社内恋愛を避ける若者たちは、なぜランニングに出会いを求めるのか?
日経新聞の紙面をめくっていて、ふと目が留まった記事があった。見出しには「皇居ランで健康も伴侶も」「社内恋愛にリスク、新たな出会いの場に」と並んでいる。記事によれば、平日の夜や休日の早朝、会社員らが集まるランニングコミュニティが活況を呈しているらしい。運動不足の解消だけでなく、自然な出会いを求めて参加する若者が増え、マッチングアプリの運営会社までもが皇居周辺でグループランイベントを仕掛けているという。
記事を読みながら、正直なところ少し奇妙な感覚を覚えた。
僕自身、日頃から好んでランニングをしている。ただし、誰かと連れ立って走ることはまずない。基本的に1人で走る。他人にスケジュールを合わせる必要がなく、思い立ったときにシューズを履いて外に出れば、いつでも始められる。この「気楽な単独性」こそがランニングの最大の長所だと信じ切っていたからだ。
それだけに、他人に予定を合わせて集まり、会話を交わしながら走るというスタイルが、しかも「出会いの場」として定着しつつあるという現実は、僕自身のランニング観とはずいぶんと遠いところにあるように思えた。
他のスポーツへの波及という仮説とそのほころび
最初に頭に浮かんだのは、素朴な疑問だった。
ランニングが出会いやコミュニティづくりの道具として機能しているのなら、同じようにハードルが低めで皆で楽しめるスポーツ――たとえばゴルフやテニスのような競技にも、同様の波及が起きるのではないか。
だが、この仮説を念頭に置きながら思考を巡らせてみると、すぐに論理の綻びに突き当たった。ランニングが持つ「ハードルの低さ」と、ゴルフやテニスが抱える参入障壁の間には、想像以上に深い谷が横たわっている。
第1に、技術格差の問題がある。 テニスやゴルフは、ある程度ボールが前に飛ぶ、ラリーが成立するという最低限の技術水準に達していなければ、ゲームそのものが成り立たない。腕前に大きな開きがあれば、経験者は初心者に気を遣い、初心者は申し訳なさに縮こまる。これでは「自然な会話」どころではない。一方、ランニングには技術格差による気まずさが原理的に存在しない。走るペースさえ合わせてしまえば、ベテランも初心者も同じ空間を共有できる。初心者が誰かの足を引っ張るという事態は起きない。
第2に、時間と費用の問題だ。 ゴルフに行くとなれば道具一式を揃え、練習場に通い、当日は早起きして郊外へ車を走らせ、丸一日と数万円を消費する。テニスにしても、都内で手頃なコートを押さえるのは容易ではなく、ラケットやシューズの準備がいる。「平日の退勤後、着替えを済ませてふらりと合流する」という手軽さには程遠い。
そう考えると、もしランニングと同じ文脈で受け皿になり得るとすれば、それはゴルフやテニスではなく、近年耳にする機会が増えたピックルボールや、商業施設などに併設されるようになったボルダリングのほうだろう。
ピックルボールはテニスよりコートが狭く、プラスチック製のボールを使うため球速も出ない。未経験者でも開始10分でラリーが続き、ゲームが成立するよう緻密に設計されている。ボルダリングも道具はすべてレンタルでき、登っては休み、休んでは登るというサイクルのなかで、周囲と「今の足の位置、惜しかったですね」といった言葉を無理なく交わせる。
いずれにしても共通しているのは、「技術の習得に時間を要さず、手ぶらに近い感覚で参加でき、失敗しても場が気まずくならない」という点だ。ランニングが選ばれているのは、単に身体を動かせるからではなく、コミュニケーションの摩擦係数が極限まで削ぎ落とされたアクティビティだからなのだと気付かされた。
職場が失った「無害な雑談」の代償
もう1つ、考え込むきっかけになったのは「なぜ今、わざわざ走ることで出会いを求めなければならないのか」という点だ。記事には、若者たちが社内恋愛のリスクを避けている背景が書かれていた。
かつては、職場こそがもっとも身近で確実な出会いの場だったはずだ。日常の業務を通じて人柄や生活態度が自然と見え、共通の話題にも事欠かない。しかし現代の職場は、コンプライアンスやハラスメント防止への意識が高まりきっている。
悪気のない食事の誘いや私生活への詮索が、受け取り方次第で重大な問題になりかねない。テキストチャットとリモートワークの浸透は、業務の効率化をもたらした一方で、かつて存在していた「偶発的な雑談」や「帰り際のふとした立ち話」という余白を徹底的に削ぎ落とした。関係が破綻した際のキャリアへの影響や社内での居心地を考えれば、職場でのアプローチを「ハイリスク・ノーリターン」と判断するのは極めて合理的だ。
だが、人は孤立したままではいられない。マッチングアプリという選択肢はあるものの、1対1で向き合い、プロフィールを見定め、面談のように品定めし合う空間に疲弊する人も少なくない。
そこで浮上したのが、ランニングという「隠れ蓑」なのだろう。 走るという行為は、建前としてはどこまでも「健康のため」「リフレッシュのため」という無害な目的を保てる。正面から見つめ合って話す必要もなく、同じ前方を向きながら言葉を交わすため、沈黙が生じても気まずくならない。仮にその場で良い出会いがなかったとしても、「今夜はしっかり運動した」という納得感だけは手元に残る。
窮屈になった職場と、効率化されすぎて息苦しいマッチング市場。その双方がこぼれ落とした「リスクのない、ほどよい距離感の他者との接点」を、人々はランニングという手段を借りて安全に買い戻そうとしているように見える。
純粋なランナーとしての違和感
社会的な背景には十分に納得がいった。しかし、納得することと、それを1人のランナーとして快く受け入れられるかどうかは別の話だ。
自分にとって、日々のランニングは雑念を払い、心身を一定の調律に戻すための静かな儀式のようなものである。自分の呼吸と足音だけに耳を傾け、誰にも気兼ねせず走る。その純粋な領域が、いつの間にか「出会いの場」や「婚活の代替手段」として消費されている様子を眺めるのは、正直に言って複雑な思いが残る。
もちろん、走る動機は人それぞれだ。健康増進であれ、自己ベストの更新であれ、仲間づくりであれ、他人がとやかく口を挟む筋合いはない。
しかし、その「目的の変質」が実際の走路において物理的な影響を及ぼし始めているとしたら、話は違ってくる。記事の後半でも触れられていたが、皇居周辺や都内の公園で、集団ランナーに対する散歩者や歩行者からの苦情が相次いでいるという。
「集団で追い越されると威圧感がある」 「道幅が狭い場所でぶつかりそうになる」
こうした声を目にしたとき、僕が日頃から抱いていた見苦しい光景への憤りと完全に重なった。
「群集心理」が生み出す暴力性
皇居の周回路や公園の歩道は、競技場でもなければランナー専用の私道でもない。法的な位置づけを論じるまでもなく、そこは散歩をする高齢者や、小さな子どもを連れた親、ベンチで休憩する人々など、多様な市民が穏やかに利用するための公共空間である。
にもかかわらず、僕のホームコースである近所の公園であっても、時に驚くほど傲慢な集団を見かけることがある。3列も4列も横に広がり、道幅を塞ぎながら談笑し、前から歩行者が来ても列を崩そうとしない。スピードを落とすどころか、まるで「邪魔だからそこをどけ」と言わんばかりの態度ですれすれを走り抜けていく。
1人であれば、おそらく誰もが分別のある市民のはずだ。狭い道では立ち止まって道を譲り、他人にぶつからないよう細心の注意を払うだろう。
ところが、それが十数人の集団になった途端、異様な群集心理が頭をもたげる。意識がグループ内の会話や盛り上がりに奪われ、視界の外側にいる歩行者の存在が「生身の人間」ではなく単なる「障害物」へと格下げされてしまう。「皆で健康的な運動をしているのだから正しい」という内向きの全能感が、公共の場を占有することへの羞恥心を麻痺させてしまうのだ。
時速10キロを超えるスピードで移動する複数の人間の塊は、歩行者から見れば動く壁であり、明確な脅威に他ならない。接触すれば大怪我につながる危険性があるにもかかわらず、その質量と速度に対する自覚が集団になると決定的に欠落する。同じランナーの視点から見ても、これほど身勝手で見苦しい振る舞いはない。
主催者の責務と「自由」を守るための境界線
問題の所在を個々の参加者のモラルだけに求めるのは無理がある。最終的な責任は、そうした場を企画し、大人数を集めて公道へと送り出しているコミュニティのリーダーや主催者にある。
出会いやコミュニティ形成を謳い、有料会員を集めたりイベント化したりして人を集めるのであれば、そこには明確な管理責任が発生する。 集合時に歩行者優先を徹底して周知しているのか。大人数を5〜6人程度の小集団に小分けにし、時間差で出発させているか。隊列の前後にスタッフを配置し、列が乱れたら即座に注意を促す体制を整えているのか。
そうした当たり前のガバナンスを放棄したまま、公道をタダのイベント会場として無責任に使い倒す行為は、厳しく批判されて然るべきだ。
現状のような自主ルール頼みが限界を迎えているのなら、より踏み込んだ枠組みを設けることも現実的な選択肢ではないかと思う。
たとえば、一定人数以上の集団で走る場合は事前届出制とし、主催者には安全講習の受講を義務付ける。参加者には識別用のビブスを着用させ、悪質なマナー違反や歩行者からの苦情が累積した団体には、公共スペースでの集団利用を禁止するペナルティを科す。
このような提案をすれば、「窮屈な規制だ」「スポーツの自由を奪うのか」という反発が必ず出るだろう。 しかし、放置した先に待っているのは何か。無秩序な集団走によるトラブルが決定的な事故に発展したとき、下される結断は「皇居や公園におけるランニングの全面禁止」という、すべてのランナーにとって最悪の結末だ。
ランナーにも公の場を利用して走る権利はある。だがその権利は、「歩行者の安全と平穏を絶対に脅かさない」という義務を果たして初めて成立するものだ。
誰にも縛られず、ただ自分の足で前に進む。そのシンプルで豊かな時間を守るためにも、我々は「走る自由」の足元にある公共への敬意を、今一度見つめ直す必要がある。
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