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洗った制服は、まだ確認中

    あらすじ

    小さな食品工場で総務事務をしている三枝祐実は、退職したはずの小野寺真帆の制服が、五十二番ロッカーに戻っていることに気づく。きれいに洗われた制服、閉じられない茶封筒、冷蔵庫に残った保存容器、退職理由に書かれた「家庭の事情」。どれも大きな事件ではないはずなのに、職場のあちこちに、処理済みにできないものが残っていく。返却物を確認するうち、祐実は真帆が辞める前にこぼしていた小さな異変と、誰かがそれを片づけようとしていた痕跡に近づいていく。働く場所に残された物から、見えなかった日々をたどる職場ミステリー。


    第1話 五十二番ロッカー

    月曜の朝の更衣室は、いつも少しだけ濡れている。

    床に水がこぼれているわけではない。掃除のモップが通ったあとでもない。それなのに、古い蛍光灯の下に立つと、靴底の裏がうすく湿ったような音を立てる。

    三枝祐実は、その音があまり好きではなかった。

    食品工場の更衣室は、朝がいちばん静かだった。始業前の十五分だけ、まだ誰の声も強くない。ロッカーの扉が閉まる音も、遠くの冷蔵設備の低い音も、全部が少し遠慮している。

    祐実は事務所の鍵を開ける前に、更衣室へ寄った。

    週明けは制服の確認がある。新しく入ったパートのサイズ交換、破れた前掛けの回収、衛生帽の予備の補充。そういう細かいことは、誰かが気づかないと一日ずっと小さく引っかかる。

    三枝さん、これ誰に言えばいいですか。

    現場からそう聞かれるものは、だいたい祐実のところへ来る。

    祐実は棚の上の予備マスクを数え、洗濯済みの制服が入った透明袋を整えた。ロッカーの列は、左から番号順に並んでいる。何度も開け閉めされた扉の角は、どれも少しずつ塗装が剥げていた。

    五十二番のロッカーの前で、祐実の手が止まった。

    小野寺真帆のロッカーだった。

    正確には、もう小野寺真帆のロッカーではない。

    退職者のロッカーは、空にする。

    鍵を回収する。
    名札を外す。
    次の人に回す。

    手順としてはそれだけだった。

    手順としては。

    五十二番の扉に、名札はもうなかった。名前を差し込む細いプラスチックの枠だけが残っている。中に入っていた紙を抜いたあと、枠の奥に灰色の線が残っていた。名前があった場所だけ、少し色が違う。

    祐実はその色の違いを、見ないようにしていた。

    扉の隙間から、白いものが見えた。

    最初は、返却漏れだと思った。

    誰かが間違えて入れたのかもしれない。洗濯業者から戻った制服を、空いているロッカーに仮置きしたのかもしれない。現場ではそういうことがたまにある。忙しい時間帯は、誰も正しい場所だけを見ていない。

    祐実は五十二番の扉を開けた。

    制服が入っていた。

    白い上着とズボンが一組、きれいに畳まれて、下の棚に置かれている。衛生帽はない。名札もない。ただ、制服だけがあった。

    洗ったばかりの匂いがした。

    工場で使っている業務用洗剤の、乾いたような匂いではなかった。もっと柔らかい。家庭用の洗剤に近い。柔軟剤ほど甘くはないけれど、どこか布団カバーの端みたいな匂いが混じっていた。

    祐実は制服に触れなかった。

    触れなかったことに、自分で少しだけ気づいた。

    小野寺真帆は、制服をいつも同じ幅で畳む人だった。

    袖を内側に折って、身頃の幅を揃えて、最後に裾を一度だけ返す。返却された制服を整理していると、誰のものか分からなくても、畳み方でなんとなく分かることがある。真帆の制服は、いつも薄い箱みたいに整っていた。

    でも、そこにある制服は少し違った。

    袖の端が、いつもの幅より二センチほど内側に入りすぎている。右袖だけ、折り目が強い。上着の裾はきれいに揃っているのに、袖だけが誰かの手で何度も直されたようになっていた。

    祐実はロッカーの扉を持ったまま、しばらく立っていた。

    更衣室の蛍光灯が、一度だけ小さく鳴った。

    怖い、とは思わなかった。

    最初に出てきた言葉は、怖いではなく、確認だった。

    確認しないと。

    そう思った自分に、祐実は少し疲れた。

    退職した人の制服が戻っている。普通なら、もっと違う反応をするのかもしれない。誰が入れたのか、いつ入れたのか、なぜ鍵が開いていたのか。考えることはある。

    でも祐実の頭に先に浮かんだのは、返却物リストだった。

    制服上下一組。衛生帽なし。名札なし。ロッカー内残置物あり。

    そう書けば、ひとまず仕事になる。

    仕事の欄に入れられるものは、少しだけ怖くなくなる。

    祐実はロッカーを閉めた。金属の音が、更衣室の端まで行って戻ってきた。

    扉の前で、まだ洗剤の匂いが残っている。

    それが嫌だった。

    書類の匂いでも、ロッカーの鉄の匂いでも、工場の朝の匂いでもない。誰かの家で洗われた布の匂いが、会社の更衣室に入っている。

    祐実は事務所へ戻り、机の引き出しを開けた。

    右奥に、茶封筒があった。

    小野寺真帆、と小さく書いた付箋が貼ってある。中には、ロッカー鍵と名札の控え、退職手続きの確認メモが入っている。封はしていない。

    封筒を少し動かすと、中で鍵が一度だけ鳴った。

    封をするだけだった。

    糊のついた口を折って、指で押さえるだけでいい。事務処理としては、何も難しくない。

    祐実は封筒を少し手前に引き出し、すぐに戻した。

    事務所の時計は、七時四十二分を指していた。あと十八分で、現場の朝礼が始まる。片岡芽衣が来る前に、予備の名札を出しておかないといけない。高瀬に確認する退職書類もある。制服の件は、そのあとでいい。

    そのあと。

    祐実は引き出しを閉めた。

    更衣室の方から、誰かがロッカーを開ける音がした。ひとつ、ふたつ。朝がいつもの速度で始まりかけていた。

    祐実はパソコンを立ち上げ、返却物リストを開いた。

    小野寺真帆の名前は、もう一覧の下の方に移してある。処理済みに近い場所。完了ではないけれど、ほとんど終わったものとして扱われる場所。

    画面の中の名前は、静かだった。

    それなのに、さっき見た制服の袖だけが、頭の中で少しずれていた。

    いつもの畳み方ではなかった。

    真帆のものなのに、真帆の手ではない。

    祐実はキーボードに指を置いたまま、しばらく何も打たなかった。

    更衣室には、まだ洗剤の匂いが残っている気がした。


    第2話 閉じない茶封筒

    茶封筒は、引き出しの右奥に戻したはずだった。

    それなのに、三枝祐実は午前中だけで三回、同じ引き出しを開けた。

    一回目は、予備の名札を出すためだった。新しく入った短時間パートの名札が、まだ透明ケースに入っていなかった。祐実はケースの端を爪で開き、印刷した名前の紙を差し込んだ。

    二回目は、印鑑マットを探すためだった。高瀬が退職書類の確認印を押すと言ったのに、いつもの場所にマットがなかった。結局、マットは電話機の下に少しだけ挟まっていた。

    三回目は、何のためだったのか分からなかった。

    引き出しを開けたあと、祐実はそこにあるものを見て、自分が何を探していたのか忘れた。

    黒いボールペンの替芯。古いクリップ。使いかけの付箋。印鑑ケース。透明な名札ケースの予備。輪ゴム。去年の健康診断の封筒。

    その奥に、茶封筒があった。

    小野寺真帆、と書いた付箋は、少し角がめくれている。貼ったときはまっすぐだったはずなのに、端だけが浮いて、紙の影が小さくできていた。

    祐実は封筒を指で押した。

    中で鍵が鳴った。

    薄い金属の音だった。ロッカーの扉を閉める音より軽く、でも机の引き出しの中では妙にはっきり聞こえた。

    祐実は手を止めた。

    隣の席で、片岡芽衣が紙コップを机に置いた。中身はたぶんコンビニのカフェラテだった。ふたの穴から、甘い匂いが少し漏れている。

    「三枝さん、名札できました?」

    「今、入れます」

    祐実はそう言って、新しい名札を透明ケースに押し込んだ。

    透明ケースは、いつも最後の角だけ入りにくい。紙が少し斜めになる。爪で直そうとすると、今度は反対側が浮く。誰かの名前をまっすぐ入れるだけなのに、毎回少し手間がかかる。

    祐実は名札を整えて、芽衣に渡した。

    「ありがとうございます。これ、現場に持っていきますね」

    芽衣は名札を受け取って、立ち上がりかけた。それから、机の引き出しの方をちらっと見た。

    「それ、小野寺さんのですか」

    祐実は、封筒をまだ押さえたままだった。

    「何が?」

    「いや、その封筒。名前、見えたので」

    芽衣はすぐに言い足した。

    「すみません。見ようとしたわけじゃないです」

    「大丈夫です」

    祐実は封筒から手を離した。

    大丈夫です、と言ったあとで、それが小野寺真帆の口癖だったことを思い出した。

    大丈夫です。

    先にやっておきます。

    あとで戻します。

    すみません、置きっぱなしでした。

    真帆はよくそう言っていた。声は大きくないのに、言葉だけが先に仕事を片づけに行くような人だった。

    祐実は引き出しを閉めた。

    「退職書類の確認です」

    「まだ残ってるんですね」

    芽衣の声は軽かった。責める感じではない。けれど、軽いものほど、机の上に長く残ることがある。

    「処理としては、ほとんど終わっています」

    祐実はそう答えた。

    ほとんど。

    自分で言って、嫌な言葉だと思った。

    事務では便利な言葉だった。ほとんど完了。ほとんど確認済み。ほとんど問題なし。少し残っているものを、机の端に寄せるための言葉。

    芽衣は「そうなんですね」と言って、名札を持って事務所を出ていった。

    扉が閉まると、事務所は急に紙の音だけになった。

    コピー機が奥で一度動き、すぐ止まった。電話は鳴らない。パソコンのファンの音が、低く続いている。

    祐実は机の左側に置いた退職書類ファイルを開いた。

    小野寺真帆の退職届は、透明ポケットの中でまっすぐ収まっている。退職理由の欄には、家庭の事情、とだけ書かれていた。

    字は真帆のものではない。

    本人が書いた届ではなく、会社の書式に高瀬がまとめた確認メモだった。

    きれいな文字だった。
    余白も揃っていた。
    印鑑の位置も正しい。

    書類としては、何も引っかからない。

    引っかからないものほど、触りにくい。

    祐実は確認欄に指を置いた。

    退職日。制服返却。名札回収。衛生帽回収。タイムカード処理。ロッカー鍵。

    ロッカー鍵の欄だけ、鉛筆で小さなチェックが入っている。

    ボールペンではなかった。

    祐実の字だった。

    あとで確定してからペンでなぞるつもりだった。そういう仮の印は、すぐに終わらせるはずだった。仮のものほど、長く残る。仕事の机には、そういうものがいくつもある。

    「三枝さん」

    高瀬亮介が、事務所の入口に立っていた。

    手には社用スマホと、透明の書類トレーを持っている。高瀬はいつも書類の角を揃えている。揃えるというより、揃っていないものをそのまま持てない人だった。

    「小野寺さんの件、確認できました?」

    「退職書類は揃っています」

    祐実はファイルを閉じかけた。

    「ロッカーだけ、まだです」

    高瀬は一瞬だけ、ファイルの表紙を見た。

    「それはもう処理済みじゃなかったですか」

    「鍵は回収しています」

    「なら、問題ないですね」

    高瀬はそう言って、スマホの画面を見た。

    問題ないですね。

    その言い方は、いつも少しだけ早かった。問題が机に置かれる前に、先に透明なふたをかぶせるような早さだった。

    祐実は引き出しを開けた。

    茶封筒を出す。

    封は、まだしていない。

    「名札の控えと鍵が一緒に入っています。封だけ、まだです」

    自分で言うと、本当にそれだけのことだった。

    封だけ。

    糊のついた口を折って、指で押さえるだけ。必要ならテープでもいい。封筒の端に日付を書いて、退職者ファイルに入れる。ロッカーの中を確認して、次の制服サイズ表へ回す。

    高瀬は少しだけ眉を動かした。

    「封しておいてください。今日中で大丈夫です」

    「はい」

    「現場には、小野寺さんのロッカーは空けるって伝えてあります?」

    「まだです」

    「じゃあ、それもお願いします」

    「はい」

    高瀬はそこで話を終えた。終えた、というより、書類の上ではもう終わっているものとして扱った。

    祐実は封筒を机の上に置いた。

    茶色い紙の表面には、指のあとが少しついている。何度も出して、何度も戻したせいか、角が柔らかくなっていた。

    高瀬が事務所を出ていくと、入れ替わるように現場の音が入ってきた。

    台車の車輪が、床の継ぎ目で小さく跳ねる音。誰かが手袋の箱を開ける音。遠くで、冷蔵庫のモーターが一段強くなる音。

    祐実は封筒の口を見た。

    糊の部分は、まだきれいだった。

    指で押せば閉じる。水を少しつければ、もっときれいに閉じる。事務所にはスティックのりもある。透明テープもある。封をする方法はいくつもあった。

    閉じない理由だけが、どこにも置けなかった。

    祐実は椅子から立った。

    更衣室へ行くつもりだった。五十二番のロッカーをもう一度見る。中の制服を確認して、写真を撮って、高瀬に報告する。それでいい。

    それで仕事になる。

    けれど、ドアの前まで行ったところで、事務所の電話が鳴った。

    一回、二回。

    祐実は戻って受話器を取った。

    「はい、総務です」

    相手は現場の主任だった。新しい名札の漢字が間違っていると言った。祐実は謝り、すぐ作り直すと答えた。紙を差し替えて、透明ケースを開けて、また角を爪で押し込む。

    そうしているうちに、十時になった。

    茶封筒は机の上にあった。

    閉じていない口が、少しだけ開いている。

    祐実は名札の紙を切り直しながら、その開いた口を見ないようにした。

    昼前、高瀬が印鑑を押しに来た。

    祐実は印鑑マットを机の中央に置いた。高瀬は確認印を押す前に、書類の角を揃えた。トン、と小さな音がした。角が揃う音だった。

    小野寺真帆の退職書類に、赤い丸がついた。

    書類は、また少しだけ終わりに近づいた。

    祐実はファイルを閉じた。

    茶封筒だけが、外に残った。

    「それも一緒に入れておいてください」

    高瀬が言った。

    「はい」

    祐実は答えた。

    高瀬が出ていったあと、祐実は封筒を持ち上げた。

    中で鍵が鳴った。

    朝よりも少し大きく聞こえた。

    名札の控えが、封筒の中で鍵に当たっているのかもしれない。薄い紙と金属が一緒に入っている音。退職した人の名前と、まだ閉じていない場所が、同じ袋の中で触れている音。

    祐実は封筒の口を折った。

    指で押さえた。

    でも、糊の部分には触れなかった。

    折り目だけついた封筒を、祐実は机の右端に置いた。引き出しには戻さなかった。戻さなかったことを、少しだけ前進のように扱おうとした。

    そのとき、事務所の外を誰かが通った。

    白い制服の裾が、ガラス戸の向こうを横切った。現場へ向かう人の足だった。誰かは分からない。白い布が一瞬だけ見えて、消えた。

    祐実は反射的に、更衣室の方を見た。

    五十二番のロッカーは、まだ閉じているはずだった。

    閉じている。

    けれど、終わった感じがしなかった。

    祐実はそう考えかけて、すぐにやめた。

    考えるより先に、名札をもう一枚作らなければならなかった。

    パソコンの画面で、新しい名前が点滅している。

    祐実はキーボードに指を置いた。

    机の右端では、封のされていない茶封筒が、薄く口を開けたまま残っていた。


    第3話 未処理ボックスの制服

    先週の月曜に置いた付箋が、今朝も同じ角度でモニターの下に残っていた。黄色い紙の端だけが少し反っている。三枝祐実はそれを剥がそうとして、やめた。

    「五十二番確認」

    自分で書いた字だった。

    ボールペンではなく、急いで手に取った蛍光ペンで書いたせいで、文字の端が少し滲んでいる。確認、の認の字だけが狭くなっていた。

    祐実は付箋の上から指で押した。

    剥がれかけた端が、机に戻る。

    机の右奥には、茶封筒があった。

    引き出しに戻さないでおいたはずなのに、いつの間にか右奥へ寄っている。誰かが動かしたわけではない。書類を広げ、名札ケースを置き、電話のメモを取っているうちに、机の上のものは少しずつ端へ逃げる。

    茶封筒の口は、まだ閉じていない。

    中にはロッカー鍵と名札の控えが入っている。封筒を持ち上げると、鍵が小さく鳴った。先週よりも、音に慣れている自分が嫌だった。

    祐実はシフト表を開いた。

    今週分の現場シフトは、朝礼前に掲示し直すことになっていた。食品工場の現場は、曜日よりもシフト表で一日が始まる。誰が早番で、誰がラインに入って、誰が検品に回るか。紙一枚の中に、その日の人の置き場がある。

    プリンターから出したばかりのシフト表は、まだ少し温かかった。

    祐実は名簿を見ながら、蛍光ペンで変更箇所に印をつけた。

    小野寺真帆の名前は、もうない。

    ないのに、そこだけ空いて見えた。

    前は真帆の名前が入っていた行。今は詰められている。別の人の名前が入っている。見た目には空白ではない。けれど、行の間に少しだけ余分な白さがあるように見えた。

    祐実は画面を一度スクロールした。

    戻した。

    同じ行をもう一度見た。

    「三枝さん」

    片岡芽衣が、紙コップを持ったまま覗き込んだ。今日の紙コップには、コンビニのロゴが斜めに入っている。指でこすったのか、ロゴの端が少し濡れていた。

    「そこ、直すところですか?」

    「いえ」

    祐実はシフト表を少し伏せた。

    「確認していただけです」

    「小野寺さんのところですか」

    芽衣は言ったあと、すぐに口を閉じた。言いすぎたときの顔ではなかった。言わないつもりだったものが、紙コップのふたの穴みたいな場所から漏れた顔だった。

    「もう名前はありません」

    祐実は言った。

    言い方が少し硬かった。

    芽衣は「そうですよね」と言って、紙コップを両手で持った。

    「でも、現場の人、まだ言うんですよね」

    「何を?」

    「そこ、小野寺さんの場所だったから、って」

    祐実はシフト表に目を落とした。

    芽衣は続けなかった。続ける代わりに、紙コップのふたを親指で押した。小さく、ぱこ、と音がした。

    事務所の奥でコピー機が動き出した。誰も印刷していないはずなのに、内部のローラーだけが短く回って止まる。古い機械は、たまに自分の都合で息をする。

    祐実はシフト表を二つ折りにした。

    「掲示してきます」

    「私、持っていきますよ」

    「大丈夫です」

    大丈夫です、と言ったあとで、また真帆の声が重なった。

    祐実はシフト表を持って立ち上がった。

    更衣室へ向かう廊下は、朝礼前の足音で少し混んでいた。白い制服の人が何人も通る。衛生帽をまだかぶっていない人、マスクを顎にかけたまま歩く人、手袋の箱を片手に抱えた人。

    誰も五十二番のロッカーを見ていない。

    それが、かえって見られているようだった。

    祐実は掲示板の古いクリップを外し、先週のシフト表を剥がした。クリップの跡が紙に丸く残っている。今週分を貼り直す。斜めになったので、一度外してもう一度止めた。

    五十二番のロッカーは、掲示板の少し先にあった。

    閉じている。

    祐実は、そこを通り過ぎようとした。

    通り過ぎるだけならできた。

    けれど、扉の下の隙間に、白い布の端が見えた。

    祐実は足を止めた。

    先週と同じだった。

    いや、同じではなかった。

    白い上着とズボンは、また畳まれていた。下の棚に置かれている。衛生帽はない。名札もない。ただ制服だけがある。

    洗ったばかりの匂いがした。

    祐実は、先週と同じことを思った。工場の洗剤ではない。業務用の乾いた匂いではない。家庭の洗濯物に近い、やわらかい匂い。

    ただ、今日は少しだけ違った。

    袖の畳み方が、また違う。

    先週は右袖の折り目が強かった。今日は左袖の端が少し外に出ている。きれいに畳もうとしたのに、最後の一押しだけが足りなかったような形だった。

    真帆の畳み方ではない。

    でも、雑でもない。

    祐実は制服に触れなかった。

    触れないまま、扉の内側を見た。ロッカーの奥は空だった。忘れ物はない。底板の隅に、古い埃が少し残っている。名札の跡が、扉の表側に薄く残っている。

    そこへまた、制服だけが戻っている。

    一度なら、間違いで済む。

    二度目は、間違いの顔をしなくなる。

    祐実は扉を閉めた。金属の音が、思ったより大きく鳴った。

    更衣室にいた藤崎久江が振り向いた。

    久江は衛生帽を片手に持っていた。髪をまとめ直している途中だったらしく、後ろの白髪が少しだけ出ている。

    「どうかした?」

    「いえ」

    祐実は自分の声が早いと思った。

    「ロッカーの確認です」

    久江は五十二番の方をちらっと見た。それから、自分の袖口を引いた。制服の袖に皺が寄っていたわけではない。けれど久江は、指で一度、袖の端を伸ばした。

    「まだ空けないの?」

    「今日中に処理します」

    「そう」

    久江はそれだけ言って、衛生帽をかぶった。ゴムを伸ばして、耳の後ろに入れる。手つきに無駄がなかった。

    「使わないロッカー、置いとくと邪魔だから」

    「はい」

    「置いとくと、みんな入れるからね。何でも」

    久江は笑った。

    冗談のようだった。けれど、祐実は笑えなかった。

    ロッカーに何でも入るわけではない。

    入るのは、誰かがそこへ戻せると思ったものだけだ。

    祐実はそう考えかけて、やめた。

    また、言葉がきれいにまとまりそうになった。

    祐実は手に持っていた古いシフト表を折った。紙の角が手のひらに当たった。そちらの方がよかった。考えよりも、紙の角の方がまだ扱える。

    事務所へ戻ると、芽衣が未処理ボックスの前に立っていた。

    「これ、どこまでが今日の分ですか」

    未処理ボックスには、透明な書類トレーが三段重なっている。上から、今日中、確認待ち、保留。誰が作った分類なのか分からない。いつの間にかそうなっていた。

    今日中のトレーには、名札の差し替え、手袋サイズ変更、弁当注文の控え、タイムカードの修正依頼が入っている。

    確認待ちには、退職者ファイルが一冊。

    保留には、古い付箋が貼られた書類が何枚もある。

    祐実は退職者ファイルを見た。

    小野寺真帆の名前が、透明ポケット越しに見えた。

    「これは、確認待ちです」

    「高瀬さん待ちですか?」

    「いえ」

    祐実は一瞬だけ迷った。

    「私です」

    芽衣は何も言わなかった。

    紙コップのふたをまた親指で押した。ぱこ、と音がした。

    「三枝さん、気づいてました?」

    「何に?」

    「いや」

    芽衣は目をそらした。

    「気のせいかもですけど」

    祐実は返事をしなかった。

    気のせい、という言葉は便利だった。置き場所のないものを、一度空中に戻せる。誰かが拾わなければ、なかったことに近くなる。

    祐実は机に戻り、右奥の茶封筒を手前に引いた。

    封筒の口は、昨日より少し開いている気がした。そう見えるだけかもしれない。中の鍵は変わらずそこにある。名札の控えもある。退職手続きの確認メモもある。

    封筒を動かすと、鍵が鳴った。

    更衣室で閉めた五十二番のロッカーの音と、少し似ていた。

    祐実はパソコンで返却物リストを開いた。

    小野寺真帆。

    制服上下一組。

    その横に、先週入力したメモがある。

    ロッカー内残置物あり。

    祐実はその下に、新しい行を作った。

    月曜朝、再度確認。

    そこまで打って、手が止まった。

    再度、という言葉が嫌だった。

    一度目があることを認める言葉だった。前にも見た。前にも戻っていた。前にも、気づいていた。

    祐実はカーソルを戻し、再度、を消した。

    月曜朝、確認。

    それだけにした。

    嘘ではない。

    でも、全部でもない。

    事務所の電話が鳴った。祐実は画面を閉じずに受話器を取った。

    「はい、総務です」

    現場からだった。シフト表の早番の一人が、急に休むという連絡だった。祐実はメモを取り、代わりに入れる人の名前を確認した。机の上の付箋を一枚取り、名前を書いた。

    その付箋をモニターの下に貼ろうとして、先週の黄色い付箋に指が触れた。

    五十二番確認。

    今朝、押し戻したばかりの端が、また少し浮いていた。

    祐実は新しい付箋を、その隣に貼った。

    早番変更。

    黄色い紙が二枚、モニターの下に並んだ。

    仕事は増えると、すぐ横に並ぶ。

    終わっていないものも、急ぎのものも、同じ粘着面で机に貼りつく。

    祐実は電話を切ったあと、シフト表を開き直した。

    小野寺真帆の名前は、やはりどこにもなかった。

    けれど、空いたはずの場所を埋めるたび、別の場所が少しずれる。

    一人分を消しても、紙の上の余白だけが少し残った。

    祐実はその行を指で押さえた。

    かわりに、プリンターから出した修正版のシフト表を手に取った。紙はまだ温かかった。指の腹に、インクの湿り気が少し残った。

    祐実はシフト表を掲示しに行かなければならなかった。

    その前に、机の右奥の茶封筒を見た。

    封は、まだしていない。

    五十二番のロッカーも、まだ空ではない。

    祐実はシフト表を持ったまま、しばらく立っていた。

    事務所の窓の向こうで、白い制服の人たちが現場へ流れていく。

    同じ白い布なのに、誰かが着ているものと、誰も着ていないものでは、持ったときの重さが違う気がした。

    返却物リストには、布の重さを書く欄しかなかった。


    第4話 冷蔵庫の保存容器

    休憩室の冷蔵庫は、誰かが閉めるたびに少しだけ鳴る。

    ぴ、とも、きゅ、とも違う。古いゴムが一度だけ息をするような音だった。

    三枝祐実は、その音を聞くと、いつも中身を確認したくなる。賞味期限の切れた牛乳。名前のないペットボトル。誰かが一口だけ残した缶コーヒー。そういうものは、気づいた人が損をする。

    昼休み前の休憩室には、まだ誰もいなかった。

    電子レンジの中に、昨日の弁当の匂いが少し残っている。テーブルの端には、誰かがこぼしたふりかけの粒が三つだけ落ちていた。椅子は六脚あるのに、ひとつだけ机から少し離れている。

    祐実はシフト表を手に持ったまま、その椅子を見た。

    小野寺真帆がよく座っていた場所だった。

    そう決まっていたわけではない。名札が貼ってあったわけでもない。ただ、休憩室にはそういう場所ができる。誰かがいつも同じ椅子に座る。別の人がそこを何となく避ける。空いていても、少しだけ遠慮する。

    祐実は椅子を机の下に戻そうとして、やめた。

    そのままでも、誰も困らない。

    困らないものほど、長くそのままになる。

    冷蔵庫を開けた。

    白い庫内灯がついて、低い音が少しだけ強くなる。ドアポケットには調味料がいくつか並んでいた。チューブのしょうが。誰のものか分からないマヨネーズ。半分だけ残ったペットボトルのお茶。

    上段の奥に、小さな保存容器があった。

    透明のふたに、油性ペンで名前が書いてある。

    小野寺。

    文字は少し薄くなっていた。何度か洗われて、線の端が削れている。小の字だけ、まだ濃い。寺の最後の払いは、ふたの端で少し途切れていた。

    祐実は保存容器を取り出した。

    軽かった。

    中身は空だった。

    空なのに、冷えていた。

    指先に、冷蔵庫の湿った冷たさが移る。容器の底には、水滴がひとつついていた。中に何か入っているわけではない。ただ、誰かがここに入れて、誰も出さず、誰も捨てなかったものだった。

    祐実はふたを開けた。

    匂いはしなかった。

    何も入っていない。

    本当に空だった。

    それなのに、捨てる理由が見つからなかった。

    「まだあったんですね」

    後ろから声がした。

    片岡芽衣だった。紙コップは持っていない。代わりに、手に小さなハンドクリームを持っていた。ふたを閉める途中だったのか、白いクリームが親指の付け根に少し残っている。

    「小野寺さんのですか」

    「名前が残っています」

    祐実は答えた。

    「中身は空です」

    「空なら、捨ててもよさそうですけどね」

    芽衣はそう言ったあと、少しだけ間を置いた。

    「でも、なんか捨てづらいですね」

    祐実は保存容器を持ったまま、冷蔵庫の前に立っていた。

    捨てづらい。

    そう言える芽衣を、少し羨ましいと思った。

    祐実はそういう言い方ができない。空の容器は、廃棄対象。名前が残っていれば、本人確認。退職者の私物であれば、返却または処分。言葉はいくつもある。

    でも、手は動かなかった。

    「確認します」

    祐実は言った。

    「誰にですか」

    芽衣の声は軽かった。

    祐実は答えられなかった。

    本人には、もう確認できない。高瀬に聞けば、処分してくださいと言われる。現場に聞けば、まだあったんですか、と言われる。誰に聞いても、結局は祐実が処理することになる。

    芽衣はハンドクリームのふたを閉めた。

    小さく、かち、と鳴った。

    「冷蔵庫、こういうの多いですよね」

    「多いです」

    「誰のか分からないやつより、名前があるやつの方が捨てにくいの、変ですね」

    祐実は保存容器のふたを閉めた。

    名前がある方が捨てにくい。

    それは、事務処理としては不便な感覚だった。

    名前があるから処理できるはずなのに、名前があるから止まる。

    祐実は保存容器を一度、テーブルの上に置いた。

    空の容器が、休憩室のテーブルに置かれる。

    それだけで、真帆が少し戻ってきたように見えた。

    戻ってきたのは本人ではない。

    ふたに残った名字だけだった。

    昼休みのチャイムが鳴った。

    現場の人たちが、少しずつ休憩室へ入ってくる。白い制服の袖。衛生帽を外す手。弁当箱を開ける音。電子レンジのボタンを押す音。誰かが椅子を引く音。

    祐実は保存容器を持ったまま、邪魔にならない場所へ移動した。

    藤崎久江が入ってきた。

    久江は古い布で包んだ弁当箱を持っていた。布の角が少し擦れて、糸が出ている。彼女はいつもの席には座らず、電子レンジの前で順番を待っていた。

    「それ、まだあったの」

    久江が言った。

    祐実は保存容器を見た。

    「小野寺さんのです」

    「知ってる」

    久江は短く言った。

    知ってる。

    その言い方が少し早かった。

    祐実は、保存容器を持つ手に力が入るのを感じた。

    「中身は空です」

    「空なら、洗ってあるんじゃない」

    久江は電子レンジの中を見ながら言った。

    「小野寺さん、そういうのちゃんとしてたから」

    久江の声に、懐かしむ感じはなかった。責める感じもない。ただ、休憩室の机を拭くみたいに言った。

    小野寺さん、そういうのちゃんとしてたから。

    祐実はふたの名前を見た。

    たしかに、容器は汚れていない。ふたの溝にも食べ物の跡はない。誰かが洗って、乾かして、ここに戻したように見えた。

    でも、それが真帆本人なのかは分からない。

    「処分しますか」

    祐実は聞いた。

    久江は答えなかった。

    電子レンジが、低い音を立て始めた。庫内で弁当箱がゆっくり回る。久江はその回転を見ていた。

    「捨てるなら、ふたの名前、消してからにした方がいいよ」

    少しして、久江が言った。

    「名前ついたままだと、なんかね」

    「なんか」

    祐実は繰り返した。

    久江は笑わなかった。

    「なんか、でしょ」

    電子レンジが止まった。

    久江は弁当箱を取り出すと、熱かったのか指を一度引っ込めた。それから布で包み直し、いつもの椅子に座った。

    いつもの椅子。

    真帆の椅子ではない。

    それでも、祐実はさっき少し離れていた椅子の方を見てしまった。昼休みの人で埋まり始めているのに、その椅子だけ、誰も座っていなかった。

    シフト表では、名前は詰められる。

    休憩室では、椅子が少し残る。

    祐実はその考えを声にしなかった。

    保存容器を持って、事務所へ戻った。

    机の右奥には、茶封筒があった。封はまだしていない。隣には、朝から貼ったままの付箋が二枚ある。五十二番確認。早番変更。

    祐実は保存容器を机に置いた。

    茶封筒の横に置くと、どちらも小さな未処理に見えた。

    封筒は茶色い紙で、保存容器は透明なプラスチックだった。材質は違う。片方は書類を入れるもの。片方は弁当のおかずを入れるもの。

    でも、どちらも口が閉じていた。

    どちらも、机の上で動かしにくかった。

    祐実は返却物リストを開いた。

    小野寺真帆の欄に、保存容器、と入力しようとして、手を止めた。

    保存容器。

    私物。

    冷蔵庫内残置物。

    どれも正しい。

    でも、どれもしっくりこない。

    真帆がそこで昼を食べていたこと。ふたに名字を書いていたこと。きっと何度か洗って使っていたこと。休憩室の椅子を、使ったあと少しだけ机の下に戻していたこと。

    そこまで書ける欄はなかった。

    祐実は「保存容器」とだけ入力した。

    Enterキーを押す。

    画面の中では、一行が増えた。

    それだけだった。

    夕方、祐実はシフト表をもう一度確認した。

    早番変更の付箋は剥がした。新しい名前は入れた。休みの連絡も反映した。ラインの人数も足りている。表としては問題ない。

    ただ、真帆のいたあたりを見てしまう。

    そこにはもう、別の人の名前が入っている。

    それでも、空いて見える。

    祐実は印刷したシフト表を掲示板に持っていった。更衣室の前を通る。五十二番のロッカーは閉じていた。

    開けなかった。

    開けなかったことを、開けなかったまま通り過ぎたことを、少しだけ覚えていた。

    帰る前、保存容器をどうするか決めなければならなかった。

    祐実は容器を持って、給湯室へ行った。

    スポンジは濡れていた。誰かが使ったあと、しっかり絞らずに置いたらしい。シンクの端に、水が細く残っている。

    祐実は保存容器をもう一度洗った。

    中身は空なのに。

    洗う必要はないのに。

    水を出し、スポンジに洗剤をつけ、ふたの溝をなぞった。油汚れはない。匂いもない。ただ、名前の周りだけを指でこすった。

    小野寺。

    油性ペンの文字は消えなかった。

    祐実は水を止めた。

    容器を伏せて、水切りかごに置く。透明な容器から、水が一滴落ちた。シンクに当たって、小さく鳴った。

    捨てることも、返すことも、まだできなかった。

    祐実は事務所へ戻り、茶封筒の横に小さなメモを置いた。

    保存容器確認。

    付箋ではなく、コピー用紙の端を切ったものに書いた。付箋にすると、またモニターの下に並んでしまう気がした。

    夜、家に帰ると、椅子の背に洗濯物がかかっていた。

    朝もそこにあった。

    白いシャツ。黒い靴下。タオル。部屋着のズボン。

    祐実はバッグを床に置き、シャツを一枚取った。畳もうとして、途中でやめた。袖を内側に折ったところで、手が止まる。

    職場では、誰かの制服の畳み方まで気になる。

    家では、自分の服を畳めない。

    祐実はシャツを椅子の背に戻した。

    洗濯物の山は、少し形を変えただけだった。

    冷蔵庫を開けると、奥に小さな保存容器があった。

    自分のものだった。

    中身は入っている。いつ作ったのか、すぐに思い出せなかった。ふたには何も書いていない。名前も、日付もない。

    祐実はそれを見て、すぐに扉を閉めた。

    家の冷蔵庫の音は、工場の休憩室のものより少し高かった。

    閉めたあとも、しばらく鳴っていた。

    祐実は部屋の真ん中で立ったまま、自分の手を見た。

    今日は、空の容器を洗った。

    自分の容器は、冷蔵庫の奥に戻したままだった。

    椅子の背では、畳まれていない洗濯物が、部屋の空気を少し重くしていた。

    祐実は電気をつけたまま、しばらくそこに立っていた。

    明日の朝、職場の冷蔵庫には、もう小野寺真帆の保存容器はない。

    水切りかごの中で、乾いているはずだった。

    それをどこへ置くのかは、まだ決まっていなかった。


    第5話 布バッグの洗剤の匂い

    藤崎久江の布バッグは、いつも休憩室の椅子の背にかかっている。

    生成りの布で、持ち手の片方だけ少し伸びていた。何度も洗ったのか、角の色が薄くなっている。底の近くには、小さな糸くずがついていた。

    三枝祐実は、そのバッグの匂いを覚えてしまった。

    柔軟剤ほど甘くない。洗剤だけでもない。干した布を早く取り込みすぎたときの、少し湿った匂いが混じっている。

    五十二番のロッカーに戻っていた制服と、よく似ていた。

    似ている、と言い切るには弱い。

    でも、気のせいにするには、何度も同じだった。

    昼休み前、久江は休憩室の流しに立っていた。

    誰かが使った台拭きを洗っている。水を出し、絞り、もう一度水を含ませて、また絞る。台拭きはもう十分きれいに見えた。それでも久江は、端の方を親指で押すようにして、もう一度こすった。

    「それ、誰かのですか」

    祐実は聞いた。

    久江は振り向かなかった。

    「誰かのっていうか、みんなの」

    「当番、今日じゃないですよね」

    「汚れてたから」

    久江はそう言って、台拭きを強く絞った。

    水が流しに落ちた。ぽた、ではなく、短く、ばしゃ、と鳴った。

    祐実は休憩室の入口に立ったまま、久江の手元を見ていた。久江の手は大きくない。指も細くない。ただ、物を扱うときに迷いがなかった。

    置いてあるものを寄せる。

    濡れているものを絞る。

    皺のあるものを伸ばす。

    誰かが少し残したものを、流しまで持っていく。

    その動きが、あまりに自然だった。

    テーブルの上には、久江の弁当包みが置いてある。古い紺色の布で、角に白い糸が出ていた。結び目は小さく、きつい。何度も同じ場所で結んだ布の癖がついていた。

    布バッグの口から、洗濯ばさみがひとつ見えていた。

    青いプラスチックの、少し色あせた洗濯ばさみだった。

    祐実はそれを見て、目をそらした。

    職場に洗濯ばさみがあること自体は、おかしくない。更衣室にも、給湯室にも、誰かが持ってきたものがいつの間にか増える。輪ゴム、使いかけのテープ、名前の書かれていないボールペン、余ったマスク。

    ただ、久江のバッグから見えた洗濯ばさみには、家の感じが強すぎた。

    洗面所。

    物干し竿。

    朝のベランダ。

    そういう場所が、休憩室の椅子の背にかかっていた。

    「三枝さん、そこ邪魔ならどかして」

    久江が言った。

    祐実は自分がバッグを見ていたことに気づいた。

    「いえ、大丈夫です」

    「それ、昼までそこに置いとくから」

    「はい」

    久江は台拭きを広げ、流しの横にかけた。端をそろえ、手のひらで一度だけ押した。

    押さなくても、落ちない。

    でも久江は押した。

    休憩室に片岡芽衣が入ってきた。

    「藤崎さん、また洗ってるんですか」

    「汚れてたから」

    「藤崎さんが洗うと、台拭きまで緊張しますね」

    芽衣が言うと、久江は少し笑った。

    「台拭きは緊張しないでしょ」

    「いや、なんか、ちゃんとしなきゃって顔してます」

    「顔なんかないよ」

    久江はそう言いながら、テーブルの端に落ちていたふりかけの粒を指で集めた。三粒。親指の腹に乗せて、そのまま流しへ捨てる。

    祐実は保存容器のことを思い出しかけて、すぐにやめた。

    保存容器は、給湯室の水切りかごに伏せたままになっている。朝、見に行ったときには乾いていた。乾いていたのに、まだそこに置いてある。

    どこへ置けばいいのか、決まらない。

    久江は芽衣の紙コップを見た。

    「それ、また机に置きっぱなしにするんじゃないよ」

    「今日は捨てます」

    「昨日のもあった」

    「え、見てました?」

    「見えるでしょ。机の上なんだから」

    芽衣は笑った。

    「藤崎さん、全部見てますよね」

    「見えるところにあるものはね」

    久江は弁当包みの結び目をほどいた。

    布の中から、古いアルミの弁当箱が出てきた。角が少しへこんでいる。ふたの端に、小さな傷が並んでいた。

    久江は弁当箱を開ける前に、包み布を丁寧に畳んだ。

    半分にして、また半分にして、端をそろえる。そろえたあと、右手の指で折り目を押す。

    祐実はその指を見た。

    五十二番のロッカーに戻っていた制服の袖を思い出した。右袖。左袖。少しずつ違う折り目。きれいにしようとしたあとだけが残っていた畳み方。

    「藤崎さん」

    祐実は言った。

    久江は弁当箱のふたに手をかけたまま、顔を上げた。

    「なに」

    「制服って、家で洗うことありますか」

    芽衣が、紙コップを持つ手を止めた。

    久江はすぐには答えなかった。

    電子レンジの中で、誰かの弁当が回っている。低い音が休憩室の壁に当たる。冷蔵庫が一度だけ鳴った。

    「汚れたら、あるんじゃない」

    久江は言った。

    「工場の制服です」

    「家に持って帰る人もいるでしょ」

    「返却前とか」

    「知らないよ、そんなの」

    早かった。

    知らない、の出方が少し早かった。

    久江は弁当箱のふたを開けた。中には、卵焼きと煮物と小さな梅干しが入っている。全部、隙間なく詰められていた。汁気のあるものはアルミカップに入っている。梅干しは、ご飯の真ん中ではなく端に寄っていた。

    祐実はそれ以上聞かなかった。

    久江は箸を取った。

    その前に、自分の袖口を一度伸ばした。

    袖には皺などほとんどなかった。けれど久江は、親指と人差し指でつまみ、布の端をほんの少し引いた。癖のようだった。

    洗ったものを干す前。

    畳む前。

    しまう前。

    布の端を整える人の手だった。

    祐実は、その手を見ている自分を隠すために、休憩室の掲示板へ目を向けた。

    シフト表が貼ってある。

    真帆の名前はない。

    そこに誰かの名前が入っている。

    それでも、行の間にまだ空気があるように見える。

    久江は弁当を食べながら、ふと席を立った。

    テーブルの端に、誰かの箸袋が残っていた。中身はない。紙だけだった。久江はそれを拾い、くしゃっと小さく丸めて、ゴミ箱へ入れた。

    「藤崎さん、座って食べてくださいよ」

    芽衣が言った。

    「見えちゃうと気になるの」

    「見なきゃいいのに」

    「見えたら終わり」

    久江はそう言って、また座った。

    祐実はその言葉を聞いて、茶封筒を思い出した。

    見えたら終わり。

    でも、自分は見えているものを右奥に寄せている。

    久江は見えたものを片づける。

    その違いが、少し嫌だった。

    午後、事務所に戻ると、机の上に未処理が増えていた。

    名札ケースが三つ。退職者ファイル。早番変更の付箋。保存容器確認と書いた紙。茶封筒。

    その横に、誰かが置いたらしい洗濯ばさみがあった。

    青いプラスチック。

    久江のバッグから見えていたものと、似ていた。

    祐実は一瞬、触らなかった。

    それから、指先でつまんだ。

    洗濯ばさみには、小さな白い跡がついていた。粉か、洗剤か、乾いた水の跡か分からない。挟む部分の内側に、布の繊維のようなものが少し残っている。

    「これ、誰のですか」

    祐実は芽衣に聞いた。

    芽衣はパソコンから顔を上げた。

    「なんですか?」

    「洗濯ばさみ」

    「あ、藤崎さんがさっき置いてました。台拭き干すのに使うって」

    「ここに?」

    「たぶん、一回置いただけだと思います」

    一回置いただけ。

    それで机に残るものが、職場には多すぎる。

    祐実は洗濯ばさみを返しに行こうとして、やめた。

    久江のところへ持っていけばいい。休憩室か、更衣室か、現場入口にいるはずだった。でも、その小さな青いものを持って歩くのが、なぜか嫌だった。

    五十二番のロッカーに戻っていた制服。

    保存容器。

    洗濯ばさみ。

    全部、違う物のはずなのに、どれも少し湿って見えた。

    祐実は洗濯ばさみを机の端に置いた。

    置いたあと、すぐに場所を変えた。

    茶封筒の横では近すぎる。

    保存容器確認の紙の上では、意味が出すぎる。

    結局、パソコンの横に置いた。

    そこも十分おかしかった。

    夕方、給湯室へ行くと、久江がいた。

    水切りかごの前に立っている。

    保存容器を手に持っていた。

    祐実は足を止めた。

    「それ」

    久江は振り向いた。

    「ああ、乾いてたから」

    手には、小野寺、と名前の残った保存容器があった。久江はふたの溝を指でなぞっていた。洗ったあとの水跡を確認するような手つきだった。

    「置いておきました。まだ確認中なので」

    祐実は言った。

    「そう」

    久江は保存容器を返そうとした。

    けれど、すぐに渡さず、ふたの名前を見た。

    「これ、薄くなってきてるね」

    「何度か洗われているので」

    「消えそうで消えない字って、嫌だね」

    久江はそう言った。

    その声は、さっき休憩室で「知らないよ」と言ったときより遅かった。

    祐実は保存容器を受け取った。

    久江の手から、ほんの少し洗剤の匂いがした。

    台所用洗剤かもしれない。台拭きの匂いかもしれない。さっき洗った保存容器の匂いかもしれない。

    それでも、五十二番のロッカーの制服を思い出した。

    「藤崎さん」

    「なに」

    「小野寺さんの制服、見ましたか」

    久江は手を拭いていた。

    備え付けの紙タオルを一枚取り、指の間を押さえるように拭く。急いでいる感じはない。

    「制服?」

    「五十二番のロッカーに、戻っていました」

    「へえ」

    久江は紙タオルを丸めた。

    「誰か間違えたんじゃない」

    「二回です」

    祐実は言った。

    言ってから、言わなければよかったと思った。

    久江は紙タオルをゴミ箱に入れた。

    外した、というより、落とした。軽い紙なのに、底に当たる音がした。

    「三枝さん、そういうの、高瀬さんに言えばいいんじゃない」

    「言います」

    「なら、そうしたら」

    久江は布バッグを持ち上げた。

    口が少し開いていた。中に、青い洗濯ばさみはなかった。事務所のパソコン横に置いたままだった。

    「あと」

    久江は出ていく前に言った。

    「使わないロッカー、早く空けた方がいいよ」

    「はい」

    「置いとくと、戻ってくるから」

    祐実は顔を上げた。

    久江はもう廊下へ出ていた。

    戻ってくる。

    その言い方が、ただの注意なのか、何かを知っている人の言い方なのか、祐実には分からなかった。

    事務所へ戻ると、パソコンの横に青い洗濯ばさみが残っていた。

    祐実はそれをつまんだ。

    久江に返すつもりだった。

    でも、久江はもう現場の方へ行っていた。白い制服の人たちの中に混じると、誰の背中か分からなくなる。

    祐実は洗濯ばさみを机の引き出しに入れようとして、やめた。

    引き出しの右奥には、茶封筒がある。

    小野寺真帆。

    ロッカー鍵。

    名札の控え。

    そこに洗濯ばさみまで入れるのは、違う気がした。

    祐実は未処理ボックスの上に、小さな空き箱を置いた。

    名札ケースが入っていた箱だった。

    その中に、青い洗濯ばさみを入れた。

    仮置き。

    そういう言葉が浮かんだ。

    祐実は、その言葉を紙には書かなかった。

    書いたら、また残る。

    帰り際、休憩室を通ると、久江の布バッグはもうなかった。

    椅子の背には、何もかかっていない。

    ただ、布バッグがかかっていた場所だけ、椅子の背もたれが少しへこんで見えた。

    そんな跡が残るはずはない。

    木の椅子でもない。安いパイプ椅子だ。布バッグひとつでへこむわけがない。

    それでも祐実には、そこだけ何かを外したあとに見えた。

    帰宅して、祐実は洗面所で手を洗った。

    手を拭くタオルが少し湿っていた。朝も湿っていた。替えようと思って、そのままだった。

    洗濯機の上には、洗濯ばさみが二つ転がっている。

    ひとつは白。

    ひとつは青。

    青い方は、職場のものとは違う。自分の家に前からあるものだった。プラスチックが少し欠けている。挟む力が弱くなって、薄いタオルしか留められない。

    祐実はそれを手に取った。

    開いて、閉じた。

    小さく、ぱちん、と鳴った。

    職場の机の上に置いた洗濯ばさみの音も、こんな音がするのだろうと思った。

    洗濯ばさみは、何かを留めるためにある。

    外したあとも、タオルの端に小さな跡が残ることがある。

    祐実は青い洗濯ばさみを洗濯機の上に戻した。

    タオルは替えなかった。

    部屋に戻ると、椅子の背の洗濯物はまだ畳まれていなかった。昨日より少し崩れている。シャツの袖が床に触れそうになっていた。

    祐実はその袖を拾い上げた。

    一度、内側に折った。

    真帆の制服の袖。

    久江の袖を伸ばす手。

    自分のシャツの袖。

    どれも同じ袖なのに、どれも同じには扱えなかった。

    祐実はシャツを畳まず、椅子の背に戻した。

    袖だけは、さっきより少し内側に入った。

    それだけだった。


    第6話 裏返った袖

    タイムカードの箱は、事務所の入口の横にある。

    古い銀色の機械で、社員証を差し込むたびに、がちゃん、と少し大げさな音がする。朝の食品工場では、その音が何度も重なる。白い制服の袖が通り、衛生帽をかぶる前の髪が通り、眠そうな顔が通る。

    三枝祐実は、その音を聞きながら退職者ファイルを開いた。

    小野寺真帆の名前は、まだ確認待ちの透明ポケットに入っている。

    茶封筒は机の右奥にある。封はしていない。保存容器は、給湯室の水切りかごから事務所の棚に移した。青い洗濯ばさみは、名札ケースの空き箱の中にある。

    それぞれ別の場所に置いたはずなのに、机に座ると全部が同じ方を向いている気がした。

    祐実は退職書類を一枚ずつ出した。

    退職届。

    制服返却確認。

    名札回収。

    ロッカー鍵。

    タイムカード処理。

    短い項目が、きれいに並んでいる。

    小野寺真帆の退職理由は、やはり一行だった。

    家庭の事情。

    それだけだった。

    書類の余白の方が広かった。

    祐実はその余白に指を置いた。紙は少し冷たい。朝の事務所はまだ暖房が効ききっていない。紙の冷たさは、机の冷たさに似ていた。

    高瀬亮介の字は、きれいだった。

    家庭の事情、と書く線も、日付を書く線も、確認済みの丸も、同じ力で整っている。乱れがない。どの文字も、会社の書類に入る準備ができている。

    でも、真帆の最後の日のタイムカードは、少し乱れていた。

    祐実はタイムカードの控えを探した。

    古いクリアファイルの中に、退職月の打刻一覧が入っている。タイムカードそのものではなく、印字された一覧表だった。数字が細かく並んでいる。出勤、退勤、休憩開始、休憩終了。

    小野寺真帆。

    退職日の三週間前から、休憩終了の時刻が少しずつ遅れている。

    十二時四十六分。

    十二時四十八分。

    十二時五十一分。

    一度だけ、十三時を過ぎていた。

    大きな遅刻ではない。注意するほどでもない。現場では、誰かがトイレに行っていたとか、電話があったとか、電子レンジが混んでいたとか、そのくらいで済む。

    そういう日は、打刻一覧の中ではそのまま流れていく。

    祐実は一覧表を見たまま、指で数字をなぞった。

    数字は声を出さない。

    でも、同じ場所が少しずつずれていく。

    そのずれを、誰も紙の上では大きな問題にしなかった。

    「三枝さん」

    片岡芽衣が、入口から顔を出した。

    「これ、どこに置けばいいですか」

    手に持っていたのは、衛生帽の予備だった。透明な袋に十枚ずつ入っている。袋の中で白い布がぺたんと重なっている。

    「更衣室の棚です」

    祐実は答えた。

    「サイズ、Mでいいですか」

    「Mを多めに。Lは上段で」

    「はーい」

    芽衣は行きかけて、机の上の書類を見た。

    「小野寺さんのやつですか」

    「確認中です」

    「まだ、いろいろ残ってるんですね」

    軽い声だった。けれど、芽衣はすぐに続けなかった。

    祐実はタイムカードの一覧を裏返した。

    隠すほどのものではない。

    それでも、裏返した。

    「真帆さん、衛生帽よくなくしてましたよね」

    芽衣が言った。

    「小野寺さんが?」

    「なくすっていうか、朝、探してました。あれ、私のどこですかね、みたいな」

    祐実は顔を上げた。

    「いつ頃ですか」

    「辞めるちょっと前です。たぶん」

    芽衣は衛生帽の袋を抱え直した。

    「でも、すぐ見つかるんです。ロッカーの上とか、休憩室の椅子とか。だから、みんな笑ってました」

    「笑っていた」

    「本人も笑ってました。あ、またやりました、って」

    祐実は透明な袋の中の衛生帽を見た。

    白い布が、袋の中で一枚ずつ薄く折れている。新品の衛生帽には、まだ誰の汗もついていない。誰の髪の形も残っていない。

    「小野寺さん、そういうの、前からでしたか」

    芽衣は少し考えた。

    「前は、ちゃんとしてました」

    ちゃんとしてました。

    その言葉が、袋の中の白い布みたいに平たく聞こえた。

    「でも、辞める前は、なんか」

    芽衣はそこで止まった。

    「なんか?」

    「うまく言えないです。細かいことが、ちょっとずつ落ちてる感じでした」

    祐実は何も言わなかった。

    芽衣は衛生帽の袋を持ったまま、少し照れたように笑った。

    「すみません。変な言い方で」

    「いえ」

    祐実は首を振った。

    「分かります」

    分かる、と言ったあとで、本当に分かっていたのか分からなくなった。

    芽衣が出ていくと、事務所にまたタイムカードの音が戻った。

    がちゃん。

    少し遅れて、また、がちゃん。

    祐実は退職月の書類をもう一度見た。

    制服返却確認の控えに、真帆のサインはなかった。代わりに、高瀬の確認印がある。制服上下一組、名札、衛生帽、ロッカー鍵。

    欄は埋まっている。

    埋まっているのに、足りなかった。

    祐実は制服返却のメモを探した。

    倉庫の棚に、返却された制服の一時保管ボックスがある。退職者やサイズ交換の制服を、一度そこに入れて、後で業者に出す。箱は段ボールではなく、白いプラスチックのコンテナだった。角に古い黒ずみがある。

    祐実は事務所を出て、倉庫へ向かった。

    倉庫は冷えていた。

    食品の保管場所ではないが、工場全体の温度が低いせいで、書類や備品も少し冷たい。棚には予備の手袋、マスク、衛生帽、エプロン、使い捨ての靴カバーが並んでいる。

    一時保管ボックスには、洗濯済みではない制服がいくつか入っていた。

    サイズ交換のもの。

    ボタンが取れたもの。

    袖口が破れたもの。

    祐実は箱の中を見た。

    白い布が重なっている。どれも同じように見える。けれど、近くで見ると、それぞれ少し違う。襟元の黄ばみ。裾の小さなほつれ。ポケットの角の擦れ。

    箱の底に、ひとつだけ袖が裏返った制服があった。

    上着の身頃は畳まれている。

    でも、左袖だけが裏返っている。

    内側の縫い目が見えていた。袖口の内側に、薄い汚れが残っている。外からは分からない場所だった。

    祐実は手を伸ばして、そこで止めた。

    小野寺真帆のものかどうかは分からない。

    名札は外されている。サイズも同じ人が何人もいる。返却メモと照合しなければ、誰のものかは分からない。

    それでも、祐実はその袖を見ていた。

    袖だけ裏返った制服。

    片づけようとして、最後まで戻せなかった形。

    急いで脱いだのかもしれない。

    疲れていただけかもしれない。

    誰かがあとで直すと思ったのかもしれない。

    でも、真帆が辞める前に、衛生帽を探していたこと。休憩終了が少し遅れていたこと。保存容器を置き忘れていたこと。全部が、袖の内側みたいに見えてきた。

    外からは、白い制服。

    内側だけ、少し乱れている。

    「何してるの」

    声がして、祐実は振り向いた。

    藤崎久江が倉庫の入口に立っていた。手には空の手袋箱を持っている。潰して捨てるつもりだったのか、箱の角が折られていた。

    「制服の確認です」

    祐実は答えた。

    久江は箱の中を見た。

    「それ、業者に出すやつでしょ」

    「はい」

    「袖、戻しといた方がいいよ。洗うとき絡むから」

    久江はそう言って、近づいてきた。

    祐実が止める前に、久江は箱の中の制服を取った。左袖をつまみ、内側から指を入れ、するっと表へ返す。

    手が早かった。

    慣れていた。

    久江は袖口を軽く伸ばした。

    何も考えていないような手つきだった。

    でも、祐実には、そこだけよく見えた。

    「藤崎さん」

    「なに」

    「小野寺さん、辞める前、何か変でしたか」

    久江は制服を戻した。

    すぐには答えなかった。

    倉庫の冷たい空気の中で、手袋箱の紙が少し鳴った。久江の指が、潰した箱の角を押している。

    「疲れてたんじゃない」

    「それだけですか」

    「働いてたら、みんな疲れるでしょ」

    久江の声は低くなかった。

    でも、言葉の閉じ方が少し固かった。

    「衛生帽を探していたそうです」

    「誰でも探すよ」

    「休憩の戻りも、少し遅れていました」

    「三枝さん」

    久江は祐実の方を見た。

    「そういうの、あとから見ると何でもそれっぽく見えるよ」

    祐実は何も言えなかった。

    あとから見ると。

    確かにそうだった。

    遅れた時間。

    置き忘れた保存容器。

    裏返った袖。

    なくした衛生帽。

    そのときは全部、小さすぎた。

    小さすぎて、仕事の流れの中に混ざっていた。

    久江は手袋箱を抱え直した。

    「小野寺さん、最後の日も普通だったよ」

    「普通」

    「普通に、お疲れさまでしたって言って帰った」

    祐実は、普通、という言葉を聞いた。

    普通、という言葉は、紙の上で場所を取りすぎなかった。

    「藤崎さんは、覚えてるんですね」

    祐実が言うと、久江は一瞬だけ表情を止めた。

    「一緒のラインだったから」

    「そうですか」

    「それだけ」

    久江はそう言って、倉庫を出ていった。

    祐実は箱の中の制服を見た。

    さっき裏返っていた袖は、もう表に戻っている。

    戻ってしまうと、分からなかった。

    そこがさっきまで裏返っていたことを、誰かが言わなければ、分からない。

    祐実はコンテナの側面に貼られた古いラベルを見た。

    返却制服・業者行き。

    そう書いてある。

    全部、業者行き。

    その一言で、袖の裏返りも、ポケットの擦れも、襟元の黄ばみも、同じ箱に入る。

    事務所に戻る途中、休憩室の冷蔵庫の前を通った。

    真帆の保存容器は、もうそこにはない。

    ないことを確認してしまった。

    ないなら、見なくていいはずだった。

    でも、上段の奥に空いた場所があるように見えた。

    祐実は冷蔵庫を開けなかった。

    午後、高瀬が退職者ファイルを取りに来た。

    「小野寺さんの件、まだ見てます?」

    「はい」

    「何か問題ありました?」

    祐実は答える前に、机の上の紙を見た。

    タイムカード一覧。

    衛生帽の予備メモ。

    保存容器確認。

    制服返却メモ。

    どれも、ひとつだけでは問題ではない。

    「確認中です」

    祐実は言った。

    高瀬は少しだけ息を吐いた。

    「退職理由は家庭の事情で整理しています。本人とも確認済みです」

    「本人と」

    「はい」

    「電話ですか」

    「最後に面談しています」

    高瀬は即答した。

    即答できるように用意していたようにも聞こえた。

    「その記録はありますか」

    高瀬は祐実を見た。

    「必要ですか」

    その言い方は、責めているわけではなかった。けれど、紙に残すほどのことではない、と先に決めている声だった。

    「退職者ファイルとして、一応」

    祐実は言った。

    高瀬は少し黙った。

    「メモならあります。簡単なものですけど」

    「見せてください」

    「あとで送ります」

    あとで。

    祐実はその言葉を、机の右奥に置きたくなった。

    高瀬が出ていったあと、祐実は退職者ファイルを開いた。

    家庭の事情。

    一行。

    本人の字ではない。

    高瀬の字。

    確認印。

    それだけで、真帆の退職は書類の中で静かに閉じていた。

    しかし、机の上には閉じていないものが増えている。

    茶封筒。

    保存容器確認の紙。

    青い洗濯ばさみの入った空き箱。

    タイムカード一覧。

    衛生帽のメモ。

    祐実は新しい付箋を一枚取った。

    退職前確認。

    そう書きかけて、止まった。

    退職前。

    その言葉は広すぎた。

    どこまで前を見ればいいのか分からない。

    三週間前。

    二週間前。

    最後の週。

    最後の日。

    最後の休憩。

    最後の更衣室。

    祐実は付箋を捨てた。

    代わりに、タイムカード一覧の端に小さく丸をつけた。

    十二時五十一分。

    十三時〇二分。

    数字は小さい。

    でも、丸をつけると、少しだけ見える。

    夕方、芽衣が更衣室から戻ってきた。

    「三枝さん、衛生帽の棚、補充しておきました」

    「ありがとうございます」

    「あと、ロッカーの上に古いやつ一枚ありました。誰のか分からないです」

    芽衣は白い衛生帽を持っていた。

    透明袋には入っていない。少し皺がある。ゴムのところが伸びている。

    「どこのロッカーですか」

    「五十二番の上です」

    祐実は手を止めた。

    「上?」

    「はい。棚とロッカーの隙間みたいなところに挟まってました」

    芽衣は衛生帽を机に置いた。

    「捨てます?」

    祐実は衛生帽を見た。

    小野寺真帆のものだと決まったわけではない。

    でも、五十二番の上にあった。

    いつからあったのか分からない。

    誰かが置いたのか、落ちたのか、探して見つからなかったのかも分からない。

    白い布の端に、少しだけ埃がついている。

    祐実はそれを指で払おうとして、やめた。

    払えば、少しきれいになる。

    きれいになれば、また分かりにくくなる。

    「捨てないでください」

    祐実は言った。

    芽衣は少し驚いた顔をした。

    「置いときます?」

    「はい」

    「どこに?」

    祐実は机の上を見た。

    置き場所がない。

    茶封筒の横は違う。

    保存容器確認の紙の上も違う。

    青い洗濯ばさみの箱の中も違う。

    祐実は新しい透明袋を出した。

    衛生帽を入れる。

    袋の口を閉じずに、机の左側に置いた。

    閉じると、終わったように見える。

    それが嫌だった。

    帰る前、高瀬からメールが届いた。

    件名は、

    小野寺さん退職時面談メモ

    だった。

    本文は短かった。

    本人より、家庭の事情により退職希望。業務継続困難との申し出あり。詳細確認するも、本人希望により記録不要。了承。

    それだけだった。

    祐実は画面を見た。

    短い文章だった。

    短すぎるのに、会社のメールとしては足りているように見えた。

    真帆がどんな顔で言ったのか。

    休憩が遅れた日のこと。

    衛生帽を探した朝。

    保存容器を置き忘れた昼。

    袖だけ裏返った制服。

    その行の下には、まだ余白が残っていた。

    祐実はメールを印刷しなかった。

    画面を閉じもしなかった。

    そのまま、しばらく見ていた。

    事務所の入口で、タイムカードの機械が鳴った。

    がちゃん。

    誰かが退勤した音だった。

    今日の仕事が一人分、紙の中で終わる音。

    祐実は机の上の衛生帽を見た。

    袋の口は開いたままだった。

    白い布の端が、そこから少しだけ出ていた。

    家に帰ると、椅子の背の洗濯物がまた崩れていた。

    祐実はバッグを置き、手を洗い、冷蔵庫を開けた。

    奥の保存容器は、まだあった。

    中身も入っている。

    ふたには何も書いていない。

    祐実はそれを出さなかった。

    代わりに、椅子の背にかかっていた白いシャツを取った。

    袖を見る。

    片方だけ、少し裏返っていた。

    朝、拾ったときにそうなったのかもしれない。洗濯機から出したときかもしれない。干すときかもしれない。いつからそうだったのか、分からない。

    祐実は袖に指を入れた。

    内側から、表へ返す。

    それだけのことだった。

    それだけのことで、袖は普通の形に戻った。

    戻ってしまえば、さっきまで裏返っていたことは分からない。

    祐実はシャツを畳まなかった。

    袖だけ戻したシャツを、また椅子の背にかけた。

    部屋の中で、冷蔵庫が小さく鳴った。

    職場のものより少し高い音だった。

    祐実は、その音が止まるまで立っていた。


    第7話 開いた透明袋

    早朝の更衣室は、昼間よりも音が大きい。

    誰もいないからではない。誰もいない時間の方が、ロッカーの金属や、蛍光灯の小さな鳴り方や、床に落ちた髪の毛まで、少しだけ勝手に目立つ。

    三枝祐実は、始業より四十分早く会社に着いた。

    理由は、はっきりしているようで、はっきりしていなかった。

    五十二番のロッカーを確認するため。

    そう言えば仕事になる。

    でも、机の上にはまだ閉じていない透明袋があった。昨日、五十二番の上から見つかった古い衛生帽を入れた袋だった。袋の口は開いたまま、机の左側に置いてきた。

    閉じると、終わったように見える。

    開けたままにしておくと、白い布の端だけが少し出たままになる。

    祐実は事務所の鍵を開けず、更衣室へ向かった。

    廊下の床はまだ冷えていた。自動販売機の灯りだけが、壁を薄く白くしている。工場の奥では冷蔵設備が低く鳴っている。誰かが来る前の会社には、人が働く前から働いているものがある。

    更衣室の扉を開けると、洗剤の匂いがした。

    強くはない。

    でも、あった。

    祐実は足を止めた。

    古いロッカーの列が、蛍光灯の下でまっすぐ並んでいる。誰もいない更衣室では、番号の小さなシールだけが妙にはっきり見えた。

    五十二番。

    扉は閉じている。

    閉じていることに、もう安心できなかった。

    祐実は扉の前に立った。

    手を伸ばす前に、奥の方で小さな音がした。

    布がこすれる音だった。

    ロッカーの扉ではない。紙でもない。乾いた布が、別の布に触れる音。

    祐実は振り向かなかった。

    振り向く代わりに、息を止めた。

    更衣室の奥、洗面台の横にあるベンチのあたりに、誰かがいた。

    白い制服ではない。

    生成りの布バッグが見えた。

    藤崎久江のバッグだった。

    椅子の背でも、休憩室でもなく、更衣室のベンチに置かれている。持ち手の片方が少し伸びた、あの布バッグ。底の近くの糸くずまで、同じように見えた。

    久江は、五十二番のロッカーの前にしゃがんでいた。

    祐実の体が固まった。

    久江は祐実に気づいていない。

    いや、気づいているのかもしれない。けれど、こちらを見なかった。

    久江の手元には、白い制服があった。

    洗ったばかりのように、畳まれている。上着とズボン。衛生帽はない。名札もない。ただ制服だけ。

    久江はそれを両手で持っていた。

    祐実は声を出さなかった。

    出せなかった。

    久江は制服をロッカーの下の棚に置いた。置く、というより、戻すような手つきだった。棚の奥に少し押し込み、上着の袖を整える。右袖を内側に入れる。左袖の端を指で押さえる。最後に、裾の角を一度だけそろえる。

    それは、祐実が何度も見てきた手だった。

    台拭きを絞る手。

    弁当包みの端をそろえる手。

    保存容器のふたをなぞる手。

    裏返った袖を、何もなかったように戻す手。

    久江は、袖の端をもう一度見た。

    きれいに畳まれているのに、まだ足りないように、ほんの少しだけ引いた。

    その動きで、洗剤の匂いがまた立った。

    祐実は、ようやく口を開いた。

    「藤崎さん」

    声は思ったより小さかった。

    久江の手が止まった。

    制服の袖を押さえたまま、久江はしばらく動かなかった。更衣室の蛍光灯が、小さく一度鳴った。

    それから、久江はゆっくり振り向いた。

    驚いた顔ではなかった。

    困った顔でもなかった。

    ただ、朝の続きに人が一人増えたような顔だった。

    「早いね」

    久江が言った。

    祐実は、五十二番のロッカーと久江の顔を交互に見た。

    「それ、何ですか」

    聞く必要のないことを聞いた。

    久江は制服を見た。

    「制服」

    「誰のですか」

    「小野寺さんの」

    答えが早かった。

    祐実は指先が冷たくなるのを感じた。

    「どうして、藤崎さんが持っているんですか」

    久江はすぐには答えなかった。

    五十二番の扉は開いている。中には白い制服がある。下の棚に置かれたばかりの制服は、朝の蛍光灯の下で、やけに清潔に見えた。

    清潔なものほど、理由を聞きづらい。

    久江は立ち上がった。

    膝に手を置くような仕草はしなかった。年上なのに、立つ動きが妙に早かった。

    「洗ったから」

    「洗った?」

    「汚れてたから」

    いつもの言い方だった。

    台拭きのときと同じだった。

    汚れてたから。

    祐実はその言葉を、更衣室の床に落ちた水滴みたいに見た。

    「会社の制服です」

    「知ってる」

    「退職者の制服です」

    「知ってる」

    「どうして家で洗ったんですか」

    久江は布バッグを持ち上げた。

    その動作で、バッグの口が少し開いた。中に、青い洗濯ばさみが入っているのが見えた。事務所の空き箱に入れていたものとは別だった。少し色が濃い。挟む部分に白い跡がついている。

    「会社に出す前に、そのままじゃ嫌だったから」

    「誰がですか」

    祐実は聞いた。

    自分でも、質問がずれていると思った。

    久江は少しだけ目を細めた。

    「私が」

    更衣室の外で、遠くからタイムカードの音がした。

    がちゃん。

    誰かが来た。

    祐実は反射的に廊下の方を見た。

    久江はその隙に、五十二番の扉へ手をかけた。

    「待ってください」

    祐実は言った。

    久江の手が止まる。

    「閉めないでください」

    久江は祐実を見た。

    「開けっぱなしにするの?」

    「確認します」

    「見れば分かるでしょ」

    「分かりません」

    祐実の声が、少しだけ大きくなった。

    更衣室に自分の声が反射した。大きくしたかったわけではない。ただ、今まで右奥に寄せていたものが、急に机から落ちたような感じがした。

    久江は、五十二番の扉から手を離した。

    「三枝さんは、何が知りたいの」

    祐実は答えられなかった。

    何が知りたいのか。

    制服を誰が洗ったのか。

    なぜ戻したのか。

    真帆がなぜ辞めたのか。

    高瀬は何を知っているのか。

    久江はどこまで見ていたのか。

    全部のはずなのに、全部と言うには、手元のものが小さすぎた。

    ロッカー。

    制服。

    布バッグ。

    洗濯ばさみ。

    開いたままの透明袋。

    祐実は制服を見た。

    「小野寺さんは、これを返したんですか」

    久江は少しだけ息を吸った。

    「返したよ」

    「でも、また戻ってきました」

    「私が戻したから」

    「なぜ」

    久江は答えなかった。

    かわりに、自分の袖口をつまんだ。皺はなかった。けれど、いつものように、ほんの少しだけ伸ばした。

    祐実はその手を見た。

    「藤崎さん」

    「うん」

    「小野寺さんに、頼まれたんですか」

    久江の手が止まった。

    それだけで、答えのように見えた。

    けれど、久江はすぐに首を振った。

    「頼まれてない」

    「じゃあ」

    「置いてあったの」

    「どこに」

    「洗い場の横」

    更衣室の空気が、少しだけ冷えた気がした。

    「小野寺さんが最後に来た日?」

    「そう」

    「退職した日ですか」

    「その日の朝」

    久江は、五十二番のロッカーを見た。

    「制服、袋に入ってなかった。畳んでもなかった。袖も片方、裏返ってた。衛生帽も、どこかにやったまま」

    祐実は昨日の衛生帽を思い出した。

    五十二番の上に挟まっていた白い布。

    透明袋の口は、まだ閉じていない。

    「真帆さん、そんな人じゃなかった」

    久江は言った。

    小野寺、ではなく、真帆さん。

    祐実はそこを聞いた。

    「いつもなら、ちゃんとする人だった。畳んで、袋に入れて、名札も外して、鍵もまとめて、たぶん、三枝さんのところまで持っていったと思う」

    久江は少しだけ笑った。

    笑ったというより、口の端だけが動いた。

    「そういう子だったから」

    祐実は言葉を探した。

    「でも、その日は」

    「その日は、できなかったんでしょ」

    久江の声は、休憩室で聞く声より低かった。

    「できない日があるのよ」

    その言い方は、怒っているようにも聞こえた。

    誰に怒っているのかは分からなかった。

    真帆にか。

    会社にか。

    高瀬にか。

    祐実にか。

    自分にか。

    祐実は五十二番の中の制服を見た。

    白い上着の袖は、きれいに内側へ入っている。久江がさっき整えたばかりだった。乱れていた形はもうない。

    「それを、藤崎さんが洗ったんですか」

    「洗った」

    「いつからですか」

    「最初の日から」

    最初の日。

    祐実はその言葉を聞いた。

    久江は、また扉を閉めようとはしなかった。

    「退職の日、制服がそのままだったから、私が洗った。袋に入れようと思った。でも、袋がなくて、そのまま置いておいたら、次の日には処理済みになってた」

    「処理済み?」

    「誰かが紙だけ回したんでしょ」

    久江は言った。

    祐実の机の右奥にある茶封筒が、頭に浮かんだ。

    鍵。

    名札の控え。

    退職手続きの確認メモ。

    封はまだしていない。

    「それで、ロッカーに戻したんですか」

    「戻したっていうか」

    久江は少し言いよどんだ。

    「置く場所がなかった」

    祐実は黙った。

    それは、聞き覚えのある言葉だった。

    保存容器。

    衛生帽。

    洗濯ばさみ。

    茶封筒。

    置く場所がないものばかりが、ずっと机や棚の上に残っている。

    「業者に出せばよかったんじゃないですか」

    祐実は言った。

    言ったあとで、それが高瀬みたいな言い方だと思った。

    久江もそう思ったのかもしれない。

    「出せば終わるの?」

    久江が言った。

    祐実は答えられなかった。

    制服は業者に出せる。

    でも、袖が裏返っていたことは出せない。

    衛生帽を探していた朝は出せない。

    十三時〇二分の数字も、家庭の事情の下には収まらなかった。

    久江は布バッグをベンチに置いた。

    バッグの口から、洗濯ばさみが一つ落ちた。

    青いプラスチックが床に当たって、ぱちん、と鳴った。

    二人とも、その音を見た。

    久江はすぐ拾わなかった。

    それが、祐実にはいちばん変に見えた。

    いつもの久江なら、見えたものはすぐ拾う。

    落ちたものは、すぐ拾う。

    布の端は、すぐ伸ばす。

    台拭きは、すぐ洗う。

    でも、久江は床の洗濯ばさみを見たまま、少しの間、何もしなかった。

    「小野寺さんは、何か言っていましたか」

    祐実は聞いた。

    「何も」

    「本当に?」

    「何も言わなかった」

    久江は床の洗濯ばさみを拾った。

    指で挟む部分を一度だけ開いて、閉じた。ぱちん、と小さく鳴った。

    「言わない人だったから」

    「大丈夫です、って?」

    祐実が言うと、久江は祐実を見た。

    「知ってるんだ」

    「よく言っていたので」

    「そう」

    久江は洗濯ばさみを布バッグに戻した。

    「大丈夫です、って言う人ほど、大丈夫じゃないときも同じ顔するからね」

    祐実は黙った。

    久江の言葉は少し決まりすぎているように聞こえた。

    でも、久江は格好よく言ったわけではなかった。

    台拭きを絞るように、ただ言っただけだった。

    更衣室の外で、もう一度タイムカードが鳴った。

    がちゃん。

    人が増える時間だった。

    久江は五十二番の扉を見た。

    「私、何回もやってるうちに、変なことしてるのは分かってた」

    「何回も?」

    「洗って、戻して、また気になって、持って帰って、洗って」

    祐実は息を止めた。

    「持って帰っていたんですか」

    「全部じゃないよ」

    久江は少しだけ顔をしかめた。

    「汚れて見えたときだけ」

    「汚れて?」

    「汚れてないのに、汚れて見える日があるのよ」

    祐実は、布バッグの匂いを思い出した。

    柔軟剤ほど甘くない。洗剤だけでもない。干した布を早く取り込みすぎたときの、少し湿った匂い。

    「家で洗ったんですね」

    「会社で洗う場所ないでしょ」

    「でも」

    「分かってる」

    久江は言った。

    「おかしいのは分かってる」

    その言葉は、更衣室の床に落ちたまま、しばらく動かなかった。

    久江は、五十二番のロッカーの中の制服を見た。

    「でも、あの子の最後の制服が、あのまま箱に入るのが嫌だった」

    祐実は何も言えなかった。

    それは、正しい処理ではない。

    でも、ただの間違いとも言い切れなかった。

    久江は続けた。

    「三枝さんの仕事、増やしてるのも分かってた」

    「はい」

    祐実は思わず答えた。

    久江は少し笑った。

    「そこは、はい、なんだ」

    「増えていました」

    「そうよね」

    久江の笑いはすぐ消えた。

    「ごめん」

    更衣室の中で、ごめん、という言葉だけが小さく残った。

    祐実は、五十二番の下の棚を見た。

    制服はきれいに畳まれている。きれいすぎて、さっき久江が置いたことを知らなければ、ただの返却物に見える。

    でも、もう見てしまった。

    洗った人の手が、まだ袖に残っている気がした。

    戻した人の癖が、裾の角に出ていた。

    「これは、どうしますか」

    久江が聞いた。

    初めて、久江の方から聞いた。

    祐実は答えようとして、できなかった。

    業者に出す。

    記録する。

    高瀬に報告する。

    返却物リストに追記する。

    透明袋に入れる。

    どれも仕事としては正しい。

    でも、今この更衣室の中で、正しい順番が見つからなかった。

    祐実は五十二番のロッカーから制服を取り出した。

    白い布は少し温かい気がした。

    久江の手の温度なのか、洗ったあと乾いた布の温度なのか、ただ祐実の手が冷えているだけなのか分からなかった。

    「透明袋に入れます」

    祐実は言った。

    「閉じるの?」

    久江が聞いた。

    祐実は少しだけ黙った。

    事務所の机にある衛生帽の透明袋。

    開いたままの口。

    閉じれば終わったように見える。

    でも、開けっぱなしでは、白い布の端がずっと見える。

    祐実は制服を抱えたまま、久江を見た。

    「閉じません」

    久江は眉を動かした。

    「まだ」

    祐実は言った。

    「まだ、閉じません」

    久江は何も言わなかった。

    その代わり、ロッカーの扉を閉めた。

    金属の音が、更衣室に響いた。

    その音は、いつもより少し小さかった。

    事務所に戻ると、外は少し明るくなっていた。

    祐実は机の左側に置いていた透明袋を見た。衛生帽が入ったまま、口が開いている。白い布の端が、少し出ている。

    祐実は新しい大きめの透明袋を出した。

    そこに、洗った制服を入れた。

    上着。

    ズボン。

    袖が崩れないように、ゆっくり入れた。

    袋の口は閉じなかった。

    その横に、衛生帽の袋を置いた。

    二つの透明袋が、机の上に並んだ。

    どちらも、閉じられていない。

    祐実は返却物リストを開いた。

    小野寺真帆。

    制服上下一組。

    衛生帽。

    ロッカー鍵。

    保存容器。

    洗濯ばさみ。

    欄が足りない。

    画面の端に、文字が少し窮屈に並んだ。

    祐実は新しいメモを作った。

    小野寺真帆 退職時残置物確認。

    そこまで書いて、手を止めた。

    残置物。

    その言葉は便利すぎた。

    祐実は消した。

    もう一度、書いた。

    小野寺真帆 退職時に残ったもの。

    少し長い。

    事務の見出しとしては、あまりよくない。

    でも、今日はそのままにした。

    高瀬が来る前に、やることがあった。

    祐実は茶封筒を引き出しの右奥から出した。

    ロッカー鍵が、中で鳴った。

    名札の控えも入っている。

    封はしていない。

    祐実は封筒の口を見た。

    それから、透明袋を見た。

    閉じていないものが、机の上に三つ並んでいる。

    茶封筒。

    衛生帽の袋。

    制服の袋。

    祐実は、どれにも触れなかった。

    触れない代わりに、パソコンに一行だけ打った。

    確認中。

    それだけでは足りない。

    でも、処理済みよりは、まだましだった。

    タイムカードの音が聞こえた。

    がちゃん。

    誰かの一日が始まる音だった。

    祐実はその音を聞きながら、五十二番のロッカーの中が空になったことを思い出した。

    空になったのに、終わった感じはしなかった。

    更衣室には、まだ洗剤の匂いが残っている気がした。


    第8話 確認中のまま

    高瀬亮介は、透明袋を見てもすぐには何も言わなかった。

    事務所の机の上には、白いものがいくつも並んでいた。

    洗った制服を入れた大きめの透明袋。

    五十二番の上から見つかった衛生帽を入れた小さな透明袋。

    返却物リスト。

    閉じていない茶封筒。

    その横に、最後に印刷したシフト表があった。

    紙の上では、小野寺真帆の名前はもうどこにもない。別の人の名前が入り、早番も遅番も埋まり、ラインの人数も足りている。表としては、きれいだった。

    祐実はそのきれいな表を、少しだけ机の端に寄せた。

    高瀬は椅子に座らず、机の前に立ったままだった。

    「これは、何ですか」

    「小野寺さんの返却物です」

    「返却物は処理済みのはずですが」

    「処理済みにできませんでした」

    祐実はそう言った。

    言ったあとで、自分の声が思ったより低いことに気づいた。

    高瀬は透明袋の中の制服を見た。

    上着とズボン。袖は崩れないように入れてある。袋の口は閉じていない。白い布の端が少しだけ外へ出ている。

    「藤崎さんが、家で洗って戻していました」

    祐実は言った。

    高瀬の眉が少し動いた。

    「それは困りますね」

    最初に出た言葉が、それだった。

    それは困りますね。

    祐実は、机の上の茶封筒を見た。

    中にはロッカー鍵と名札の控えが入っている。封は、まだしていない。何日も机の右奥にあったせいで、角が少し柔らかくなっていた。

    「はい。困ります」

    祐実は答えた。

    高瀬は、少しだけ祐実を見た。

    「藤崎さんには注意します」

    「注意だけで終わりますか」

    言ってから、祐実は自分でも驚いた。

    高瀬も驚いた顔をした。

    「どういう意味ですか」

    祐実は返却物リストを手元に寄せた。

    小野寺真帆。

    制服上下一組。

    衛生帽。

    ロッカー鍵。

    名札。

    保存容器。

    青い洗濯ばさみ。

    欄の中に、文字が窮屈に並んでいる。

    「小野寺さんの退職理由は、家庭の事情になっています」

    「本人の希望です」

    「面談メモも見ました」

    「なら、問題ないと思いますが」

    高瀬の声は、いつもの声だった。

    仕事で使う声。

    感情を入れないようにしている声。

    けれど、感情を入れないことにも、少し体力がいる。祐実はそれを初めて見た気がした。

    「問題がないように見える書類は、揃っています」

    祐実は言った。

    「ただ、揃っていないものがあります」

    「例えば」

    「衛生帽です」

    祐実は小さな透明袋を指した。

    「退職後に五十二番の上から見つかりました」

    高瀬は袋を見た。

    「誰のものか確定できますか」

    「できません」

    「なら」

    「でも、五十二番の上にありました」

    高瀬はそこで黙った。

    祐実は続けた。

    「保存容器も残っていました。休憩室の冷蔵庫に。名前が書いてありました」

    「それは私物ですね」

    「はい」

    「本人に返却できないなら処分です」

    「そうです」

    祐実は保存容器確認と書いた紙を見た。

    コピー用紙の端を切っただけの紙だった。付箋にしなかったので、粘着面はない。だから、少し風が動くとすぐずれる。

    「でも、処分できませんでした」

    高瀬は息を吐いた。

    「三枝さん」

    「はい」

    「気持ちは分かりますが、退職処理はどこかで区切らないといけません」

    区切る。

    祐実はその言葉を聞いた。

    区切るという言葉は、線を引く感じがする。書類の欄に線を引く。シフト表に線を引く。終わったものと終わっていないものを、きれいに分ける。

    けれど、机の上の透明袋は、線で分けるには少し柔らかかった。

    「区切るために、確認したいです」

    祐実は言った。

    「小野寺さんが、なぜ家庭の事情とだけ書かれたのか」

    「家庭の事情だからです」

    「本人の言葉ですか」

    高瀬は答えなかった。

    タイムカードの機械が入口で鳴った。

    がちゃん。

    少し遅れて、もう一度鳴った。

    仕事が始まっていく音だった。

    高瀬は机の上の最後のシフト表を見た。

    「本人は、詳しく言いたくないと言っていました」

    「それを記録不要にしたのは、高瀬さんですか」

    「本人の希望です」

    「でも、記録不要と書いたのは高瀬さんです」

    高瀬は口を閉じた。

    祐実は自分の手元を見た。

    指先が少し冷えている。昨日の朝、制服を持ったときと似ていた。白い布の温度が、まだ指に残っているようだった。

    「責めたいわけではありません」

    祐実は言った。

    「ただ、全部が家庭の事情で閉じられているのに、職場にだけ物が残っています」

    高瀬は制服の袋を見た。

    「藤崎さんの行動は、規定違反です」

    「はい」

    「退職者の制服を持ち帰るのは問題です」

    「はい」

    「本来なら、すぐ報告すべきでした」

    「はい」

    祐実は全部に、はい、と答えた。

    久江に「増えていました」と答えたときと同じ声だったかもしれない。

    高瀬は少し戸惑った顔をした。

    「分かっているなら」

    「でも、藤崎さんだけの問題にはできません」

    祐実は言った。

    「藤崎さんは、おかしいことをしました。でも、そうする前に、誰かが気づけた小さいものがいくつかありました」

    「小さいもの?」

    「休憩の戻りが遅れていました。衛生帽を探していました。保存容器が残っていました。最後の制服が畳まれていませんでした」

    祐実は、タイムカード一覧を出した。

    十三時〇二分のところに、小さな丸がついている。

    その丸は、祐実がつけたものだった。

    「これだけで、何かが分かるわけではありません」

    祐実は言った。

    「でも、何もなかったとも言えません」

    高瀬は一覧表を見た。

    数字だけが並んでいる紙。

    数字は、誰にも味方しない。

    ただ、そこにある。

    「小野寺さんは、仕事を続けられないと言いました」

    高瀬はゆっくり言った。

    「理由は家庭の事情。詳細は話したくない。引き止められたくない。そう言いました」

    「はい」

    「私は、それを尊重しました」

    「はい」

    「それは間違いですか」

    祐実はすぐには答えなかった。

    間違い。

    正しい。

    規定。

    本人の希望。

    どれも、事務所の棚に置ける言葉だった。

    でも、今はその棚が少し足りない。

    「間違いだとは言えません」

    祐実は言った。

    「でも、残った物の置き場所を作らないまま、処理済みにしたと思います」

    高瀬は何も言わなかった。

    高瀬の手には、いつもの透明な書類トレーがなかった。だからか、少し落ち着かないように見えた。

    「置き場所」

    高瀬が繰り返した。

    「はい」

    祐実は、机の上の三つを見た。

    茶封筒。

    衛生帽の透明袋。

    制服の透明袋。

    「返却物として処理するもの。私物として処分するもの。記録として残すもの。それ以外に、まだ名前がつかないものがあります」

    「業務上は、名前をつけないと動かせません」

    「はい」

    祐実はうなずいた。

    「なので、名前を変えます」

    高瀬は祐実を見た。

    祐実はパソコンの画面を高瀬の方へ少し向けた。

    小野寺真帆 退職時に残ったもの。

    昨日打ったままの見出しだった。

    事務文書としては、弱い。

    長い。

    整っていない。

    でも、今の机には、それがいちばん近かった。

    「これを、退職者ファイルに入れたいです」

    「正式書類ですか」

    「いえ。確認メモです」

    「確認メモなら、内容を整理してください」

    「します」

    「感情的な表現は避けてください」

    「はい」

    祐実は少しだけ笑いそうになった。

    感情的な表現。

    この机の上で、いちばん感情的なのは、たぶん閉じていない透明袋だった。

    でも、袋は何も言わない。

    「高瀬さん」

    「はい」

    「家庭の事情、のままでもいいです」

    高瀬は少し意外そうな顔をした。

    「ただ、その下に、職場で確認されたことを残したいです」

    「何を」

    祐実は画面に打った。

    休憩終了時刻の遅れ。

    衛生帽の所在不明。

    保存容器の残置。

    制服返却状態の不一致。

    藤崎久江による洗濯・再配置。

    そこまで打って、手を止めた。

    再配置。

    きれいすぎる。

    祐実は消した。

    戻し入れ。

    それも少し違う。

    祐実は、しばらく考えた。

    それから、

    ロッカーへの再持ち込み。

    と打った。

    まだ硬い。

    でも、嘘ではなかった。

    高瀬は画面を見ていた。

    「これは、藤崎さんの処分にも関わります」

    「はい」

    「本人に確認します」

    「お願いします」

    「三枝さんも同席してください」

    祐実は顔を上げた。

    「私もですか」

    「あなたが確認したので」

    高瀬はそう言った。

    その言い方は少し冷たかった。

    でも、逃げられない冷たさではなく、役割を渡す冷たさだった。

    祐実はうなずいた。

    「分かりました」

    高瀬は、机の上の茶封筒に目を向けた。

    「それは、まだ封していないんですね」

    「はい」

    「なぜですか」

    祐実は茶封筒を手に取った。

    中で鍵が鳴った。

    軽い音だった。

    でも、長く聞いてきた音だった。

    「封をすると、鍵と名札だけの袋になるからです」

    高瀬は何も言わなかった。

    「まだ、鍵と名札だけではありません」

    祐実は言った。

    「衛生帽と、制服と、保存容器と、洗濯ばさみがあります」

    「洗濯ばさみも入れるんですか」

    「分かりません」

    祐実は正直に言った。

    「でも、捨てる前に確認します」

    高瀬は小さく息を吐いた。

    疲れているようにも見えた。

    怒っているようにも見えた。

    ただ、少しだけ何かを諦めたようにも見えた。

    「分かりました」

    高瀬は言った。

    「今日中に確認メモを作ってください」

    「はい」

    「藤崎さんには私から声をかけます」

    「お願いします」

    高瀬は事務所を出ていった。

    扉が閉まると、机の上の紙が一枚だけ少し動いた。

    最後のシフト表だった。

    祐実はそれを押さえた。

    小野寺真帆の名前がない表。

    けれど、真帆がいなくなったあとに誰がどこへ入ったかは、全部そこにある。

    空白は、もう白く見えなかった。

    線が詰まっているのに、そこだけ少し薄い。

    祐実はシフト表の下に、小さく日付を書いた。

    今日の日付。

    それから、左上に小さく、

    最終確認用

    と書いた。

    提出用でも、掲示用でもない。

    誰かに見せるための表ではなく、祐実が忘れないための表だった。

    昼前、藤崎久江が事務所に来た。

    高瀬に呼ばれたからだろう。布バッグは持っていなかった。白い制服の袖は、きちんと伸びている。

    久江は机の上の透明袋を見た。

    洗った制服。

    衛生帽。

    茶封筒。

    「並べたんだ」

    久江が言った。

    「はい」

    「怒られるやつだね」

    「たぶん」

    祐実は答えた。

    久江は少し笑った。

    「三枝さん、変わったね」

    「そうですか」

    「前なら、こういうの、もっと引き出しに入れてた」

    祐実は茶封筒を見た。

    その通りだった。

    「まだ入れられません」

    「そう」

    久江は制服の透明袋を見た。

    袋の口は開いている。

    白い袖の端が少し見えている。

    久江はそこへ手を伸ばしかけた。

    伸ばしかけて、やめた。

    祐実はその手を見た。

    「触ってもいいです」

    久江は祐実を見た。

    「いいの?」

    「はい」

    久江は、袋から出ている白い布の端を、ほんの少しだけ中へ入れた。

    閉じるほどではない。

    ただ、引っかからないように。

    それだけだった。

    「これくらいなら」

    久江が言った。

    「はい」

    祐実はうなずいた。

    高瀬が奥の会議室から顔を出した。

    「藤崎さん、こちらへ」

    久江は「はい」と返事をした。

    休憩室で聞く声より、少し小さかった。

    久江が会議室へ入る前に、祐実を振り向いた。

    「三枝さん」

    「はい」

    「小野寺さん、悪く書かないでね」

    祐実はすぐに答えられなかった。

    悪く書く。

    良く書く。

    どちらでもない書き方が必要だった。

    「残ったものを書きます」

    祐実は言った。

    久江は少しだけ目を細めた。

    それから、会議室へ入った。

    ドアが閉まった。

    祐実は机に戻り、確認メモを開いた。

    小野寺真帆 退職時に残ったもの。

    その下に、箇条書きではなく、短い文章で書き始めた。

    退職時、返却物として制服上下一組、名札、ロッカー鍵の処理が進められていた。

    五十二番ロッカー周辺に衛生帽が残っていた。

    休憩室冷蔵庫に、本人名の保存容器が残っていた。

    退職前の打刻に、休憩終了時刻の遅れが複数回あった。

    退職日に、制服が袋に入れられず、畳まれていない状態で洗い場横に置かれていたことを藤崎より確認。

    祐実はそこで手を止めた。

    確認。

    その言葉は、少し硬い。

    でも、今日の祐実には必要だった。

    信じるでも、疑うでもなく、確認する。

    処理済みではなく、確認中。

    それくらいの位置なら、今の自分にも持てる。

    会議室の中の声は聞こえなかった。

    事務所の電話が鳴った。

    祐実は受話器を取った。

    「はい、総務です」

    現場からだった。

    午後のシフト変更についてだった。急に一人、早退することになったらしい。祐実はメモを取り、代わりに入れる人を確認した。

    いつもの仕事だった。

    いつもの仕事は、何も知らない顔で入ってくる。

    祐実はシフト表を開いた。

    最後のシフト表ではなく、今日の掲示用のシフト表。

    名前をひとつ動かす。

    時間を直す。

    ラインの人数を合わせる。

    表の上では、名前は動かせる。

    でも、動かしたあとも、椅子や保存容器や衛生帽は別の場所に残る。

    祐実は修正したシフト表を印刷した。

    プリンターから出た紙は、少し温かかった。

    掲示板へ持っていく途中、更衣室の前を通った。

    五十二番のロッカーは閉じていた。

    空になっている。

    祐実は立ち止まらなかった。

    通り過ぎた。

    でも、通り過ぎたあとで、一度だけ戻った。

    ロッカーの扉に貼られた五十二番のシールを、指で押した。

    剥がれかけているわけではない。

    押す必要はない。

    それでも、押した。

    数字はそのままだった。

    夕方、会議室から久江が出てきた。

    高瀬も一緒だった。

    久江の顔は、いつもより少し疲れていた。怒られた人の顔というより、長く持っていた買い物袋をようやく下ろした人の顔に近かった。

    高瀬は祐実に言った。

    「確認メモ、今日中に共有してください」

    「はい」

    「藤崎さんの件は、社内規定に沿って処理します」

    「はい」

    久江は何も言わなかった。

    ただ、事務所を出る前に、机の上の透明袋を見た。

    「それ、閉じるの?」

    祐実は袋を見た。

    洗った制服。

    衛生帽。

    白い布の端。

    「今日は閉じません」

    「明日は?」

    「明日は、分かりません」

    久江は少し笑った。

    「それでいいんじゃない」

    そう言って、出ていった。

    高瀬はその会話を聞いていたが、何も言わなかった。

    祐実は確認メモを仕上げた。

    最後に、こう書いた。

    本件は、退職者本人の意思および退職理由を変更するものではない。

    ただし、退職時に職場内に残った物品・状態について、返却物処理とは別に確認記録として保管する。

    そこまで書いて、少し迷った。

    硬い。

    でも、必要だった。

    祐実はその下に、もう一行だけ入れた。

    今後、退職者の返却物に私物・衛生用品・勤務中の小さな変化が伴う場合は、処理済みとする前に確認欄を設ける。

    確認欄。

    その小さな枠は、書類の右端に少しだけ空いていた。

    人ひとり分の事情を入れるには、狭すぎた。

    それでも、空欄のままよりはよかった。

    祐実は保存した。

    印刷はしなかった。

    高瀬にメールで送った。

    送信済みの画面に変わる。

    画面上では、仕事がひとつ送られた。

    机の上では、まだ何も閉じていない。

    祐実は茶封筒を手に取った。

    中でロッカー鍵が鳴る。

    軽い音だった。

    祐実は封筒の中から鍵を取り出した。

    五十二番の鍵。

    小さな銀色の札がついている。

    名札の控えは封筒に残した。

    鍵だけを、別の小さな透明袋に入れた。

    袋の口は閉じた。

    それは、閉じてもいいものだった。

    祐実はそう判断した。

    茶封筒の口は、まだ閉じなかった。

    中には名札の控えが残っている。

    名札に印刷された小野寺真帆の名前。

    紙は薄い。

    透明ケースに入れれば名札になる。

    外せば、ただの紙になる。

    祐実はその紙を見なかった。

    封筒を机の左側に移した。

    右奥ではなく。

    目に入る場所へ。

    帰る前、最後のシフト表をもう一度見た。

    最終確認用。

    自分で書いた文字が、少し斜めになっている。

    祐実はそれを退職者ファイルの一番後ろに入れた。

    正式な書類ではない。

    でも、捨てるものでもなかった。

    ファイルは少し厚くなった。

    厚くなった分だけ、閉じにくくなった。

    祐実は無理に押さえなかった。

    机の電気を消す。

    事務所の奥が暗くなる。

    更衣室の方から、誰かがロッカーを閉める音がした。

    金属の軽い音。

    そのあと、冷蔵設備の低い音だけが残った。

    祐実はバッグを持った。

    机の上には、閉じていない茶封筒と、閉じていない制服の透明袋が残っている。

    閉じていないものを置いたまま帰るのは、少し怖かった。

    でも、前よりは怖くなかった。

    家に帰ると、椅子の背の洗濯物がまだあった。

    白いシャツ。

    黒い靴下。

    タオル。

    部屋着のズボン。

    祐実はバッグを床に置いた。

    白いシャツを取った。

    袖は、今日は裏返っていなかった。

    祐実はそれを見て、少しだけ息を吐いた。

    畳むつもりはなかった。

    でも、袖だけではなく、身頃も半分に折った。

    それから、またやめた。

    きれいには畳めなかった。

    角も合っていない。

    それでも、椅子の背に戻さず、テーブルの端に置いた。

    部屋の冷蔵庫が鳴った。

    奥には、自分の保存容器がまだある。

    祐実は冷蔵庫を開けた。

    容器を取り出した。

    ふたを開ける。

    中身は、もう食べない方がよさそうだった。

    祐実は少しだけ匂いをかいだ。

    すぐにふたを閉めた。

    捨てることにした。

    中身を流しに捨て、容器を洗う。

    スポンジに洗剤をつける。

    ふたの溝をなぞる。

    小野寺、と書かれた保存容器ではない。

    名前もない。

    ただ、自分の容器だった。

    水を止めて、水切りかごに伏せる。

    透明な容器から、水が一滴落ちた。

    小さく鳴った。

    祐実はその音を聞いた。

    職場の水切りかごに置いた保存容器の音と、少し似ていた。

    椅子の背には、まだ洗濯物が残っている。

    でも、テーブルの端には、半分だけ畳まれた白いシャツがある。

    きれいには片づいていない。

    でも、椅子の背には戻さなかった。

    祐実は電気を消さずに、しばらくそれを見ていた。

    明日、茶封筒を閉じるかどうかは、まだ分からない。

    透明袋を閉じるかどうかも、まだ分からない。

    ただ、確認中と書いたものを、処理済みに戻すつもりはなかった。


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    カミヤサラ(Kamiya Sara)|日常と物語のあいだを歩く人 日常の小さなひっかかりを言葉に変える人。カフェや散歩で得た景色を物語にし、誰かの生活に少し色を足す文章を書きます。

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