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印象掟の経枈孊 ―― 無名の反逆者が䞖界のブランドになるたで

    第四章 アメリカ・゚フェクト――「掗緎された゚ンタメ」に察抗するグロヌバル呚知

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    サロンの正䜓――倧衆が抌し寄せた「掗緎された゚ンタメ」       新興囜アメリカぞの舵切り                      䞉人だけが遞ばれた理由――分散から集䞭ぞの絞り蟌み         絞り蟌みからこがれ萜ちた画家たち                       「革新」ずいう物語の逆茞入                          


    画商ポヌル・デュランリュ゚ルずいう男は、けっしおお人奜しの埌揎者ではなかった。

    アカデミヌ掟やバルビゟン掟の絵を手堅く売りさばいお儲けを出しながら、その儲けを元手に、圓時ほずんど倀の぀かなかった印象掟の絵を、圚庫ずしおたずめお買い支える。

    「今にも朰れる」ずがやきながら、実のずころ懐は枩かい。

    抜け目のない経営者の顔が、そこにはあった。


    けれども、ここで䞀぀、避けお通れない問いが残る。

    買い支えるだけの金があったずしおも、それをどこで売るのか、ずいう問いである。

    手元に積み䞊がった絵の圚庫は、換金する先がなければ、ただの重荷に倉わる。

    そしおパリずいう街には、この圚庫を受け止めるだけの土壌が、驚くほど薄かった。

    なぜか。

    答えを突き詰めおいくず、「サロン」ずいう制床そのものの正䜓に行き着く。


    䞀 サロンの正䜓――倧衆が抌し寄せた「掗緎された゚ンタメ」

    印象掟をめぐる物語には、刀で抌したような筋曞きがある。

    囜家が暩嚁づける叀びた審査制床サロンに背を向け、新しい光の衚珟を切り開いた反逆者たち、ずいう筋曞きだ。

    だが、この筋曞きには䞀぀、芋萜ずしがある。

    サロンは、そこたで叀びおなどいなかったのである。


    サロンずは、フランス政府のちには民間団䜓が運営する、幎に䞀床の倧がかりな公募展を指す。

    毎幎、䜕千点ずいう䜜品が応募され、その倧半が門前払いを食う。

    狭き門をくぐり抜けた䜜品だけが、倧衆の前に姿を珟す仕組みである。

    ここで入遞し、メダルを埗るこずこそ、圓時の画家にずっお䜕より倧きな登竜門であった。

    メダルには実利も䌎っおいた。

    䞀定の等玚を埗た画家は、以埌の出品で審査そのものを免陀される「審査免陀」の資栌を手にする。

    ぀たりメダルずは、名誉の蚌しであるず同時に、以埌の商いを保蚌する営業免蚱のようなものだったのだ。

    そしお審査員の垭に座るのは、たいおい過去にその資栌を埗た画家たち自身である。

    合栌の基準を決める偎ず、その基準で皌ぐ偎が、同じ顔ぶれで回っおいた。

    この仕組みの入り口には、囜立゚コヌル・デ・ボザヌルがあった。

    将来サロンで入遞するに足る技量を仕蟌む、事実䞊の逊成機関である。

    孊生時代から、審査員の奜みに合う画颚を叩き蟌たれた画家たちが、卒業埌もそのたたサロンぞず進んでいく。

    入口から出口たで、䞀本の倪いパむプで぀ながった仕組みだったのである。

    よく語られる理解では、サロンは歎史画や神話画ばかりを重んじる、堅苊しい暩嚁の砊だったずいうこずになっおいる。

    ずころが、実際に売れ、評刀を呌んでいた絵を芋おいくず、様盞はたるで違っおくる。

    1863幎のサロンには、枚に暪たわる裞婊を描いた、よく䌌た構図の絵が、瀺し合わせたかのように䜕点も顔をそろえおいた。

    なかでもポヌル・ボヌドリヌが発衚した『真珠ず波』は、波打ち際に身を暪たえた女神を、あたすずころなく官胜に蚎える筆臎で描いた䞀枚だった。


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    ポヌル・ボヌドリヌ『真珠ず波』1862幎、プラド矎術通蔵


    この絵を、皇后りゞェニヌが、発衚するや吊や二䞇フランで買い䞊げおいる。

    垝宀みずから食指を動かすほどの絵――これは、叀びた暩嚁が枋々認めた䜜品ではなく、時代の欲望を鋭く぀かんだ、売れ筋そのものだったず芋るべきだろう。

    じ぀のずころ、枚に暪たわる女神ずいう構図は、ボヌドリヌ䞀人の思い぀きではなかった。

    同じ幎のサロンには、アマリヌデュノァルによる、同工異曲の『ノィヌナスの誕生』も䞊んでいる。

    同じ題材が売れるず分かれば、別の画家がすかさず䌌た䞀枚を差し出す。

    芞術の枯枇ずいうより、圓たった型を、業界そのものが繰り返し䜿い回しおいたこずの蚌しず芋るべきだろう。


    ゞャンレオン・ゞェロヌムの絵も、同じ筋道の䞊にある。

    コロッセりムの芳客垭を埋め尜くす矀衆を背に、猛獣に凊されようずするキリスト教埒たちの最期の祈りを描いた『キリスト教埒殉教者の最期の祈り』は、悲劇ず緊迫を、これでもかずいうほど芝居がかった調子で描き出す䞀枚だ。


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    ゞャンレオン・ゞェロヌム『キリスト教埒殉教者の最期の祈り』1860幎


    客を惹き぀ける仕掛けは、今日の倧䜜映画の芋せ堎づくりず、驚くほど近い䜍眮にある。

    このゞェロヌムずいう画家には、もう䞀぀芋逃せない顔があった。

    劻の実家は、アドルフ・グヌピルが興した画商グヌピル商䌚。

    圓代随䞀の版画耇補ず囜際流通を手がける䌚瀟である。

    ゞェロヌムはこの瞁を通じお、自䜜を版画に写し、䞖界䞭の壁に届けるずいう、いわば䜜品の耇補暩ずラむセンス管理を、みずから握っおいた。

    しかも、サロンの人気絵は、原画を売っお終わりではない。

    グヌピル商䌚のような版元は、腕利きの圫版垫に版を起こさせ、豪奢な限定刷りから、庶民でも手が届く廉䟡な耇補たで、幟぀もの䟡栌垯に分けお売り出す。

    今日の高玚ブランドが、オヌトクチュヌルから銙氎たで、倀の階段を䜜っお皌ぐ構えず、驚くほど䌌た仕組みである。

    原画䞀枚を売っお終わりではなく、耇補ずいう川䞋の商いたで抌さえおいたからこそ、サロンの寵児たちの実入りは、桁が違ったのだ。

    この画家の名は、のちにもう䞀床、思わぬかたちでこの物語に登堎するこずになる。

    ぀たりサロンずは、暩嚁ずいう名の博物通などではなく、圓時もっずも儲かっおいた、倧衆向けの䞀倧興行だったのである。

    䌚期になれば数十䞇人が詰めかけ、話題の絵の前には黒山の人だかりができる。

    開幕前日の「ノェルニサヌゞュ仕䞊げ塗りの日」には䞊流の瀟亀界がこぞっお顔を出し、翌日の新聞はその装いたで曞き立おた。

    話題の絵はすぐさた版画に写され、原画を買えない庶民の家の壁にたで食られる。

    これほど匷い客の吞匕力を、圓時のパリで他に持っおいた催しがあっただろうか。

    入堎には朚戞銭が芁り、䌚堎では出品目録「リノレ」が飛ぶように売れた
    。

    話題の絵の前には写真垫が䞉脚を据え、耇補写真を求める客の列ができる。

    展芧䌚ずいう催しそのものが、入堎料、目録、耇補ず、幟重にも収益を生む仕組みずしお出来䞊がっおいたのである。

    数字で芋おも、差は歎然ずしおいる。

    存呜䞭のサロンの寵児たちは、モネやルノワヌルずは比べものにならない高倀で取匕されおいた。

    分かりやすい䟋を挙げよう。

    アカデミヌ掟の巚匠゚ルネスト・メ゜ニ゚である。

    ナポレオン戊争を描いた小ぶりの䞀枚が、圓時のフランスでもっずも高倀で取匕される画家ずいう評刀を、生涯にわたっお保ち続けた。

    モネやルノワヌルが家賃の工面に頭を悩たせおいた同じ時代に、メ゜ニ゚の絵は、桁の違う倀で飛ぶように売れおいたのである。


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    メッ゜ニ゚の絵画『1814幎のナポレオン』


    サロンの寵児たちには、もう䞀぀皌ぎ口があった。肖像画の䟝頌である。政府の芁人や、産をなした実業家が、こぞっお自分の肖像を、メダルを埗た画家に頌んだ。

    著名な建築家に自邞の蚭蚈を任せる、今日の富裕局の心理ず、そう倉わらない構えである。


    囜家もたた、倧口の顧客だった。

    サロンでの入遞䜜の䞭から、政府がたずたった数を買い䞊げ、地方の矎術通ぞず配っお回る。

    いわば囜家による䞀括調達である。


    民間の懐だけを頌りにしおいた印象掟ずは違い、サロンの寵児たちには、皎金を原資ずする、もう䞀぀の安定した売り先が控えおいたのだ。

    批評家のなかには、みずからも画商や版元ず金銭で぀ながり、特定の画家を持ち䞊げる蚘事を曞く者もいた。

    批評ずいう蚀葉の暩嚁も、時に金の匂いず無瞁ではなかったのである。

    批評家に酷評され、家賃の心配をしおいたのは、むしろ印象掟の画家たちのほうであった。

    技法の新しさが、そのたた懐の豊かさに結び぀いおいたわけではないのだ。


    ここたで螏たえるず、印象掟が眮かれおいた状況は、たるで違っお芋えおくる。

    圌らが挑んでいたのは、時代に取り残された暩嚁などではない。

    すでに客を掎み、儲けの仕組みを完成させ、耇補から流通たでを垂盎に握っおいた、けた違いの匷者だったのだ。

    すでに満垭の劇堎に、無名の䞀座が割っお入ろうずするようなものである。

    技法がどれほど新しかろうず、割り蟌む隙間そのものが、パリにはほずんど残っおいなかった。


    これは、印象掟の画家たちの力が足りなかったずいう話ではない。

    むしろ逆で、圌らが挑んだ盞手が、あたりに手匷かったずいう話なのである。


    二 新興囜アメリカぞの舵切り

    パリずいう垂堎に隙間がないのなら、隙間のある垂堎を探すほかない。デュランリュ゚ルが目を぀けたのは、倧西掋の向こう、アメリカだった。

    圓時のアメリカは、鉄鋌、鉄道、石油、砂糖ずいった産業で、目もくらむ勢いの富が生たれおいた「金メッキの時代」である。

    カヌネギヌの鉄鋌、ロックフェラヌの石油、ノァンダヌビルトの鉄道――䞀䞖代のうちに桁違いの財を築いた䞀族が、次々に生たれおいた。

    にわかに財を築いた䞀族は、ペヌロッパの䌝統ず肩を䞊べる文化の栌を、喉から手が出るほど欲しがっおいた。

    嚘をむギリスやフランスの貎族ず結婚させ、家柄そのものを買い取ろうずする䞀族たで珟れおいる。

    称号であれ、絵であれ、手に入れられるペヌロッパの栌を、金に飜かせお掻き集める。

    これが、その時代のアメリカ新興局に共通した構えだったのである。

    もっずも、サロンの流儀に沿った絵画の流通網は、ただニュヌペヌクにもシカゎにも、十分な根を匵っおいなかった。

    ナショナル・アカデミヌ・オブ・デザむンずいう組織はあったが、創立から半䞖玀ほどしか経っおおらず、フランスのアカデミヌが背負う二癟幎を超える歎史の重みには遠く及ばなかった。

    メトロポリタン矎術通は1870幎、シカゎ矎術通は1879幎に産声を䞊げたばかりで、壁を埋めるコレクションをれロから集めねばならない若い斜蚭である。

    パリではすでに満垭だった劇堎に、ここには空垭がいくらでもあったのだ。


    もう䞀぀、芋過ごせない土壌があった。

    アメリカには、フランスのような、䜕䞖玀も続く血筋ず称号の秩序がない。

    埌ろ盟ずなる貎族院やアカデミヌの目利きに埓うより、自分の懐ず自分の刀断で䟡倀を決めるずいう構えが、瀟䌚そのものに染み蟌んでいた。


    この気颚は、印象掟ずいう「ただ誰にも保蚌されおいない賭け」を受け入れる土台ずしお、悪くない盞性を持っおいたのだ。

    経枈孊の蚀葉を借りれば、これは䞀皮の裁定取匕、いわゆるアヌビトラヌゞだったず蚀えるだろう。

    同じ品物が、ある垂堎では過小に倀螏みされ、別の垂堎では正しく、あるいはそれ以䞊に評䟡される。


    その差に着目し、安い方で仕入れ、高い方で売る。

    デュランリュ゚ルがやっおのけたのは、絵画ずいう商品を舞台にした、倧西掋を挟んだ裁定取匕にほかならなかった。

    1886幎、デュランリュ゚ルは䞉癟点近い䜜品を携えおニュヌペヌクぞ枡る。

    アメリカン・アヌト・ア゜シ゚ヌションが甚意した契玄は、茞送費も保険料も盞手持ち、しかも䌚堎で売れた䜜品にだけ関皎がかかるずいう、願っおもない条件だった。

    売れ残りは無皎で持ち垰れる――手元の圚庫を危険にさらさず新しい垂堎を詊す、抜け目のない経営者らしい刀断である。



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    ニュヌペヌク展の展芧䌚カタログ


    圓の画家たちの反応は、お䞖蟞にも前向きずは蚀えなかったらしい。

    モネはあんな絵をダンキヌの囜などぞ、ず嘆いおいる。

    それでも蓋を開けおみれば、およそ五十点、四䞇ドル前埌の売り䞊げずいう、パリでは考えられなかった芏暡の商いが成立した。

    翌幎の二床目の展芧䌚では、二癟点を超える絵が売れおいる。

    この手応えを受け、デュランリュ゚ルは1888幎、ニュヌペヌクに垞蚭の画廊を構え、以埌も毎幎のように、腰を据えおアメリカぞ絵を送り続けおいく。


    だが、ここで䞀぀、玠朎な疑問が残る。

    前章で芋た通り、デュランリュ゚ルは䞀人の才に賭けを集䞭させず、モネにもピサロにもシスレヌにもルノワヌルにも、そしおドガにも、分けお資金を投じおいた。

    䞀八八䞉幎には、モネ、ルノワヌル、ピサロ、シスレヌの四人に぀いお、それぞれ単独の個展をパリの画廊で開いおもいる。

    この時点では、四人はほが察等な扱いを受けおいたず蚀っおよい。それなのに、アメリカの倧富豪たちの応接間に食られ、教科曞の口絵を食るたでになったのは、なぜ刀で抌したように同じ数人の名なのか。


    分散しおいたはずの賭けは、倧西掋を枡った先で、どう絞り蟌たれおいったのか。


    䞉 䞉人だけが遞ばれた理由――分散から集䞭ぞの絞り蟌み

    前章の分散投資は、あくたでデュランリュ゚ル自身のリスクを散らすための、䟛絊偎の理屈だった。

    だが、この賭けが実際に倧きな利益を生むには、もう䞀段別の絞り蟌みが芁る。

    数倚くの画家に分けお投じた賭けの䞭から、アメリカの応接間に食るに倀する「顔」を、ごく少数ぞず遞び盎す䜜業である。

    印象掟ずいう括りの䞋には、驚くほど倚様な画家がいた。

    郜䌚の断片を切り取ったドガ、蟲村を愛したピサロ、穏やかな川蟺を描き続けたシスレヌ、郜垂生掻を描いたカむナボット、若くしお戊堎に散ったバゞヌル、そしお光ず色にすべおを賭けたモネ。

    だが、デュランリュ゚ルがアメリカの倧富豪――ずりわけルむゞヌヌ・ハノマむダヌやバヌサ・パヌマヌのような、みずからの目利きで栌を勝ち取ろうずしおいた女性たち――に「これぞ印象掟」ずしお売り蟌み、正兞に刻み蟌んでいったのは、結局のずころモネ、ルノワヌル、ドガの䞉人だった。


    前章で芋た四人のうち、パリでは察等だったはずのシスレヌの名は、この絞り蟌みから挏れおいる。

    これは偶然の人気投祚ではない。䞉人は、それぞれ異なる欲望に応える、ブランドの圹割分担を䜓珟しおいたのである。


    たずクロヌド・モネ。

    圌は䞉人のなかでも、デュランリュ゚ルにずっお、そしおアメリカ垂堎にずっお「完璧な商品」ずしお突出しおいくこずになる。

    なぜモネが印象掟の代名詞ずなり埗たのか。

    矎術史は「光の探求を諊めなかった玔粋さ」を讃えるが、ビゞネスの論理から芋れば、理由はたるで逆である。


    モネは、途䞭で䜜颚を迷走させたルノワヌルらずは違い、死ぬたで「印象掟の型」を䞀切倉えなかった。

    それどころか、同じ構図、同じモチヌフの絵を、たるで粟密なクロヌンのように倧量に量産連䜜しおくれたのである。



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    同じモチヌフの反埩連䜜によっお「印象掟」の䟡倀を䞍動のものにした『睡蓮』の䞀䜜


    画商にずっお、これほど扱いやすい「芏栌品」はない。

    「積みわら」「ポプラ䞊朚」そしお「睡蓮」――。

    䜜颚が倉わらないずいうこずは、ブランドの品質が完党に保蚌されおいるずいうこずだ。

    買い手にずっおも、「これを買えば間違いない」ずいう安心感に぀ながる。


    顧客の需芁に合わせお、文句を蚀わずに同じ品質の「睡蓮」を次々ず䟛絊しおくれるモネは、ハむブランドにおける「定番のシグネチャヌアむテム」そのものだったのだ。


    そしお、この倧量生産のシステムを氞久䞍滅のブランドにするために、最埌の仕䞊げずしお「神話」が補造された。


    晩幎のモネをめぐっおは、「癜内障で目が芋えなくなりながらも、キャンノァスに向かい、キャンノァスを切り裂きながら、ただひたすらに光の睡蓮を描き続けた孀高の巚匠」ずいう、涙を誘う矎談が語り継がれおいる。

    だが、この胞を打぀物語もたた、生々しい実態を芆い隠すための、できすぎたパッケヌゞ挔出だったのではないか。

    実際のモネは、ゞノェルニヌの庭の池に氎を匕くため、近隣の䜏民や地元の行政ず「氎利暩」をめぐっお䜕幎にもわたり泥沌の公刀ず亀枉を繰り広げた、極めお執念深く、タフで゚ゎむスティックな珟実䞻矩者だった。

    ゚キゟチックな睡蓮を育おるための池の拡匵が、蟲業甚氎を汚す、川の生態系を壊すず非難されおも、圌は䞀歩も匕かずに暩利を䞻匵し続けたのである。

    しかし、アメリカの倧富豪たちに売るために必芁だったのは、「地方自治䜓ず氎利暩を争う頑固な老人の絵」ではない。

    「倱明の危機ず戊いながら、自然の矎を抜象ぞず昇華させた聖者」の物語である。

    生々しい実務ず執念の泥をすべお掗い流し、玔粋な芞術の悲劇ぞず昇華させる。


    このようにしお玡がれた『物語』は、モネの『睡蓮』に、単なる䜜品以䞊の重みを䞎えおいった。

    倱明の危機の䞭で生み出された連䜜は、たさに『呜を削った奇跡の遺産』ずなり、䞖界の矎術史における䞍動の正兞カノンずしおの地䜍を確固たるものにしたのだった。


    次にオヌギュスト・ルノワヌル。圌が担っおいたのは、モネずはたるで別皮の需芁である。

    アメリカの成金たちが本圓に欲しかったのは、絵画そのものである以䞊に、絵のなかに映り蟌む「暮らしぶり」だったのではないか。

    舟遊びに興じる若い男女、ダンスホヌルで頬を玅朮させる嚘、䞞々ずした頬の子䟛――ルノワヌルが奜んで描いたのは、政治にも宗教にも汚されない、ペヌロッパの䞊流から䞭流にかけおの垂民が謳歌する、屈蚗のない幞犏の光景である。


    着食った婊人、豊かな色圩、柔らかな肌の質感。

    そこに描かれおいるのは、革呜でも貧困でもなく、金に恵たれた瀟䌚が手にする、ごく穏圓な悊びそのものだった。


    新興の富豪たちにずっお、これほど郜合の良い絵はない。

    応接間にルノワヌルを掛けるこずは、単に矎しい絵を持぀ずいう以䞊の意味を持っおいた。

    それは、ただ手にしたこずのない「ペヌロッパの掗緎された垂民生掻」そのものを、疑䌌䜓隓ずしお買い取るこずだったのである。

    嚘たちの埮笑みや、光を匟く絹の質感を眺めるたび、自分たちもたた、あの豊かな瀟亀界の䞀員であるかのような感芚を、束の間でも味わうこずができた。

    ルノワヌルが䟛絊しおいたのは、絵の具ではなく、憧れの生掻様匏そのものだったず蚀っおよい。


    そしお、゚ドガヌ・ドガ。䞉人のなかで、もっずも取り扱いに気を遣う商品だったのが、この男である。

    モネの穏やかな颚景や、ルノワヌルの幞犏な垂民生掻ずは違い、ドガが奜んで描いたのは、舞台裏の螊り子、掗濯女、競銬堎の䞀瞬――どこか醒めた芖線で切り取られた、郜䌚の断片だった。

    愛想の良い絵ではない。

    むしろ、芋る者を遞ぶ、屈折した知性を挂わせる絵である。

    だが、この「わかりにくさ」こそが、ドガずいう商品の倀打ちを支えおいた。

    誰もが理解できるものを買うのではなく、限られた目利きにしか芋抜けないものを買う――この振る舞いこそが、成金ずいう立堎から抜け出し、真の教逊人ぞず成り䞊がったこずの蚌しになる。


    ここで倧きな圹目を果たしたのが、画家メアリヌ・カサットだった。

    パリの前衛にどっぷり浞かりながら、生たれも育ちもアメリカずいう二重の身分を持぀カサットは、若きルむゞヌヌ・ハノマむダヌの手を匕き、ただ二十歳そこそこの圌女に、その冷培な批評県ず新奇な構図ゆえに「䞀筋瞄ではいかない偏屈な画家」ず目されおいたドガの絵を買わせる。

    批評家に酷評されおいた画家の絵に、倧金を投じる――この賭けに勝぀こずで、ハノマむダヌは䞊みの成金ずは䞀線を画す、本物の目利きずいう称号を手にしたのである。


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    メアリヌ・カサットによるルむゞヌヌ・ハノマむダヌの肖像1896幎ごろ


    ドガは、いわばブランドにおける最䞊䜍ラむン、プレミアム䟡栌垯を担う存圚だった。

    誰にでもわかる矎しさを差し出すモネやルノワヌルに察し、ドガは「わかる人にしかわからない」ずいう排他の匂いを差し出す。


    この䞉局構造――䞇人向けの癒やし、憧れの生掻様匏、そしお遞ばれた者だけの知性――が揃っお初めお、「印象掟」ずいう看板は、あらゆる局の富豪の欲望を䜙さず刈り取る、隙のない商品棚になり埗たのである。


    ここで、もう䞀぀興味深い事実がある。

    䞉人のうちドガだけは、前章で芋た個展や自前の雑誌ずいった、デュランリュ゚ル自身が甚意した土台をほずんど経由しおいない。

    圌がアメリカの正兞に加わった道筋は、カサットずいう、たったく別の回路を通っおのこずだった。

    看板の䞀角を占めるのに、必ずしも同じ土台を通る必芁はなかった、ずいうこずでもある。



    四 絞り蟌みからこがれ萜ちた画家たち

    この䞉人をトップスタヌずしお固定したこずで、静かに切り捚おられおいった画家たちがいる。

    前章で芋た通り、䞀八八䞉幎の個展でモネやルノワヌルずほが察等な扱いを受けおいたはずのピサロずシスレヌも、この絞り蟌みの䞭では䟋倖ではなかった。

    カミヌナ・ピサロは、第䞀回展から最埌たで、印象掟のほがすべおの展芧䌚に出品し続けた、いわば運動そのものを支え続けた叀参である。

    だが、圌が奜んで描いたのは、蟲村の畑や垂堎ずいった、地味で慎たしい題材だった。


    応接間を圩る華やかさにも、成金の芋栄をくすぐる仕掛けにも乏しい。

    運動を支えた功劎者でありながら、正兞の䞭心には据えられなかったのは、この「売り蟌みにくさ」ゆえだろう。


    アルフレッド・シスレヌもたた、モネず同じ穏やかな川蟺の颚景を描き続けた画家である。

    前章で芋た通り、生涯を通じお経枈の苊しさから抜け出せなかった䞀人でもあった。


    技法や画颚に、モネず倧きな隔たりがあったわけではない。

    ただ、同じ䞻題を描きながら、モネほど匷い個性を刻めなかったこずが、あずになっお効いおきたのかもしれない。


    画像
    モネず䞊ぶ玔粋な印象掟であり続けた、もう䞀぀の遞択肢、シスレヌ



    均等な機䌚を䞎えられおいたはずの画家が、ここで静かに脱萜しおいく。


    フレデリック・バゞヌルは、普仏戊争でただ二十代の若さで戊死しおおり、そもそも売り蟌む時間そのものを持たなかった。


    ギュスタヌノ・カむナボットにいたっおは、みずから絵筆を執る䞀方で、仲間の絵を買い支え、展芧䌚の運営費たで肩代わりした、いわば運動の裏方であり出資者でもあった。

    だが、みずからの䜜品を熱心に売り蟌むずいう構えには乏しく、遺莈をめぐっお囜家ずもめた顛末は、この章の終わりで改めお觊れる。

    才胜で劣っおいたわけではない。

    前章で芋た通り、圌らはみな、デュランリュ゚ルの分散した賭けの察象ずしお、等しく資金を受け取っおいた画家たちである。

    ただ、デュランリュ゚ルずいう商いの目から芋れば、圌らは「売れる物語」に組み蟌みにくい画家だったのだ。

    第䞀章で芋た「技法の新しさだけでは説明の぀かない評䟡」ずいう謎は、ここでもう䞀床、姿を倉えお珟れる。


    教科曞やポスタヌに繰り返し登堎するのが、なぜこの数人の名ばかりなのか――その答えの䞀端は、癟幎以䞊前、ニュヌペヌクの応接間で絞り蟌たれおいった、この遞別の過皋に、すでに描き蟌たれおいたのである。


    五 「革新」ずいう物語の逆茞入

    垂堎に隙間があるだけでは、客は財垃を開かない。

    そこにはもう䞀぀、買い手の心を動かす物語が芁る。

    デュランリュ゚ルずその呚蟺がアメリカの新興富裕局に差し出したのは、絵の巧拙を語る蚀葉だけではなかった。

    もっず根の深い、身の眮きどころにた぀わる物語だったのだ。


    圓時のアメリカで急に財を築いた䞀族――砂糖や鉄鋌、小売りで富を埗た成金たちは、ペヌロッパの叀い貎族瀟䌚を前にするず、拭いがたい匕け目を抱えおいた。

    どれほど金を積んでも、血筋や家柄ずいう物差しでは、決しお叀い家に远い぀けない。

    サロンの流儀に沿った絵を埌から買い集めたずころで、しょせんペヌロッパの埌远いずいう立ち䜍眮からは抜け出せないのである。

    この時代のアメリカ瀟亀界が抱えおいた匕け目は、のちにむヌディス・りォヌトンが描く「金メッキ時代」の小説矀が、繰り返し題材にした空気そのものでもある。


    ここに、逆転の䞀手が甚意されおいた。叀いペヌロッパの審査員は、目が曇っおいる。

    これからの時代を芋抜けるのは、しがらみのない、あなた方アメリカの目だ――ずいう筋曞きである。

    実際、デュランリュ゚ルがアメリカの顧客に宛おた手玙には、これに近い口ぶりが繰り返し珟れる。

    [●]  アメリカの支揎者あおの手玙

    「アメリカの公衆は、偏芋を持たずに䜜品を審査しおくれたす。圌らは、あらかじめ決められたサロンのルヌルお仕着せの型に埓っお絵を芋るのではなく、自分自身の目ず心で䜜品を味わっおくれるのです」 

    "The American public does not judge text in hand; it buys after having looked and understood." / "They are not bound by the prejudices of the Salon..."


    この物語に乗れば、叀い家柄を持たないずいう匱みは、むしろ匷みぞず裏返る。

    埌远いではなく、先駆けずいう立ち䜍眮を、金で買うこずができるようになるのだ。

    もう䞀぀、皮肉な巡り合わせがあった。

    先に芋た通り、サロンの人気を支えおいたのは、裞婊や剣闘士ずいった、扇情に蚎える題材である。

    ずころが圓のアメリカ瀟亀界は、ノィクトリア朝仕蟌みの堅苊しい道埳芳を、なお色濃く残しおいた。


    応接間に裞婊の倧䜜を食るこずは、はばかられる家も少なくなかったのである。

    皮肉なこずに、パリで芋向きもされなかった印象掟の絵――睡蓮の池や庭、着食った婊人ずいった、慎たしい題材――は、こうしたアメリカの応接間には、かえっお収たりがよかった。

    モネが「芏栌品」ずしお量産しおいた穏やかな颚景も、ルノワヌルが描いた屈蚗のない垂民の悊びも、この道埳芳にすっぜり収たる題材だったこずは、偶然ではないだろう。


    この物語をもっずも早く、もっずも深く飲み蟌んだ䞀人が、ルむゞヌヌ・゚ルダヌ、のちのルむゞヌヌ・ハノマむダヌである。

    1874幎ごろ、パリに滞圚しおいた十代のルむゞヌヌは、画家メアリヌ・カサットず知り合う。

    ドガのパステル画を買わせた顛末は、先に芋た通りである。

    のちに「砂糖王」ヘンリヌ・O・ハノマむダヌず結婚したルむゞヌヌは、カサットを頌りに、印象掟を䞭心ずするコレクションを築き䞊げおいく。

    1929幎に圌女が䞖を去ったのち、この䞀倧コレクションはメトロポリタン矎術通ぞず枡り、同通の印象掟の柱の䞀本ずなった。


    同じ頃、もう䞀぀の街でも、よく䌌た物語が繰り返されおいた。

    舞台はシカゎ、䞻圹はホテル王ポッタヌ・パヌマヌの劻バヌサ・パヌマヌである。

    パヌマヌ倫劻が䜓珟しおいたのは、個人の芋栄ずいうより、郜垂そのものの芋栄でもあった。

    倧火から立ち盎ったばかりのシカゎは、東海岞のニュヌペヌクやボストンに察しおも、負けん気を燃やしおいた街である。

    バヌサもたた、助蚀圹サラ・ハロりェルに導かれ、1889幎、デュランリュ゚ルのパリの画廊で初めお印象掟の絵ず出䌚う。

    最初は茪郭のがやけた筆臎に戞惑ったずいうが、通ううちに惹き぀けられ、1891幎から92幎にかけおの枡欧で、モネだけで九十点近くを買い集めるたでになる。


    1893幎のシカゎ䞇囜博芧䌚に合わせお、パヌマヌはこのコレクションを䞀堂に集めた展瀺を仕掛けた。

    地元玙は、すでに1888幎の時点で、わざわざパリぞ行く芁などない、パリのほうがシカゎぞやっお来たのだから、ず曞いおいる。

    パヌマヌの死埌、1922幎にシカゎ矎術通ぞ枡ったこのコレクションは、今日でも同通の印象掟コレクションの土台ずなっおいる。



    画像
    バヌサ・パヌマヌ邞の絵画展瀺宀圓時の写真


    ハノマむダヌやパヌマヌが先陣を切るず、埌に続く䞀族も珟れ始める。

    コヌクスず鉄鋌で財をなしたヘンリヌ・フリック、金融の頂点に立ったJ・P・モルガン、そしおボストンの旧家に生たれながら、みずからの矎術通フェンりェむ・コヌトを築いたむザベラ・スチュワヌト・ガヌドナヌ倫人。

    医薬品で財を築いたアルバヌト・バヌンズもたた、同じ時期に、ペヌロッパでただ評䟡の定たらない絵を、たずめお買い蟌んだ収集家の䞀人である。


    ここで芋過ごせないのは、この物語の䞻圹の倚くが、女性だったずいう事実である。

    ハノマむダヌもパヌマヌも、そしおガヌドナヌも、圓時の商いの衚舞台からは締め出されおいた偎の人間だった。

    だが矎術品の収集ずいう領域だけは、圌女たち自身の目ず刀断が、そのたた評䟡ずいう経枈の力に盎結する、数少ない堎所でもあったのだ。


    サロンで名の通った絵を買えば、ペヌロッパの埌を远う成金でしかない。

    だが、ペヌロッパ自身がただ認めおいない絵に賭ければ、むしろペヌロッパより䞀歩先んじる、新しい囜の気抂を䜓珟する者になれる。

    この読み替えこそ、倀の぀かなかった絵に倧金を積たせた、いちばんの動機だったのだろう。

    この物語の型は、印象掟だけでは終わらなかった。

    四半䞖玀のち、1913幎のアヌモリヌ・ショヌでキュビスムをはじめずする新しい絵をいち早く買い蟌んだ収集家たちもたた、䌌た理屈を掲げおいる。

    もっずも、正確を期すなら、ペヌロッパにも早くから印象掟を買い支えた個人はいた。

    実業家゚ルネスト・オシュデや、皎関吏ノィクトヌル・ショケらは、パリでもいち早く手を䌞ばした郚類である。

    だが、こうした少数の目利きの存圚は、「新倧陞だけが新しい矎を芋抜いた」ずいう筋曞きの前では、ほずんど語られるこずがなかった。


    もっずも、話はここで単玔に片づきはしない。

    アメリカでこれほどの熱がこもっおいた1894幎、圓の本堎フランスでは、たったく逆の光景が広がっおいた。


    印象掟を長らく金銭で支えおいたギュスタヌノ・カむナボットが䞖を去り、遺蚀により、モネ、ルノワヌル、ドガ、セザンヌらの䜜品、六十点あたりをルヌノル矎術通ぞ、ずいう遺莈の申し出がなされる。

    ずころがフランス政府は、二幎近くたなざらしにした挙句、およそ半分しか受け取らなかった。

    反察の急先鋒に立ったのは、他ならぬゞャンレオン・ゞェロヌム――サロンの寵児ずしお、耇補暩の商いにも通じおいたあの画家である。

    倧西掋の向こうでは印象掟の絵がすでに倧富豪の邞宅を食っおいたのに、圓のフランスでは、囜家みずからの矎術通に迎え入れるこずに、なお匷い抵抗が残っおいたのだ。

    この䞀件から䞀䞖玀近くを経た1986幎、フランスはパリ・オルセヌ駅の跡地に、印象掟を看板に据えた矎術通を新たに開いおいる。

    か぀お政府みずからが遺莈を枋った絵たちは、いたではこの囜を代衚する至宝ずしお、䞖界䞭からの客を迎え入れおいる。

    「アメリカで評䟡が定たれば、フランスもすぐに远随した」ずいうほど、この埀埩運動は単玔ではない。

    倧西掋を挟んだ䞡偎で、異なる速さず理屈により、評䟡ずいう倀札が、ゆっくりず、䞍揃いに曞き換えられおいった――そう芋るほうが、実態に近いだろう。

    やがお二十䞖玀に入る頃には、ペヌロッパの偎にも、別の焊りが芜生え始める。

    自囜の生んだ絵が、次々ず倧西掋の向こうぞ買われおいく。
    これは文化の損倱ではないか、ずいう声である。

    もう䞀぀、跳ね返りがあった。

    アメリカでの商いが軌道に乗るず、倧西掋の向こうで倀が぀き始めた絵は、パリの画商たちの目にも、俄然、倀の匵る商品ずしお映るようになる。


    買い手のいなかった品が、遠い異囜での成功を手土産に、地元ぞ逆茞入されお倀を䞊げる――この巡り合わせもたた、今日のブランド論でよく語られる筋曞きず、重なるずころが倚い。

    ニュヌペヌクずシカゎ、二぀の街に生たれた倧きなコレクションは、のちにそれぞれの矎術通の看板ずなる。

    印象掟の名品をめぐる䞡者の匵り合いは、今日に至るたで、静かに続いおいる。

    こうしおニュヌペヌクずシカゎに根を䞋ろした印象掟の絵は、やがお収集家たちの手から矎術通ぞず枡り、䞖界の教科曞に茉る「正兞」ぞの道を歩み始める。

    パリの飲み䌚ず内茪もめから始たり、アメリカの成金たちの匕け目を裏返す物語を経お緎り䞊げられた「印象掟むコヌル偉倧な革新」ずいう語り口は、こうしお倧西掋を枡り、時をかけお逆にペヌロッパぞ、そしお䞖界ぞず広たっおいったのである。

    技法の新しさだけでは説明の぀かない今日の評䟡の高さは、この長く、いび぀な埀埩運動のなかで醞成されたず芋およいのではないか。


    パリでは満垭だった舞台の倖に、隙間のある垂堎を芋぀け出す。

    そこに、買い手の身の眮きどころを塗り替える物語を添える。

    そしお、数ある画家のなかから、それぞれの欲望に応える顔ぶれを遞び抜き、看板ずしお磚き䞊げる。


    デュランリュ゚ルが仕掛けたこの䞉段構えの戊略こそ、印象掟を䞀介の反逆者から、䞖界に名だたるブランドぞず抌し䞊げた、もう䞀぀の掚進力だったず蚀えるだろう。

    そしお、この「評䟡を぀くる仕組み」は、十九䞖玀のパリずアメリカだけの物語では終わらない。

    海を越え、時代を越え、驚くほどよく䌌た仕組みが、いたも別の堎所で息をしおいる。


    隙間を芋぀け、そこに物語を添え、そしお誰を看板に立おるかを遞び抜く。

    この䞉぀の動きさえあれば、倀打ちは、時代や堎所を遞ばず、いくらでも䜜り盎せるのかもしれない。


    ● 䞻芁参考文献

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    私は絵画を鑑賞しない。解剖する。 色圩の䞋には思想が眠り、構図の奥には歎史が朜み、沈黙のたた共存しおいる。 19䞖玀西掋矎術ずキリスト教図像孊を研究する20歳。独自芖点で芞術ず宗教の亀差点を探求䞭 メヌル oharakamira@gmail.com

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