
仕事だから──バリ島で出会った二人の言葉
ウブドを巡るため、一日ガイドさんをお願いした。
当日の朝、ホテルのロビーに現れたのは、頭にスカーフを巻き、民族調の紫やオレンジのきらびやかな布をまとった五十代くらいの男性だった。
助手席に乗り込み、車が走り出すと、振り向いて日本語で話しかけてきた。
意外なほど流暢な日本語だった。
語尾には「〇〇だからね」。
相槌は、「んーまぁ」「いやー」。
うんうん、と頷くテンポまで、日本人とほとんど変わらない。
すごい。
どうやってここまで習得したのだろう。
いろいろ聞いてみた。
日本語は講座で習ったという。講師はインドネシア人。
きちんと勉強したのはここ半年ほど。
子どもが小さい頃から、ガイドの仕事をしてきたそうだ。
単語を覚えるだけでは、ここまでは届かない気がした。
カフェの注文やトイレの案内まで、気配りは過不足なく自然だった。
語り口も紳士的で、適度な距離感が心地よかった。
途中、何度か電話が入った。
仕事の打ち合わせらしかったが、「後で電話する」と短く伝え、すぐに切っていた。
しかし、観光に時間がかかり、帰りは遅くなった。
車を待つあいだにも電話が入り、しばらく話していた。
ときおり、声が強くなる。
夜の帰り道にも何度か電話がかかり、そのたびに少し苛立った様子で応じていた。
「日本語、本当にお上手ですね」
そう話しかけると、ガイドさんは私をちらりと見て、少し遠くを見るような目で言った。
「仕事だから。」
微かに頷いた。
静かな声だった。
暗い車内で、私は思わずその顔を見つめた。
目の周りには細かい皺が寄り、少し痙攣しているようにも見えた。
私の向こう側に、別の時間があるような目だった。
二日後。
最後の夜に、伝統舞踊を鑑賞した。
会場の入口を入ると、席まで続く細い通路の両側に、小さな露店が並んでいた。
可愛いブレスレットやコースター、絵や楽器。
木や竹でできた小さな楽器に目を止めると、胡座をかいていた男性が、流暢な日本語で説明してくれた。
代金も、日本円に換算して教えてくれる。
感情のこもった日本語だった。
頭には白いスカーフを巻き、こちらをまっすぐ見て、少し笑っていた。
目の周りには皺が寄っていた。
持っていた現金は代金の半分ほどだったが、「それでいい」と言ってくれた。
やりとりのテンポも、日本人同士と遜色ない。
「日本語、お上手ですね。」
思わず言った。
「ほかにどんな言葉が話せるんですか」
「英語と、あとイタリア語を少し。」
そして、少し低い声で、つぶやくように続けた。
「仕事だから。」
少し遠くを見るような目だった。
あの日のガイドさんと、よく似ていた。
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この作品は「日常の薄皮をなでる」シリーズの一篇です。
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