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【小説】デッドエンド・ケア②(後編)


    日に焼けて色の抜けた看板、平屋のファミリーレストランの前で、マサヒロは足を止めた。自動ドアが開き、空調の効いた空気とともに油の混じった肉の匂いが漂ってきた。
    店内へ入ると、胸元の開いた赤い制服の若い女性店員が、伝票を手に歩み寄ってきた。

    「いらっしゃいませ~、一名様ですかぁ?」
    「客じゃない。ここのオーナーと話がある」

    女性店員はマサヒロの顔を見てから、厨房のほうを振り返った。

    「てんちょー!」

    奥のカウンターから、白いシャツに黒いエプロンの中年男が歩み出てきた。マサヒロの前で足を止める。

    「なんでしょう?」
    「オーナーとお話が……」

    店長はマサヒロの顔を凝視し、声を落とした。

    「マサヒロさん?」
    「ええ」
    「それでは、そこの廊下を進んで奥のスタッフルームへどうぞ…」

    店長が右手で通路を示した。マサヒロはドリンクバーの脇を抜け、廊下を奥へ進む。突き当たりのドアの前に立ち、ノックした。

    「はい」

    中から男の声がした。

    「マサヒロです」
    「どーぞー」

    ドアを開けて入る。机とパイプ椅子が並ぶ狭い室内で、奥の長椅子に座った男が携帯ゲーム機を握っていた。画面からエンジン音が小さく漏れている。男の指先がボタンを叩いた。

    「どうぞ、座って」

    白髪の交じった髪を後ろで結んだオーナーは画面から目を離さず言った。マサヒロは手前の椅子に腰を下ろす。

    「『マサヒロ』さんね。殺し屋の」
    「はい」
    「登髭から連絡あったときは、面倒ごとかと思ったけど」
    「ははは……」
    「まあ、なんかさ、仕事なくて大変なんだって?つらいよねえ今の時代」
    「ええ」
    「協力してあげたいよ、私もね。でもさあ、殺しの依頼ってそもそも少なくなってきてるの」
    「そうですか」
    「昔は皆野心があって、成功のため、復讐のため、独占のため、個人も企業もいろんな奴らが殺しの依頼してくれたけどさ。もう今はそういう時代じゃないみたい。どいつもこいつも牙ぬかれちゃってさ。ささやかな幸せってやつ?」

    オーナーは上体をゆっくり右に傾け、画面を見たまま言葉を続ける。

    「だから私もさ、申し訳ないんだけど殺しの仕事は回せないわけ」
    「そこをなんとか」
    「なんとかって言われてもないものはないんだし」

    マサヒロは視線を落とし、膝の上に両手を重ねた。

    「だから私が君に頼める仕事はさあ、殺しじゃなくて殺しになるかもって仕事なんだけど」

    マサヒロは頭を上げた。

    「なるかも?」
    「そう。運転免許持ってる?」
    「はい」
    「やってほしいのはねえ。取り立ての運転手兼用心棒。最近物騒でしょ?うちで面倒見てる闇金もさ、困ってるんだよ。取り立てに行くとさ、債務者がスタンガンで襲ってくるなんてこともあって。信じられる?怖いよね~」
    「はぁ……」
    「窮鼠猫を噛むってやつ?金貸して親切にしてそんな目にあうなんて、気の毒だよまったく。若いの二人送り込んでもさ、追い詰められた素人にいきなり襲われたら結構痛い目にあうのよね」

    ゲーム画面からスキール音が響き、赤い車体がスリップしてコース外の壁に衝突した。順位が下位へ落ちていく。

    「もー!今の避けたでしょー!でさ。君に護衛役として取り立てに行って欲しいの。銃は持ってるんでしょ?」
    「はい」
    「それは心強い。彼らは脅しのプロであって、殺しのプロじゃないからさ。銃の打ち方も知らないのよ。知ってたとしてあいつらに銃なんか支給したかないけどね」

    オーナーはゲーム機を机の上に置いた。

    「給料は一件につき一万円。どれだけかかっても一万。もし奴らが抵抗するなら銃で脅して。それでも歯向かうなら殺していいよ。殺したあとの始末はよろしく。明日から入れる?」

    マサヒロはゲーム機から壁の換気扇へ視線を動かした。喉の奥でひとつ、息を呑んだ。

    「……はい」
    「OK交渉成立!ああ、あと殺した場合は家の中に欲しいものがあったら、持ってっていいよ。それはボーナスってことで」

    マサヒロは立ち上がり、オーナーに一度頭を下げた。そのままドアを開け、廊下へ出てため息をついた。


    天井の蛍光灯が白い床を眩しく照らしている。
    家電量販店の「カメラ・映像機器」と書かれた吊り看板の下、マサヒロはガラスケースの周囲をゆっくりと往復していた。横から、青いポロシャツの店員が歩み寄ってきた。

    「カメラをお探しで?」

    マサヒロは足を止め、棚から視線を外した。

    「ああ、はい」
    「どういった用途のでしょうか?デジタルカメラか、ビデオカメラか」
    「監視カメラみたいなのが欲しいんです。室内に設置できる」
    「防犯カメラですか?それとも見守り……」
    「ああ!それです、見守りカメラ。介護に必要で」
    「見守りカメラでしたら、こちらの防犯コーナーですね」

    店員に連れられ、マサヒロは隣のコーナーへと移動した。

    「こちらの最新モデルは800万画素のAI検知搭載……」
    「あの、できるだけ安価なものがあれば……」


    自動ドアが開き、「ありがとうございましたー!」という高い声が背後に響いた。マサヒロは小さな箱を小脇に抱え、駐車場へ進む。セダンに乗り込み、助手席に箱を置いてエンジンをかけた。


    マサヒロは鍵を開けてリビングに入った。テレビの画面が発光し、バラエティ番組の音が室内に響いていた。その正面のソファで、母親が首を傾けたまま目を閉じている。マサヒロはリモコンでテレビを消した。

    テレビ台からテレビを音を立てないよう床に下ろした。テレビ台を両手で掴んで寝室へ引きずり込み、ベッドの足元の壁際に据える。再びリビングへ戻り、テレビを両端から抱えて運んだ。台の上に載せ、コードをコンセントに差し込んで動作を確認し、リビングのソファへ向かう。マサヒロは母親の肩に手を置いた。

    「母さん、ごめん起こして。おむつだけ替えてキレイにしよう」

    母親の瞼が微かに開く。

    「何?どうしたの?」
    「下、キレイにしよう。その方がすっきり寝られるだろ?」
    「ああ……あんた仕事は?」
    「仕事は……もう終わって帰ってきたんだ」
    「へー、こんな早くに終わって、もう少し働かせてもらえないの?大した稼ぎもない、マサヒロが可哀そうだよ」

    マサヒロはその身体を支え、風呂場へ誘導した。
    衣服を脱がせ、おむつを交換する。タオルで肌を拭い、衣服を着せてベッドに運んだ。母親は布団に身体を沈め、正面のテレビへ視線を向けた。

    「ん?」
    「テレビね。移動した。ここで寝たまま見られるように」
    「んー、新しいの買ったの?そんないいのに」
    「違う。前リビングに置いてたのを移動しただけ」
    「使い方がわからないよ」
    「大丈夫。前のと同じだから。リモコンここね」
    「知ってる……知ってる……」

    母親は再び目を閉じ、横を向いた。

    マサヒロはポケットから小さなカメラを取り出した。ベッド全体とテレビが見渡せる部屋の隅、タンスの上に設置する。
    スマホを起動し、説明書のQRコードを読み込んだ。


    駐車場に停められたセダンのボンネットが、昼の日差しを鈍く反射していた。マサヒロは運転席に座り、膝のスマホに視線を落としていた。画面には見守りカメラが捉えた薄暗い寝室が映し出されている。画面の端で、ベッドに横たわった母親の顔がテレビの光に青白く照らされ、胸元が小さく上下していた。

    助手席のドアが開く音がした。濃紺のスーツ姿の男が腰を滑り込ませてくる。男は黒い金属フレームの丸眼鏡をかけていた。ドアが閉まると、男はマサヒロに向けて右手を差し出した。

    「どうも、難波です」

    マサヒロはスマホをポケットに収め、革手袋の右手を伸ばしてその手を握った。すぐに引き、シフトをドライブに入れる。セダンは駐車場を出て、対向車の途切れた片側一車線の道路に合流した。

    車は住宅街の緩やかな傾斜を上っていく。難波は身体をわずかに左へ傾け、マサヒロの横顔を何度も覗き込むように視線を往復させていた。マサヒロは短く息を吐く。難波の口元が左右に広がった。

    「いやいや、こりゃ失礼。マサヒロさん、今も拳銃を?」

    マサヒロは正面を向いたまま、左手を伸ばしてダッシュボードのノブを引いた。蓋が開き、奥の暗がりに拳銃が収まっているのが見える。

    「おお!」

    難波の背中が座席から離れ、ダッシュボードへ右手が伸びた。

    「おい!」

    マサヒロの低い声が室内に響く。難波は指先を引っ込め、小さく両手を上げて笑った。

    「いや、すみません」
    「勝手なことはやめろ」
    「そうですよね、商売道具ですから。ただね、僕の少年の部分がね、でてしまって。こんな稼業をしても、なかなか銃や殺しを見る機会ってのはそうそうなくてね」

    難波は再び丸眼鏡の奥の目を細め、マサヒロの顔を見た。

    「マサヒロさん。僕の顔誰に似ていると思います?」
    「はぁ?」
    「僕の顔ですよ!正確にはこの丸眼鏡も含めた雰囲気!誰に似ていると?」
    「はぁ~」

    マサヒロはハンドルを握ったまま、一瞬左を向いた。

    「ああ……あれだ……昔やってたろ。世代じゃねえから詳しくねえが、NHKの子供むけの……」
    「わくわくさん?」
    「たぶんそれだ」

    難波は背中を座席に打ち付けた。

    「またこれだ!わくわくさん!違う!よく見てください!あのアーティストの!」
    「アーティスト?」
    「ジョン・レノン!」

    マサヒロはバックミラーと左の視界で交互に難波を確認する。

    「ジョン・レノンの眼鏡はもっと薄いだろ」
    「そうですかぁ?」

    難波は眼鏡を外してフレームの厚みを確認し、再びかけ直した。

    「ジョン・レノンに見られたいなら眼鏡を買い替えろ。あと髪を伸ばせ」
    「伸ばしたことはありますよ。しかしなかなか上手く伸びませんよねえ。女は自然と伸びるのに。男で長髪の芸人とかたまに見ますけど、あれ何年かかるんです?」
    「知らねえ」
    「はあ、わくわくさんか……いつもそうだ。誰に聞いても帰ってくる答えは、わくわくさんか、ご飯ですよのキャラ」

    難波はサンバイザーを下げ、裏面の鏡を自分の顔に向けて微調整した。

    「マサヒロさん。僕はアンタについて興味がある、ああそこ右ね」

    マサヒロはウィンカーを出し、黙ってハンドルを右に切った。細い路地に入る。

    「何が?」
    「いやあね、殺し屋になんて初めて会ったから」

    難波は鏡から目を離し、マサヒロを向いた。

    「どうやって殺し屋になったんです?」
    「どうって……」
    「例えば僕たちみたいなアウトローは、表の仕事じゃ物足りなかったり、受け入れ先がなかったり、それで流れ流れて、自然とこうなるわけですよ。でもね、殺しを生業にしようなんて思いもしない。だってそれは普通じゃないもの。マサヒロさんは何故?」
    「俺も流れだ」
    「あはは、流れ?」

    マサヒロは前方の狭い十字路を直進した。

    「流れって?」
    「流れは流れ」
    「ですから具体的に」

    マサヒロは速度を保ったまま、小さく息を吸った。

    「はぁ~……若いときに弾みで殺した。その後は捕まらないように生活して……こうだ」
    「へ~!そのまま真っ直ぐ」

    難波は小さく頷き、前方を指さした。

    「これまで何人殺したんです?」

    マサヒロは口を閉じたまま運転をする。

    「答えたくないですか?それとも覚えてない?」
    「うるさいな」
    「ふふふ~。言いたくないなら構いませんよ。じゃあ!殺した時の感覚を教えてくださいよ。感情とか心情とか、あれ?どっちも同じか?あ、停まって!」

    セダンが速度を落とし、路肩に沿って停止した。

    「このアパートか?」
    「へい。そうです」

    難波はドアを押し開けて外へ出た。マサヒロは左手を伸ばしてダッシュボードを開け、拳銃を掴み出した。内ポケットに滑り込ませた。

    外廊下に淀んだ空気がこもり、コンクリートの床が白く乾いている。難波は緑色の鉄扉の前に立ち、手のひらで連続して叩いた。

    「橋本さーん!橋本さーん!」

    室内からの反応はない。難波は上半身を回し、マサヒロへ顔を向け、両肩をすくめた。そのまま腰を落とし、扉の郵便受けの蓋を指先で押し開ける。隙間に顔を近づけて声を張った。

    「橋本さーん。居留守でしょー?知ってますよー!今日はねー、こわーい兄さんも連れてきてるんですよー。別にこっちが無理矢理こじ開けて入ってもいいんですよー」

    返事はない。難波は短く息を吐き、立ち上がりざまに右足で鉄扉を蹴りつけた。激しい金属音が廊下に響く。

    「いい加減にしなさいよ!アンタがその気ならこっちもやることやりますよ!この郵便受け、ゴキブリの死骸で詰めましょうか!?いや、アンタのとこだけじゃない、ご近所さんにも同じことしてやりましょう!やりましょうね~!!」

    内側からカチャリと音がして、ドアノブが回転した。難波は振り返り、声を落とした。

    「オーナーの店行ったでしょ?よく湧くんですよ。僕はあそこで飯は食いません」

    難波が扉を開け、二人は室内へ入った。六畳間の床には、弁当殻や潰れたペットボトル、雑誌の束が膝の高さまで積み上がっている。
    奥の煎餅布団の上に、灰色のスウェットを着た中年男性と、白髪混じりの高齢の女性が並んで座っていた。

    「橋本さーん、最初からこうしてくれれば~」

    橋本は両膝を抱え、二人の足元に目を落としたまま、小刻みに震えていた。その隣で母親がマサヒロを正面から睨みつける。マサヒロは足を止め、その顔を凝視した。難波がゴミの山を跨いで一歩進み、スマホを取り出した。

    「もう期限は過ぎておりますよ。利息含め200万」
    「そんな金はない……」

    橋本の喉が小さく鳴る。

    「ないじゃ困りますよ。『はいそうですか、では後日』で終わると思います?」

    橋本は頭を左右に振った。隣の母親が突然、甲高い声で叫んだ。

    「私たちにかまうな!出ていけ!」
    「何を言ってるんですかお母さん。僕たちは好きでこんなことしてるわけじゃないんですよ?おたくのドラ息子が返せないもの借りてこんなことになってるんでしょうが」

    難波はテーブルの端に尻を乗せ、両足を軽く揺らした。

    「今いくらある?」
    「見りゃわかるだろ……こんな部屋に金は……」
    「全くないわけはないでしょ?」

    「警察を呼ぶぞ!!」

    母親が再び叫び、布団の上に両手をついた。 難波は天井を仰ぎ、小さくため息を吐き出した。

    「マサヒロさん。お願いします」
    「お前らのやってることは違法だ!!」
    「あのババア黙らせて」

    マサヒロの視線が叫び続ける母親に固定される。白髪の隙間から覗く頭皮、目元のシワ、頬のシミ。

    「マサヒロさん……!」
    「いいのよ、お金なんか返さなくたって!」
    「マサヒロさん!!」

    難波が再度声をかける。マサヒロは一歩踏み込み、拳銃を引き抜いた。銃口を母親の喉元へ押し当てた。

    「ひっ……」

    母親が両手を振り上げ、銃を払いのけようと腕を伸ばした。マサヒロはその腕を肘で払い、そのまま布団の上へ押し伏せた。

    「ああああ!」

    母親の口から短い悲鳴が上がる。

    「お袋!!」
    「静かにしろ」

    マサヒロは低く言った。 難波がテーブルの上で足を組み替える。

    「銃はおもちゃじゃない、ものほんよ。そっちの兄さんはね、『そういう』プロ。凄腕の。ねぇ?」

    マサヒロは左手で母親の白髪を掴み、頭部を布団に固定したまま銃口を肉にめり込ませる。目から涙が溢れ、シワを伝って落ちていく。

    「うううう!」

    難波はスマホを指先で弾いた。

    「まあ正直、そんな婆さん殺したって一円の得にもなりゃしないから、やりたくはないんだけどね。でも橋本さんアンタは違う」
    「え?」
    「あんた、生命保険に入ったのお忘れです?受取人は……僕たち」

    橋本の喉が大きく上下した。

    「ん~、想像力が足りないというか……そこまで頭が回らなかったのですか?担保もないのに僕たちが貸すわけないでしょお。ねえ?」

    マサヒロは白髪をさらに引き、顔面を布団に圧着させた。難波が上体を前に傾ける。

    「もう一度聞きますよ?今本気で工面しようとしたらいくらあります?」
    「30……」
    「ええ!?」
    「5……いや60万なら……60万ならなんとか!でもそれ以上は!」
    「手元にある?」
    「いえ、口座に少し、それから……その……友達に借りれば……」
    「あとの140は?」
    「60が限界ですって!」
    「そんなことないでしょー、消費者金融周りなさいよ。それができないならブチ殺してもいいんですよ」

    橋本は細く息を吐き、頭を下げた。

    「……じゃあ消費者金融に」

    難波はテーブルから床へ降りた。

    「よろし!それじゃあ行きましょう!これ以上ここにいても無駄だ!それに臭いよここ」

    難波は橋本の襟元を掴んで立ち上がらせ、玄関へ引き連れていった。マサヒロは拳銃をポケットに収めた。布団に顔を伏せたまま肩を震わせて泣いている老女の背中を数秒見つめ、二人の後を追って部屋を出た。


    街灯の白い光がフロントガラスに映り込んでいる。夜の幹線道路沿いに停まったセダンの中で、難波は茶封筒から一万円札を二枚抜き出し、マサヒロの前に差し出した。 

    「はいお疲れ様でした。二件無事に終わりましたねえ」

    マサヒロはそれを受け取り、ポケットに収めた。

    「ああ」
    「三件目はほんとにお留守でしたね。こんな時間に何やってんだか」
    「さあ」
    「それじゃあ僕はこれで。明日は20時からでお願いします。ちょっと遅めで」

    難波はドアを開けて車を降りた。その背中が街灯の向こうへ消えていく。


    マサヒロは煙草を取り出し、火をつけた。一服してからスマホを取り出した。ロックを解除し、アプリをタップする。画面に寝室が上からのアングルで映し出された。毛布の下で母親の背中が丸まったまま静止している。毛布がかすかに動いているのを見届けて、画面を消してスマホを助手席に置いた。



    マサヒロは目を覚ました。一階に降りると、玄関の方から物音が聞こえた。玄関で母親がしゃがみ、サンダルを履いている。マサヒロは薄暗い廊下に立ち、その背中を見下ろした。

    「おいおい、どこ行くんだ?」

    母親は振り返らず、ドアを見つめたまま呟いた。

    「どこって……買い物」

    母親は立ち上がり、鍵の閉まったドアにもたれるようにして立った。 ドアノブに手をかけ、何度か上下に動かす。しばらくして、母親の手がノブから離れた。

    マサヒロは「ふう……」と漏らし、一歩踏み出して母親の脇から手を伸ばした。金属製のつまみを指先で掴み、右へ回す。チェーンを外して、ドアが外へ開いた。

    「少し散歩しようか」

    マサヒロが先に出ると、母親は引きずられるようにして後に続いた。


    木漏れ日が揺れる道を、二つの影がゆっくりと進む。母親の歩幅は短く、数歩ごとにサンダルが地面を擦った。マサヒロはその半歩後ろで、速度を合わせて歩いた。

    緑色の塗装が剥げた鉄のベンチがあった。その向こうに、色褪せたプラスチックの滑り台が見えた。

    「そこで休憩しよう」

    マサヒロが指差したベンチに、二人は並んで腰を下ろした。木々の隙間から漏れる光が、母親の顔に深く刻まれた皺を照らす。衣服からは微かに尿の混じった臭いが漂っていた。誰もいない砂場に、母親の目が止まっている。

    「マサヒロ、学校は?」
    「もう卒業した」
    「そうだよ。もう卒業した。知ってるよ。不動産屋さんになって、立派になって」

    母親はゆっくりと首を傾け、顔を下へと向けた。 膝の上に置かれた細い手を、じっと見つめている。爪の隙間に黒い汚れが残っていた。

    「家にお金も入れてくれて立派だよ。でも、もういいよ」
    「なんで?」
    「どうせ、お父さんの薬代になるでしょ?あの人、どれだけ飲んでも治りゃしないのに」
    「……そうだね」
    「治りゃしないよ。あれだけ酒ばっか呑んで、どうしようもない。自分のために使いなよ自分のために」

    広場の向こうで、幼い子供を連れた若い男女の家族がボールを蹴り合っている。子供が転がるボールを追いかけ、大人の二人がそれを覗き込むようにして笑った。高い歓声と、それに応じる笑い声が風に乗って届いた。 マサヒロはその家族を眺めた。

    「別に、いいよ……」
    「そう?本当に気の毒だよ。自分の部屋すらない。大学にいかせる学費もない……」

    母親の言葉がふっと途切れた。 顔を小さく顰め、膝をぴったりと閉じる。そのまま交互に踵を浮かせ始めた。両手は強く握られ、膝の上で震えている。
    マサヒロは立ち上がり、母親の前に立って手を差し出した。母親がその掌にカサついた手を重ねる。マサヒロがゆっくりと引き上げると、母親の身体は軽い音を立ててベンチを離れた。二人は再び、歩調を少し早めて歩き始めた。


    雲の隙間から傾きかけた夕日が、アパートの鉄骨階段を赤く染めている。路肩にセダンを停めた。
    マサヒロは運転席から降り、外廊下を進んでドアの前に立った。インターホンのボタンを押す。室内から電子音が響いた。

    「はーい!こんにちは~」

    ドアノブが回り、開いた隙間から吉岡が顔を出して頭を下げた。マサヒロも口角をわずかに上げ、小さく一礼する。

    室内に入ると、居間のテーブルのおもちゃが片付けられ、中央に空間が作られていた。吉岡が廊下から段ボール箱を両腕で抱えて運び込み、テーブルに置いた。箱の底に白い封筒が1つ載っていた。

    「その中に5500円。あと売れ残りがその梅柄の食器とCDプレイヤー。CDプレイヤーは眼鏡かけたお客さんが『もう少しレトロだったらな~』って言ってました」
    「ははは、半端が一番難しいですね。本当にありがとうございました。それじゃあ俺はこれで」

    マサヒロは封筒を手に取り、箱を抱えた。 吉岡はキッチンへ視線を向けた。

    「あのケーキありますけど、どうですか?」
    「いやいや、そんな!」
    「実は今日ヒナの誕生日で」
    「へー!」
    「だからお休みとって奮発して、買ってきたんです。いろいろありますから」
    「でも俺は……」
    「きっとヒナも喜びますよ。いろんな人に祝ってもらえたら」

    吉岡は壁の時計を確認した。四時。

    「お迎えの時間なんですけど、一緒にいきます?」


    緑のフェンスに囲まれた保育園の正門前に、二人は並んで立っていた。門の奥から、子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。
    園舎の玄関が開き、ピンクのエプロンをつけた佐久間先生が、ヒナの手を引いて姿を現した。 ヒナは二人を見つけると、靴を鳴らして駆け出した。

    「ママ!」
    「ヒナ―!」

    吉岡が膝をついて両腕を広げ、飛び込んできたヒナの身体を受け止めた。ヒナの首からは、金色の折り紙でできた丸いメダルが紐でぶら下がっていた。

    「見てこれ!お誕生日メダル」
    「よかったねー!」
    「佐久間せんせーがきらきらのシール貼ってくれたー!」
    「わー、綺麗!お礼は言った?」
    「いったよー!ありがとうありがとうありがとう!!」

    佐久間先生が口元を緩めて「どういたしまして」と会釈を返す。吉岡が立ち上がり、ヒナの手を握って歩き出した。マサヒロはその2歩後ろを追った。

    「今からケーキだねえ。ママ色んな種類買ったよ」
    「なに?」
    「帰ってからのお楽しみ」
    「チョコのある?」
    「ん~、ある!ねえ、木戸さんにもお祝いしてもらおっか」
    「うん!」
    「じゃあケーキ一個あげてもいいよね?」
    「いいよ!チョコのは駄目!」
    「ははは」

    マサヒロのポケットでスマホが振動した。取り出して画面を覗くと、難波からメッセージが届いていた。

    『20時って話でしたがちょっと早めにこれます?』

    返信を打たないまま、画面が暗くなった。マサヒロは吉岡とヒナの背中に一度目を上げ、それからもう一度スマホへ視線を戻した。

    「あー……そのすみません。俺ちょっと仕事の予定が……」
    「ああ、そうですか」
    「お仕事なにしてるの?」

    ヒナが足を止め、マサヒロを見上げた。

    「お仕事……?お仕事はねえ……運転手さん」
    「パトカー?」
    「いや違うよ。ごめんねヒナちゃん。おじさん行かなくちゃいけないから。お誕生日おめでとう」
    「ありがとう!ケーキはヒナが全部食べるからさー、今度教えてあげる!」
    「はは、楽しみにしてるよ。それじゃあ吉岡さん。フリマのありがとうございました」
    「いえいえ」
    「では」

    マサヒロは会釈してから反転し、路肩のセダンへ歩いた。運転席に身体を沈め、キーを回した。バックミラーに、吉岡とヒナの姿が映っていた。


    夕暮れの街路灯の下、助手席のドアが開き、難波が腰を滑り込ませてきた。ドアが閉まる音と同時に、マサヒロはアクセルを踏み込む。 セダンがゆっくりと加速し、幹線道路へと合流した。

    「電話したらですね、妙に焦った声で切られまして。それ以来繋がらないんですよ。夜逃げする気かも、なんて」
    「そうですか」
    「逃がしゃしませんよね~。そんな卑怯なこと、許されるわけないんですから」

    難波はシートに背中を預け、正面に目を向けたまま言葉を続けた。

    「ねえ、マサヒロさん。何か気づきません?」
    「何が?」
    「ほら」

    マサヒロはバックミラーとサイドミラーを確認する。後続の車はない。

    「何も問題ないようだが」
    「違いますよ。僕のことです!ほら」

    マサヒロはハンドルを握ったまま、一瞬左を向いた。

    「眼鏡……」
    「そう!マサヒロさんの言う通りフレームを薄くしたんですよ!どうです?これでワクワクさんではなくなったでしょ?」
    「そうだな」
    「あ!そこで停めて」

    難波の人差し指がフロントガラスの左隅を指した。

    ひび割れたモルタル壁の平屋の前で、セダンが停止した。二人は車を降り、湿った土を踏んで玄関に向かった。 引き戸の前で、難波がインターホンを連打する。

    「福田さーん」

    室内からの反応はない。難波が引き戸に手をかけ横へ引くと、ガラガラと建付けの悪い音がして数センチ開いた。

    「福田さーん!」

    静寂が戻る。難波は短く息を吐き出すと、開いた隙間から薄暗い屋内に足を踏み入れた。マサヒロもその背後から続く。カビと埃の混じった空気が鼻腔を突く。足元では、ちぎれた雑誌やゴミ袋が靴底でカサカサと鳴った。

    「福田さーん!クソ!」

    難波のつま先が雑誌の山に引っかかり、軽く躓いた。体勢を戻した難波が壁を手探りし、スイッチを押し上げる。 天井の裸電球が黄色い光を放った。 部屋の奥に、高齢の男性――福田が背中を壁に押し当てて立っていた。濁った目が二人を捉え、細い胸が波打ち、荒い呼吸が室内に響いた。

    「福田さ~ん。いるなら返事してくださいよ」
    「お前、お前ら……!」
    「隠れたって意味ないですよ?逃がすわけな」

    マサヒロの視線が、福田の右腕に落ちた。肘が後ろへ引かれ、手のひらが背中の暗がりに隠れている。指先が微かに動いた。

    「伏せろ!!」

    マサヒロの叫びと同時に、難波が頭を抱えて床へ伏せる。福田の右腕が大きく振りかぶられ、包丁が難波めがけて投げつけられた。刃が空気を切り、難波の頭上をかすめて背後の柱に突き刺さった。

    マサヒロは右手を上着の内ポケットへ滑り込ませ、黒い拳銃を引き抜いた。
    銃声が一度、狭い室内に炸裂した。
    銃弾は福田の首の右側面に命中した。皮膚が裂け、鮮血が襖へ放射状に飛び散る。福田は上体を傾け、畳に突っ伏して動かなくなった。難波がゆっくりと頭を上げ、膝をついたまま死体に視線を向けた。爪先で福田の細い足首を軽く突く。

    「殺したんですか?」
    「とっさだった……反射で……」
    「すごい!ははは!見てくださいよ!うわ~死んでますよ!」
    「早くなんとかしないと」
    「いやあ!ありがとうございます!先生がいなけりゃ僕は死んでたかもしれないですよ。流石です」

    難波が死体の衣服に手を伸ばした。

    「触るな!ちょっと待ってろ!適当にそこら辺のゴミ掃除して、場所開けておけ!」

    マサヒロは拳銃をしまい、外へ出た。セダンの後部座席から黒いアタッシュケースを掴み、ゴミの山を跨いで戻る。難波は死体の傍らに立ち、プラスチック屑や雑誌を部屋の隅へ蹴り広げていた。畳の上が一畳分ほど露出している。
    マサヒロは柱に突き刺さった包丁を力任せに引き抜き、振り返って福田が倒れていた付近の壁に刃先を何度も突き立てた。土壁が削れ、茶色い粉が床に落ちる。マサヒロは包丁を引き抜き、別の壁面に移動してさらに数箇所、刃先を突き刺して穴を開けた。

    「何してるんです?」
    「さあな。俺もわからん。それが目的だ」

    マサヒロは死体の横にしゃがみ、まだ硬直していない福田の右手に包丁を握らせた。その腕を動かし、刃先を左手首に押し当てて引く。赤い筋が広がり、畳に滴り落ちた。 難波がその手元を上からのぞき込む。

    「うわあ……」

    マサヒロは包丁を首の傷口に当て、鋸を引くように数回往復させた。肉が裂け、新たな血が広がる。マサヒロは立ち上がり、ケースからノミとハンマーを取り出した。銃弾がめり込んだ壁に向き直り、ノミの刃先を弾の周囲に当ててハンマーで叩き、土壁を崩していく。露出した弾をノミの先でこじり出し、ケースに収めた。マサヒロは福田の頭髪を掴み、削り取ったばかりの壁の傷跡に頭部を数回叩きつけた。

    鈍い衝撃音が室内に響く。作業を終えたマサヒロは新品の煙草の箱を取り出し、ビニールを剥いて一本抜いた。残りの箱を福田のスウェットの胸ポケットへ差し込む。

    「散らかせ」
    「え?」
    「散らかし直せはやく!」

    難波は両手を広げ、先ほど隅に寄せたゴミの山を再び畳の中央に足でばらまき始めた。マサヒロはそのプラスチック屑を踏み鳴らしながら、部屋を出て廊下へ進む。

    「早くこい!長居するな、もう行くぞ!」

    難波は室内を見回してから玄関へ走った。マサヒロは煙草に火をつけ、引き戸の横の雑誌の束の上に、火種を置いた。

    二人は平屋を出て、路肩のセダンへ乗り込んだ。ドアが閉まると同時に車体が発進し、夕暮れの路地を抜けていく。難波が助手席からマサヒロの横顔を見た。

    「大丈夫なんですかね?」
    「何が?」
    「あれで、証拠とか」
    「さあな」

    マサヒロはアクセルを踏み込み、速度計の針を上げた。

    「生活が生活だ。錯乱して自殺って線になるようにしたが、いつか警察は気づくだろう。時間稼ぎだ」
    「そうですか」
    「孤独な貧乏老人だ。警察も本腰では捜査しない。希望的観測だがな」

    街灯の光が途切れた、薄暗い交差点が近づく。

    「適当にカメラのないところで降ろすぞ」
    「ええー」
    「あと後部座席に置いてある服を着ろ。それで帰れ。できるだけ人ごみに混ざるんだ。帰ったら服は見つからないように捨てろ」
    「マサヒロさんは?」
    「俺はこの車を処分する」
    「へ~」

    マサヒロは拳銃をダッシュボードの奥に格納して蓋を閉め、聞いた。

    「金は?」
    「へ?」
    「俺の取り分!」
    「いやー、そりゃあこっちも命救われましたし、感謝はしてますよ?でも、ですねえ。マサヒロさん、福田を殺しちゃったじゃないですか」
    「ああ、だから生命保険が……」
    「福田のじーさんね、保険に入れたの、つい一年前なんですよ。保険屋が自殺だと判断したら免責で一円も……ほら、マサヒロさんが綺麗に工作してくれたから」
    「つまり、払う気ねえのか?」
    「払う気というか……返済されなきゃ渡せないといいますか」
    「クソっ!」

    マサヒロは右手のひらでハンドルを強く叩いた。難波が上着のポケットから、プラスチック製の四角いケースを数枚取り出した。

    「なんだそれ?」
    「CDですよ。床から拾ってきました」
    「はあ?なんで!?」
    「なんか手ぶらで帰るのも癪だなって」
    「そんなもの一円にもならないだろ!!」
    「わかりませんよーレアもの混ざってるかも」
    「バカが……」
    「いいでしょCDくらい。証拠になっちゃいます?CDが?」

    マサヒロは鼻から深く息を吐き出した。

    「いらないんですか?」

    難波がケースを扇状に広げ、マサヒロの視界に差し出す。蛍光灯の光を反射するプラスチックの表面、色褪せたジャケットの中に、高倉健の顔写真と『網走番外地』の文字が並んでいるのが見えた。マサヒロは左手を伸ばしてそれをひったくり、ダッシュボードのノブを引いて中へ放り込んだ。


    街灯のない山中の道。舗装は途中で途切れ、雑草に呑まれかけた道の先は、ダム湖へ落ち込む急斜面だった。難波をすでに降ろしたセダンが雑木林の影に停止した。マサヒロは車を降り、ドライバーでナンバープレートをネジごと引き剥がした。トランクを開け、アタッシュケースにプレートをしまった。ギアをニュートラルに入れて斜面に向けて車体を押した。砂利が鳴り、セダンは斜面を滑り落ち、暗い水面に消えた。水柱が上がり、波紋だけが残った。

    マサヒロはアタッシュケースを右手に提げ、草の生い茂る山道を徒歩で歩き始めた。上着のポケットからスマホを取り出し、画面のロックを解除する。見守りカメラのアプリを開いたが、画面には「圏外」の文字が表示され、映像は映らなかった。

    画面を消し、ポケットに戻した。荒い呼吸が夜の山林に響き、革靴が湿った土を踏みしめる音が続いた。


    朝の光が、瓦屋根を照らしている。玄関アプローチには、濡れた落ち葉が数枚散らばっていた。マサヒロは門扉をくぐり、玄関ドアの前で革靴の側面を段差に打ち付け、靴底の泥と木の葉を落とした。 ノブを回して中へ入り、鍵を掛けた。

    廊下を進み、寝室を覗く。ベッドの上で母親が横向きになり、寝息を立てていた。マサヒロは短く息を吐き、戸を閉めて自室へ向かった。金庫のダイヤルを回して拳銃を収め、鍵を閉める。アタッシュケースをパイプベッドの下へ押し込んだ。上着を脱がずにベッドへ倒れ込み、目を閉じた。


    電子音が室内に響いた。マサヒロは枕元を手探りし、鳴り続けるスマホを掴むと、そのまま画面をなぞり耳に当てた。

    「はい……?」
    『あのー伝言ですうー』
    「吉岡、さん……?」
    『違います~ヤミーヤミーですーファミレスの~。オーナーからの伝言でぇ』
    「ああ……」
    『しばらくお仕事はお休みだそうですー。ゆっくりしてくださーい』
    「ちょっと」

    通話が切れた。マサヒロは上体を起こし、廊下へ出て母親の寝室の戸を開けた。アンモニアと便の臭気が漂い出る。口元を手で覆い、テレビが最大音量で唸っている部屋へ入った。

    「母さん」
    「んー」

    布団の上に座り込んでいた母親が、テレビに顔を向けたまま生返事をした。

    「遅くなったごめん。下、替えよう」

    母親の腕を掴んで立ち上がらせ、風呂場に誘導する。温水を出し、衣服を脱がせて下半身を洗い流した。

    台所の椅子に母親を座らせ、白米と焼き魚のパックをテーブルに置く。昨日の昼に包みを開けて置いていったおにぎりが、そのままテーブルに残っていた。母親は両手を膝に置いたまま動かない。

    「母さん食べて」
    「私さっき食べたよ」
    「食べてない。昨日まともに晩ご飯食べてないだろ?俺が遅くなったから」
    「食べたくないよ」

    マサヒロはスプーンを取り、焼き魚の身をほぐした。

    「ほら、お腹空いたろ?食べた後に薬飲むから」
    「いいよ、そんな。私さっき食べたんだから」
    「だめだって」

    奥の寝室からテレビの音がさらに高く響いた。マサヒロはスプーンを置いて廊下を戻り、ベッドに転がっていたリモコンを拾って音量を下げる。 画面が切り替わり、青い背景に白文字のタイトルが表示された。アナウンサーの音声がスピーカーから流れる。

    『今日未明、保育士の佐久間美咲さんが自宅で死亡しているのが見つかりました。警察によりますと、頭部にはゴルフクラブのようなもので殴られたとみられる傷があり――』

    マサヒロは画面の前で動かなくなった。
     


    昼前の住宅街。マサヒロは路地を走り続けた。右手のスマホには吉岡の名前と「発信中」の文字が表示されているが、応答はない。

    アパートの見える角を曲がると、前方にパトカーと中継車が数台停まっていた。カメラを担いだ男たちやマイクを持った男女が、フェンスの周囲を行き来している。上空ではヘリコプターが1機、アパートの真上をゆっくりと旋回していた。

    「木戸さん」

    鉄骨階段の陰から、吉岡がゆっくりと歩み出てきた。マサヒロは足を止め、膝に手を置いて息を吐いた。

    「はぁ……はぁ……あの……ニュースを……見て……」

    吉岡の目から涙が溢れ、頬を伝って顎の先からアスファルトへ落ちた。

    「あの、ヒナちゃんは……?」
    「ヒナにはまだ伝えてません。どう言えばいいのか……わからなくって」
    「そうですか……」
    「ほんとにひどい……優しくていい先生だったのに……」

    吉岡が一歩進み、マサヒロの胸元に顔を埋めた。マサヒロは両腕を下げたまま、吉岡のつむじをただ見つめ続けた。


    自動ドアが開き、マサヒロが受付カウンターに歩み寄った。奥には制服を着た女性が座っている。マサヒロは身を乗り出した。

    「寺田はいるな!?」
    「すみません、お帰りください」
    「いるんだろう!?」

    マサヒロは受付を回り込み、エレベーターホールへ向かった。上向きのボタンを強く押す。女性が椅子から立ち上がり、早足で追ってきた。

    「ちょっと!警察呼びますよ!」
    「好きにしろ」

    ドアが開き、マサヒロは乗り込んだ。閉ボタンを連打する。ドアが閉まり、駆動音とともに床が微かに振動した。

    4階の表示灯が点灯し、エレベーターが開く。廊下の突き当たりのドアに「グローバル・キャリア」のプレート。 マサヒロがそのドアを開けて入ると、デスクでキーボードを叩いていた寺田が顔を上げた。

    「マサ!てめえ何でこ……」

    マサヒロは拳銃を引き抜き、デスクを跨いで寺田の頭頂部へ銃口を押し付けた。頭皮が丸く凹む。寺田は叫んだ。

    「お前!イカれたか!?」
    「イカれてんのはてめえだ寺田!登髭に殺しをさせただろ!あの保育園の!」
    「ああ!そうだ!それが何だ!?てめぇに何の関係がある!?」

    マサヒロの口から荒い息が漏れた。

    「ニュースになってるぞ!?」
    「そりゃあなるだろうな!だから何だ!登髭がヘマしたとでも?あいつが捕まって俺たちも売られるのが怖いのか?」
    「そうじゃねえ!」
    「じゃあ何だ!何しにきやがったクソ!正気じゃあねぇ!」
    「なんでだ!?」
    「はあ?」
    「なんであの保育士を殺した!?」
    「知ってどうする!?」

    寺田の額から汗が流れた。マサヒロは銃口を下ろし、寺田の口の中へ突き込んだ。前歯に金属が当たるカチリという音が響く。

    「じゃあ用無しだ、死ね」

    寺田の両手がマサヒロの手首を掴もうと動いた。マサヒロは銃口を引き抜くと同時に寺田の胸を突き飛ばした。椅子が後方へ転倒し、寺田の身体がカーペットへ叩きつけられる。マサヒロは寺田に馬乗りになり、両上腕を膝で踏みつけた。再び銃口を唇の間に割り込ませる。

    「言うか?どうだ?」

    寺田の首筋に血管が浮き上がり、頭が小刻みに揺れた。

    「三秒で決めろ、三──」
    「もほはへは!」

    マサヒロは銃口を引き抜いた。寺田が激しく咳き込む。

    「元カレだ!依頼主は!振られた腹いせだ!」
    「名前は?」
    「小松。下の名前はー、えー……気になるならそのPCを見ろ!」

    マサヒロは上体を起こし、デスクのパソコンに視線を向けた。画面には顧客管理のスプレッドシートが表示されている。

    「職業はディーラーだ。高級輸入車の……」

    マサヒロは立ち上がり、デスクの前に回り込んで方向キーを操作した。床から起き上がった寺田が、ネクタイを緩めながら大きく息を吸う。

    「マサ。てめえは自分が何をやってるか分かってんのか!?」

    マサヒロは黙ってスクロールを続けた。

    「分かってねえようだな!どうするつもりだ?」

    カーソルが一つのセルで止まる。

    「そいつを殺すのか!?」

    マサヒロは操作を止め、デスクのペンを取った。画面に表示された勤務先店舗と所在地を、左手のひらに素早く書き写す。ペンを戻し、ガラス扉へ歩き出した。

    「マサ!」

    マサヒロは扉の手前で足を止め、振り返った。寺田の声が背後から響いた。

    「俺が誰と繋がってるか忘れたか?お前や登髭みてえな殺し屋どもとパイプを持ってんだ。今自分がしたことを思い返してみろ。次にどうなるか……分かってんだろうな!?」

    マサヒロは答えず、扉を押し開けて去った。


    ガラス壁の向こうに、漆黒のSUVや深みのあるネイビーのクーペが複数台、スポットライトを浴びて並んでいる。タイル張りの床を、胸に「小松」と入ったネームプレートをつけた茶髪の男が、タブレットを操作しながら歩いていた。
    自動ドアが滑らかに開き、マサヒロが静かにショールームへ足を踏み入れる。

    「いらっしゃいませ!」

    小松が顔を上げ、歩調を早めて笑顔で歩み寄った。マサヒロは小松の前腕を掴み、引き寄せてその耳元に顔を寄せた。

    「お前が保育士に何をしたか知ってるぞ」

    小松の視線が周囲の商談スペースに動いた。声を張り上げる。

    「三井さーん!」

    マサヒロは胸ポケットへ手を差し入れ、銃口を上着越しに小松の腹へ押し付けた。

    「考えて行動しろ。俺はプロだ。わかるだろう?お前が依頼した奴らと同類だ」

    フロアの奥から、グレーのスーツの男――三井がこちらへ歩いてくる。マサヒロは銃口を押し付けたまま言葉を続けた。

    「適当に車を出せ」

    小松は三井に向け、右手を水平に振って制した。

    「私このお客様と試乗にでますので……!よろしく……お願いします!」

    二人は並んでガラス壁の際を歩いた。

    「おすすめは?」
    「こ、こちらのSUVですと、最新モデルでして……」

    マサヒロの視線が奥のセダンで止まった。

    「あの隅のセダンにしろ」

    マサヒロの指さす灰色のセダンに、小松は無言で歩いた。運転席のドアを開け、乗り込む。キーを差し込み、エンジンを始動させた。小松が助手席に移動し、シートベルトを留めた。マサヒロは運転席に腰を下ろし、シフトをドライブに入れた。車体が発進し、ショールームの外へ出る。


    四車線の幹線道路を、セダンが車の流れに合わせて進んでいく。小松の額から汗が流れ、視線が何度もマサヒロの横顔へ動いた。

    「あの……」

    マサヒロは前方を見つめたまま、アクセルペダルを踏み続けた。 住宅街を抜け、錆びたトタン壁の倉庫が並ぶ埋立地の路地に入った。マサヒロがブレーキを踏み、セダンが停止する。

    「降りろ!」
    「へ」
    「降りろっつってんだ!!」

    小松はシートベルトを外し、ドアを開けてよろめきながらアスファルトに降り立った。マサヒロも降り、ボンネットを回り込んで小松の前に立った。

    「両手を挙げてしゃがめ」
    「そんな……やめてください!」

    マサヒロは右手を伸ばし、黒い拳銃を小松の顔面に突き付けた。小松は両手のひらを耳の横まで上げ、膝を折って地面に腰を落とした。目元から涙が流れ、頬の汗と混じる。

    「お前が殺しの依頼をしたんだな?」
    「うう……」
    「質問に答えろ」
    「何のことか」

    マサヒロは撃鉄を引き絞った。カチリと乾いた金属音が響く。

    「ひっ……!」
    「こっちは全て把握してる。これはただの確認だ。しらばっくれるな」

    小松は唇を震わせたまま答えなかった。

    「答えろ」
    「そうだ!そうだ……なんでこんな……」
    「付き合ってたらしいな」

    小松の喉から声にならない音が漏れた。

    「振られた腹いせと、あってるか?」
    「ううう……」
    「あってるかって聞いてんだ!!」
    「ああ!!」

    小松は両手で顔を覆い、地面に頭を近づけて声を上げた。

    「いやだぁあああ!!」

    マサヒロは銃口を小松の頭頂部に向けたまま動かなかった。数秒後、深く息を吐き、銃口を下ろした。

    「どうやって殺し屋に依頼した?」

    小松は激しくしゃくり上げた。

    「答えろ」
    「そ、それは……依頼というか偶然みたいなもんで」
    「説明しろ。全て」

    小松はしばらく嗚咽を繰り返した後、顔を上げずに口を開いた。

    「客だ」
    「は?」
    「ある日、店に客が来た。杖をついたじーさんだった。正直、運転なんて勘弁して欲しいような年齢のな。同僚も扱いかねてたが、俺は違う。靴も時計も仕立てもひと目で分かる本物だった。相当な金持ちだと。だから俺はいつも通りに接客した。あの店で一番イカすスーパーカーを提案して、試乗に誘った。そしたらじーさん、俺の両手を握ってこういったんだ『君は人を差別しない。今時珍しい青年だ』って。それから気に入られて、何度も高い飯に連れていってもらった」

    小松は乾いた唇を舌で湿らせ、マサヒロの表情を窺う。声を震わせながら続けた。

    「そのじーさんが入居してる老人ホームのバーベキューにも招待された。行ってみてぶっ飛んだ。ネットで見たことある政治家や社長、有名な金持ちがゴロゴロいた。俺は必死に取り入ろうと、うまい酒をあおりながら話し込んだ。そこで、酔った勢いで愚痴を言っちまったんだ。『最近彼女と別れた。あんなクソ女死んだ方が世のためだ』」

    嗚咽の合間に、小松は首を項垂れてアスファルトを見つめた。

    「そしたら、隣にいた男がこう言った。『もし殺しの依頼をできるならいくら払える?』。俺は、笑いながら答えた。『あいつを消してくれるなら200は出すね』って。みんな笑うと思った。だが誰も笑わなかった。場が静まり返ったのさ。 そしたら、あのじーさんが小切手を取り出して、俺にペンを握らせた。『それでこそ男だ』ってな。どうやら冗談じゃなかったみたいだ」
    「それで?」
    「……引けなかった。じーさんも、周りの連中も、黙って俺を見ていた。だから切った。200万。震える手で」

    マサヒロは再び右腕を伸ばし、銃口を小松の額に向けた。

    「こっ……これが、これが全部だ!ニュースを見た時は腰が抜けた……マジで、現実になって……やりやがったって」

    小松の肩が震えた。

    「くそお!バカなことをした!秘密を知ってる俺も消すってんだろ!あんな連中に関わるんじゃなかった!」
    「彼女に対して何かないのか?」

    小松は黙ってうつむいた。

    マサヒロは腕を下ろし、トリガーから指を離した。そのまま背を向けて歩き出した。

    「あ、おい!あんた」

    小松の声に、マサヒロは足を止めず、肩越しに視線だけを向けた。

    「さっさとその車で帰れ、怪しまれないうちに。お前もサツを頼れないだろ。お互いな」

    マサヒロは正面を向き、倉庫の影が伸びる路地を歩き続けた。背後でセダンのドアが閉まり、エンジン音が唸って遠ざかっていった。


    午後の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。台所から水が跳ねる音が響いていた。マサヒロは靴を脱いで台所へ向かった。流し台の蛇口が全開になっており、溢れた水が排水口へ吸い込まれている。レバーを押し下げて水を止めた。

    廊下を戻り、戸を開けて寝室に入る。テレビには昼のバラエティ番組が映り、笑い声が室内に広がっていた。ベッドの上で、母親が画面を凝視している。

    「母さん」

    母親の肩は動かない。マサヒロは母親の上腕を掴んで揺すった。声を一段上げる。

    「母さん!」
    「んー」

    母親の首が微かに回り、視線がテレビから外れた。マサヒロは母親を寝返らせ、オムツを外した。アンモニアの臭気が立ち上る。風呂場へ連れて行き、シャワーで洗い流した。

    台所のテーブルに母親を座らせ、白米と味噌汁と焼き魚のパックを置く。コップに水を注ぎ、白い錠剤を2粒添えてテーブルに並べた。マサヒロは自室に戻り、CDプレイヤーと色褪せた高倉健のジャケットを抱えて戻ってきた。プレイヤーをテーブルの端に置き、コンセントに電源プラグを差し込む。トレイを開けてCDをセットし、再生ボタンを押した。

    「母さん、これ聞いてよ」

    スピーカーから、低い弦のイントロに続き、太い男の声で『網走番外地』が流れ始めた。

    「これ、高倉健の。覚えてる?昔さ、親父がよく風呂場で歌ってたろ?」

    母親は背を丸めたまま、プレイヤーをじっと見つめている 。

    「音痴だったのにな、自信満々に上機嫌で。それで母さんよくさ『ご近所さんに丸聞こえよ』って愚痴ってたよね」

    マサヒロの口角がわずかに上がり、乾いた笑い声が漏れた。ボーカルの歌声が室内に響き続ける。

    「覚えてない?」

    母親は視線を動かさず、プレイヤーの回転する内部の影を見つめ続けた。

    「ガキのころ、歌詞の『きすひけ』の意味が分からなくてさ。後から知ったが『酒を飲め』ってことらしいよ。親父らしいよな、ほんとに」

    母親の眼球が微かに揺れる。

    「酔っぱらったらよく語ってたよな。ほら、高倉健の隣で小便したって話。何度も何度も聞かされたよ。なあ、母さん……?」

    母親は顔を横へ向け、窓の外の虚空に視線を外した。表情は変わらない。

    ただ黙っていた。

    マサヒロはCDプレイヤーを両手で掴み、頭上まで持ち上げ、腕を振り下ろした。 プレイヤーが床板に激突し、バキリとプラスチックが割れる音が響いた。破片と基板が四方に飛び散り、CDが床をスライドして壁に当たって止まる。室内から音楽が消えた。

    マサヒロは椅子に腰を落とすと、両肘を太ももに載せ、頭を垂れて声を絞り出した。

    「母さん……俺は……殺し屋だ……。二十歳のころから……。不動産なんて嘘だ。まともに働いたことなんてねぇ……。ずっと、ずっと……殺し屋だ」

    母親はマサヒロを見ず、スプーンを握って、目の前の茶色い木目をじっと見つめている。やがて顎が動き、白米をひと匙、口に運んだ。

    「テレビも家具も、誕生日にプレゼントしたイヤリングだって……全部……殺しで稼いだ金で買った。この家もだ!ふふっ……」

    母親はスプーンを口に運び続けた。クチャクチャと唾液の音が鳴る。マサヒロは母親の横顔へ視線を移した。

    「仕方ないんだ。母さん?あんな狭いアパート暮らし嫌だったろ?だから、これで……よかったよなあ?」

    母親は咀嚼を止めず、茶碗の中の白米をじっと見つめ続けていた。やがて視線だけが、焼き魚へと移った。


    重厚な石張りの低層建築が、外壁のライトアップに冷たく浮かび上がっている。敷地を囲む鉄製フェンスの奥には広い芝生があり、バーベキューコンロが並んでいた。炭火の赤い光が周囲を照らし、肉の焼ける臭気とジャズの音が混じって漂っている。

    マサヒロは道路を挟んだ歩道の暗がりに立ち、フェンス越しにその光景を見つめていた。ポケットからスマホを取り出し、アプリを開く。小さな画面の中で、母親が毛布に包まれて眠っているのを確認した。

    マサヒロは車道を渡り、老人ホームの正門へ向かった。インターホンの前に、警備員が立っている。警備員がマサヒロの姿を認め、一歩前へ出た。

    「ご用は何ですか?面会時間は…… 」
    「あの集会に用がある。小松の紹介だ」
    「小松様ですか……」

    警備員がマサヒロの服装をなめるように見た。

    「存じ上げませんね。当施設は、限られた会員様とそのご紹介の方のみとなっております」
    「小松は全部吐いたぞ」
    「……お引き取りください」

    背後で若い男の声がした

    「入れてあげなよ」

    黒のハットを被っている青年がいた。

    「俺の客だよ。わからない?番犬失格だよ」

    ハット男はマサヒロの背中を押して門に入る。警備員はマサヒロに向き直り、静かに横へ退いた。

    マサヒロは芝生を踏みしめ、パーティーの輪に進んだ。テーブルの周りでは数人の男女がグラスを傾け、肉を口に運んでいる。その数歩隣の折りたたみ椅子には、スーツ姿の男たちが談笑していた。横から、ハット男がマサヒロの隣に並び、トレイのグラスを差し出してきた。マサヒロはそれを受け取り、一口飲んでから口を開いた。

    「なあ、どうして俺を……」
    「あんた、常にそれ持ち歩いてるの?」

    ハット男はマサヒロの胸元を指さした。マサヒロは服の上から拳銃に触れた。

    「そうだな」
    「おーこわ。ここでぶっ放すのは止めてくれよ」
    「まさか」
    「そんなことされたら、あんたを殺さなくちゃならねえ」
    「お前もか?」
    「ああ、殺し屋だよ。彼らお抱えの。で何しに来た?」

    マサヒロは答えなかった。

    「まあいい。アンタがここにいる時点で、どこかから漏れたってことだ。信頼できるのは生まれだけだというのに、旦那方はすぐ部外者を入れたがる」
    「お前も俺を入れただろ?」
    「へへっ。その通り。訳ありよ」

    ハット男は顎でベンチの方向を示した。そこに、金髪を後ろに流した強面の中年が両肘を膝に載せ、深く首を垂れて座っている。 開いた襟元から太い金のネックレスが覗いていた 。

    「見てくれよ。ここの空気じゃないだろ?浮いてる。ただあいつ、親が大きい。『生まれ』って奴さ。ああやってずっと誰かが引き受けてくれるのを待ってるんだ。復讐の依頼のな。目障りな奴め」

    ハット男は、マサヒロの擦り切れた袖口から泥のついた革靴まで視線を往復させた。

    「なあ、声をかけてやってくれないか?はっきり言ってな、誰も引き受けたくないんだ。俺もね。あんなのは……面倒だぜ。ただ金払いは良いはずだ」

    マサヒロはハット男から離れ、芝生を横切ってベンチの前に立った。影が金髪男の足元に落ちる。

    「隣、いいか?」

    金髪男がゆっくり顎を上げ、マサヒロを見上げた。目が赤く腫れていた。


    薄い雲の広がる空から、正午の日差しがアスファルトを照らしている。ドラッグストアの自動ドアが開き、マサヒロが歩み出た。右手に買い物袋が握られている。袋越しに、大人用オムツのパック、レトルト白米、焼き鮭のトレイの形が浮き出ていた。 胸元に「職業体験」と書かれたプレートをつけた体操服姿の女子中学生二人が、入り口の脇で台車を押し合いくすくすと笑っている。マサヒロはその横を通り過ぎ、煙草の箱をポケットへ押し込んだ。

    荷物の重みで右肩を下げながら、住宅街へ続く坂道を歩く。背後から短いクラクションが2回響いた。マサヒロが足を止め、振り返る。路肩に滑り込んできたのは、傷一つない黒塗りのメルセデス・ベンツSクラスだった。パワーウインドウが下がり、運転席から顎髭の男――登髭が顔を出した。

    「マサ兄!」
    「登髭……」
    「乗っていくぅ?」

    白い歯を見せる登髭を、マサヒロは黙って見つめた。風が坂道を吹き上げ、買い物袋が揺れる。やがて後部座席に荷物を放り込み、助手席へ回った。新車のレザーの匂いが鼻腔を突く。登髭は後部座席を振り返り、荷物を覗き込んだ。

    「オムツ?なんでぇ?」

    マサヒロは前方を見据えたまま、両手を膝の上に置いた。登髭は質問を続けた。

    「ガキっすか?」
    「違う。大人用だ」
    「へぇ~……お袋さん?」
    「……そうだ」
    「親父さんって結構前に逝ったんすよねぇ?俺んとこもそうなんだよなぁ。じいちゃんのほうが先に死んで、ばあちゃんはその後もピンピンしてんのよぉ。両方ともな」

    車体が滑らかに加速し、市街地を抜けて山道へ入っていく。

    「ほんと男が先に逝くよなぁ。女の方が寿命が長いの、なんか理由あるんかねぇ?」
    「知らねえ」
    「女って乳がんとか子宮がんとかあるじゃない。それなのにあいつらの方が長生きするだろぉ?なんでだと思う?」

    マサヒロは答えなかった。

    「俺の持論なんすけど、ストレスだと思うんすよぉ。男って常に張ってなきゃいけねえだろぉ。舐められたら終わりだし、負けたら終わりだし。でも女は違う。いざとなったら泣けば誰かが助けてくれる。だから長生きするんじゃないすかねぇ」
    「保育園の事件、お前だろ?」
    「うん」

    マサヒロは胸ポケットの煙草に触れた。

    「別に吸っていいっすよお。てか一本頂戴」

    煙草を黙って二本抜き、一本を登髭に差し出した。登髭は受け取ると、ポケットからデュポンを取り出した。鈍い金色のライターで、まず自分に火をつけ、それからマサヒロの方へゆっくりと傾けた。


    舗装の切れた路地へ車が進入し、雑木林の影でベンツが停止した。

    「降りて」

    登髭がエンジンを止め、キーを抜いた。マサヒロはドアを開けて湿った土の上に降りる。登髭も降りた。

    「そこの林まっすぐ進んで」

    登髭の視線がマサヒロから離れない。マサヒロは反転し、草木の茂る斜面へ歩いた。後ろから、枯れ葉を踏むスニーカーの音がついてくる。
    傾斜を登りきると、鉄製フェンスの切れた場所に出た。広大な芝生――放棄されたゴルフ場が広がっていた。バンカーには雑草が点在している。

    「ここ、最近潰れたんすよぉ」

    二人はまだ青みの残る芝生の上を進んだ。

    「俺も回ったことあるけどぉ~、まあこの景気だからぁ。世知辛いよなぁ。池越えの6番ホール、楽しかったなぁ」

    登髭が足を止めた。

    「立地が悪いのかねえ。ここら辺一体メガソーラーにするらしいっすよぉ」

    登髭は両腕を広げ、雲の隙間から差し込む日光を顔に浴びた。マサヒロも足を止め、半身を振り返らせた。

    「俺を始末しにきたんだろ?」
    「ふふふ。まあ……そのつもり」

    マサヒロは舌打ちをしてから短く息を吐いた。

    「寺田……」
    「でもやーめた」
    「は?」

    マサヒロは片眉を上げた。登髭は指先で顎髭をなぞりながら言葉を続けた。

    「いやあ、殺すつもりだったんだけどね。運転しながら考えてたんよぉ。なんで俺がこんなことしなくちゃならねぇのって。寺田の野郎、俺にいくらで依頼したと思う?」

    手のひらを広げ、マサヒロの目の前に突き出した。

    「500じゃあねえよ、50!あのチビ、50って……こんな安い依頼聞いたことねえ。『身内のケジメだからお前も協力しろ』だと。でよぉ?狙いはマサ兄だぜ?顔見知りを殺すのは気が引けるし、なんたってプロだ。俺にリスクがないわけじゃあねえのに、現場も知らねえケチ野郎が」

    登髭のつま先が、千切れた芝を蹴り飛ばした。

    「いつまであんな奴の言うことを聞かなきゃならねえんだ。それでよぉ、すげー良い案があるんだけどよぉマサ兄。俺たちで寺田殺してさぁ、ルート全部奪わねえか?直接依頼を受ければ今より儲かるだろお?あんなピンはねチビ、俺たちには必要ねえよなあ」

    マサヒロはポケットに両手を差し入れたまま、声を低く落とした。

    「無茶だろ……」
    「無茶じゃねえ。それによお?奴の目が黒いうちはマサ兄が仕事できねえだろ?あいつ消せば問題解決じゃねえかよお。どうだ?」

    マサヒロは目を細め、登髭を凝視した。登髭の頬がゆるみ、目じりに皺が寄った。

    「だからマサ兄は殺さねえ」

    ドン、と乾いた銃声が山林に響いた。ポケットの布が内側から弾け、硝煙が立ち上る。登髭の白タンクトップの腹部が赤く染まり、上体が後ろへ傾いて芝生に倒れ込んだ。

    登髭の右手がズボンのポケットへ動きかける。マサヒロは拳銃を引き抜き、その下半身へ二発目を放った。

    銃弾が太ももを貫通し、芝生の下の土にめり込む。

    「ああああああ!!」

    登髭は顔を歪め、逆光のマサヒロを眩しそうに見上げたが、喉から掠れた音が漏れるだけで言葉にはならなかった。口角から血が溢れ、顎髭を濡らしていく。

    「登髭……お前のそのみっともなく伸びた髭……」

    登髭の眼球が大きく開かれたまま、マサヒロの影を捉え続けている。

    「恥ずかしくないのか?」

    マサヒロは照準を頭部に合わせ、引き金を絞った。銃声が一度響き、登髭の頭部が跳ね上がってから動かなくなった。マサヒロは銃を腰の後ろへ差し込み、上着とシャツを脱いで地面に置いた。背中に手を回し、右肩甲骨の下の医療用ガーゼを引き剥がす。粘着面の内側には、薄いビニールに包まれた糸鋸が貼り付けられていた。 ビニールを歯で引き裂いて糸鋸を取り出し、死体の傍らにしゃがむ。登髭の頭髪を掴んで顔を上向かせ、血に染まった顎の皮膚へ刃を当てて前後に動かし始めた。肉の裂ける音が響き、顎髭の生えた皮膚の塊が芝生の上に落ちた。それを拾い、ビニール袋に収めた。

    次にポケットから折りたたみ式のナイフを引き出し、鳩尾と下腹部へ深く突き刺した。刃を引き抜くと、傷口からかすかに空気が漏れた。膝で胸部を強く圧迫し、内部の空気を押し出した。

    ナイフを仕舞い、登髭の両脇に手を差し入れ、芝生を引きずってゴルフ場の奥へ歩いた。傾斜を下った先に、濁った緑色の人工池が広がっている。縁まで運ぶと、右足の靴底で脇腹を強く突き出した。

    死体は斜面を滑り落ち、水面に落下した。ボチャン、と重い水音が響く。水飛沫が上がり、濁った水面に波紋が広がった。死体はゆっくりと水底へ沈んでいく。やがて波紋は薄れ、静けさだけが残った。 

    マサヒロは衣服を身につけ、林を抜けて未舗装路に戻った。ベンツのドアを開け、後部座席から買い物袋を取り出す。ドアノブの指紋を上着の袖で手早く拭き取った。ドアを閉めると、キーを林に投げ捨てて、袋を提げて山道を下り始めた。


    駅前のロータリーに、街灯が白く光を落としている。タクシー乗り場の後方にマサヒロが立っていた。ロータリーのカーブに沿って黒い車が速度を落とし、マサヒロの正面で停止した。 ウインドウが下がり、老人ホームにいた金髪の男が顔を出した。マサヒロはポケットからビニール袋を取り出し、窓の隙間へ差し入れた。

    「やつの髭だ」
    「やってくれたか……」

    男は袋を受け取り、車内灯をつけて中身を確認した。

    「外道が……」

    そのまま目を閉じ、ゆっくり天を仰いだ。

    「龍聖……」

    男は助手席から厚みのある茶封筒を取り出し、マサヒロへ突き出した。受け取ると、ウインドウが閉まり、車は排気音を残してロータリーを出ていった。


    マサヒロは街灯の下へ移動し、封筒の口を開いた。中に帯で結束された1万円札の束が収まっている。封筒を折りたたみ、内ポケットに差し込んだ。


    マサヒロは歩調を崩さずに進んだ。前方の交差点の角に、メッシュフェンスで囲まれた保育園が現れた。閉鎖された正門の足元には、キクやカーネーションが数束並べられ、その脇にペットボトルとスナック菓子の袋が置かれている。マサヒロはフェンスの前に立ち、足元を見つめた。次いで、道路を挟んだ向かいの、吉岡の住むアパートへ視線を向け、そのまま静止した。数秒後、反転し、保育園の影から離れた。


    自宅の前にたどり着き、マサヒロはドアの前に立った。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。回そうとして、手が止まった。ドアがわずかに開いていた。

    マサヒロは靴を履いたまま上がり框へ踏み込んだ。

    「母さん!?」

    返答はなく、廊下の奥からテレビの音だけが聞こえる。マサヒロは寝室へ飛び込んだ。ベッドは布団がはね上げられたままだった。台所、風呂場、洗面所の戸を次々に開ける。どこにも姿はなかった。

    「母さん!!母さん!?」

    玄関に戻り、たたきを見下ろす。

    母親のサンダルが消えていた。

    マサヒロは外へ走り出た。庭の雑草の間に視線を走らせ、門扉を出て十字路へ向かった。左右の路地を見回す。

    「母さん……」

    マサヒロはスマホを取り出し、見守りカメラのアプリを起動した。画面には、無人の寝室が映し出されている。画面をスワイプし、録画履歴のタイムラインを遡った。 画面の中で、パジャマ姿の母親がベッドから起き上がり、床に足を下ろした。母親はカメラの方向へ顔を向けたあと、ゆっくりと歩いて寝室を出て行った。タイムスタンプの数字は、それから三時間以上が経過していることを示していた。

    マサヒロはアプリを閉じ、連絡先の一覧を表示させた。指が「吉岡」の文字の上で止まる。親指が「発信」に触れかける。

    エンジン音が近づき、一台の車がマサヒロの脇を通り過ぎていった。ヘッドライトの光がマサヒロの影をアスファルトに長く引き伸ばし、遠ざかっていく。スマホの画面が暗転し、黒い液晶にマサヒロの顔が映った。

    スマホをポケットに収め、周囲の住宅の隙間を見つめながら、街灯のオレンジが連なる歩道を歩き続けた。逆光の中にその輪郭が溶け、やがてハザードランプを点滅させるトラックの影に隠れて、見えなくなった。


     
     
    映像的な小説を投稿します。 映画・アニメが好き。

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