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【小説】絶命競争


    あらすじ
    飛び降り自殺のため、雑居ビルの屋上に侵入した中年男。
    そこには、先客の女子高生がいた。(12,300文字)

    本作には自殺・自傷に関する描写がありますが、それらを推奨・助長するものではありません。
    本作の一部表現および見出し画像に生成AIを活用しています。


    点字ブロックの上に、鳩が落ちていた。朝の光はすでに強く、舗道を白く照らしている。五月の熱を帯びた空気が、アスファルトの上で澱んでいた。
    通勤者の流れの傍らを、車列が金属音を残して絶え間なく通り過ぎていく。その隙間を、ネクタイ姿の外国人がマウンテンバイクで走り抜けた。

    雑居ビルの前で、一人の男が屋上を見上げていた。ヨレた黒いスーツの脇に浮いた白い輪染み。右の靴のかかとの、わずかなすり減り。ひと呼吸置いて建物の中へ入っていった。

    入口の扉は古く、壁面には細かなひびが走っている。監視カメラの類は見当たらない。階段を一段登るごとに、シャツが背中に張り付き、汗でその白さを透かしていく。

    三階の踊り場で、下りてくる人影と出くわす。肩が触れそうな距離でも、二人の歩調は変わらない。視線は互いに一段先の段差へ固定されたまま、すれ違う。

    六階。最上階にたどり着き、建付けの悪い非常扉を押し開ける。

    乾いた朝の熱気が流れ込む。ひび割れたコンクリートの床。隅には錆びついた空調設備が振動し、周囲には一メートルに満たない格子状のフェンスが張り巡らされている。塗装の剥げた金属の横桟に足をかけ、フェンスの向こう側へ、制服姿の女子高生が身を乗り出していた。風が吹き付けるたびに紺のスカートの裾が跳ね上がり、布がはためく。

    「待て待て待てやめろ!」

    男は駆け寄り、少女の細い腕を掴んだ。抵抗する体ごと、フェンスから引き剥がす。

    「放して!」

    少女が腕を振りほどこうと身をよじるが、男の指は腕に食い込んだまま動かない。そのまま少女をフェンス際から引きずり離し、その場に立ち塞がった。少女は崩れるように座り込み、足を一度だけ床に強く打つ。
    響く硬い音。膝を見つめたまま、動かない。

    男は荒い息を整えながら、少女を見下ろしている。一拍置いて、言葉を吐き捨てた。

    「何てことすんだ!ここは俺が先に見つけた穴場だぞ!!」

    『絶命競争』


    数分のあいだ、どちらも口を開かなかった。階下の車道から、絶え間ない走行音が上がってくる。
    少女は非常ドアに背を預けたまま、無表情で男を見据えていた。
    男はあぐらをかき、靴の先を見つめたまま、動かない。少女が口を開いた。

    「つまり、おじさんも自殺志願者?」
    「ああ」
    「そう。じゃあ私なんかほっとけばよかったのに。私が飛び降りてから、おじさんも飛べば」

    男はゆっくりと顔を上げ、少女へ視線を移した。

    「あのな、考えてみろ。君が先に飛んだらどうなる?下は大騒ぎになるだろ。そんな中で二人目が飛べると思うか?」
    「はあ、そんなの知らないよ。そん時には私、死んでるんだから」
    「自分だけが良けりゃそれでいいのか。まさに、あれだ……想像力の欠如。共感性の、ええっと…なんだ」
    「何? 説教したいんですか? 気持ち悪い」
    「違う。呆れてるだけだ」

    少女が小さく息を吐いた。

    「そう。そうやって大人は、自分のほうが立場が上だからって、遠慮もなくデリカシーないことを撒き散らすよね。それで若者は萎縮するってわけ」
    「ははは、まるで自分たちが我慢してますと言いたげだな。遠慮がないのはそっちだろ。自由に好き勝手やって、羨ましい限りだよ。自主性万歳!ってな」
    「……もういい。話すだけ無駄」

    少女は踵を返す。早足のままフェンスへ向かい、横桟に片足をかけた。
    男は慌てて立ち上がる。数歩で距離を詰め、その腕を掴んだ。

    「おい待てって!抜け駆けするんじゃない!」
    「放せ! キモい!」

    もがく少女の肩を、男が上から押さえ込む。やがて手を放すと、男は少女を中心に、半径一メートルほどの円を描くように歩き始めた。靴底がコンクリートを擦る音が、途切れることなく響く。

    「いいか、よく聞け!俺がこの日のためにどれだけ準備したか分かるか?管理もロクにされてねぇビルを、安全なんざ二の次のボロ屋上を……やっとの思いで見つけたんだ!見ろ!この飛び降りてくださいと言わんばかりの登りやすそうなフェンス!ここに比べりゃ富士の樹海や東尋坊なんてのは、有名なだけのミーハースポットだ!こういう人知れず趣のある場所こそ、自殺に相応しいじゃないか!」

    遠くの建設現場から、機械音と作業員たちの笑い声が聞こえた。

    「おじさん」
    「……ん?」
    「おじさんは、まだ生きていけるよ」

    男はフェンスの外を、無言で見下ろした。

    「てか、本当に死ぬ気ある?」

    背後からの声に、男は勢いよく振り返った。数歩で少女の正面まで踏み込んだ。 

    「言ったな。一番言ってはいけないことを。死ぬ気があるかだって?あれだろ?死ぬ死ぬ言う奴ほど死なねぇってやつだな?ネットで聞きかじった知識だろうが、実際はそうじゃない。自殺する前に死のサインを送った例なんていくらでもある」
    「そう……でもおじさん、あまりにもエネルギッシュだから」
    「勘違いしているな。これはβエンドルフィンが分泌してんだ、いわゆるハイってやつだ、わかるか?いいだろう、死ぬ前くらい明るく元気いたってさぁ!」

    少女は顔をしかめ、払いのけるように小さく手を振った。

    「わかったって。ごめんごめんもういいから」
    「そうか、わかってくれたか」

    男は向きを変え、足早にフェンスへ向かう。はためくジャケットの裾。
    フェンスの手すりを掴み、片足を横桟にかけ、身を乗り出そうとする。
    その瞬間、少女が距離を詰め、男の腕を引っ掴んだ。

    「ちょっと何してんの!?」
    「俺が先に飛び降りるんだよ」
    「なんでよ!やめて!」
    「放せ!」
    「どっからそうなったの!?まだ話し合いの途中じゃん!」

    男は少女の腕を振り払うと、フェンスから足を下ろした。少女の方を向き、一度深く息を吸い、口を開いた。

    「話し合い?会話は無駄と言ったのはそっちだろ?それに、さっき言ってたじゃないか『自分が飛び降りてから、勝手に飛べ』と。君の言う通りだ。だから俺が先に飛ぶ。そっからは君の好きにするといい。ああ、でもできれば俺の死体の上は避けてくれないか?想像してみると……みっともない」
    「イヤ、私が先に飛び降りる。これは譲れない。だってここに最初にいたのは誰?私。後から来たのは誰?おじさんでしょ。こんな簡単なこともわからないの?」

    室外機の重い振動音が二人の間を流れた。靴先が、床をわずかに擦る。
    男は一度視線を外し、コンクリートのひびを目でなぞった。

    「……俺のほうが先に見つけた」
    「はあ?」
    「だからこのスポットは俺が先に見つけたって言ってんだろ!今日たまたまふらっと死にに来た高校生にとられてたまるか!」
    「私だって下見したの!」
    「いつ?」
    「一週間前……」
    「俺はひと月前だ!ひと月前に忍び込んで決めたんだ。自殺するならここだと」
    「ということは、一か月前までは生きてくつもりだったんだ」
    「……んー」

    男は転がっていたペットボトルのキャップを、靴先で軽く弾いた。

    「私は半年前から自殺を考えてたの。それで今日やっと決心してここに立ってるんだよ。つまりおじさんの理論で行けば、自殺計画は私のほうが先なんだから、私が一番に飛び降りるべき」
    「待て、そりゃないだろ。それを言えば俺だって一年前、いや!もっと前から死にたいとは思ってた」
    「それは漠然とした感情であって計画じゃないでしょ?」
    「じゃあなんだ。君は半年前にこのビルで実行すると決めたのか?」
    「ううん……でもどんな方法がいいのか真剣に考えだしたのはそれくらいから。薬、首つり、電車、川。それで飛び降りを選んだってわけ」
    「なんで飛び降り?」
    「本当は薬がよかったけど、都合の良いものは簡単に手に入らなくって。
    どこも厳しいみたい。首つりは一人でやれる自信なかったし、電車はグロイ、川は汚い」
    「消去法か?」
    「おじさんも似たようなもんでしょ」
    「……まあな」

    少女はキャップを蹴り飛ばす。それはフェンスの隙間を抜け、消えた。少女はフェンスに身を預け、眼下の車道を覗き込んだ。ピンクの車を目で追う。

    「おじさん、車持ってる?」
    「ああ、ここへも車で来た」
    「まだ使える?どこに停めたの?」
    「そこらへんの路肩に駐車したよ。どうせ死ぬんだ。警察がなんとかするだろ」
    「じゃあ練炭とかでいいんじゃない?どう?」
    「練炭?」
    「車内で焚いてさ、それからシート倒して寝てたら終わり」
    「はははっ、そんな簡単にいくか。あんなの車内で火事起こすのと変わらんだろ。苦しいぞ煙は。防災訓練で習わなかったか?ハンカチ口に押えて。煙が一番やばいんだって」
    「やってないかも」
    「やってないわけないだろ……危機管理意識どうなってんだ?命にかかわることだぞ?」
    「今から自殺するのにそれ言う?」

    室外機の振動音が止まった。少女は貯水槽の影へ移った。

    「つまりさ、お互い他の方法で死ぬ気はなし。飛び降りで決まりで、譲る気もないってこと?」
    「まあ、そうだな」
    「日にちも?どうしても今日じゃなきゃだめ?」
    「そりゃそうだろ。仮にどっちかが飛び降りてみろ、ここの管理は厳しくなるぞ。最悪封鎖だ」

    少女はうつむき、白いタイを指先でねじった。 男は背を丸め、胸の前で不揃いに両手を合わせた。

    「なあ、いいだろ?ここは可哀そうなおっさんファーストでさ、譲ってくれよ。徳を積んでおくと天国へ行けるかもしれないだろ?」
    「バカみたい。そんな都合のいい世界あるわけないじゃん」
    「じゃあ、あれ?転生して虫だの鳥だのになるって派閥?」
    「ないない。死んだら終わり。たぶんずーっと寝てる感じになる。ずーっと」

    少女は鼻からフッと息を漏らす。皺の寄ったタイの結び目を引き伸ばした。

    「あのさぁ、なんか救いを求めてんなら自殺やめたら?救われないから自殺するんじゃないの?」

    男は視線を逃がした。貯水槽の縁で、一羽のカラスがくちばしで羽をさぐっている。少女の口元を見た。

    「なんで死にたいんだ?」

    少女は男をちらりと見て、前髪を軽く払った。風が吹き抜け、フェンスの横桟がヒュウと鳴る。カラスは静かに飛び立っていた。男は汗ばんだ掌でまぶたを擦ると、息を吐き、うつむいた。

    「どうすんだよぉ」
    「知らない。もうどうしようもないなら私飛ぶけど」

    少女は手すりを両手で掴み、横桟に足をかけた。男が「待て!」と踏み出し、少女の背中へ手を伸ばしかけ、止まった。体がフェンスの上でゆらりと揺れていた。

    「駄目だって!駄目!」
    「おじさんに気を遣う意味ないし」
    「ちょっと待って!待って……」

    男は眉間に深い皺を寄せ、その場で右踵を小刻みに床に打ち付ける。 数秒の沈黙の後、言葉を絞り出した。

    「じゃあ、こうしよう!……じゃんけんで決める?」
    「じゃんけん!?じゃんけん?本気で言ってる?」
    「話は平行線だろ?せめて公平に決まれば、俺も……納得する」

    少女は手すりを掴んだまま足を内側へ戻し、身をひねって屋上へ降り立った。

    「ヤダ。私じゃんけん弱いもん」
    「じゃんけんに強いも弱いもないだろ!」
    「ある。じゃんけんにいい思い出ないし、それに実力に左右されないから嫌い」
    「いや……だから公平なんだろ?」
    「人生最後の時にまで運に振り回されたくない」

    男はうなじを強く揉む。一度荒い息を吐き出し、足元へ目を落とした。少女とフェンスの間の距離、その先の出口までの空間。何もない。男は空を睨みつけて声を張り上げた。

    「……ビーチフラッグス!」
    「は?」
    「ビーチフラッグス!!これならいいだろ?実力でどっちが先に飛び降りるか決めようじゃないか!」
    「なんて?ビーチ?」
    「ビーチフラッグス!!ほら砂浜でやるやつだよ。バラエティとかでたまに見るだろ?スポーツの。今回の目標は旗じゃなくて、あのフェンスだ。フェンスに先にたどりついたら勝利。そのまま飛び降りてヨシ」
    「そのビーチフラッグスってのがよくわかんないんだけど」
    「知らない?」
    「知らない」

    男はそのまま床に突っ伏し、両足を揃えてスタートの姿勢を取った。

    「つまりだな、こうやってケツをフェンスに向けてうつ伏せで寝るんだ。で、よーいどん!で立ち上がって、フェンスに向かって走る。分かりやすいだろ?」
    「体力勝負?」
    「体力&反射神経かな」
    「どっちにしろ私女だから不利じゃん」

    男は立ち上がり、スーツの汚れを叩き落とした。

    「何いってんだよ。そっちは現役で体育とかしてんだろ?こっちはもう体ぼろぼろのおっさんだぞ?公平だよ公平」

    少女は足元のスニーカーをしばらく見つめてから、しゃがんで紐を強く引き締めた。つま先で床を数度踏み込み、ソールの食いつきを確かめると、重心をわずかに前へ移した。 男はスラックスのポケットから傷だらけのスマートフォンを取り出し、画面をタップした。

    「合図はスマホのタイマーで、これが鳴ったら動き出していい。どうだ?」
    「徒競走は?」
    「は?」

    少女はフェンスまでの距離を足で計るように踏み出した。

    「このままどっちが速いかで決めようよ。寝そべってとか、面倒じゃん」
    「それは……」

    男の視線がフェンスへ向かう。

    「助走がつきすぎるだろ。タイミングが取りづらい……」

    少女の視線が男の横顔をかすめた。スーツの背中がフェンスを塞いだ。

    「いいだろ、こっちのほうが飛べるって……」

    少女は一つ息を吐いた。フェンスが陽を受けて白く光っていた。

    「……わかった、いいよ」


    脱ぎ捨てられたジャケットが脇へ転がる。貯水槽のそばで男がうつ伏せになり、コンクリートに両肘をついた。その動きに目を向けたまま、少女が一拍遅れて身を伏せる。男はスマートフォンを数回タップすると、タイマーを起動させて二人の顔の間に置いた。

    「何分にセットしたの?」
    「3分後に鳴る」
    「それじゃあ、これが人生最後の3分ってことね」
    「どっちかは、な…」

    二人は両手を重ね、その上に顎を預けたまま静止する。 街の喧騒が断続的に響く。階下では車のエンジン音、短いクラクション、遠くのサイレンがかすかに混じる。頭上では室外機が低く唸りを上げ、カラスが羽ばたく硬い羽音が空を切る。

    数字は、音もなく減っていく。

    頬にコンクリートの熱がまとわりつく。首元から滴った汗が、乾いた床に小さな黒い染みを作った。

    数字は、音もなく減っていく。

    互いに視線を交わすことなく、二人はただ屋上出入口の無機質な扉を見つめ続けている。少女は小さく唾を飲んだ。男の視線が微かに揺れる。扉から外れ、空へ上がり、貯水槽へ移り、排気口をかすめ——スクールバッグの隣に無造作に置かれたネオンイエローのラケットバッグへ滑り込んだ。

    「もしかして部活やってる?」
    「うるさい」

    電子音。 二人は一斉に跳ね起き、反転した。スニーカーがコンクリートを蹴り、前へ進む。男は踏み出した瞬間に膝から崩れ落ちた。 少女の指がフェンスを叩く。その背後で、男はふくらはぎを両手で掴み、床に転がった。

    「あああああ!!吊ったぁあああ!!!ったああああ!」

    少女は横桟にかけた足に体重を乗せ、両手で手すりを握り込んだ。 後方でうめき声が響く。

    フェンス。男。フェンス。男。

    一度、空を仰いだ。手すりを放すと、足音を立てて男の傍らに膝をついた。靴を脱がせ、つま先を強く押し上げる。   

    「もう!つま先上げて。もっと、ぐっと力抜いて、抵抗しないで!」
    「……ああ!っ!!」

    男は座り込み、顔を歪めてふくらはぎをさすった。

    「……な?おっさんの体なんてこんなもんだ」

    少女は男を見下ろしたまま、首を小さく傾けた。 かすかに骨が鳴る。

    「おじさんが騒がなかったら勢いでいけた」
    「ほんとに?」
    「ほんとに。うるさすぎで気が散ってできなかった。おじさんのせい」
    「俺のことなんて無視して飛べばよかったのに」
    「おじさんの情けない叫び声聞きながら死にたくない。黙ってくれれば……」

    少女の影の中で、男はふくらはぎをさすり続けた。

    「痛い」
    「はぁ」
    「なあ、あのヨネックス……。テニス部?」
    「……バド」
    「バトミントンか。強い?」
    「別に。ただの補欠」

    繰り返されるスラックスの生地が擦れる音。

    「俺は高校の時、野球部だったんだよ!5番サード。足は部で2番目に俊足。で、3年最後の大会ベスト4!その準決勝がマジで惜しくてさ、俺は2安打したんだよ、どっちもツーベース、しかも一本目はタイムリー、相手のスライダーをすくい上げて左中間!で!でよ、9回裏ツーアウト、一点差で負けてて、俺は二塁走者ね。それで次のバッターが打った!!勿論走るわな。で、飯塚を……ああ、サードコーチャーね、サードコーチャーを見たら腕回してるから、俺もそれを確認して全力で走って本塁突っ込んだんだよ、そしたら余裕のアウト。ゲームセット。何してんだよ、って話だろ?飯塚に詰めたら回してないって、いやいやいや皆見てたからぐるんぐるん腕回してたの!あそこで止まってれば、試合は全然わからなかったのに、もったいないことしたよ。結局その相手が甲子園に行ってなあ。一回戦青森に負けてたけど。俺たちが行ってたならなぁ」
    「ふーん」
    「プロ野球どこのファン?」
    「野球知らない」
    「そう……なあ?遺書って用意してるか?」

    少女は出入り口の錆びた扉に目をやった。数秒の沈黙の後、呟いた。 

    「……勿論」
    「手元にある?」
    「そこのカバンに」

    少女は床に倒れたスクールバッグを指差した。男は横向きに寝そべり、肘をついた。バッグを眺めたまま、ふくらはぎを揉んだ。

    「俺は見ての通り、このザマだ。どうだ、足が回復するまで。時間潰しに……互いの遺書を読むってのは」
    「ヤダ。なんでそんなことしなくちゃいけないの」
    「固いこというなよ。俺たちの仲だろ?」
    「仲もなにもないでしょ」
    「気になるんだよ」

    ふくらはぎをさする手が止まった。少女は唇をひと舐めした。

    「別に、読んであれこれ口出すつもりはない。説教できるような身分でもねえしな……。たださ、同じ日に同じ場所で死にたがる人間の、頭の中覗いてみたくてな」

    錆びたフェンスが風にあおられ、金属音が響いた。 少女は目を伏せたまま、眉の端が、僅かに跳ねる。 

    「恥ずかしいのか?」
    「ハァ?」
    「いいだろ?どうせ死ぬんだ」

    男は立ち上がり、足を引きずりながら歩く。ジャケットを拾うと、内ポケットから四つ折りの便箋を取り出す。角が折れ曲がり、表面に皺のできたそれを少女へ差し出した。

    「これが俺の遺書だ」
    「ちょっと、私見せるって言ってない」
    「先に飛び降りていいぞ」
    「え」
    「俺が台無しにしたからな。勝者は君だ」

    男は「アイタタタ……」と呻きながら、ゆっくりと床に腰を下ろした。少女は便箋を見つめたまま、唇を薄く噛んだ。小さな羽虫が手の甲に止まり、すぐに飛び立った。鼻から短く息を吐き、バッグから一冊のキャンパスノートを取り出した。表紙にはボールペンで『現代文』と書き込まれている。一度だけ手元へ引き寄せてから、男へ突き出した。 

    「ありがとう」


    二人は貯水槽の影へ座り込んだ。男はあぐらをかき、膝の上にノートを広げた。紙はわずかに波打ち、ページの端が浮いている。本文の書き写し、設問、傍線部の抜き出し。語句は行ごとに区切られ、罫線に沿って文字が流れている。 各ページ、余白の幅まで一定だった。ページをめくる。そこには板書がない。同じ筆跡のまま、短い文が数行連なっている。行の揃い方も、文字の間隔も、これまでと変わらない。 男は数行読む。一度だけ顔を上げた。

    少女は膝頭に便箋を押し当て、顔を近づけていた。筆ペンで書かれた文字が並んでいる。書き出しは揃えられているが、一画ごとの太さにばらつきがある。ところどころで線が沈み、黒く滲んでいる。字の列は下へ進むにつれて右へ傾き、隣の列と重なりかけている。少女は読み終えた一枚を、後ろへ送った。  

    遠くの学校のチャイムが鳴った。高い音がビルの外壁に当たり、一拍遅れて屋上に届く。一定の間隔で繰り返され、やがて途切れた。男はページをめくる。白紙。ノートを閉じた。現代文。もう一度開き、最初の行をたどり、低く声を漏らした。

    「んー……」
    「何?」
    「つまりどういうことだ?」
    「え?」
    「その……死にたい理由だよ」
    「サイアク、口出さないって言ったじゃん!」
    「これはただの感想だ!それもダメか?」
    「うるさい!」
    「だって理由が……」
    「ウザい!死ね!」

    少女は立ち上がった。唇を薄く引き結んだまま歩き出す。踵を返し、数歩進み、また踵を返す。ゴム底が擦る音を、繰り返し鳴らす。

    「悪い悪い!でもな」
    「何?不幸なドラマでも読みたかったの?」
    「そういうことを言ってるんじゃない!ただ……」
    「ただ?」
    「遺書ってのは誰かに読んでもらうためのものだろ?なのにこいつには……理由が書いてないじゃないか!」

    少女は目をしばたたかせ、口を閉ざす。

    「遺された家族はこれを読んでも、納得できないぞ?」

    少女は足元のジャケットを蹴り飛ばした。
    ポケットから目薬が飛び出し、転がる。

    「うるさい!黙れ!!ふざけんな!!じゃあアンタはどうなの!仕事がどうって……。これならお母さんは納得できんの!?」
    「ああ!理由がはっきりしてるからな!どうすることも出来ない現状が!」
    「どうにでもなるでしょ!」
    「ならねーよ!」
    「そう?簡単な話じゃん。できる仕事を探す、それだけ!」
    「ふん、社会に出てない子供だからどうとでも言えるんだ……」

    男は目薬を拾い上げ、指で汚れをぬぐう。ポケットに戻すと、今度はジャケットについたスニーカーの跡を手で払った。

    「俺は仕方ねえんだ。わかんだろ……こんなだから……将来なんてない」
    「そうだね!だから私もそういうのを込めたつもりなんだけど!!ヘタだった?私の文章?」
    「いや、でも……でも俺とは、立場が違うだろ!」
    「立場?」

    男はゆっくりと息を吐き、頷いた。

    「君は、若くて……」
    「未来がある?」

    ぐしゃり、と少女の手の中で男の遺書が音を立てた。紙は丸く潰れた塊になり、男の胸元へ投げつけられた。

    「すまない。気持ちはわかる。そうだよな、俺みたいなのが適当に」
    「わからないでしょ、私のことなんて!!」
    「ああ!わからねぇよ!!わかるフリしただけだ!」

    男は手を広げかけ、やめた。だらりと両腕が下がる。少女は丸めた遺書の残骸を見下ろしたまま、指先を小刻みに動かし続ける。

    「俺が高校生の時は、死にたいなんて……いや。人生のことなんて向き合いもしなかった……」

    男は膝に手をあてながら、遺書を拾い上げた。

    「君は、真面目だ……」
    「わかんないよ!!なんで死にたいかなんて!どうでもいい逃げたい消えたい死にたい!それじゃダメ!?」

    少女はスカートの裾を掴んだ。すぐに指先の力が抜け、布の皺が、するりと元に戻る。 男は丸まった遺書をスラックスのポケットに詰めた。

    「私が若いからってさ、そんなの関係ある?じゃあ、いつになったら諦めていいの?おじさんの歳になったら死んでいいの?」

    男は一度だけ喉を上下させた。コンクリートの塗装がまだらに剥げ、黒ずんだ染みが広がっている。少女は首筋を伝う汗を手で押さえ、宙を見つめた。

    「同じだよ、理由なんて……おじさんと同じ……」

    階下の走行音が途切れ、カラスが数羽、フェンスの上を横切った。

    「ねえおじさん、なんで私たちこんなになっちゃったんだろ?」
    「……さあ?俺は……自業自得」
    「じゃあ私も自業自得だ、きっと……。だって私以外のみんなは、普通に学校に通ってるもん」

    スカートの裾がかすかに揺れる。 男は右手を額にかざす。指の隙間から光が漏れ、男の目元に落ちた。

    少女は背筋を伸ばした。

    「よし!おじさん、もう足治ったでしょ?」

    男は足首をゆっくり回転させ、つま先を数度床に打った。

    「ああ」
    「じゃあ私、先に逝くから」

    少女はフェンスにもたれかかる。背後で男が声をかけた。

    「……なあ最後に聞いていいか」
    「何?これ以上もたもたしてると誰か来ちゃうかも。手短に」
    「親……」

    言葉が途切れる。空を仰いだ少女が、前髪を一度払う。 男は口元をひきつらせ、問い直した。

    「いや……、やり残したことはあるか?」

    少女は男の瞳を見た。

    「いっぱいあるよ。でも、それが生きる理由にならないことくらい、おじさんもわかってるでしょ?」
    「……ああ」

    男は一拍遅れてうつむいた。コンクリートのひびが、靴先の向こうに続いている。
    少女は手すりを両手で掴み、横桟に足をかけた。首を回し、スクールバッグへ顎をしゃくる。 

    「ねえ、私のスマホでさぁ?YOASOBIのUNDEAD流してくんない?」
    「え?」
    「曲!最期それ聞いて飛ぶ!」

    男は少女を視界の端に捉えたままバッグを探る。 教科書と赤本の隙間から白のスマートフォンを取り出した。

    「パスワードは?」
    「0525」
    「……今日じゃん」
    「うん……」

    少女が息を吸い込む。「しょ……!」 と声を漏らし、フェンスを跨いで外側へ降り立った。後ろ手で手すりを掴んだまま、身を大きく前へ預けた。 つま先の半分が、縁からはみ出している。

    「で、なんて曲?どこに入ってる?」

    風が強く吹き抜ける。少女は声を張り上げた。

    「YouTubeで検索して!ヨアソビのアンデッド!」
    「アンデッドって……。なあ、サビで飛び降りんの?全部聞いてから?」
    「わかんない!そんなこと気になる?フフッ……変なの」

    男は口角をわずかに上げた。少女はまぶたを閉じる。両手で掴んだ手すりから、小指、薬指と順に指が離れていく。金属のぬるい熱が、指先に残る。
    靴紐の先が、風に浮いた。男は白く反射した画面に、目を細めた。
    影を作るように手をかざし、ミュージックビデオをタップする。

    スピーカーから野太いダミ声が響いた。

    『超トク報!!スマホ一台で高収入!?(ええー!?)』


    少女の肩が跳ねた。

    「ちょっ!」

    片足が空を切り、重心が外側へ傾ぐ。掌が手すりに叩きつけられ、滑る。硬い金属音が、屋上に鳴った。指が格子に深くかかり、そのまましがみついた。

    「ギャアアアアア!」
    「おい!」

    男はスマートフォンを放り投げ、少女へと駆け寄る。床を滑った端末から軽快な電子音が流れ出した。少女は両手で格子を掴んだまま、足を虚空にバタつかせていた。激しく風に煽られる髪。シンセサイザーの旋律と、少女の絶叫が重なり、空気に散る。男はフェンスに手をかけ、格子の隙間から腕を伸ばして少女の手首を掴んだ。

    「ッだめ!!高い!怖い怖い怖い!」
    「嘘だろ……!」

    少女の指が、格子の上で不規則に滑る。
    嗚咽と甲高い金属音が、軽快なビートに重なった。

    「ムリ!下みちゃった!あああああああ!もうムリだめ!」
    「わかった落ち着け!放すなよ!放すなよ!!」

    男の指が少女の手首に食い込む。二人分の自重がかかり、フェンスの根元が軋んだ。男は上体を反らした。靴底がコンクリートを噛む。

    「も……、ムリじゃん!もう、これぇ……!!」
    「無理じゃねえ!大丈夫!放さなきゃ絶対落ちない!!」
    「うわああああああ!!」

    少女の指先が、格子から数ミリ浮いた。男の腕の関節が真っ直ぐに伸びきる。踵が、コンクリートを滑った。

    背後で非常扉が重く開いた。
    隙間から差し込まれた箒の柄を追うように、管理人が踏み込んだ。

    「ああ!?」

    男は一瞬だけ背後を見た。手首を掴む指先の色が抜け、関節が震えた。

    「手伝って!!」

    管理人が箒を投げ捨て、フェンスへ駆け寄る。腕が伸び、少女の腕と制服を掴んだ。怒鳴り声が二つ、言葉にならないまま上がった。少女の体がじりじりと浮き、フェンスを越える。少女はコンクリートの上で転がると、そのまま額を押しつけて体を丸めた。小さな背中が上下を繰り返す。その震えを挟んで、管理人と男も肩で息をしていた。管理人が少女と男を交互に見た。眉が寄る。 

    「何をしてるんですかぁ!?」

    男は肩を落とし、顔を伏せた。

    「すみません……」

    管理人は頭頂部の汗を手で拭うと、ポケットからスマートフォンを取り出した。

    「とりあえず警察呼びますよ」
    「ちょっと待ってください。それは勘弁してください!」
    「……ごめんなさい」

    震える背中から、掠れた声が漏れていた。男は一歩、二歩と距離を詰め、膝を曲げて管理人の目を覗き込んだ。

    「この子も反省してますし、無事だったんですから !大事にするのはよしましょうよ!」
    「あのねぇ、そういう問題じゃないんだよ。とにかく警察呼ぶから、あんたら何者?」
    「えー、あー……」

    男は一度、少女へ目を向けた。管理人の視線が、同じ方向へ流れる。 男は顔を上げ、管理人の目を見据えた。

    「ここで警察呼んだら、いろいろ突かれるかもしれませんよ?セキュリティがどうのこうの……面倒なことになるのは、管理人さんじゃないですか」 
    「だけどねぇ」
    「フェンスもこれ、安全基準満たしてるんすか?ホント危ないですよこれ。簡単に飛び降りれそうですし、キシキシ鳴って今にもポキッといきそうで」

    管理人はほうれい線を一度なぞり、沈黙した。
    男は床のジャケットを拾い、袖を通した。スクールバッグとラケットバッグを抱え上げる。

    「今すぐここから連れ出しますんで」

    ラケットバッグで丸まった背中を小突くと、少女はゆっくりと上半身を起こした。数歩先に転がったスマートフォンを拾い、胸ポケットに収めた。 管理人は非常扉を開け、片足で押さえながら、呟いた。

    「……早く消えてくれ」


    アスファルトの上を、不揃いな足音が叩いていた。少女はスマートフォンの画面を見つめながら、足をわずかに引きずった。その隣で男もまた、ふくらはぎに重心をかけないよう歩幅を乱した。

    「終わりだよ終わり。あの屋上へは二度とあがれないね」

    男は一度、後ろを振り返った。

    「どうすんだよ、ったく……」

    少女が立ち止まった。透明なケースの縁についた白い擦り傷に指先を当てて、なぞった。

    「なんか疲れた……っていうか痛い。足も、腕も」
    「あー……あれだろ、アドレナリン切れだ。帰りは?バス?電車?」
    「バス」
    「バスか……」

    男は道路を挟んだ向かいのバス停に目をやった。ベンチは中年女性の集団が隙間なく陣取り、笑い声を上げている。

    「俺の車に乗って帰るか?」

    少女はケースの隙間に入り込んだ砂粒を指先で取り除きながら、頷いた。

    二人は路肩の車に辿り着いた。フロントガラスには放置車両確認標章が貼られている。男はその黄色のステッカーを睨み、端を掴んで一気に剥ぎ取った。

    「チッ……」

    男は鼻を鳴らし、ステッカーを握りつぶすと、ジャケットの内ポケットに押し込んだ。少女がその横顔を覗き込み、口角を上げた。 

    「ついてないね」

    ドアを開けると、溜まっていた熱が二人の間を抜けた。
    五月は、まだ続いていた。

     
     
    映像的な小説を投稿します。 映画・アニメが好き。

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