
月の光に誘われて
あらすじ
高校野球にすべてを懸けていた「僕」は、右肘の故障でその道を断たれる。
リハビリの日々の中、壁の向こうから聴こえてきたピアノ――同級生の彼女が弾く『月の光』だけが、止まりかけた時間をかすかに動かした。
「続けたいのに続けられない僕」と「続けられるのに悩んでいる彼女」
その距離が、二人を引き裂いていく。
別々の選択をしたまま迎えた卒業。
そして数年後の再会。
あのとき言えなかった言葉と、手放したものの意味に向き合うとき、それぞれの選択が、静かに重なり始める。
プロローグ
缶コーヒーは、気づけばすっかり冷めていた。
仕事の帰り道、自販機でコーヒーを買って公園のベンチに腰を下ろしたのは何分前のことだったろうか。
一口飲んだきり、気が付けばただ夜空を見上げていた。
月が出ている。
今夜は三日月だ。
少し雲がかかり、ぼやけた光を放っている。
秋の夜気は静かで、木々の葉が時折風に揺れる音だけが耳に届く。
特に何かを考えていたわけじゃない。
ただ、吸い寄せられるように、月を見ていた。
不意に頭の中で音楽が鳴り始めた。
旋律に覚えがある。
『月の光』
ドビュッシーのピアノ曲。
クラシックなんて一曲も知らなかった高校生の頃の僕が、ただ一つ覚えた曲の名前だ。
三日月の儚い光に誘われるかのように、
あの頃のことを、久しぶりに思い出していた。
第一章「ピアノの音」
高2の夏。
高校野球の県予選大会。
その試合、僕はショートを守っていた。
試合の中盤、全力で送球したその瞬間、右肘に鋭い痛みが走った。
この痛みを感じるのは二度目のことだ。
一度目は中学時代。ピッチャーをやっていた頃。
マウンドに立ち続けることを諦め、内野手に転向してまで守りたかった場所が、音を立てて崩れていくのがわかった。
試合を途中で退き、病院に向かう。
診断は右肘靭帯の損傷。やはり、思った通りだ。
チームがそのまま敗れたことを知ったのは、病院を出た後のことだった。
こうして、高校2年目の夏は、右肘の故障という最悪のおまけつきで幕を閉じた。
次の日から、体育棟の端にあるトレーニングルームが僕の居場所になった。
グラウンドからは遠い場所。
廊下を曲がって、階段を上がって、突き当たりの古びた扉を開けると、たくさんの器具が並んでいる。
窓の外には木々しか見えない。
チームの練習の声は、ここまでは届かない。
バンドを腕に巻いて、決められたメニューをこなす。
リハビリには段階がある。
もちろん右腕は、まだ動かせない。
今日できることとできないことがあって、それをひとつひとつ確認する。
誰に見せるわけでもない地味な動作を繰り返して、終わったら帰る。
退屈な日々の始まりだった。
教室ではチームメイトと普通に話した。
「肘どう?」
「早く戻ってこいよ」
そういう声をかけてもらえるのは、ありがたかった。
でも、トレーニングルームには誰も来なかった。
当たり前だ。みんなにはグラウンドでやるべきことがある。
僕だけが一人ここにいて、前に進めないような閉塞感を感じていた。
一番きつかったのは、静けさだったと思う。
グラウンドの喧騒から切り離されて、古びた器具と自分だけがいる空間。
バンドを巻く音、自分の息、それだけが聴こえる時間が毎日続く。
焦ってはいけないとわかっていた。
でも、そう言い聞かせること自体が、すでに焦っている証拠だった。
グラウンドには近づかないようにしていた。
覗きに行けばよりしんどくなるとわかっていたから。
仲間が練習しているところを見れば、早く戻りたいという気持ちが先走って、無理をしてしまう。
そういう自分を知っていたから、大好きだったあの場所を視界に入れないようにした。
見ないようにすることが、当時の自分にできる唯一の我慢だった。
それでも時間が経つと、リハビリのメニューが変わってきて。
徐々に可動域が戻り、痛みの質が変わってきた。
鋭い痛みが、鈍い違和感に変わっていく。
それが回復の証拠だと、担当の先生に言われた。
でも、治ってきているのに、まだグラウンドには戻れない。
その距離が、じりじりと重くなっていく時期もあった。
日が暮れるのが早くなるにつれ、窓から見える木々が赤や黄色に色付いて、夕方の空が広く見えるようになった。
リハビリを終えて帰る頃には、もう外が暗かった。
グラウンドでは夜間照明をつけて練習している。
その明かりが、校舎の窓越しにぼんやりと見えて、また孤独を感じた。
僕が『その音』に気づいたのは、秋が深まってきた頃だ。
いつものようにリハビリをしていると、壁の向こうの音楽室からピアノの音が聴こえてきた。
前から鳴っていたのかはわからない。
気づいても最初は気に留めなかった。
でも翌日も、また翌日も、同じ時間に聴こえてくると自然と耳が向くようになった。
弾いていたのは同学年の女の子。顔は見たことがある。
でもクラスも違ったし、話したことは一度もなかった。
一学年8クラスあるこの高校で、それは別に珍しいことではない。
毎日聴いていて、一つ気付いたことがあった。
彼女は同じ曲を、何度も何度も弾いている。
一度弾き終えると、また最初から始まる。その繰り返しだった。
僕には当然良し悪しなんてわからなかった。曲の名前も知らない。
でも、上手いとか上手くないとか、そういう話ではない気がして。
何かと戦うように、あるいは何かに縋るように、同じ旋律を繰り返しているように感じた。
その切実さが、なぜか僕の心に沁み込んできた。
数週間経っても、ピアノの音は続いていた。
僕のリハビリも、続いていた。
雨の日も聴こえた。風が強い日も聴こえた。
単調な動作を繰り返す僕の耳に、壁の向こうの旋律はいつも同じ時間に届いた。
いつの間にか、それが一日の区切りになっていた。
ピアノが聴こえ始めたらリハビリを始めて、ピアノが止んだら片付けをする。
決めたわけでも、特に意識したわけでもない。
ただ、そうなっていた。
毎日聞いていても飽きることはなく、だんだんとその旋律が好きになっていった。
どこか寂し気で、どこか切なくて。
リハビリを元気づけるような明るい曲調ではない。
それなのに心がふっと軽くなるのは、彼女の技量によるものだったのだろうか。
その子が泣いているのを見たのは、ある日の夕方だった。
トレーニングルームを出て廊下を歩いていたとき、いつもはピタリと閉じていたはずの音楽室の扉が、少し開いていた。
中を見るつもりはなかった。でも、視界の端に入ってしまったんだ。
ピアノの前に座ったまま、俯いている女の子。
きれいに結ばれたポニーテールが、小さく震えていた。
僕は思わず立ち止まった。
通り過ぎることもできた。
見なかったふりをすることもできた。
でも、足が動かない。
毎日あの旋律を聴いていた自分には、完全な他人だとは思えなかった。
「どうしたの?」
声をかけてから、少しだけ後悔した。
余計なことをしたかもしれないと思ったからだ。
でも、彼女はゆっくりと顔を上げた。
切れ長の目が赤くなっていた。
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「見られちゃった」
初めて聞く、彼女の声。
少し震えていて、でも鈴のように美しい音色。
「扉が開いてたから。ごめん」
「別に謝らなくていいよ」
彼女はそう言って、鍵盤をそっと指でなぞる。
そのまま、しばらく黙っていた。
夕方の光が斜めに差し込んで、ピアノの白鍵だけが妙に明るく見えた。
「ピアノが、嫌いになりそうで」
ぽつりと溢れるように吐き出した言葉。
促したわけじゃない。
でも彼女は続けた。初めて話す、名前も知らないであろう僕に。
涙を見られたことが、開き直りにも近い感情を生んでいたのかもしれない。
小さい頃からずっとピアノを弾いてきたこと。
コンクールで賞を取ったときのこと。
今は音大を目指していること。
親の期待が、いつの間にか重くなっていたこと。
大好きだったはずのピアノが、いつの間にか義務に変わっていたこと。
一通り話し終えてから、彼女は少し笑った。
「なんでこんな話してるんだろ、私」
独り言みたいな声だった。
「なんでだろね」
と僕は言った。
気の利いた返しじゃなかった。
でも彼女はまた笑った。
さっきとは少し違う笑い方だった。
その笑顔を見て、ああ、この子はこういう顔をするのかと思った。
凛とした目元が、笑うと少しだけ柔らかくなる。
それが妙に記憶に残った。
「ねえ、毎日聴いてたの?」
「うん、体育棟まで聴こえてくるから」
「そっか」
「いつも、同じ曲弾いてるよね?コンクールでもあるの?」
「ううん、近々その予定はないよ」
彼女はもう一度、鍵盤に指を置いた。
「この曲、何て名前か知ってる?」
「いや、ごめん。知らない」
「『月の光』っていうんだ」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「ドビュッシーっていうフランスの作曲家が作った曲なんだけど」
彼女は鍵盤を見たまま話し始めた。
「もとになった詩があって。ヴェルレーヌっていう詩人の。仮面をつけて踊る人たちの詩なんだよね」
「仮面?」
「うん。華やかに踊ってるんだけど、仮面の下には悲しみを隠してる。そういう詩」
「君は、この曲が好きなの?」
彼女は少し間を置いた。
「うーん……好きかどうか、わかんなくなってきた」
答えになっていないようで、一番正直な答えだと思った。
「辞めようか悩んでるの」
「ピアノを?」
「うん」
僕は何も言えなかった。
そもそも、音楽のことなんて何もわからなかった。
好きなアーティストはいる。しかし、僕にとって音楽はどこまでいっても「聴く」ものだった。
それを生み出す人、奏でる人の心の内を、想像できるはずがない。
ただ、壁の向こうから毎日聴こえてきたあの音のことを思った。
雨の日も、風の強い日も、必ず聴こえてきたあの繰り返し。
好きな音だ、と思った。
「ピアノのこと全然分かんないけどさ。辞めるのは、いつでもできるんじゃないかな」
気がついたら、口から出ていた。
「続けることは今しかできないけど、辞めるのはいつだってできる。一度辞めたものに戻ってくるのは大変だから」
彼女は俯いたまま聞いていた。
「好きなんでしょ?ピアノ」
一通り話してから、喋りすぎたなと思った。
やりたくても野球ができない自分の状況も相まって、少しだけ苛立っていたのかもしれない。
言いながら、過去の自分のことを話しているような気がした。
中学の頃、肘を傷めて、野球を辞めるかどうか悩んだ日々のこと。
あのとき、ポジションを変えて続けることを選んだ。
続けてよかったと思っていた。だからこそ、口をついて出た言葉だ。
彼女は怒らなかった。笑いもしなかった。
ただ、鍵盤をじっと見つめたまま、黙っていた。
息が詰まるほど、長い沈黙。
やがて彼女は、もう一度だけ『月の光』を弾き始めた。
その日の帰り道、気づけば暗い車窓に映る自分の顔を眺めていた。
耳の奥にはまだ彼女の旋律が残っていて、それを反芻してるうちに、電車を一駅乗り過ごした。
その出来事があってから、僕らは時々話すようになった。
会う約束をするわけじゃない。連絡先も知らなかった。
ただ、廊下ですれ違うと自然に立ち止まって、少し話した。
決まった場所があるわけでもなかったけれど、体育棟と校舎をつなぐ渡り廊下や、日の光が差し込む窓際で話すことが多かった。
渡り廊下は風が通り抜けて、少し肌寒い。
それでも立ち止まって話した。
冬が本格化すると窓から差し込む光が低くなって、夕方の廊下がやけに橙色に染まった。
あの曲知ってる?とか、テストどうだった?とか、そんな他愛もない話。
お互い口数が多いタイプではない。
それでも、結構な時間を一緒に過ごした。
ある日、廊下の窓から見える中庭の話になった。
何の変哲もない話だったのに、彼女が「あそこの木、秋になると急に赤くなるんだよね」と指差したとき、僕はその木を見るより先に彼女の横顔を見ていた。
それに気付いて、慌てて視線を外した。
普段ピアノの話はほとんどしなかった。
あの日のことも、特に蒸し返さなかった。
もちろん彼女の涙を見たのはあの一回だけで、日常に持ち込む必要はなかった。
一度だけ、いつもなら終わる時間になってもピアノが鳴り止まない日があった。
気になって覗くと彼女もこちらに気付いた。
手招きされて、音楽室に足を踏み入れる。
「ねえ、私の演奏どう思う?」
「いや、俺音楽のことわかんないから」
「わからない人にこそ、聴いてほしいんだよ」
そう言って彼女はまた、月の光を弾き始める。
演奏が終わり、何かを期待するように目線をこちらに向ける彼女。
「えっと…」
「ちょっとぐらい感想あるでしょー?」
「…うん。綺麗な音だなと。」
「それだけ?」
「…よくそんなに指が動くもんだなと。」
むー、と不満気に口を尖らせる。
その仕草がなんとなくおかしくて、思わず笑う。
「私らしさって何かな?って考えてたんだ」
真剣な目で続ける彼女に、こちらも背筋が伸びる思いがした。
「先生にね、言われるの。楽譜には忠実だけど、あなたらしさがないって」
「忠実なのは悪いことなの?」
「ううん。でも、それだけじゃだめなんだよ」
膝の上で握りしめた拳に力が入るのが分かる。
「それじゃ、私が弾く意味がないから。」
そして、疲れたように笑って、こう言った。
「やっぱダメなのかな…」
「俺は好きだよ」
被せるように言ってしまった。
目を丸くする彼女。
「あ、いや…ピアノがね。君の弾く、ピアノのこと」
「あ、うん…」
「技術とかは分かんないけどさ、聴いてて心地いいよ」
「ありがと」
気づけば空には月が昇っていた。
その日は三日月だった。
そんなことがあってからも、彼女との関係性は特に変わらなかった。
クラスの違う、同級生の女の子。
会えば話をするくらいの友達。
放課後や休日に一緒に遊びに行くなんてこともなかった。
思いがけず深い話を聞いてしまった分、その距離感がちょうどよかったんだと思う。
ある日、廊下で立ち話をしていたとき、彼女が唐突に聞いてきた。
「君はさ、彼女っているの?」
ドキッとした。
表情には出さなかったと思う。
「いないよ」
「そっか」
それだけだった。
なぜ聞いたのかは教えてくれなかった。
ただ、その会話が終わった後、しばらく妙な感じが続いた気がする。
うまく言葉にできないけれど、お互いに何かが伝わったような、そういう空気だった。
二月のある日、彼女が小さな袋を差し出してきた。
「いや、義理だよ?」
そう言って、笑った。
受け取りながら、「ありがとう」と言う。
家に帰り、袋の中身を確認したら手作りだった。
それを見て、また少し胸の奥が高鳴る。
後から彼女のクラスの友人に聞いたら、他の誰かにチョコを渡しているのを見た人間はいないらしかった。
本当のところはわからない。
でも、その話を聞いたとき、少しだけ心が温かくなったのは確かだった。
結局、そのことについては彼女に何も聞けなかった。
小心者の僕に、聞けるわけがなかった。
ただ、翌日廊下で会ったとき、いつもと同じように笑っていた彼女の顔を、今でも覚えている。
音楽室からは、相変わらず月の光が聴こえてきていた。
音が変わったかどうかなんてことは、僕にはわからなかった。
クラシックの良し悪しを聴き分ける耳は、持ち合わせていない。
ただ、聴こえてくるだけでよかった。
彼女がまだ弾いている。
それだけで、なぜか少しだけ安心した。
一方で、その音を聴いていると、自分だけが取り残されている気もした。
その複雑な感情について、それ以上は考えないことにした。
第二章「復帰と違和感」
高3の春の大会には間に合わなかった。
ゴールデンウィークの少し前、ようやく僕はグラウンドに戻った。
朝練の集合時間に合わせてチームメイトと一緒に土を踏んだ瞬間、まず匂いが来た。湿った土と、少し乾いた砂の混じった、あの独特の匂いだ。
スパイクの底で砂が細かく沈む感触が足裏に伝わってきて、それだけで胸の奥が静かに熱くなった。
ああ、戻ってきたんだな、と遅れて実感した。
リハビリの期間、意地でもグラウンドには近づかなかった。
だからこそ、その朝の光景は、思っていたよりもずっと鮮明に体に入ってきた。
最初はキャッチボールだけだった。
短い距離で、軽く投げる。
肘に響かないか、ひとつひとつ確かめながら腕を振った。
ボールは、驚くほど素直に飛んだ。
拍子抜けするくらい、普通だった。痛みもない。途中で引っかかる感覚もない。
「いい球じゃん」
相手がそう言った。
「おう」と返して、もう一球投げる。
余計なことを考えないように、ただ腕を振ることだけに集中した。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
そう思うことにした、という方が正確だったかもしれない。
彼女とは相変わらず廊下で話した。
「復帰したんだって?」
「うん、なんとかね」
「よかった。痛んだりしないの?」
「今のところは。夏に間に合わせないと」
「焦って無理しないでね」
そんな会話を交わす。
会えば話す、仲のいい友達。
その関係に十分満足している自分がいた。
ただ、復帰してから、気づけば体育棟の廊下を通ることはなくなっていた。
当然だ。トレーニングルームに寄る理由も、もうないのだから。
彼女のピアノの音を、しばらく聴いていない。
そう気づいたのは、少し経った頃だった。
特別なことだとは思わなかった。
廊下ですれ違えば今までと変わらず言葉を交わす。
でも、ときどき不意にあの音を思い出すことがあった。
壁の向こうから聴こえてきた、同じ曲の繰り返し。
途中で止まって、また最初から弾き直す音。
その繰り返しの中に、どれだけの時間と意志が積み重なっていたのかを、今なら少しだけ想像できる気がした。
音が聞こえない日々に、少しだけ寂しさを感じていた。
夏の大会が近づくにつれて、チームの空気は目に見えて変わっていった。
もともと公立の中では強い方だったが、私学の強豪に勝つという目標が現実味を帯びてくるにつれて、練習の密度が一段上がった。
誰かが声を上げれば、それに呼応するように周りも声を出す。
バラバラだった個人が、ゆっくりとひとつの塊になっていく。
その渦の中にいられることが、単純に嬉しかった。
怪我で離れていたあの秋から、ずっと戻りたかった場所だった。
そんなことを思っていたある日の練習中。
指先からボールが離れる瞬間に、ほんのわずかな違和感があることに気付く。強く腕を振ると、少し痛みがあった。
焦りがこみ上げる。
大会まであと1カ月というタイミングでの出来事だった。
第三章「続けるということ」
違和感を感じてから1週間経った。
肘の痛みは相変わらず残っている。
いや、本当は日に日に悪くなっていることが分かっていた。
この頃の僕は目に見えてイライラしていたと思う。
状態が上がらない。日々痛みは増していく。
もしかしたらもう野球を続けることは無理なんじゃないか?
そんな不安が、常に胸を締め付ける。
そんなある日、いつもの廊下で、彼女が久しぶりに話しかけてくれた。
「なんか久しぶりだね」
「うん、確かに」
「どうですか?ケガのその後は?」
もちろん、悪気のない言葉だとわかっていた。
それでも、胸のどこかがざわついた。
「……別に、普通だよ」
「そかそか、よかった」
少し間があって、なんとなく聞いた。
「そっちは?ピアノ」
「うーん……まだ進路希望、決められてなくって」
「音大は?」
「うん、受けられるように準備はしてるんだけどね。でも、まだ悩んでて」
「…そうなんだ」
それだけ返して、視線を逸らした。
彼女が何かをしたわけじゃない。
それでも、その「悩んでいる」という言葉が、引っかかった。
続けられる状況にいる。好きなものを持っている。それなのに迷っている。
当時の僕には、その感覚が理解できなかった。
いや、正確には、理解したくなかったのかもしれない。
その感情が、彼女に向かった。
——ただの八つ当たりだ。
「悩めるやつはいいよな」
「え?」
彼女の瞳が揺れる。
「悩めるだけ、まだそっちにいられるんだから」
——だめだ。とまれ。
「贅沢な悩みだよ。ほんと」
何を言って会話を終わらせたのかは覚えていない。
ただ、彼女の表情が曇ったのは見ていた。
最低だ、と思った。
それから、廊下で会っても目を合わせるのが難しくなってしまった。
夏の大会前、最後の全体練習が終わった日、監督が珍しく長く話した。
戦術ではなく、ここまでやってきたこと自体に意味があるという話だった。
普段はそういうことを口にしない人だからこそ、その言葉は妙に重く残った。
周りを見ると、目を赤くしているやつが何人かいた。
僕は泣かなかった。
なぜかそのとき、彼女のことを思い出した。
うまく弾けなくて途中で止めて、それでもまた最初からやり直す。
あの音に込められた葛藤が、今はわかる気がした。
夏の大会が始まると、驚くほどの速さで日々が流れた。
一二回戦を勝ち抜き、三回戦の相手は甲子園を狙う強豪校だ。
相手と対峙して最初の数分で、歯が立たないとわかった。
体格が違った。動きが違った。
同い年のはずなのに、積み上げてきたものの量が、グラウンドに立つだけで伝わってきた。
才能があって、体格にも環境にも恵まれていて、それでいて自分より何倍も努力してきている。
悔しさはあった。
でも、それ以上に、妙に静かな気持ちだった。
ああ、こういうことなのか、と。
努力してきたつもりだった。
でも、「つもり」だっただけだ。
その差が、今このスコアにそのまま出ている。
五回表終了時、スコアは13対1だった。
肘も痛かった。
スコアボードを眺めているうちに、心の中ですとんと何かが落ちた。
僕の野球はここまでだな、と思った。
驚きはなかった。
試合の中で、少しずつ積み上がってきた感覚が、ただ形になっただけだ。
肘の痛みがその感覚を助長する。
最後の攻撃で打席が回ってきた。
ベンチでバットを準備しながら、ふと彼女のことを思い出した。
廊下での会話。「まだ悩んでて」という言葉。
あのときイライラした自分。
続けられる状況にいるのに迷っている彼女。
続けたくてももう続けられないであろう僕。
その違いは、本当に大きなものだったのだろうか。
どちらも、自分の力だけではどうにもならない部分を抱えている。
打席に向かう前、隣のチームメイトに言った。
「俺、今日で野球やめるよ」
その言葉は、自分でも驚くくらい自然に出た。
「え、大学では?」
「大学は……勉強するとこだよ」
自分に言い聞かせるようにそう発して、ヘルメットを被る。
相手は何も言わなかった。何か言おうとして、やめた顔をしていた。
僕はバットを握り直して、打席に入った。
相手ピッチャーが振りかぶる。
ボールが手を離れる瞬間だけに集中した。
高い金属音が鳴る。
打球は、思ったよりも鋭く抜けていく。
センター前ヒット。
一塁まで走りながら、あまり実感はなかった。
やった、という気持ちも、悔しいという気持ちも、どちらも薄かった。
ただ、「ああ、これで終わりか」と思った。
ベースを踏んだ瞬間、その感覚だけが静かに残った。
試合が終わり、整列して、挨拶をした。
相手校に向かって礼をし、スタンドに向かって礼をする。
何度もやってきた一連の動作を、最後まできっちりとこなした。
顔を上げたとき、グラウンドの景色がやけにくっきり見えた。
白線のかすれ具合も、ベンチの影の形も、全部がはっきりしていた。
終わったんだな、と思った。
——
部活を引退してからは、拍子抜けするほどすっきりしていた。
もっと引きずるものだと思っていた。
グラウンドに立てなくなることが、もっと重くのしかかると思っていた。
でも実際には、そうならなかった。
肘はまだ痛かった。でも、もうどうでもいいことだ。
寂しさはあった。
ただ、それはどこか遠いところにある感情で、日常を揺らすほどのものではなかった。
辞めると決めたあの試合の中で、気持ちの整理はほとんど終わっていたのかもしれない。
ふと、あのときの言葉を思い出した。
「辞めるのは、いつでもできる。」
自分で言っておきながら、自分が辞めた。
でも、矛盾は感じなかった。
僕にとっての「いつでも」が、たまたま今だっただけだ。
続けることにも理由がある。
辞めることにも理由がある。
彼女にはしばらく会っていなかった。
苛立ちをぶつけてしまったことを、謝りたいとは思っていた。
そうするべきだとも。
そもそも、初めて会話をしたあの日。
無責任なことを言ったかもしれない、という感覚が、今更ながら胸の奥で燻っていた。
秋が深まっても、彼女と顔を合わせることはほとんどなかった。
僕は受験勉強、彼女がピアノを弾いているのかは…もう分からなくなっていた。
すれ違えば軽く会釈をする。それだけになった。
呼び止めて話をすればよかったんだ。
でも、それがなぜかできなかった。
彼女には彼女の戦いがあって、僕には僕の戦いがある。
そんな言い訳をして自分を正当化した。
音楽室の前を通ることも、もうなかった。
——
三月の卒業式は、晴れていた。
体育館で証書を受け取って、教室に戻って、最後のホームルームを終えて、廊下に出る。
外に出ると、急に実感が押し寄せてきた。
もう、ここには来ない。
この廊下を歩くことも、体育棟の階段を上がることも、あの古びた扉を開けることも、もうない。
渡り廊下の前で、少しだけ足を止めた。
冬になると冷たい風が通り抜けて、それでも立ち止まって話していた場所だった。今日も同じように光が差し込んでいた。
ただ、そこにはもう誰もいなかった。
校庭で写真を撮っているとき、人混みの中に彼女の姿を見つけた。
ポニーテールではなく、髪を下ろしていた。
少しだけ、印象が違って見えた。
「進路、どうした?」
声をかけたのは、僕だった。
「音大」と彼女は言った。
「ピアノ科」
一瞬だけ、間が空いた。
「そっか」
それだけしか言えなかった。
「続けることにした」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
あの、目元が柔らかくなる笑い方だった。
あのとき、音楽室で泣いていた彼女が、続けることを選んだ。
胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。
「よかった」
自然と僕も笑顔になる。
彼女は何も言わずに、もう一度だけ小さく笑った。
周りの喧騒が続いていた。
写真を撮る声、笑い声、泣き声。
その中で、少しの間だけ言葉が途切れた。
「君は?」
「普通の大学だよ」
「野球、続けるの?」
「…やめちゃった」
彼女は少しだけ黙った。
それでも、何も聞いてこなかった。
小さく頷くだけだった。
「そっか…じゃあ、またね」
先に言ったのは彼女だった。
「あ…」
「ん?」
「いや…うん、またね」
それが最後だった。
彼女の後ろ姿が人混みに消えていくのを、しばらく見ていた。
名前を呼ぼうとして、やめた。
結局最後まで謝れなかった。
残ったのは自分への激しい嫌悪感と、「続けること」を選んだ彼女への羨望。
そして、きっともう彼女に会うことはできないという後悔だけだった。
第四章「予期せぬ再会」
大学に入って最初の一年は、正直勉強で手一杯だった。
ようやく真剣に、勉強に向き合うようになった。
それでも、高校の頃よりも自由に使える時間が増えた。
誰に縛られるわけでもなく、何かに追われるわけでもない時間。
最初はその自由さが少し落ち着かなかった。
何をしてもいいはずなのに、何をしていいのか分からない。
そんな感覚が、しばらく続いた。
カメラを買ったのは、大学二年の秋だった。
一人で没頭できるものが欲しかった。
野球のように誰かと呼吸を合わせる必要もなく、勉強のように結果を突きつけられるわけでもない。
ただ、自分のペースで触れられるもの。
バイト代を貯めて買った一眼レフを、最初は持て余していた。
設定もよくわからないまま、とりあえずシャッターを切る。それだけのことを繰り返していた。
ファインダーを覗いている時間は好きだった。
視界が四角く切り取られて、その中だけに集中できる。
余計なものが入ってこない。考えすぎなくていい。
ただ、そこにある光と形を拾い上げるだけでいい。
その単純さが、どこか心地よかった。
のめり込むのに、時間はかからなかった。
週末になると各地に出かけるようになった。
山に行き、海に行き、知らない街の路地を歩いた。
夢中になり、一人でいる時間が増えた。
大学に行けば友だちと会う。
でもそれ以外の時間のほとんどは、写真に費やしていた気がする。
彼女のことを思い出すことも、だんだんなくなっていた。
撮れば撮るほど、次に撮りたいものが見えてくる。
在学中に、一体何枚の写真を撮ったのだろうか。
その繰り返しが、気づけば仕事にまで繋がっていた。
就職先をカメラメーカーに絞ったとき、迷いはほとんどなかった。
野球を辞め、勉強し、カメラに出会い、カメラに関わる仕事をする。
高校のときの自分には想像もできない道だったけれど、今の自分にはこれ以外の選択肢が思い浮かばなかった。
あの時辞める選択をした先にも、ちゃんと道があった。
撮影スポットの一つとして、明治神宮に足を運ぶようになったのは、そうした時間の延長だった。参拝をするわけでもなく、ただ写真を撮る。
都心にあるとは思えないほど、少し奥に入ると空気が変わる。
お気に入りの場所だ。
木々に囲まれた参道は静かで、光の入り方がやわらかい。
朝と夕方でまるで違う顔を見せるその場所。
何度も行き来するうちに、自然と立ち止まるポイントが決まっていった。
この時間なら、この角度から光が差し込む。
そんなことを、自然と考えるようになっていた。
大学を卒業し、就職してからも休日によく通った。
25歳の秋。その日もいつもと同じだった。
ファインダーを覗き、構図を決め、シャッターを切る。
少し歩いて、また立ち止まる。
その繰り返しの中で、時間はゆっくりと進んでいた。
ふと、視線を外した。
理由はない。ただ、なんとなくファインダーから目を離したときだった。
視界の端に、人の気配が入る。
そのまま通り過ぎてもよかったのに、なぜかもう一度だけ視線が戻った。
どこかで見たことがある横顔だった。
それが誰なのか、すぐには結びつかなかった。
記憶の中の断片が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
名前よりも先に、雰囲気や輪郭だけが先に近づいてくる感覚。
時間がわずかに遅くなったような、不思議な間があった。
——ああ。
やっと一致した。
7年ぶりだった。
それでも、わかった。
「……あの」
思わず、口からこぼれた音だった。
彼女が足を止める。
こちらを見て、一瞬だけ考えるような表情をした。
見覚えはあるけれど確信が持てない、そんな顔だったと思う。
次の瞬間、その迷いがほどける。
「あ」
短い声とともに、表情が変わった。
困ったように笑う。
その仕草は、ほとんど変わっていなかった。
現実感が、追いつかなかった。
目の前にいるのに、距離がある。
触れれば消えてしまいそうな、曖昧な輪郭を見ているような感覚。
声も仕草も確かに知っているのに、それが今ここにあることだけが、うまく結びつかない。
夢の中で昔の知り合いに会ったときの感覚に近かった。
「なんでここにいるの?」
彼女が笑いながら言う。
少し低くなった声が、かえって現実を遠ざける。
「写真、好きでさ。よく撮ってるんだ」
言葉にするまでに、ほんのわずかな遅れがあった。
「そっちは?」
「ただの散歩」
会話は短かったが、途切れることはなかった。
空白の時間を埋める必要がないまま、言葉だけが自然に続いていく。
そのこと自体が、少しだけ不思議だった。
気付けば、近くの喫茶店に入っていた。
どちらから誘ったのかは覚えていない。
流れのまま席に着き、コーヒーを頼む。
向かい合って座ると、さっきまでの曖昧さが少しずつ形を持ちはじめた。
高校生だった彼女はいない。
当たり前のことなのに、その変化を一つずつ認識していくのに時間がかかった。
髪の長さも、服の雰囲気も違う。
そもそも制服を着ていない彼女を見たのが初めてなのだから、当たり前だ。
それでも、目元だけは変わらない。
笑うと柔らかくなる、あの感じ。
「あんまり変わってないね」
彼女が言った。
「そっちも」
正直それは本心ではなかった。
グッと大人になった彼女に面食らっていた。
会話は、思ったよりも自然に続く。
僕のほうは気まずさを感じていたが、とにかく口を動かした。
「今日はあんまり時間なくてさ」
彼女がそう言う。
「よかったら、今度改めてごはん行こうよ」
「…いいの?」
「うん。なんでそんな風に聞くの?」
「…いや。うん、いこう」
喫茶店の中で、時間がゆっくり動いていた気がした。
窓の外の光は夕方に向かって傾いて、店内をオレンジ色に染めていた。
店を出ると、境内の方から夕方の光が差し込んでいた。
さっきまでファインダー越しに見ていた光と同じだったけれど、今は違って見えた。
何かが切り取られていない分、広かった。
その日は連絡先を交換して別れた。
出会ってからこれだけの年月が経って、初めて連絡先を交換した。
それがなんだか不思議な感じだった。
歩き出した彼女の後ろ姿を、少しだけ見ていた。
一瞬、カメラを向けようかと思った。
でも、やめた。
切り取らなくていいものもある。
そういうことを、この日初めて思った。
第五章「7年越しの謝罪」
最小限の連絡しか取らなかったが、食事の約束をした日を迎えた。
彼女の希望でイタリアンの店を予約した。決して高級店ではないが、雰囲気は悪くない。
店の近くの駅で待ち合わせ。
少し早くついて彼女を待った。
数分後、改札を通って彼女が現れた。
「おー。ごめんごめん」
「そんなに待ってないよ」
そんな会話を交わし、店に向かう。
思えば、彼女と約束をして会ったのはこれが初めてだった。
店につき、注文を済ませる。
「どうですか?最近は」
彼女が問う。
空白の7年間を埋めるような会話だった。
野球を辞めてから勉強に向き合ったこと、
カメラに出会ってのめり込んだこと、
気づけばそれが仕事にもつながっていたこと。
話しながら、なんだか不思議な気がした。
彼女は静かに聞いていた。
相槌を打つでも、感想を差し挟むでもなく、ただ受け取るように。
高校の廊下で話すときも、そういう人だった。
ピアノのことを聞いたのは、コーヒーが運ばれてきてからだった。
「今も弾いてるの?」
ふと思い出したように口に出した。
彼女は小さく頷く。
「うん。ときどきバーとかホテルで弾かせてもらってる」
言い終わったあと、少しだけ視線を外した。
あの頃の彼女が、ほんの少しだけ重なった気がした。
「すごいな。よかったね」
自然にそう言っていた。
彼女は一瞬だけ驚いたようにこちらを見て、それから小さく笑った。
「あのとき言われたこと、覚えてるよ」
記憶を辿るより先に、あの音楽室の空気が浮かんだ。
「あのとき?」
「辞めるのはいつでもできるってやつ」
「ああ」
思い出すと同時に、少しだけ気まずさが残った。
軽い気持ちで言った言葉ではなかったが、誰かの選択を左右するほどのものでもないと思っていた。
「それがあったから続けた、っていうわけじゃないけど」
彼女は言葉を選びながら続ける。
「でも、あのとき話したことは、ちゃんと残ってる」
視線はカップの中に落ちたままだった。
その言い方が、妙に印象に残った。
——残ってる。
その言葉を聞いたとき、自分の中にも同じものがあることに気づいた。
ずっと意識していたわけじゃない。
でも、消えもしなかった。
「あのさ」
「ん?」
「あのとき…高校の時さ、ごめん」
「…うん」
「羨ましかったんだ。続けられる君が」
「うん」
「ずっと後悔してた。あの時のこと。謝れなかった高校時代のこと」
「私もごめん。知らなくて」
「君が謝るのは違うよ」
「でもね、誰かに言ってほしかったのかも」
「え?」
「甘ったれるな!ってね。だから、よかったんだよ」
彼女は笑っていた。
それだけであの頃の僕が救われた気がした。
胸につかえていたものが取れ、空気がふっと軽くなるのを感じた。
少し間を置いてから、音大はどうだったかと聞いた。
「最初はしんどかった」と彼女は言った。
「周りのレベルも高くて、また嫌いになりそうだって思った時期もあって。親の期待も変わらなかったし」
それでも続けたのは、と聞こうとしたとき、彼女の方から続きが来た。
「途中から、目標ができたから」
「目標?」
「いつか子どもたちにピアノを教えたい。自分の教室を開きたいんだ」
コーヒーカップを両手で包みながら、彼女は静かにそう言った。
「……まあ、うまくいくかは分からないけど」
そう言って、彼女は笑った。
その笑い方が、ほんのわずかにだけ、昔と重なった気がした。
——彼女らしい、と思った。
プレッシャーで嫌いになりそうだったピアノを、今度は楽しいものとして誰かに渡したい。
辛いものじゃなくて、楽しいものだよって伝えたい。
そういうことなのだと思った。
そこまで辿り着ける人間が、どれだけいるだろうと思った。
「その目標ができてから、音大の生活も楽しくなったし、親のプレッシャーも気にならなくなった気がして」
「それ、すごくいいよ」
言葉にするとあっさりしてしまうけれど、それ以外の言い方が見つからなかった。
何時間話していたのかは、よくわからない。
でも、どこか満ちたような感覚があった。
あまり感じたことのない充足感だった。
「今度、ピアノバーで演奏するんだ」
彼女が頬杖をついたまま、いたずらっぽく笑う。
「来る?」
軽く聞いているようで、ほんのわずかに間があった。
その間に、なぜか引っかかった。
「行くよ」
ほとんど反射だった。
考える前に言葉が出ていた。
「音楽のこと、全然わからないけど」
「わからなくていいよ」
彼女は笑って、こう続けた。
「……あの頃も、そうだったでしょ」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
でもすぐに気付く。
——壁の向こう。
毎日聴いていた、あの時間。
「わからない人に聴いてほしいから」
ふと彼女の言葉を反芻した。
わからない人に聴いてほしい。
上手いとか上手くないとか、そういう判断をしない人に。
ただ音として受け取ってくれる人に。
高校の頃、壁の向こうから毎日聴こえてきたあの旋律を、僕はそうやって聴いていた。
良し悪しも、技術も、何もわからないまま、ただ聴いていた。
——行く、と言ってよかった気がした。
ピアノバーがどんな場所なのか、まったく想像がつかなかった。
イメージしたのは、薄暗い照明と、グラスの並んだカウンター。
そういう場所に一人で入っていく自分のイメージが、うまく浮かばなかった。
どんな服を着ていけばいいのかも、見当がつかなかった。
それでも行くと決めていた。
高校のとき、毎日聴いていたあの旋律が、今はどこに辿り着いたのかを、ちゃんと見届けたかった。
彼女が笑っていた。
その表情を見て、やっと現実が追いついてきた気がした。
——会えてよかったな。
同時に、それだけでは足りない何かが、静かに芽を出していることにも気付いていた。
その後、一度だけ短いメッセージを交わした。
「会場の地図、送っておくね。」
「ありがとう。楽しみにしてる。」
迎えた演奏会の当日の朝、僕はなぜか静かな緊張感の中にいた。
第六章「仮面の外れた夜」
店の前で、一度足が止まった。
重い木の扉。小さな真鍮のプレート。
そこに刻まれた店名を読んでも、どんな場所なのかは想像しきれなかった。
ピアノバーなんて来たことがない。
やはり場違いだろうか、という気持ちが遅れてやってくる。
それでも、来ると決めたのは自分だった。
軽く息を吐いて、扉を押す。
中は思っていたより静かだった。
照明は落とされていて、カウンターの奥にグラスが並んでいる。
奥のスペースにグランドピアノが置かれていた。
低く流れる音が、空気を柔らかくしている。
客は多くなかった。
カウンターに数人と、テーブル席に一組。
視線を気にするほどでもないが、完全に気配を消せるほど少なくもない。
その中途半端さが、かえって落ち着かなかった。
カウンターの端に座る。
メニューを開いたものの、何を頼めばいいのか分からない。値段の感覚も曖昧で、適当に選ぶのもためらわれた。
「おすすめを」
結局、それだけ言った。
自分の声が少しだけ浮いた気がしたが、バーテンダーは特に気にする様子もなく頷いた。
少し肩の力が抜けた。
頼んだグラスが来るまで、しばらく手持ち無沙汰だった。
カウンターに肘をついて、店の中をゆっくりと見回す。
壁に沿って並ぶボトル。
薄暗い中にほんのりと光るグラスの縁。
低く流れるBGMが、何の曲かはわからない。
こういう場所の空気の作り方というものが、どこか計算されているような気がした。
グラスを受け取って一口飲んだ。
何かはよくわからなかったが、思っていたより飲みやすかった。
——
しばらくして、店内の空気がわずかに変わった。
視線が自然と奥に向く。
彼女がステージに現れた。
黒いワンピース。髪はまとめられている。
高校の頃とはまるで違う姿だった。
それでも歩き方には見覚えがあった。
少しだけ早足で、迷いなく前に進む。
あの廊下で見ていた背中と、どこか重なる。
ピアノの前に座る前、客席に一瞬だけ視線を流す。
その視線がこちらに触れた。
ほんの一瞬だったが、確かに止まった。
小さく、ほとんどわからないくらいに笑った気がする。
次の瞬間には、もう鍵盤に向かっていた。
最初の音が鳴る。
——すぐにわかった。
月の光だ。
あの頃、壁越しに聴いていた旋律。
何度も何度も繰り返されていたあの音が、まったく違う形で空間に広がっていく。
同じ曲なのに、別のものみたいだった。
音が迷わない。
一音ごとにためらいがなく、次の音へ自然に繋がっていく。あの頃のような"悩んでもがいている音"ではない。
まっすぐに終わりまで向かっていくことを示すかのような音だった。
その違いは、技術の問題じゃないということが、なぜかわかった。
——あの頃、彼女は戦っていた。
曲とではなく、自分の中の何かと。
うまく弾けないことに苛立っていたわけでも、失敗を恐れていたわけでもない。
ただ、何かを確かめるように、同じ場所を何度もなぞっていた。
あの繰り返しの中にあったのは、迷いだったのだと思う。
今、目の前にいる彼女には、それがない。
迷いが消えたわけじゃないのかもしれない。
でも、前に進むことを選んだ音だった。
ヴェルレーヌの詩の話を思い出す。
仮面をつけて踊る人たち。
華やかに見える裏側で、感情を隠しているという話。
あの頃の彼女も、仮面をつけていたのだろう。
好きなのかどうかも分からないまま、それでも弾き続けるしかなかった時間。
今夜の演奏には、その気配が全くない。
そんな音だった。
月の光が終わると、彼女はそのまま次の曲へ移った。
曲名は、やっぱりわからない。
ただ、音の雰囲気が変わったことはわかった。
さっきよりも足取りが軽い曲だった。
その次も、また次も、曲名は一つもわからなかった。
でも、それでよかった。
わからないまま、ただ聴いていた。
高校のとき、壁の向こうから聴こえてきたときと同じように。
あの頃も、良し悪しも何もわからないまま、ただそこにある音として受け取っていた。
今夜もあの頃と同じだ。それは変わらない。
入店してから、どれくらい経ったのだろうか。
時計を見る気にもならない。
こういう夜に時間を確認するのは、野暮な気がした。
演奏が続く中で、ドリンクをもう一杯頼んだ。
今度は自分でメニューから選ぶ。
バーテンダーに何かを聞かれた気もしたが、よく聞こえなかった。
適当に頷いたら、さっきと似たようなものが来た。
何を飲んでいるかより、ここにいることの方が大事だったんだ。
カウンターの隣に座っていた客が、いつの間にかいなくなっている。
テーブル席の一組も、気づけばいない。
入れ替わるように別の客が来て、また静かになる。
時間の感覚が、ゆっくりとしていた。
こういう場所の時間の流れ方は、外とは少し違うのだと初めて知った。
演奏の合間の、短い沈黙。
彼女が次の曲に移る前の、わずかな間。
その静けさの中で、店内の空気が少しだけ変わる。
グラスの音。遠くで誰かがヒソヒソと話す声。
それだけが聞こえた。
彼女は手を膝の上に置いて、少しだけ下を向いた。
何かを考えているのか、次の曲を確かめているのか、それともただ息を整えているだけなのか、わからなかった。
でも、その静けさの中にいる彼女が、どこか音楽室で泣いていた横顔と重なった。
あのときと今とでは、何もかもが違うのだろう。
それでも、一人でピアノの前にいる、という事実だけは同じだった。
——あの頃から、彼女はずっとここに向かっていたのかもしれない。
そう思ったとき、胸の奥で何かが静かに動いた。
気付けば、呼吸が浅くなっていた。
ちゃんと聴こうとしているのに、ちゃんと見ているはずなのに、どこか遠いところにいるような感覚。
7年前の音と、今の音が、頭の中で重なっていく。
壁越しに聴いていたあの時間。
渡り廊下で話していた夕方。
音楽室で泣いていた横顔。
演奏が続く中で、何度か目を閉じた。
音だけになると、不思議なほど高校の頃の記憶が鮮明に戻ってきた。
トレーニングルームでバンドを腕に巻いた感触。
窓の外に見えた木々。
夕方になると橙色に変わっていく光。
その全部の中に、彼女が奏でていたあの旋律が溶け込んでいた。
——あの時間は、終わっていなかったんだ。
場所も形も変わっても、続いていた。
壁の向こうから音が聴こえてくるだけ。
最初は名前も知らなかった。
話すようになっても、約束して会ったことは一度もなかった。
卒業して、7年が過ぎた。その間連絡も取っていなかった。
それでも心のどこかに残っていて、偶然再会して、今夜ここにいる。
——偶然だったのか、必然だったのか、どっちなんだろうな。
やがて、演奏が終わる。
静かな拍手が広がる。
少し遅れて、自分も手を叩いた。
彼女は立ち上がり、軽く頭を下げる。
その姿を見て、ようやく息を吐いた。
グラスに口をつける。
さっきよりも味がわかる気がした。
拍手が終わって、店内がまた静かな時間に戻る。
彼女はステージを離れて、スタッフらしき人と少し話している。
こちらに気づいていないのか、それとも気づいていて自然にしているのかは、わからなかった。
そんなことは、どちらでもよかった。
——はずなのに。
胸の奥に、うまく説明できない引っかかりが残っている。
さっきの演奏が終わった瞬間から、それは消えなかった。
言葉にしようとすると、逃げていく。
あの音楽室で言った言葉が、ちゃんと届いていたことへの安堵。
でも同時に、それとは別のものが混ざっている。
もっと別の、説明のつかない感覚。
グラスを指でなぞる。
氷はもうほとんど溶けていた。
店内の照明が、少しだけ柔らかく見える。
その中で、彼女の姿だけがやけにくっきりしていた。
——ずっと、そうだった気がする。
壁の向こうから音だけを聴いていた頃も。
廊下でたまに言葉を交わすようになってからも。
7年ぶりに再会した、あの日の喫茶店でも。
そして今も。
追いかけているというより、気づけばそこにいる。
そんな感覚の方が近い。
ただ一つだけわかるのは、この感覚は、今夜だけのものではないということだった。
ずっと前から、どこかに残っていたものだ。
そして今、それが表に出てきている。
彼女がこちらに気づく。
一瞬だけ目が合う。
その瞬間、またいつものように笑う。
あのときと同じ、少し困ったような、柔らかい笑い方。
それを見たとき、胸の奥の違和感が、さらに静かに形を変えた。
演奏が終わって、しばらくしてから彼女がカウンターに来た。
「ちゃんと来てくれたんだ」
「うん」
近くにもう一軒あるから、と彼女が言った。
どこか地下に降りていくような店だった。
階段を下りながら、なんとなく変な感じだった。
こういう場所に、彼女と二人で来ることになるとは。
カウンターに並んで座った。
バーテンダーが注文を聞いてくる。
今度は少し考えてから答えた。
さっきよりはまともな頼み方ができた気がする。
彼女はグラスを傾けながら、ステージのことを少し話した。
緊張したとか、あの曲はうまくいかなかったとか。
僕にはその良し悪しはわからなかったけれど、話す顔が楽しそうだった。
ひとしきり話してから、彼女はふと髪をかきあげた。
その何気ない仕草と、少し上気した横顔を、僕はただ見ていた。
カウンターのわずかな明かりを反射して、彼女の瞳の奥が小さく揺れている。
その光を、今の僕はファインダー越しではなく、自分の目で見つめていた。
重いシャッターを切るような、確かな重みが胸に落ちた。
この感覚に、名前をつける必要はもうなかった。
彼女が少しおどけた顔で、僕を覗き込む。
「ピアノ弾いてるとさ、なかなかいい女でしょ?」
思わず笑った。
「そんなこと言うタイプだったっけ?」
「言わないけど、今日は言いたい気分」
「なんだよそれ」
「ふふ…」
「…いい顔してたと思うよ」
グラスを口に運びながら、また笑った。
あのとき音楽室で泣いていた子が、今夜隣で笑っている。
仮面の下に悲しみを隠していた子が、今夜は笑いながら自分を肯定している。
それが、言葉にならないくらい嬉しかった。
高校生の頃には想像もしなかった。こんな夜が来るとは。
こんな場所で、こんなふうに並んで座るとは。
胸の奥がじわりと温かかった。
言葉は、出てこなかった。
その代わり、もう一口だけグラスを傾けた。
彼女も同じように、グラスに口をつけた。
カウンターの向こうで、バーテンダーが静かにグラスを拭いていた。
——
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
「じゃあ、また」
「うん、また」
彼女が角を曲がって見えなくなるまで、少しだけ見ていた。
壁の向こうから聴こえてきたあの音から始まって、今夜ここに辿り着いた。
そのことが、とても大事なものに思えた。
エピローグ
缶コーヒーは、気づけばすっかり冷めていた。
仕事帰りに自販機で買って、公園のベンチに腰を下ろしたのはいつだったか。一口飲んだきり、手に持ったまま、ずっと空を見上げていたらしい。
秋の夜は、思っていたよりも静かだった。
風が木々を揺らす音と、遠くを走る車の気配だけが、かすかに耳に届く。
あとは何もない。
何もないはずなのに、空白には感じなかった。
月が出ている。
細く、輪郭だけを残したような三日月だった。
あの日と同じだ、と思った。
何を考えていたのかは思い出せない。
ただ、何かに引き寄せられるみたいに、しばらく動けなかったことだけは覚えている。
ふと頭の中に、音が浮かんだ。
静かに、途切れることなく、感情に溶け込むように流れ込んでくる旋律。
名前を知っている。
ドビュッシーの『月の光』。
クラシックなんて何も知らなかった高校生の自分が、たった一つだけ覚えた曲。
壁の向こうから、毎日同じ時間に流れてくる音。
それが何を意味しているのかも、どうしてそこにあるのかも、深く考えたことはなかった。
今は、少しだけ違う。
同じ旋律なのに、聴こえ方が変わっている。
あの音楽室での夕方。
渡り廊下での他愛もない会話。
壁越しに聴いていた繰り返し。
窓から差し込む光と、ピアノの音。
それぞれが切り離されずに、ひとつの流れとして繋がっている。
缶コーヒーをもう一口飲む。
ぬるくなった苦味が、少しだけ舌に残った。
悪くない、と思った。
視線を上げると、月はさっきと同じ場所にあった。
スマートフォンが短く震え、液晶の青白い光が冷めた缶コーヒーの縁を淡く縁取った。
画面に並んだ彼女の名前を見つめ、僕は少しだけ口角を上げた。
音は、まだ続いている。
途切れることなく。
今、この瞬間も。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、あの音に耳を預ける。
明日、彼女に会いに行こう。
心の中でそう決め、コーヒーを飲み干す。
それから、ゆっくりと息を吐いた。