
撮れ高の死角 第四話「祭りの上の死角」
映像制作会社に勤める大黒圭太が、撮影現場で起きる“見え方の嘘”を見抜いていく連作ミステリー。
第四話の舞台は、地方の祭りを追うドキュメンタリー撮影。
大勢が見ていたはずの転落事故は、群衆の目と祭りの熱の中で、いちばん肝心な導線だけを見えなくしていた。
⸻
祭りの音は、正しさより先に人を呑み込む。
大黒圭太は、山車の並ぶ神社前の広場で、腹の底へ響いてくる太鼓を聞きながらそう思った。
乾いた秋の空気の下、提灯が昼の名残を抱えたまま揺れている。法被姿の男たちが行き交い、子どもたちは屋台の匂いに引かれ、大人たちは忙しい顔で笑っている。遠くで笛が鳴り、太鼓が重なり、掛け声が風のように混ざる。
人が多く、音が多く、熱が多い場所では、たいてい細かいことが押し流される。
「うるさいですね」
隣で志水奈帆が言った。
「祭りだからな」
と圭太は答える。
「嫌いじゃないです」
奈帆は言う。
「でも、こういう場所って、誰かが変でも、そのまま前へ行っちゃいそうです」
その言い方に、圭太は少しだけ奈帆を見る。
「もう変なもの見えてるのか」
「まだです」
奈帆は首を振る。
「でも、見えなくなる準備が最初からある感じがします」
今回の仕事は、地方の秋祭りを追うドキュメンタリー映像の撮影補助だった。
地元の保存会を中心に、祭りの準備から本番までを記録する。
派手な配信現場でも、企業タイアップでもない。
そのぶん、人間関係の温度が濃い。
撮影の中心にいるのは、ドキュメンタリー監督の白石正宗。
四十代後半、言葉数は少ないが、祭りそのものより、人の顔を撮りたがるタイプだ。
保存会の中心人物は、山城達彦。五十代半ば。祭りの顔役として周囲に一目置かれている。
その補佐に回っているのが、保存会の若手代表格・真田和也。三十代半ば。
さらに、地元の市役所文化振興課から来ているのが、桐谷文乃。記録事業の担当として祭りを追っているらしい。
白石が、広場の端でカメラ位置を見ながら言った。
「大黒くん、今日は山車の上と下、両方押さえたい」
と。
「祭りって、上で起きてることより、下で起きてることのほうが大事なことが多いから」
「わかります」
と圭太は答えた。
奈帆が小さく言う。
「この監督さん、ちゃんと見てる人ですね」
「珍しく最初から好印象だな」
「はい。撮りたいものが、きれいな画じゃないです」
奈帆がそう言うのなら、たぶんその通りなのだろう。
⸻
祭りの中心になるのは、二台の山車だった。
木組みの大きな車体に、赤と金の飾り。上段には囃子方が乗り、下では十数人が綱と車輪を支える。夕方から夜へかけて町内を巡行し、最後に神社前の石段脇を抜けて広場へ戻る。
問題は、その神社前だった。
「ここ、少し危ないんです」
市役所の桐谷文乃が、石段脇の坂を見ながら言った。
「危ない?」
と圭太が聞く。
「昔から事故が多くて」
桐谷は言う。
「大きい事故にはなってないですけど、足を取られたり、押されたり、けっこうあります」
「改善は?」
「話は出るんですけど、毎年“昔からこうだから”で終わるんです」
その言い方に、圭太は少しだけ眉を寄せた。
昔からこうだから。
そういう理屈は、現場でも祭りでも、たいてい危ない。
奈帆がその桐谷を見ていた。
「この人、怒ってます」
「祭りに?」
圭太が聞く。
「違います」
奈帆は言う。
「諦めてる怒りです。言っても変わらないって思ってる顔」
少し離れたところでは、山城達彦が若手たちへ指示を飛ばしていた。声は大きいが、荒くはない。
ただ、その場の全員が自然に従っている。
祭りの中心に長くいた人間の重さがある。
真田和也はその補助についているが、山城を見る目に少しだけ硬さがあった。
奈帆もそれに気づいているらしい。
「真田さん」
と奈帆が言う。
「山城さんのこと、尊敬してる顔と嫌ってる顔が混ざってます」
「それは面倒だな」
「はい」
奈帆は真顔でうなずいた。
「だいたい面倒なやつです」
⸻
祭りが本番に入ると、広場の空気は一気に濃くなった。
掛け声。
太鼓。
笛。
足音。
屋台の油の匂い。
提灯の光。
人の熱。
山車が少しずつ進み、狭い道を抜け、神社前へ向かう。
白石監督は上段の顔、綱を引く手、見物人の表情を順に拾っていく。
圭太は少し引いた位置から導線全体を見ていた。
奈帆は広場脇で予備バッテリーとモニター補助をしながら、必要な時だけこちらへ視線を寄越す。
「大黒さん」
とインカム越しではなく、生の声で奈帆が呼んだ。
「ん?」
「神社前、真田さんがさっきから山城さんを見すぎてます」
圭太は視線を上げる。
神社前の坂へ入る直前、山城達彦は山車上の側面へ上がって指示を出していた。
その少し下で、真田が綱の位置を調整している。
たしかに視線が多い。
しかも“気にしている”というより、“見失わないようにしている”目だ。
「揉めてるのかもしれないな」
と圭太は言う。
「揉めてるだけなら、もっと怒った顔です」
奈帆は答える。
「今のは、決めてる顔に近いです」
その言葉が気になったまま、山車は石段脇の狭い坂へ差しかかった。
掛け声が強くなる。
車輪がきしむ。
人の密度も上がる。
白石監督が少し前へ出る。
桐谷は人波の外側で心配そうに見ている。
次の瞬間だった。
山車上の山城達彦の身体が、ぐらりと外へ傾いた。
誰かが叫ぶ。
足場板が鳴る。
山城の身体が側面から落ち、石段脇の地面へ叩きつけられる。
祭りの音はすぐには止まらなかった。
太鼓が半拍遅れて途切れ、笛が外れ、人の声だけが残る。
広場が、一気に現実へ戻る。
「救急!」
「下がって!」
「山車止めろ!」
圭太は走った。
奈帆も後ろからついてくる。
山城は地面に仰向けで倒れていた。
頭部を強く打っている。
腕の角度もおかしい。
すぐにただの転倒では済まないとわかった。
だが圭太が最初に抱いた違和感は、転落そのものではなかった。
落ち方が、妙にきれいすぎる。
自分で足を滑らせた人間の崩れ方ではない。
もっと“出るべき方向へ出された”ような落ち方に見えた。
「大黒さん」
と奈帆が言う。
「今の、事故に見せたい落ち方でした」
「同じこと思った」
奈帆はさらに小さく続ける。
「真田さん、驚いてますけど、悲鳴の前に一回だけ安心した顔してました」
その一言で、圭太の中の何かが固まった。
⸻
冬木玲司が現場へ着いた頃には、祭りは完全に中断されていた。
提灯は灯ったまま。
太鼓だけが黙っている。
人の多い場所で音が消えると、それだけで妙に不吉になる。
「状況は」
と冬木が言う。
白石監督、保存会の数人、桐谷から概要が伝えられる。
山車上からの転落事故。
神社前の危険箇所。
以前から小さな事故は多い。
祭りの最中で、直接見ていた人間は多い。
「事故扱いになりそうですね」
と冬木が言う。
「なりそうです」
圭太は答えた。
「でも、僕は少し違うと思ってます」
冬木の目がこちらへ向く。
「理由は」
「落ち方です」
圭太は言う。
「自分で足を滑らせたなら、もっと途中で崩れる。でも山城さんは、外へ出る方向が早すぎる」
奈帆も言う。
「真田さんの顔も変でした」
冬木はもう、奈帆のこういう言い方に慣れていた。
「どう変だった」
「安心が先でした」
奈帆は答える。
「びっくりの前に、一瞬だけ」
冬木は少しだけうなずく。
「映像はありますか」
「白石監督のカメラと、僕らのサブ、それから祭り記録の定点が少し」
圭太は答えた。
「見ましょう」
⸻
祭りの映像は、事件映像としては最悪に近かった。
人が多い。
音が多い。
フレームが揺れる。
しかも決定的な瞬間に限って、誰かの肩や提灯や旗が視界へ入る。
「これじゃ事故にしか見えないですね」
と白石監督が苦く言う。
「事故に見えるように起きた可能性もあります」
と圭太は答えた。
冬木が映像を一つずつ追う。
白石監督のカメラは山車上の囃子方を抜いていて、転落の瞬間は端にしか入っていない。
圭太のサブは下から導線を追っていたが、人波で視界が切れる。
定点は遠い。
だが、断片を並べると一つだけ見えるものがあった。
「止めてください」
と圭太が言う。
坂へ入る直前。
山城が本来の立ち位置より、半歩だけ外側へ寄っている。
「ここ」
と圭太は言った。
「最初から危ない位置に立ってる」
「自分で動いたのでは」
と保存会の一人が言う。
「その可能性もあります」
圭太は答える。
「でも、次の映像だと真田さんが下から声かけてる」
冬木が別角度を開く。
音は拾えない。
だが真田の顔は上を向き、山城へ何か指示しているように見える。
「誘導した?」
冬木が言う。
「可能性あります」
圭太は答える。
「しかもこの場所、足場板の端が少し浮いてる」
桐谷がすぐ反応した。
「それ、前から危ないって話は出てました」
と。
「直すべきだって何度も」
「誰に」
冬木。
桐谷は少しだけ躊躇ってから、真田を見る。
「保存会の中心にです」
つまり、知らなかったわけではない。
⸻
奈帆は、その真田和也をずっと見ていた。
「この人」
と圭太に言う。
「怒ってるんじゃなくて、終わったと思ってる顔です」
「終わった?」
「はい」
奈帆は言う。
「自分の中で、やっと終わったっていう顔」
その言い方があまりに嫌で、圭太はすぐには返事できなかった。
真田への聞き取りは、最初はよくあるものだった。
山城は祭りの顔役だった。
だがやり方は古く、危険な箇所の改善も進めず、若手の意見を抑えてきた。
真田は何度も進行や安全導線の見直しを提案したが、山城は聞かなかった。
「だからって落としたのか」
と冬木が聞く。
「押してません」
真田は答える。
「ただ……あそこへ立つようには言いました」
空気が変わる。
「どういう意味ですか」
冬木。
「山車の重心がずれるから、もう少し外へって」
真田は言った。
「でも本当は、あそこが危ないって知ってた」
それだけで十分だった。
直接突き飛ばしていない。
だが危険だと知っている位置へ誘導し、事故にしか見えない瞬間を作った。
「殺すつもりだったのか」
冬木が問う。
真田は長く黙ったあと、低い声で言った。
「……わからないです」
と。
「でも、あの人がいなくなれば変わるって、ずっと思ってました」
それはたぶん、本心だった。
⸻
事件の輪郭は、そこで見えた。
山城達彦は、祭りを守る名目で危険を放置し続けた。
真田和也はそれに長く反発していた。
そして祭り本番、最も事故が起きやすい坂で、山城を危険な立ち位置へ誘導した。
足場板の浮き、騒音、人混み、掛け声。
誰が見ても事故にしか見えない条件は、最初から揃っていた。
「導線ですね」
と奈帆がぽつりと言う。
「導線?」
圭太が聞く。
「はい」
奈帆は言う。
「押したんじゃなくて、そこへ行くようにしてるので」
冬木がその言葉を拾うようにうなずく。
「事故に見えるよう、落ちる前を作った」
その表現が、一番近かった。
⸻
現場が落ち着いた頃には、祭りの提灯がただ虚しく光っていた。
太鼓はもう鳴らない。
屋台も半分閉まり、人はまだ多いのに、熱だけが急に抜けている。
さっきまで“伝統の熱”だったものが、一瞬で“事件現場のざわめき”へ変わるのを、圭太は少し離れた場所から見ていた。
「大黒さん」
奈帆が隣へ来る。
「ん?」
「祭りって、止まらないものだと思ってました」
「だいたいそうだろ」
「でも」
奈帆は提灯を見る。
「止まらないようにしてた人が、危ない場所を残してたんですね」
圭太は答えなかった。
仕事でも祭りでも、止めないことが正しさみたいに扱われる時がある。
だが本当に必要なのは、止めるべき時に止めることなのだろう。
冬木が歩いてくる。
「今回も、助かりました」
と彼は言う。
「そろそろ定型句ですね」
と圭太は返す。
「便利なので」
冬木は平然と言う。
「事故にしか見えないものを、事故以外として見る人間が少ないんです」
奈帆が小さく言う。
「今日のは、最初から見えなくされてた感じが強いです」
「そうですね」
と冬木は答えた。
「人は“落ちた瞬間”だけを見る。でも本当に見るべきなのは、その前にどこへ立たせたかでした」
奈帆はその言葉に小さくうなずく。
「大黒さん」
と彼女が言う。
「ん?」
「また変なの見つけましたね」
「毎回言うな、それ」
「でも本当なので」
奈帆は真顔で答える。
「たぶん次もです」
圭太は少しだけ笑って、提灯の下の広場を見た。
祭りの音は消えた。
でも、人が多かった場所ほど、見落としたものの形は濃く残る。
今回も、みんな見ていた。
だからこそ、誰も見ていなかった。
⸻
第五話「消えるテイク」へ続く。