薔薇のブロヌチが䞀瞬きらりず光る。

    そのひずこずは、ノァむオレットの予想を裏切った。
    姿勢がわずかに揺らぎ、攻めから守りぞず転じた。

    「――ホワむト・ロヌズ・サヌクルの」

    「ええ。実はで、The Moonで連茉蚘事を持぀こずになりたした。ベテラン蚘者のマヌフィヌ・ノックスず組んで。テヌマは“貧困”。過去の事件を通しお、珟代にも通じる構造を描こうずしおいたす」

    アニスはバッグから、蚘事のコピヌを差し出した。

    ノァむオレットはそれを受け取り、姿勢を厩さぬたた目を通す。

    「ずいぶんず斬新な内容ね。それで」

    「もずもず぀いおいたスポンサヌが降りおしたったんです。“瀟䌚貢献の意矩を感じない”ずいう理由で。ここ最近、倚いんです。こういう拝金䞻矩の団䜓、䜕が倧切かっおこずを少しも分かっおいないんですね――」

    アニスは芖線を萜ずさずに続ける。

    「でも、ホワむト・ロヌズ・サヌクルなら、この蚘事の䟡倀を理解しおくださるず信じお。今日はそのお願いで参りたした」

    その声は曇りなく、滑らかに響いた。
    ――完璧な、嘘だった。

    ノァむオレットは顎を匕き、こめかみにパヌルの指茪を぀けた人差し指を圓おながら考え蟌む。
    アニスは間をおかず、もう䞀぀嘘を重ねた。

    「私、ヘンリヌには幞せになっお欲しい。本圓に、そう思っおるんです。それに私もこの連茉が実珟すれば、忙しくなるこずですし――」

    アニスはノァむオレットの濃い玫色の瞳をじっず芋぀めた。
    ただ黙っお、じっず――
    ノァむオレットは倧きくため息を付いた。

    「アニス。あなたの気持ち、よく理解できたわ。確かに“貧困からの脱华”は私たちの理念でもあるこずだし――」
    そしお眉をひず぀吊り䞊げお告げた。
    「䞉ヶ月。その期間だけホワむト・ロヌズ・サヌクルがスポンサヌになるわ。それ以䞊は駄目よ。さっきも蚀った通り、今はヘンリヌにずっお倧事なずきだから」

    アニスはノァむオレットを芋぀めた。
    これたで“匷さ”の象城だった圌女を、初めお“ひずりの女性”ずしお芋たような気がした。

    「ありがずうございたす、ミセス・フェアチャむルド」

    瀌を述べ、アニスはサロンを埌にした。

      

    ノァむオレットは、屋敷を出おいくアニスの背䞭を、窓越しに芋送っおいた。
    バッグからスマヌトフォンを取り出し、どこかぞ電話をかけおいるようだ。
    アニスの足取りは、しなやかで、たっすぐだった。

    「――これでいいわ。ヘンリヌにはもっず盞応しい嚘がいるんだもの」

    小さく぀ぶやいお、ノァむオレットもたた窓蟺を離れた。

      

    アニスはすぐに動いた。
    フェアチャむルド邞を出る途䞭でスマヌトフォンを取り出し、マヌフィヌに電話をかける。

    䞉コヌル目。掠れた声が出た。

    「おい、こっちは倜勀明けだぞ――」

    その声にかぶせるように、アニスが叫ぶ。

    「マヌフィヌ やったわ、スポンサヌが芋぀かったの」

    電話越しに、マヌフィヌの驚きが䌝わっおきた。

    「――なんだっお どこの誰だ、その物奜きは」

    「ホワむト・ロヌズ・サヌクル。フェアチャむルド家よ」

    䞀瞬の沈黙。
    やがお、マヌフィヌが思い出したように蚀った。

    「――ああ、元圌の家か。アニス、お前っおや぀はよくたあ、そこに戻ったな」

    「ええ。ゎミ袋から芋぀けた癜い薔薇のブロヌチを぀けお、圌のお母様に䌚いに行ったの。ちゃんず話を぀けおきたわ、ちゃんずね」

    沈黙のあず、マヌフィヌが笑い亀じりに返した。

    「さおは、手切金代わりを芁求したんじゃないのか」

    「そんなこずないわ。私たちの蚘事の䟡倀を理解しおくださったの」

    アニスも笑った。

    「よくやったよ、アニス――本圓に。線集長には、俺から話を通しおおく」

    「お願い。ねえ、マヌフィヌ」

    「ん」

    「誌面は、私たち二人のもの。そうよね」

    電話の向こうから、静かで確かな声が返っおきた。

    「――ああ、そうだ。誌面は、俺たち二人のものだ」


    第十章 White Smoke

    金曜日、午埌2時30分。今日もロンドンは曇倩。アニスはマヌフィヌずThe Moon線集宀で埅ち合わせた。

    堅苊しくなりすぎない皋床に服を敎えたアニスは、線集郚の奥たった䞀角――か぀お喫煙宀だったずいうガラス匵りの個宀の前で立ち止たったマヌフィヌの暪に䞊ぶ。

    「ここの䞻はちょっず癖がある。いいか、瀌儀は忘れんなよ」

    そう蚀っおマヌフィヌがドアをノックするず、䞭から䜎くも明るい声が返っおきた。

    「入っお」

    アニスは軜くゞャケットの裟を敎え、背筋を䌞ばしおから郚屋に入る。

    宀内には玙資料が無造䜜に積たれ、叀びた革匵りの怅子が空気に溶け蟌んでいた。䞭倮のデスクには、グレヌのニットを着たふくよかな女性が肘を぀いお座っおいた。赀瞁の県鏡の奥からアニスをじっず芋぀め、口角をわずかに䞊げる。

    「アニス、あなたの蚘事、読たせおもらったわ。面癜いじゃない。こっそりやっおたようね。マヌフィヌから聞いたわよ」

    ドリヌン・パヌマヌ――The Moonを実質的に支える珟堎䞻矩の線集長。
    アニスはそう盎感した。

    「ありがずうございたす、ミズ・パヌマヌ」

    「ただ早いわ。私が連茉を認めたのは、蚘事の力じゃない。“お金”の力よ。スポンサヌを匕っ匵っおきたその床胞、それは評䟡するわ」

    「私は運が良かっただけです」

    「その運が䞉ヶ月間も぀こずを祈るわね」

    そう蚀っおドリヌンは䞀匏の曞類をデスクに出す。

    「ここでむンタヌンずしお働いおもらうわ。これが契玄曞類。きちんず読んでサむンしお持っおきお。それから、倧事なこず。SNSでの勝手な投皿は䞀切犁止。必ず事前に私の蚱可を取るこず。The Moonの看板を背負っおいるの、忘れないで」

    アニスは䞀瞬だけ背筋が匷ばったが、しっかりず頷いた。

    「はい、肝に銘じたす」

    「そう。玙は軜いけど、責任は重いのよ」

    ドリヌンは県鏡を倖し、二人の顔を亀互に芗き蟌むように芋぀めた。

    「――それず、私の圹割は、あんたたち二人が“螊りすぎない”ように芋匵るこず。筆を躍らせるのはいい。でも螊り狂っちゃダメ。そういうの、蚘事に滲み出るからね」

    マヌフィヌずアニスは同時に頷いた。

    「よろしい。――で、この連茉のタむトルは」

    唐突な問いに、二人は顔を芋合わせる。

    「驚いた、ただ決たっおないの さっさず考えおきおちょうだい。隔週連茉にする予定よ。アニヌの章ずゞャックの章を䞀緒に茉せるの。被害者ず加害者、䞡方の目線からの物語っおわけ。五回の連茉だから、その぀もりで。――期埅しおるわよ」

      

    線集宀を出た瞬間、アニスは深く息を吐いた。肺の奥に残っおいた緊匵が、ようやく抜けおいく。

    「どうだった」マヌフィヌが口の端を䞊げお笑う。

    「すごい人ね、あの線集長」アニスは肩の力を抜きながら答える。
    「優しさず圧が同居しおる感じ」

    「俺にずっおは圧そのものだ」

    ふたりはしばらく歩き、階段前の螊り堎で足を止めた。曇り空のロンドンが、窓の向こうに広がっおいる。

    「で、タむトルだ」

    「うん」

    ふたり同時に無蚀になる。
    アニスが先に口を開いた。

    「“ゞャックは振り返る”、どう」

    「うヌん、シャレすぎだな。“癜い地獄より”、どうだ」

    「ホワむト・チャペルは、確かに被害者たちにずっお癜い地獄だった。でも、それだけじゃ救いがなさすぎるず思わない」

    「たしかに。どこかに䜙韻を感じさせるタむトルがいい」

    アニスは䞀瞬黙り、ふず閃いた蚀葉を口にする。

    「“White Smoke”、どうかしら」

    「いいな。ゞャックは霧の䞭に消えた。女たちの呜も。そしお残ったのは謎だけ。そういう䜙韻がある」

    「決たりね」

    「ああ」

    ふたりはしばし無蚀のたた、灰色の空を芋䞊げおいた。

      

    その倜、アニスは郚屋に戻っおFacebookを開いた。
    「自己玹介」欄を曎新するためだ。
    線集長・ドリヌンの承諟を埗た文面を慎重に打ち蟌む。



    自己玹介 / About Me
    “THEMOON“でむンタヌン䞭
    マヌフィヌ・ノックス蚘者ず“White Smoke“ずいう蚘事を曞いおいたす
    切り裂きゞャックの被害者子孫である私が、ロンドンで生きた䞀人の女性ずしおの“アニヌ・チャップマン“の姿を描き、
    もう䞀人の蚘者、マヌフィヌ・ノックスが“切り裂きゞャック“を様々な芖点から考察する、ずいう連茉です
    Currently interning at The Moon
    Co-writing a feature series with journalist Murphy Knox, titled "White Smoke".
    As a descendant of Annie Chapman, one of the so-called "victims" of Jack the Ripper,
    I aim to portray her as a real woman who lived and breathed in Victorian London.
    Meanwhile, my co-writer Murphy Knox explores the figure of "Jack the Ripper" from multiple perspectives.
    Together, we reconnect the past and the present through this documentary-style series.


    第十䞀章 友達 仲間 読者

    連茉開始圓日、氎曜日。
    孊生でもあるアニスは、午埌の授業を終えたばかりだった。
    講矩宀を出たタむミングで、スマヌトフォンが震える。
    The Moon電子版の曎新通知だ。

    慌おお画面を開くず、そこにあった——圌女が描いた若き日のアニヌ・チャップマン。困窮のなか、真っ盎ぐに生きようずする䞀人の女性。その姿が、誌面に茉っおいた。

    アニスはそっずスマヌトフォンを胞に抱きしめた。
    そう、これがはじたりなんだ。

    The Moon線集郚ぞ向かうため、倧孊構内の小道を䞀人歩く。
    その間にも、スマヌトフォンが小さな通知音を䜕床も鳎らした。
    家族、友人、たぶん兄倫婊からも。
    けれど、アニスが最初に声を届けたい盞手は、ただ䞀人。
    マヌフィヌ・ノックスだった。

    通知音はそのたたに、小道を早足で進む。
    朚々の間から颚が抜けおいく。

    その時——

    「おいっ」

    背埌からの怒鳎り声に、アニスの䜓がびくりず跳ねた。
    思わず立ち止たり、振り向く。

    そこにいたのは、同じ講矩を受けおいる男。名前は――思い出せない。グルヌプディスカッションで他人を芋䞋す態床を取り、正矩挢のゞョナサンず衝突しお以来、ずっず埌ろの垭で存圚を消すようにしおいた――あの薄気味悪い男。

    「さっきから䜕床も呌んでただろうが」

    男の倧声に、アニスの衚情が固たる。怯えの色がにじむその顔を、男は「銬鹿にされた」ず受け取ったのか、曎に声を荒げた。

    「お前、自分がゞャヌナリストになった぀もりかよ 俺たちみたいなただの孊生ずは、もう話もできないっおか」

    「――䜕なの、いきなり」

    アニスがかろうじお返した声は、ずおも小さかった。

    「いい気になるなよ。お前の蚘事なんお、誰も読んでねえよ」

    吐き捚おるように蚀いながら、男は距離を詰めおくる。アニスが反射的に身を匕こうずした、その瞬間——

    「䜕をしおるんだ、お前」

    背埌から鋭い声ずずもに、男の肩がぐいず匕かれた。

    そこにいたのは、ヘンリヌだった。険しい衚情で男ずアニスの間に割っお入るず、迷いなく蚀った。

    「アニスにこれ以䞊近づくな」

    凍り぀くような静けさの䞭、男はたじろいだ。匷気なのは女性盞手のずきだけ。そうだった、こい぀の名前は――コリン。コリン・フリップ。

    「な、なんだよ――ちょっず話しかけただけだろ」
    埌ずさりしながら、口を尖らせた。

    「けっ。フェアチャむルドのお坊ちゃんが、栌奜぀けやがっお――」

    悪態を残し、螵を返そうずするコリンに、アニスは蚀った。はっきりずした声で、呚囲に聞こえるように。

    「銬鹿にしないで。ヘンリヌはヘンリヌよ。お坊ちゃんなんかじゃないわ。――コリン・フリップ」

    フルネヌムを響かせた声に、コリンはぎょっずしたように顔をしかめ、そのたた走り去っおいった。

    アニスの口から、安堵の息が挏れ出た。
    隣に立぀ヘンリヌを芋䞊げる。

    コリンが去ったあず、しばらく二人の間に沈黙が流れた。
    ヘンリヌは、自分の手がただわずかに震えおいるのに気づいた。

    「――自分でも驚いたよ」圌は静かに蚀った。
    「あんな乱暎なこず、僕の性分じゃないのに」

    アニスはそっず埮笑んだ。

    「ありがずう。助けおくれお」

    ヘンリヌは目を䌏せ、蚀葉を探すように口を開いた。

    「君に盎接おめでずうを蚀いたくお来たんだ。蚘事、読んだよ。ずおも玠晎らしかった。お䞖蟞じゃない」

    アニスはほんの少し頬を染め、ふっず息を吐いた。

    「さっきのあなた、ずおも玠敵だった」

    その蚀葉に、ヘンリヌは少しだけ目を芋開く。

    「ひどい別れ方をしたのに、君は僕に優しくしおくれるのかい」

    「ええ。あなたも、私の蚘事を評䟡しおくれた。お互い様じゃない」

    二人は、芖線を亀わした。アニスは䞀息おいおからふわりず優しく蚀った。

    「ねえ、私たち、友達にならない 恋人ずしおは終わった。けれど、これからは“友達”。どう」

    ヘンリヌは䞀瞬だけ考えた埌、ゆっくりずうなずいた。

    「ああ――ありがずう。そうだね、友達ずしお」

    二人は、自然な流れで手を差し出し、握手を亀わした。
    それは、静かで穏やかな握手だった。

    「じゃあね、ヘンリヌ。たた明日」

    アニスはくるりず螵を返し、数歩歩いたあず、振り返る。

    「お母様に、よろしく䌝えお」

    ビッグスマむルを浮かべお蚀い、軜く手を振った。

    ヘンリヌはその埌ろ姿を芋送ったたた、しばらくその堎に立ち尜くした。

      

    The Moon線集宀。
    氎曜の倕刊が出た盎埌ずはいえ、い぀も通りの空気が挂っおいる。
    誰も隒がず、䜕も特別扱いしない。
    それが圓たり前、ここはそういう堎所だ。

    アニスは黙っお線集デスクの奥ぞ向かった。マヌフィヌ・ノックスはすでに玙の芋出しに赀ペンを走らせおいたが、アニスの気配に気づいお怅子を匕いお立ち䞊がる。

    その瞬間、アニスは䜕も蚀わずに圌に近づき、腕を広げお、柔らかく抱き぀いた。マヌフィヌは䞀瞬驚いたが、すぐにその肩を抱き返す。

    「――やったわ」
    「――ああ、やったな」

    二人は、マヌフィヌのデスクに眮かれたばかりのThe Moonを芋䞋ろす。
    誌面の䞀角に、“White Smoke”の文字がある。
    小さな文字、けれど確かな存圚感がそこにあった。

      

    倜、自宅の郚屋。
    アニスはノヌトPCを開き、溜たっおいたお祝いメヌルに䞀぀䞀぀、簡単な返信を打っおいく。「ありがずう」「読んでくれお嬉しい」「たた連絡するね」
    決たりきった蚀葉。でも、それでも十分に心は枩かかった。

    そこぞ、マヌフィヌからの䞀通のメヌルが届いた。


    件名最初の読者だ
    差出人murphy.knox@themoon.co.uk
    宛先annis.camberla@cityunilondon.ac.uk

    アニスぞ

    さっき、こんなメヌルを受け取った。メヌルの差出人は14歳の女の子、リリヌ。圌女が曞いたずいうより、正確には、圌女のおばあちゃんからの“代筆”だそうだ。

    以䞋、党文。


    件名おばあちゃんのお願い
    差出人lily.t.reads@ukmail.net

    こんにちは。ロンドン郊倖に䜏んでいるリリヌです。13歳です。
    さっき、おばあちゃんず䞀緒にWhite Smokeを読みたした。

    おばあちゃんのゞュリアの代わりにこのメヌルを曞いおたす。

    「アニヌ・チャップマンを殺さないで。圌女が少しでも幞せになりたすように祈っおたす」

    それが、おばあちゃんのお願いです。

    P.S. アニヌっお人、亡くなっおしたうんですか 
      私もおばあちゃんず同じ気持ちです

    リリヌより


    アニスは思わず手を止めお、画面に芋入った。じわりず目の奥が熱くなる。

    「――ありがずう、マヌフィヌ」

    画面の䞭の蚀葉たちが、静かにアニスの胞に染み蟌んでいく。
    心の䞭のアニヌに語りかける。

      アニヌ、あなたの味方がここにもいるわ  

    倜の静寂、アニスの心もたた静かだった。
    こうやっお䞀぀䞀぀積み䞊げおいく。それがこの連茉の圢。そう思い、アニスは長い䞀日を終えた。

      

    第十二章 思いもよらぬ出来事

    翌日朚曜日 午前10時

    翌朝の始たりも静かな日垞の颚景からだった。
    しかし、嵐は突然やっお来た。
    線集郚のサヌバヌが突劂、悲鳎を䞊げた。The Moon電子版——通垞の十倍を超えるアクセス数。

    この異倉に察応するため、数人の蚘者が線集宀に集たり、原因を調査し始める。線集長のドリヌンもキヌボヌドを叩き、リアルタむムのデヌタを確認しおいた。

    「なにこれ、どこから湧いたの――」

    隣に座る蚘者゚ドが頬を玅朮させお声を叫ぶ。

    「“White Smoke”、SNSでトレンド入りです」

    マヌフィヌ・ノックスは、眉をひそめカップに口を぀けた。
    思い圓たる節がない。あの“ゞャック”にそれだけの力があっただろうか
    黙考するマヌフィヌ。隣のアニスは隒ぎに気を取られお萜ち着かない様子だ。

    「原因、䞍明ですね――」

    ず誰かが呟いた、その時だった。
    マヌフィヌのメヌルに通知が届く。送り䞻は、ミア・ノックス。別れた元劻ずシドニヌに䜏む、十四歳の嚘からのメヌルだった。



    件名バズっおるの芋た
    差出人mia.knox.au@ozmail.com
    宛先murphy.knox@themoon.co.uk

    パパぞ

    White Smokeの電子版、シドニヌでも読めるよ

    リリヌ・クむンがSNSに投皿しおたや぀、芋た
    ロンドンのホテルで撮った写真。
    あの写真に茉っおたの、The Moonの蚘事だった

    たぶん本人は気づいおなかったんじゃないかな。
    でもファンたちは、写真に写っおた蚘事を芋぀けお拡散しおる。

    #叀いっお新しい、぀たり最高
    #OldIsNewWhichMeansTheBest

    ほんずにすごいよ。
    あの蚘事、私は倧奜きだった。
    読んでくれおる人が䞖界䞭にいるっお、なんだか倉な気分かもね。

    ママも「さすがマヌフィヌ」っお蚀っおたよ。

    —— ミアより


    リリヌ・クむン。今をずきめく、米むンディヌズ出身の若手シンガヌ。
    珟圚、ロンドンで期間限定公挔䞭。

    圌女のSNSには、䞀枚の写真ずあの䞀蚀。

    『叀いっお新しい、぀たり最高』
    “Old is New. Which means: the best.”

    写真には、埩刻版スナック《スりィンギヌズ・チヌズオニオン》。
    ホテルのルヌムサヌビスの玅茶セット。そしお——広げられたThe Moon玙。
    “White Smoke”の芋出しが、ばっちり写っおいた。

    マヌフィヌぱドに声をかけた。

    「おい、バズりの原因がわかったぞ。リリヌ・クむンのSNSを芋おみろ」

    即座に反応した゚ドが、キヌボヌドを叩く。

    「なんだ、お菓子の宣䌝か――それが偶然、White Smokeの内容ず䞀臎しお――」

    その埌を、ドリヌンが匕き継ぐ。

    「――勘違いしたファンがいたのね。それが広たった――ず」

    党員、笑うしかなかった。
    予期せぬ出来事によっお、White Smokeは泚目を济びるこずになった。

      

    連茉開始から䞀週間が過ぎた。
    The Moon線集郚には倚くの意芋が届いた。
    SNS、読者メヌル、読者アンケヌト、それに手玙たで。
    アニスずマヌフィヌは二人がかりでめがしいものを取りたずめた。
    これから曞く蚘事の参考にするためだ。

      


    【読者反応抜粋連茉䞉回目 二十四歳のアニヌ 灯火倫のゞャック】

    ・「この人が嚌婊になるなんお、きっず䜕か理由があったんだず思う」
     X投皿@ukthebest315

    ・「殺されちゃうんだよね――悲しすぎる」
     X投皿読者ID@daisy_london

    ・「絶劙な頭の悪さ。この先嚌婊になっちゃうのも頷けるわ」
     オンラむンコメント20代・女性

    ・「兞型的なお花畑タむプだな。理想ばかりで珟実が芋えおない」
     X投皿30代男性

    ・「気の毒な女性だず思いたした。立ち盎っおほしいず心から願いたす」
     読者メヌル女性・49æ­³

    ・「こんなに哀しい話が実圚したなんお――ただ驚いおいたす」
     読者投曞60代・男性

    灯火倫のゞャックに察する反響
    ・「モテない男の行き着く先だよな。今も昔も倉わらん」
     X投皿@shinji_night

    ・「これ、うちの叔父さんそのたんた。ご近所の女性に぀きたずっお捕たった過去あり」
     匿名女性オンラむン読者アンケヌト

    ・「これがゞャック 生々しすぎお震えた。怖いよこい぀」
     オンラむン読者コメント20代・女性

    ・「――俺じゃん」
     X投皿@boredguy1987

    ・「圓然ゞャックは初犯じゃない。みんなそう思っおたろ」
     X投皿@skyhi0101


      


    「ちょっず確認しただけで、こんなに――ずおも远い぀かないわ」

    「ただただ届いおるぞ――なあ、アニス。なんでこんなこずになったか、分かるか」

    マヌフィヌは無粟髭の生えた顎を撫でながら蚀った。
    アニスは銖を暪に振った。おんで分からない。

    「俺の分析じゃな、“ごっこ遊び“だからだ」

    「“ごっこ遊び“ それが䜕故」

    「通垞の蚘事じゃこんな反応は来ない。確かに最初のきっかけはごく皀な偶然によるものだ。けどな、ここたで倧きな反響を産んだのは、やっぱりWhite Smoke自身が持぀力によるものだろう」

    「そうかしら――」

    「新聞蚘事っおのは䞀方的だからな。『こんな事がありたした。以䞊、終わり』そうだろ だけどWhite Smokeは違う。『こんな颚だったず思うんですが、あなたはどう感じたすか』 誘っおるんだよ、読み手を。『䞀緒に“ごっこ遊び“をしたせんか』っおな。で、誘われた奎らが集たっお来おる。俺はそう分析したぞ」

    笑いを含んだマヌフィヌの声。
    そこには䜕故か少幎のような響きがあった。
    アニスは深く玍埗した。いや玍埗させられた。
    倧きく頷いお同意を瀺した。

    「そうね。あなたの分析力っお凄いわ、マヌフィヌ。䞀発でこの珟象をそんなふうに衚珟できるなんお」

    「俺は䜓隓枈みなんだよ、アニス。君に誘われお最初に“ゞャック”の蚘事を曞いた時にな。この“ごっこ遊び“は面癜い、やめられなくなっちたいそうだっおな」

    第十䞉章 アニヌ 二十六歳

    1868幎 四月 アニヌ 二十六歳

    『銬䞁っお気の荒い人が倚い』そう思っおた。ゞョニヌに䌚うたではね。銬車に煜られお転びそうになった私に、手を差し䌞べおくれたのが圌だった。

    「倧䞈倫かい」

    萜ちたゞャガむモを䞀緒に拟っおくれたっけ。
    土が぀いたたたのむモを䞀぀ず぀、カゎに戻しながら圌は蚀った。

    「僕も銬䞁だけどさ、ああいう奎らは本圓に嫌いだよ。銬の扱い方が䞋手なくせに、態床だけは偉そうなんだ」

    それが、はじたりだった。

    ほんの少しだけ蚀葉を亀わしただけなのに、䜕かが心に残っお。
    気が぀けば、街でちょくちょく䌚うようになっおいた。
    名前を蚀い合ったのは䞉床目のすれ違いだった。

    「私はアニヌ」

    「そう、アニヌ。僕はゞョン・チャップマン。みんなはゞョニヌっお呌ぶんだ。だからゞョニヌっお呌んでくれ」

    ちょっず俯いお、恥ずかしそうにそう蚀った圌を、私は今でも思い出せる。

    初めお二人で䌚ったのは、公園でのデヌト。
    私はゞョニヌのこずを知りたくお、銬䞁の仕事に぀いお聞いおみた。

    「僕の仕事 朝は倜明け前から厩舎に行っお、銬たちを起こすずころから始たる。干し草を替えお、氎をやっお、ブラシで毛を敎える。それから銬車の車茪や車䜓を点怜しお、準備が敎ったら埡者ず䞀緒に出かける。途䞭で䜕かあれば銬を抑えお、泥だらけになっおでも修理しお  たあ、地味な仕事ばっかりさ」

    「お絊料は」ず聞くず、ゞョニヌは少し口ごもっおから答えた。

    「週に十シリング皋床。埡者に気に入られれば少しは䞊乗せもあるけど、ほずんどは厩舎の持ち䞻次第。銬が病気になったり事故を起こしたりすれば、こっちの責任にもなるし――それに、今じゃ、蒞気の乗り合い車が増えおきおるだろ 鉄道もどんどん延びおる。あず十幎もすれば、この仕事だっおどうなるか――」

    䞀瞬だけ、ゞョニヌの声に陰りが差した。

    「でも――」すぐに顔を䞊げお、笑っお蚀った。

    「俺は銬が奜きなんだ。朝の匂いも銬のあったかさも。銬に觊っおいる時だけは、嫌なこずは党お吹っ飛んでしたう」

    そうしお、私の瞳を芋぀めお蚀った。

    「今はアニヌ。君が䞀番さ。君ずいればどんな困難も乗り越えおいける。そう思うんだ」

    嬉しかった。私もたったく同じ気持ちだった。
    だから、私たちは䞀緒になるこずにしたの。

      

    結婚匏は、りィヌトシェヌフ教䌚。
    二人ずも身内は少なかったし、ドレスを新調する䜙裕もなかったけど、近所の仕立お屋が安く譲っおくれた藍色のりヌル地のドレスに、癜いリネンの襟を瞫い付けお、粟䞀杯のおめかしをした。

    靎は、穎が空いおた右足の方だけを買い替えた。
    巊右で埮劙に違うけれど、気にはならなかった。
    片っぜだけ新しい靎。
    なんだかずおも私らしいような気がしお、心が浮き立った。

    教䌚の鐘が鳎ったあず、手を取り合っお倖に出た。
    ゞョニヌがそっず耳元で囁いたの。

    「今日から、アニヌ・チャップマンだ」

    私はうなずいた。

    「ねえ、これから少しは暮らし向きが良くなるず思う」

    「もうすぐ戊争が起きるっお皆口々に隒いでる。フランスずドむツ——いや、プロむセンだったかな。ああいう倧きな出来事のあずには、きっず䜕かが倉わるもんだよ。俺たちの暮らしだっお、きっず良くなる」

    ゞョニヌはそう蚀ったけど、私はよくわからなかった。
    ただ、少なくずもあのずきの私は、未来を信じおいた。
    信じたかっただけかもしれないけれど。

    掗い桶の䞭で石鹞の泡が虹色に光っおいた午埌。
    私は錻歌を歌いながら掗濯物を絞っおいた。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    それを聞き぀けたゞョニヌが、埌ろからひょいず頭にタオルをかぶせおきた。

    「お、誰かの矎声が聞こえるず思ったら」

    「ちょっず、濡れたたたでしょ」

    そんな颚に、笑いながら過ぎおいった日々。
    あの頃はただ、悲しみの圱なんお想像もしおいなかった。

      

    「ねえ、ゞョニヌ。私、赀ちゃんが出来たみたい」

    そう話しかけた時、ゞョニヌの顔に陰りが浮かんだ。
    私はそれを芋逃さなかった。
    でも、仕方がないこずだずも思った。銬䞁の仕事は枛っおいっおいる。
    それに぀れお圌の笑顔も枛っおいっおいた時期だったから。
    だからうんず明るい声で付け加えた。

    「倧䞈倫よ。私、ただただ働ける。二人䞀緒ならなんずかなるわ」

    「ああ、そうだね――」
    ゞョニヌの声は暗いたただった。
    「――たた金がいるな」
    そう蚀っお、郚屋から出おいった。
    私は黙っおお腹に手を圓おるだけだった。

    こういう時にはそう、歌うんだ。
    掗濯をしお歌を歌おう。

      

    小さな朚桶に石鹞を溶かし、シャツやハンカチを抌し掗う。
    泡にたみれた指先がゆっくり冷えおいく。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    わざずらしいくらい明るく、けれど優しい旋埋で。
    幌い頃、母に教わったこの歌を。
    蟛いずきこそ、歌う。そうすれば、心の䞭の柱が少しず぀消えおいく。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    歌いながら手を動かすず、掗濯の飛沫が顔に飛んだ。
    濡れた頬を手で拭っおから、手を止めお空を芋䞊げる。
    ロンドンの空は今日も曇り空。
    目から涙が溢れおくる。

    颚が䞀枚の新聞を運んできた。
    跳ねるように舞い䞊がり、私の前に萜ちる。
    読めない掻字、わからない蚀葉。
    けれど——この子には、䞖界を蚀葉で芋おほしい。
    それが私の、小さな祈りだった。

    ——その時だった。

    セント・ゞュヌド教䌚の鐘が、正午の空に鳎り響いた。
    祈りに答えるように、柄んだ音が街の䞊に広がっおいく。

    神様は、きっず、どこかで芋おいおくださる。

    私は目を䌏せ、そっず口ずさむ。心の奥で、お腹の子の未来を思いながら。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    倧䞈倫、明日はきっず晎れるから。だから歌おう、この歌を。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

      

    その倜、ゞョニヌは遅くに垰っおきた。
    顔には煀が぀き、䞊着には藁のくず。
    けれど、お酒の匂いはしなかった。

    「――ただいた」

    そう蚀っお、圌はう぀むいたたたアニヌの前に座った。
    私は䜕も蚀わず、ランプにオむルを足し灯をずもした。

    「ねえ、ゞョニヌ。生たれたら、どっちに䌌るかしらね」

    ゞョニヌは笑った。少し困ったような笑顔。

    「――君に䌌おくれればいいさ」

    私は頷いお、そっずお腹に手を圓おた。
    倧䞈倫よ、赀ちゃん。私が歌っおあげるから。
    あの優しい子守唄。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    第十四章 神父のゞャック

    1888幎 九月
    女——この䞖の穢れ。その穢れを枅めるこずこそ、私の䜿呜だ。

    今倜もたた、私は神の䜿いずなり、䞀぀の穢れをこの䞖から取り陀いた。
    血に濡れたナむフを䞁寧に拭い、手順通りに枅める。
    これは儀匏だ。儀匏の終わりには必ず行わねばならない。
    堎所はホワむト・チャペル。癜き名を冠したその地に、私は血の赀を加える。それが盞応しい報いだからだ。穢れを枅めるたびに、私の魂は満たされる。

    女こそ、穢れの根源。その真実に私を導いたのは、他でもない——母、゜フィヌである。

    「あなたのしおいるこずは、神の意志に背いおいるわ」

    あの蚀葉を、私は決しお忘れない。

    教区に暮らす、貧しくも矎しい青幎――ダニ゚ル。
    圌ず過ごす時間が、どれほど私の癒しだったか。
    神の恩寵すら感じるような、尊い亀わりだった。

    私は愚かだった。母ならば理解しおくれるず思っおいたのだ。

    「母さん、僕は――ダニ゚ルず」

    その告癜は、母の怒声で打ち消された。

    「やめおちょうだい、穢らわしい」

    凍り぀いた私の前で、母はさらに冷酷に蚀い攟った。

    「あの貧民にはお金を枡しお、どこかぞ行っおもらったわ。ええ、あのダニ゚ルずかいう若い男。しっかりず金を受け取っお、あなたの前から消えたのよ。あなた、隙されおいたのよ」

    私は蚀葉を倱った。
    これが母ずいう存圚なのか。
    なんず醜く、愚かな女なのだろう。絶望が胞を貫いた。

    たしかに、私はダニ゚ルにいくばくかの斜しを䞎えおいた。
    しかしそれは、愛のかたちだった。芋返りなど求めなかった。
    ただただ、共にいたかったのだ。

    沈黙する私に向かっお、母はさらにこう蚀った。

    「これであなたの将来を阻むものはなくなったわ。神孊校で勉匷に打ち蟌み、立掟な道に進みなさい」

    そのずき、私は悟ったのだ。
    女ずは、穢れであるず。母ずいう存圚こそが、穢れの源だった。
    その穢れを祓うこずこそ、神が私に䞎えた䜿呜なのだ。

    私はダニ゚ルの行方を远った。
    母の愚行を詫びれば、元の関係に戻れるず信じたからだ。
    だが、そうではなかった。

    「ダニ゚ルなら、埌家のレティシアのずころに転がり蟌んでるよ」

    ある者がそう教えおくれた。圌の蚀葉はさらに続いた。

    「䞊手くやったもんだよな、あの幎増は盞圓溜め蟌んでるっお噂だぜ。俺もあやかりたいよ」

    ああ、なんずいうこずだ。
    玔粋だったダニ゚ルは、私から匕き剥がされたその瞬間、䞋劣な女の毒に染たっおしたったのだ。
    母さえいなければ、私たちはただ神のもずにいたはずなのに。

    圓然、母はその責任を取るこずになった。
    穢れは祓われねばならない——䟋倖など、ないのだから。

    その埌も、䜕人かの矎しく逞しい青幎たちず出䌚った。
    だが、圌らの前には決たっお女が珟れる。
    私ず圌らの間に立ちはだかり、魂ず肉䜓ずの繋がりを阻む穢れた存圚。

    ノィノィアン。
    セリヌヌ。
    むノェット。

    どの女にもそれぞれの名前があった。だが本質は皆同じ。
    蛇のようにしなやかで、冷たく、狡猟な女たちだ。
    圌女たちは、男の魂を巧みに絡め取り堕萜ぞず導く。

    母ず同じように、圌女たちもたた、穢れを撒き散らす存圚だった。

    だが——この女たちを䞀人ひずり排陀するには限界がある。
    そう気づいたずき、神が私に啓瀺を䞎えたのだ。

    穢れを祓うのに、“個”に執着する必芁はない。
    名を問うな。過去を問うな。
    それが“女”であるずいうだけで、十分なのだ。

    今、私はセント・ゞュヌド教䌚にいる。
    ベスナル・グリヌン通りずブレむディ通りの亀差点近く。
    叀びた石造りの壁、尖塔の䞊で鳩が鳎いおいる。
    ゎシック・リバむバル様匏の小さな教䌚。冷えた石床を歩くたび、靎音が倩井ぞ跳ね返る。

    貧困の底にあるホワむト・チャペルでは、あらゆる眪人たちが懺悔のためにこの教䌚を蚪れる。
    ずりわけ倚いのが、嚌婊たち。
    穢れの䞊に穢れを塗り重ねた女たち。

    そうしお決たっおこう蚀うのだ。

    「生きおいくために、仕方がなかったんです――」

    自分を赊したいがための告解。
    そしお圌女たちはたた同じ眪を犯しに行く。
    ああ、やはり女ずは“穢れ“そのもの。
    私はそう確信を持った。

    最初に珟れたのは、メアリヌ・アン。
    芋るに耐えない醜い顔、そのくせ、どこからくるのか劙な自信を持っおいた。

    「神父様、䞀床ホワむト・チャペルにお越しください。きっず楜しい倜が埅っおいたすわ」

    歯の抜けた口元で、淫らな笑みを浮かべながらそう蚀った。
    私は埮笑みを返した。

    「ああ。䞀床、䌺うこずにしよう」

    圌女はにやりず笑い、嬉しそうに教䌚を出おいった。

    ——私は、あの女の“䞭身”を芋おみたかった。
    その内偎に、どれほどの穢れが詰たっおいるのかを。

    切り裂いたずき、あふれ出たのは赀黒く、生臭い――たさに穢れそのものだった。

    次に珟れたのが、アニヌずいう女だ。
    この女は、メアリヌ・アン以䞊に、醜悪だった。

    「すべお、子どものためなんです――私、こんな仕事を――」

    こけた頬。ほ぀れた髪。
    癜いものが混じったその頭を、圌女は恥じるこずもなく差し出した。

    だが、私は隙されなかった。
    “哀れな母”の仮面など、ずうに芋飜きおいる。

    私は、母゜フィヌを思い出した。
    「あなたのため」ず蚀いながら、自分の眪を他人に擊り぀けおきた、あの女の顔を。

    アニヌの語る「母性」もたた、それず同じだ。
    女ずいう生き物はい぀だっお、正しさの皮を被っお自らの醜さを隠す。

    ——だが、神は芋逃さない。
    この女が私の前に珟れたこずもたた、神の導きに違いない。

    私は、アニヌの现く骚ばった手を䞡手で包んだ。
    そしお、たっすぐ圌女の目を芋぀めお告げた。

    「神は、あなたを芋守っおいたす」

    アニヌの目から涙がひずすじ頬を䌝っお萜ちた。

    1888幎 九月八日、土曜の倜が終わる頃。
    ダットフィヌルド・ダヌドの裏手に私は立っおいた。
    空はただ眠っおいるが、颚はもう秋の匂いを孕んでいる。
    冷えた煉瓊、湿った土。
    霧がかかった䞖界はがんやりず癜かった。

    アニヌ・チャップマンがそこにいた。
    かすれた声で、ずきおり咳き蟌みながら歌を口ずさんでいる。
    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――” 
    泣き声にも䌌たその調べが、倜気に溶けおいった。

    「アニヌ」

    私は女の名を呌んだ。
    圌女が振り返った刹那、銀の刃が光り喉元を正確に切り裂く。
    癜い地獄に、赀い血が滲んでいく。
    ああ、やはりこの女の䞭身も穢れそのものだった。

    刃を拭い、䞁寧に枅める。
    癜い倜の䞭に、私は静かに䞀人で立っおいた。
    ひず぀の穢れが消え、たたひず぀䞖界が正しさを取り戻した。
    これを喜びず蚀わずしお、䜕を喜びず蚀おうか。

    倜が明ける。朝がやっお来る。
    私はひずずき目を閉じる。
    ダニ゚ルのこずを思い出しおいた。
    あの青幎は、今もどこかで私のこずを想っおいるに違いない。

    私は満ち足りた気持ちで、ホワむト・チャペルを埌にした。

    第十五章 連茉二回目読者反応

    Z䞖代のスタヌ、リリヌ・クむンの投皿。偶然が生んだ“White Smokeのバズ。
    それを「䞀過性の話題に過ぎない」ず考えた者は、The Moon線集郚にも少なくなかった。

    だが、反響はおさたるどころか、むしろ熱を垯びお広がり続けた。
    SNSで亀わされる声、毎日のように届く読者からのメヌル。

    「みんな、䜕かしらの意芋を蚀いたいっおこずみたい」

    線集長ドリヌンが肩をすくめお぀ぶやく。

    執筆者たちが隒動に振り回されおいおは本末転倒だ——そう刀断したドリヌンは、すぐに線集䌚議を招集し、新たな䜓制を発衚した。

    「これはもう、ただの連茉じゃなくお“珟象”よ。これから読者の反応ぱドが取りたずめおくれるわ。マヌフィヌ、アニス、あなたたちは蚘事に集䞭しお」

    その蚀葉ず同時に、ドリヌンの暪に立ったのは䞞顔で人懐っこい笑みを浮かべた若い男性。
    頬をほんのり赀らめながら、芪指を立おお芋せる。
    「任せおくれ」ず蚀わんばかりに。
    ゚ド・りィリアムズ、SNSのバズ隒動の珟堎に立ち䌚った圌が、二人を倧いに助けおくれるこずになった。

    「早速だけど、それぞれの回の意芋を芋やすいようにたずめおおいたよ」

    そう蚀っお、曞類をマヌフィヌずアニスそれぞれに枡しおくれた。

    「プリントアりトしおおいた方が芋やすいでしょ」
    マヌフィヌに向かっお軜くりィンクする゚ド。

    「ああ、これだずすぐに曞き蟌みも出来る。ありがずな、゚ド」

    マヌフィヌはすぐにペンを取り出し、玙に䜕やら曞き蟌んでいる。
    アニスも゚ドにお瀌を蚀っお、たずめられた意芋を読み進めた。

    【読者反応抜粋連茉二回目 二十六歳のアニヌ 神父のゞャック】

    ・「アニスっお、なんで芋えおる地雷をわざわざ螏みにいくの 初芋からゞョニヌっおダメな奎っお、私芋抜いおた」
     X投皿@sugar_nemui

    ・「真面目さず愚かさを兌ね備えた人間、っお感じ。埮劙に共感できる」
     オンラむンコメント男性・30代

    ・「ゞョニヌっお私の元カレそっくりだった。そりゃ別れるよね」
     X投皿@nina_uk

    ・「これはうちの効の物語だな。ゞャニスは今、シングルマザヌやっおる」
     Facebookコメント男性・40代

    ・「ここから圌女の転萜が始たるのかず思うず――読む偎にも芚悟がいるね」
     コメント欄より女性・孊生

    ・「私もアニヌのような人生でした。あたり酷く描かないであげおください」
     読者メヌル女性・40代・匿名

    ・「母は私を女手䞀぀で育おおくれた。蚀葉にしないだけで、圌女の背景が分かる気がする。でもそれは決しお恥なんかじゃないんだ」
     投皿フォヌム男性・35æ­³

    ・「“嚌婊”ずいう䞀蚀で片づけるこずの残酷さ。これも暎力の䞀皮です」
     投曞欄女性・りェブラむタヌ



    ・「出た、やばすぎる奎――っおか、普通にホラヌ」
     X投皿@hellonightjack

    ・「同性愛者狂信者っおいうステレオタむプ、ちょっず安盎じゃない」
     読者コメントLGBTQ+掻動家

    ・「過激衚珟が倚すぎ。性的少数者ぞの配慮が足りないず感じたした」
     Instagramコメント女性・28æ­³

    ・「こういうタむプ、実際にいる。うちの䞊叞がたさにこれ。倖面だけ聖人」
     X投皿@maskdaddy

    ・「俺は吊定する。でも同時に惹かれおしたう自分もいる――怖い話だった」
     オンラむン投皿30代男性・匿名

    ・「私は聖職者ですが、この蚘事の描写は看過できたせん。偏芋に満ちおいたす」
     読者メヌルシスタヌ・マヌガレット

    ・「同性による性被害を受けた経隓がありたす。あの蚘事を読んで過去が蘇りたした。吊定はしたせんが――しんどかったです。どこかに救いがあるずいいのですが」
     投皿フォヌム男性・匿名垌望

    線集郚スタッフからのひずこず
    ・「ゞョニヌが䞀番嫌いだな」
     ゚ド・りィリアムズシングルマザヌに育おられた35歳男性


    プリントアりトされた様々な意芋。
    その最埌に、思いがけず身近な人物の声も混じっおいた。

    「゚ドの奎――」マヌフィヌは小さく笑っお、玙をずんず机に戻した。

    「゚ド、ずいぶん若く芋えるのね。同じ幎くらいかず思っおた」

    背埌でキヌボヌドを叩く゚ドを振り返りながら、アニスも口元に笑いを浮かべる。

    ふっず緊匵が緩む。
    アニスは怅子に背を預けお、倧きく䌞びをした。
    マヌフィヌも同じく、凝り固たった銖の埌ろをもみほぐしおいる。
    たるで“切り裂きゞャック”の圱から、䞀瞬だけ珟実に戻っおきたような——そんな䞀息だった。

    「ねえ、マヌフィヌ」

    「ん」

    「アニヌに぀いおの意芋は、女性が倚かった。ゞャックはその逆、男性が倚い。そういう印象を受けたけど――あなたは」

    「俺も同感だ。そしお“神父のゞャック”——やっぱり物議を醞したな」

    「それはそうよ。悍たしくお、目を背けたくなるような――」

    「――けど、目を離せない自分もいる。違うか」

    「そうね、それは認めるわ」

    「そんでもっお、この意芋党郚に共通しおるこず、わかるか」

    マヌフィヌが少し声を萜ずしお問うたが、アニスは答えられずに銖をかしげた。

    マヌフィヌは少し玙の束を叩きながら、静かに続けた。

    「こい぀ら党員、アニヌずゞャックを“人間扱い”しおるんだよ。もう“昔話の登堎人物”じゃない。生身の、ここにいる誰かのように感じ始めおる。そう思わないか」

    アニスは、ゆっくりず頷いた。
    マヌフィヌはその衚情を芋届けるず、蚀葉を重ねた。

    「アニス、君は最初、“生きた䞀人の人間”ずしおアニヌを描きたかったっお蚀っおたよな。それ、もう——叶っおるんだよ」

    アニスは、倧きくため息を぀いた。

    「ありがずう、――倱恋の勢いで始めたこずが、たさかここたで来るずはね。あなたのおかげよ、ほんず」

    「瀌を蚀うのはこっちのほうだ。今じゃ俺も、蚘事に個人的な感情を倧いに蟌めおる。――実はな」

    マヌフィヌは蚀葉を切り、少し照れたように錻を掻いた。

    「ミアずクリスティ。嚘ず元劻からたたメヌルが来おたんだ。『蚘事、党郚読んでる。今じゃ䞀番の楜しみ』っおな」

    アニスずマヌフィヌは芖線を亀わし、笑い合った。

    「ねえ、マヌフィヌ。最初の玄束、芚えおる」

    「ん」
    「誌面は私たち二人のもの——。今、たさにそうなっおる。そうでしょ」

    「ああ、そうだな」

    「私、曞くわ。アニヌはこれから、もっず蟛い状況になっおいく。それでも曞き続ける。泥に塗れおも、盎向きに生きる圌女の姿を。それが私の芚悟」

    「そうだな。俺も曞く。様々なゞャックの姿を、たずえ批刀されおも。それが俺の芚悟だ。――た、ドリヌンがどう思うかはわからんがな」

    二人は真剣な県差しを亀わし、そのたた無蚀で次の蚘事の原皿に向かった。

    第十六章 アニヌ 䞉十九歳

    1881幎 春。アニヌ 䞉十九歳。

    今日はロンドンにしおは、珍しくいいお倩気。
    春の日差しが石畳の䞊できらきらず跳ねおいた。
    颚が私のお腹を撫でるように吹いおくる。

    「母さん、掗濯終わったよ」

    メむの明るくおよく通る声。
    うちの宝物みたいな嚘。

    「ありがずう。こっちに頂戎」

    そう蚀っおかごを受け取ろうずしたけど、思うように䜓が動かない。
    そりゃそうよね、お腹もだいぶ倧きくなっおきたんだもの。
    この䞭に呜がいるのかず思うず、動きにくいのも悪くない気がしおくる。
    子䟛には本圓に䞍思議な力があるのね。

    「母さんは座っおお。メむが干すから」

    十歳のメむは、ほんずうによく気が぀く子䟛。
    くるくるず動いお、ちゃちゃっず干しおいく。
    癜いシャツが颚にひらめいお、光を吞いこんでいる。
    私はゞョニヌが䜜っおくれた叀い怅子に腰かけた。
    片足だけ短い怅子は、ちょっず揺れおぎぃっず鳎る。
    釘が浮いおる気もするけど、でも悪くはないわ。
    背䞭に陜があたっお、じんわりあたたかい。

    メむが錻歌たじりに干しおいる。
    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”
    シャツず䞀緒に歌も颚に乗っお、どこか遠くに届いおいきそうだった。

    ほんずうに、なんお可愛いんだろう。
    近所でも「あの子は特別だね」っお蚀われる。
    そりゃそうよ、あんなに賢くお優しいんだから。
    文字だっお、誰にも教わっおないのに、貌り玙を声に出しお読んでた。
    新聞の芋出しも、たたに口にする。
    “ロシアの皇垝が殺されたっお曞いおあるよ”
    誰かが捚おた新聞を拟っお、そんなこずを蚀っおいた。
    「読めるの」っお聞いたら、「うん、色々な人に聞いお回っお自然に。ちょっずだけね」っお。
    い぀かの私の倢。
    『この子が文字が読める子になれたすように』
    それを神様が叶えお䞋すったのよ。

      

    倜。ゞョニヌが垰っおきた。
    銬の匂いず藁の匂い。
    シャツは泥ず汗で汚れおいたけれど、声だけはい぀になく明るい。

    「ただいた」

    「お垰りなさい。䜕かあったの」

    「いい話だ。メむの奉公先、決たったんだ」

    ゞョニヌは懐から䞀枚の玙を出しおテヌブルに眮いた。
    私には読めないけれど、それを説明し始めた。

    「立掟なお屋敷でな。仲間の埡者が玹介しおくれたんだ。しかも、そこの旊那が競銬堎の厩舎に顔が利くんだ。もしかしたら俺にも――」

    「――぀たり、メむを差し出す代わりに、あなたは仕事をもらうのね」
    私の声はかなり冷たかったず思うわ。

    「アニヌ、それは違う。奉公っおのは、嚘のためにもなるんだ。教育も受けられるし、ここよりたしな暮らしができる。俺たちより、ずっずいい暮らしが――」

    「ゞョニヌ、私はあの子を攟さないわ。䜕も知らない十歳の子よ」

    私の蚀葉に、圌の顔が曇った。
    そしおい぀もの癖が出る。
    おかしな理屈ず郜合のいい蚘憶で、私を远い蟌む。

    「君っおや぀は――本圓にわかっおない。お腹の子が生たれれば、君はしばらく働けない。君はメむを身ごもった時、“働ける”っお蚀っおただろう でも結局は、ひどい぀わりで寝おばかりだった。今回もそうだろう」

    私はぎゅっず拳を握った。悔しい、悲しい。
    でも、䜕も蚀い返せなかった。

    「このたただず、家族党員が沈んでしたう。――メむだけでも、たしな堎所に行かせおやったほうがいい。それが、母芪っおもんじゃないのか」

    颚が窓を揺らしお、ガタガタず鳎った。
    私はぎゅっず唇を匕き結んだ。
    その倜は、もう話もしなかったわ。
    お互いに背を向けお無蚀でベッドに入った。

      私たち、い぀からこんな颚になっおしたったんだろう  

    ゞョニヌはすぐに高錟をかいたけど、私は眠れずに倜を過ごした。

      

    翌朝。ただ薄暗くお、倖はしんず静たり返っおいた。
    でも、メむはずっくに目を芚たしおいたみたい。

    「母さん、起きおる」

    メむの声。私はうなずいた。

    「私――お屋敷に行くね。勉匷もできるんでしょう」

    声は昚日ず同じ、あたたかくお明るい声。
    でも䞭に有無を蚀わせぬ固い決意もあったように思う。

    「――聞いおたのね」

    「うん。党郚聞いたよ。倧䞈倫。やっおいけるず思う」

    メむは私の目をじっず芋お蚀った。
    その瞳は抛色。倜の明かりを吞いこんだような、静かで深い色。
    い぀もこうだ。賢いメむは䜕でも先回りしお、事情を察しおしたう。
    もっずもっず子䟛らしくいられるはずなのに。

    「ねえ母さん。“ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ”っお歌、芚えおる もしも寂しくなったら、それを歌っおね。私も向こうで歌うから。そうしたら、同じ空の䞋で䞀緒にいる、そう思えるから」

    私はメむの小さな䜓をぎゅっず抱きしめた。涙が止たらなかった。

    「メむ――ごめんね。ごめんね――」

    でもメむは、泣かなかった。
    私のお腹に手を圓おお、にこっず笑った。

    「倧䞈倫だよ。赀ちゃんも、母さんも。きっず幞せになれるから」

    その声が、春の朝の光の䞭に、ゆっくり溶けおいった。

      

    産月近くなっおも、私の悪阻は䞀向に良くならなかった。
    暪になっおいる私の耳に、ふたりの声が届いた。

    「――父さん、私が母さんに枡すから」
    「そんなこず――、お前」

    台所から聞こえる声。
    メむの声はい぀もよりずっず䜎くおかたい。
    空気がピリッずしおお、胞が苊しくなった。
    そっず起き䞊がっお、二人のずころに行ったの。

    メむが、テヌブルの䞊の玙をじっず芋おいた。あの奉公先の曞類よ。

    その隣で、ゞョニヌはバツの悪そうな顔をしお突っ立っおた。

    「――どうしたの」

    「なんでもないよ、母さん」

    メむは私を芋お笑ったけど、笑顔の䞭に陰りが芋えた。
    幌い嚘がひどく倧人びお芋えお、私はたすたす䞍安になった。
    ゞョニヌはそそくさず䞊着を匕っかけお、「ちょっず出おくる」ず蚀っお出お行ったしたった。
    倚分、ゞョニヌは逃げ出したんだず思う。
    私から、そしおメむの冷たい芖線から。

      

    出発の日の朝。
    空はどんよりしおたけど、優しい颚が吹いおいた。

    「さようなら、母さん。元気でね。寂しくなったら、あの歌を歌っお」

    「――ラベンダヌ・ブルヌ、ね」

    「うん。私も歌うから。同じ空の䞋で、䞀緒にいるっお思えるでしょ」

    涙がぜろぜろこがれた。
    私は倧きなお腹をかばいながら、ぎゅっずあの子を抱きしめた。
    それが私にできる党おだったから。

    「これ、奉公先からの支床金だっお。なにかあった時に䜿っおね」

    メむが、そっず小さな皮袋を私の手に握らせた。
    銀貚の音が、小さく鳎った。

    「ゞョニヌ。あんた、こんなお金受け取っおたの」

    玄関には、仲介人ずゞョニヌが立っおいた。
    ゞョニヌはずっず䞋を向いたたた、䜕も蚀わなかったわ。

    私は涙を拭いお、あの子の背䞭に向かっお歌ったの。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”

    その歌が、颚に乗っおあの子に届くように。

      

    䞀月ほど埌。お腹の匵りが匷くお、立っおいられなくなった。
    それに、めたい、吐き気、腹痛。
    私だけじゃなくお、お腹の赀ちゃんが危ない
    そう思った私は、ゞョニヌに蚀った。

    「お医者様、呌んで――お願い」

    「――本気か 金はどうする 子䟛は諊めたらどうだ」
    ゞョニヌはメむがくれた支床金を出し枋った。
    この時、䞀緒になっお初めお気が぀いたの。
    ああ、この人は駄目だっおこずに。

    私は必死だった。
    倧きな声でゞョニヌを怒鳎り぀けた。
    「なに蚀っおるの いいから速く――」

      

    メむが残しおくれた支床金は党おお医者様に枡しおしたった。
    でもそのおかげで、私は無事に女の子を産むこずが出来た。

    「ありがずう――メむ。あなたの効よ」

    私は、その子に「゚リス」ず名前を぀けお、胞に抱いお歌った。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――”
    胞に抱いた゚リスのために。
    遠くで暮らすメむのために。

      

    でも——やっぱり駄目だった。
    半幎埌、゚リスはあっけなく逝っおしたった。
    “栄逊倱調“、私は母乳が出なくおミルクを買うお金もなかったから――

    もうなにも考えられなくなっお、䞀人座り蟌むしかなかった。
    そしたら、ゞョニヌが蚀った。

    「――だから、支床金を䜿うべきじゃなかったんだ」

    私は顔を䞊げた。
    ゞョニヌの蚀葉に蚀い返す気持ちさえ起きなかった。
    ただ、メむのこずを考えおいた。

    「メむを迎えに行くわ。居堎所を教えお」

    「無理だよ。金も消えちたった。あんなに反察したのに――」

    そう蚀っお、ゞョニヌは出おいった。
    もう分かっおいた。これがあの人の正䜓。
    蚀い蚳䞊手の逃げ䞊手。
    匱い自分を隠すために、あれやこれやず蚀葉を連ねる。
    そうしお、ふいっずどこかぞ消えおしたう。
    さようなら、ゞョニヌ。どこぞでも行っおちょうだい。
    私に必芁なのは、メむ。
    そう、あの子だけなんだもの。

    私は、ゆっくりず涙を拭った。
    そしお、立ち䞊がったの。
    泣いおる暇なんおなかったから。

    「迎えに行くわ。必ず——この手であの子を」

    お金が芁るわ。
    考えなきゃ――その方法を。

    第十䞃章 医垫のゞャック

    1888幎 九月 医垫のゞャック

    私は圌女たちに痛みを䞎えなかった。
    䜎俗な新聞が隒ぎ立おおいるような猟奇殺人などでは決しおないのだ。
    “切り裂きゞャック“
    なんずも悍たしい呌び名ではないか。
    圌らがどう呌がうず構わない。
    私は、厇高な意図のもずに行動しおいたのだ。

    血管に入れたのは単なるモルヒネではない。
    苊しみず恐怖を取り陀くために、慎重に調合した特別な薬剀を圌女たちの䜓に泚入した。
    あの女性たちが最期に芋たものは、䜕だったのだろう 
    もしかしたら、私の手かもしれない。あるいは己の哀れな人生だろうか それは誰にもわからない。
    圌女たちの芋たものも、私の行いも、誰にもわかるはずがないのだから。

    私は医垫だ。垞に真摯に患者に向き合っお生きおきた。
    その䞭には、若き劻゚ノァンゞェリンスタも含たれおいる。
    劻はもう、肺の半分を䜿えおいない。
    吞うたびに咳き蟌み、倜は時々呌吞が止たる。
    しかし、原因は肺ではないかもしれない。
    いずれかの臓噚が悪さをしおいるのだろう。
    病身の゚ノァ。この病を治せなくお、䜕のための医孊だろう。
    私は経隓を積むために、行動を起こした。
    解剖で埗られるものは、教科曞の䜕癟ペヌゞよりも䟡倀がある。

    私は殺したのではない。孊んだのだ、人の構造を。皮膚の䞋に眠る理こずわりを。

    私は圌女たち犠牲者に最倧限の敬意を払った。
    安らかな眠りを䞎え、しばし瞑目しお祈りを捧げる。
    この儀匏をもっお圌女たちを送り出した。

    ホワむトチャペルの倜に立぀女性たち。
    その党おが䜕らかの病を抱えおいた。
    私が医垫だず告げるず、決たっおこう蚀っおきた。

    「ねえ、具合が悪いずころがあるんだけど蚺おもらえないかしら その分サヌビスするから」

    私はこの蚀葉に負の感情は抱かなかった。
    垂井の貧しい人たちからも同じこずを頌たれ、受け入れおきた経隓があったからだ。䟋えば肩の痛みが治らないパン屋。あるいは、い぀も腹を䞋しおいる倧工。蚺察の代金は支払えないが、己の生業で代䟡を支払う人たち。私は軜い調子で、圌らの䜓の調子を蚺おやっおいた。

    䞀人目の嚌婊、メアリヌ・アンの解剖。
    造䜜もないこずだった。圌女は䜕の疑いもなく私を受け入れた。
    二人目の嚌婊、アニヌ。圌女は梅毒に䟵されおいた。
    私の手にかからずずも、その呜は燃え尜きおしたう運呜だっただろう。
    いずれも、苊しむこずなくこの䞖を去った。
    私に経隓ず知識を䞎えおくれた尊い犠牲者たち。
    その名を胞に刻み、私は今日を生きおいる。


    1888幎 九月䞉十日。
    私は、今倜もホワむト・チャペルの倜の䞭にいる。

    䞀人の嚌婊が声をかけおきた。

    「ねえ、旊那。アタむのこずを買っおくれない 今倜はオケラで食事にあり぀けそうもないんだよ」

    声は掠れおいお、顔はげっそりず痩せこけおいる。

    「倧䞈倫かい 私は医者なんだが、ちょっず蚺おあげようか」

    私がそう蚀うず、嚌婊の顔がパッず明るくなった。

    「本圓 ありがたいわ。もうずっず調子が悪くおね。い぀も頭ががんやりしちゃっお――」

    「ああ、構わない。どこか萜ち着けるずころはあるかい」

    嚌婊はちょっず考えおから、蚀葉を続けた。

    「ダットフィヌルド・ダヌドの路地裏なら、人から隠れられるね。ただ、人通りがないっおわけじゃないけど――」

    それから思い出したように付け加えた。

    「ねえ、あんた――芪切なお医者様。もう䞀人蚺おやっお欲しい女がいるのよ。ミレスト・スク゚アにいる酔っぱらい女だけど、悪い人間じゃあないわ。時々、お酒で頭がおかしくなっちたっおるけどね――いい」

    もちろん倧歓迎だ。

    「いいずも、構わないよ。君を蚺たら、次はそこぞ行こう」

    「ありがずう、本圓に。私たち嚌婊はこうやっお助け合っお生きおる。私ぱリザベス、もう䞀人はキャサリンっお名前」

    堕ちおはいるが、゚リザベスは人懐っこい䞀面がある女性だった。
    もしも生たれが違い、どこか別の堎所で知り合っおいたなら、友人付き合いが出来たかもしれない。

    私の考えをよそに、゚リザベスは现く骚ばった手で私を導いた。

    「こっちよ、お医者様」

    ダットダヌド・フィヌルドの路地裏は半分屋内のようになっおおり、確かに人目に付きづらい堎所ではあった。ただ、呚囲に人が行き亀う気配があり、私は少し躊躇った。

    ゚リザベスはそんな私を気にもせず、さっさず服を脱ごうずした。私は慌おおそれを止めた。

    「埅っおくれ、゚リザベス。たずは君の痛みず苊しみを取り陀く薬を泚射しよう。蚺察はそれからだ」

    ゚リザベスは黒い瞳を倧きく芋開いお私を芋た。

    「あんた、本圓にいい人だね。どうしおそんなに芪切にしおくれるのさ」

    「私には劻がいおね、病に苊しんでいるんだ。君たちを蚺るこずで少しでも劻の治療に圹立おれば――そう思っおいるだけなんだ。いい人なんかじゃないさ」

    ゚リザベスは也いた唇に柔らかい笑みを浮かべおこう蚀った。

    「奥様は幞せ者だね、こんな玠敵なご亭䞻がいお。私ずは倧違い――」

    そうだろうか ゚ノァは私ず䞀緒にいお幞せなのだろうか。
    未だ劻の病を治せずにいる自分のこずを私は䞍甲斐ない男だず思っおいた。

    ゚リザベスは汚れたワンピヌスの袖口をたくりながら、蚀葉を続けた。

    「さっきね、私のこず『゚リザベス』っお呌んでくれたでしょ 嬉しかったな。䜕だか久しぶりに人間に戻った気分」

    私ぱリザベスの名前を胞に刻んだ。それから泚射噚を取り出した。

    「さあ、腕を出しお。これで党おが楜になる」

    ゚リザベスは倜空を芋䞊げお蚀った。

    「――ああ、霞んだ空の䞭にお月様が浮かんでる。なんお玠敵な倜なんだろう、私ね――」

    ゚リザベスはそこで静かになった。
    圌女は最埌に䜕を蚀おうずしたのだろうか ずおも穏やかな衚情だった。

    私は圌女を暪たえ、急いで仕事に取り掛かった。
    行き止たりになった路地裏には、安酒ず吐瀉物の匂いが充満しおいた。
    生臭い匂いを誀魔化すのに郜合がいい堎所だった。

    だが、仕事を始めおほんの五分。蹄の音が近づいおくるのに気が぀いた。

    ただ途䞭ではあるが、仕方がない。
    い぀もの通り、゚リザベスの死を悌み、ほんの少し瞑目する。
    そうしお荷物をたずめ、急いでその堎を埌にした。

    次は――そう、キャサリンだ。

      

    ミレスト・スク゚アは冷たい霧に包たれおいた。
    街灯の光が霞み、䜕もかもが茪郭を倱っお芋える。

    䞀人の女性が広堎の䞀角、叀い朚箱にもたれかかっおいた。゚リザベスが蚀った通り、酒のせいで意識が朊朧ずしおいるようだ。

    「――君、キャサリンかい」

    「そうよ、あんたは誰」

    酒臭い吐息に虚な瞳、アルコヌルに䟵されおいる哀れな女性。

    「私は医者だよ。さっきそこで゚リザベスに頌たれおね、君を蚺おやっおくれっお――」

    ゚リザベスの名前を聞いた途端、キャサリンの顔に明るさが戻った。

    「ああ、リズかい 私の二番目の友達さ。䞀番目はお酒だけどね」

    キャサリンは自嘲気味に薄ら笑いを浮かべお蚀っおから、激しく咳き蟌んだ。

    「倧䞈倫かい」

    「最悪さ。喉も腹も焌けるように痛くお、でも䜕より――寒くおかなわない」

    私はカバンを開いお、泚射噚を取り出した。

    「少しだけ我慢しおくれ。すぐ楜になる薬を打っおあげよう」

    キャサリンはうなずいた。

    「悪いね、こんな酔っぱらい盞手に。蚺察代を払おうにもこっちは䞀文無しだ」

    「構わないさ。゚リザベスが君を心配しおいたよ。圌女は優しい人だった」

    キャサリンの目に、䞀瞬だけ光が戻った。

    「そうだね――私よりもずっずたしな人間さ」

    私は泚射噚を取り出し、䞁寧に圌女の腕をずった。

    「これで、痛みも苊しみもすべお消える」

    そしお、静かに泚射を終えた。

    キャサリンは、ふうっず生臭い息を吐いた。
    内臓も酒毒にやられおしたっおいるのだろう。

    「本圓だ、嘘みたいに楜になった。ああ、ありがたい――」

    やがお、呌吞は止たり静寂が蚪れた。

    私はい぀ものように、祈りを捧げおから解剖を始めた。
    もう迷いはない。この手でしか救えない呜があるのだから。
    仕事を終えお、キャサリンの名を胞に刻んだ。

    そうしお、劻のこずを考えた。
    埅っおいおくれ、゚ノァ。
    もう少し、もう少しなんだ。

    第十八章 連茉䞉回目 読者反応

    White Smoke掲茉明けの線集郚はい぀も慌ただしい。
    ゚ドず仲間の蚘者二人がかりで読者反応をたずめおいる。
    ドリヌンは奥の線集長宀で、老県鏡越しにモニタヌず睚めっこだ。

    アニスは自分のラップトップの前でコヌヒヌを冷たしながら、次回の原皿に赀を入れおいた。
    隣の垭ではマヌフィヌが目を现めおゲラにペンを走らせおいる。口笛のように、短く息を吐いた。

    「最埌にアニヌが立ち䞊がる姿。なかなか良かった」

    「ありがずう。䜕だか圌女、『倫に捚おられた女』ずしお描かれるこずが倚かったように思うの。でも、そうじゃない姿を描きたくお」

    「ああ。実際俺たち倫婊も、女房の方が俺から去る決断をした」

    「――その話、どんな顔しお聞いたらいいか分かんない。私」

    そう蚀いながら、マヌフィヌのデスクの䞊に食っおあるミアずクリスティの写真を芋た。

    そしおその暪にある新しい写真たお。
    叀い写真、五人の若い男性が肩を組んで写っおいる。

    「ねえ、マヌフィヌ。それは」

    「ああ、これか 俺の若い頃の写真。バンド仲間で撮ったんだ。でな、その䞭の䞀人がゞャックの蚘事を読んで連絡をくれた。『蚘事読んだぜ、元気そうだな』っお。懐かしくおな。叀い写真をアルバムから剥がしお持っおきたんだ」

    「マヌフィヌ、どれがあなた」

    「芋りゃ分かるだろ。真ん䞭の䞀番ハンサムな男が俺だ。ちっずも倉わらないだろ」

    「――時の流れっお残酷ね」

    冗談めかしお蚀った埌、アニスはマグカップに口を぀けた。

    ちょうどその時だった。
    ゚ド・りィリアムズがで近づいおきお、クリップで止めた厚めの資料をそっず机の端に眮いた。

    「お埅ちどう様。ずりあえずプリントアりト出来た分を眮いおおくよ」
    それだけ蚀っお、たた自分のデスクに戻っお行った。

    マヌフィヌが資料をパラリずめくる。

    「さあ、読者のみんなはアニヌずゞャックをどうみただろう」


    【読者反応抜粋連茉䞉回目 アニヌ䞉十九歳 医垫のゞャック】

    ・「メむ、完党に芪を超えおる。アニヌはようやく目を芚たしたっお感じ」
     ―X投皿@camellia_mornings20代・女性

    ・「この嚘、“奉公先“の意味わかっおそう――アニヌは分かっおない」
     ―読者メヌル匿名・40代・女性

    ・「“ラベンダヌ・ブルヌ”が逆に切ない」
     ―オンラむンコメント孊生・21歳・女性

    ・「ゞョニヌ、マゞでむラむラする。なんでそこに立っおるだけなの」
     ―X投皿@he_is_useless30代・女性

    ・「貧しい女の行き先、それはい぀の時代もおんなじ」
      ―オンラむンコメント匿名・38歳・男性

    ・「父芪の自芚のない男、生きおる䟡倀ないわ」
     ―読者メヌル匿名・30代・女性

    ・「うちの倫に芋せたわ。あなたの事が茉っおるっおね」
     ―オンラむンコメント匿名・43歳・女性


    マヌフィヌが笑いながら蚀った。
    「ゞョニヌ、だいぶ嫌われおるな」

    アニスが資料の角を指で敎えながら、ぜ぀りず挏らす。
    「でも実際、珍しくないわよ、ゞョニヌみたいな人。逃げ癖が぀いちゃっおるんだよね」


    【読者反応抜粋医垫のゞャックマヌフィヌ執筆】

    ・「こんな静かなゞャック、逆に怖い」
     ―X投皿@mynameistired20代・女性

    ・「刺激は少なかったけど、䞀番“いそう”だず思った。ずなりの家にいるタむプ」
     ―読者フォヌム投皿30代・男性・䌚瀟員

    ・「解剖のために殺すっおいう理屈か。䞀呚回っお玍埗できるのが怖い」
     ―Instagramコメント女性・28æ­³

    ・「“自分も家族のためならやったかもしれない”ず思っおしたった」
     ―メヌル投皿䞻婊・40代

    ・「共感できるタむプのゞャック像っお、ちょっず斬新」
     ―オンラむンコメント匿名・䞍明・䞍明

    ・「埅っお、じゃあ次のゞャックは 譊察官 雑誌蚘者 ちょっず予想しおみない」
     ―オンラむンコメント匿名・女性・䞍明
      ※同様の予想コメント倚数


    「前回より、共感の声が倚い。そんな感じがする」
    アニスが蚀った。

    マヌフィヌはペンのキャップをカチカチさせながら、口元を歪めた。

    「ゞャックがもし、良き隣人だったら それをテヌマにしたんだ。“神父のゞャック“が過激だったからな」

    アニスは資料の最埌のペヌゞをめくった。
    そこには、゚ドの手曞きのひず蚀が添えられおいた。

    ・「ゞョニヌの件、俺の生物孊䞊の父芪をモデルにした」
    ―線集者男性 ゚ド・りィリアムズ30代

    アニスはくすっず笑っお、マヌフィヌに目配せした。

    「そうなの」

    「違う。だが少なくずも゚ドのバックグラりンドが分かっおきたな」

    二人は肩越しに゚ドを芋おから、小さく笑い合った。

    「で、マヌフィヌ・ノックス蚘者。次はどんな“ゞャック“を玹介しおくれるの」

    アニスは資料を指で指し瀺しながら、マヌフィヌに聞いた。
    マヌフィヌは真面目な顔をしおゆっくりず口を開いた。

    「そうだな。君は今たでの“ゞャック“をどう芋た」

    「そうね、たず䞀人目の“灯火倫のゞャック”。
    時代に眮いおいかれた男。呚囲から蔑たれお、嫌われお。誰からも奜かれない、特に女性からは。いわば“負け組のゞャック”、あるいは“卑賀のゞャック”かしら」

    「それから、二人目の“神父のゞャック”。――倉質者よね。
    これは信仰も性癖も関係ないわ。元々、狂っおた人間だず思う。だから、“狂気のゞャック”。私はそう感じた」

    「で、䞉人目。“医垫のゞャック”。あなたの蚀う通り、良き隣人っお感じ。おそらく医垫ずしおも優秀なんでしょうね」

    「私ね、今たでの“ゞャック”は、正盎どれも嫌いだった。嫌なや぀ばっかりだったから。
    でも、この“医垫のゞャック”は違う。――仲良くなれそうな気すらするもの。栞の郚分はずんでもない奎なのに、そのたわりをきっちりず“良識”ず“優しさ”でコヌティングしおる。そこが䞀番怖かったわ」

    「そうか。的確なコメントをありがずう。――でな、アニス」
    マヌフィヌはアニスを芋぀め、䞀旊、蚀葉を切った。
    たるで秘密を打ち明けるみたいに、声を萜ずす。

    「君の“アニヌ”の描き方を参考にしたんだ。今たで、圌女は“倫に捚おられた哀れな女”だったろう
    でも、君の芖点は違った。真っすぐで朗らか。そりゃ匱いずころもあったさ。だが決しお“哀れなだけの女”じゃなかった」

    「だったら、“ゞャック”もそうしおみようっお思った。
    俺の蚘事だけじゃなく、過去に描かれた“ゞャック”の姿――い぀もそこには、䞍幞の圱が付きたずっおいた」

    「けれど、“ゞャック”が幞犏で、満ち足りた人間だったら、どうだろう」

    「――それが、次の“ゞャック”だ」

    マヌフィヌの蚀葉にアニスは奮い立った。

    「じゃあ、私は“匷いアニヌ“を描くわ。圌女は呜の灯火を燃やしお立ち䞊がるの。それが圌女の晩幎の姿」

    二人は芖線を亀わしお黙り蟌んだ埌、猛然ず仕事に取り掛かった。

    第十九章 アニヌ 四十䞀歳

    1883幎 秋 アニヌ四十䞀歳

    匷い秋の颚が、朚の葉をちぎっお遠くぞ連れお行っおしたった。
    この先にメむがいるのかもしれない。
    そう思うず胞が苊しくなった。
    私は、今倜この道を歩いおいる。
    ホワむト・チャペルの片隅を。自分の足でしっかりず。

    昚日、ゞョニヌのずころに行った。お金をせびりにね。
    「小さいゞョンがお腹を空かせおるの。出せるだけ出しお頂戎」
    ご近所に聞こえるくらい、倧きな声で蚀っおやったわ。
    小さなゞョンはただ䞀歳。゚リスが亡くなっおすぐに私のお腹にやっおきた子䟛。
    そしお私も生きお行かなきゃいけない。
    ゞョニヌは枋りながらもお金を出した。
    きっかり1ポンド。私はひったくるようにそれを受け取った。

    「これきりだ。いいな」

    ゞョニヌはそう蚀っお扉をバタンず閉めおしたった。
    でも、それでいいず思えたの。
    私は、もうずっず前からひずりだったのかもしれない。
    それでも今は、胞の䞭にふたりがいる。
    メむ。どうか元気で。母さん、ちゃんず迎えに行くよ。
    ゞョン。眠っおいおね。お腹いっぱいにしお、いい倢を芋お。

    冷えた倜の空気に負けないように、私はラベンダヌ・ブルヌを小さく口ずさむ。この歌は、メむず私の魔法なの。歌えば、どこにいおも繋がっおいられるっお、信じおる。

    寒いね、っお思う。でも、それだけ。泣かない。もう泣かないっお決めたから。埌悔 ええ、埌悔しおるわ。もっず早くこうするべきだったっおね。そうすればメむも゚リスも救えたはず――

    私はアニヌ・チャップマン。ホワむト・チャペルの女。
    誰がなんず蚀おうず、私は私のやり方で生きる。
    この街が私を飲み蟌もうずしたっお、私は消えたりはしないわ。

    “ラベンダヌ・ブルヌ ディリディリ――“

    歌っおいれば寒さも平気。
    そしたら、近くに立぀若い嚌婊が声を荒げお怒鳎っおきた。

    「ちょっず、そこのおばさん 頭がおかしいのか知らないけど、その歌、やめおくれない 商売の邪魔だわ」

    汚い蚀葉で私を眵る若い女。
    珍しいくらい赀い色の髪、明るい灰青色の瞳。なんずも矎しい癜い肌。
    いったい䜕歳なのかしら 私はメむを思い出した。
    ホワむト・チャペルに立っおみお、やっず気づいたの。
    あの子の“奉公先“がどんな堎所だったのかっおこずに。
    だから䞀日でも早く、迎えに行かなきゃならない。

    「ねえ、あなたなんお名前 私はアニヌ・チャップマン」

    はっきりず通る声で名乗った私に、若い嚘は䞀瞬怯んだようだった。

    「――なんなの、本圓に。あんた、ここ初めお」

    「ええ、今倜からなの、よろしくね」

    私は笑顔で圌女に近づいた。圌女は、怪蚝な顔をしお少し埌ずさった。
    構わない、これも瞁だもの。圌女に色々教わろう、そう思った。

    「ねえ、教えお。ここではどうやっお“商売“をしたらいいの」

    「あのさ、おばさん。そんなこずも知らずにやっお来たの バカだねあんた」

    「仕方がないのよ。売られた嚘を取り戻さなきゃ。それに家にはお腹を空かせた赀ちゃんもいるの」

    嚘は黙り蟌んで、私の顔を芋た。圌女ずは違い、しわが刻たれた私の顔を。そしお蚀った。

    「ここじゃ、若い嚘が5ペンス。あんたじゃその半分も皌げやしないよ」

    「そう、教えおくれおありがずう。じゃあ、2ペンスから始めるわ」

    私はそう蚀っお、圌女にそっず1ペンスを握らせた。圌女は躊躇いながらもそれを懐にしたっお蚀った。

    「――私はゞンゞャヌ。そう呌んで、アニヌ」

    しばらくしお、背の䜎い䞭幎の男がゞンゞャヌの前に立った。
    少し離れた堎所で玠知らぬ颚を装いながら、そっず様子を䌺った。
    二人は少しだけ話をした埌、倜の暗がりに消えお行った。

      ゞンゞャヌ、どうか気を぀けお。神様、ゞンゞャヌにご加護を  

    その倜、結局私にお客は付かなかった。
    でも、私は諊めなかった。
    だっお子䟛たちのためだもの。
    こんなずころで挫けるわけには行かない。
    䜕か工倫をできるこずはないかしら 
    私のような老いた嚌婊が、お客を取る方法。

    たずえば、食べ物を添えるのはどうかしら。お酒じゃなくお、䜕か簡単なおかず。売春婊が売るのは身䜓だけじゃない。あたたかい蚀葉や、束の間の安らぎだっお売っおる。私は私のやり方で、そういう安らぎを売り物にしお路䞊に立おばいいわ。

    翌日、私は朝早くから安売りの屋台を回った。じゃがいもをひず抱え。あずは叀びた鍋をひず぀。どれも1ペンスばかりで買えるもの。それでも、火を通せば湯気が立っおいい匂いがする。それだけで、通りすがりの誰かの目が私に向くかもしれない。
    生きおいくっお、぀たりはそういう事だから。

    「この蒞したお芋、1ペンスよ。䞀緒にあたしも、どう 党郚でたったの3ペンス――」

    笑いながらそう蚀っおみればいいわ。断られたっお枛るもんじゃない。
    「䜕だか倉わった嚌婊だな」そう思っお貰えたのなら、その日はお客が぀くっおわけ。

    その晩、私はホワむト・チャペルの片隅で小さな火を起こした。
    叀い朚箱を燃やしお、買っおきたじゃがいもを蒞しおみた。
    たずえ質玠な料理でも、倜の寒さをしのげるものなら䟡倀はあるでしょ だっおこんなに寒いんだもの。

    そこぞゞンゞャヌがふらっず珟れた。

    「――あんた、なにしおんの」

    「お料理。今日は蒞したお芋よ。食べる」

    ゞンゞャヌは驚いた顔で私を芋たあず、ふっず笑った。

    「ねえ、アニヌ。あんた、やっぱ倉わっおるわ」

    「それ、耒め蚀葉ずしお受け取るわ」

    酔っ払いたちの声、野良犬の遠吠え、朚の爆ぜる音。
    ゞンゞャヌず私はただ黙っお、ゆらめく炎を芋぀めおいた。
    寒い倜だったけれど、鍋から立ちのがる湯気が、心たであたためおくれた。

    しばらくしお䞀人の玳士が私の前に立った。
    ちゃんずした背広を着た立掟な玳士。

    「いくらだ」

    玳士はしわがれた声で聞いおきた。
    私は答えた。
    倚分、声が震えおいたず思う。

    「お芋ず䞀緒で3ペンスです」

    「買った」

    亀枉成立、たったそれだけの䌚話だったわ。
    通りを挟んだ向こう偎で、ゞンゞャヌが私を芋おいた。
     倧䞈倫 、私は圌女に目で合図をしおから、玳士に぀いお行った。

    奥たった路地裏で二人きりになった私たち。
    私は玳士に、新聞玙に包んだじゃがいもを枡そうずした。
    自分でもおかしいくらいに、手が震えおた。
    圓たり前だよね。
    だっお私、これから――買われるんだから――

    「――たずはこれからどうぞ」

    玳士は口元に薄い笑いを浮かべお、それを受け取った。
    新聞玙の包みを剥いおから、お芋を地面に捚おおしたった。
    じゃがいもは路䞊に転がっお行っお、泥ず銬糞で汚れおしたったわ。

    「食え」

    玳士の短い呜什。
    私は反射的に手でお芋を拟おうずしたわ。
    でも圌はそれを静止した。

    「手は䜿うな。這い぀くばっお食え」

    私は呜什に埓った。だっお買われた女ですもの。
    お芋は汚れおいたけど、私はそれを党お食べた。
    臭くお、ゞャリゞャリした感芚が口に拡がっおいく。
    それでも党郚黙っお飲み蟌んだ。

    銬鹿みたいでしょう 
    その時の私は、ほっずしたの。本圓に心の底からほっずした――
    酷い目にあったなんお埮塵も思わなかった。
    ただ食べるだけ。それだけで枈んで良かった。
    そう思ったの。

    食べ終わった私に玳士は4ペンスを投げ出した。
    チャリンずいう銀貚の鈍い音。

    「拟え」

    もちろん、喜んで拟ったわ。だっお4ペンスよ。
    パンが二斀買えるわ。これで小さいゞョンにパン粥を䜜っおあげよう。

    這い぀くばっお銀貚を拟う私を芋お、玳士は満足そうに笑い去っおいった。

    「ありがずうございたす」

    私はその背䞭にお瀌を蚀ったわ。

    「アニヌ、どうだった」
    心配顔のゞンゞャヌが尋ねおきた。

    私はさっきのやりずりを話しお聞かせたわ。
    ゞンゞャヌは嫌な顔をしたけれど、私は幞運な滑り出しだず思った。

    「この4ペンスを積み重ねお行けば、きっず嚘に手が届くはず」
    明るくそう蚀ったわ。本圓にその぀もりだったからね。

    「そうだね、手が届く。きっずね」
    ゞンゞャヌも優しい顔でそう蚀っおくれた。

    「ねえ、アニヌ」ゞンゞャヌはちょっず真面目な顔をしお話し始めた。

    「あんたの食べ物を売るっおアむデア、いいず思う。アタシたちっおさ、自分を売っおる。でも時々、胞が苊しくなる――皆そうなんだ。だけど、『私は食べ物を売っおるんだ』っお、自分を誀魔化すこずができたならさ、ちょっずだけ心が楜になる――」

    私はゞンゞャヌの癜っちゃけた顔をじっず芋぀めた。
    そしたら、ゞンゞャヌのお腹がグヌッずなったの。
    䞀瞬の間があっお、二人で笑い合った。

    「お芋ならただ残っおるわ。食べる」

    「いいの 腹ぺこなんだ」

    ゞンゞャヌが手を䌞ばしおきた。
    私は新聞玙に包んだ蒞し芋をそっず枡した。

    圌女は嬉しそうに包みを解いお、お芋を頬匵った。
    新聞玙には䜕やら絵が描かれおいた。
    筆で描いたような女の子の絵。目が倧きくお、どこかメむに䌌おいた。

    私は文字は読めないけれど、絵はわかるもの。
    たたメむのこずを思い出した。

       メむ、埅っおお。必ずあなたに蟿り着く  。

    冷たい颚の䞭で、蒞した芋のぬくもりが私たちの心を枩めた。
    そんな小さな倜だった。

    第二十章 画家のゞャック

    1888幎 十月 画家のゞャック

    朝の光がカヌテン越しに郚屋の床を照らす。
    ロンドンの冬の陜は淡く薄い。
    マホガニヌのテヌブルに眮かれた銀噚が鈍く光っおいる。

    ティヌカップを手に取り、ダヌゞリンを口に含んだ。
    春摘みのファヌスト・フラッシュ。爜やかな銙りが錻腔を抜けおいく。
    そうしおほっず息を吐く。
    胞の奥から喜びが湧き出おきお、身䜓䞭を満たした。
    ああ、䞖の䞭はなんお玠晎らしいんだろう。

    僕の朝はい぀もこうしお始たるんだ。
    りィンダミアの家はずおも豊かで、欠けたずころなど䜕䞀぀ありはしない。
    由緒正しい家柄。莫倧な資産。匷い父。矎しい母。勀勉な兄。
    そしお僕。ね 完璧だろう

    もちろん僕の生掻だっおそうだ。
    もしも僕が、『あれ、䜕か足りないぞ』なんお思おうものなら、
    屋敷の誰かが、すっずそれを差し出しおくれる。ごくごく自然にね。
    子䟛の頃からずっずそうだった。おそらく死ぬたでそれは倉わらない。
    この前だっお、『おや、セルリアンブルヌの絵具が無くなりかけおる』ず思った途端、メむドのフロヌレンスが『セオドア様、こちらに眮いおおきたすね』ず蚀っおアトリ゚に絵の具を持っおきおくれたっけ。

    僕が喜びに浞っおいるず、暪から新聞が差し出された。
    新しくきたメむド――、名前はなんだっけ
    ずにかく若くお噚量の良い嚘だ。

    その嚘は、ちょっずおどおどした様子で、
    「セオドア様、今朝のお届け分です」ず蚀った。

    「ありがずう」
    僕がそう蚀うず、その嚘は䞀瀌しおからそそくさず郚屋から出おいった。

    あの嚘、僕のこずを怖がっおいるんだろうか
    䞍思議だな、怖いこずなんお䞀぀もありはしないのに。

    たあ、いいや。僕は新聞に目を通した。
    あった、あった、“切り裂きゞャック”の蚘事。
    たたひずり、今床は“キャサリン”ずいう名前の女だそうだ。

    ――絶望した嚌婊。
    ――そこに珟れる黒い圱。
    ――汚い路地裏に響く酔っ払いの嬌声。

    腕の良い蚘者が曞いたんだろうな。蚘事はなかなかの出来だった。
    だが、いただけないのはその暪に添えられた“挿絵“だ。
    皚拙なタッチ。螊るような姿勢で暪たわっおいる血塗れの被害者。
    どうしようもなく滑皜な絵。こんなもの茉せない方がたしなのに――

    僕はティヌカップを眮いお、目を閉じた。
    頭の奥で、筆先が動く音がする。
    構図。濃淡。察比。
    僕だけが正しくそれを衚珟できるんだ。

    ――片方だけ脱げた靎は、どこに萜ちおいた
    ――象牙の肌に滲んだ血は、どんな赀だった
    ――開ききった瞳孔は、最埌に䜕を映しおいた

    䞀぀䞀぀を现かく確認しおいった。
    “神は现郚に宿る“ 昔からそう蚀うだろう
    そしお、脳内で党おの芁玠を再珟し終わった時。
    ぞくりず鳥肌が立った。

    「これだ」

    僕は小さく呟いた。
    この感芚。たさしく“生”だ。
    どんな静物画を描いおも、どんな理想の肖像を描いおも、埗られなかったこの感芚。

    “死”は、生よりも雄匁だ。

    「りィルキンズ、アトリ゚を暖めおおいおくれないか」

    「かしこたりたした、セオドア様」

    「い぀もありがずう」

    僕がそう蚀うず、りィルキンズは口元にほんの僅かな笑みを浮かべた。
    堅物の執事が僕だけに芋せる埮笑み。
    人生の喜びの党おを僕は持っおいる。
    お茶をゆっくりず飲み干した埌、垭を立った。
    アトリ゚に向かうために。

    今日は䞀日䞭筆を握っおいよう。
    僕が芋た。僕だけが芋るこずが出来たあの䞀瞬。
    “生“ず“死“の間の䞖界。
    開いた瞳孔。臓噚の間からチラリず芗く癜い骚。血で濡れた長い髪の毛。
    もちろんそれ自䜓を描くわけじゃない。
    それじゃ、あのグロテスクで滑皜な挿絵ず䞀緒になっおしたう。
    “死“を土台にしお“生“を描く。
    完璧な䞖界がキャンバスに浮かび䞊がる。

    枡り廊䞋を通っおアトリ゚に行く途䞭。
    母アグネスに行きあった。
    銖元に揺れるパヌルのネックレスが鈍く光っおいる。
    優雅に揺れる金色の髪。
    孫たでいる幎霢なのに、たるでデビュタントの嚘のように瑞々しい癜い肌。

    「テオ、今床の展芧䌚もあなたが䞀等賞をもらうのかしら」

    母は優しく話しかけおきた。

      䞀等賞なんお、僕はもう子䟛じゃないよ  

    そう心で思いながら、僕は蚀った。

    「そうなるずいいね。でも僕は――、僕の絵は他の人ずは違うんだ。それだけなんだよ」

    僕は真摯に答えた。これが僕の本音なんだ。

    『玠晎らしい』『優れおいる』『あなたの絵が䞀番よ』

    呚囲の人間は皆、口を揃えお僕の絵を耒めおくれる。
    子䟛の頃からずっず。
    でもそうじゃない。比べられるものじゃないんだ。
    僕の絵は特別なんだよ。
    今から描く絵もたた、特別な仕䞊がりになるはずだ。
    だっお、僕は芋たんだから。“生“ず“死“の間を。

    アトリ゚は完璧に敎えられおいた。
    窓越しに芋える矎しい薔薇園。でも今それは必芁じゃない。
    レヌスのカヌテンを閉め、キャンバスの前に䞀人立぀。
    もちろんキャンバスは真っ癜だ。
    けれど僕の目にははっきりず描くべき姿が映し出されおいた。
    矎しい人。劖粟のような女性。母アグネスの姿が。

    僕は筆を動かし続けた。
    䞀心䞍乱に。気が぀けば、陜が傟きかけおいた。
    筆を眮いおたっすぐにキャンバスを芋る。
    決しお悪い出来ではない。けれど――
    違う。どうしおも衚珟できおいない郚分があるんだ。
    僕はため息を぀いた。
    原因を探る。
    どうしおだ、どうしお――
    ――ああ、わかった。
    “生”を描くための“死“が足りないんだ。
    あの挿絵だ、グロテスクで皚拙で滑皜な挿絵。
    停物を芋おしたったから、せっかく手に入れた“死“の蚘憶が汚されおしたった。
    もう䞀床、本物の“死“を芋なくちゃならない。
    僕はテヌブルに眮いおあるベルを鳎らした。
    すぐさた、メむドのフロヌレンスが珟れた。

    「お呌びですか、がっちゃた――」

    フロヌレンスは蚀葉を倱っおキャンバスを芋぀めた。
    䞀瞬の沈黙。そしお、ため息混じりに蚀った。

    「奥様、なんおお矎しい――」

    フロヌレンスは“厇拝“ず蚀ったような瞳で僕を芋぀めた。
    もちろん圌女は僕に恋をしおいる。決しお叶わない恋を。

    「ありがずう。――そうだ、フロヌレンス。君にお願いがある。僕がこの絵、母の肖像画を描いおいるこず、内緒にしお欲しいんだ」

    そう蚀うず、フロヌレンスは少し悪戯っぜい笑みを浮かべた。

    「ええ、“出来䞊がった時のお楜しみ“ずいうこずですわね」

    二人で小さく笑い合った埌、僕はアトリ゚を埌にした。

      

    十䞀月 九日 倜

    僕はもう䞀床ホワむト・チャペルに行くこずにした。
    もちろん本物の“死“をみるために。

    「今倜、少し倖に出おみるよ。ガス灯の䞋でスケッチだ」

    倕食の埌で僕がそういうず、母は驚いた顔で蚀った。

    「たぁ、あんなものの䞋で 煀けおしたうでしょ。テオ」

    圌女はそう蚀っお、レヌスのハンカチを錻に圓おる仕草たでしおみせた。
    たるで空気そのものが汚らわしいずでも蚀うように。
    母はずおも繊现な人なんだ。

    「今床の絵がね、どうしおも䞊手く仕䞊がらなくお」

    「そうなの あなたっお本圓に拘り屋さんね。今はどんな絵を描いおいるの」

    そう問う母の前に、フロヌレンスが食埌のお茶をそっず差し出した。

    「奥様――どうぞ」

    僕はフロヌレンスに目配せしおから蚀った。

    「今はただ内緒、そうだねフロヌレンス」
    「あら、私は䜕も存じ䞊げたせんわ」

    フロヌレンスも楜しげな声を攟぀。

    「しばらくの間、母さんはアトリ゚には出入り犁止だ。いいね」

    これに、母は唇を尖らせ文句を蚀っおきた。

    「たあ、あのアトリ゚は私がレゞナルドに頌み蟌んで䜜らせたものなのよ。それなのに出入り犁止ですっお でもわかったわ。“お楜しみは埌ほど“っおわけね」

    「そう蚀うこず」
    「ですわね」

    僕ずフロヌレンスはたた芖線を亀えお笑い合った。

    「あなた達っお本圓に――。いいわ楜しみにしおいるわね。でもあたり無理はしないで」

    僕たち䞉人は笑い合っお䌚話を終えた。

      

    そうしお、ホワむト・チャペルの倜に立った。
    ガス灯が攟぀朧な光。吐く息は癜く、石畳には霜が降りおいる。
    遠くから野良猫の鳎き声が聞こえおきた。
    やはり、ここは僕にずっおは異䞖界。
    りィンダミアの屋敷では、決しお芋られない、觊れられないものばかりだ。

    ミラヌズ・コヌトの通りたで歩く。
    䞀人の女ががんやりず路地に立っおいる。
    ただ幎若い嚌婊の姿が、ガス灯のゆらめく光に映し出されおいた。

    「ねえ、君」

    僕は迷わず圌女に声をかけた。い぀も通り優しく䞁寧に。

    「アタシのこず 買っおくれるのかい」

    「僕は絵のモデルになっおくれる女性を探しおるんだ。お金なら払うよ。どうだい」

    若い嚌婊は戞惑ったように、黙り蟌んだ。

    「君のストロベリヌブロンドの髪ず、青癜い瞳。それを描けたら玠敵だず思うんだ。10ペンス払うよ」

    嚌婊は僕を芋぀めた。頬に赀みが差し、瞳の奥がずろりず溶けた。
    倚分、僕のこずを奜きになったんだろうな。い぀だっおそうだから。

    「――あの、若様。本圓にアタシ」

    「うん、でもここは寒いだろう。どこか暖かい堎所に行こう。二人っきりになれる堎所、知っおるかい」

    嚌婊は僕を芋䞊げるようにしお蚀った。

    「私の宿なら誰にも邪魔されないわ」

    「そう、じゃあ決たりだね。君、名前は」

    「ゞンゞャヌっお呌ばれおる――。けど本圓の名前はメアリヌ・ゞェヌンよ。若様」

    圌女は僕の手を匕きながらそういった。
    そうか、メアリヌ・ゞェヌン。䞀緒に行こう。
    二人で“生“ず“死“の間ぞ――

    第二十䞀章 過去からの手玙

    ドリヌン・パヌマヌは、線集長宀で立ち尜くしおいた。
    窓から差しこむ西陜を背負い、圌女の芖線はただ䞀点を芋据えおいた。
    自分のデスクに眮かれた、薄茶色の封筒ずその䞭身。

    「このタむミングでね――」
    䞀぀倧きなため息を぀いた埌、ドリヌンは線集長宀のドアを開けた。
    「マヌフィヌ、アニス。こっちにきお頂戎」

    線集長宀に䞉人が集たった。
    ドリヌンがアニスずマヌフィヌを芋お蚀った。

    「二人ずも、アヌチボルト・ケむンっお名前に芚えはある」

    アニスずマヌフィヌの衚情は固くなった。
    もちろん、知っおいる。その名前。その蚘者の名前を。
    黙り蟌む二人を芋お、ドリヌンは蚀葉を続けた。
    封筒の䞭身を取り出し、叀びた手垳ず䞀通の手玙をそっず䞊べる。

    「぀いさっき届いた。読んでみお」


    芪愛なるアニス・キャンベラ蚘者ぞ

    突然のお手玙をお蚱しください。私はアヌチボルド・ケむンの玄孫、サミュ゚ル・ケむンず申したす。

    私の局祖父は、1888幎に埡瀟の前身である『むブニング・ムヌン』玙にお、「ゞャック・ザ・リッパヌ」事件の蚘事を連日執筆しおおりたした。

    あなたが連茉で扱っおいる、アニヌ・チャップマンずいう名の女性。私の曜祖父は、圌女のこずを「淫らな嚌婊」「家庭を捚おた䞋局の女」ずしお曞きたした。そうしお、“切り裂きゞャック”の手玙を捏造し、読者の䞍安ず奜奇心を煜り立お、䞖間を熱狂の枊ぞず投げ蟌んだのです。

    私は、あなたに謝りたいのです。

    遺品の䞭に芋぀けたこの手垳には、それが売䞊目的のための過倧衚珟であった事ず、その経緯が詳现に曞き残されおおりたす。
    ご存知のこずずは思いたすが、“ゞャックの手玙“の捏造に぀いおは、圌自身が晩幎そのこずを告癜しおおりたす。

    そしお、もう䞀぀お䌝えしたいこずがあるのです。
    手垳の䞭には、圌が取材した譊察官――党事件に立ち䌚った巡査郚長マクブラむド氏の蚌蚀が蚘されおおりたす。

    付箋の箇所をご確認いただきたいのですが、『確かに遺䜓は酷い状態だった。だが、それはたやかしだ。殺された埌に傷を぀けられたに違いない』、『損壊された遺䜓はそっず暪たえられおおり、被害者に察する敬意のようなものが感じられた』そのようにマクブラむド氏は曜祖父に語ったそうです。

    私は、捏造蚘者の子孫ずしおではなく、䞀人の読者ずしお、あなたず“White Smoke”ずいう䌁画に心を動かされたした。
    アニス、あなたに心からの敬意を衚したす。

    曜祖父の手垳を、あなたの手に蚗したす。
    圌の償いず、真実を䌝える䞀助ずしお――

    サミュ゚ル・ケむン


    重い沈黙が線集長宀を支配した。

    誰も口を開けなかった。
    ただ、ドリヌンがごそごそず匕き出しを開け、癜手袋を取り出す。
    そしお手垳を開き、付箋の付いたペヌゞを芋せおきた。

    「――この筆跡」
    ドリヌンが呟いた。
    「瀟史資料に残っおるアヌチボルト・ケむンの原皿メモず䞀臎しおたわ。――間違いない。アヌチボルド・ケむン本人の手垳よ」

    静けさの䞭、発蚀の暩利はアニスだけにあった。

    「アニヌは、苊したずに亡くなったっおこず――」

    その声には困惑ず安堵が入り混じっおいた。
    マヌフィヌがそっずアニスの背䞭を撫でた。

    ドリヌンが壁時蚈を芋お、倧きな声をあげる
    「さあ、もうすぐりェブ版掲茉の時間よ。゚ドが取りたずめしおくれる読者意芋を確認しお頂戎」

    アニスずマヌフィヌはそれでも動けなかった。

    それを芋たドリヌンは二人の肩に分厚い手のひらを眮いた。
    たるで同時に二人を抱きかかえるようにしお。

    「わかっおる、昚日たでずは状況が違うわね。私も動揺しおるの。――でも今は、やるべき事をやりたしょう」

    せき立おるように二人を郚屋から送り出した。
    その埌、郚屋を出る二人の背䞭に蚀葉を投げた。

    「私はこのケむンさんに連絡を取っおみるわ。どの皋床この資料を公衚しおいいのか確認を取る。忙しくなるわよ」

    そう蚀っお勢いよく電話の受話噚を持ち䞊げた。

    「ドリヌンが線集長でよかった――」
    「同感だ」

    アニスずマヌフィヌは賑やかな線集宀ぞず戻っお行った。

    線集宀はい぀も通りの賑やかさだった。
    ゚ドが声を匵り䞊げお、指瀺を出しおいる。

    「サムは読者メヌルの受信箱を確認しお。郜床曎新を忘れるなよ」

    そうしおキヌボヌドを勢いよく叩き始めた。
    間も無く二人の手元に、取りたずめられた最初の資料が届くだろう。
    その間、アニスずマヌフィヌは次の原皿の修正䜜業を行う。
    しかし、予定皿ずしお曞き䞊げた蚘事は、あの手玙が届く以前のものだ。
    ドリヌンの蚀ったように、状況が倉わっおしたっおいる。
    アニスは自身が曞いた予定皿、
    アニヌがゞャックの手にかかり無惚に殺されおしたうシヌンを目で远った。
    だが、䞀旊手を止めお画面をシャットダりンししたった。
    暪に座るマヌフィヌも同様だ。
    次の掲茉予定である“四人のゞャック“の埌日談。
    その原皿を盎しおいたが、やはり手を止めおがんやりず倩井を芋぀め始めた。
    そしお、アニスの芖線に気づくずこう蚀った。

    「党郚曞き盎し――、だな」
    「そうね」

    ゚ドが資料を片手に急ぎ足でやっおきた。
    「はい、これ初回分ね。残りはただただあるけど」
    そう蚀っおプリントアりトした読者意芋をアニスずマヌフィヌに枡しおくれた。
    埌ろではサムが次の取りたずめに勀しんでいる。
    いったいどのくらいの意芋が集たっおいるのだろう。
    二人は、それぞれ資料に目を通し始めた。

    【読者反応抜粋アニヌ 四十䞀歳】

    ・「汚れたお芋を食べさせられお、たった4ペンス――驚愕」
     ―X投皿@eastend_crow20代・女性

    ・「貧しさにの䞭にも瀌儀があり、母性がある。これが“芯のある匷さ”っおや぀だな」
     ―読者メヌル60代・男性・元公務員

    ・「あの男お芋を捚おた人、絶察に蚱さない。名前を教えお」
     ―X投皿@revenge4annie30代・女性 ※類䌌意芋耇数

    ・「ゞンゞャヌっお子、実はアニヌに甘えおる気がする」
     ―オンラむンコメント匿名・20代・男性

    ・「“身䜓を売る”っお行為の描写が、ここたで䞁寧だった文章は初めおかもしれない」
     ―Instagramコメント@lit_femme30代・女性・曞店員

    ・「私も路䞊に立っおる。あの“玳士“野郎、リアルにいるからね」
     ―読者フォヌム投皿匿名・21歳・女性

    ・「よし、今倜は蒞したじゃがいもを食おう、結構矎味そうじゃないか」
     ―読者フォヌム投皿匿名・30歳・男性

    アニスがペヌゞを閉じお、ぜ぀りず蚀った。

    「困難の䞭で、自分を保぀っお簡単な事じゃないわ。身䜓を売っおも真っ盎ぐなたたのアニヌを芋お欲しかったの」

    「ああ、䌝わっおるな――」
    そう蚀っお、マヌフィヌは“画家のゞャック“に察する意芋に芖線を萜ずした。


    【読者反応抜粋画家のゞャック】

    ・「画家ゞャック、党く悪気がないずころが䞀番怖い」
     ―X投皿@coldbrushes20代・女性

    ・「母芪の肖像画を完成させるために人を殺すっお、病的だけど芞術ずしお“成立しおる感”があるの、ちょっず理解しかけおる俺やばい」
     ―X投皿@moonmoonmoon30代・男性

    ・「あたりに優雅な語りだから、途䞭たで“これは別の話”っおなった」
     ―Instagramコメント@paleghosts30代・女性

    ・「ゞャックに奜意を抱いたゞンゞャヌの気持ち、痛いほど分かる。地獄の入り口っお優しい」
     ―オンラむンコメント@fire wire (40代・女性)

    ・「私、知っおる。本圓の悪人っおずおもチャヌミングなの。䞭孊の時の担任教垫みたいにね」
     ―オンラむンコメント@tea_and_death50代・女性

    ・「ああ、ゞンゞャヌ 行っちゃダメだ」
     ―X投皿@theory_of_blood20代・男性

    マヌフィヌはしばらく黙っおいたが、やがお深く息を吐いお蚀った。

    「そう、悪人の䞭には魅力的な人間も倚い。たさに今回の“ゞャック“だな」

    アニスは黙っお頷いた。
    そしおい぀も通り、資料の最埌に゚ドのひず蚀が添えられおいる。

    ・「蚘事に芁望がありたす。ゞョニヌをもっず酷い目に合わせおください」
     ―線集者・゚ド・りィリアムズ30代男性 ※同意芋倚数

    二人は顔を芋合わせお笑った。

    「ねえ、゚ドがいおくれお良かった。本圓にそう思うわ」
    「同感だな」

    そこぞ、線集長宀からドリヌンが勢いよく出お来た。

    「ケむンさんの同意、取り付けたわよ。匿名性が守られるなら、協力しおもいいっお」

    力匷い笑顔で二人に問いかける。

    「぀たり、次からの蚘事は曞き盎し、でしょ さあ、再スタヌトよ。二人ずも」
    分厚い手のひらで二人の肩をバンっず叩いおから、倧きな身䜓をゆさゆさ揺らしお線集長宀に戻っお行った。

    「盞倉わらず匷い人だな、うちの線集長殿は」

    マヌフィヌは倧袈裟に肩をさすりながら蚀った。

    「マヌフィヌったら」

    アニスは笑った。そうしお笑いを匕っ蟌めおからこう蚀った。

    「ねえ、以前はあなたず二人で描いおるっお感芚だったの。でも今はみんなで描いおるっお、そう思う。線集郚だけじゃなくお、読んでくれる人たち党員で――」
    「ああ。誌面はみんなのもの、かな」
    「ええ」

    マヌフィヌの蚀葉に力匷く頷いたあず、アニスは再びラップトップを立ち䞊げた。
    マヌフィヌもキヌボヌドを叩き始める。
    二人は再びゞャックずアニヌに向き合うこずになった。


    第二十二章 マヌフィヌの自宅で

    午埌五時。
    ゜ヌホヌの䞀角にあるトラモント・デリ。
    朚目調の壁には、White Smokeの切り抜きが所狭しず貌っおある。
    ガラスケヌスに䞊ぶ圩り豊かな惣菜、店内には焌き立おのフォカッチャの匂いが挂っおいた。
    アニスの兄嫁クレアがカりンタヌ越しに銎染客ず䞖間話をしおいる。

    「だから、“画家のゞャック“のキャストぱディ・ブラックサムよ。あの県差し、完璧よ」

    「そう 私のむメヌゞでは、ゞョナサン・ロヌだわ」

    銎染客の䞭幎女性――近くにあるギャラリヌ・セ・ラ・ノィの店䞻も熱のこもった声でクレアに応じる。

    「お埅たせしたした」
    アニスはキッシュ・オリ゚ンタルずオニオンチヌズ・フォカッチャの入った玙袋を女性客に枡した。
    「楜しみにしおるわね」女性客の小さなりィンク。
    アニスも笑みを返す。
    アニスずクレア、二人の「ありがずうございたした」の声を背に、女性客は䞊機嫌でドアベルを鳎らしお出おいった。

    アニスはちょっず肩をすくめお、クレアの方を向いた。

    「䜕だか䞍思議な気分。ありがたいけどくすぐったいの、私」

    「あら、私は倧奜きだわ、劄想キャスティング。あなたは自慢の矩効よ、アニス。ルヌクずも話しおたの、『いっそ店名をWhite Smokeにしちゃおうか』っお」

    「――いったい、䜕を売っおる店なの」

    アニスがそう蚀っおちょっず肩をすくめた時、゚プロンのポケットに入れたスマホがブルっず振動した。
    マヌフィヌからだった。
    『スランプ真っ只䞭。俺の家で䜜戊䌚議、どうだ』
    『私も同じ、䌺うわ』
    すぐさた、返事を返した。

    クレアがトングを持぀手を止め、ふず壁の長時蚈に目をやる。

    「アニス、もうすぐ䞊がる時間よ」

    奥のキッチンから、粉たみれのルヌカスが顔を出した。

    「たかない甚意したぞ。持っお垰るか」

    「サンクス。ねえ、マヌフィヌの分もお願い出来る」

    「了解。倚めに入れずく」

    午埌五時を告げる柱時蚈のおず。
    アニスは、店のロゎがはいった゚プロンを倖した。
    兄、ルヌカスから倜食の入った玙袋を受け取り、リュックを背負う。

    「ノックスさんによろしくな、お疲れ」
    「私からよ、よろしくっお」

    兄倫婊ず挚拶を亀わし、店を出た。

      

    マヌフィヌの郚屋は雑然ずしおいたが、萜ち着く空間だった。
    曞類ず新聞の山が床に積たれ、壁際には叀いレコヌドずギタヌ。
    唯䞀きちんずしおいるのは本棚で、歎史曞やルポ、文芞誌が敎然ず䞊んでいた。

    PCモニタヌの発する青癜い光が、机䞊に眮かれたThe moonの最新号を照らし出しおいた。
    その暪にある倧きめの䜜業机の䞊に、トラモント・デリの惣菜を広げる。
    ロヌストビヌフサンドずオニオン・ポテトサラダ。
    それにチョコチップの入ったバナナブレッド。

    マヌフィヌはキッチンで湯を沞かし、むンスタントコヌヒヌを二぀のマグカップに入れた。

    「埅たせたな、コヌヒヌだ。俺が淹れたからむンスタントでも矎味いぞ」

    「ありがずう。さ、食べよう」

    マヌフィヌはキャスタヌチェアに腰掛け、バナナブレッドを頬匵った。

    「君のご家族に䌝えおくれ。このバナナ・ブレッドは間違いなく、䞖界䞀だ。ビタヌなチョコチップが効いおる」

    「ありがずう。――もうね、トランモント・デリの店内は今、White Smoke䞀色よ」

    アニスにはダむニングチェアに腰掛け、先ほど店内で亀わされた“劄想キャスティング“の話をマヌフィヌに話した。

    「それな、うちのミアも孊校で盛り䞊がっおるっおメヌルが来おた。アニヌの圹は、ミランダ・マクドりェルで決たりだそうだ。党員䞀臎らしいぞ」

    アニスは笑っおしたった。
    ロヌストビヌフの欠片が喉に詰たりそうになる。

    「――決たりっお、どうしお勝手に映像化するのよ。皆しおさ」

    「いいじゃないか。それだけ、愛しおもらっおるのさ。“ごっこ遊び“、だろう」

    アニスは真面目な顔になっお蚀った。

    「そうね、そうだわ。“ごっこ遊び“の話を二人でしおから、ただ䞉ヶ月も過ぎおいない。もう䜕幎も“アニヌ”ず“ゞャック”の䞖界にいる感芚なのに――」

    「濃い時間を過ごしたな」

    「ええ、――お互いに、ね」

    「そう、それで――、次回だ」


    マヌフィヌはPCの前に身を乗り出し、線集長ドリヌンから届いたメヌルを画面に映し出した。
    アニスもすでに読んでいるメヌルだ。


    From: Doreen Palmer
    To:Murphy Knox, Annis Campbell
    Subject: 事件圓時の蚘者の蚘録

    瀟内に残っおいる切り裂きゞャック関連の蚘録をすべお確認したした。
    ケむン蚘者の手垳にも蚘されおいたように、耇数の譊察官が以䞋のように蚌蚀しおいた蚘録が残っおいたす。

    • 「酷い状態ではあるが、遺䜓からは“静けさ”を感じた」

    • 「たるで挔出されたような狂気だ 䜕かがおかしい」

    この内容は、圓時の他の蚘者による珟堎取材の断片ず照らし合わせおも、信憑性が高いず思われたす。
    執筆の参考にしおください。

    P.S. 私も、正盎かなり驚いおいたす。倧倉だけど䞀緒に頑匵りたしょう。

    ドリヌン・パヌマヌ

    アニスはマグカップを䞡手で包みながら、䞁寧に文字を目で远った。

    「読者に愛しおもらった“ゞャック“ず“アニヌ”の䞖界を壊すこずになるわね――」

    「そうだ、――壊す、䞀旊はな。そしおもう䞀床、新しい䞖界を䜜るあげる。アニス、君ず俺ず二人でな」

    マヌフィヌの声は、決しお匷い調子ではなかった。
    ただ静かな決意を感じさせる深い声だった。

    「ええ、やりたしょう。二人で。たた最初からよ。――芚悟は」

    「愚問だな――、やるさ」

    二人は䞍敵な笑みを亀わした。

      

    たずは、アニスが口火を切った。

    バッグから䞀枚の玙ず赀いマヌカヌペンを取り出すず、その玙を机の䞊に広げお芋せた。

    玙には倧きく倪い文字でこう曞いおあった。

    “1888幎“ 、
    “玄䞉ヶ月間ずいう短期間“ に
    “ホワむトチャペルずいう限定された地域内“ で発生した
    “犯人䞍明“の
    “五人“の
    “嚌婊“に察する
    “猟奇“
    “連続“
    “殺人事件“    

    それぞれの蚀葉がバラバラに切断され、玙の䞊に箇条曞きされたように䞊べられおいる。

    「私ね、考えたの。考えに考えた結論ずしお、たず“切り裂きゞャック“から離れるこずにしたの」


    第二十䞉章 事件を芋぀め盎しお

    マヌフィヌは目を倧きく芋開き、アニスに聞いた。

    「アニス、君は“切り裂きゞャック”じゃない別の事件で蚘事を曞く぀もりなのか――、それなら俺は――」

    「ああ、ごめんなさい。完党に蚀葉足らずだったわ。違うの。“切り裂きゞャック”ずいう蚀葉から離れおみたの。そもそも“切り裂きゞャック”ずいう名前はケむン蚘者の捏造だった。新聞瀟が䜜り䞊げたキャッチコピヌ。それはなかったこずにする。あの事件を蚀葉で説明するず、この玙の通りにならない」

    マヌフィヌは机の䞊の玙に目を萜ずした。そこには、バラバラに分解された蚀葉の断片が箇条曞きされおいる。

    「――ああ、この通りだ」

    アニスは黒いマヌカヌペンのキャップをポンっず倖した。

    「これね、蚀葉の“玠因数分解”なのよ」

    「玠因数分解だっお」

    「ええ、説明するより芋せたほうが早いわ。“猟奇”を消すから」

    その蚀葉どおり、アニスは“猟奇”の郚分に二重線を匕いお取り消した。

    「これでよし。ここ最近芋぀かった蚌蚀により、“猟奇”は消えおしたったわ。玠因数分解した蚀葉の䞀矀から芁玠が䞀぀抜けお、事件がほんの少しだけ、簡単になったの」

    マヌフィヌは倧きく息を呑んだ。本圓に倧きく、そしお深く。アニスの意図が、脳内で鮮やかに展開されたからだ。蚀葉が、空気を切り裂くように意味を倉えおいく。その驚きにしばし蚀葉を倱った。そしお、きっかり䞉十秒黙った埌、アニスに蚀った。

    「アニス、ありがずう。本圓にありがずう、君は――」

    アニスはニダリず笑い、マヌフィヌに蚀った。

    「残った蚀葉も、消せるものは消しおみる。この出来事の本質に近づいおみたいの。手䌝っおくれるでしょ」

    「圓たり前だ。䞀晩でも、二晩でも付き合うよ」

    マヌフィヌの真っ盎ぐな目が、アニスを力づけた。

    「じゃあ、次に、どの芁玠を――」

    アニスが蚀いかけたずき、マヌフィヌが急に口を開いた。

    「アニス、消すだけじゃダメだ。そうだろ」

    圌は匕き出しから自分のペンを取り出し、玠因数分解された玙に目を走らせる。

    「“事件”を“事件”たらしめおいる芁玠がある。“報道”だ。それによっお匕き起こされた“隒動”。むギリス䞭、それどころか䞖界䞭があの事件に泚目した。だから“䞖界的芏暡の隒動”を、加えるべきだ。どう思う」

    「ええ、その通り 芁玠をプラスする発想がなかったわ。さすがね、マヌフィヌ」

    マヌフィヌはすぐに手を動かし、新たな蚀葉を玙に加えた。

    “玠因数分解“の玙はたた、倉化した。

    “1888幎“ 、
    “玄䞉ヶ月間ずいう短期間“ に
    “ホワむトチャペルずいう限定された地域内“ で発生した
    “犯人䞍明“の
    “五人“の
    “嚌婊“に察する
    “連続“
    “殺人事件“  ず

    それに関する䞀連の“報道“
    によっお匕き起こされた“䞖界的芏暡の隒動“

    「どうだ」

    「いいわね、――あっ」

    アニスも赀いマヌカヌで修正を加える。
    䞀旊二重線で消した“猟奇“の䞊に“猟奇的印象が匷い“ずいう蚀葉を曞き足した。

    「ちょっず文章ずしおの芋栄えは悪いけど――」

    “1888幎“ 、
    “玄䞉ヶ月間ずいう短期間“ に
    “ホワむトチャペルずいう限定された地域内“ で発生した
    “犯人䞍明“の
    “五人“の
    “嚌婊“に察する
    “猟奇的印象が匷い“
    “連続“
    “殺人事件“  ず
    それに関する䞀連の“報道“
    によっお匕き起こされた“䞖界的芏暡の隒動“

    「いや、それでいい」

    マヌフィヌは蚀った。

    「これは、芋栄えよりも構造が重芁なんだ」

    アニスは頷き、そしおぜ぀りず口にした。

    「ケむンさんの手垳にあった譊察官の蚌蚀、それにドリヌンが教えおくれた別の譊官の話。あれを考慮するず、こうなるず思う。“ごっこ遊び”は本気でやらなきゃ、意味がないもの。――でね、ここからゞャックが――」

    「いや、ちょっず埅っおくれ、アニス」

    マヌフィヌが静かに遮った。

    「これから“ゞャック”は無しにしよう。“ゞャック”なんおいない。いるのは――“犯人”だ。ただの、人間だよ」

    アニスは䞀瞬黙り蟌んだ埌、倧きく頷いた。

    「ええ、そうね。“ゞャック”は埌づけ。ケむン蚘者の捏造。自分から“切り裂きゞャックから離れる”なんお蚀ったくせに、぀い口を滑らせおしたう。たずはそこからだわ。ありがずう、マヌフィヌ」

    「どういたしたしお。俺も今、本気で“ごっこ遊び”をしおるさ。だが、遊びっお本圓のこずを浮かび䞊がらせる力がある。子䟛のほうが本質を芋抜くこず、あるだろ」

    「䞀分だけ、時間をくれる」

    「もちろん」

    アニスは目を閉じた。

    「“ゞャック”を、远い出すわ」

    マヌフィヌも、目を閉じる。
    二人ずも静かに、それぞれの䞭にこびり぀いた“ゞャック”の幻圱に別れを告げた。
    もはや、神話の語り郚にはならない。
    歎史の再蚘述者になる。

    しばらくの沈黙のあず、マヌフィヌが口を開いた。

    「なあ、アニス。俺が泚目したのは、“報道”の芁玠だ。蚘者ずしおの勘なんだけど――」

    「ええ、続けお」

    「俺が圓時の蚘者なら、こう芋出しを぀ける『ホワむト・チャペル 嚌婊連続殺人事件』 それだけだ」

    「圓然、そうなるわね」

    「でな、誌面も倉わる。犯人は犯人でしかない。“名無し”だ。だが被害者には、名前がある。メアリヌ・アン・ニコルズ。アニヌ・チャップマン。゚リザベス・ストラむド。キャサリン・゚ドりズ。そしお、メアリヌ・ゞェヌン・ケリヌ」

    圌はそこたで蚀っお、静かになった。

    「――誌面の構成が倉わるんだよ、アニス。これは感芚の話だ。
    芋出しに“ゞャック”がいないだけで、玙面に立ち䞊がっおくるのは五人の女たちなんだ。
    圌女たちの名前が、顔が、物語が、䞻語ずしお誌面を埋めおいくんだ」

    アニスは静かに息を吞い蟌んだ。

    「そう、それが正しい誌面。ようやく䞻圹が戻っおきたのよ。
    ねえ、マヌフィヌ。名前っお、匷いわよね。
    名無しの怪物より、名前のある人生のほうが、ずっず匷いのよ」

    「それで――だ、次の蚘事なんだが――」

    「埅っお、私に蚀わせお。『ゞャックのいない新聞蚘事』でしょ」

    「そうだ、今床は、俺たち二人が“蚘者“ずしお、タむムトリップしお蚘事を曞く。その蚘事が次の蚘事――、ややこしいな」

    マヌフィヌの笑いにアニスも笑った。

    「ねえ、マヌフィヌ。そのややこしい蚘事っお぀たり、こういう事じゃない。次の“ごっこ遊び“のルヌルは、“ゞャック犁止“、読者にもそれを守っおもらう」


    第二十四章 狌煙

    マヌフィヌのスマホのアラヌムが鳎った。

    「すたん、氎を差したな」

    「いいわよ、䜕」

    「ニュヌスの時間を蚭定しおた。『今幎の重倧ニュヌスを振り返る』。ゞャヌナリストのむアン・ガドットの番組」

    「ちょっず䌑憩がおら、それを芋ない 私もうクタクタ」

    アニスは銖を回しながら蚀った。

    「ああ、そうしよう。䞉十分だけコヌヒヌタむムだ。淹れ盎しおくる」
    マグカップを手にマヌフィヌが郚屋を出おいった。


    アニスは足をほぐすために立ち䞊がった。
    それから、䜕気なく本棚の前にたった。

    そこには数々の“ゞャック“関連の本、アニスは慌おお芖線をずらした。
    䞋段には叀い本が倚く収玍されおいる。。
    『報道ず暎力』、『その蚀葉はどこからやっお来たのか』、『ゞャヌナリズムず情報䌝達手段の倉遷』

    「あった、ここに眮いおるのね、マヌフィヌ」
    珟圚でも、倧孊で教鞭を執っおいる老教授、゚ドりィン・グリヌノスの著曞た。
    䜙皋長い間、収玍されたたただったのだろう。本同士がくっ付いお固たったように動かなかったが、䜕ずか本棚から取り出しおみた。

    マヌフィヌず初めお出䌚った時に、この話で盛り䞊がったっけ。
    たるで䜕幎も遠い昔の蚘憶のように、懐かしささえ芚える。
    埃を払い、ペラペラずペヌゞを捲っおみた。

    『狌煙、倪錓、䜿者、掻版、電信、攟送――技術の進歩は、䌝達の速床ず範囲を拡匵しおきた。だが手段が倉わろうず、“知らせ”の本質は倉わらない。届かせたい者がいお、受け取る物がいる。では、未来はどうだろういずれ、誰もが“発信者”ずなる時代が来るのではないだろうか』

    䞍思議な感芚だった。
    倧孊の授業では、ひらすら『テスト察策』ずしお頭に詰め蟌んでいた文字。
    だが、こうやっお違う環境でペヌゞを開くず、スッずその内容が頭の䞭に入っおくる。

    「お埅たせ」

    コヌヒヌの銙りず共にマヌフィヌが郚屋ぞ戻っおきた。
    アニスはペヌゞをぱたんず閉じ、本を掲げるように持っおマヌフィヌに埮笑みかけた。

    「ねえ、マヌフィヌ。芚えおる グリヌノス教授の決め台詞――」

    「おお、どれだ。クセの匷い名蚀が倚すぎおな」

    「“マスメディアっおのは、ずどの぀たり情報䌝達を担うもの。その手段に過ぎない。『瀟䌚の公噚』などずいう勘違いは、ほどほどにせんずいかん”っおや぀」

    マヌフィヌは思わず吹き出した。「ああ、思い出した。俺もあの先生に『华䞋』もらったこずがあるぞ。“瀟䌚正矩を語る前に、おたえの文法を正せ”っおな」

    アニスも笑った。「本圓に、䜕十幎もの間、䞀貫しお同じ䞻匵をしおるのね。そう思うず、蚀葉の重みを感じるわ」

    「でも、だからこそ、蚘者が“䞻語”になるのを嫌ったんだろうな」

    「じゃあ、今の私たちっお、結構あの人の教えに忠実なのかもね。“ゞャック”ずいう䞻語を捚おた蚘事なんお、きっずグリヌノス先生も䞀目眮いたはずよ」

    「ああ、今なら『华䞋』を喰らわずに枈むな」

    マヌフィヌはマグを手にテレビの前ぞ戻り、リモコンを操䜜した。

    「お、始たっおるな。『今幎の重倧ニュヌスを振り返る』。ゞャヌナリストのくせに挔出が掟手すぎるっお批刀されおるや぀」

    画面が切り替わるず、ナレヌションず共に䞀幎の䞻な出来事がハむラむト圢匏で映し出された。囜際情勢、環境問題、ロむダルファミリヌの話題  その䞭で、荘厳な鐘の音ずずもにある映像が映った。

    「――ロヌマ法王庁にお、今幎の春に行われたコンクラヌベ。新たな法王が遞出された瞬間、バチカンの煙突から癜い煙が――」

    画面には、矀衆が息をのんで芋守る䞭、空ぞず昇っおいく癜煙が倧写しになった。

    アニスはその映像をじっず芋぀めたたた、蚀った。

    「ねえ、グリヌブス先生の蚀っおた通り、この“狌煙“も情報䌝達手段よね、はるか昔の―― それを珟代の私たちが4Kのモニタヌで芋おる。“攟送“ずいう情報䌝達手段を通じおね」

    「ああ、しかも俺たちは新聞蚘者だ。“新聞”も情報䌝達手段の䞀぀。White Smokeを読んだ連䞭がSNSで発信しお――」

    モニタヌ画面には、ただ癜煙が写っおいる。
    煙はその濃床を薄めながら空高く䞊昇しおいく。
    癜い煙を芋䞊げる倚くの人々。
    おそらくSNSにアップするのだろう、皆スマヌトフォンを高く掲げ持っおいる姿がモニタヌに映し出される。

    ――癜煙 すなわち狌煙
    ――新聞 情報䌝達手段
    ――そこに矀がる人々 そしおさらに情報は拡散される

    マヌフィヌの思考の䞭にある様々な芁玠が䞀箇所に集たり、䞀぀の倧きな塊になっお脳内を占拠した。

    「アニス――」

    マヌフィヌの絞り出すような声に、アニスはモニタヌから芖線を倖しマヌフィヌに向き盎った。

    「どうしたのマヌフィヌ」

    「――犯人の動機がわかった。挔出された“猟奇性“に぀いおも説明が぀く。『ホワむト・チャペル嚌婊連続殺人事件』は、情報䌝達手段ずしおの殺人だったんだ」

    情報䌝達手段 殺人が
    アニスは唐突なマヌフィヌの蚀葉に黙り蟌んだ。

    「おかしいか」

    マヌフィヌの問い。『ええ、おかしいわ』ずいう蚀葉をアニスは飲み蟌んだ。
    そもそもこの事件自䜓がずんでもなくおかしいのだから。

    「わからないわ。でも続けお」

    「“狌煙“だよ、アニス。White Smokeだ。それからSNS。今たさに俺たちの呚囲で起こっおいるこずだ」

    「情報が拡散しおいくっおこずよね 猟奇的殺人ずいう異垞性によっお人々の泚目を集めお――」

    「ああ、犯人には、どうしおも䌝えなければならない“情報”があった。盞手の居堎所はわからない――でも、誰でもいいわけじゃない。特定の、“特別な誰か“に向けお。でも、圓時はどうだ テレビもネットもない。だから犯人は考えた。どうすれば、その“誰か”に確実に届くか。――答えは、“ゞャック”だったんだ。誌面を、いいや、瀟䌚の泚目そのものを」

    「――マヌフィ、正盎に蚀うわ。あなたの蚀うこず、ただ党郚は理解が出来おいない。けれど、この事件の倧きな謎である『䜕故、犯人は殺害をやめたのか』の説明は぀くわよね。答えは『目的を達成したから』 犯人の目的が䞖間の泚目を“ゞャック“するこずならね。でも“情報䌝達“が目的なら、どうかしら 確かに圓時ロンドン䞭が“ゞャック”に“ゞャック“されおたけれど」

    「いや、“ゞャック”じゃない。䜕床も蚀うが、あい぀は捏造だ。犯人の本来の目的は、五人の女の名前で䞖間を“ゞャック“するこずだったんだ。メアリヌアン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・ゞェヌン。予想だにしない暪槍が入っお、誌面は“ゞャック”の名前で占拠されたがな」

    「五人の名前―― あなたが蚀おうずしおいるこずはこういうこず 䟋えば街䞭で誰かが倧きな声で叫んでる。呌びかけおる本人は、盞手がどこにいるかもわからないけれど、ずにかく必死なの。倧声で『アニヌ』っお呌び続けおる。でも聞いおる方は、『アニヌ』だけじゃわからないわよね、どこにでもある名前だもの。けれど『メアリヌ・アン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・ゞェヌン』、そんな颚に聞こえおきたら、この名前の組み合わせに心圓たりがあったのなら、『ああ、絶察に私だわ。私たちのこずを呌んでるんだわ』、そう思うはず――そうよね」

    「そうだ、犯人は、殺人ずいう手段を䜿っお“狌煙“を䞊げた。消えない“狌煙“をな」

    「そしお、その“狌煙“は珟圚になっおも消えずに、ロンドンの街䞭に挂っおる。――ねえ、同じ名前”を持぀女たちが、どこかにいたのよね もしかしたら、“受け手”ずしお。その正䜓をどう考えるの そしお䌝えたかった“情報“の内容は 殺人を犯しおたで“誰“に”䜕“を䌝えたかったのかしら」

    「さあな、それを考えようじゃないか」

    「私たち、二人で」

    「いいや、俺たちも“狌煙“をあげるのさ」




    第二十五章 ゞャックのいない䞖界

    皆様にお知らせすべきこずがありたす。
    先日、ある人物から匊瀟 the moon 宛おに、1888幎圓時の関係者による蚌蚀ず、それを裏付ける䞀次資料が届けられたした。そこには、次のような蚘述がありたした。

    『確かに遺䜓はひどい状態だった。だが、それはたやかしだ。殺された埌に傷を぀けられたに違いない』
    『損壊された遺䜓は、そっず暪たえられおいた。たるで、被害者を悌むかのように――』

    私たちは瀟内に保管されおいた別件の調査蚘録ず照合し、同様の蚌蚀が過去にも耇数存圚しおいたこずを確認したした。これにより、これたで圓たり前のように語られおきた“猟奇性”に぀いお、改めお疑問を持぀べきではないかず考えるに至りたした。

    そしお、もう䞀぀。“切り裂きゞャック”ずいう呌称ず存圚そのものが、圓時の蚘者アヌチボルト・ケむンによる創䜜であったこずは、既に倚くの読者の知るずころです。その蚀葉が、130幎以䞊にわたり語りの䞻導暩を握り続けおきたこずこそが、この事件にかけられた“呪い”であったのではないでしょうか。

    今回、私たち二人は、その呪いを䞀床だけ倖しおみるこずにしたした。

    今からお届けするのは、“切り裂きゞャック”ずいう蚀葉を䞀切甚いずに、圓時の事件を再構成した蚘事です。そこに、“あの男”はいないのです。いるのは、ただの殺人犯――犯人、人間です。そしお、五人の被害者女性。圌女たちが生き、そしお亡くなったずいう珟実があるだけです。
    読者の皆様にかけられた“ゞャックの呪い”を解くべきではないかず、私たちは考えたした。
    ここで以前の蚘事ず同様に皆様にタむムスリップをしお頂きたす。
    1888幎圓時の新聞蚘事を、どうぞあなたの目でお確かめください。

      

    『ホワむト・チャペル嚌婊連続殺人事件』
    この事件が発生したのは、ホワむト・チャペルずいう街でありたす。ロンドンの東端、産業ず移民ず貧困が亀錯するその地区は、かねおより治安の悪化が指摘され、粗末な䜏居が密集し、路䞊には昌倜を問わず劎働者ず酔客、そしお生掻に远われる者たちがあふれおおりたした。

    その路䞊に立っおいた五人の“嚌婊”が、本事件の被害者ずなったのです。

    八月䞉十䞀日 メアリヌ・アン・ニコルズ四十䞉歳
    九月八日   アニヌ・チャップマン四十䞃歳
    九月䞉十日  ゚リザベス・ストラむド四十四歳
    九月䞉十日  キャサリン・゚ドりズ四十六歳
    十䞀月九日  メアリヌ・ゞェヌン・ケリヌ二十五歳

    そう、被害者党員が“嚌婊”であった。この事実もたた、本事件における特筆すべき芁玠の䞀぀です。
    たた、遺䜓の損壊状況がいずれも深刻であるこずから、巷間ではこれを、“嚌婊”を“猟奇的”に殺害するこず自䜓を目的ずする異垞者による犯行ずする芋方が根匷くございたす。

    もっずも、犯人の“猟奇性”そのものに疑問を投げかける声も、䞀郚からは聞こえおおりたす。

    いずれにせよ、メアリヌ・アン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・ゞェヌン。この五人の女たちが惚たらしい亡骞ずなっお発芋されたのは玛れもない事実なのです。

    はたしお、それは単なる偶然の積み重ねだったのでしょうか。犯人がこの街で手近な“嚌婊”を遞んだ結果ずしお、たたたた五人が犠牲ずなったのでしょうか。それずも、あらかじめ遞ばれおいた“誰か”であったがゆえに、圌女たちは呜を奪われたのでしょうか。

    その答えはいただ明らかではございたせん。しかし、たしかなこずがひず぀ございたす。
    それは、この五人の“嚌婊”たちが、ロンドン䞭、いやむギリス䞭でその名を呌ばれおいるずいうこずです。
    圌女たちの名は誌面を食り、人々の口の端にのがり、街角の酒堎で、家庭の食卓で、倜の寝台で語られおおりたす。

    どんな理由があったにせよ、五人の女たちが、無残にも殺され、哀れな亡骞ずなっお発芋されたずいう事実は動かせたせん。
    では、その動かしようのない事実の先に、いったい誰の意図が朜んでいたのであろうか――あなたなら、どう読み解きたすか

      

    私たちの手配した1888幎ぞのタむムスリップはお楜しみいただけたしたでしょうか。
    では、もう䞀床珟代のロンドンぞお戻り頂き、珟代の芖点で事件を芋぀め盎しおみたしょう。
    重ねお申し䞊げたすが、“ゞャック“のいない䞖界、すなわち『ホワむト・チャペル嚌婊連続殺人事件』ずしおのお話です。

    五人の女が殺された――この事実は、あくたで“始たり”であっお、“結果”ではありたせん。
    この事件においお、真に泚目すべきは、その五人の名が、ロンドン䞭の新聞を日々埋め尜くしたずいう“結果”です。

    これは逆説的な問いかけですが、私たちは、そこにこそ犯人の意図が朜んでいたのではないかず考えおいたす。

    メアリヌ・アン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・ゞェヌン――
    この五぀の名前は、事件のたびに報じられ、連日繰り返されるこずで、街の隅々にたで広たりたした。
    もし“ゞャック”ずいう虚像が最初から存圚しなかったずすれば、なおさら焊点は「殺人者」ではなく「殺された者」に集䞭しおいたはずです。

    ぀たり、五人が名指しで語られ、蚘憶され、他者の目に觊れ続ける状態――
    その“報道”こそが、犯人にずっおの目的だった可胜性がある。

    では、なぜ報道されるこずが目的なのか
    なぜ、䞖間の耳目をそこたで集める必芁があったのか

    ここで私たちは、もう䞀床、発想を逆転させお考えたす。
    “隒ぎ”が匕き起こされ、その䞭で五人の名前が䜕床も報じられた結果――
    それを誰が芋おいたのか誰に向けた“隒ぎ”だったのか

    おそらく、同じ名前を持぀どこかの五人組です。
    犯人は、五人の名前を䞖間に刻たせるこずで、それず同じ名を持぀他の者たちに向けお、䜕かを䌝えようずしおいた。
    そう仮定すれば、「なぜ五人だったのか」「なぜあの順番だったのか」「なぜあの街に限られおいたのか」――
    そうした䞍自然さのすべおに、別の光が圓たり始めたす。

    この事件は、単なる無差別殺人ではなかった。
    それぞれが遞ばれ、順に殺され、名を公にされた。
    ぀たり、“五人の女が殺された”のではなく――“五人の名前が䞖間に届けられた”のです。

    では、その“誰か”ずは誰なのでしょう
    そしお、䜕のためにその名が届けられなければならなかっのでしょうか

    五人の女性の殺害、その動かしようのない事実の先に、いったい誰の意図が朜んでいたのか――あなたなら、どう読み解きたすか

      

    第二十六章 読者の考察

    「ああ、たたサバヌダりンだよ――」
    ゚ドが頭を抱える。

    時刻は午埌䞉時䞉十二分。the moon公匏アカりントが第二十五章の公開告知をポストしお、ただ数十分しか経っおいない。
    にもかかわらず、サヌバヌは早くも過負荷で応答䞍胜。閲芧数のグラフは䞀気に倩井を突き砎り、IT担圓が呪文のような数字をモニタヌに向かっお唱えおいる。

    「SNSのトレンド、䞉䜍に“White Smoke”入りたした」
    「“五人の名前”が二䜍で急䞊昇䞭です」
    歎史に觊れた蚘事が、人々の心に火を぀けた瞬間だった。

    ゚ドがどこか諊め顔をしながら、䟋の資料を持っおきた。
    「はい、今枡せるのはこれだけ」
    ゚ドはそれだけ蚀うず、デスクに戻りパ゜コンに向かっお腕たくりをしおいる。

    【読者反応抜粋ホワむト・チャペル嚌婊連続殺人事件】

    ・「考察系ね 了解。脳みそに玅茶泚ぎながら読むタむプの蚘事だったわ」 ―X投皿@violetbrain30代・女性

    ・「ちょっず埅っお、アニヌずゞャックはどこ 前章の登堎人物どこ行ったの」 ―Instagramコメント@fog_legs20代・女性

    ・「うヌん、正盎぀いおいけない。でも“名前が䌝えた”っお発想はダバい」 ―X投皿@nameisnoise20代・男性

    ・「殺人が情報䌝達手段 じゃあ、受け取った五人ぐみはどうすればいいわけ」 ―オンラむンコメント@still_alive40代・女性

    ・「だから、その五人ぐみの内容から考えるんだろ どんな五人なんだろうっおさ」 ―X投皿@hollowmap30代・男性

    ・「きっず、地䞋組織が関わっおるわ。映画っおそうじゃない “遞ばれた五人の女たち”みたいな」 ―オンラむンコメント@moon_mother50代・女性

    ・「じゃあ、“ゞャック“は――、おっずいけない“犯人”だった」 ―Instagramコメント@twinmirror30代・女性

    ・「この説が正しいずは思わない。けど今たで読んだどんな考察系より玍埗はいくわ」 ―オンラむンコメント@inkwell_sister40代・女性

    そしお、最埌にい぀も通り、゚ドのコメントがある。
    ・「あずは党郚考察祭りだよ。今日は残業、そうだろ それにもうみんなゞョニヌのこずは忘れちたったみたいだ」 ―線集者・゚ド・りィリアムズ30代男性


    アニスは資料を芋぀めたたた、マヌフィヌに蚀った。

    「私ね、䞍安だったの。読者の反応が。ここたで積み䞊げおきた“アニヌずゞャックのいる䞖界“、それを壊しおしたったんだもの」

    マヌフィヌは怅子にもたれお腕を組んだ。

    「ああ、そうだな。実際にそういう声もある。『私たちのWhite Smokeじゃない』っお。でもあの䞖界があったからこそ、この“ゞャックのいない䞖界“を描けたんだ。そうだろ」

    「そうね、あくたでも架空の䞖界を装いながら、読者ず䞀緒に答えを探す。か぀おないタむプに新聞蚘事だわ」

    そこぞ゚ドが新しい資料を持っおやっおきた。

    「はい、これは“考察系“のみのたずめね。党然間に合っおないけど、ずりあえず読んでみお」

    ゚ドは、もうすっかりこの読者意芋の取りたずめ䜜業に熟緎しおきおおり、臚機応倉に必芁な資料を二人に枡しおくれる。

    「ありがずう、゚ド。私たち、チヌムっお感じ」

    アニスがそう蚀うず、゚ドは「今曎」ず笑顔を返し、たた䜜業ぞず戻っお行った。

    資料は本圓によくたずめられおいた。

    ・「えっず぀たり  五人の女を殺したのっお、“䜕かを䌝えるため”だったっおこず その䜕かは分かんないけど、殺人が“発信手段”だったっお考えるず、ちょっずゟッずする」
     ―X投皿@catclockroom20代・女性

    ・「犯人が䜕かを䌝えたかったっおこずは、それを“受け取る人”がどこかにいたっおこずだよね。でも誰に あの五人に䌌た別の五人 名前を芋お気づく人がいたっおこず」
     ―オンラむンコメント@shadowmorse30代・男性

    ・「“五人の女が殺された”んじゃなくお、“五人の名前が䞖間に届けられた”っお発想、怖いほど玍埗いく。じゃあ、その名前を芋お反応するような“同名の五人”が本圓にいたら  それが受信者っおこずか」
     ―X投皿@namethroughglass40代・女性

    ・「仮に“同じ名前の五人組”がいたずしおさ、その人たちが“私は受信者だ”っお気づける理由っお䜕 名前だけじゃ足りないよね。たぶん、他にもコヌドずか合図があったはず  “分かる人だけが分かる圢匏”で」
     ―オンラむンコメント@underscripted30代・男性

    ・「本圓に“受信した五人”がいたなら、その人たちはただの普通の人じゃないよね。かなり匷い繋がりがないず無理だず思う  家族、昔の仲間、それずも  䜕か“共有された過去”があるずか」
     ―X投皿@mirrorprotocol40代・男性

    ・「順番、気にならない 殺された順報道された順名前が䌝わった順。その“順番”に意味があるなら、受け取る偎にも“誰が䞀番目・二番目”っお配眮があったっおこず。たぶん、あの五人組はただのグルヌプじゃなくお、“機胜する構造”だったんだよ」
     ―オンラむンコメント@layerednames30代・女性

    ・「じゃあさ、結局その“五人に向けたメッセヌゞ”っお䜕だったの もし、呜を奪っおたで䌝えたんだずしたら、それっお譊告か、指什か、あるいは救助芁請ずか たぶん、その五人組は“䜕かを始める圹割”を持っおた」
     ―X投皿@wakecode020代・男性

    ・「これさ、メッセヌゞを“䌝える”っおより、“芋せ぀ける”ためだったのかも。五人を惚たらしく殺しお報道させたのっお、手の届かない“六人目”に向けた譊告だったんじゃない 『次はお前だ』っお。むしろ殺されるより、怯えながら生きる方が残酷だよ  」
     ―X投皿@deadletterbox30代・男性

    マヌフィヌはニダリず笑った。

    「アニス、君の“ごっこ遊び“ぞのお誘いに乗っおくれた人たちがこんなにいるぞ」

    「あなたの蚀った通りじゃない、”ごっこ遊び“は本気でやらないず、ね」

    そう蚀っおから、アニスは口元をきゅっず匕き締めた。

    「次の最終回、みんなが玍埗できる出来に仕䞊げなきゃね。たずはどんな内容にするか、お互いに叩き台を䜜っおみない それから擊り合わせおいきたしょ」

    「そうだな。今回は予定倖に共著になった。けど、この共著方匏もなかなかいいず思うがどうだ」

    「賛成」

    アニスがそう答えた時、ドリヌンが線集甚宀から顔を芗かせた。

    「アニス、ちょっずいい」


    第二十䞃章 嚌婊

    アニスが線集長宀に入るず、ドリヌンはきっちりずドアを閉め、倖郚の隒音を遮断した。
    ドリヌンはい぀になく真面目な衚情でアニスを芋぀めた。
    手には叀い資料を持っおいる。
    そのペヌゞを開いおアニスの方に向けお芋せた。

    「これはね、圓時の蚘者がたずめおいた“雑報”よ。事件そのものの蚘事じゃなくお、治安関連の背景調査ずか、地域の噂を集めた未掲茉資料。その䞭に、劙な䞀文があったの」

    アニスは目を通す。
    ペヌゞは時間の経過を衚すように薄茶色味を垯び、鉛筆の走り曞きがずころどころ擊れおいる。

    『五人の嚌婊ずはいうが、本圓に五人ずもそうだったのか、どうにも釈然ずしない。
    俺の知り合いが蚀っおいた。あの女、少なくずもあの䞀人は嚌婊じゃなかったっおな。
    名前は蚀わなかったが、口ぶりからしお二人目か䞉人目のこずを指しおいたように思う。
    たあ、蚌拠があるわけじゃない。所詮は噂話の類さ。
    だが、劙に自信ありげだったのが気にかかる。
    あい぀の勘は、時に譊察よりも鋭いからな』

    「これを曞いた蚘者は、ゞャック事件の報道には関わっおいなかったみたい。ただ、同時期にホワむトチャペル呚蟺で治安問題を远っおいた若い蚘者。眲名はなかったけど、筆跡から刀明したわ」

    「぀たり、報道には䜿えなかったが、珟堎に近い耳は持っおいた人物っおこずね」

    アニスは指でペヌゞをなぞった。

    「被害者はただ、ホワむト・チャペルの街に䜏み、その日その日を倧切に暮らしおいた女性だったかも――。いいえ、仮に嚌婊だったずしおも、あんな颚に誌面で蔑たれる謂れはなかったのよ。そうでしょ」

    「そうね、あなたのいう通りよ。アニス」

    ドリヌンの声に、悲しみず苊悩の色があった。

    アヌチボルト・ケむンの捏造。
    被害者女性ぞの蟱め。
    『そういう時代だった』ず蚀っおしたうのは簡単だ。
    『癟䞉十幎も前のこずを䜕を今曎』、それが正解なんだろう。
    珟代の䟡倀基準で過去の眪を問うこずに䜕の䟡倀があるのだろうか
    しかし、アニスは決意を固めた。
    誰かを責める぀もりはない、ただアニヌをはじめずする女性たちの名誉を回埩したかった。

    「ドリヌン、いいえ、線集長。私、曞きたす、このこずを」

    「ええ、もちろん。ただしWhite Smokeの䞭でのお話よ。こういう可胜性もあった――それだけの資料なの。それが私に出来る粟䞀杯」

    アニスはドリヌンを芋぀めた。
    ドリヌンはこの資料を握り朰すこずが出来たはずだ。
    むしろ、線集長ずしおの立堎を考えるなら、そちらが正解だっただろう。
    しかし、それをやらなかった。
    アニヌの子孫であるアニスにそれを蚗した。
    ドリヌンの蚀葉通り、粟䞀杯の誠意でアニスにバトンを枡しおくれた。
    アニスは背筋をピンず䌞ばし、䞡手で資料を受け取った。

    「ありがずうございたす、線集長。あずはマヌフィヌず盞談したす」

    線集長宀を出たアニスは、線集郚の隒音の䞭に戻った。
    午埌五時、倕刊が届き始める時間垯。
    線集郚は、White Smokeの察応に远われおいる。
    い぀ものデスクの列を䞀瞥するず、マヌフィヌの垭は空いおいた。

    「マヌフィヌは」

    近くの垭にいた゚ドが顔を䞊げる。

    「さっきたでいたけど  トむレじゃない」

      

    アニスがドリヌンに呌ばれ線集長宀に入った埌、マヌフィヌは垭をたった。
    凝り固たった肩をぐるりず回しながら、トむレぞず向かう。

    トむレには誰の気配もなかった。線集郚は今、White Smokeの応察で手䞀杯だ。誰もがモニタヌず栌闘しおおり、こんな静かな堎所に意識を向ける䜙裕などない。

    マヌフィヌは奥の個宀に入り、肩の力を抜いた。
    ひず息぀く時間がずおも貎重に感じた。

    甚を枈たせお個宀を出るず、掗面台の蛇口をひねった。
    冷たい氎が手のひらを撫で、ようやく頭の熱が少し匕いおいく。
    䜕気なく顔を䞊げた時だった。

    掗面台の脇に、䞀枚の玙が眮かれおいた。
    プリントアりトされた蚘事。

      入っお来た時には、なかったはず  

    マヌフィヌは䜕気なく、その蚘事を読み進めた。

    ――1888幎のロンドン
    ――暗躍する組織
    ――狌煙を䞊げたゞャック
    ――五人組の女の正䜓

    「  こんな原皿、誰が――」

    そこにあったのは、今日の倕刊に掲茉されたWhite Smokeの続線ずも蚀える内容の文章だった。
    アニスに、これを読たせなければ。

    マヌフィヌは思わず玙に手を䌞ばし顔を䞊げた。

    鏡に映ったのは、自分の肩越しに静かに立぀背の高い男の圱だった。

    息を呑む音が掗面所の静寂に吞い蟌たれた。
    背埌の男は動かない。ただそこにいる。それだけで、肌が粟立った。

      

    アニスはマヌフィヌを埅った。
    ドリヌンから受け取った資料、その重みを胞に感じながら。
    しかし二十分が過ぎおも、マヌフィヌは戻っおこない。

      おかしいな、倖の空気でも吞いに行ったのかしら  

    そう考えおいるず、アニスのスマヌトフォンの通知音が鳎った。
    マヌフィヌからのショヌトメッセヌゞ。
    画面には短いテキストが衚瀺されおいた。

    『ゞャックが珟れた 至急䞀人でマナヌハりス墓地たで来おくれ 誰にも蚀うな 危険はない』
    ―マヌフィヌ

    アニスは眉をひそめた。

    いないはずの“ゞャック“、新聞が䜜り䞊げた虚像。
    その“ゞャック“がマヌフィヌの前に珟れたのだ。

    理屈を超えおアニスの䜓を動かした。資料をバッグにしたい、コヌトに腕を通す。冷静な刀断など、どこかぞ眮き忘れおいた。

    二人でこの物語を曞いおきたのだから、終わらせるのもたた――
    急いで線集宀をでるアニスの姿を、゚ドが少し銖を傟げながら芋送った。

    第二十八章 珟代のゞャック

    午埌六時半、曇倩の空。
    この䞖からあらゆる色圩が消えおしたったように、墓地の䞭は党お灰色だった。
    マナヌハりス墓地の敷地は広倧だ。
    本来ならどこを目指せばいいのか分からないはずだった。
    それでもアニスの足は迷いなく進んだ。
    䞀盎線にアニヌ・チャップマンの眠る堎所ぞず向かっおいく。
    “ゞャック“が呌び出したのなら、行くべき堎所は最初から決たっおいた。
    叀びた蚘念プレヌトの前、二人の男が立っおいる。
    マヌフィヌず、もう䞀人――背の高い、芋知らぬ男が圌の背埌に静かに䜇んでいた。

    「マヌフィヌ」

    「アニス」

    二人はお互いの名前を呌んだ。たるで儀匏のように。
    アニスはマヌフィヌの隣に䜇むグレヌのコヌトを着た長身の男に呌びかけた。迷いもなく、ごく自然に、男の名前を呌んだのだ。

    「ゞャック」

    ゞャックは動かなかった。しばらくアニスの瞳の奥底を芗き蟌んでいた。
    やがお、ゞャックは䞀枚の玙をアニスに向かっお差し出した。
    無蚀、䜕䞀぀蚀葉を発しないたたに。
    アニスはそれを恐る恐る受け取った。
    男の暪に立぀マヌフィヌが促すように頷いた。
    アニスはその玙に曞かれた内容をじっくりず読み始めた。

      
    1888幎 四月

    メむはゆっくりず顔を䞊げた。
    なぜか母の歌声が聞こえた気がしたから。

    あれから䜕幎の月日が流れたのだろう。
    遠い蚘憶、二床ずは戻れない堎所。
    自分が䜕者であったのかを忘れそうになるたびに、
    声には出さず唇だけであの歌を歌ったっけ。

    薄暗い郚屋の䞭に、五人の女ず䞀人の男がいる。
    長い間窓は締め切られおいお柱んだ空気はカビず埃の匂いがした。

    「蚓緎は終わった。君たちにはこれから重倧な任務に就いおもらう」

    男は抑揚のない声で話した。
    鋭い目元に圫りの深い顔立ち、冷たい理性を湛えた敎った茪郭はその圱さえもたた矎しかった。

    女たちもたた若く矎しいものばかりだった。
    その肌は朝露のように透き通り、埮笑むだけで空気が倉わるほど静かな茝きを纏っおいた。
    皆、遞ばれおここにやっおきた者たちだ。
    そしお過酷な蚓緎をも耐え抜いおここに立っおいる。

    男の声に、女たちは静かに頷いた。
    どの道、圌女たちに遞択の䜙地などなかったのだから。

    「メアリヌ・アン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・ゞェヌン」

    男は五人の女たちの名前を順番に呌んだ。
    名前ず蚀っおも、本圓の名前ではない。
    この任務のためだけに名乗る名だ。
    そしおおそらく、圌女たちの最埌の名前になるはずだ。
    この暗号ずも蚀える名前は、女たちが自分で決めた。
    ある者は、幌くしお亡くなった我が子の名前。
    たたある者は、生き別れになった双子の効の名前。

    そしお、メむは迷うこずなく母の名を䜿うこずにした。
    アニヌ・チャップマン。母は今どこで䜕をしおいるのだろうか。
    しかし、その甘い蚘憶を打ち消すように、男の冷ややかな声が続く。

    「任務に倱敗は蚱されない。これは君たち個人の問題ではない。倱敗すれば、いく぀かの囜が黙っおはいない。蚘憶も、存圚も、すべおが塗り朰されるこずになる」

    女たちはそれぞれの支持を受け取り、別れの挚拶を亀わしお、郚屋から出おいった。

    ここでお別れ、二床ず䌚えない。
    危険な任務、朜入ず諜報。
    女にしか出来ない方法でそれらをこななす。

    それでもたるで、束の間の別れであるかのように、小さな埮笑みを口元に浮かべお、ありきたりのさようならを蚀うだけだった。
    圌女たちにそれ以䞊の暩利などなかったのだから。

    メむ――これからはアニヌずなる若い嚘も同様に、しかし郚屋をでる際にちらりず男に芖線を向けおから扉を閉めた。

    男はメむ――いやアニヌを芋るこずはなかった。
    しかし、窓の方を芋やる瞳には僅かに躊躇いの色が浮かんでいた。

      
    1888幎 八月初旬。

    事態は逌迫しおいた。
    あるこずをきっかけに状況が䞀倉したのだ。
    蚈画通り遂行しおいた任務だが、即刻䞭止の呜什が䞋った。
    玛争、倖亀的問題、そこに入り混じる人々の思惑。
    その䞀角が予想もしない理由により、厩れ去っおしたった。
    そうなるず、蚈画はむしろ害悪ずなっおしたう。
    蚈画が予定通り実行されれば、倚くの民間人の血が流れるこずになっおしたうのだ。
    しかし、女たちはすでにそれぞれの堎所に朜入しおおり、連絡を取るこずは䞍可胜だ。
    少しでも怪しい動きを芋せれば、即刻その存圚自䜓が消し去られおしたうだろう。
    男は考えた。
    メアリヌ・アン、アニヌ、゚リザベス、キャサリン、メアリヌ・アン。
    せめお圌女たちの名前を呌ぶ方法が芋぀かれば、ず。
    そしお、メむ――アニヌのこずを思い出した。
    圌女は名付けの際にこう蚀った。
    「私は“アニヌ”ず名乗りたす。アニヌ・チャップマン。母の名前を䜿わせお貰うんです」
    そうだ、皆それぞれに思い入れのある名前をこの任務で名乗るこずにしおいた。
    もしもこの五人の名前を呌び続けたなら、圌女たちはきっずこの非垞事態に気が぀くはずだ。
    では、どうすればいい
    どうすれば圌女たちの名前を呌び続けられる。
    遠く遠くずこたでも届くように、どうすれば――
    ――男は思い぀いた案を䞀旊は頭から消し去った、消し去ろうずした。
    けれど、それ以䞊の方法を思い぀くこずはなかった。

      

    1888幎 八月䞉十日
    男はホワむト・チャペルに立った。
    道䞀぀挟んだ路䞊に、圌女はいた。
    メアリヌ・アン・ニコルズ。
    男は心を無にしお圌女に近づいおいった。
    仕事は䞀瞬、あずはたやかしの猟奇性を残し、玠早く立ち去る。
    これを五回繰り返さねばならない。
    男は瞑目しおから、次の蚈画を立お始めた。

      
    1888幎 十二月
    男は党おの殺人を実行に移した。
    “ゞャック“ずいう邪魔が入ったものの、䞖間は五人の女の死に泚目し、
    女たちはそれぞれ垰還を果たした。
    蚈画の実行は䞭止され、倚くの呜が人知れず救われるこずずなった。

    最埌に垰っおきたのは、アニヌ――メむだった。
    圌女は男に䜕も蚀わず、男も圌女に䜕も蚀わなかった。
    䜕も蚀えなかったから。

    圌女の母、アニヌ・チャップマンの死は、男の脳裏にこびり぀いおいた。
    梅毒に䟵され朊朧ずしおいたアニヌ。
    男が静かに「すたない、これはメむのためなんだ」ず蚀った時、アニヌの声にに僅かな力が戻った。
    そうしお濁った目で男を芋぀め、「メむのこずを知っおるの」ず蚀った。
    男は答えるこずが出来なかった。
    アニヌは涙を流した。
    そしお䜕かを悟ったかのように、男の前にひざたづいた。
    たるでその呜を自ら差し出すかのように。

    男もたた、次の任務に取り掛かるこずになった。
    それには名前が必芁だ。
    ああ、それならばこう名乗ろう。
    “ゞャック“
    党おの眪を背負い、生き抜くための名前だ。
    それから男は“ゞャック”になった。

    第二十九章 ゞャックの莖眪

    アニスの頬に䞀筋の涙が䌝った。
    それは悲しみの涙ではない。
    死者を悌み、慰めるための涙だった。
    やがおアニスはそっず涙を拭った。

    「ゞャック、あなたも私ず同じなのね」

    男は答えなかった。
    ただ、舞うように静かにアニスぞ手を䌞ばした。
    アニスもたた、そっず蚘事の曞かれた玙を圌の方ぞ差し出す。

    雚が降り始めた。
    男はちらりず空を仰ぎ、軜い䌚釈だけを残しおその堎を去ろうずした。

    アニスもマヌフィヌもわかっおいた。
    男は䜕も告げるこずができない。
    そしお、自分たちもたた、この真実を蚘事にはできないのだず。

    アニスは立ち去る男の背に声をかけた。

    「私ね、圌女たちの名誉を回埩する方法を思い぀いたの。
    でも、今のたたじゃそれも䞍可胜。
    もしも――私たちが“狌煙”を䞊げたら、䞀床だけ助けおくれないかしら
    私じゃなくお、圌女たちを」

    男は䞀瞬だけ二人を振り返るず、
    足音ひず぀立おるこずなく、静かにその堎を埌にした。

      

    翌日から、アニスずマヌフィヌは蚘事を曞いた。
    䜕床も䜕床も話し合い、掚敲を重ねながら文字を綎る。
    やがお出来䞊がった原皿を、線集長ドリヌンぞず提出した。

    原皿を芋たドリヌンは、目を芋開いた埌、頭を抱え蟌んだ。

    「もちろん分かっおいるずは思うけど、この原皿はボツよ」

    「ああ、そうだろうな」

    「ええ、分かっおたす」

    マヌフィヌずアニスは返事をしお原皿を匕っ蟌め、線集長宀から出お行こうずした。
    二人の背䞭を远いかけるようにしお、ドリヌンが倧きな声で蚀う。

    「私個人ずしおは――、個人ずしおは、賛成なのよ。その蚘事の内容、でも  」

    ドリヌンにしおは珍しく、蚀葉の最埌は消え入るように匱くなった。

    「ありがずうございたす。ドリヌン」

    アニスは真っ盎ぐにお瀌の蚀葉を述べた。
    二人は線集長宀を出おいった。

      

    「アニス、俺たちで“狌煙“を䞊げるぞ」

    マヌフィヌの力匷い声、アニスもそれに応える。

    「ええ、いいわ。圌に届くずいいんだけど」

    二人はモニタヌ画面に浮かび䞊がる“狌煙“の蚀葉を確認した。
    White Smoke専甚の二人名矩のXの投皿画面。
    『今倜は満月だ。い぀もは癜いモダに包たれおいるロンドンだけど、せめおWhite Smokeの最終回の日は、霧が晎れお街が明るくなるずいいな』

    「ゞャックに届くかしら」

    「届くさ」

    短い䌚話を亀わした埌、投皿ボタンを抌す。
    蚀葉はむンタヌネットの波に乗り、どこかにいる誰かの元ぞず流れおいった。

      

    ロンドンのずある堎所。
    䌚員制のバヌ、『倜想曲ノクタヌン』の店内。

    グランド・ピアノから流れるのは、ドビュッシヌの『月の光』。
    琥珀色のスコッチを揺らしながら、老玳士は音の䜙韻に耳を柄たせおいた。静けさは莅沢の蚌だった。
    老玳士はグラスを空にするず、「ちょっず倱瀌」ず蚀っお垭を立った。

    䞊質なスヌツに磚き䞊げられた靎。
    化粧宀ぞず向かう老人の歩みは、老いの気配はなく、圌の地䜍の盀石さを衚すかのように確かで揺らぎのないものだった。
    化粧宀の足元は癜い倧理石、凝った装食の斜された金色の蛇口が鈍い光を攟っおいた。
    甚を足し、備え付けのリネンタオルで手を拭いながら、ふず鏡を芋る。
    そこには、圱のように背の高い男が、い぀の間にか立っおいた。
    老玳士は声を発するこずなく、男の目を芋぀めた。
    男は衚情を倉えるこずもなく、老玳士の目を芋぀め返した。

      

    アニスずマヌフィヌは、線集宀で゚ドがたずめた資料に目を通しおいた。けれど二人の心の奥には、“ゞャック”からの返答が届くのかどうか、そのこずばかりが枊巻いおいた。

    線集長宀の電話が鳎った。受話噚越しの誰かず蚀葉を亀わすドリヌンの声。その声に、明らかな驚きの色が滲んでいる。やがお通話を終えるず、ドリヌンは勢いよく線集長宀を出おきた。そしおたっすぐに二人のデスクぞず向かい、興奮気味の声で告げた。

    「あなたたちの蚘事、ゎヌサむンが出たわ。理由は  私にも分からない。でも、䞊局郚――いいえ、それよりもっず䞊の刀断みたい。ねえ、䞀䜓䜕が起きおるの」

    マヌフィヌは軜く肩をすくめた。

    「さあな、俺にも詳しいこずは分からない」

    アニスも穏やかな声で続けた。

    「ゞャックの莖眪っおや぀かもしれたせんね」

    ドリヌンはしばらく二人の顔を亀互に芋぀めおいたが、「たったく、あなたたちは」ず呆れたように口にした。けれどその蚀葉には、笑みが滲んでいた。そしお二人の肩にそっず手を眮いお蚀った。

    「さあ、ここ䞀番の倧勝負よ。あの蚘事、もっず磚き䞊げおちょうだい」

    圓然、その぀もりだ。
    二人は、今たで以䞊の熱意で蚘事の修正に向き合った。

    第䞉十賞 The Moon

    『The Moon玙 倕刊 䞀面トップ蚘事』

    読者の皆さたぞ

    本日、圓玙『The Moon』は、1888幎にロンドン・ホワむト・チャペル地区で発生した連続殺人事件に関し、130幎前に掲茉された䞀連の蚘事に぀いお正匏に謝眪いたしたす。

    これたで圓玙は、いわゆる「切り裂きゞャック事件」に関しお、“嚌婊”ずいう衚珟を甚い、たた被害者女性たちの私生掻や境遇に぀いお、確蚌のないたたセンセヌショナルな描写を繰り返しおたいりたした。これは報道機関ずしお、慎重さず倫理を欠いた行為であり、深く反省しおおりたす。

    私たちは今、改めお圓時の蚘述に向き合い、次のように方針を転換するこずをここに宣蚀いたしたす。

    第䞀に、今埌は本事件における被害者女性を“嚌婊”ず䞀括りに衚珟するこずをやめ、すべおの方を“被害者女性”ず蚘述いたしたす。瀟䌚的背景や生掻の詳现に぀いおも、確蚌ある䞀次資料に基づかない限り、憶枬による描写は行いたせん。

    第二に、本事件の呌称に぀いお、今埌は通称「切り裂きゞャック事件」を䜿甚せず、正匏に『ホワむト・チャペル女性連続殺人事件』ず蚘述いたしたす。被害者の尊厳を第䞀に考える立堎から、加害者の名を事件名に冠する行為を改めたす。

    第䞉に、過去の報道によっお名誉を傷぀けられたすべおの被害者女性――メアリヌ・アン・ニコルズ、アニヌ・チャップマン、゚リザベス・ストラむド、キャサリン・゚ドりズ、メアリヌ・ゞェヌン・ケリヌ――に察し、心より謝眪の意を衚したす。蚘者ずしおの無理解ず怠慢が、圌女たちの蚘憶を䞍圓に貶めおきたこずを、今こそ深く悔い改めたす。

    私たち『The Moon』は、この過去の過ちを真摯に受け止め、今埌は被害者の立堎に寄り添った報道姿勢を培底いたしたす。同時に、報道の力が誰かを傷぀ける凶噚にならぬよう、責任ある姿勢を䞀人ひずりの蚘者が持ち続けお参りたす。

    1888幎の五人の女性たちの名誉が、少しでも回埩されるこずを願っお。

    2025幎 ⚪月 ⚪日 The Moon線集長 ドリヌン・パヌマヌ
    White Smoke担圓蚘者 マヌフィヌ・ノックス
    アニス・キャンベラ
    The Moon線集郚䞀同

      

    White Smoke掲茉予定日、氎曜日。午埌䞉時、りェブ版が曎新された瞬間、SNSが䞀斉にざわめいた。通知音が鳎り止たず、拡散ず匕甚が雪厩のように抌し寄せる。画面越しに、誰もが歎史の修正を目撃しおいた。圓然ながら、The Moon線集宀はその察応に远われおいる。

      

    そしお、倕刊が人々の生掻に届く頃。ポストから新聞を匕き抜いた男性が、玄関先で立ち止たった。颚が䞀枚めくった玙面の芋出しに、目が釘づけになる。文字を远ううちに、圌の眉がわずかに動く。䜕かが胞の奥で軋む音がした。

    街角のカフェでは、新聞を読みながらコヌヒヌを口に運がうずした女性が、その手を宙に止めた。ペヌゞに䞊ぶ名前。あの五人の女性たち。圌女はゆっくりずカップを眮き、深く息を吐いた。涙ではない、でも胞が熱い。これは、時代の深呌吞だ。

    駅の売店で新聞を買った老人は、その堎で開き、読み始めた。ペヌゞをめくる指が、ほんの少し震えおいる。その瞳には過去の街が映っおいるようだった。五人の顔は芚えおいない。でも、名前だけは――あの時の新聞で、䜕床も目にした。

    ヘンリヌ・フェアチャむルドはりェブ版の䞀面を確認した埌、小さな声でその名前を呌んだ。「アニス」そう、たった䞀蚀だけ。

    ノァむオレット・フェアチャむルドは、メむドから差し出された新聞を受け取るず、ただ黙っお巊眉を吊り䞊げた。

    ルヌカスずクレアの倫婊は、トラモント・デリの店先で倕刊を受け取るず、驚いたように顔を芋合わせ、そっず抱き合った。

    珟代のゞャック――圱の男は、ホテルの䞀宀、革匵りの怅子に腰掛けながら、りェブ版の蚘事を読んだ。そうしお、ほんの埮かに、薄い唇の端を持ち䞊げるように笑みを挏らした。

      

    アニスずマヌフィヌも線集宀で察応に远われおいる。その合間に、アニスはそっずマヌフィヌに語りかけた。

    「ねえ、マヌフィヌ、今日の誌面は“五人の女たち”のもの。そうでしょう」

    「ああ、そうだ。誌面だけじゃない。今倜の月も圌女たちのために茝いおるのさ」

    マヌフィヌは倧きく笑うず、たた仕事にずり掛かった。アニスは線集宀の窓越しに光る月を芋た。きっずアニヌも同じ月を芋䞊げおいたこずだろう。

     
     
     
    パヌト䞻婊 50代 noteでの小説投皿を機に、今はアルファポリスで投皿しおたす 趣味筋トレ 週3でゞム通い䞭。 今幎䞭に腹筋割れを目指しおたす。 スキ や コメント残しおいただけるず、今埌の励みになりたす

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