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高校ワンゲル物語 LAST

    最終章  またふたたびの春

     先輩たちが「初日の出登山」に行ったことを知ったのは、始業式の日だった。
     部室に行くと妙に鈍い黒色に灼けた二年生が揃っており、楽しそうに話しをしていた。僕は久しぶりに会う先輩たちに新年の挨拶をし「どうしてそんな色になったんですか」と訊いてみた。
    「ふふふ、それはなあ、中原、ふふふ」
     蔵田さんが妙な含み笑いをしながら、もったいぶって言った。
    「まあ、お前らには五年くらい早いよなあ。そうだろ、大津」
     キャプテンも意味ありげな笑いをしながら言った。キャプテンの鼻は皮膚がむけて赤い膚が覗いていた。
    「何ですか、もったいぶらないでくださいよ」
     一緒に部室に来た山崎も不服そうに訊ねた。
    「雪山に行ってきたんだよ。石建山。初日の出も拝んできたぜ」
     僕はすっかり驚いてしまった。冬休みに入る前にはそんなこと一言も聞いていなかったからである。
    「お前らに言うとさあ、谷川先生に言っちゃうだろ。ばれるとまずいからさ、内緒にしといたんだ」
    「え、二年生だけで行ったんですか」
    「おう。鉄の絆で結ばれた俺たち四人だけだ」
     蔵田さんが大げさに胸を張るポーズをして言った。
    「雪崩とかホワイト・アウトとか滑落とかそんな危険は大丈夫だったんですか」
     谷川先生の話でちょっと雪山アレルギー気味だった僕は、興味深く訊いた。
    「おまえ、石建山だよ。平気だって」
     そう言って蔵田さんは笑った。石建山は西日本一の標高を誇る山ではあるが、二千メートルに少し足りない高さであり、夏ともなると老若男女の集まるポピュラーな山であった。

     二泊三日の山行とのことだった。十二月三十一日に山に入り、頂上直下の地点でキャンプを行い、元日暗いうちに登頂し、その後、石建山系の鐘ケ山まで縦走、テント泊。二日に下山したとのことである。雪中キャンプは全員が初体験であったが、本を読んで準備していたと言う。
    シュラフは冬物を借りてきていたが、テントはいつもの帆布製の三角テントであったので、寒くて仕方なかったそうである。いろいろ大変だったようだが、雪灼けしてしまうくらいの好天で、雪に覆われた山の素晴らしさを充分堪能してきたとのことであった。
    「誘ってくれれば良かったのに」
     山崎がそう言った。
    「駄目駄目、鉄の絆が乱れる。そう言うだろうと思ったから、内緒にしてたんだよ」
     蔵田さんがまた胸を張って言った。
    「来年はお前らで行けばいいさ。でも、安全の保障はできないぜ」
     このところ、雪山での遭難事故がよく新聞に載っていることを思い出した。そして、ゆかりの見せてくれた谷川先生の記事も思い出した。

    「仕方ないよな」
     キャプテンがそう言った。僕は片岡がワンゲルを抜ける話を、彼が来ていない今日、初めて先輩たちに伝えた。東京大学理科三類は甘いものじゃないとの理由も併せて伝えた。居合わせたみんなは初め驚いたが、すぐに全員淋しそうな顔付きになって唸った。
    「結構食らいついてきてたのに、惜しいよな」
    「おう、資金援助も受けてないぜ、まだ」
     蔵田さんがそう言うと、みんな少し笑った。でも、ちょっと気の抜けた笑いであった。
    「来年の春までは籍を残したいと言ってました。十人切っちゃうと同好会解散しちゃうんで」
     僕がそう言うと、みんなまた唸った。
    「となると、中原、山崎。来年は今年抜ける三年生三人と、片岡を合わせた四人は絶対入部させないといかんよな」
     キャプテンがそう言った。僕にとって頭の痛い問題はそれだった。
    「俺達が卒業するまでに同好会を解散させるんじゃねえぞ」
    「部に昇格させろ、とまでは言わんが」
     先輩たちはそう言った。『ワンダーフォーゲル部』何だか納まりの悪い表現であり、夢のような話だと思った。

     先輩たちが雪山登山を準備し、決行していた頃、僕は辞書を片手に苦しんでいた。
     別に二学期の成績が悪かったことを反省し勉強を始めたという訳ではなく、『The Complete Walker』を読んでいたのであった。谷川先生からこの本を借りたのは夏であったが、ようやく今になってひもといていた。登山用具を奇麗に並べた写真の載った本は、カバーを見た感じではとっつきやすいのであるが、分厚くていざページを開くと英語が並んでおり――外書なのだから当然である――、全く読む気を失わせてしまっていた。それでも所々、山での生活の風景や、各種用具のイラストが描かれており、それを見ているだけで何だか嬉しくなった。
     谷川先生の辿り着いたバックパッカーの思想を学び取ってみたいと思ったのは、この間の先生の話を聞いたあとだった。Dを山で失い、大自然の力を知った先生が至った境地とはどういうものなのだろうかと思ったのである。それでやっと自宅の机の上で埃をかぶっていた『The Complete Walker』を開いたのだった。
     授業の英文リーダーでもここまで熱心に勉強したことはなかった。未見の単語やら隠されている構文を理解する作業には骨が折れた。ウィルダネス――この単語もここで初めて学んだ――を歩くノウハウについてこつこつと、時にはおおざっぱに理解していった。

     読み進めていくうちに、ある用具が出てきた。「SVEA123」であった。軽量でコンパクト、そのくせ火力は強く燃焼時間も長い、理想のstoveであると表現されていた。プレ・ヒートは固形燃料をバーナー部の根元にある窪みで燃焼させるようになっていたが、著者であるコリン・フレッチャーは「……ティー・バッグの空き袋を燃やしてタンクを底から熱し……ノズルから漏れ出すガソリン……ジェネレーターを伝い落ち、基部の浅いボウルに溜まっていく……バルブを閉めてガソリンに点火する。燃えきろうとするところで、再びバルブを開く……」と書いてあった。
     僕がT市のスポーツショップで見つけ、実際の使用方法を谷川先生のお宅で見せてもらった「スベア123R」について、現実的でオリジナリティに溢れた使用方法の記述に出会った僕は、より一層「123R」に対する憧憬の念を強くもってしまった。
    ―――お年玉で買うか。
     そう僕は思ってしまった。しかし、それは今回のお年玉の総額では買えない値段であることは分かっていた。何より、二学期の成績の悪さをワンゲルのせいにし始めた両親の許可が得られないはずだった。

     ジョギングから戻ってくると、誰もいないと思っていた部室に山崎がいた。既に五時を回っており、辺りはすっかり暗くなっていたため、部室から電灯の光が漏れていることに気づき驚いてしまった。しかし、恐る恐る扉を開け、中を覗くと山崎がいた。僕は「しまった」と思った。
     終業式の夜、お好み焼き屋での山崎の打ち明け話以降、できるだけ彼女と二人だけになることを僕は避けていた。
     「私には……私には……これは似合わないかしら」
     オレンジ色のポロシャツを胸にあてがって、恥じらう表情で言った彼女に対して、僕はとぼけるように返答してはいたが、それで彼女が納得しているかどうかは分からなかった。僕が同じ立場でいたら、ちゃんとした返答を求めたに違いなかった。
     山崎は椅子に座って文庫本を読んでいたが、扉が開いた音に驚き、こちらに顔を向けた。
    「ああ、驚いた」
     そう言って、彼女は文庫本を閉じた。僕は仕方なく中に入った。
    「驚いたのはこっちの方だよ。どうしたんだこんなに遅く」
    「え、うん」
     彼女は俯いた。文庫本を持った両手を後ろに回し、何か言いたげであった。
    「着替えるから、ちょっと出てってもらえるかな」
     僕はそう言って、彼女を外に出した。
    「この間のこと、どう思ってるかなって思って」
     着替えを済ませ、山崎を部室に招じ入れた後、彼女はそう言った。
    「私の言ったことの意味がちゃんと伝わってたかしら」
     彼女の表情に恥じらいはもはやなかった。いつものちょっと勝ち気な彼女だった。
    「……」
     僕は何と返答すればいいか分からなかった。あれから山崎のことをずっと考えていた。山崎はちょっと気の強いところはあるが、それは何故だか僕に対してだけのようであり、クラスの中では明るくて面倒見のいい女の子であった。片岡も含めたクラスの男子生徒ばかりではなく、例のバスケ部の二年生など他の学年の男子生徒からもちょっと注目される存在ではあった。
     以前、ジョギング・コースであるお城で待ち伏せした男子生徒からラブレターを押し付けられたことすらあった。
    「こんなやり方する人は、ちょっとねえ」
     その時山崎はそう言って、封筒をひらひらさせながら笑っていた。

     文化祭に展示する山行記録を一緒に企画していた頃から、僕は知らず知らずのうちに山崎に対して好意を抱き始めていたのかもしれなかった。文化祭の最終日、「あの子の代わりに……なってあげようか?」と言った時の山崎の真剣な眼差しは、今も脳裏にはっきりと焼き付いていた。
    「迷惑かしら」
     返答しない僕に山崎は迫った。そう言われて僕は顔を天井に向けた。
    「……ゆかりさんのことが好きなの?」 
    「分からないよ、今はね」
     ゆかりの名前を出されて僕はそう答えた。その返答はゆかりに対する想いについてのものであり、今の山崎の問いに対するものではなかった。
     あれからゆかりとは何の連絡も取っていなかった。取れようはずもなかった。彼女に対する恋心を伝えるため、まず彼女に同じオレンジ色のポロシャツを着ていた男性の存在とその意義を確認しようとしたのだが、それは山崎の強襲によってはばまれた。
     もし、「ただのお友達」という答があったとしても、山崎の出現で僕はそのあと言い出すことはできなかったはずである。ゆかりは、山崎の存在が僕における「ただのお友達」と理解しないだろう。要するに、ゆかりとは今後進展はありえないと覚悟していた。
    「好きだから、会っていたんでしょう」
    「そんなに簡単に割り切るなよ……それについては今整理中だ」
     僕は胸のうちを正直に伝えた。
    「整理中?」
    「……雪山でさ、吹雪に遭ってにっちもさっちもいかなくなってる状況」
    「何よ、それ」
     不可思議な表情で山崎は言った。
    「進みたいけど進めない。ビバーク中だ」
    「まだ進む気はあるの」
    「いや、その、ね」
     また喋り過ぎた僕は顔を赤らめて口ごもった。まあ、進めないだろうと思ってはいたが。

    「私は中原君のことが好きよ」
     それを聞いて僕は体が強張った。何でこんなにはっきり言うんだろうか。
    「それだけは伝えておくわ……中原君の心が整理された時、何かを喋ってちょうだい」
     真剣な表情に戻って山崎がそう言った。やっと解放されると思い、僕はほっとした。
    「ビバークはよして早く下山した方がいいわよ。技術がないのは遭難のもとよ」
     そう言って、山崎は部室を出て行った。
    ―――もう遭難してるさ。
     心の中で僕はそう思った。
    「技術がないからね」
     呟くようにそう言ったが、山崎に聞こえるはずはなかった。もちろん、ゆかりにも。

     露で濡れる窓を拭って外を見ると、冷たい海風が吹き荒れており、海岸沿いにまばらに生えている樹木が大きくなびいていた。僕はしばらくそんな寒々とした風景を見ていたが、やがて視線を戻した。
    「そんなものにお金を使ってどうするの」
     数日前、意を決して「スベア123R」を買うために貯金を下ろして欲しいと言った時、母からそう言われた。
    「僕がもらったお金じゃないか」
     僕はそう言い張った。当然の権利であると思っていたが、親戚の子どもにお年玉を出しているのは自分たちの方で、本当ならこっちに返してもらいたいくらいだ、とまで言われてしまった。
    「ワンゲルばかり熱心でどうするの。大学に行く気あるの」
     もちろん、今の高校に入ったのも大学に進学するためであった。確かに、勉強熱心じゃないことは認めるが、まだ一年生なんだし、もうしばらくはワンゲルに専念させてもらいたいと思っていた。
    「片岡総合病院の息子、ワンゲル辞めるんだろ。東大目指してるんだろ」
     ワンゲルでの活動には中立的だった父まで、皮肉っぽくそう言った。そう言われて僕は何も言えなくなってしまっていた。
    「部活動はやってもいいけど、そんなもの買うのはやめておきなさい。適当にしなさい」
     僕は何も言えず俯いていた。総体の時、ニッカーを作ってくれた母や、夏山から帰ってきた僕に「相当焼けたな」と言って笑っていた父を思い出した途端、悔しさで涙が溢れてきた。
     声を出さず泣く僕の姿を見て、二人とも黙った。台所の掛け時計の時を刻む音が妙に大きく響いていた。
    「勉強もしなきゃならんよな」
     沈黙を破って父がゆっくりと言った。僕は黙って頷いた。
    「今度のテストはちょっとぐらいいい成績取るよな、晃一」
     僕は黙ったまま、ゆっくり頷いた。
    「成績が戻らなかったら、没収するぞ。それでもいいなら買ってこい」
     僕は驚いて顔を上げた。床に落ちていた涙が頬を伝って行った。
    「お父さん」
     母が諌めるように言った。しかし、無視して父は続けた。
    「お父さんたちはお前にいい大学に行ってもらいたいから、今の学校にやってるんだからな」
     僕は涙を拭って大きく頷いた。
    「お父さん甘いわよ」
     母が嘆息して言った。

     T市のスポーツショップで「スベア123R」を手にした僕は、胸を張ってレジにいる店員に言った。
    「これください。でも、在庫の方をください」
     僕の大きな声に弾かれたように店員は「はい、お待ちくださいませ」と言ってレジ裏の倉庫に入って行き、やがて小さな箱を持ってきて、中身を取り出した。
    「こちらでございますね」
     展示品よりもっと黄金色に輝いている新品の「スベア123R」だった。僕はそれを手に取った。持ち上げた時、鎖が本体に触れ、いつもの爽やかな音を立てた。
     憧れの「スベア123R」がとうとう僕のものになると思った。感無量だった。
     にこやかな表情で店員がお礼を言ったのを背中で聞いて、僕は意気揚々として店を出た。今度の宝物は忘れられないものになるという予感がした。

     本年度最後の山行は、二年生の追い出し登山だった。
     二年生はこれを最後に現役を引退し、三年生になってからは部活動には顔を出さないことになっていた。学年末試験を二週間後に控えた二月のある日、僕と山崎で企画した山行計画を部室で説明した。学年末試験が終わってすぐの日曜日、目的地は総体の時に登った大里山の隣にある小里山という千メートル余りの低山であった。三月初旬ということでまだ寒いため、簡単に日帰りのできる山を選んだ。今回のテーマは山崎の企画した「美味しいものを食べる」であった。宿泊しないためその装備が不要であり、普段山では食べないような珍しいもので、これまでの二年生の苦労をねぎらうことを考えていた。
    「なんなの、『珍しいもの』って」
     「コック長」である長谷川さんが興味津々訊いてきた。
    「えー、それは秘密にさせていただきます。当日のお楽しみですわ」
     説明していた山崎が笑いながら答えた。
    「俺たちは何もやらなくていいんだろうな」
     蔵田さんが言ったが、山崎は「任せてください」と、自身ありげに答えたので、みんな一斉に笑った。
    「それから、片岡が今回参加します。彼ともお別れ、ということで」
     僕が言った。久しぶりに参加していた片岡が照れながら頭を下げた。
    「おう、その代わり荷物持てよ」
     キャプテンが言うと、またみんなどっと笑った。

     説明会を終えて家に戻ると、僕宛の郵便が届いていた。
     ゆかりからのものであるとすぐに分かった。僕は急激に高まった鼓動を押さえながら家の中に入った。
    「先日は失礼しました。話の途中でお別れになりましたね。M高の方々には本当にいつもいつも驚かされてしまいます」
     封筒を開け、便箋を取り出した。二枚の便箋を開くと初めにそう書いてあった。
    「中原君から、『付き合ってる人はいるの?』って訊かれた時は驚いてしまいました。なんか、驚いてばかりですね。まさか、中原君の方からそんなことを訊かれるとは思ってなかったからです。実は私の方からお話しようと思ってたことだったからです」
     僕はどきりとした。ゆかりの方からどうしてその話をしたかったのか。
    「私にはお付き合いをしている人がいます。こんな大げさな言い方をしなくてもいいのですが、私はその人のことが好きで、その人も私のことを好きになってくれているのです。山崎さんがY岳で私たちT商業と逢った時一緒にいた人です。その人とはM高の文化祭にも一緒に行きました。憶えていますか」
     僕は呆然としながら文字を目で追っていた。予想していたこととは言え、ショックは大きかった。
    「どうしてこんな手紙を書いたのかというと、もう中原君とはお会いしない方がいいのではないかと思ったからです。私には付き合っている人がいますので、これ以上会う訳にはいかないのです。そして、生意気かもしれませんが(間違ってたらごめんなさい)、中原さんの好意が大きくなる前にはっきりしてあげた方がいいんじゃないのかなと思ったからです。言い過ぎてたらごめんなさい。あのあと、どうやってこの気持ちを伝えようかと思って悩んだのです。お会いしない方がいいと思っている以上、こうやってお手紙にさせていただきました。分かってもらえますでしょうか」
     僕は力ない溜め息を一つついた。しかし、手紙はまだ続いていた。
    「もう二人でお会いすることはないでしょうね。でも、今年の総体で会えるかもしれないですね。二年生になったらレギュラーで活躍することを期待しています。寒い日が続きますが、風邪などひかないよう過ごしてくださいね」
     そして、最後の文章を読んで、僕は苦笑いしながら便箋を机の上に置いた。両手を頭の後ろにやって天井を仰ぎ見た。
     最後にはこう書かれていた。
    「追伸 山崎さんは本当に奇麗な方ですね。また生意気なことを書くようで申し訳ないのですが、私の代わりに仲良くしてあげてください。きっと、山崎さんは中原君のことが好きなのだと思いますよ」
     吹雪は去って行った。しかし、僕は下山するしかないと思った。

     小里山登山当日。三寒四温の不安定な日々が続いていたが、今日はやや穏やかな日になった。
     僕は様々な食材を詰め込んだザックを担いでM駅まで歩き、他のメンバーとともに電車に乗り込んだ。約一時間半電車に揺られ最寄駅で降り、それから小一時間ほどバスに揺られ、小里山登山口に着いた。いつものとおり、小休止も兼ねながらその場で打ち合わせを行ったあと、歩き始めた。
     今回も先頭は僕であった。
     三月半ばの晴れの日であり、少し肌寒かったが歩いているうちに体はどんどん熱をもってきていた。麓では梅が咲き誇っており、春の到来を感じさせていた。春分を越えるまでに、やわらかな雨を何日か経験すれば、野の土は熟れ、川の水はぬるみ、風が僕たちを歓待してくれることにだろう。
     冬の間、ボッカをこなしてこなかったため、ザックのショルダー・ストラップはいつも以上に肩に食い込んでくるような気がしていた。もちろん今回も二十キロを越えていた。ただし、食材を入れただけでは二十キロにならなかったため、普段にない大量の水を詰めていた。もちろん、レンガや砂の入った缶でも良かったのだが、水にしたのには訳があった。
     こうやって二年生とともに歩くのもこれが最後なのだなあと思うと少し感傷的になっていた。
     三度休憩をはさんで、最後の登りになった。久しぶりの参加である片岡だったが、遅れず着いてきていた。前回の失敗を繰り返すことなく僕は何度となく振り返り様子を伺っていた。時折、真後ろの山崎と視線が合った。

     二時間が経過し、予定通りの時刻に僕たちは小里山の登頂を果たした。
     春晴れの少しぼんやりした空が広がっていた。そのぼんやりした感じは眼下にも広がっており、残念ながら遠望を楽しむことはできなかった。
    「おーっ、腹減ったぞ」
     そう言って二年生は荷物を下ろし、座り込んだ。
    「それじゃあ作りましょう。中原君、片岡君手伝ってね」
     山崎に声をかけられ、まだ呼吸を整えているところだった僕は立ち上がり、山崎のもとに近寄った。僕はザックから大きな鍋と、各種食材を取り出した。
    「片岡君はラジウスの火をつけて湯を沸かしてね、中原君は野菜を切って……さあ、始めるわよ」

     今日の献立は、パスタ料理であった。
     乾麺のパスタを二キログラムにミートソースの缶を五個、そして各種野菜を運んできた。訳ありだった水を初めて使う大きな鍋にあけ、ガラガラと沸かした。パスタを茹で上げつつ、ミートソースをもう一つの鍋で温めた。
     大葉を刻み、梅干をつぶし、明太子の皮を取ってほぐすという細かな仕事は、山崎がすでに済ませていた。麺が茹で上がったところで、まずミートソースを食べてもらうことにした。
    「へー、パスタなの。初めてだなあ」
     長谷川さんが嬉しそうな顔で言った。
     ミートソースの後はリクエストにあわせて大葉、梅、明太子を食べてもらったが、僕は茹でたあとの大きな鍋で湯気を浴びながらパスタをからめる仕事をしたため、汗だくになってしまった。
     しかし、二年生の満足そうな顔を見ると嬉しかった。

    「片岡も今日で終わりか、残念だけどまあ、頑張れや」
     食事を済ませ、コーヒーを飲んでいる時、キャプテンが片岡に向かって言った。
    「はい、すみません」
     カップを地面において片岡はそう言って頭を下げた。
    「来年の部員確保が大変だぜ。なあ中原、山崎」
    「任せてください。何とかしますから」
     僕は力強く言った。何の根拠もなかったが。
    「と、なると仕方ないな」
     キャプテンが意味ありげに言った。
    「何がですか」
     僕は訊いた。
    「来年度のキャプテンだよ。中原、お前やれよ」
     僕は絶句した。何の前触れもなくキャプテンの任命であった。
    「山崎には悪いが、総合的に見れば勉強はできないけど中原だな」
    「こないだの山で俺達が話し合って決めたんだ。でもな、人数が少ないんでキャプテンもくそもないかなとも言ってたんだが」
    「対外的にもキャプテンは必要だからな」
    「やれよな、中原」
     二年生の四名が口々にそう言った。大げさだが、僕はちょっと感動に身をうち震わせていた。
    「僕でいいんですか。秋海山ではミスしたのに……」
    「最初はあんなもんだよ。体力的には結構いけてるよ」
     蔵田さんがそう言った。そう言われて断る理由はなかった。僕はまじめな顔をして「はい」と答えた。
    「中原君、頑張って下さいね」
     黙って聞いていた谷川先生も言った。多分、キャプテンから谷川先生には話を済ませているのだろうと思った。
     キャプテンか……。僕は空を見つめて呟いた。
    「頑張ってね、次期キャプテン」
     隣にいた山崎が笑いながら僕の背中を叩いた。その激励はとても照れ臭かった。

     頂上で一時間ほど過ごして、僕たちは同じルートを取って返し、バスに揺られ電車に乗り込んだ。
     春の一日は終わりを告げようとしていた。そろそろ陽も落ちようとしていた。僕は最初、電車の揺れに合わせるかのように眠りに落ちたが、すぐに目を覚ました。
     前の席には片岡が座っていたが、彼は眠っていなかった。
    「これで最後だね」
     目が覚めた僕に気付き、片岡が言った。その表情はとても寂しげだった。
    「別に戻ってきたけりゃ、いつでも言ってこいよ」
     僕は答えた。片岡はそれを聞いて少し表情を崩したが、やがて何かを思い出したように床に置いたザックの口を開いた。
    「もう使うこともないから、これを……」
     そう言って、ザックから取り出したものは、一本のピッケルだった。
    「これって、白星山のときの」
    「うん、大恥かいちゃったときのやつ。あれ以来使ってないんだ。君にあげようと思って隠し持ってきたんだ」
     片岡はピッケルを僕に差し出した。
     僕は、夕陽にぴかりと光っているブレードを見ながらつばを飲んだ。
    「いいのか。高いんだろう、これ」
    「気にしないでよ」
     促すように彼はまたピッケルを突きつけた。僕はゆっくりと受け取った。ピッケルは小ぶりながらしっかりとした重みがあった。僕がこれを実際に使うことがあるのだろうか、あるとしてもずいぶん先のことなんだろうな、と思った。
    「今まで本当にありがとう」
     片岡が大きく頭を下げた。僕は慌てた。
    「おいおい、そんなに頭下げる必要はないだろ」
    「そうかも知れないね」
     片岡は顔を上げて笑った。僕も笑った。


     お城の桜はもう少しで開花する気配があり、遠くから見ていても木全体が、ぼんやりピンク色がかって見えた。
     久しぶりに天守閣広場に上がってきた。風がいつものように下から吹き上がってきていた。海の方に視線をやったが、靄がかかっており遠くを見ることはできなかった。それでも、海岸沿いはよく見ることができ、東西に伸びる国道を走る車が、豆粒のように小さくはあったがよく見えた。車の流れを追いつつ西から東のほうに視線を送ると、S市の埋立地に行き着いた。そびえる煙突に火が灯っているのが見えた。
    ―――あの先から海に伸びて行くんだな。
    この秋に着工予定である巨大橋の将来の姿を想像してみた。橋はいくつかの種類のものが架けられ、やがて、海の向こう側と地続きになる。橋の完成する九年後に、僕は何をしているのだろうと思った。
    卒業した増田先輩は国立O大学に入学を決めていた。
    「ワンゲルは代々成績のいい人が多いんだぜ」
     増田先輩が合格したことを聞いて、蔵田さんが言っていたことを思い出した。
     ―――先輩はあの橋がかかる向こうの、そのまた向こうの大学に行くんだ。
     今の僕には手の届かないランクの大学だったが、なんだか自分のことのように誇らしい気がしていた。

     僕は石でこしらえた作り付けのテーブルに近づき、椅子の上にザックを下ろした。中から、「123R」の入った箱をゆっくりと取り出した。
    「123R」を取り出し風防をはずし、さっき部室から持ってきた携燃をバーナーの根元に塗りつけた。
     風から守るようにしてマッチの火を近寄せると、小さくポッという音ともに火が携燃に移った。炎は見えず、ただ、黒い煤とともに携燃がゆっくり小さくなっていった。
     学年末試験の結果は、なんとか目標の百五十番を切ることができたため、この「123R」はまだ僕の手元にあった。
    「来年は百番以内に入らないといかんな」
     父からそう警告を受けていた。一年経って原点復帰したようなものだった。

     やがて、携燃の火が消えた。僕は風防をかぶせ、手を震わせながら再びマッチに火を点け、コックをひねった。しゅううう、という音がしてまだ金色の光を放っているバーナーから気化したガソリンが噴出してきた。僕はマッチの火を近付けた。
     ボッボッボッ……という音を発し、見えない炎が断続的に吐き出されてきた。コックをもう少し開くと、炎は大きくなり、タンタンタン……というリズミカルな音とともに安定した炎が噴出され始めた。
     初めての点火に成功し、僕はほっとして椅子に腰を下ろした。いつのまにか掌にべっとりと汗をかいていた。
    ―――今年はキャプテンだ。
     先輩たちの総体の無念を晴らさなきゃな。あわせてそう思った。
     やがて、この一年間のいろいろな思い出が次々と脳裏をよぎっていった。そして、ゆかりのことが頭をかすめた。続いて山崎の顔が浮かんだ。
     僕は「123R」のコックを閉じた。シュッという音ともに火が消えた。
    「心の整理」
     僕は立ち上がって、再び海の方に目をやりながらそう呟いた。
     海風がまた、沸き立つように下から吹き上がってきた。

    完

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    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     

    Kaoru

     
     
    2002年、長編小説「恋するアナリスト」(藤枝芳名義)がポプラ社文芸サイト「作品市場」で大賞受賞、翌年上梓。2021年小説「開鐘(ケージョー)」で第30回岐阜県文芸祭秀作、小説「ねじ花」で第57回岐阜市文芸祭市教育委員会賞受賞、現在は電子書籍、自主制作本にて作品販売中。

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