
連載小説:『私、脱いだらすごいんです。』 #10 #創作大賞2025 #エンタメ原作部門
第10話:「ナオコの沈黙」
ナオコは、グラスの氷を見つめていた。カラン、と音を立てて溶けていく氷を、ただじっと見つめながら、内心、(またこれか)と思っていた。
──あの夜も、同じだった。
──あのときの店でも、コースターの裏に、あの言葉は書かれていた。
『私、脱いだらすごいんです』
初めてそれを見たのは、もう数年前。まだ私が、がむしゃらに仕事をして、プライベートも何もないような毎日を送っていた頃だった。あのときは、泣きそうになるくらい腹が立った。何だ、このふざけた言葉は。下品で、意味不明で、バカみたい。誰が書いたんだか知らないけれど、私の何を知っているというのだ。そんな反発心を抱いた。
でも、なぜかその一言だけが、数年経った今でも、頭の中に鮮明に残っていた。忘れようとしても、ふとした瞬間に脳裏に蘇る。
あの時の自分は、本当にいろんなものを着込んでいた。仕事の鎧、強がりの仮面、完璧主義という名のプライド。素直になれない、甘えられない、誰にも頼れない。誰かに弱みを見せれば、すぐに足元を掬われると本気で思っていた。「強く見せるしかない」と、自分自身に言い聞かせていた。周りから見れば、きっと「しっかり者」で「デキる女」だっただろう。けれど、その内側は、いつでも張り詰めていて、ひどく息苦しかった。
でも──あの言葉を見た夜から、ほんの少しだけ、自分を脱ぎ始めた。 誰かに見せるためじゃなかった。ただ、自分自身が楽になりたかった。少しずつ、少しずつ、鎧を脱ぐように。それが、どれほど重く、どれほど自分を縛り付けていたかを、初めて知った。
(もしかしたら、あれは…誰かがくれた“きっかけ”だったのかもしれない)
ユウタの視線に気づいて、ナオコは軽く笑ってみせた。いつものあの、表情を崩さない笑顔。彼が何を考えているのか、大体は察しがついた。彼は今、このメッセージの「犯人」を探している。そして、その「犯人」が自分である可能性も、きっと考えているだろう。
「……なんでもないよ、ただのイタズラ。気にするなって」
そう、とっさに言って、グラスを傾けた。
けれど、ポケットの中のコースターは、今日の分として、ちゃんと新しく、そこにあった。赤いインクで書かれたメッセージが、彼女の心臓の鼓動と共に、微かに熱を帯びているように感じられた。それは、単なる落書きではなく、彼女自身の物語の一部となっていた。
次回第11話「私、脱いだんです」へつづく。