
40年間の末路 第1章 ノック ドキュメンタリー小説|自叙伝|10代
【あらすじ】
1980年代から2020年代にかけて、40年間の長きに亘り予測不可能な出来事に翻弄されて、数奇な運命を辿った、筋書きのないドキュメンタリー小説。
高校時代、海外留学、学生結婚、火事、転職、転勤、浮気、自殺未遂、自己破産、大震災、網膜剝離、熟年離婚、そして3人の子どもと5人の孫に恵まれ、遂に迎えた還暦。数々の転機の先に待っていたのは…
高校卒業以降引っ越し回数は14回、転職回数も8回を数え、日本人の平均回数を遥かに超えた。40年間揺れ動いた元妻との出会いと別れを中心に、それらを取り巻く様々な激動の生涯を振り返りながら紡ぐ。
そして離婚後の元妻の行方は…
母港を出港し、大海原に漕ぎ出した一艘の小舟が荒波に揉まれ、遭難沈没の危機を乗り越え、いくつもの港を経由した末に、辿り着いた静かな母港で待っていたのは…
東京都杉並区高円寺のボロアパートの202号室の前にようやくたどり着くと、中では男の怒鳴り声がしていた。
それは1986年(S61)の5月の連休が明けたばかりの、ある土曜日の午後だった。
その年僕は東京の大学に進学し、上京してまだ二ヶ月も経っていなかった。ただ都県境に近い埼玉の志木に下宿していたので、「上京した」と言うには少々後ろめたさはあるものの、故郷よりはずっと東京に近かった。
アパートの一室のドアの前に立って、どうすべきか一瞬迷った。
声の主が男だということはわかった。仁美の声も聞こえた。口論だった。怒鳴り合いではなく、男が一方的に罵声をまくしたてていた。
ただの高校時代の同級生にすぎない仁美のために、なぜ僕は燃え盛る炎に飛び込もうとしているのか。
“飛んで火にいる夏の虫”とは今の僕のことか…
引き返すことも考えた。だが仁美から「東京の予備校に入学しました」と手紙が来たのは事実で、電話で会う約束をしたのも事実で、ここまで電車を乗り継いで志木から高円寺に来たのも紛れもない事実だった。
でも、これまでの時間を無駄にはしたくはなかった。何よりも中でナニが起きているのか突き止めたい衝動が、恐怖に勝った。
―― コン、コン、コン
僕は意を決して木製のドアをゆっくり3回ノックすると、乾いた音が響き、そして怒鳴り声が止んだ。
十秒ほどの沈黙のあと、ドアが内側に開いた。
仁美が立っていた。
左の頬から顎にかけて、青紫色のあざがあった。目が赤く腫れ、下まぶたに涙が溜まっていた。僕は言葉を失った。高校で二年間、顔を見知っていた相手が、見たこともない顔になっていた。
背後から足音がして、見覚えのある男が現れた。
「円谷先輩……?」
思わず声に出た。高校の図書室で何度も顔を合わせた、一学年上の先輩だった。円谷先輩は僕を一瞥して、それから仁美を見て、言い捨てた。
「コイツはお前にくれてやる!」
それだけ言って、僕の脇をすり抜けて階段を下りていった。足音が消えて、静かになった。
仁美はその場で泣き崩れた。
声は出さず、肩だけが小刻みに揺れていた。