
#38万葉集の生活史 ティーブレイク:筑波の道
■「筑波の道」
さて、ここまで筑波山の歌を見てきましたが、実はこの山、もうひとつ大事な顔があります。
「歌が往復する場所」だと言いましたが、その往復、名前が付いています。
筑波の道、といいます。
これは連歌の異称です。
日本武尊が筑波を過ぎ、甲斐国の酒折宮に着いたとき、
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
と詠んだのに対して、火ともしの翁が、
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と応じた、という話があります。
問いかけに、答えが返る。
この「続ける」かたちが、連歌のはじまりとされていて、そこから「筑波の道」という言い方が生まれました。
歌は、一人で終わらない。
誰かが受け取り、返すことで、次へと続いていく。
そのやり取りそのものが、「道」として意識されていくわけです。
■連歌から俳諧、発句、俳句へ
連歌というのは、五・七・五と七・七を、複数人で交互につないでいく遊びです。
奈良時代にはすでに原型があったとされていて、最初は短い応酬のかたちでしたが、やがて長く連ねていく形式へと発展していきます。
その過程で、幽玄やさびを重んじる方向と、機知や滑稽を楽しむ方向に分かれていきます。
後者が、いわゆる俳諧連歌です。
この「ちょっとふざける余地がある」感じが、あとに効いてきます。
俳諧は、「滑稽」を主とする連歌の流れです。
山崎宗鑑の『犬筑波集』や、荒木田守武の作品などによって、次第に独自の文化として広がっていきます。
そしてこの俳諧連歌から、最初の五・七・五だけを切り出して、単独で読める発句にしたのが、松尾芭蕉です。
もともとは「つながる」ものだった一節が、そこで「ひとつで立つ」ようになる。
ここでようやく、俳句の入口が見えてきます。
さらに時代が下って、明治になると、正岡子規がこの発句を「俳句」として再編成します。
つまり、
つながるものだった歌が、
切り出され、
独立し、
名前を変えていく。
そういう流れです。
ただ、もともとのかたちは変わっていません。
誰かが詠み、
誰かが受け取り、
また別の誰かへ渡っていく。
筑波山で見た「歌の往復」は、そのまま形を変えて続いているだけです。
歌は、つながることで道になる。
そしてその道は、名前を変えながら、今もまだ続いています。
歌がつながる、というのは、何もその場のやり取りだけではありません。
言葉そのものも、引き継がれていきます。
例えば、こんな歌があります。
「春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく」
三笠の山に月が出てくれないだろうか。
佐紀山の桜を見るために。
月を呼び出すような言い方です。
そして、よく似た言い回しの歌が、のちに現れます。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
こちらは、遠くから振り返って見ている。
同じ「春日なる三笠の山」、同じ「月」でも、
時間の向きが逆になっています。
呼びかける月と、思い出される月。
けれど、使われている言葉のかたちは、ほとんど変わりません。
歌は、まったく新しく作られるものではなく、
すでにある言い回しをなぞりながら、生まれていきます。
その繰り返しが、やがて「道」として見えるようになる。
筑波の道という言い方は、そうした言葉のつながりにも、
よく似ている気がします。