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原色 【十一 朝霧】

    ゆうきは缶を傾けた。中身はもう空だった。
    「置いていく、か」
    笑いながら、空き缶を岸の石へ立てる。
    「俺はそういうの、得意な方だと思ってた」
    「思ってた?」
    「最近、苦手になってきた気がする」
    風が水面を撫でた。透けた水の底で、熱帯魚の群れが一斉に方向を変える。銀色の腹が、一瞬だけ光った。
    ルナは何も言わず、しゃがんだまま水へ手を浸けている。指先から輪が広がって、すぐに消えた。
    「今日はここに泊まる」
    ゆうきが言う。
    「明日には街へ戻る」
    「戻るんですか」
    「戻らないと、屋台が腐る」
    笑いながら、荷物からハンモックを取り出した。
    木と木の間に張る。慣れた手つきだった。
    夜になると、森はさらに濃くなった。 色がない、というより、色という概念そのものが溶けていくようだった。 月明かりだけが水面に細く伸びている。
    虫の音が途切れない。
    ルナが焚き火に小枝を足す。 火の粉が舞い上がり、すぐに闇へ吸われた。
    「ゆうきさん」
    「なんだ」
    「前にも来たんですか、ここ」
    しばらく間が空いた。
    「何回かな」
    煙草へ火をつける。
    「嫌なことがあると来る」
    「逃げ場所ですか」
    ゆうきは少し笑った。
    「違う」
    煙を吐く。
    「確認しに来るんだよ」
    「何をですか」
    火が小さく爆ぜた。
    「まだ綺麗なもんが残ってるか」
    ルナは何も言わなかった。 ただ、火を見つめていた。 「なくなってたら?」
    僕が聞く。 ゆうきは空を見上げる。
    「その時は考える」
    「ここ、星が綺麗だろ」
    話を終わらせるみたいに言った。 空を見上げる。 木々の隙間に、細かい星が散っていた。
    誰も、それ以上は何も言わなかった。
    翌朝、川は霧の中だった。 ボートのエンジン音だけが、白い空間を切っていく。 岸が見えてくる頃、ゆうきが急に黙った。
    「どうしました」
    「先に降りる」
    声が低くなっていた。
    岸には、見慣れない車が二台、停まっていた。 エンジンをかけたまま、誰も降りてこない。
    ルナが舵を切る手を止めた。
    「知り合いですか」
    「知り合いの、知り合いだ」
    ゆうきは煙草を消した。 灰を川へ落とす。
    そのまま、シャツの裾を少しだけ持ち上げた。 腹の辺りへ手を入れる。 何かを確かめるみたいな仕草だった。
    一秒ほどして、何事もなかった顔で手を戻す。
    「……何してるんですか」
    「癖」
    それだけだった。 でも、声が少しだけ低かった。
    「ここで待ってろ」
    「待てって、どこに」
    「川の上だ」
    それだけ言って、ボートが岸に着く前に、浅瀬へ飛び降りた。 水しぶきが上がる。
    ルナがすぐにエンジンを逆へ入れた。 ボートが岸から離れていく。
    「ちょっと、待って」
    「黙って」
    ルナの声は、初めて聞く硬さだった。
    岸でゆうきが車の方へ歩いていく。 後ろ姿が、妙に小さく見えた。
    誰かが車から降りてくる。
    距離がある。
    顔は見えない。
    それでも、空気だけで分かることがある。 色のない空気だった。 灰色でも、透明でもない。 ただ、何かが終わる前の、一瞬の静止だった。
    ルナがエンジンを止める。 ボートが川の真ん中で、ゆっくり揺れている。
    「ねぇ」
    ルナが言った。 声は静かだった。
    「鞄、ちゃんと持ってる?」
    意味が分からなかった。
    「かたな」
    言われて、初めて気づく。 鞄は、岸に置いたままだった。
    ゆうきの後ろを、半分だけ追って降ろしていた。
    「……まずいですか」
    「分からない」
    ルナは岸を見たまま言う。
    「でも、そのかたなの話、あの人たちが知ってたら、まずい」
    霧が、少しずつ晴れていく。
    岸の人影が、二つから四つに増えていた。
    ゆうきの背中は、まだそこにあった。
    動いていない。 ただ立っている。 話している、というより、聞いていた。

     
     

    加茂

     
     
    東京から郊外へ移住し、日々の暮らしのなかで物語を書いています。

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