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嘘つきたちのラスト・メニュー 第一話

    【あらすじ】
    本州最北端の断崖に屹立する、完全紹介制のレストラン『カロン』。
    ここには決まったメニューも、代金の支払いもない。客として招かれるのは、「明日という日を手放し、破滅を受け入れた者」だけ。
    対価はただ一つ、自身の人生を綴った「晩餐への手記(メモワール)」。
    盲目のギャルソン・蓮見は、手記に隠された客の「美しき嘘」を冷徹に暴き出し、寡黙なシェフ・漆原が、客の魂が本当に渇望する「真実の一皿」を突きつける。

    第一夜の客は、明日特捜部に逮捕され、すべてを失う「食の帝王」神崎徳治。彼が最後の晩餐に求めたのは、三十年前の栄光の象徴「極上のフォアグラ」だった。
    しかし、蓮見は彼の傲慢な仮面を一枚ずつ剥ぎ取っていく。虚飾の王が最後に味わう、痛覚と涙のメニューとは──。

    嘘と贖罪が交差する、極上の美食ミステリー。



    断崖のレストラン『カロン』へようこそ。 当店は完全紹介制であり、決まったメニューは存在いたしません。お代は一切、いただきません。 当店がお迎えするのは、明日という日を完全に手放し、運命を受け入れた方のみ。 対価として頂戴するのは、ご予約の際にお預かりする、お客様の人生を綴った「晩餐への手記(メモワール)」のみでございます。

    プロローグ:過去をなぞる指先

    夜の深淵を震わせるように、日本海の重低音が、行き場を失ったように響き渡っている。 外界の狂おしい嵐から完璧に隔離された『カロン』のバックヤード。微かなランプの光さえ拒絶したその闇の中で、ギャルソンの蓮見は、静かに一枚の分厚い和紙に指先を滑らせていた。

    彼の両眸は光を捉えることができない。しかし、その指先は点字翻訳機にかけられた「晩餐への手記(メモワール)」の微細な凹凸を、絹糸を紡ぐような繊細さで、だが常人には到底不可能な速度で読み取っていく。指腹が紙の繊維を擦るかすかな音だけが、無音の部屋に規則正しく響いていた。

    「……見事な、そして酷く哀しい虚栄心だ」

    蓮見の薄い唇の端が、冷徹な三日月のように微かに吊り上がる。 今夜、この冥府の門を叩く客は、外食産業の帝王として日本の食文化を文字通り支配してきた男──神崎徳治。彼が数日前にカロンへ書き送ってきた手記は、非の打ち所がない英雄譚であり、同時に、目を覆いたくなるほどの「美しい嘘」で塗り固められていた。

    「渡仏直後の三ヶ月間。手記には『才能を世界に証明するための、孤独にして崇高な研鑽の日々』と記されています。ですが漆原さん、この部分だけ、文節のリズムが奇妙に上ずり、乱れている」

    蓮見は指先を紙の上に止めたまま、暗闇の奥、微かに漂うガスの青い炎の傍らに立つシェフの漆原へと視線を向けた。見えないはずの瞳が、正確に漆原の気配を捉えている。

    「人間という生き物は、自己を過大に装飾しようとするとき、隠したい事実(空白)の周辺を過剰な修飾語で埋め尽くす習性があります。本当に孤独な研鑽だったのなら、このような饒舌な言い訳は必要ない。彼は何かから目を背けている。あるいは、誰かの影を必死に消し去ろうとしている。……漆原さん、彼が提出した三十年前のパリの居住記録、そして当時のル・シエルの周辺人物の古い調書をすべて洗いました」

    「三十年前の、とうに歴史の砂に埋もれた埃だ。よくぞそこまで掘り起こしたな」 漆原の低く嗄れた声が、厨房の銅製鍋の鈍い光に溶けていく。

    「嘘の匂いさえ手繰り寄せれば、真実は常に、その足元に死体のように転がっていますから」 蓮見は点字の書類からゆっくりと手を放し、雪のように白い手袋を指の付け根まで丁寧に、微塵の弛みもなくはめ直した。

    「さあ、準備をお願いします。今夜の客は、自らの栄光の象徴として、ル・シエルの『極上のフォアグラ』を注文してくるはずです。
    ……そして、彼の肉体は決して、それを簡単には飲み込むことはできないでしょう」


    冥府の入り口

    本州の最北端、地図の余白に押し込められたような名もなき岬。 鉛色の雲がちぎれんばかりに垂れ込める空からは、みぞれ混じりの氷雨が、意思を持った散弾のように容赦なく絶壁を打ち据えていた。その断崖の最先端、激浪が白泡を立てて砕ける漆黒の岩盤の上に、その洋館はひっそりと、だが周囲の荒涼たる自然をねじ伏せるような威容を放って屹立していた。

    一台の黒塗りのマイバッハが、泥濘を重々しく跳ね上げながら、ヘッドライトの光で闇を切り裂き進んでくる。 東京の、あの狂信的なまでにきらびやかなネオンと喧騒から逃れるように、北へ、北へと数百キロ。ガソリンの臭いと焦燥感だけを車内に充満させた逃避行の果て、マイバッハは洋館の前に静止した。

    重厚な防音扉と三重の強化ガラス窓によって、外界の牙を完全にへし折られた『カロン』のダイニング。 そこは、まるで深海三千メートルに沈む豪華客船のサロンのように、不気味なほどの静寂が支配していた。壁に掛けられた19世紀製のアンティークの柱時計だけが、冷徹に、そして呪術的に「カチ、カチ」と秒針の音をフロアに響かせている。広大な空間の中央には、樹齢数百年のマホガニーから削り出された重厚なテーブルが、ただ一つだけ贅沢に配置されていた。

    その静寂のただ中で、ギャルソンの蓮見は目を閉じたまま、バカラのグラスにミネラルウォーターを注いでいた。 漆黒のタキシード。一点の皺もない胸元。彼の瞳は濁り、光を映さない。しかし、一滴の狂いもなくグラスの八分目でピタリと止められた水面は、彼の耳が「空間の反響」と「液体の落ちる音の変化(ピッチ)」だけで、完璧に世界を支配していることを無言で証明していた。

    蓮見は白手袋の指先で、ボトルのネックを流れる一滴の水滴すら見逃さずに拭い、静かに顔を上げた。 「……いらっしゃいましたね」

    呼吸の同期がズレた、その瞬間。重厚なオーク材の扉が内側へと開かれた。 真空の空間に突如として割れ目ができたかのように、吹き込む雨風の轟音がダイニングへと雪崩れ込んでくる。だが、それも一瞬。扉が閉まれば、再び世界は水槽の中のような無音へと引き戻された。

    巨大な黒傘を濡れた手でもてあましながら、一人の老人が絨毯を踏みしめた。 神崎徳治。外食産業の頂点に君臨し、数万人の胃袋と運命を掌握してきた「食のドン」である。最高級のゼニアのスーツは肩口がみっともなく雨を吸い、胸元で揺れるパテック・フィリップの金無垢のチェーンだけが、彼の過去の栄光を辛うじて主張していた。

    神崎は濡れた革靴の底で、最高級のペルシャ絨毯の毛足を不快そうに踏みにじりながら、フロアを鋭い眼光で睥睨した。

    「……出迎えもないのか。僻地の崖の上にあると聞いてはいたが、ずいぶんと無礼で、気取った店だ」 尊大なダミ声がダイニングに響く。だが、神崎の言葉は、テーブルの上のバカラグラスを見た瞬間に途切れた。

    (バカラの『アルクール』……。それも現行品ではない。1930年代のオールド・クリスタルか。これほどの塩害と湿気に晒される断崖の洋館で、カットの角に微かな曇りもなく、水垢の分子一つ残さず磨き上げているだと?) さらに神崎のプロとしての批評眼は、蓮見の身のこなしを凝視した。ボトルの傾け方、引くタイミング。そのすべてが超一流のメートル・ドテル(給仕長)のそれであったが、その男の視線は、全く手元に向けられていなかったのだ。

    「貴様……目が見えないのか」

    「ようこそ、『カロン』へ。足元の悪い中、よくぞお越しくださいました」 蓮見は神崎の無遠慮な問いには一切答えず、白手袋の手を正確に左胸に当て、完璧な角度の美しい一礼を捧げた。

    視力を持たない蓮見の世界は、常人よりもはるかに生々しい「匂い」と「音」の粒子で構成されている。神崎の身を包む最高級コイーバの煙の残り香、男の加齢臭、そしてそれを覆い隠すための高価なポマード。しかし、その豪奢な装飾を施された外套の奥から、蓮見の鼻腔は、より本質的な匂いを冷徹に捉えていた。

    ──明日、すべてを失う男が放つ、特有の冷や汗と、酸っぱい胃酸の匂い。 足音のリズムは右足にかすかな乱れがあり、呼吸は浅く不規則。心臓の鼓動は通常の1.5倍の早さで、彼のゼニアの薄い生地を内側から叩き鳴らしている。それは、警察の取調室のパイプ椅子に座らされる直前の人間が放つ、独特の「絶望の芳香」だった。

    「先にお伝えした通り、当店には決まったお品書きがございません。お客様の記憶の底にある、最後の一皿を……どうか私どもにお聞かせください」

    神崎は鼻で短く、忌々しげに笑うと、蓮見の案内を待たずに重厚な椅子へどっかりと巨躯を沈めた。

    「記憶の底、だと? くだらん。……明日の朝八時、私の築き上げた帝国は終わる。私が三十年かけて手にした名声も、権力も、明日の太陽が昇ると同時にすべて泥水に沈むのだ」 神崎はマホガニーのテーブルに肘を突き、組んだ手のひらに顎を乗せた。自分の敗北を語るその声は、虚勢で固められてはいたが、端々にかすかな震えが混じっていた。自らの口から「脱税」や「特別背任」といったみっともない具体的な罪状を吐き出すことなど、彼の肥大化したプライドが絶対に許さなかった。

    「ええ、重々存じております」 蓮見は表情の筋肉を微塵も動かさず、ただ静かに頷いた。 「東京地検特捜部による強制捜査。巨額の不正融資、そして特別背任。……各紙の朝刊の一面を飾るには、十分すぎるほどの華々しい終幕でございますね」

    「貴様ッ……!」 神崎の顔が土気色に変わり、その眼光が猛獣のように蓮見を射抜いた。なぜ、この外界から隔絶された館の、盲目の給仕が明日の地検の動きまで正確に把握しているのか。

    「ご予約時にお預かりした『晩餐への手記(メモワール)』を拝見いたしました」 蓮見は、怯むことなく静かで涼やかな声を響かせた。 「あの手記の14ページ。あなたが二十代の終わりに渡仏された直後の熱情を綴った、あの美しくも悲痛な文面に……あなた様が明日ですべてを手放す覚悟を決められたことが、克明に、まるで血を流すように記されておりました」

    神崎の背筋に、氷の刃を押し当てられたような悪寒が走った。 あの手記は、確かに自分が深夜の書斎で、ウイスキーに溺れながら書き送ったものだ。しかし、この給仕は手元のメモを見ることもなく、何十ページにも及ぶ己の人生の記録を、ページ数まで一言一句たがわずに暗記しているというのか。

    「……気味の悪い男だ」 神崎は動揺を悟られまいと、ことさら尊大な態度で鼻を鳴らした。 「ならば話は早い。この神崎徳治の人生の締めくくりには、それにふさわしい『頂点』こそが必要だ。私がパリの三つ星レストラン『ル・シエル』で部門シェフを任されていた頃の、あの伝説の看板メニューだ。『最高級フォアグラのポワレ・黒トリュフのソース』。……あれを出せ」

    言葉にした瞬間、神崎の口内に、卑しい唾液が溢れる音がした。 「表面をカリッと焼き上げ、中はとろけるような極上の脂。そこに、黒曜石のように輝くトリュフのソースを絡める。あの暴力的なまでの香りと高貴な味わいこそが、泥水から這い上がり、世界の頂点に立った私の『輝かしい人生』の集大成だ。……手記にも書いた通り、私はあのメニューを完成させたことでオーナーに認められ、今の地位の礎を築いた。できるのか? 私の舌を満足させるだけの腕が、この地の果ての厨房にあるのか?」

    「かしこまりました。当店のシェフ、漆原が腕によりをかけて再現いたしましょう。……少々、お待ちを」

    蓮見は再び美しい一礼を残すと、足音ひとつ立てずに厨房へと続く扉の奥へ姿を消した。

    一人残されたダイニングで、神崎は大きく、震える息を吐き出した。 あまりにも静かすぎる。防音扉に守られたこの空間には、外の波の音すら届かない。まるで、本当に冥府の入り口に取り残されたかのようだった。神崎は、自分が無意識のうちに小刻みに震えていることを自覚し、それを隠すようにテーブルクロスを強く、指の関節が白くなるほど握りしめた。


    鏡の中の欺瞞

    厨房では、漆原が無言のままフライパンに火を入れていた。ガスの青い炎が、彼の刻まれた皺を深く照らし出す。

    「香水とシガーの匂いで巧妙に隠してはいますが、極度の緊張状態にあります」 蓮見は目を閉じ、先ほどダイニングで捉えた音と匂いの粒子を脳内で再構築した。 「『フォアグラ』の名を口にした瞬間、彼の声帯は微かに収縮し、呼気の中に強い胃酸の匂いが混じりました。彼の魂が本当に求めているものは、フォアグラなどではありません。肉体が、あの脂を拒絶している」

    「……やはり、あの時の『パン』か」 漆原は低く呟き、調理台の隅に置かれたバスケットに目をやった。そこには、あえて数日間放置して水分を飛ばし、石のように固くした質の悪いフランスパンが転がっている。

    「ええ。まずは彼の『嘘』に付き合いましょう。極上の仕上げをお願いします」

    十数分後。 完璧な静寂に包まれたダイニングに、香ばしくも、鼻腔を麻痺させるほど濃厚な香りが漂い始めた。 蓮見が純銀のクロッシュ(蓋)を静かに開ける。 完璧な火入れで表面をカリッと焼き上げられた極厚のフォアグラと、黒曜石の泥濘のように艶光りする黒トリュフのソース。それはまさに、三十年前のパリの夜、神崎がその手で掴み取ったはずの「栄光の象徴」そのものだった。

    「おお……これだ。この香りだ!」 神崎は歓喜の声を上げ、震える手で純銀のナイフとフォークを握りしめた。 分厚いフォアグラにナイフを入れる。外側は小気味良い音を立てて裂け、内側からは極上の脂がとろけ出す。神崎はその塊にソースをたっぷりと絡め、大きく口に運んだ。

    芳醇な脂の甘みと、トリュフの強烈な香りが口腔を支配する。 「美味い……! 素晴らしい腕だ。まさに三十年前、私がパリで手にした栄光の味そのものだ。これこそが、私の輝かしい人生の──」

    「神崎様。失礼ながら」 静寂を切り裂くように、蓮見の氷のように冷たく、涼やかな声が響いた。 神崎の手から落ちた純銀のフォークが、リモージュ磁器の皿を打ち据え、耳障りな高音を立てた。

    蓮見は一歩、テーブルへと歩み寄った。光を失った彼の瞳は、虚空を見つめながらも、神崎の肉体が発する微細な悲鳴を完璧にスキャンしていた。

    「あなたは今、その料理を一口たりとも『美味しい』とは感じておられません」 「……なんだと?」

    「咀嚼の回数と、顎の筋肉の収縮率が、極上の美食を味わう人間のそれではありませんでした」 蓮見の声は、氷河の底を流れる水のように冷徹だった。 「あなたの胃と食道は今、極度のストレスで限界まで収縮している。そこに流し込まれたフォアグラの濃厚な脂は、あなたの肉体にとって『肺を冒す甘やかな毒』でしかない。飲み込む瞬間、あなたの喉の軟骨が拒絶の痙攣を起こした摩擦音を、私は確かに聞きました」

    神崎の顔から、急速に血の気が引いていく。 「……無理もありません。他人の才能を奪い取って得た栄光の味など、本来は砂を噛むようなものでしょうから」

    その一言が、三十年間外食産業の頂点に君臨してきた男の逆鱗に触れた。 「貴様ッ……! 誰に向かって口を利いているか分かっているのか!」

    ドンッ、と神崎が両手でテーブルを叩き、巨躯を立ち上がらせた。ゼニアのスーツが乱れ、暴力的な怒声がダイニングの空気を震わせる。 「ただの給仕風情が、私の何を知っている! 私はこの三十年、誰よりも血の滲むような努力をしてきた! 凡人どもを踏み台にし、泥水をすすってでもこの外食産業の王座を……!」

    「『199X年、単身渡仏。その卓越したセンスを認められ、到着後すぐにル・シエルに採用される』……」 蓮見は神崎の怒号を柳のように受け流し、淀みない声で彼自身の「晩餐への手記(メモワール)」の文面を諳(そらん)じた。 「しかし、奇妙なことに、あなたが渡仏してからル・シエルで働き始めるまでの『最初の三ヶ月間』の記録が、フランスのどの公的機関を探しても見当たらない。……なぜなら、パリの古い居住記録のマイクロフィルムを辿った結果、あなたが最初に住み込んだセーヌ川沿いの酷くカビ臭い屋根裏部屋の契約者は、あなたではなかったからです」

    蓮見の鼻腔が微かに動く。神崎の毛穴から、怒りとは別の、酸化した鉄のような恐怖の匂いが吹き出していた。三十年間、ひた隠しにしてきた罪の匂いだ。

    「『守屋』。……それが、あの部屋の真の主の名前です」

    ガタンッ! 神崎の膝から完全に力が抜け、ドスッと椅子に崩れ落ちた。彼の目は限界まで見開かれ、浅く引きつった呼吸が、無音の空間に不様に響く。

    「守屋様は、神に愛されたような天才的な舌を持つ若き料理人だった。恩師からの紹介状を手に渡仏した彼に、あなたは『助手』としてすがりつき、同行した。しかし現実は残酷です。あなたは厨房で職を得られず、守屋様がパン屋で買ってくる売れ残りの硬いフランスパンと、市場のクズ野菜で作ったスープで食いつなぐ日々を送っていた。嫉妬と劣等感という猛毒に、五臓六腑を焼かれながら。……違いますか?」

    「黙れ……! 私は、私はあいつの才能を……!」

    「そして三ヶ月後の冬、悲劇は起きた」 蓮見は、神崎の反論を許さず、決定的な刃を真っ直ぐに突き立てた。 「アパートでの火災事故。一酸化炭素が充満する密室の中で、あなたは倒れた守屋様を助けようとはしなかった。代わりにあなたが火の海から抱き抱えて逃げ出したのは、彼が寝る間も惜しんで書き溜めていた『究極のレシピノート』だった。そしてそのレシピを『自分のアイデア』として売り込み、彼の地位も、未来も、すべてを乗っ取ったのです」

    「……違うッ!」 絶望に染まりかけた顔に、突如として権力者特有の醜悪な血の色が戻る。神崎は血走った目で蓮見を睨みつけ、テーブルを拳で叩き割らんばかりに叫んだ。

    「黙れ……黙れッ! 盗んだだと!? 違う、私が生かしてやったんだ! あいつはただ、屋根裏でノートを抱えて死んでいく運命だった! この神崎徳治の野心と手腕があったからこそ、あの料理は世界の頂点に立てたんだ! あれは……私のものだッ!」

    唾を飛ばし、己の正当性を吠え猛る老王。明日の破滅を受け入れていながら、この三十年間の「嘘の栄光」だけは決して手放そうとしない、あまりにも見苦しい最後の足掻きだった。

    しかし、蓮見は哀れなほど静かな声で、その狂態を一刀両断した。

    「……ならばなぜ、あなたはそれほどまでに怯えているのですか。すべての運命を受け入れたはずのあなたの魂は、今もまだ、あの燃え盛る屋根裏部屋から一歩も逃げ出せてはいない」

    その冷徹な宣告が、神崎の膝を完全に砕いた。 彼が三十年間纏い続けてきた「成功」という名の分厚い鎧が、音を立てて崩れ落ちていく。

    「……違う。私は……悪くない……!」 床に這いつくばるようにして、神崎は両手で白髪交じりの頭を抱え、傷ついた獣のように呻いた。

    「あいつが異常だったんだ! 私がどれだけ寝ずにソースの乳化を研究しても、あいつは一度味を見ただけで完璧な正解を出してしまう! 努力では絶対に超えられない、あの圧倒的な才能が……私を狂わせたんだ!」

    それは、三十年間、権力の鎧の下に隠し続けてきた、王の切実な本音だった。

    「ええ、あなたは彼を憎んだ。しかし、それ以上に彼の才能を愛していた」 蓮見は静かに指を鳴らした。 それを合図に、厨房の重厚な扉が開き、漆原が新しい皿を乗せた純銀のワゴンを押して現れる。

    ワゴンを止めた漆原の手に、神崎の視線がふと吸い寄せられた。 無数の火傷と細かい切り傷に覆われ、指の関節が異様に肥大した分厚い手。それは、権力と金に溺れ、いつしか自ら包丁を握ることをやめた神崎の、シミひとつない『白く滑らかな手』とは対極にある、本物の料理人の手だった。

    漆原は、神崎がたった一口だけ刃を入れたフォアグラの皿を無言で持ち上げた。 流れ出した極上の脂は、すでに冷たい磁器の上で白く濁り、醜い脂肪の塊へと変貌し始めていた。それはまるで、三十年間虚飾で塗り固められてきた神崎自身の人生のようだった。漆原はそれを、一切の未練も込めることなく、ワゴンの下のダストボックスへと滑り落とした。

    ドサッ、という湿った残飯の音が、神崎の残された最後のプライドを完全にへし折った。

    代わりに神崎の目の前に置かれたのは──焦げ目のついた石のように硬いフランスパンと、野菜の端材だけを煮込んだ、ひどく質素なスープだった。

    神崎の「食の帝王としての審美眼」が、瞬時にその皿を値踏みする。 (……なんだこれは。パンのクラストは酸化して水分が抜けきり、スープは灰汁(あく)の処理もされていない不純物だらけの濁り具合。……ゴミだ。料理と呼ぶことすらおぞましい残飯だ……!) 頭ではそう理解しているのに、その湯気の匂いを嗅いだ瞬間、神崎の網膜の裏に、凍えるようなパリの屋根裏部屋の光景がフラッシュバックした。

    「あなたが三十年間、一日たりとも忘れることのできなかった味です」 蓮見の言葉に、神崎は雷に打たれたように硬直した。 「あなたは奪い取った地位で巨万の富を得た。しかし、あなたの魂は常に、あの狭く冷たい屋根裏部屋に囚われていた。……一酸化炭素中毒で植物状態となり、二度と目を覚ますことのない親友のベッドの傍らで」

    神崎の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

    「あなたが密かに設立したダミー会社を通じ、日本の厳重な療養型病院へ、毎月莫大な医療費が送金されている事実を確認しました。あなたは三十年間、誰にも素性を明かさず、莫大な金をつぎ込んで彼を生かし続けてきたのですね」 蓮見は、スープの皿を神崎の前にそっと押し出した。 「『いつか彼が目を覚ましたら、すべてを返して土下座しよう』。その決して叶わぬ夢だけを支えに、あなたは孤独な王座に座り続けていた。しかし、明日あなたが特捜部に逮捕され、すべての資産が凍結されれば……守屋様の生命維持装置は止まる」

    「私が……今度こそ、あいつを完全に殺すんだ……。私の罪だ……全部、私の弱さが……っ!」 神崎は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて嗚咽した。広大なダイニングに、老人の悲痛な泣き声だけが響き渡る。

    やがて、神崎は震える手で、石のように硬いフランスパンを掴んだ。
    濁ったスープに浸すが、完全に水分が抜けたクラストは容易にはふやけない。神崎は貪るように、その酸化した塊を力任せに噛みちぎった。

    「ガリッ、」と鈍い音が響く。

    硬い破片が口蓋を浅く切り裂き、口腔内に微かな血の味が滲んだ。だが、その鉄の匂いと、クズ野菜の泥臭いスープが舌の上で混ざり合った瞬間──神崎の脳髄に、三十年前の凍える屋根裏部屋の記憶が、暴力的なまでの鮮烈さでフラッシュバックした。

    頬を伝い、顎からこぼれ落ちた大粒の涙が、濁ったスープにポトリと落ちて小さな波紋を広げる。

    一口啜る。

    洗練された技術など何一つない、ただの安い岩塩と野菜の端材の青臭い味。そこに、彼自身の涙の塩味と、微かな血の痛覚が、生々しい調味料として溶け込んでいく。

    それは、三十年間にわたる嘘と嫉妬、拭い去れない後悔が凝縮された、ひどく塩辛く、そして泥のように温かい『贖罪の味』だった。

    「……美味い」 神崎は、濁ったスープの滴るパンを噛みちぎりながら、喉の奥から絞り出すように呟いた。 「フォアグラなんかより……ずっと、美味い……。あいつの作る料理は、いつだって……最高だった……」

    親友の夢を背負おうとした愚かな泥棒の、三十年越しの真実の「最後の食事(ラスト・メニュー)」だった。


    エピローグ:残響

    数時間後。 夜明けの気配が、黒い絶壁の空を白く染め始めていた。 荒れ狂っていた嵐は嘘のように過ぎ去り、今は静かで規則的な波の音だけが聞こえてくる。

    神崎は、憑き物が落ちたような、三十年間で一度も見せたことのない穏やかな顔で立ち上がった。 「……最高の夜だった。嘘ばかりで塗り固められた私の人生で、昨夜だけは、本物だった」

    神崎は蓮見と漆原に向かって深く、まるで神に祈るような一礼をすると、振り返ることなく重厚な扉を開け、朝焼けの外界へと歩み去っていった。 扉が重々しく閉まり、外界との繋がりが再び完全に断ち切られる。

    数時間後。 バックヤードに置かれた旧式のラジオから、ノイズ混じりに『外食産業のドン・神崎徳治、特捜部に逮捕』という無機質なニュースの音声が微かに漏れ聞こえてきた。

    しかし、分厚い防音扉に守られたカロンのダイニングには、その俗世の喧騒も、神崎に向けられたであろう無数のフラッシュの瞬きも、一切届くことはない。 ただ、アンティーク時計の冷徹な秒針の音と、永遠に繰り返される静かな波の音だけが、そこにあった。

    朝の光が差し込むマホガニーのテーブルの上には、一滴残らず空になったいびつなスープ皿だけが置かれている。 蓮見は静かにテーブルに歩み寄り、空の皿の縁を白手袋の指先でそっと撫でた。

    「お粗末様でございました」

    盲目のギャルソンの呟きは、遠い波の音に溶けて消えた。 そして彼は、タキシードの懐から一通の新しい封筒を取り出す。上質な和紙の便箋に綴られた、次なる「晩餐への手記(メモワール)」。 蓮見は静かに微笑み、光を持たない瞳を重厚な扉の方へと向けた。

    次回は、どんな極上の嘘(メニュー)が振る舞われるのだろうか。

    ──第一話 了

     
     
    はじめまして、白鹿 鼎(はくしか かなえ)です。 日常のちょっとした違和感や、ネット社会のトラブルなどをテーマにしたミステリー小説を書いています。 読んでくれた方に少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。 よろしくお願いします!

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