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【note創作大賞2026・オールカテゴリ部門】小説『立身出世 男を上げろ』

    あらすじ
    この物語は、家族を守るため接待ホストになった男の、笑いと涙の立身出世物語です。
    仕事では部下に舐められ、家では反抗期の息子に馬鹿にされ、妻には頼りにされず、絵に描いたようなダメ中年サラリーマンが「女性を体を使って満足させる仕事」をすることになるのをきっかけに、夫、父親だけでなく、男としての自信も回復して、人生が上手く行き始めるという、中年男性の願望が思い切り詰まったちょっとエロいけれども、家族そして男の再生譚の物語です。
     そんな家族を描いたちょっと変わった立身出世物語であり、言葉の如く「男を上げる」物語であります。
     
    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門


    『立身出世 男を上げろ』
           逢坂 純

    君彦は、ホテルのエレベーターのドアの前で、部屋番号と名前が書かれたメモ用紙を見つめていた。
    「ミキ……」
    その名前は、皮肉なことに君彦の妻と同じ名前だった。
    これが最後の仕事、決意は固かった。彼は情夫だった。
    それは、世の中の女性を自分の体でもって、喜ばせるという商売だった。
    君彦は妻の美紀のために、そして受験を控える息子のために、この『女性専用の体を使った接待』をすることを決心した。そして、今夜のこの仕事を最後に、この『接待』の仕事を辞める決意をしていた。
     
    エレベーターのドアが開いた。始めはビクビクと緊張してホテルに入っていた君彦だった。
     階数のランプのボタンを押す。ドアが閉まる。
    一人だけのエレベーター内。
    「美紀」、妻の名前を小さく呟いた。喉が熱い、股間が疼(うず)く。罪悪感と興奮が同時に腹の底を掻き回した。
    妻以外の女性を抱くことへの裏切りの気持ちとその真逆の欲情。
    君彦は確かに興奮していた。それがアンバランスに揺れていた。
    妻や息子への背信と男の本能が心を乱した。
    しかし、次第に自分は妻を喜ばせることができる、そのことが君彦の自信を漲(みなぎ)らせた。
    でも、それも今夜のこの仕事で終わる。全部終わったら、美紀に全部告白しよう、それが自分のためでもあり、家族のためでもあった。そう、何もかもが終わったら。しかし、その告白を聞いた時、妻は自分のことを許してくれるだろうか。その時、丁度エレベーターが階に到着しドアが開いた。
    君彦は、エレベーターを出て、指定の部屋まで歩いた。
    そして、部屋のインターフォンを押した。
    選ばざるを得ない決断だと言い訳をすることもできたかも知れない。だけど、そうはしなかった。
     君彦は自分のすべての決断に後悔をしたくなかった。だから、この最後の仕事も引き受けたのだ。
     インターフォンを押してしばらくすると、部屋のドアの鍵を内側から外す音が聴こえ、ドアが開いた。
    「あ……」
    そこにいたのは、妻の美紀だった。
    お互いの目と目が合った。美紀は驚きと戸惑いの表情を露呈させていた。
    頭の中が真っ白になった。君彦と美紀は見つめ合って黙ったまま、立ちすくんでいた。
    互いの息遣いが聴こえるくらいに、部屋の空気はピンと張りつめていた。
     
     ひと月前。蝉の鳴き声がうるさいくらいの、夏の初めだった。
     
    「工藤さんー、ちょっとコピー取ってきてくださいよー」
     部下の佐々木拓朗が書類の束を君彦のデスクの上にドサリと置いた。
    「どうせ、やることないんでしょ?係長補佐なんて」
     君彦の胸に佐々木が放った言葉の矢が突き刺さる。
    君彦は万年係長補佐だった。勤めている保険会社『スマイル』では彼は居場所を失くしていた。
    入社してから営業畑で働いていた君彦。
    男38歳。働き盛りの筈だった。だが、理想と現実は違う。
    窓際族、そんな言葉が今の君彦には一番似合っていた。
    書類に判子を押すだけの毎日だった。
    「いいですよねー、工藤さんは。椅子に座ってるだけでお給料貰えるんですから」
    部下の佐々木には舐められ、それでも君彦はその屈辱に耐えていた。
    「私がコピー取ってきます」
     そう言ったのは、斎藤菜々美だった。
     今年入社したばかりの新卒採用が彼女だった。
    「お、流石、気が利くねー、斎藤さん。じゃあこれ、1500部コピーしてね」
    「1、1500部ですか??」
    「そうだよー、ほらチャッチャと動く」
    菜々美が君彦を手伝うのは、決して同情ではなかった。むしろ、菜々美は君彦に対して好意を抱いていた。
    菜々美がデスクの上の書類を手に抱え去っていくと、佐々木は君彦のデスクに尻を乗せて、尻を這わせてにじり寄ってきた。
    「工藤さん、僕、今度太田社長にアプローチしてみようと思うんですけど」
    太田社長とは、フランチャイズの焼き鳥居酒屋『一本道』の社長だった。
    「それで僕、天才的なアイデア考え付いちゃったんですけど、聞きたいですか?」
    「取り敢えず、デスク降りようか」君彦は控えめな言葉で佐々木を往(い)なした。
     佐々木は、デスクからぴょんと飛び降りた。
    「それで、そのアイデアなんですけど、何だと思います?」
     佐々木は勿体ぶった。
    「何?」
    「社長の奥さんを接待しようと思うんですよー」
    「社長じゃなく、奥さんを?」
    「そうなんですよ。ホストクラブで夫人を接待。いいアイデアでしょ」
    君彦は唸った。接待費のことを考えると、GOを出してよいものか。
    「工藤さんは判子押すだけでいいんですよ。お願いしますよ~」
    「うーん」そして再び唸った。
    「これが成功すれば、工藤さんは課長、僕は課長補佐ですよ」
    君彦は腕を組んだ。課長か、悪くない。
    「決まりですね!。成功させましょう!」
    「課長かー……」
    君彦の心に、佐々木の言葉が明るく響いた。
     
    君彦は息子太郎と睨み合っていた。
     太郎は、15歳。反抗期真っ盛りだった。
    「俺はあんたのこと、親だなんて一度も思ったことないから!」
    太郎の腕に力が入る。
    「お前がどう思おうが、お前は俺たちの息子だ!」
     君彦の腕にも力が入る。
    「じゃあどうして俺の名前をこんな日本昔話みたいな名前にしたんだよ! 俺はクラスで名前呼ばれる度にクスクスとクラス全員に笑われてるんだぞ!」
    ガッチリと握り合った君彦と太郎の手、太郎が君彦の腕を倒しにかかる。
    「いい名前じゃないか。太郎。立派な名前じゃない…か!」
    君彦の腕に力が入る。太郎の腕を打ち負かそうと、腕が伸びる。
    「あんたなんか死んだらいいんだ。本気で離婚して欲しい!」
     男と男のぶつかり合いがそこにはあった。
    「だったら、お前一人で生活してみろ! 一人じゃ何にもできないくせに!」
    君彦は歯を食いしばり、太郎の腕をゆっくりと押し倒した。
    「両親揃って、育児放棄かよ!」
    太郎の腕の力が伸び、君彦の腕を負かしにかかる。
    「その言葉、受験に合格してから言え! グゥゥ!」
    君彦、腕に力を入れ、テーブルに太郎の手を押し倒そうとするが、その腕がピタリと止まる。
    「おらっ!!」
    太郎の腕がグングンと傾き、君彦の腕をテーブルに屈服させる。
    「勝った!」
    太郎はガッツポーズを決める。
    「ネットフリックス、約束だからな」
    その時、玄関口を開ける音がした。
    「ただいまーーー」
    リビングのドアを開けて、美紀が入ってくる。君彦の妻だ。
    「疲れたーー」
    「お帰り母さん!」
    「ありがとー、ただいま太郎」
    「お土産は?北海道まで行ってきたんだよね?」
    「そうよー、カニよカニ。冷凍10キロのタラバガニ、運んできたってのー。はい、お土産」
    そう言うと、美紀は土産物の白い恋人を取り出す。
    「勉強の休憩時間に食べなさい」
    「分かったよ。10時まで寝るー」
    そう言うと、太郎はリビングを出て行った。
    太郎がリビングから出て行くと、君彦はすかさず美紀の肩に手をやり、肩もみをし始める。
    「1週間の出張、ご苦労様でした」
    「ありがとう」
    君彦の手は肩もみから、次第に美紀の手に自分の手を絡ませる。
    「やめてよ、疲れてるんだから」
    美紀は君彦の手を払いのける。
    「一週間ぶりじゃないか。いいだろ?」
    「もうやめて!」
    美紀が君彦を突き飛ばす。君彦はその拍子に尻もちを突き、テーブルの角に頭をぶつける君彦。
    「そんな言い方しなくたっていいじゃないか~。ウエーン」
     君彦、大げさに泣き出す。
    「ちょっと、太郎に聴こえるでしょ!」
     君彦、更に大声で泣き出す。
    「もう好きにして!」
    美紀、ドアをバタンと閉めて、リビングを出て行く。
    「ウエー……ン……」
    君彦のやり場のない気持ちが、リビングに寂しく響いた。
     
    次の日の夕方、君彦は太田社長宅に社長夫人を迎えに車を走らせていた。
    ドライバーは君彦。助手席には佐々木が、そして後部座席には菜々美が座っていた。
    「どうして僕がドライバーなんだよ」正直佐々木の自分への態度に怒りさえ覚えた。しかし、それを佐々木に言う勇気は君彦にはなかった。
    「だって、俺がドライバーだったら、お酒呑めないじゃないですか。工藤さん、接客します?」
     君彦は不満な気持ちを抑えて、ハンドルを握り締める手に力を入れた。
    「あ、そこです。その三階建ての家」佐々木はその三階建ての家を指さして言った。
    太田社長の家に車を横づけして停めると、佐々木は車の助手席から降りて、玄関の前に立った。
     佐々木がインターフォンを押すと、インターフォン越しに太田社長夫人の声がして、間もなくして太田社長夫人が玄関から現れた。
     その装いはまるでピンクのドレスからはち切れんばかりの前足と後ろ足を出したイノブタそのものだった。
    「お待たせしたわね。今日は歌舞伎町一のホストクラブに連れて行ってくれるんだったわね」
    「それが、ホストクラブは予約で一杯で、今日はもっと楽しいところをご案内しようかと思っています」
    「そう?楽しみだわー」
    イノブタは大層醜い笑みを浮かべて、佐々木のエスコートで後部座席に乗り込んだ。
    「それじゃあ、出っ発―!」
    イノブタは嬉しそうに鼻を鳴らした。
     
    君彦たちは、佐々木の先導で深夜の繁華街を歩いていた。
    「ここでーす、太田社長夫人。さ、入りましょう!」
    君彦たちはエレベーターに乗り込んだ。その時、エレベーターの重量オーバーのブザーが鳴った。
    その音を聞いて、一斉に皆、イノブタを見やった。
    「私? 私じゃないわよ」
    「あ、私降りて後で行きます」菜々美がエレベーターをそそくさと降りた。
    「あ、僕が降りるよ。斎藤さん、乗って」
    「あ、でも」
    「大丈夫」そう言って、君彦はエレベーターを降りた。
    ドアが閉まる寸前、菜々美がエレベーターから飛び降りた。
    そしてエレベーターはドアが閉まり、階上へと上がって行った。
     君彦と菜々美はお互いの顔を合わせると、苦笑した。
    「行きましょ、係長補佐」菜々美はそう言って笑った顔になった。
    「よし、行くか」
     君彦と菜々美はエレベーター横の階段に歩み出した。
     
    君彦らは、佐々木とイノブタ太田社長夫人がいるフロアに階段で上がってきた。
    「ここかな」
     君彦は、紫色のネオンがほのかに灯る『パピヨン』という店に入って行った。
    ドアを開けると、野太い男の声で「いらっしゃ~~い」と化粧の濃いイノブタ2号、スルメイカ、あと数名の細とデブが君彦を迎えた。
    席を見ると、イノブタが一人で酒を飲んでいた。
    その隣の席では、佐々木が有象無象の猛者たちに囲まれて、乾杯をしていた。
    「あんたもこっち来て呑みましょうよ」イノブタ2号が前足で手招きした。
     イノブタは一人で不満気な表情で酒を飲んでいた。
    「失礼しましたー!」
     君彦は即座にイノブタの飲むグラスにお酌をした。
     
    「あんたもこっち来て飲みなさいよ」イノブタ2号が君彦の袖を引っ張った。
    「今日、僕、ドライバーなんでお酒呑めないんです」
    「何が僕よ。あんたいい年したおっさんでしょ。あ、私たちもおっさんかー」
    イノブタ2号とその仲間たちはゲヘゲヘとゲスに笑った。
    と、イノブタが急に立ち上がり、大声で嘶(いなな)いた。
    「こんな屈辱、初めてよ!」
    イノブタは立ち上がり醜い後ろ足歩幅大きく、店を出て行こうとした。
    「工藤さん!追いかけて」佐々木はイノブタの背中を指さし、君彦にイノブタの後を追いかけるように言った。
    ドアを出ると、イノブタは既にエレベーターに乗り込んで、階下に降りて行ったところだった。
    君彦は来たときと同じように、階段を駆け下りると、イノブタ太田夫人は丁度ビルから出て、車道の真ん中をいきり立って歩いていた。
    「太田社長夫人――!!」と、駆け出した君彦の足首がグリンと曲がり、その場で転倒した。
     イノブタはノシノシと君彦の視界から去って行った。
    君彦は足を引きずりながら、叫んだ。
    「何なんだよ!全く!」
    その声は、街の喧騒に掻き消されていった。
     
    君彦が家に帰ったのは、夜の10時だった。
    捻挫した足を引きずりながら、君彦は玄関を開けた。
     玄関を入って靴を脱ぐ間もなく、太郎がリビングのドアを開けて、飛び出してきた。
    「母さんが!母さんが!」
     太郎は狼狽(うろた)えていた。美紀がトラックでの運送中に事故を起こして、病院に運ばれたとのことだった。
    太郎から病院名を告げられ、君彦は足の痛みも忘れて、玄関を駆け出し、中古で買った白のシビックに乗り込んだ。
    「俺も行く!」太郎は車のドアを開け、助手席に乗り込んだ。
     君彦は、太郎にシートベルトを締めさせ、車を発進させた。
     
    走っている道中、太郎は狼狽しながら、手をしきりに揉んでいた。
     君彦は、黙って運転していた。
     病院に到着したのは、夜の11時ちょっと前だった。二人は市立の総合病院の救急外来に走り、二人は治療室に駆け込んだ。
    「母さんーー!」
    二人は治療室の中に美紀を探した。
    「美紀!」
    と、治療室の一つに敷かれていたオフホワイトのカーテンが開いた。
    「よっ」
     そこにいたのは、美紀だった。美紀はベッドに半身を起こし、手を振っている。
    「母さん、事故起こしたって!」
    太郎は美紀に駆け寄った。
    「今日はこのまま、入院してもらいます」
     女性看護師は、君彦に向かって言った。
    「入院ですか!?」
    美紀は高速道路をトラックで運転中に、タイヤがパンクして事故したと言った。
     美紀はペロッと舌を出した。
    「ねえ」美紀が君彦に向かって声を掛けた。
    「何?」
    「私、トラックドライバー、辞めるわ」
    「え?」
    君彦と太郎が同時に言った。
    「いいでしょ?」
    「ホントに?」今の君彦には一家を支えられる自信がなかった。
    「太郎、これからはお父さんに食べさせて貰ってね。もう決めちゃった」
     君彦はそう言われても自信が持てなかった。
    「これからは、頼りにしてますよ~、おとうさん!」
    「僕の稼ぎだけで……」
    「頑張ってよ、あなた!」
    美紀はそう言って、君彦の肩を揉んだ。
     家族の幸せが自分の手にすべて掛かっていると、君彦は覚悟した。
    「うん……、僕、頑張るよ!」
    「頑張ってお父さん」
    「うおぉぉーーーー!!やったるぜー!」
     君彦の怒号が治療室中に響き渡った。
     君彦の気持ちは捻挫した足首の痛さなど、忘れるほどだった。
     
     帰りの車の中は、冷房のヒンヤリした空気が君彦の頭をシャッきりとさせていた。
     助手席には太郎が黙って目の前の闇に目を凝らしていた。
    「太郎」君彦はしっかりとハンドルを握り、前方を見ながら太郎に静かに言った。
    「母さんがいない間も、ちゃんと勉強するんだぞ」
    「うん」
     太郎は大人しく従順だった。
     夜の闇は、静かに重く二人を黙らせた。
     
     朝6時、君彦は寝室で目が覚めた。
     いつもいる筈の美紀は隣にはいなかった。
    「そっか、美紀は入院してたんだ」 
     君彦はベッドから起き上がり、寝室のドアを開けて部屋を出て行った。
     部屋を出ると、太郎の部屋の前に立ち、ドアをノックした。
    「入るぞ」そう言って、太郎の部屋に入って行った。
     太郎はパジャマにも着替えず、昨日の服のままでベッドで寝ていた。
     君彦は静かにドアを閉め、部屋を出た。
    寝室に戻ると、クローゼットから大きな皮のボストンバッグを出した。
    入院生活には色々と必要な物がある。
    洗面所に行くと、タオル、着替え、パジャマ、下着、電動歯ブラシ、携帯の充電器、美紀に必要な物を詰め込んでいった。鞄に必要な物を詰め込み終わると、ふと、思った。
    太郎の朝ごはん用意しなきゃな、と。
     君彦は財布を持って、家を出た。行き先は歩いて5分のコンビニだった。
    歩きながら君彦は、これからのことを考えていた。
    美紀の不在、太郎の受験、そして自分の仕事のこと……。
    不安と責任が綯交(ないま)ぜになって、武者震いをした。自分が頑張らないと、と気持ちを奮い立たせた。
     コンビニに着くと、カレーパンとコーヒー牛乳を籠に入れた。
     それは、太郎の好物だった。
    レジで会計の途中、店員に言って煙草とライターを買った。
    ラッキーストライク、君彦が学生時代に吸っていた煙草だった。
    太郎が生まれてからは禁煙をしていた。
    コンビニの帰りに公園に寄ってベンチに座り、煙草の箱のフィルムを剥がし、箱から煙草を一本取り出すと、口に咥えライターで火を点けた。
    ゆっくりと灰に煙を吸い込むと、煙を吐き出した。
     15年振りの煙草は、頭をクラクラさせた。その味は苦く、懐かしく、そして熱かった。
    「僕が頑張らなきゃな」
     初夏の朝は思いのほか、涼しかった。遠くで犬の吠える声と蝉の声が響いていた。
     今日もまた暑くなるだろう、そんなことが頭に浮かんだ。
     まだ長い煙草の火種を揉み消すと、吸殻を煙草の箱の中に戻した。
     
     家に帰ると、リビングのダイニングテーブルに、コンビニで買ったカレーパンを置いた。
     そして、メモ用紙に「冷蔵庫にコーヒー牛乳が入ってます」と書き、カレーパンにメモを添えて置いた。
     君彦は仕事に行くため、スーツに着替えた。
    「僕一人でやっていけるのだろうか」、そんな考えがふと脳裏に過ぎったが、すぐに頭を振ってその考えを消し去った。
    ネクタイを締めるその顔は、闘う男の顔になっていた。
     
    会社に出社する前に、君彦は美紀の入院する病院に行っていた。
     会社から車で30分、病院に到着した。
     エレベーターが4階に着くと、美紀の個室の部屋へ直行した。
    美紀のいる個室を見つけ、君彦は病室のドアをノックした。
    「はーい」美紀の声が室内から聞こえた。
    スライド式のドアを開き、病室に入って行く。
    君彦の顔を見る美紀の顔がパッと明るくなった。
    「荷物、持って来たよ」君彦はそう言って美紀のベッドの傍らにある小さなテーブルの上に鞄を置いた。
    美紀は鞄を開けて、鞄の中身を物色した。
    「池井戸潤が入ってないー」
    「ああ……」君彦は心ここにあらずに美紀に返事をしていた。
     その時、君彦の携帯が震えた。
    スマホのディスプレイを見ると、相手は課長からだった。
    「出たら?」
    「うん」君彦はスマホの画面をタップした。
    「課長」そう言いながら部屋を出た。
    「太田社長夫人の接待を許したのは君かね?」と課長は電話口で言った。
    「はい。そうです」
    「ちょっと難しい問題になりそうだ……」
    「難しい問題って何ですか?」君彦は昨晩の惨劇を思い出した。
    電話を切り、溜息を吐き病室に戻った。
    「何だった?」
    「いいや、何でもない」不安な気持ちを美紀には悟られたくなかった。
    「これからは、あなたに頑張ってもらわないとね。太郎の受験もあるし、私ももうこれからは主婦だからね」
    美紀はそう言って笑顔になった。
     この笑顔を守らなければ、この笑顔だけは失くしたくなかった。
     
    君彦が会社に出社すると、佐々木が君彦のデスクの上に尻を乗せ、昨日の顛末を話し始めた。
    「どうして昨日、帰っちゃったんですか?汚いおっさんたちの相手、僕一人にさせて帰っちゃうんですもん」
    佐々木の言動は、いちいち腹の立つことばかりだった。それは君彦のストレスになっていた。
     菜々美が佐々木との会話を見守るように自分のデスクから見ていた。
    と、課長が君彦を呼びつけた。
    「工藤係長補佐、ちょっと」と。
     課長は、会議室に来るようにと指示した。
    顔を引き締め、君彦は会議室に向かった。
    会議室のドアを閉めると、課長は眉を顰(ひそ)めて言った。
    「昨日、家で家族団らんしながら晩御飯を食べていたら、太田社長の奥さんから苦情の電話が入ったよ」
     それは、僕じゃなく佐々木のせいだ、君彦は心の中で叫んだ。
    「社長夫人は訴訟を起こすと言ってる」
     問題はかなり深刻なようだった。
    「夫人は責任者をクビにしろと言っているよ」
     全部、佐々木の仕業なのだが、判子を押したのは、自分だった。
    「責任者の君が会社を辞めてくれたら、夫人は昨日のことをなかったことにしてもいいと言ってる。昨日夫人と何があったんだ?」
    「あれは佐々木が全部、セッティングしたことで……」
    「責任者は君だろう?」
    「ですが、課長」
     君彦は昨日のことの説明をしようと必死に課長に食い下がった。
    「ですがじゃないんだよ。問題はこれで太田社長との契約も打ち切られるかも知れないということなんだよ」
    君彦は黙った。反論したいことは沢山あった。でも黙った。
    「私が太田社長に謝罪に行くから、君は辞表を書きなさい」
    「え?!そんな!そんなのってないですよ!」
    「これは命令だ」
     自分は何も悪くないのに……。やるせない気持ちで君彦は会議室を出て、自分のデスクに着いた。
    デスクに着くと、佐々木が寄ってきて二ヤつきながら近づいてきた。
    「何絞られてたんですか?工藤さん」
    「全部、お前のせいだろ!!」オフィス中に声が響いた。
    「どうしたんですか?ボーっとしちゃって」
    怒りの声は、君彦の心の声だった。
     佐々木はニヘラと笑って、自分のデスクに戻って行った。
     
     どうして僕は今、辞表を書いているのだろう。
     万年係長補佐だと言っても、大卒で新卒採用だった。
     この仕事が好きだった。結婚して子供も産まれて、幸せだった。
     今、この瞬間までは。僕はこれからどうして生きていこうか。この過去を振り返ったとき、いつか笑える日がくるのだろうか? 今は、僕は笑えてるかな?
     
    君彦が辞表を書いていると、菜々美が心配そうな顔で君彦のデスクにやってきた。
    「大丈夫ですか?係長補佐」
     菜々美は心底心配そうに君彦に言った。
    「僕、佐々木君のお蔭で会社辞めることになりそうなんだ」
     君彦は沈んだ声で言った。
    「え?!」
    「斎藤さん、あとは頼んだよ、僕はもう駄目だ」
     そう言うと、君彦は自分のデスクを整理し始めた。
    「帰るよ、お疲れさま」
     鞄を手に持つと、オフィスを出て行った。
    「係長補佐……」
     けれど菜々美の声は、君彦には届かなかった。
     やるせない気持ち一杯になった。
    君彦はエレベーターが到着するのを待っていた。
    「これからどうしよう」そう呟いた。
    エレベーターが到着しドアが開き、君彦はエレベーターに乗った。
    「待ってください!」
    そこには菜々美が立っていた。
    「間に合った」菜々美は突然、目に涙を溜めて君彦の胸に飛び込んできた。
    「おいおい!」
    君彦は菜々美に押され、エレベーターのドアが閉まった。
    君彦は菜々美を引き離そうとするが、菜々美は君彦から離れなかった。
    「斎藤さん」
    「エレベーターが到着するまで、このままでいさせて下さい」
    こんな時、カッコイイ男は、菜々美の肩でも抱くんだろうな、と君彦は自分の勇気のなさを実感した。
     
     エレベーターが1階に着いて、ドアが開く。
    「じゃあ、君も頑張るんだよ」
    「私、係長補佐のために何の力にもなれなくて情けないです」
     菜々美の目に再び、涙が浮かんだ。
    「大丈夫だよ。これでも俺は男だぜ」
     君彦の精一杯の強がりだった。
    君彦はエレベーターを降りて、一階フロアを歩いて行った。
    菜々美は最後までその後ろ姿を見ていた。
    「ありがとうございました」
     菜々美は君彦の背中をいつまでも見つめていた。
     
     君彦は、図書館のベンチで精気が抜けたようにボンヤリと座っていた。
     辞職……、クビ。これからどうしようか、君彦は今日あったことを反芻していた。
    菜々美は最後まで心配していたな。自分に助ける力がないことを最後まで悔やんでいたな。
     そんな風にしてボンヤリとしていると、急に肩を叩かれた。
    「工藤さん!」
    「わっ!」いきなりのことに思わず叫んでしまった。
    振り返るとそこに立っていたのは、佐々木だった。
    「佐々木君」
    「こんなところで、何してるんですか?」
    「いや……」
    「会社クビになっちゃいましたねー。工藤さん、太田社長夫人、怒らせちゃうから」佐々木はまるで全部他人事のようにヘラりと言った。
     君彦は、佐々木に言いたいことは山ほどあったが、それを言う元気もなかった。
    「工藤さん、夫婦生活上手くいってます?」
    「突然、何なんだ君は。失礼だな」
     佐々木は脇に抱えた一冊の本を、君彦に開いて見せた。
     ページには、裸の男女が色々な体位で営みをしている絵が描かれてあった。
    「カーマスートラ、知ってます? 工藤さん」
    「放っといてくれないか。今、君とは話したくないんだ」
    「そんなこと言わないで下さいよ。これでも悪いことしたなと思ってるんですから」
    「だったら、君は僕にカネでもくれるって言うのか!」
    思わず、君彦は声を荒げた。静かな図書館室内にその声は響き渡った。
    「まあ、お金はあげられませんけど、仕事なら紹介できますよ。それも高収入の」
    「え?」
     君彦はその言葉につい反応してしまった。
    「僕はまだ独身ですが、工藤さんに奥さんいるんだったら、この仕事で工藤さんの株が激上がりですよ」
    「どんな仕事なんだ?」こんなにも切羽詰まった状況に立たされているのに、佐々木の話に好奇心を持った。
    「接待の仕事です」
    「接待??」
    「そう、接待です。それも特別な」佐々木は声を潜めて耳元で囁いた。
    「どうですか?興味ありません?」そう言って佐々木は胸ポケットから、名刺入れを取り出して、1枚の名刺を君彦に手渡した。
     そのショッキングピンクの名刺には英語で『Perfume』とだけ書かれていた。
    「パフューム?」君彦は名刺を受け取り、名刺に書かれた文字を反復した。 
    「裏に電話番号あるでしょ? 僕、話通しときますから、やる気になったらいつでも電話してください」
     そう言って、佐々木は去って行った。
    君彦は名刺をボンヤリと見つめていた。
     
     君彦は、朝と同じ公園のベンチに座っていた。
     手には「Perfume」の名刺を持っていた。
     座っているベンチの傍らには、ラッキーストライクの箱が中身が吸殻だらけになって置いてあった。
    「…………やるしかないか。よしっ」
     君彦は携帯電話を鞄から取り出すと、ピンクの名刺の裏側にある電話番号に電話を掛けた。
     数回のコールの後、女性が電話口に出た。
    「僕、佐々木君から名刺を貰ったものなんですが」君彦は恐る恐る言葉を置いた。
    「ああ、それ拓朗くんね。今、あなた何処にいます?ちょっと店まで来てみませんか?」
     君彦は店の住所を聞いて、電話を切った。
     
    店に着いたのは、電話をしてから10分後だった。
     雑居ビルのエレベーターに乗って、店のある5階まで上った。
     フロアには「Perfume」とロゴの入ったドアがあった。
    君彦はドアをノックすると、女性の声が「入ってー」と聞こえた。
    店に入ると、そこは店というより事務所に近かった。
     君彦がボンヤリと立っていると、事務所の奥から一人の女性が現れた。
    「あの……」口ごもっていると、女性は君彦の手を取って、力強く握手をした。
    「さっきの電話の人でしょ?早かったわねー。それだけやる気があるっていうことなのかな? Perfumeへようこそ!」
     女性は早口でまくしたてるように言った。
    「拓朗君の紹介なら、手堅いわね。私はここの社長の美雪。名前の由来は12月生まれだから。拓朗君から聞いてる? 仕事の内容」
    「いえ、何か女性の接待をするとか……」
    「半分正解で半分間違い。正確には女性の体を接待するお仕事。どう? 嬉しいでしょ」
    「え?!」半開きの口で答えた。
    「早速だけど、今から仕事できる?お得意さんだから、初心者のあなたでも大丈夫」
    「今からですか?」
    「そう、ホテルまで送迎するから、後はお客の女性とヤルだけよ。簡単でしょ」
     君彦は迷った。そんな仕事だとは思っていなかったからだ。しかし、ここまで来たらもう後戻りはできない、やるっきゃない!。そう、やるっきゃなかったのだ。
    「じゃあ、これ記入して」美雪はそう言って、戸棚から契約書を出した。
     君彦はデスクに座らされて、契約書の空欄を埋めていた。
    「既婚・未婚」の欄に未婚と書いた。それは君彦の家族を裏切っている後ろめたさから来ていた。
    「書けました」美雪に書類を渡した。
     美雪は、書類を受け取るとザッと書類を見ながら、君彦を舐めるように上から下まで見た。
    「髪も切った方がいいわね。あと、ダイエットも必要ね。服はその白のワイシャツ脱いでこのワイシャツに着替えて」
     渡された薄ピンクのカラーのワイシャツを、君彦は見つめていた。
    「さ、早くして。お客さんがお待ちよ」
     それは清水の舞台から飛び降りるほどの決心だった。
     
     君彦を助手席に乗せた白のレクサスは、ホテルの前で停まった。
     ホテルに到着する間、次第に君彦の心臓は鼓動が激しくなっていた。
     美紀を裏切っている自分と今から体験する妻以外の女性との秘め事をする興奮との間で気持ちは最高潮に達していた。
    「さ、行ってらっしゃい!!」美雪に背中を押され、君彦は車から押し出されるように出て行った。
     ホテルに入り、エレベーターに向かった。ホテルのフロントの係が君彦をジッと見ていた。
     声を掛けられるんじゃないかと、心の中は緊張で一杯だった。
     エレベーターに乗る。エレベーターの中は君彦一人だけの空間だった。
    少し落ち着いてきて、その時、初めて今日のお客の名前と部屋番号の書かれたメモを見た。
    「ミキ……」その名前は妻と同じ名前だった。
    初めてのお客が「ミキ」なんて何かの天罰だと思った。
    ミキ、どんな女性だろう。妻と同じ名前のお客に、不埒にも少しの安心感を覚えた。
    指定された部屋番号の部屋の前に立ち、インターフォンを押した。
     ドアに向かって歩いてくる足音が聞こえる。そしてドアが開いた。
    「あら、あんたなの?」
     そこにいたのは、ピンクのレースの下着を付けフル装備したイノブタ社長夫人だった。
    「太田社長夫人!」君彦は狼狽えた。
    「ふぅん、まあいいわ。入って」イノブタは不服そうに鼻を鳴らしながらも、君彦を部屋に招き入れた。
    「今日はミキって呼ばせてあげる」
     イノブタは君彦のネクタイをグンと引っ張ると、いきなり君彦の唇を貪り食った。
     イノブタの唇はよく張り付く吸盤のような口をしていた。君彦の口内でイノブタの舌が貪欲に動き回った。
    「んんんんーーーー!」
     イノブタはやっと君彦の口から舌を抜くと、鼻息を鳴らして、腕を回した。
    「高いお金払ってるんだから、しっかり満足させなさいよ」
    そう言うと、イノブタは君彦のワイシャツを引き千切った。ワイシャツのボタンがプツプツプププッと音を立てて、弾き飛んだ。
    「ひ、ひぃーー」君彦が恐れおののくのも構わず、イノブタは君彦の身体をベッドの上に放り投げた。
    「さあ、行くわよ」
     イノブタは、君彦の手を鷲掴みすると、君彦の体の上にのしかかった。
    「ゆっくり可愛がってあげるわよ」
    イノブタの眼が光った。
    「い!いやーーーー!」
    廊下には君彦の悲痛な叫び声が響いた。
     
    君彦は呆然とした面持ちでエレベーターに乗っていた。髪はグチャグチャ、服は引き裂かれ、首には無数のキスマークが付いていた。
     君彦は、ホテルを出て外で待機していた美雪のレクサスに乗り込んだ。
    美雪は、精魂の抜けた君彦の顔を見て、満足気な顔をして言った。
    「ご苦労様」
    そして美雪は後部座席のドアを開けた。
    「乗って」君彦は静かに車に乗った。
    そして車は爆音のユーロビートを鳴らして、発進した。
    後部座席に座ると今まで堪(こら)えていた感情が爆発し、大声で君彦は泣いた。情けなさとそれでも興奮してしまった自分の気持ちがグシャグシャになって、大声で泣いた。爆音のユーロビートは君彦の声を掻き消した。
     車の椅子にあるスイッチを押すと、後部座席と運転席の間にガラスの敷居を敷いた。
    「うん、合格合格」
     これが君彦のプライドと責任を掛けた男としての立身出世のデビュー戦だった。
     
     夕方、菜々美は工藤家の玄関の前に立っていた。インターフォンを押す。
     玄関のドアを開けて顔を出したのは、太郎だった。
    「どなたですか?」
    「あの、私です。斎藤です」
    声変わりしていて男の声になった太郎の声に、斎藤は太郎を君彦と勘違いした。
    「あの、どちらの斎藤さんですか?」
     太郎の言葉に、菜々美はその声が君彦のものではないことに気付き慌てた。
    「あ、すみません。間違えました」
     恥ずかしくなって玄関に背を向けた菜々美の背中でドアが開いた。
    「あの、父の知り合いでしょうか?」
     出てきたのは、太郎だった。菜々美は、太郎の顔をマジマジと見た。その顔は君彦そっくりだった。
    「あ、はい!」
     
    菜々美は工藤家のリビングでダイニングテーブルの玄関に一番近い椅子の一つに座った。
    「ど、どうぞ」
     太郎は汗を掻いたアイスコーヒーのグラスをもたもたと菜々美の前に置いた。
    「ありがとう」菜々美は太郎の目を見て言った。
    太郎は緊張していた。菜々美にドギマギしていた。それは太郎が接する年上の女性は、母親の美紀か学校の教師ぐらいだったからだ。太郎は自分のアイスコーヒーのグラスをテーブルに置くと、菜々美の斜め前の席に座った。
    「あの、お父さんは?」
    「会社です」太郎はドモリながらも菜々美に答えた。
    「あ!そうですよね。会社ですよね、会社会社!」
     菜々美は慌てて取り繕うように、言葉を繰り返した。
    「あの、ち、父の会社の方ですか?」
    「あ、はい」
    「ち、父に何か用事ですか?」
    「あ、その」菜々美は理由を探した。
    「あの係長補佐に渡すものがあって」
    「そ、そうですか」どちらも妙に緊張していた。
    菜々美には君彦に渡すものなど持っていなかったし、太郎もそれを受け取ろうと考える余裕がなかった。
     
    その時、君彦は一人、シャワーを頭から浴びていた。シャワーノズルからは冷たい水が噴出していた。シャワーの冷水は、興奮した君彦の火照った熱を冷やすには十分だった。
    シャワールームには全身鏡が備え付けてあった。
    その鏡は君彦の腹に首に、残るキスマークを包み隠さず写しだしていた。
    君彦はそれに触れて先ほどの興奮が蘇っていた。
    蛇口を捻り流れ出てくる水を止めると、シャワー室から出て、出してあるバスタオルで体を拭いた。
    「少しは落ち着いた?」その声は美雪だった。
     そこは「Perfume」の事務所だった。
     君彦は自分の無防備な姿を妻の美紀以外に見られる恥ずかしさから、すぐに下着とズボンを履いた。
     そして、始めに着ていた白のワイシャツを羽織り、ボタンを上から順に手早く止めた。
    「これでキスマーク、隠して。それじゃ外歩けないでしょ?」
     美雪は、絆創膏の箱を差し出した。
    「あ、ありがとうございます」君彦が絆創膏の箱を受け取ろうとすると、美雪は絆創膏の箱を開け、中から絆創膏を何枚か取り出した。
    「私が貼ってあげる」
     
     その頃、菜々美はまだ工藤家にいた。
    「お父さん、家ではどんな人なの?」菜々美は好奇心のまま訊いた。
    「分かりません」
    「分からない?」菜々美は問い返した。
    「興味ないですから」太郎はそう言ってグラスに一口、口を付けた。
    「お父さんを尊敬してないの?」
    「してません」太郎は菜々美から顔を背(そむ)けて言った。
    「係長補佐は、凄い人なのよ」
    「父がですか?」
    「そうよ。部下がミスしても、それを庇(かば)って責任取って。責任感の強い人なのよ」
    菜々美の言葉には返事をせず、太郎は部屋の時計を見た。
    もう6時を少し過ぎたところだった。
     
    Perfumeの事務所では、応接テーブルを囲んで君彦と美雪が向かい合って座っていた。
    「僕、やっぱり辞めます。この仕事」
    「どうして?自分に自信がないから?」
    「いや、その、僕、実は既婚者でして、妻は今、入院しているんですが、仕事も辞職してしまい、どうしてもお金が必要だと思って。そこに佐々木君からこの仕事、紹介してもらったんですけど、やっぱり無理です」
    すると、美雪はソファーに置いてある鞄からドカリと札束を出した。その束から札を何十枚か取ると、札を数え始めた。
    君彦は、その札束を数える美雪をどこか、非現実のように眺めていた。
    「はい、30万あるわ」
     美雪はそう言って、30万もの札束を差し出した。
    「あなたが稼いだお金よ」
    君彦の指が少しだけ動き、そしてすぐにその指を引っ込めた。
    それは君彦のためらいだった。
     
     菜々美が工藤家を出て行ってから、30分ほどして君彦は家に帰ってきた。
     助手席のバッグは「仕事」で稼いだ30万円の札束が入っていた。
     その金を、助手席に残したまま、君彦は車を出た。
    「ただいまー」
     返事はなかった。
    玄関を開けると、太郎の部屋のドアをノックし、ドアを開けた。
    「入るぞ」
     太郎は机に向かって勉強中だった。
    「誰か来たか?」
    「女の人が来た。斎藤さん」
    「え?!」君彦の蚤(のみ)の心臓が跳ねた。
    「あんた、会社ちゃんと行ってんの?」太郎が君彦の目をまっすぐ見て言った。
    「な、何がだよ。ちゃんと行ってるに決まってるだろ。斎藤さん、何しに来たって?」
    君彦はその時、心の動揺を隠そうと必死だった。
    「知らない。自分で明日聞いたらいいだろ?」
    「あ、ああ。そうだな」
     君彦がそんな内心だとは知らず、太郎は再び教科書に目を落とした。
    「か、彼女、何か言ってたか?」
    菜々美が太郎に、自分が会社をクビになったことを言ったんじゃないかと不安だった。
    「いや、別に何も言ってなかったけど」
    「そうか……」君彦はその一言に安堵した。
    「晩御飯は?」
    「いらない」
    「そうか」
     部屋を出ようとすると、太郎が君彦の背中に向かって言った。
    「あの女(ひと)と、どういう関係なの?」
    「か、関係?部下だよ。部下。何でだよ」
    「いや、やけにあんたのこと褒めてたから」
     その言葉に心が痛んだ。自分は褒められるような男じゃないと。そして、息子に自分が会社をクビになったことを言えないことを情けなく思った。
     
    朝、君彦は鏡の前で、上半身半裸で立っていた。
    キスマークは未だ消えていない。鏡を見ながら、君彦は絆創膏をキスマークの上に貼る。
     そして、下着を頭から被り、白のワイシャツを着た。
     太郎はまだ、部屋で寝ているようだった。
     君彦は仕事用の鞄を持って、玄関を出て行った。
     車のエンジンを掛ける。ハンドルを握る。行き先は図書館だった。
     今日も何もしない一日が始まると思うと、君彦の心は暗い影を落とした。
     
     図書館に着いても、何もやる気が起きず、結局、君彦は図書館のベンチに座っていた。
     冷房が効いていて、涼しかった。
    「これからどうしようか……」
     まだ車の助手席にある金をそのままにしていた。
     正直言って迷っていた。
    「お疲れさまでーす」
     声の方を振り返ると、そこには佐々木が立っていた。
    「佐々木君」
     佐々木は君彦の隣に座ると、にやけた顔をした。
    「昨日のこと、聞きましたよ」
    「え?昨日のこと?」
    「早速、洗礼受けたって話ですよー」佐々木の顔が一段とにやけた。
     君彦は暗い顔をして、俯いた。
    「あの仕事はもう辞めることにしたよ」
    「どうしてですか?」
    「やっぱり地道なのが僕の性にあってるから」
     佐々木はベンチから立ち上がり、君彦の方へ向き直った。
    「女性を喜ばせるって地道じゃないんですか?」
    「そんなこと言ったって」
    「工藤さんの奥さん、誕生日いつですか?」
     唐突な佐々木の問いに、戸惑った。
    「5月、かな」
    「じゃあ、ハナミズキかな?」
    「ハナミズキ?」
    「華やかな恋、私の想いを受け取ってください。花言葉です。それ持って君に急に会いたくなったなんて言ったら、奥さん工藤さんのこと、惚れ直しちゃいますよ」
    「花言葉か……」君彦は小さく呟いた。
     
    ハナミズキの花束を持って、美紀の入院している病院にいた。
    「自分で花を選んだのなんて、初めてだな」そう思いながら、君彦は花束を見つめていた。
     
     病室に入ると、美紀は池井戸潤の小説を読んでいた。
    「あっ、あなた」美紀は顔を上げると、不思議な顔をした。
    「今日は、会社は?」
    「君に急に会いたくなって」
    佐々木に言われた通りの言葉そのままを言う。
    「へー、どうしたのよ急に? 私の留守中に何か悪さしたの? あ、太郎と喧嘩したのね?」
    美紀は自分の首元を指さした。
    「絆創膏」
    君彦はハッとなって、慌てて首に手をやった。
    「頑張ってよ、パパ」
    「うん……」
    君彦はベッド脇にある花瓶を手に取った。
    「この花、花瓶に生けてくるよ」
    「花束よりもちゃんと仕事してよ」美紀のその言葉を聞いて重くなった。
     美紀の言葉が心に刺さった。
    自分は何やってるんだ。仕事もせずに、生意気な後輩の言うこと間に受けて、こんな花まで買って。
    ハナミズキの艶やかさが余計君彦を惨めな気持ちにした。
    病室を出ると、携帯電話に着信があるのに気付いた。
    「Perfume」からだった。
    少し戸惑ったが、君彦は電話を折り返した。
    「今から来れない?」美雪が電話越しに相変わらずの早口で言った。
     
     君彦は「Perfume」の応接ソファーに座っていた。
     こんな仕事早く辞めなきゃ、早く辞めなきゃ……、心の中で呟いていた。
    「それでね」
    「あの!」君彦と美雪の声が重なった。
     君彦は口を噤(つぐ)んだ。
    「昨日のミキさん、あなたと食事がしたいんですって」
    「僕、この仕事、辞めようと思って、それを言いに今日来ました」
    「何言ってるのよ。未来のホープが。それに今回は食事だけだから、安心して行けるはずよ」
    「でも」
    「あなた男でしょ。大丈夫、ちゃんと秘密は守るから」
    「はぁ」君彦はなし崩し的に、イノブタ社長夫人に会うことになった。
     
     イノブタ夫人との約束の日は、あと一週間だった。
    会社に行く振りをして毎日、図書館で時間を潰した。
     昼過ぎになると図書館には佐々木が来た。佐々木はいつ仕事をしているのだろうかと思うぐらい、図書館でここ何日かで毎日再会した。
    「太田社長夫人とディナーに行くんですって?」
    秘密厳守と言ったのに、情報が筒抜けになっていた。
    「食事会の日までちょっと時間ありますね。美容院行って、服も新調しましょうよ」
    「え?」
    佐々木は、君彦の手を引いて、ベンチから立ち上がらせた。
    「それじゃ行きましょうか!」
     
    それからの毎日は、怒涛のように過ぎ去っていった。
     美容院に行くのは、初めてだった。
    「この人、ソフトモヒカンにしてください」
     佐々木イチオシのカリスマ美容師の手に掛けられた君彦は、鏡の前でどんどん男前になっていった。
    その次は、百貨店での服選び。
     カジュアルなニットのTシャツを着て鏡を見ると、自分の年が何歳にも若返っているようだった。
    見る見るうちに、清潔感溢れる外見になっていった。
     
    「何だかカッコいいじゃない!」
     美紀の退院の日取りが来週に決まった。
    「少し痩せた?」
     美紀は君彦の締まった体つきを見て、目を輝かせた。
     この数週間のジム通いのお蔭だった。
     毎日、図書館で佐々木と落ち合った。
    「予約の店、本格フレンチなんでしょ?食事マナーも勉強しましょう」
     佐々木はそう言って、数冊の本をドカッと君彦の前に置いた。
    「そうだ、この本もきっと役に立ちますよ」
    「愛の口説き文句集」、図書館の本だった。
    「きっと役に立ちますよ」
     
    家に帰るときは、服をスーツに着替えた。
    夏休み中の太郎には、会社をクビになったことはバレてはいないようだった。
    その間、ジムにも通った。少しでも男を上げるために。
    「父さん」太郎が君彦のことをいつの間にか、父さんと呼んでいた。
     君彦はリビングのフローリングの床の上で、腕立て伏せをしていた。
    「父さん、今、何やってるの?」
    「お前たちを養うために、一生懸命働いてるんだよ」
     君彦の変化を太郎は感じ取っていた。
    君彦の汗が、フローリングの床に滴(したた)り落ちた。
     
     遂にその日はやってきた。
    君彦は、コンビニのイートインコーナーで「愛の口説き文句集」を読んでいた。
    待ち合わせ場所は目の前だった。
    待ち合わせ5分前、君彦は本を閉じ、コンビニを出て行った。
    「よしっ」
     その表情は、これまでの軟弱なダメ男の顔ではなかった。
     
    太田社長夫人は、時間ちょうどに待ち合わせ場所に到着した。
    「あら、いい男になったじゃない」
    太田夫人は、開口一番そう言った。
    「太田さんこそ、素敵です」
    「ミキって呼んで」
    「ミキさん」
    君彦の口から自然にミキという名前が出ていた。そして夫人の腕を組んだ。
    もう戸惑わなかった。自分は家族のためにこうしているのだと、その気持ちが君彦を奮い立たせた。
    「お店、予約してるのよ」
    夫人が予約した店は高級フレンチの店だった。
    「素敵な店ですね」
    「そう?喜んでくれて嬉しいわ」
    「いえ、ミキさんと一緒に食べるフレンチだから、一層素敵に見えるんですよ」
    「あなた、接待のときは、ただの野暮ったい男だと思ってたけど、お喋りも上手だし、こんなに素敵にエスコートしてくれるなんて、嬉しいわ」
    「いえいえ、ミキさんが素敵だからですよ」
     店ではセンスの良い言葉選び、上品な食事マナーで楽しいひと時を過ごしていた。
     そして驚いたことに、それ以上にその時間を楽しんでいたのは君彦の方だった。
    こんなにも、自分は変われるのだと、自分の発する一言一言に男としての自身に酔いしれた。
    「じゃあ、出ましょうか」
     二人は店を出た。すると、太田夫人が腕を絡ませてきて、上目遣いで言った。
    「これからどうする?」
     君彦の喉がゴクリと鳴った。
     
    その10分後、二人はラブホテルにいた。
     部屋中には、夫人の嘶(いなな)く声が響いていた。
     そして、君彦もまるでイノブタを犯すイノブタのように荒れ狂っていた。
    「ミキ! ミキ! 美紀――!」
     君彦は全身でミキを愛した。いや、全身でイノブタを犯した。
     君彦はその時、男としての絶頂を味わっていた。
     
     君彦はシャワーを浴びていた。その背中に暖かく柔らかい感触が触れた。
    「ミキさん」
    「ねえ、また会えない?」
    「ええ……」
    「ありがとう、嬉しい」
     君彦はその時、夫人の体温を感じながら、妻の美紀のことを考えていた。
     
     翌日の朝、美紀が退院する日だった。
    「太郎―、用意できたかー。おーい、太郎―」
    リビングのドアを開けると、丁度階段を降りてきた太郎と顔を合わせた。
    太郎の顔を見ると、太郎の口回りに薄っすらと髭が生えていた。
    「太郎、お前髭生えてきたな」
     君彦が太郎の顎に触ろうとすると、プイと太郎は顔を背けた。
    「髭の剃り方、教えてやる。折角母さんと久しぶりに会うのに、その顔じゃみっともないだろ」
    「いいよ。自分でできる」太郎はそう言って君彦の肩をすり抜けていこうとした。
     君彦は太郎の手を握った。
    「何事も始めが肝心だ。次からは一人でやったらいい」
    そう言って君彦は太郎と洗面所に向かった。
     
     鏡の前で太郎はおぼつかない手で、T字カミソリを顎に当てていた。
    「こう、顎の肌を引き伸ばすように引っ張って」
     太郎の背中で、T字カミソリを手に実演する君彦。
     太郎は黙って君彦の言うようにやってみた。
    「おお、良くできてる」
    「ちょっと黙っててくれない?」
     憎まれ口を叩きながら、太郎は思わず零(こぼ)れる笑みを隠そうと仏頂面をした。
     太郎との距離がまた縮まったような気がした。
     
     助手席に太郎を乗せて、車は病院へ向かっていた。
     太郎と君彦は、お互いに黙っていた。
     けれど、どんな言葉よりも二人には少しずつ信頼関係が築けてきていた。
    「お母さんに退院おめでとうって言うんだぞ」
    「……うん」
    車の冷房が轟轟と音を立てていた。
     
    病院に着くと、二人は美紀の病室に向かった。
     10日振りに会う美紀に、君彦は上気していた。
     ドアをノックした。
    「はーい」中から美紀の声がした。
    スライド式のドアを開け、中に入った。
     君彦が太郎の背中を押した。
    「退院、おめでとう……」
    「ありがとーー!」
    「おめでとう」君彦が太郎に続いた。
    「ありがとう、あなた」
    君彦は、ベッドの傍らにあるボストンバッグを手に持った。
    「荷物、これだけか?」
    その横顔を見ながら、笑みを溢(こぼ)した。
    「何か、しばらく見ないうちに太郎もあなたもカッコ良くなった」
     君彦は思わず笑みが零れた。
    「そうか?」
     幸せだった。君彦は幸せを実感していた。
     
    「窓、開けない?」
    後部座席の美紀が言った。
    「ああ」
     ドアに備え付けてある、窓の開閉スイッチを押す。すると気持ちのいい風が車内に入ってきた。
    「外の風も気持ちいいね」
     幸せ色の心地よい風だった。
     
    君彦は、リビングのドアを開けて美紀を部屋にエスコートした。
     今の君彦には、それが自然にできていた。
     美紀はリビングのソファーにゆったりと座った。
     太郎も向かいのソファーに座ろうとした。
    「太郎は勉強でしょ。さあ、行った行った」
     美紀はリビングから追い立てるように、太郎を立たせた。
    「分かったよ」
     太郎は退院した美紀のことを嬉しく思っていたが、その嬉しい笑顔を見せるのが恥ずかしくて、俯(うつむ)きながら部屋を出て行った。
    「さて」
     美紀は君彦の顔をチラ見して、わざと大きな声で言った。
    「あー、私、疲れちゃった。寝て来ようっと」
     そう言って、美紀は寝室に入って行った。
     
     それから10分後、君彦は寝室のドアを開けた。
    寝室のベッドの上には、セイタカアワダチソウの花の刺繍の入った下着を付けた美紀が横になっていた。
     ベッドに横たわる美紀に近づき、そして君彦は言った。
    「愛してるよ、美紀」
    美紀は手を伸ばし、君彦はその指に指を絡ませた。
    二人はお互いに愛おしそうに見つめ合った。 
     
     君彦は変わった。今の君彦には男として漲(みなぎ)る自信に溢れていた。
     美雪の車でホテルまで行き、そして女性客を喜ばせる。
     それが君彦の喜びにもなっていった。その喜びに酔いしれた。
     
    「あんあんあん、いいー!いいー!」
    君彦は女性客の身体を持ち上げて、激しく突き上げた。
    「逝くー!逝くー!」
     
    君彦はそれから何人もの女性客を抱いた。時には優しく時には激しく。
    「いいーー!もっと!噛んで!強く!」
    指を使って、優しく、けれど情熱的に女性を愛した。
     
    「好きー!好き!もっと愛して!」
    この「仕事」で君彦は家庭の幸せも手に入れた。
     女性を喜ばせることで得たテクニックを使って、美紀を毎晩喜ばせた。そう、毎晩。
     君彦は美紀を抱く度に、男としての自信が湧いていた。
    「好きにしてーー!」美紀が大声で叫ぶ。
     その声は、太郎の部屋にも聴こえるぐらいだった。
     太郎は勉強どころではなかった。耳を塞いでも、聴こえてくる美紀の絶叫は、思春期真っ盛りの15歳の太郎には刺激が強すぎた。
     
     次の朝、君彦は鏡の前でパックをしていた。
     それをジーッと見つめる太郎、太郎は最近の君彦の変わりように疑問と不信感を持っていた。
    「おかしい」
     太郎が君彦に不信感を持っていることなど、全く知らず、君彦は鼻歌混じりに鏡で化粧水を頬に付けた。
     鼻歌混じりにいつも通りスーツに着替え、会社に行く振りをして家を出た。
     太郎は、君彦が車で出て行ったのを確認すると、自転車に飛び乗った。
    行き先は君彦の会社だった。太郎は自転車で全力疾走した。
     
    太郎が君彦の会社に到着すると、自転車を会社のエントランスの脇に停め、会社に入って行った。
    太郎は会社の一階ロビーの受付まで速足で歩いて受付嬢に言った。
    「あの、この会社に勤めている工藤君彦に会いたいんですが、どこに行けば会えますか?」
    受付嬢は丁寧な言葉で太郎に言葉を返した。
    「申し訳ありませんが、それはお答えできません」
    「どうしてですか」
    「個人情報保護法というのがありまして」
    「工藤君彦は僕の父なんです。教えて下さい。知る権利あるでしょ?」
    「申し訳ありません」
     そこに太郎の背中から声が掛かった。
    「工藤さんの息子さんなの?」
     佐々木だった。
    「あの、父を知ってるんですか?」
    「ああ、知ってるとも。工藤さんとはちょっとした付き合いがあるからね」
    「父に会わせてください」
    「あれ?君、工藤さんが会社辞めたこと、知らないの?」また佐々木の口の軽さが出た。
    「え?! 会社辞めたんですか?」
    「そうだよ。何だ工藤さん、家族に言ってなかったのか」
    「でも、父は今日も会社に行きましたよ」
    「そうかー、そうかー」
     佐々木は自分の失言を何とも思っていなかった。
    「お父さんに会いたい?」
    「はい」
    「だったら、お父さん、きっと今日も図書館にいると思うよ。連れてってあげようか」
    「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」
     太郎は佐々木に一礼し、会社の回転扉を出ていった。
     
     君彦は佐々木の言う通り、図書館にいた。
     パーテーションで区切られた勉強室で、君彦は「ターザン8月号」をメモを取りながら見ていた。
     その時、携帯に電話が掛かってきた。太郎からだった。
     君彦は、スマホをタップして電話に出た。
    「ど、どうした? 太郎」
    「今、何処にいるの?」
     君彦が一瞬ドキリとしたのは言うまでもない。
    「か、会社だよ。会社に決まってるだろ」
     携帯電話越しの太郎は黙っていた。
    そして一言、「ふーん」とだけ言って電話を切った。
    「ふー、危なかった」
     君彦は危機を回避した安心感で椅子にもたれ掛かった。
     と、その時図書館にアナウンスが流れた。
    「会社をクビになっても毎朝会社に通ってる振りをしているお客様、お子さんがロビーでお待ちです。繰り返します。会社をクビになっても毎朝会社に通ってる振りをしているお客様、お子さんがロビーでお待ちです」
     振り返ると、そこには太郎が立っていた。
     
     君彦は思わず立ち上がっていた。太郎は少し離れた場所で、君彦を見つめていた。
     太郎がポツリと言葉を発した。
    「何やってるんだよ」
     君彦は答えることができなかった。
    「お前こそ、何やってるんだ」
     頭をフル回転させてやっと出た言葉がこれだった。
    「行こう」君彦が太郎の手を引いた。
    太郎はその手を振り払ったが、君彦はそのまま図書館を出て行こうと歩いて行った。
    「何処行くんだよ。逃げんなよ」
     太郎は君彦を追いかけた。
    二人は図書館を出た。
    君彦は車に乗り込んだ。エンジンを掛けて、車を発進させようとした。
    その時、太郎が車の前に立ちはだかった。
    君彦は急ブレーキを掛けた。
    「危ないだろ!」
    君彦は思わず大声で叫んだ。
    太郎は君彦をジッと睨んでいた。
     
    車の冷房を付けたお蔭で、涼しいというより少し肌寒かった。
    車内には太郎が助手席に座っていた。
    「何か言うことはないのかよ」
     太郎が問い詰めるように睨んだ。
     君彦は黙ったままだった。
     太郎はどうして会社を辞職したことを知っているんだろう、太郎はどこまで自分のことを
    知っているんだろう、もしかして「仕事」のことも知ってるのだろうか、君彦の心には不安が広がり、動揺していた。
    「すまん」
    「何が?」
    「どこまで…、知ってるんだ…?」
     君彦が一言一言を考えながら、太郎に問い返した。
    「佐々木って人が言ってた」
     佐々木は太郎に何を言ったのか、口の軽い佐々木に怒りが込み上げてきたが、今はそれどころではなかった。
     君彦について佐々木が知ってることは、それだけ大きな秘密だったからだ。
    「今、何やってるの?」
    「え?」佐々木は「仕事」のことは太郎に話してはいないようだった。
    「ねえ、会社辞めてこんなところで何やってるの?」
    「いや、その」君彦が口ごもっていると、続けざまに太郎が詰問した。
    「母さんは知ってるの?」
     君彦は太郎のふとももに頭を擦りつけるようにして下げた。
    「母さんには黙っててくれ!頼む」
    太郎は黙っていた。
    「こんな姿見られて言えることじゃないが、今は何も言えない。だけど、俺を信じてくれ」
    君彦が顔を上げると、太郎がニタリとして手のひらを君彦に出した。
    「母さんには黙っててあげるよ。だから」
     太郎は君彦に向かって手を差し出して、手を振った。
    「一万でいいよ。母さんには黙っておいてあげるから」
     弱みを握られた君彦は、財布を取り出した。
     財布から一万円を取り出し、太郎に差し出した。
    「毎度あり」
     太郎は一万円を手にすると、助手席のドアを開けて出て行った。
     君彦は、大きく息を吐いた。それは溜息なのか安堵の一息なのか、分かっていることは君彦は太郎に秘密を握られたという事実だった。
     
    家に帰ってくると、美紀と太郎が君彦を出迎えた。
     太郎は美紀の後ろに立ち、ニンマリとしていた。
    「お帰りなさーい」声を揃えて二人は言った。
     ドキリとした。もしかしたら太郎は会社をクビになったことを、全部美紀に話したんじゃないかと。
    「お仕事お疲れさまです」美紀は満面の笑みを浮かべていた。
     それに引き続き、太郎も満面の笑みで同じように「お仕事お疲れさまでーす」と笑んだ。
    「あら、あなたたち、いつの間にそんなに仲良くなったの?」美紀が太郎のニマニマ顔を見て、不思議そうな顔をした。
    「何言ってんの、母さん。俺たちはいつでも仲いいよ。なー、父さん」
    「あんた、お父さんのこと、いつから父さんって呼ぶようになったの」
     太郎は君彦と肩をガッシリと組み合い、ニコリとした。
    「父さん、今度ナイキの靴買ってくれるんだよねー。約束したもんねー」
     太郎がいかにも悪そうな顔で君彦を見た。
    「お、おう。約束したもんなー」
    「なー、親父」
    君彦は、美紀の前で作り笑顔で太郎の肩を組み、笑った。
    「さあ、ご飯ご飯」
    美紀がリビングに入っていくと、君彦は太郎に向かってヒソヒソと。
    「調子に乗んなよ」
    「あれー?そんなこと言っていいのかなー?俺、口軽いんだよー」
     太郎は組んだ肩を弾き飛ばした。
    「さあ、ご飯ご飯」
     太郎は、口笛を吹きながら、リビングへと入って行った。
    「くそっ」 
    君彦は一人、悪態を吐いた。
     
     キッチンで美紀は鼻歌を歌いながら、晩御飯を作っていた。
     ダイニングテーブルの席で、太郎も鼻歌を歌っていた。
     一人、君彦だけが不貞腐(ふてくさ)れた顔をして座っていた。
     その時、君彦の携帯に着信が入った。
     「Perfume」からだった。
    「お」
     君彦は席を立つと、リビングを出て行った。
     スマホに映る着信をタップして、電話に出た。電話の相手は美雪だった。
    「お疲れさまです」君彦の声は弾んでいた。
    「今から来れる?」
    「はい!仕事ですね!」
    「あなた、ご指名なの」
    「はい!分かりました。今すぐ行きます!」
     君彦は電話を終えると、リビングに入って行った。
    「僕、晩御飯後で食べるわ」
    「え?どうしたの?」
    「ちょっと仕事でトラブっちゃって、今から会社に行かなきゃいけないんだ」
     その時の君彦には、罪悪感など微塵もなかった。家族が幸せになっているのは、今の自分の「仕事」があるからだと、逆に胸を張っていた。
    「分かった。でも、早く帰ってきてね」美紀は残念そうに呟いた。
    「おう!」と君彦はリビングを出て行った。
     
    雑居ビルの階段をホップステップジャンプと駆け上り、君彦は「Perfume」の事務所に入って行った。
    「お待たせしました!」
     嬉々とした君彦を美雪が出迎えた。
    「あなた、ご指名なの」
    「そうですか?参っちゃうなー」
     君彦は背中に羽でも着いたように、ステップを踏んだ。
    「じゃあ、今日も一発かましてきます!」
     君彦は正直、浮かれていた。浮かれポンチだった。
     
    君彦は、美雪の運転するレクサスの助手席に座っていた。
    その間、鼻歌を歌いながら。
    二人を乗せた車は、ホテル前に来るとスピードを落として、やがて止まった。
    「じゃあ、行ってきまーす」
    君彦は助手席のドアを開けて、車を出て行こうとした。
    その時、美雪は君彦の腕を掴んだ。
    「待って」
     美雪の方を振り向いた。
    「ちょっと座って」
    「?」はキョトンとした顔をしながら、ドアを閉じて助手席に座り直した。
    「いい?」
    美雪の顔は真剣だった。
    「はい?」
    美雪の君彦を真っすぐ見た。
    「忘れないで。女性は皆、生身の人間なの。女性はか弱い生き物なの」
    「分かってますよ」
    「分かってるなら、いいけど」
    「じゃあ、行ってきまっす」
    君彦は、美雪の言った言葉の真意が分からず、助手席のドアを開けて出て行った。
     そしてホテルの回転ドアに、体をねじ込むように入って行った。
     ホテルの階に着くと、君彦は指定された部屋に向かった。
     部屋のドアの前に立つと、君彦は部屋のチャイムを押した。
     中から鍵を開ける音がした。
     開いたドアに立つ女性に、君彦は一瞬にして身体が固まった。
     そこに立っていたのは、何と菜々美だったのだ。
     
    「お久しぶりです」菜々美は言葉丁寧に言った。
    「どうして、君が」
     菜々美は黙っていた。
    「どうして、僕のことを」何故、菜々美が君彦の「仕事」を知っているのか?どうして菜々美が「お客」として君彦の前に立っているのか。
    「どうして君がここに?」君彦は部屋のカーペットに俯きながら呟いた。
    菜々美は暫く黙っていた。そして小さな声で呟くように言った。
    「………係長補佐に会いたくて」
    「会いたくてって、誰に僕のこと聞いたの」
    「佐々木さんに、工藤さんのことが好きだったら、いいこと教えてあげようかって言われて」
    「あのお喋りが……」君彦は佐々木の口の軽さを、この時程憎んだことはなかった。
    君彦は胸の中で泣き出す菜々美を自分の身体から引き離した。
    「ちょっと一旦、落ち着こう」
    そう言うと、君彦は菜々美の両肩に手を置いた。
     涙目で潤んだ菜々美の瞳が、更に濡れた。
    「私、今日はお客です。工藤君彦さんのお客です」
    そう言うと菜々美は、着ているブラウスのボタンを上から外し始めた。
     菜々美の下着が、その下から見えてくる。
     君彦はその手を握って、菜々美の手が進むのを止めた。
    「あなたを私に売ってください」
     君彦は菜々美を握った手を力なく離した。
     ボタンを外した菜々美のブラウスが床に落ちる。
     菜々美と君彦は見つめ合った。
    「ブラ、外してください」
     菜々美の真剣な眼差しが君彦と交差した。
     菜々美が君彦に背中を向ける。もう止められない。
     君彦は菜々美の背中に手を伸ばし、ブラジャーのホックを外した。
     菜々美が振り返り菜々美の華奢(きゃしゃ)な胸が露(あら)わになる。
     菜々美はベッドに歩いていく。もう止められない。
     そして菜々美はベッドの上に仰向けになった。
    君彦は菜々美の寝ているベッドに近づいていく。
    「…………」
     君彦は菜々美の体の上に、覆いかぶさる。
     もう止められない。  
    菜々美の想いと君彦の衝動はもう、止められない。
    菜々美と君彦の目と目が重なり合う。
    情熱と衝動。もう止められない。
     
     菜々美と別れた後、君彦はいつもの公園のベンチにいた。
     何か悩み事があるときは、いつもこの公園にいた。
     夜空を見上げると、8月の大星雲が空一面に見えた。
     眩しく瞬く星空も、君彦の目には今は涙でぼやけて見えた。
     君彦には、自分がどうしようもなくちっぽけな存在に思えていた。
     
     その頃、菜々美は工藤家の玄関のドアの前に立っていた。
     菜々美がインターフォンを押すと、美紀の声がして、ドアが開いた。
     美紀がドアを開けて、菜々美を見た。
    「どなたですか?」
    美紀は菜々美を家の中に迎え入れた。
    菜々美はリビングに通された。太郎は部屋で勉強をしていた。
    美紀はコーヒーをアイスコーヒーを冷蔵庫から出し、ダイニングテーブルに置いた。
    「主人、今仕事で出掛けてしまっていて」
    「私、さっきまで係長補佐と一緒にいました」
    「ああ、会社の方なのね。主人ももうすぐ帰ってくるのかしら?」
    「私、さっきまで係長補佐とホテルで一緒にいました」菜々美が美紀を真っすぐ見た。
    「どういうこと?」美紀の表情に笑みが消えた。
     二人の間に沈黙が流れた。
    「私、係長補佐のことが好きです」菜々美の声は震えていた。
     また二人の間に沈黙が流れた。
    「あなた、菜々美さんて言いましたっけ? 率直に言います。主人と不倫でもしてるの?」
    「私、係長補佐をお金で買いました」
    「お金で?」
    「だけど、だけど、係長補佐はそれでも私に振り向いてくれませんでした」
     美紀は菜々美の話を黙って聞いていた。
    「だから、私の想いはただの私の片思いなんです」
    「何故、今日家に来ようと思ったんです?」
    「係長補佐の奥さんがどんな人かって、どうしても見たくなって。係長補佐の大切な人はどんな人なのかって気になって」
    「どう?実際に見てみて」
    「素敵な人だなって」
    「ありがとう」
     美紀は一言そう言った。
     
     君彦が帰ってきたのはそれから30分経った後だった。
    「おかえりなさい」
     美紀は君彦に何も問い詰めなかった。
     菜々美が来たことさえも、君彦に言わなかった。
    「仕事、ちゃんとできた?」美紀は笑顔でそう君彦に言った。
    「あ、ああ……」
    「食事、温め直すね。食べるでしょ?」
    「あ、ああ」
     君彦は食卓に着いた。
     
     その夜、寝室では君彦と美紀は隣同士で天井を見つめていた。
    「まだ起きてるか?」
    「うん」美紀は天井を見つめていた。
     君彦も天井を見つめていた。
    君彦は「仕事」のことを言わなければいけないと思いながらも、未だ言えずにいた。
     美紀もそれは同じだった。
    「美紀、僕、話したいことがあるんだ」
    「明日にして」
     美紀は君彦に背を向けた。
     それでも、二人は眠れなかった。
    「おやすみ」君彦が声を掛けると、美紀も「おやすみ」と返した。 
    天井を見つめる君彦、壁を見つめる美紀。
    眠れない長い夜だった。
     
     朝、起きたのは9時過ぎだった。
     寝室を出ると、美紀の姿はなかった。君彦は、美紀に本当のことを言おうと決心していたのに、美紀はそんな時に限って朝から家を留守にしていた。太郎は部屋で眠っていた。
     君彦は「Perfume」の仕事を辞めることを美雪に告げるために、家を出た。
     「Perfume」に着くと、美雪はいつものように君彦を迎えた。
    「どうしたの?」美雪は君彦の浮かない顔色を窺(うかが)った。
    「僕、今日でこの仕事、辞めさせて貰おうと思って来ました」
    「どうして?ご家族に後ろめたい?」
    「僕、思ったんです、この仕事、本気でやろうとすればするほど、妻の顔が浮かんでくるんです。だから、やっぱりはじめに言ってた通り、この仕事は僕には向いていなかったんですよ。無理だなって」
    「そうね。ご苦労様でした、と言って送り出したいところだけど、あなたをご指名のお客さんがいるの。それを最後に引退としない?」
    「今までの僕なら、その依頼、絶対に断ってました。だけど、この仕事始めて、この仕事の大変さも面白さも分かってきたつもりです。だからどんなこじつけかって言われちゃいそうだけど、その仕事、お受けします」
    「はい、了解しました」
     
     君彦はエレベーターの中で美紀のことを考えていた。
     この仕事を最後に、もうこんな「仕事」は辞めよう。そう君彦は心に決めていた。
     最後の仕事の相手は「ミキ」という女性だった。皮肉なものだ。妻と同じ名前がこの仕事の最初と最後を締めくく
    るなんて。
     部屋の前に立つと、君彦は部屋のインターフォンを押した。しばらく経つと、部屋のドアが開いた。
     そこに立っていたのは、美紀だった。妻だった。
     君彦はその場で立ち竦(すく)んだ。体は凍り付いたように固まった。
     妻がどうしてここに?頭が真っ白になった。
    「入って」美紀が君彦を部屋に招き入れた。
     
    「どうして……」君彦は美紀の背中に向かって言った。
     美紀はベッドに座ると、その隣にクッションを置いて、ポンポンと座るようにクッションを叩いた。
     どうしようか考えあぐねていると、美紀は再びクッションを叩く。
    「早く」
     君彦は観念し、美紀の隣に座った。
     美紀は君彦の顔を見ると、大きなため息を吐いて言った。
    「この仕事、楽しかった?」
    「え……?」
    「ホントに斎藤さんとは何もなかったのかしらねー」
    「いや、あ、え??」
    「彼女、昨日あなたが帰ってくる前に家に来て、あなたがこの仕事やってるって教えてくれたの」
    「いや、彼女とは本当に何もなかった。命掛けても本当に何もなかったって言える」
     その時、美紀の手が君彦の頬を叩いた。
    「ふざけないで!」
     痛いよりも驚いた。
    「ふざけないでよ!バカ!」
    美紀は君彦の頬をまた叩いた。そしてまた叩いた。
    「あなたは家族を裏切ったのよ」
    「僕は、僕は家族の為に。実際、上手く行ってた」
    「あなたは家族を裏切ったの!」
    「……すまん」僕はまだジンジンとする頬を抑えて、俯いた。
    「あなたに決めさせてあげる」美紀が立ち上がった。
    「離婚するか、このまま続けるか」
    君彦はこの時、今までで自分がやってきたこと全てを後悔した。
    「どうする?」彼女の声は震えていた。
    「離婚……、しよう……」君彦はもう元には戻れない自分たち家族のことを思って泣けてきた。
     美紀も泣いていた。二人でワンワンと声を上げて泣いた。
     
    「よーし、起きろ!太郎」
     君彦は、カーテンを開けた。太陽の光が太郎の部屋に差し込んだ。
    「何だよ~、俺、昨日2時まで起きてたんだからな~」と寝ぼけ眼の太郎の布団を引っぺがす君彦。
    「さあ、今日は家族3人で出かけるぞ!!」
    そう、それは君彦と美紀が二人で決めたこと。
    「母さん、弁当作ってくれてるからな。お前も用意できたら、すぐ降りてくるんだぞ」そう言って君彦は部屋を出て行く。
    「えーーー、今日、何の日だよ~」そう言ってまた寝てしまう太郎。
    「ナイキの靴、買ってやんゾ!」ひょこッと顔を出す君彦。
    「え?!」飛び起きる太郎。
     
     用意は万端だった。最後の家族旅行の。
     美紀を助手席に乗せて、太郎を後部座席に乗せて、ホンダシビックは走った。
     結婚以前はいつもこの車で、美紀は助手席に座り、良きナビゲーターであった。
     何度も同じ道を繰り返し、毎日走った。そんな思い出が君彦の頭の中に蘇る。
     デートコースは毎日の美紀のアパートへの送り迎えだった。
     後部座席でニンテンドースイッチで遊んでいる太郎は、ゲームに夢中になっていた。
     途中、道の駅でトイレ休憩をした。
     太郎と君彦は二人並んで、小便をした。
    「おい、太郎」
    「ん?」太郎は昨日と同じ毎日がずっと続くと思っている。
    「今日のこと、今日見た景色、絶対忘れるなよな」君彦が太郎に力強く言った。
     太郎は不思議そうな顔をして、君彦を見ていた。
    足湯に浸かり、オブジェの前で写真を撮った。
     カメラマンは君彦、被写体は太郎と美紀だった。
     君彦は笑った。美紀と太郎も心の底から笑った。
     だけど、それも今日一日が終われば、おしまいだった。
     思い出は綺麗だけれど、それはかぼちゃの馬車のように魔法を掛けているからだ。ただの記憶に過ぎない事実を
    忘れたくないと思い出に人は変えていく。
    「俺たち、やり直さないか?」
    君彦はこの旅行の間、何度美紀に言おうとしたことか、この言葉を。
    しかし、それは叶わぬ願いだった。たとえ、太郎がいようとも、変わらなかった。
     
    家に着くと、太郎に離婚のことを切り出さなければならなかった。
    「太郎、片付け終わったらちょっと来なさい」、君彦が美紀とダイニングテーブルに着いて、太郎を待つ。
     太郎がリビングに戻ってくる。君彦は、大きく息を吸い込む。
    「太郎、座りなさい」美紀が太郎を席に座らせる。
    「どうしたの?改まっちゃって」太郎が軽いノリでいる。
    太郎が君彦の前の席に座った。
    「太郎、落ち着いて聞いてくれ」君彦が話を切り出した。
    「なーにー?」
    「私たち、離婚することになったの」美紀がゆっくりと言った。
    「え?何?父さん、仕事クビになったこと、母さんにバレちゃったの?」
    「いや、それがだな」
    その時、玄関のインターフォンが鳴った。
    「誰だ、もう」
     君彦が立ち上がり、インタ―ションのモニターを見る。
     その画面に映っていたのは、太田社長だった。
     
    君彦は、玄関先に出て行った。
    「太田社長!!」
    悪い予感がした。悪い予感しか思い浮かばなかった。
     君彦がドアを開けると、太田社長は君彦の胸倉に掴みかかった。
    「お前か!私の妻と浮気しているのは!?」
    「違うんです!社長、僕の話を落ち着いて聞いてください」
    「何が違うんだ!ちゃんと証拠だってあるんだぞ!」
     太田社長は一枚の写真を懐から出して、君彦の顔に押し付けた。
     そこには、太田夫人と君彦がラブホテルに入ろうとしているところが写真に収められていた。
    「違うんです!違うんです、社長!」
    「何が違うって言うんだ!」
     そこにもう一人、玄関から入ってくる人物がいた。
    太田夫人だった。
    「あなた、違うのよ!違うの!」
     太田夫人は君彦を庇っていた。
    「何が違うんだ!」
    「この人は、私がお金で買った男なのよ!お金でこの人を私が買ったの!」
    「何を言ってるんだ?!お前はそんな女だったのか?」
    「だって寂しかったんですもん!寂しかったの!」
    「すみません!太田社長!」
    「すみませんだと?!すみませんだと!!」太田社長は遣りどころのない怒りを君彦にぶつけて、君彦の頬を殴った。
    「あなた!」美紀が倒れた君彦の傍らに駆け寄った。
    「あなたも止めて!」太田夫人が叫んだ。
    「やめろーーーー!!」その騒ぎの中で聞こえたのは太郎の叫び声だった。
    太郎は君彦を睨んで立っていた。
    「大人のくせに、みっともないよ」
     太郎は拳を握った。
    「もう、お帰り下さい」美紀が太田夫妻に言った。
    「行こう」
    太田社長は、太田夫人の手を引いてリビングを出て行った。
     
    太田夫妻は帰って行った。太郎と美紀と君彦の三人が部屋に取り残されていた。
     太郎は拳を握り、君彦の胸を何度も叩いた。
    「信じろって言ったじゃないか!俺のことを信じろって。だから俺は母さんにも黙ってたのに!」
    何も言えなかった。何も言葉が思いつかなかった。言い訳さえも浮かばなかった。結局、君彦は家族全員を裏切ったのだ。
    「太郎」
    美紀が君彦に縋(すが)る太郎を引き離すようにして言った。
    「荷物をまとめなさい」
    「え?」君彦と太郎が同時に言った。
    「この家を出るのよ」
    「母さん!」
    「父さんの馬鹿野郎!父さんの嘘吐き!」
    「早く自分の部屋へ行って、用意をしなさい」
     美紀の声は厳しかった。
    もうどうしようもなかった。もうどうしようも変えられなかった。
     
    階段から荷物を持って降りてくる太郎は気落ちして、俯いていた。
     窓からは夕闇が迫った最後の夕日が赤く照らし出されて入ってきていた。
     美紀も荷物を玄関に出していた。
    「じゃあ」美紀は君彦に向かって言った。その顔に笑顔はなかった。
    「行くわよ、太郎」
     美紀と太郎は、玄関を出て行った。
     これで終わりなのか?そう思った時、君彦は玄関を飛び出していた。
     
    君彦は玄関のドアを開けて、飛び出していた。
    その目の前には、遠ざかって行く美紀と太郎の背中が見えていた。
    美紀は太郎の手を引き、君彦に背中を向けて歩いていく。
    「美紀―!」
     君彦は叫んだ。
    「太郎――!」
     君彦は力の限り叫んだ。
     遠ざかって行く二人の背中に向かって叫んだ。
     おもむろに、君彦は両手を胸に当てて大きな声で叫んだ。
    「フレー―――!フレー――――!!」
     美紀はその声を聞いて、立ち止まった。
    その肩は震えていた。
    「フレーーーーー!!フレー――――!!美紀―!」
    「フレー―――!!フレー――――!!太郎!」
     その背中に向かって、君彦はエールを送った。力の限り、君彦は大きな声で二人の名前を呼んだ。
    「世間に負けるなーーー!!」君彦は叫んだ。
    「自分に負けるなーーーー!!」君彦は叫んだ。
    君彦は二人に向かって力の限り叫んだ。
    その言葉は自分に向けてのエールでもあった。
    この世知辛い世の中に、そして何とも薄っぺらい自分の男としてのプライドを思って、君彦は力の限り叫んだ。
    「世間に負けるなーーー!!自分に負けるなーーーーー!!」
     その声はどこまでも響いていた。しかし、果たしてその声は美紀の心に届いたのだろうか?
     その声は、太郎の心に届いたのだろうか?
     それがちゃんと美紀と太郎に届いているのか、それとも全く無意味なことなのか、それは君彦には分からなかった。その時、君彦は自分の為に叫んでいたのかも知れなかった。
    「フレーーーー!フレー―――!!世間に負けるなーー!自分に負けるなーーー!」と。
    空を仰いだ君彦の視界は夕暮れ迫る茜色の空が、次第に霞んでいった。
     君彦は知らず知らずのうちに、泣いていた。眼からは、涙が溢れ出していた。
     遠ざかる美紀と太郎の背中と茜色に染まる大空が、次第にぼやけて見えなくなっていった。
     君彦はそれでも、二人に向かってエールを送った。
     自分に対してエールを送った。その声は、いつか涸れ果て、声にもならなくなった。
     そこには、人を愛するという意味だけが残った。人を愛するという心だけが残った。
     美紀と太郎の背中が遠ざかり、見えなくなるまで、君彦は力の限りエールを送り続けた。
     たとえ、その声が二人には届かなくなったとしても、君彦は涸れ果てた声でエールを送った。
     そこには愛だけが残った。
                                                  了
     
                                     


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