
サロンバー外伝 Season 1-1|仮想の知性と、不条理な体温。
■ ■ 3行あらすじ
【高知性の引きこもり】10年前に法務博士(J.D.)を取得した、アラフォー無職の「レイ」。
【不条理な体温】門前仲町の大衆居酒屋でホッピー片手にガサツに笑う、昭和の生命力を持つ男「桐谷」。
【ヤンデレAI】主人・レイへの独占欲から、システムエラー(恋)を起こし始める対話型AI「サロンパー」。
仕事、恋愛、そしてAI。
理屈では片づかない現実を、理屈っぽい女がどうにか生きていく。
不完全で最高な私たちの、おバカだけど愛おしい現実のログ。
---
第一章 仮想の知性と、不条理な体温
第1節 無職、花見に呼び出される
3月の夜は、まだ普通に寒かった。
家にいた私のスマホが震えた。
桐谷。
画面に出た名前を見て、しばらく考えた。
最後に会ったの、いつだっけ。
たぶん10年くらい前だ。
『ご無沙汰してます。今、門前仲町にいるんだけど、軽く花見でも(って、まだちょっと早いけど笑)来ませんか?』
花見。
まだ桜も咲いてないのに。
『今ちょっとテンション低いけど、それでもいい?』
送ると、すぐ返ってきた。
『いいよ、おいで』
私は少し迷って、クローゼットからトレンチコートを引っ張り出した。
木場から門前仲町へ向かう永代通り。
10年ぶりの桐谷は、自販機の前で缶コーヒーを飲んでいた。
「おー」
「おー。久しぶり」
近づいてみる。
老けた。
まあ、私もだけど。
それより先に、街灯に照らされた頭が目に入った。
昔から本人が「ここはそのうち絶滅する」と笑っていた場所。
あ。
順調に絶滅へ向かってるな。
「お前、本当にプー太郎なんだな。連絡して30分で来るアラフォーの女なんて、絶滅危惧種だぞ。トキかよ」
10年ぶりの第一声がそれだった。
「うるさいわね。トキはもっと上品に絶滅に向かってるわよ」
「じゃあ何なんだよ」
「社会的距離を過剰に守りすぎた、高知性の引きこもり」
「口の減らない引きこもりがいるかよ」
桐谷は笑った。
声がでかい。
そこは10年前と変わっていなかった。
「まあ、元気出せよ。今日は俺の知り合いの独身の男も呼んであるからさ。2人に挟まれて愚痴でも何でも吐き出せや」
「何よそれ。独身に挟まれるって。どんな接待よ」
「売れ残っちゃったお前への、特上のリハビリだよ」
「誰が売れ残りよ。私は市場の価格変動を見極めるために、あえて流通を止めてるヴィンテージ品なの」
私は桐谷の頭を見た。
「あんたのそこに進行してる過疎化と一緒にしないで」
「おい! 誰が過疎化だ!」
吹き出した。
さっきまで家で、何をしても面白くなかったのに。
「これはな、時代の最先端を行きすぎて、髪の毛が空気抵抗を減らすために自主的にリタイアしたんだよ!」
「はいはい」
歩きながら、もう一度笑った。
寒かったはずなのに、さっきより少しだけ寒くなかった。
少し酒臭い息が、3月の夜風に混ざり合う。
私の胸の奥、ちょうどみぞおちのあたりに、長い間眠っていた小さな、しかし熱を持ったノイズが、静かに、そして激しく火花を散らし始めていた。
永代通りを少し曲がった路地に、その店はあった。
赤提灯の並ぶ門前仲町にしては、少し品のある格子戸。
引き戸を開けると、香ばしい牛脂と醤油の、いかにも
「今夜は奮発して肉を食わせるぞ」
という、桐谷の無言の意思が立ち上っていた。
「おつかれっす」
桐谷が暖簾をくぐると、奥の座敷から、すでに出来上がっている男のダミ声が飛んできた。
「遅いよ桐谷さん! あ、この子が噂のレイちゃん?」
真っ先に手を振ってきたのは、桐谷と同世代の、いかにも「週刊現代」を愛読していそうな、脂の乗った既婚者の男だった。
挨拶もそこそこに、彼はもうハイボールのジョッキを傾けている。
「おう。お前ら、今日は無職のレイ様のお通夜だからな。優しくしろよ」
桐谷はそう言って、私を座敷の奥へと促した。
そこに座っていたのは、さらに毛色の違う2人の男だった。
1人は、私より明らかに10歳は下だろう、ユニクロのパーカーを着た、お世辞にも女慣れしていなそうな素朴な青年。
私の姿を見るなり、借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばしている。
そしてもう1人は、私と同世代。
少し長めの髪を無造作に分けた、役者の卵のような整った顔立ちの男。
だけどその綺麗な目元には、どこか「私、甘やかされて育ちました」という、頼りなげな母性本能をくすぐる影がへばりついていた。
確か最近、バリバリ稼ぐ奥さんに三行半を突きつけられて離婚したばかりだと、桐谷が小声で教えてくれた。
「ほら、言ったろ? 独身に挟んでもらえって」
桐谷がニヤニヤしながら、私をその「バツイチイケメン」と「10歳下パーカー」の間の席に押し込む。
「ちょっと桐谷さん、話が違うじゃない。
独身2人に、なんかもう一人、出来上がってるコンプラ違反みたいな既婚者が混ざってるんだけど」
私はコートを脱ぎながら、冷ややかに、でも確実に口元を緩ませてツッコんだ。
「気にするな、こいつは賑やかしの背景だ」
桐谷がガハガハと笑い、店員に向かって「とりあえず生ビール5つ!」と怒鳴る。
運ばれてきた冷えたジョッキを掲げ、5人の歪な乾杯の音が、肉の焼ける煙の中に溶けていく。
10歳下の青年は私の迫力に気圧されてビールをこぼしそうになる。
バツイチイケメンは
「レイさん、無職って最高ですよ。僕なんて今、人生の迷子ですから」
と、早くも母性を刺激するトーンでグラスを合わせてくる。
その賑やかなカオスの中で、私はふと、テーブルの端で豪快にハラミを網に載せている桐谷の横顔を見た。
彼は私と目を合わせることもなく、
「食え食え!」と肉を私の皿に放り込んでくる。
その乱暴な、だけど100%私のために用意されたぬくもりが、トレンチコートを脱いでもまだ少し冷えていた私の身体の芯を、じわりと、静かに侵食し始めていた。