
日本女医法制史(17)好寿医院と荻野吟子の修学履歴
・読みやすさを考慮して、引用文中の漢字は原則として新字体を使用し、片仮名は平仮名に直した。句読点を追加した場合がある。
・使用した引用文献は、現在では不適切な表現があっても、当時の状況を伝えるため原文のまま引用してある。
・〔 〕は筆者による補足である
・敬称は略した
・年齢は数え年で計算している
・明治5年までは旧暦、明治6年以降は新暦で記載している
明治17年、女性の医術開業試験受験が許可された。
荻野吟子は明治17年9月に医術開業試験の前期を受験し、翌明治18年3月に後期試験を受験した。
荻野吟子に医術開業試験の受験申請が受理されたのは、石黒忠悳の口添えの影響もあっただろう。しかしそれだけでなく、荻野吟子の修学履歴が受験を許可するに足る一定水準に達していたことも受理された理由のはずである。
医術開業試験の受験要綱(荻野吟子の場合)
実際のところ、荻野吟子が医術開業試験の受験を考えた場合、どんな条件を満たす必要があったのか。
医師免許規則
まず、医師免許規則第3条が
「官立及府県立医学校の卒業証書を得たる者其証書を以て開業免状を得んことを願出づるときは内務卿は試験を要せずして免状を授与することあるべし」
官立か府県立医学校を卒業していれば、試験不要で開業免状が下付され得る。
(同第4条に、外国の大学医学部か医学校を卒業した場合も開業免状下付され得る旨規定されていたが、荻野吟子には関係ないので検討しない)
荻野吟子が卒業した医学校・好寿医院は私立だから、試験不要で免状下付されることはない。
医術開業試験規則
そこで、医術開業試験規則に定める受験要件を満たす必要がある。
(1)修学期間
第8条本文は
「前期試験は一箇年半以上後期試験は更に一箇年半以上修学せし者に非ざれば之を受くることを得ず」
必要な医学修学期間を、前期試験受験に1年半以上、後期試験受験にさらに1年半以上を求めている。つまり、前期後期を合わせて、修学期間3年以上が必要である。
(2)提出書類
また同第9条は提出書類について規定する。
「前期試験を受けんとする者は其願書に修学の履歴書を副え後期試験を受けんとする者は其願書に履歴書及前期試験及第の証書を副え年毎六月十二月中地方庁に差出すべし地方庁は翌月5日迄に其書類を取纏め内務省に進達するものとす
但履歴書には其師若くは他の開業医師二名以上の保証あるを要す」
前期試験受験
願書、修学履歴書
後期試験
願書、(修学)履歴書、前期試験及第(合格)証書
(3)修学履歴書の書き方
修学履歴書の書き方も指定があった
明治16(1883)年12月12日 内務書記官より各府県へ通牒[1]
「本年第三十四号布達医術開業試験規則第九条但書え履歴書云々保証あるを要すと有之候所官立府県立及私立医学校又は其師たるものの授業年月明瞭なる証書を履歴書に添え差出候得ば願書進達相成不苦候条此段為御心得及御通牒候也」
官立・府県立・私立医学校、または、その師たる者の授業年月が明瞭な証書を履歴書に添える必要がある。
上記通牒にいう「私立医学校」は、医学校通則の基準を満たす医学専門学校のことであろう。官立・府県立・私立医学校は、医学校名義で証書作成する。
一方、医学校通則を満たさない、すなわち医学校名義で証書作成ができない個人病院等で医学を学んでいたというような場合は「師たる者」が証書を作成するのだろう。
(4)試験科目
医術開業試験規則第6条に試験科目が定められていた。
前期試験
物理学、化学、解剖学、生理学
後期試験
外科学、内科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験
(5)試験手数料
同規則第14条に試験手数料が定められていた。
前期試験手数料:金三円
後期試験手数料:金五円
当時の試験手数料を現在の貨幣価値に換算するのは難しいのだが、例をあげて考えてみる。
木村屋総本店の「あんぱん」
木村屋総本店の「あんぱん」が、明治15年時点で「1銭」である[2]。
現在の「あんぱん(小倉)」は約270円(税込み)[3](オンライン販売価格で確認した。商品の種類によって、1個当たりの価格に幅があるので、目安として考えてほしい)。
1銭=0.01円
仮に1銭を270円だとすると、3円は81,000円である。
太政大臣の俸給月額
明治15年時点の太政大臣の俸給月額は、800円[4]
現在の内閣総理大臣の俸給月額は、2,095,000円(地域手当等は含まない)[5]
現在の内閣総理大臣の俸給月額から、明治15年時点の太政大臣の俸給月額1円あたりに換算すると、
明治15年時点の1円=現在の2618.75円
明治15年時点の3円=7856.25円
何を基準に換算するかで、金額に幅がある。
医術開業試験の受験手数料が、現在の価格でどれくらいかを明確にすることは困難だが、3円は安くはなかったのではないか。
好寿医院は、いかなる医学校だったのか
荻野吟子は最終的に医術開業試験を受験できているから、修学履歴が認められたわけである。
では、荻野吟子が卒業した好寿医院は、実際のところいかなる医学校だったのか。
荻野吟子が卒業した好寿医院は私立医学校である。しかし、好寿医院が開校したのは、医学校通則が定められる前の明治12年10月である。
好寿医院は医学校通則が定められる前に開校しているから、医学校通則の基準を満たしている必要はない。
しかし思うに、荻野吟子が医術開業試験の受験を許されたのは、男性の医術開業試験受験者と遜色ない内容だったからだろう。
荻野吟子とは、いかなる修学履歴の持ち主だったのか。
目安として、医学校通則の基準と比較しながら検討する。
好寿医院
まずは、好寿医院がいかなる学校だったのか、公文書の内容から紹介する。
好寿医院の開業願[6]と閉業届[7]は、東京都立公文書館に保存されている。
ちなみに、資料によっては医学校名が「好寿院」と記載されている場合もあるが、公文書に記載されている学校名は「好寿医院」である。
「私立医学開業願」と題する書類は、明治12年8月18日に受付されている。
好寿医院の詳細を公文書から抜き書きして、箇条書きにするなら、
学校住所:下谷区練塀町十四番地(現・東京都台東区)
校名:好寿医院
校主:高階経徳
教師:高階経本(明治3年9月から同11年10月まで、東京大学医学部で修業)
同:徳田周輔(明治8年5月から12年5月まで東京大学医学部で修業)
修学期間:3年(6期に分け、毎期終わりごとに試験を行う。)
入学資格:20歳以上の者
教則:物理学、化学、解剖学、生理学、組織学、薬物学、包帯学、処方及調剤学
内科通論、内科各論、外科通論、外科各論、眼科学、診断法、婦人病論、産科学
月謝:金一円
束脩:金一円
高階経徳
まず、校主の「高階経徳」は「開業願」を提出した当時、「五等侍医」である。
侍医、つまり、宮内省管轄の医師・宮廷医である。
高階家は、少なくとも、祖父の代より典医(宮廷医)である。
江戸時代の頃の役職を付して紹介すると、祖父-父-高階経徳の順に、
高階経宣(典薬大允・安芸守)-高階経由(典薬少允・安芸守)-高階経徳(筑前介)[8]
高階経徳は、明治元年、父・高階経由と共に「西洋医学御採用方」を建白して[9]、それまで漢方医一辺倒だった典薬寮(のちの侍医)に西洋医も任用できるようにした人物である。
明治時代になり、太政官制が定められた当初は侍医の中心的存在だったが、旧典医の排除が進むとともに、徐々に降格されていく[10]。
「好寿医院」を開業した頃は、「侍医」の中でも一番下の地位の頃である[11]。
①高階経本
教師の一人目、高階経本は校主・高階経徳の親族である[12]。
好寿医院の開業願には、明治3年9月から同11年10月まで、東京大学医学部で修業した旨の記載がある。
確かに、高階経本は東京大学医学部を卒業している[13]。
しかし、これには続きがある。
日本には、大学がつくられても卒業生に学位授与は行っていなかった。昔から「博士」の称号はあったが、これは当時の官位であって、学位ではない[14]。
明治11年12月、東京大学は卒業生に学位を与える権限を文部省から裁可された[15]。
東京大学医学部の第一回生の卒業式は、明治11年11月だった。高階経本はこの東京大学医学部の第一回生である。
しかし、東京大学に学位授与権限が与えられた結果、明治12年2月、「医学本科卒業生徒試問規則」が設けられた。そして、同年3月から6月までの間にドイツ人教師による試問が実施された。明治12年10月、この試問に及第した者に学位授与が行われ、日本初の「医学士」が誕生した。
明治12年10月に「医学士」が授与されたのは、18名。
そのうちの一人が、高階経本である[16]。
高階経本は、「学士」なのである。
学位授与されたのは、好寿医院の開業願提出の後なので、高階経本の就学履歴に「学士」についての記載はない。
高階経本が、実際どの程度、好寿医院で教えていたのかは不明である。
高階経本は東京大学医学部を卒業後、明治12年10月、東京大学雇となり、大学附属医院に勤務。明治14年7月、東京大学御用掛となり、医学部医院外科当直医を勤める。明治15年6月、東京大学医学部準講師兼医院外科当直医となる。
果たして、好寿医院で教える時間などあったのか。名前だけ連ねていた可能性も否定できない。
②徳田周輔
教師の二人目、徳田周輔は、好寿医院の開業願には、明治8年5月から12年5月まで東京大学医学部で修業した旨の記載がある。
徳田周輔が東京大学医学部を卒業したことに間違いはないが、本科生ではなく、別課医学生である[17]。
明治12年、東京大学医学部には、本科、予科、通学生(のち別課医学生)があった。
本来は、予科(5年。数学や語学など主に基礎教養を学ぶ)→本科(5年。内科や外科など主に医学を学ぶ)、合計10年間学んで卒業する[18]。
この本来の学科課程に対し、医師速成コースともいうべきものが「別課」だった。
この制度は、明治3年閏10月、大学東校(のちの東京大学医学部)の学則を定めた際、年限を正則5年、変則3年と分けた変則の改正である。年齢や教養の点で外国語を学んたうえで外国人教師の講義を受けることが困難な者のため、医師の速成を目的として日本人教師が日本語で医学教育を行うものである[19]。
明治8年5月から、医学通学生教場と呼ばれて開設された。修学期間は3年(のち半年延長して7期に分かった。希望者はさらに半年延長して8期まで学べた)、定員は60名、年2回入学できた。
東校の頃より、正則(のち本科生)の医学教育を受ける者は寄宿舎生活だった。これに対し、自宅通学だったのが別課生だったので、最初は「医学通学生」との名称だった。
しかし、徐々に本科生も通学生が増えたことにより、明治13年10月、名称変更して「別課医学生」になった。
当時の日本は西洋医学を学んだ医師を全国に配置して衛生の向上を図ることが目的だった。東京大学医学部としては、西洋医学を教導・拡充できる人材を育成することを目指していた。そのためには、学科と技術と、どちらにも習熟できるよう時間をかけて学ばせることが必要だった[20]。その観点からは、東京大学医学部に修学期間の短い医師速成制度があることは、望ましくはなかった。
別課医学生は、明治18年4月を最後に、募集は停止された[21]。
別課医学生も卒業すれば、試験不要で開業免状が下付された。
別課医学生は、東京大学医学部の卒業生と比べれば修学期間は短く知識が少ないかもしれない。
しかし、試験不要で開業免状が下付される医学校が拡大された理由に、前回「明治14(1881)年12月27日、内務省から太政官への伺い」を紹介した。その中に、地方医学校も東京大学医学部別課生の教授方法と大差ない学校もある。このような医学校には試験不要で開業免状を下付してもよいのではないかといった内容があった。
別課医学生の想定される学力は、公立医学校を卒業して試験不要で開業免状が下付された学生と同じ程度だった。
医術開業試験受験希望者の教師としては、十分な学力を有していた。
おそらくは、好寿医院で実際に教授していたのは徳田周輔だったのだと思われる。
高階経本は多忙で難しかったのではないか。
高階経徳は、元は漢方医である。西洋医学の知識もどこかで学んだかもしれないが、医術開業試験に対応できる知識をどこまで教えられたか不明である。
ここで医学校通則の基準と好寿医院を比較してみる。

好寿医院は、「開業願」の内容上は、乙種医学校と同程度の医学校であったことがわかる。
しかし実際のところ、「開業願」の内容通りに運営されていたのか。
新聞広告
好寿医院は数回、新聞に公告を掲載している。
その内容から、好寿医院の変化がわかる。
新聞記事の内容を要約すると、
①明治12(1879)年9月2日 読売新聞 朝刊4頁目
10月1日開校、修学期間は3年
科目は、上記表に記載した内容のうち、
「物理学、包帯学、処方及調剤学」がない
「理学」がある(物理学を指しているのかもしれない)
②明治13(1880)年4月29日 読売新聞 朝刊4頁目
第1期と第2期が開講されている。
「医学士・片山国嘉」が教授する(それ以外の教師の有無は不明)
第1期科目:物理学・無機化学・解剖学
第2期科目:有機化学・解剖学・生理学・組織学
③明治14(1881)年12月14日 読売新聞 朝刊4頁目
教員と教場を増加させる
科目には、薬物学に代わり、「薬剤」。
物理学ではなく、「理学」と記載されている
④明治15(1882)年3月16日 読売新聞 朝刊4頁目
この時点では、当初予定していた科目のすべてを教えていたようである
教員7名で教える。
医学士:4名
医学士ではない教師:3名
(広告には7人分の実名が掲載されている)
医学士のうち1名は、高階経本である。
徳田周輔と片山国嘉の名前はない。
「医学士ではない教師」3名だが、3名のうち1名は東京大学医学部の学生である(明治17年に卒業している)。アルバイトのようなものだったのだろうか。
もう一人は、「中島一可」である。大学東校に入学後、特に解剖学に傾倒した。
明治15年の頃は、東京大学御用掛准判だった[22]。
最後の一人は、経歴がわからない。
新聞広告から、好寿医院の教師が短期間で入れ替わっているのがわかる。
実際に各教師がどの程度教えていたのかはわからないが、少なくとも表向きは医学士が複数名いる医学校だった。
科目は、当初予定していた科目通り概ね教えていたようである。
開校から3年間、概ね乙種医学校の体裁を保っていたのではないか。
『日本帝国文部省年報』
『日本帝国文部省年報』にも好寿医院についての記載がある。
明治12年度:教師3名、生徒13名(男性のみ)[23]
明治13年度:教師4名、生徒17名(男性・15名、女性・2名)[24]
明治14年度:専門学校の一覧表が掲載されていないので、不明
明治15年度:専門学校の一覧表は掲載されているが、好寿医院はない[25]
生徒数から考えると、規模の大きな学校ではない。
明治13年度の『日本帝国文部省年報』の女性生徒のうち1名が荻野吟子であろう。
まとめ
以上の好寿医院の内容を考えた場合、好寿医院は概ね、学科内容と教師は乙種医学校並みだったと考えてよいのではないか。
好寿医院の修学期間は3年である。医術開業試験規則が求める、前期試験受験者は1年半の修学期間、後期試験受験者はさらに1年半の修学期間、すなわち合計3年以上の修学期間を満たしている。
医術開業試験規則の定める科目を、好寿医院でも教えている。
好寿医院での修学履歴は、医術開業試験を受験するのに足りる内容だった。
荻野吟子の医学校入学時の学力
では、荻野吟子自身の医学校入学時の学力はどの程度だったのか。
医学校通則は、医学校の入学生にも一定の資格を求めていた。

荻野吟子は、東京女子師範学校(のちの小学師範科)を卒業しているので、小学生に教授できる程度の学力を有していた。逆にいえば、中学校レベルの内容を学んでいたわけではない。
しかも、荻野吟子が東京女子師範学校で学んでいた頃の小学校の制度と、明治15年の小学校の制度は異なる。
荻野吟子が東京女子師範学校で学んでいた頃の小学校は、下記図の明治10年の上等・下等に分かれていた頃である。
医学校通則ができた頃の小学校は、明治15年の初等・中等・高等に分かれていた。

医学校通則の基準に合わせるなら、荻野吟子の学力の程度は乙種医学校に入学できる学力とはいいがたい。
しかし実際のところ、医学校通則が定められたあとも、乙種医学校の学生の入学資格はあってなきがごとしだった。
乙種医学校の代表格は、済生学舎である。東京女子医科大学創設者である吉岡弥生も、済生学舎を卒業して医師になった。
吉岡弥生の自伝『吉岡弥生伝』から、済生学舎の生徒の様子が垣間見える。
「一口に生徒といっても、漢方医から洋医に転向する人があり、代診で資格だけとりにきている人があり、巡査で苦学しながら医者になろうとする人があり、四十を超えた人もあれば、二十に足りない人もあるという風で、実に雑然としていました」[26]
「軍医の娘で高等小学も出なかったために、漢字というものを知らない人のあったことでした。講義を筆記したノートをのぞくと、片仮名と平仮名をごっちゃに書いていましたから、その程度の学力ではとてもと案じられましたが、熱心なその人は、柳に飛びつく蛙のように、むずかしい医者の学問に飛びついて行って、八年目か九年目かに、とうとう開業試験をものにしてしまいました」[27]
医術開業試験受験者の基礎学力は、必ずしも中学校並みとはいいがたかった。
吉岡弥生が済生学舎に入学したのは、明治22年4月である。明治22年時点で「四十を超えた人」ということは、江戸時代末期の生れである。小学校でさえ通ったことはない。
しかしそのような人々も、医術開業試験を受験できていたのである。
そのような実態を考えると、東京女子師範学校で小学校教師足るべく学んだ荻野吟子は基礎学力があると評価できるのではないか。
総合して考えれば、荻野吟子の修学履歴は、東京女子師範学校で小学校教師に足る基礎学力を養成し、乙種医学校並みの医学校で学んだと考えられる。
荻野吟子が通学していた時期は、ほぼ医学校通則が定められる前である。しかし、医学校通則に照らしても、学力に劣るところはない。
しかも、そもそも医術開業試験規則は、受験資格に中学校並みの基礎学力があることを必須にしていない。
医術開業試験規則に明記されているのは、合計3年以上の医学の修学期間があることだけである(第8条、第9条)[28]。
西洋医学を学んだ医師の速成・増加が何よりも目的とされた時期だったから、医術開業試験受験者には、基礎学力はあまり求められなかった。
荻野吟子が石黒忠悳に助力を願ったとき、石黒忠悳が荻野吟子に協力したのは、この修学履歴によるところもあるだろう。
荻野吟子以外にも、医術開業試験受験ができるよう訴えていた女性はいた。しかし、荻野吟子と同様に基礎学力を養成したうえで、一定の質を保った医学校を卒業した女性はいなかった。
荻野吟子は、東京女子師範学校の第1回入学生のうちの一人である。第1回入学生のなかで医師になっているのは荻野吟子だけだから、荻野吟子と同時期に同程度の基礎学力を養成した医師志望の女性はいないだろう。
荻野吟子より後の世代なら、小学校や高等女学校を卒業したうえで医学を学んでいる。しかし、荻野吟子と同時期の女性たちは、だいたい江戸時代末期の生まれだから、明治時代になって小学校ができた頃には学齢期を過ぎていて、小学校に通う機会のないまま成長した(荻野吟子も小学校は卒業していない)。
荻野吟子が医術開業試験の受験をできたのは、もちろん荻野吟子が積極的に行動して助力を仰いだ結果である。
しかしそれだけでなく、学歴の形成、学歴に紐づく人脈を形成してキーマンたる石黒忠悳とつながりを持てたことが大きい。
小学校の就学率さえ女子は男子の半分の時代にあっては、女性が医学を学んで医師になりたいと訴えても、男性にとっては懐疑的だったのかもしれない。そこに、学歴をしっかり持った女性である荻野吟子が現れたからこそ、説得力を持たせることができたのではないか。
決して、単に幸運に恵まれたわけではない。
荻野吟子がどれほど意識していたかはわからないが、必要なステップを着実に踏んでいた。
荻野吟子以外の女性たちは、このステップが踏めていなかった。それが、荻野吟子とそれ以外の女性たちを分けた理由であろう。
好寿医院のその後
荻野吟子は紆余曲折はあれども、明治18年、医術開業試験に受かった。
では、荻野吟子が学んだ好寿医院は、どうなったのか。
明治15年10月30日付けで、高階経徳が東京府に「閉業届」を出している。
好寿医院は、修学期間3年で、明治12年10月1日開校した[29]。
そうだとすれば、閉校したのは明治15年9月末である。
諸手続きを済ませて、閉業届を提出したのが、10月30日だったのではないか。
閉校理由はわからない。
しかし、先述のごとく『日本帝国文部省年報』の生徒数をみるかぎり、人数は多くない。教師も短期間で入れ替わっている。
加えて、明治15年5月には、「医学校通則」が定められた。医学校通則の基準を満たせない医学校は生徒が集まりにくくなったと思われる。
明治15年度の『日本帝国文部省年報』の私立医学専門学校は9校あるが[30]、明治16年度には3校に減っている[31]。
好寿医院は外形上は医学校通則の基準を満たしているようにも見えた。しかし、教師の給与の支払いや設備維持を賄うには、生徒数が少なかったのではないか。医学校通則の基準を満たす環境を維持することは困難だったのかもしれない。
荻野吟子は好寿医院の第1回生で最後だった。同期の学生がどれほど医術開業試験に合格したかは不明である。
荻野吟子は、医術開業試験や医学校の基準が定まる過渡期に、様々な思惑が交錯する中で生れた医師だった。
[1] 内閣記録局 編『法規分類大全』〔第31〕 衛生門〔第1〕 衛生総 医事 附・獣医 ,内閣記録局,1891. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994203 (参照 2026-06-27)コマ番号171
[2] 『木村屋総本店百二十年史』,木村屋総本店,1989.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13090632 (参照 2026-06-22)コマ番号87
[3] 木村屋総本店HP,商品カテゴリー,酒種あんぱん 小倉
https://kimuraya-net.jp/collections/anpan_ogura
(参照:2026.6.22)
[4] 彦根正三 編『改正官員録』明治15年6月,博公書院,明13-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779310 (参照 2026-06-22)コマ番号4
[5] 特別職の職員の給与に関する法律(昭和24年 法律第252号)第3条、別表第一
https://laws.e-gov.go.jp/law/324AC0000000252
(参照: 2026.6.25)
[6] 公開件名:私立医学校開業願(高階経徳より、好寿医院開業の件、聞届)
綴込番号:37 収録先簿冊の資料ID:000117027 https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=1571314
東京都立公文書館蔵
[7] 公開件名:(高階経徳ヨリ医学校好寿医院閉業届出)
綴込番号:13 収録先簿冊の資料ID:000117081 https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail?cls=collection_04&pkey=1581034
東京都立公文書館蔵
[8] 羽倉敬尚 編『朝臣系図』中,羽倉敬尚,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1141323 (参照 2026-06-23)コマ番号74
[9] 内閣記録局 編『法規分類大全』〔第31〕 衛生門〔第1〕 衛生総 医事 附・獣医 ,内閣記録局,1891. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994203 (参照 2026-06-23)コマ番号124
[10] 『日本医史学雑誌』41(2)(1478),日本医史学会,1995-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3359347 (参照 2026-06-23)コマ番号44
[11] 大崎清重 編『明治官員録』明治12年7月,山口安兵衛,明12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/825770 (参照 2026-06-23)コマ番号160
[12] 池田文書研究会「池田文書の研究(二十)」『日本医史学雑誌』,第45巻第3号,日本医史学会,1999.
http://jshm.or.jp/journal/45-3/421-433.pdf
(参照 2026.6.24)
[13] 東京大学医学部 編『東京大学医学部一覧』明治13,14年,丸家善七,明14-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813141 (参照 2026-06-24)コマ番号131,136
[14] 東京大学医学部 編『東京大学医学部一覧』明治13,14年,丸家善七,明14-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813141 (参照 2026-06-24)コマ番号19-20
[15]土屋重朗「林洞海の晩年の感懐と書簡」『日本医史学雑誌』22(2)(1402),日本医史学会,1976-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3359272 (参照 2026-06-24)コマ番号26-28
以下、学位授与については、当該論文を参照した
小関恒雄「明治初期東京大学医学部卒業生動静一覧(一)」『日本医史学雑誌』第33巻第3号,日本医史学会, 1987.
http://jshm.or.jp/journal/33-3/317-327.pdf
(参照 2026.6.24)
高階経本の卒業については、当該論文を参照した
[16] 東京大学医学部 編『東京大学医学部一覧』明治13,14年,丸家善七,明14-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813141 (参照 2026-06-24)コマ番号136
[17] 東京大学医学部 編『東京大学医学部一覧』明治13,14年,丸家善七,明14-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813141 (参照 2026-06-24)コマ番号132
[18] 『日本帝国文部省年報』第7(明治12年) ,文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809152 (参照 2026-06-27)コマ番号289
「諸規則摘要」(通則)
学科の修学期間には変遷があるが、本稿では明治12年を紹介した
[19] 東京大学医学部創立百年記念会, 東京大学医学部百年史編集委員会 編『東京大学医学部百年史』,東京大学出版会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581905 (参照 2026-06-24)コマ番号105
以下別課生について当該頁を参照。
[20] 東京大学医学部 編『東京大学医学部一覧』明治13,14年,丸家善七,明14-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/813141 (参照 2026-06-24)コマ番号20-22
[21] 東京大学医学部創立百年記念会, 東京大学医学部百年史編集委員会 編『東京大学医学部百年史』,東京大学出版会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581905 (参照 2026-06-24)コマ番号105
[22] 彦根正三 編『改正官員録』明治15年3月,博公書院,明13-17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779307 (参照 2026-06-25)コマ番号140
[23] 『日本帝国文部省年報』第7(明治12年) ,文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809152 (参照 2026-06-25)コマ番号348
[24] 『日本帝国文部省年報』第8(明治13年),文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809153 (参照 2026-06-25)コマ番号324
学校名「好寿院」、主長(校主のこと)「高橋経徳」と記載されている。
[25] 『日本帝国文部省年報』第10(明治15年),文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809155 (参照 2026-06-28)コマ番号577
[26] 神崎清 編『吉岡弥生伝』,東京聯合婦人会出版部,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1058303 (参照 2026-06-27)コマ番号106
[27] 神崎清 編『吉岡弥生伝』,東京聯合婦人会出版部,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1058303 (参照 2026-06-27)コマ番号111
[28] 内閣記録局 編『法規分類大全』〔第31〕 衛生門〔第1〕 衛生総 医事 附・獣医 ,内閣記録局,1891. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994203 (参照 2026-06-27)コマ番号162
[29] 明治12(1879)年9月2日 読売新聞朝刊4頁目
[30] 『日本帝国文部省年報』第10(明治15年),文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809155 (参照 2026-06-26)コマ番号576-577
[31] 『日本帝国文部省年報』第11(明治16年),文部省,明8-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/809156 (参照 2026-06-26)コマ番号576