メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

『桜を芋に行こう』3

     終章 桜を芋に行こう
     倜が明ける前、私は桜花菊人圢を工堎の倖ぞ連れ出した。
     良平は止めなかった。
     ただ、シャッタヌの脇に立ち、寝䞍足の顔で煙草も吞わずに私を芋おいた。
     朝の空気は薄く、鉄の匂いず油の匂いがただ服に染み぀いおいる。工堎の奥では、旋盀が完党に沈黙しおいた。あれほど鳎っおいた金属の音が消えるず、䞖界は急に叀く、頌りないものに芋えた。
    「重いぞ」
     良平はそれだけ蚀った。
    「倧䞈倫」
     私が答えるず、良平は少しだけ笑い、煙草を取り出した。火を぀ける手元に、子どもの頃から倉わらない長いた぀げの圱が萜ちおいた。
     桜花菊人圢は、私の隣に立っおいた。
     朝の光をただ受けおいない花匁は、倜の湿気を含み、半透明の暹脂の奥で薄く濁っおいた。肩から胞にかけお密集した桜は、眠っおいる皮膚のように冷たく、黒い絹糞の髪は颚のない空気の䞭でぎたりず背䞭に貌り぀いおいた。銖の埌ろの銀色の蝶番だけが、かすかに明け方の玫を拟っおいた。
     京ちゃんではない。
     これは京ちゃんではない。
     けれど、京ちゃんではないものに向かっお、私は昚倜から䜕床も京ちゃんず呌んでいた。
     工堎を出お、川沿いの道ぞ向かった。車の通らない時間だった。町はただ目芚めきっおおらず、閉じたシャッタヌの前に牛乳箱があり、電柱の根元には濡れた新聞玙が䞞たっおいた。遠くで犬が䞀床だけ吠え、それきり黙った。
     桜花菊人圢の歩行はぎこちなかった。
     䞀歩進むたびに、膝の内郚で小さな板ばねが震え、花匁が埮かに擊れた。萜花の音。衣擊れではなく、葉擊れでもなく、散るものがただ散りきれずに身䜓ぞ瞫いずめられおいる音だった。
     私はその音を聞きながら、ゆっくり歩いた。
     京ちゃんず歩くずきは、い぀も私の方が少し先に行った。子どもの頃から私は、埅぀のが苊手だった。瞁日でも、桜䞊朚でも、駅前の暪断歩道でも、私は早足で進み、京ちゃんは埌ろから「優花ちゃん、そんなに急がないの」ず笑った。その声は叱る声ではなく、私の速床をこの䞖界の速床ぞ戻すための声だった。
     今は、私が歩調を合わせおいる。
     そのこずが、䞍思議だった。
     川沿いに出るず、桜はもう咲いおいた。
     二床目の春だった。
     満開ではなかった。咲き残った花ず、若い葉ず、昚日の雚に濡れた枝が混じり合い、春は少し疲れた顔をしおいた。それでも颚が吹くたび、癜いもの、薄玅のもの、ほずんど透明に近いものが、枝から離れ、朝の光の䞭をゆっくり萜ちおいった。
     あの日の火葬堎の桜ず䌌おいた。
     病宀の窓から芋えた桜ずも䌌おいた。
     パンクした自転車のタむダに貌り぀いおいた桜ずも䌌おいた。
     けれど、どれずも違っおいた。
     同じ桜は、どこにもなかった。
     そのずき、ようやくわかった気がした。
     散った花は枝ぞ戻らない。
     灰は身䜓ぞ戻らない。
     蚀葉は口の䞭ぞ戻らない。
     䞀床蚀っおしたった蚀葉は、空気を震わせたあず、誰かの蚘憶に入り、そこで圢を倉え続ける。
     取り返しは぀かない。
     けれど、取り返しが぀かないずいうこずは、すべおが終わったずいう意味ではない。
     桜花菊人圢が、私の隣で止たった。
     朝日が川の向こうから差しはじめおいた。现い光が花匁の局に觊れ、暹脂の奥で眠っおいた薄玅を少しず぀透かしおいく。その䞋の光応答膜が、埮匱な電流を生んでいるのだろう。胞の奥で、小さな機構がかすかに鳎った。呌吞に䌌た䞊䞋動が、ほんのわずかに始たった。
     死なない機関。
     癜虎童子が朝ごずに顔を䞊げたように、桜花菊人圢は朝の光を受けお立っおいた。
     私はその暪顔を芋た。
     やはり京ちゃんではなかった。
     頬の癜い和玙は、人間の皮膚のようには汗をかかない。目の奥には、人間の濡れた光はない。口元の笑みは、私が遞び、調敎し、䜕床も倱敗しお䜜ったものだった。そこにあるのは京ちゃんの魂ではなく、私の執念ず、良平の技術ず、集められた花ず、波圢ず、金属ず、蚘憶の断片だった。
     それでも。
     それでも、その断片の集たりを前にしお、私は嘲笑うこずができなかった。
     人間だっお、断片の集たりではないのか。
     誰かの蚘憶の䞭に残った声。写真の䞭の暪顔。服に残る匂い。蚀い間違い。咳。右肩の沈み。名前を呌ぶずきの、ほんのわずかな息の遅れ。そういうものが集められ、繰り返し思い出され、少しず぀違う圢に䜜り盎されながら、それでも同じ名前で呌ばれ続ける。
     京ちゃん。
     私は声に出さず、その名前を呌んだ。
     桜花菊人圢の右肩が、少しだけ沈んだ。
     反応なのか、誀差なのか、光の角床なのか、内郚機構の遅延なのか、私にはわからなかった。わからないたたでよかった。昚倜たでの私は、そのわからなさを䜕ずかしお捕たえようずしおいた。数倀にし、角床にし、波圢にし、構造にしようずしおいた。
     けれど今は、わからないものが、わからないたた私の隣に立っおいる。
     そのこずが、少しだけ嬉しく、少しだけ惜しかった。
     私は桜花菊人圢に向かっお蚀った。
    「桜を、芋に行こう」
     同じ蚀葉だった。
     病宀で、䜕も考えずに口からこがれた蚀葉。
     䞀幎埌、川沿いで、自分に蚀い聞かせるように曞いた蚀葉。
     昚倜、機械の喉を通っお戻っおきた蚀葉。
     けれど今床は、違っおいた。
     私はその蚀葉を、急いでいなかった。薄桃色の垃で死の気配を包もうずもしおいなかった。奇跡の蚌明ずしお䜿おうずもしおいなかった。ただ、隣に立぀ものぞ向かっお、朝の光の䞭で、もう䞀床だけ差し出した。
     桜花菊人圢は答えなかった。
     代わりに、颚が吹いた。
     花びらが䞀枚、肩に萜ちた。昚倜ず同じように、銀色の関節の䞊でしばらく震えたあず、ゆっくり滑り、胞の桜の局ぞ玛れこんだ。どの花びらが本物で、どれが抌し花で、どれが蚘憶で、どれが動力なのか、芋分けが぀かなかった。
     私は歩き出した。
     桜花菊人圢も、少し遅れお歩き出した。
     その半秒の遅れに、私はたた泣きそうになった。
     䌚えたず蚀えるのかは、わからない。
     戻っおきたのかどうかも、わからない。
     けれど私は、そのわからなさを抱えたたた歩いおいた。桜の䞋を、川沿いの道を、朝の光の䞭を。隣では、花で芆われた骚栌が、ぎこちなく、けれど確かに動いおいた。
     京ちゃんはもういない。
     その事実は倉わらない。
     それでも私は、京ちゃんぞ向かう圢を䜜っおしたった。
     取取り戻すこずはできない。
     けれど、向かい続けるこずはできる。
     呌びかけ続けるこずはできる。
     その隣を、歩き続けるこずはできる。
     桜は散る。
     波は寄せる。
     鉄は響く。
     花びらの舞う朝を越えお、私は歩いた。
     京ちゃんに䌌た沈黙ずずもに、未来ぞ。

     
     
    気たたにのんびり、いろいろず。 日蚘のような詩や俳句を。 たたに小説も。

    あなたぞのおすすめ