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0 人間の生活

    「人間の生活」あらすじ
    渋谷のIT企業を休職し、流れるまま与那国島に渡り、急遽はじまった犬猫と家主との不思議な共同生活。フィクションのようなノンフィクションライフ。

    与那国島ではじまった不思議な共同生活を残したい。そう思い立ち、少しずつ、記録をしていくことにした。

    フィクションのようなノンフィクション。こんなことが本当に起こるのだと、世界は不思議で美しくて慈愛に満ちているのだと、深く同意しながら、筆(スマホのフリック入力)を進めたいと思う。

    そして、これは、わたしにとっての「人間の生活」の復権でもある。

    この記事は、連載記事です。プライベートな情報も大いに含まれるため、単発購入またはメンバーシップ(500円/月 ※初月無料)で購読いただけます。

    ——人生で初めて「人間の生活」をしてると思った。

    何曜日なのか、ここに来てからどのくらい経ったのかすら曖昧になった頃、わたしの口をついて出た。

    いやはや、わたしは、いつも、ふとした瞬間に名言を残してしまう癖がある。これは、とても大切で本質的な問いだと思う。わたしたちは、人間「風」の生活はこなしているけれど、どのくらい、ほんとうに、人間の生活を送ってきただろう。

    日本で生まれ育った場合、一般的には、生まれてから、保育園または幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、就職活動を経て会社員または何かしらの働き手となる。

    そこに、どれほど、人間であることの尊厳が保たれながら、時間を過ごせてきただろう。いつも、家族や学校、部活、会社などをはじめとした、何かの所属に対する役割であるとか、何かしらの生産手段としてであるとか、知らず知らずのうちに、人間であるという尊厳の基盤を持たずに生きてきたのではないだろうか。

    この気付きは、ドイツの哲学者、イマヌエル・カントの問いかけに、実践的に応答する試みかもしれない。

    Handle so, daß du die Menschheit, sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern, jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchst. (人間性を、あなた自身の人格においても、他のすべての人格においても、常に同時に目的として扱い、決して単なる手段としてのみ扱わないように行為せよ。)

    『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785) 

    なぜ、わたしは、ここに来て初めて、「人間の生活」などという言葉を発したのだろうか。この不思議な哲学対話のような自問自答と日々の暮らしを混ぜたり、捏ねたり、発酵させたりなどしながら、日記を綴っていきたい。

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    詩歩

     
     
    1997生まれ。日常生活の哲学や読書について。学生起業→ 災害研究(修士号)→会社員→うつの治療のため休職。和歌山→東京→石垣島(移住準備中)

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