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台所の郵便受け

    【あらすじ】

    母の死後、澪は空き家になった実家の台所を片づけに戻る。引き出しから見つかったのは、傘、制服、保存容器、茶封筒など、誰かに返すはずだった物の記録だった。しかも、その一部には母の死後の日付がある。洗われた制服、名前のないプリン、勝手口の古い郵便受け。台所には、母がいなくなったあとも誰かが出入りしていた痕跡が残っていた。澪は町の人たちが置いていった小さな未処理をたどりながら、最後に、自分が母へ返せなかったものに触れる。


    第1話「引き出しの赤い字」

    合鍵は、バッグの内ポケットに入っていた。

    澪は実家の玄関の前で、鍵を出してから、インターホンに指を伸ばした。

    押す相手はいない。

    指先がボタンの手前で止まる。黒い小さな丸の中に、うっすら自分の顔が映っていた。目元だけが歪んで、誰のものかわからなかった。

    鍵を差す。

    回す。

    いつもの音より、少し軽かった。

    母がいなくなってから、鍵は一度も変えられていない。けれど、開いた玄関の空気は、澪が知っていた家のものとは少し違っていた。靴箱の上には、陶器の皿が置かれている。輪ゴム、古い安全ピン、どこのものかわからない小さな鍵が二つ。

    その横に、埃をかぶった印鑑ケースがあった。

    「おじゃまします」

    声に出してから、すぐに違うと思った。

    ここは母の家だった。

    自分の実家だった。

    でも、澪は靴を脱ぐ前に、少しだけ足を止めた。上がっていい家なのか、誰に確認すればいいのかわからなかった。

    廊下は短い。

    突き当たりが台所だった。

    台所の電気は消えていたが、勝手口のすりガラスから曇った光が入っていた。古い流し台。低い食器棚。冷蔵庫の上に置かれた丸い缶。テーブルのまわりには椅子が三つある。

    三つ。

    母は一人暮らしだった。

    澪は椅子を一つ引きかけて、やめた。

    座ると、片づけが始まってしまう気がした。始めてしまえば、母の家が少しずつ物件に変わっていく。冷蔵庫は処分品になり、食器は不用品になり、テーブルは搬出日を決める家具になる。

    澪は立ったまま、台所を見た。

    水道の蛇口から、一滴だけ水が落ちた。

    思ったより大きな音だった。

    シンクには何もない。洗いかごには、湯呑みが二つ伏せてある。ひとつは母がいつも使っていた白い湯呑み。もうひとつは、花柄の小さい湯呑みだった。

    澪はそれに触らなかった。

    食器棚の下の引き出しを開ける。

    箸、スプーン、輪ゴム、割り箸の袋。母らしい詰め方だった。使うものと、いつか使うものが同じ場所にある。

    二段目には、乾電池、古いレシート、未使用のごみ袋。

    三段目は少し引っかかった。

    澪は一度戻してから、もう一度引いた。

    紙の端がこすれる音がした。

    中には、大学ノートが一冊入っていた。表紙は薄い茶色で、角が丸くなっている。表には何も書かれていない。ノートの上に、赤い油性ペンが一本置かれていた。

    キャップはなかった。

    澪はノートを取り出した。

    開くと、最初のページに母の字が並んでいた。

    黒いボールペンの字。

    日付。

    品物。

    名前。

    それだけだった。

    黒傘 佐伯  
    タッパーふた 森田  
    本二冊 図書館  
    制服 田端  

    澪はページをめくった。

    同じような行が続いている。古いレシート、空の弁当箱、白いハンカチ、印鑑ケース、封筒。ところどころに丸がついている。斜線が引かれた行もある。返したものと、返せなかったものの区別なのか、澪にはわからなかった。

    リストの端に、赤い字があった。

    母の字より少し細い。

    黒い字の隣に、あとから足されたように見えた。

    澪は赤い油性ペンを手に取った。キャップのない先は乾いている。紙に押しつけても、薄い跡すらつかない。

    冷蔵庫が低く鳴った。

    澪はノートを持ったまま、台所の奥を見た。

    勝手口の横に、古い金属の郵便受けがある。外から入れたものが、内側の受け口に落ちる形だった。昔からあったはずなのに、澪はそれをほとんど意識したことがなかった。

    郵便受けの下に、小さな紙の粉のようなものが落ちていた。

    澪はしゃがんで、指先で触った。

    乾いていた。

    玄関のほうで、スマホが震えた。

    不動産会社からだった。

    出なかった。

    画面を伏せる。

    母の家を片づける予定は、明後日の午前に決まっている。業者が来る。段ボールも来る。母の生活は、箱に入るものと入らないものに分けられる。

    澪はノートを閉じようとして、最後のほうのページが少し浮いていることに気づいた。

    そこだけ紙の色が違う。

    新しいページだった。

    黒い字ではなく、赤い字。

    日付は、母が亡くなったあとだった。

    澪は息を止めた。

    行は一つだけだった。

    制服 田端


    第2話「洗われた制服」

    田端クリーニングは、商店街の端にあった。

    母の家から歩いて十分ほどの場所だった。シャッターの閉まった店がいくつか並び、その間に、白い看板だけがまだ残っている。看板の文字は少し剥げていた。

    澪は店の前で足を止めた。

    制服 田端。

    赤い字のその行が、頭の中で何度も開いたり閉じたりしている。

    店のガラス戸には、営業時間の紙が貼ってあった。少し斜めになっている。中には、畳まれた服と、ビニールに入ったワイシャツが並んでいた。

    澪が戸を開けると、小さな鈴が鳴った。

    奥で、機械の低い音がしている。

    カウンターには誰もいなかった。呼び鈴の横に、古い毛玉取りが置かれている。透明のケースの中に、灰色の繊維がたまっていた。

    「はい」

    奥から女の人の声がした。

    出てきたのは、四十代くらいの女性だった。髪を後ろで結び、袖をまくっている。手には白い布がかかっていた。澪を見ると、すぐに客の顔ではなく、誰かの娘を探すような顔になった。

    「瀬川さんの」

    澪はうなずいた。

    「娘です」

    田端は一度だけ目を伏せた。

    「そうですか」

    それ以上は言わなかった。

    澪はバッグからノートを出すか迷った。母の台所の引き出しから持ってきたノートは、他人に見せるにはまだ少し生々しかった。けれど、赤い字は澪のものではない。

    「母の家で、これを見つけて」

    ノートを開く。

    田端はカウンター越しに覗き込んだ。目が、赤い字の行で止まる。

    制服 田端。

    田端はしばらく黙っていた。

    それから、カウンターの下に手を伸ばした。ビニール袋に入った白い制服を一着取り出す。学校のものだった。胸元の刺繍は、布で隠されている。畳み方がきれいすぎて、着るための服というより、返すために待っている服に見えた。

    「これですか」

    澪が聞くと、田端は制服の襟を指で押さえた。

    「うちで洗ったものじゃないです」

    「じゃあ」

    「洗った人が、うまい」

    田端はそう言って、袖口を見た。

    澪はその手元を見た。田端の指は、布の汚れではなく、畳まれた線を見ていた。襟の折り目、袖の重ね方、裾のそろえ方。そこに誰かの手順が残っているらしい。

    「母が持ってきたんでしょうか」

    田端はすぐには答えなかった。

    制服を裏返す。ポケットの縫い目を確認する。ボタンを一つだけ外し、また留める。

    「瀬川さんは、預かるのは上手でした」

    澪は、その言い方に少し引っかかった。

    預かる。

    洗うでも、届けるでもない。

    「これは、田端さんのものではないんですか」

    田端は首を横に振った。

    「返すなら、私じゃないです」

    店の奥で、機械の音が止まった。

    急に店内が静かになる。ガラス戸の外を、自転車が通り過ぎた。タイヤが店先の砂を踏む音がした。

    田端は制服をカウンターに置いた。

    ビニールの上に、細かい水滴の跡が残っている。今日洗われたものではない。けれど、古くもない。家の中で、何度か手に取られては戻されたような皺があった。

    澪は制服に触れた。

    思っていたより重かった。

    布の重さではなかった。ビニール越しに持つと、冷たいような、湿っているような感じがした。

    「お母さん、これをどうするつもりだったんでしょう」

    田端はカウンターの奥にある白い棚を見た。

    「瀬川さんは、言わない人でした」

    澪はそれ以上聞かなかった。

    田端が説明しないのではない。説明できる種類のものではないのだと思った。

    澪は制服を受け取った。

    「持って帰ってもいいですか」

    「ここに置いておいても、同じですから」

    田端はそう言って、紙袋を出しかけた。澪は手で止めた。

    「このままで」

    ビニール袋のまま、制服を抱える。

    店を出ると、商店街の空気が少し乾いていた。シャッターの前に、古い植木鉢が置かれている。土だけが入っていて、何も生えていない。

    母の家に戻るまで、澪は制服を胸の前で抱えて歩いた。

    家に着くと、台所のテーブルに制服を置いた。

    ビニールが白いテーブルの上で滑った。椅子を一つ引いて、座らずに戻す。冷蔵庫が低く鳴っている。勝手口の郵便受けは、朝と同じようにそこにある。

    澪は制服の袋を開けた。

    布の匂いがした。

    洗剤の匂いではなく、水で何度もすすいだあとの匂いだった。袖口は薄くなっている。襟の内側には、ほとんど消えた名前の跡がある。

    澪はポケットに指を入れた。

    何かが指先に触れた。

    小さく、やわらかい紙。

    取り出すと、洗われて白くふやけたレシートだった。文字はほとんど流れていた。店名だけが、端のほうに薄く残っている。

    母の家の近くにある、コンビニの名前だった。


    第3話「名前のないプリン」

    冷蔵庫の中に、プリンがあった。

    名前は書かれていなかった。

    澪は扉を開けたまま、しばらくそれを見ていた。透明なカップ。黄色い中身。上に薄い水滴がついている。賞味期限はまだ先だった。

    母が買ったものではない気がした。

    母は同じものを二つ買う人だった。自分の分と、誰かが来たときの分。けれど、冷蔵庫には一つだけだった。棚の端に、少しだけ奥へ押し込まれている。

    澪は取り出さなかった。

    扉を閉める。

    閉めたあと、冷蔵庫の内側で何かが小さく揺れた。

    台所には、誰かが使ったあとがあった。

    流しの横に、洗われたスプーンが一本伏せてある。洗いかごではなく、布巾の上に直接置かれていた。母はいつも、スプーンは洗いかごに立てていた。

    テーブルの端には、丸い跡がある。

    湯呑みの跡だった。

    澪は棚の上を見た。

    白いマスキングテープ。輪ゴムの缶。役所でもらうような薄い付箋。赤い油性ペン。

    本体だけ。

    キャップはない。

    前に見たときもなかった。乾いた先は、黒ずんでいる。けれど、テーブルの端に小さな赤いかすれがついていた。最近ついたものなのか、前からあったものなのか、澪にはわからなかった。

    勝手口の外で、自転車のブレーキが鳴った。

    澪は顔を上げた。

    音はすぐに消えた。玄関ではない。勝手口のほうだった。

    すりガラスの向こうに、白いものが一瞬見えた。

    袖のようだった。

    澪は勝手口に近づいた。足音を立てないようにしたつもりだったが、床が鳴った。すりガラスの向こうの白いものは、もう見えなかった。

    外に出ると、細い通路には誰もいなかった。

    郵便受けの金属板だけが、少し揺れていた。

    澪は内側の受け口を見た。

    何もない。

    ただ、底に水滴が一つ落ちていた。丸い水滴だった。郵便物の水ではない。何かを洗ったあとに残るような水だった。

    澪は台所に戻った。

    冷蔵庫をもう一度開ける。

    プリンはそこにあった。

    少しだけ向きが変わったように見えた。気のせいかもしれない。澪は扉を閉める前に、カップのふたを見た。商品名の横に、黒い点がある。油性ペンの先を一度だけ当てたような点だった。

    名前を書くつもりだったのかもしれない。

    けれど、名前はなかった。

    澪はスマホを出した。

    検索欄を開く。

    制服。コンビニ。田端。

    そこまで打って、消した。

    台所の床に、細い髪の毛が一本落ちていた。母のものより短い。澪のものでもない。拾おうとして、やめた。拾うと、その人がいたことを認めるような気がした。

    そのかわり、澪は流しのスプーンを洗い直した。

    水を出す。

    スプーンに水が当たる音が、台所の中で細く響いた。布巾の上に戻そうとして、洗いかごに立てた。母の置き方に戻したつもりだった。

    でも、戻した途端に違った。

    台所の中で、何かの位置だけがずれている。

    冷蔵庫の低い音。

    外の自転車のベル。

    勝手口の金属板。

    澪はまた振り返った。

    今度は音がはっきりした。

    かしゃん。

    郵便受けの内側に、何かが落ちた。

    澪は勝手口へ向かった。

    受け口の中に、小さなコンビニ袋が入っていた。口は軽く結ばれている。袋の内側に、水滴がついている。

    澪は指先で持ち上げた。

    軽かった。

    結び目をほどく。

    中には、洗われたプリンの空きカップが入っていた。


    第4話「ふただけの容器」

    保存容器は、ふただけだった。

    透明な丸いふたが、台所のテーブルに置かれている。中心に、小さな傷がある。電子レンジにかけたときに少しだけ歪んだような跡だった。

    容器本体はない。

    澪はそれを手に取った。

    軽い。

    傘よりも、制服よりも、プリンの空きカップよりも軽い。けれど、テーブルに戻すと、ふたの縁が白い面に細く影を作った。

    返却物リストには、黒い字で書かれていた。

    タッパーふた 森田

    森田という名前に覚えはなかった。

    母の近所づきあいを、澪はほとんど知らない。自治会、回覧板、ゴミ当番。その程度の言葉しか出てこない。母は電話で近所の話をするときも、人の名前より天気や野菜の値段を先に言う人だった。

    澪はふたをビニール袋に入れた。

    持ち歩くほどのものではないのに、裸のままバッグへ入れるのは違う気がした。輪ゴムの缶から一本取り、袋の口を軽く留める。

    森田の家は、母の家から二軒先だった。

    古い平屋で、玄関の横に鉢植えが並んでいる。どれも水は足りているようだった。郵便受けの上に、小さな陶器の犬が置かれている。

    澪がインターホンを押すと、少し間があった。

    中で椅子を引く音がした。

    出てきたのは、痩せた男だった。六十代くらいに見える。髪は短く、シャツの襟が少し曲がっていた。澪の顔を見て、すぐに誰なのかを察したようだった。

    「瀬川さんの娘さん」

    澪はうなずいた。

    「これ、母の家にありました」

    ビニール袋を差し出す。

    森田は中を見て、眉を少し動かした。

    「ふた」

    「森田さんのものですか」

    森田は袋を受け取らなかった。

    しばらく見てから、玄関の中へ戻った。澪はその場に立ったまま待った。奥で、水道の音がした。何かを探す音。引き出しが開く音。

    森田が戻ってきたとき、手には同じ形の容器本体があった。

    本体だけ。

    ふたはなかった。

    澪は袋からふたを出した。

    森田はそれを容器に合わせた。少し回して、位置を確かめる。ぴたりとはまった。

    「これです」

    そう言ってから、森田はふたを外した。

    そして、玄関の横の流しへ持っていった。

    「洗ってあります」

    澪が言うと、森田は水を出した。

    「もう一回」

    水がふたに当たる音がした。

    森田はスポンジを使わなかった。指で縁をなぞる。何かを落とすというより、残っている時間を薄くするような手つきだった。

    「すみません」

    澪が言うと、森田は首を横に振った。

    「こっちが、忘れてたんで」

    水を止める。

    ふたを布巾で拭く。

    その布巾は黄色かった。端に、洗剤の詰め替えの匂いが少し残っている。母の台所にも、同じ黄色いボトルがあった。中身は別の洗剤かもしれない。でも、詰め替えの口に残る匂いは似ていた。

    森田は容器にふたを戻した。

    それだけで、少しまともなものに見えた。

    「瀬川さん、よく持って帰ってくれてました」

    澪は返事をしなかった。

    「ごはん、冷めるって」

    森田は容器を見たまま言った。

    澪は、その言葉の先を待たなかった。待つと、森田が説明しなければならなくなる気がした。

    森田はふたの中心の傷を親指でなぞった。

    「これ、返す相手が違うと思います」

    澪は顔を上げた。

    森田は玄関の棚から、小さな封筒を出した。

    茶色い封筒だった。宛名はない。角が少し折れている。のりの部分は閉じきっていなかった。

    森田はそれを澪に渡した。

    「これは、返す相手が違うと思います」


    第5話「未の茶封筒」

    茶封筒は、森田の部屋から戻るあいだ、エコバッグの底でほとんど音を立てなかった。

    保存容器のふたは軽かった。けれど、封筒はもっと軽いはずなのに、バッグの布を少しだけ下へ引っ張っていた。中身の重さではなかった。紙が何枚か入っているだけの、薄いふくらみだった。

    澪は母の台所に戻ると、エコバッグをテーブルの横に置いた。

    椅子には座らなかった。

    茶封筒を出して、テーブルの上に置く。

    封は閉じきっていなかった。のりの部分が乾いて、端だけが浮いている。誰かが一度閉じようとして、途中でやめたような形だった。角には浅い折れ跡がある。バッグの中でついたものではなかった。何度か持ち上げられて、何度か戻された紙の角だった。

    宛名はない。

    差出人もない。

    表には、母の字で小さく「未」とだけ書かれていた。

    澪は封筒を開けなかった。

    開けなくても、中に紙があるのはわかった。指で持つと、封筒の内側で紙の端が少しずれた。薄い紙と、少し厚い紙。折り目の位置がそろっていない。

    テーブルの上で、封筒の角が少し浮いていた。

    澪は引き出しからリストを出した。

    茶封筒の横には「未定」と書かれていた。母の黒い字だった。未定。返す相手が決まっていないのか、返すかどうかが決まっていないのか、澪にはわからなかった。

    森田の封筒と同じものなのか。

    それとも、別の封筒なのか。

    澪は台所の棚を見た。白いマスキングテープ。輪ゴムの缶。キャップのない赤い油性ペン。そこに、役所でもらうような薄い付箋が何枚か貼られていた。母の字で、数字だけが書かれている。

    三番窓口。

    火曜午前。

    印鑑。

    それだけだった。

    澪は封筒の端を少しだけ開いた。

    中に、薄い水色の紙が見えた。上のほうに小さな四角が並んでいる。名前を書く欄のようにも、日付を書く欄のようにも見えた。全部は見ないうちに、澪は封筒を閉じた。

    紙の擦れる音がした。

    冷蔵庫が低く鳴った。

    封筒を持って家を出ると、外は少し湿っていた。朝に降った雨が、道路の端だけに残っている。傘をさすほどではないが、白いスニーカーのつま先に水が跳ねた。

    役所は駅の向こう側にあった。

    母の家から歩くと二十五分ほどかかる。バスもあったが、澪は歩いた。封筒がバッグの中で折れないように、片手で押さえながら歩いた。

    入口の自動ドアが開くと、濡れた傘の匂いがした。

    床には、細い水の跡がいくつも伸びていた。案内板の前に、番号札の機械がある。誰かがボタンを押すたび、紙が短く出てくる音がした。

    澪は封筒を出さなかった。

    窓口の近くまで行って、壁に貼られた用紙の見本を見た。封筒の中で少しだけ見えた水色に似ていた。けれど、左上に並んだ小さな四角の数が、一つ違う気がした。名前を書く欄の位置も、少しだけ下にある。

    見本の横に、黒いボールペンが紐でつながれていた。

    インクの出にくいペンだった。誰かが試し書きをした跡が、記入台の端に残っている。丸、丸、横線。名前を書きかけてやめたような、曲がった線もあった。

    澪は封筒を記入台に置いた。

    置いてすぐ、持ち上げた。

    番号札を取る列が進む。窓口の奥で、職員の声が同じ高さで続いている。呼び出し番号が表示されるたび、短い電子音が鳴った。

    澪は番号札を取らなかった。

    代わりに、案内棚に置いてあった同じ色の用紙を一枚だけ取った。未記入のまま、封筒の横に重ねた。母の封筒の中の紙と、角の位置が少しずれている。

    役所の外に出ると、雨はやんでいた。

    バッグの中で、封筒と未記入の用紙が重なっている。歩くたび、紙の端がかすかに鳴った。澪は何度かバッグの口を押さえた。封筒の角が、布の内側で指に当たった。

    帰り道、コンビニの前を通った。

    制服のポケットから出てきたレシートの店だった。自動ドアの前に、濡れたビニール傘が何本かまとめて立ててある。店内から、揚げ物の油の匂いと、電子レンジの終了音が漏れてきた。

    澪は中には入らなかった。

    母の家に戻ると、台所の空気は少し冷えていた。

    テーブルに封筒を置く。

    役所から持ってきた未記入の用紙も一緒に置いた。白いテーブルの上で、水色の紙だけが薄く浮いて見えた。母の字がある封筒の隣に、何も書かれていない紙がある。

    澪はボールペンを探した。

    引き出しの二段目に、何本も入っていた。銀行名の入ったもの。学校行事でもらったもの。キャップのないもの。黒いペンを一本取り出して、紙の端で試した。

    インクは出た。

    それだけで、少し困った。

    澪は用紙の一番上の欄にペン先を置いた。書く名前が決まらない。封筒の中に見えた紙と同じ欄なのかもわからない。母が何を書こうとしていたのかも、誰が書けずに置いていったのかもわからない。

    ペン先が紙に小さな点を作った。

    澪はすぐにペンを離した。

    その点だけが、未記入の用紙に残った。

    流しの横に、使われていない湯呑みが二つ伏せてあった。ひとつは母のものだった。もうひとつは、花柄の小さい湯呑み。誰のものなのか、澪は知らなかった。

    湯呑みを戻そうとして、棚の奥に薄い付箋を見つけた。

    母の字だった。

    「出せる日でいい」

    それだけが書かれていた。

    澪は付箋を剥がさなかった。

    封筒を閉じる。のりは乾いていて、もうくっつかない。澪は輪ゴムの缶から一本取り出して、封筒にかけようとした。けれど、途中でやめた。輪ゴムをかけると、封筒が急に処理されたものに見えた。

    そのまま、テーブルに戻した。

    外で、自転車のブレーキが鳴った。

    澪は台所の窓を見た。

    誰も見えなかった。

    勝手口の横から、金属が小さく戻る音がした。

    澪は封筒を持ったまま、勝手口へ向かった。

    古い郵便受けは、前に見たときと同じ場所にあった。金属のふたは少し曲がっていて、端の塗装が剥げている。外側から何かを入れれば、内側の受け口に落ちる。あの白いコンビニ袋が入っていた場所だった。

    澪は内側の受け口に指を入れた。

    底に、紙の粉のようなものが少し溜まっていた。

    さらに奥をなぞると、金属の内側に細い線が何本も走っていた。封筒の角か、小さな袋の結び目か、何度も同じところをこすった跡だった。

    擦れた跡は、外から小さなものを入れられる幅だけ、内側に残っていた。


    第6話「赤いキャップ」

    赤い油性ペンは、棚の上で乾いていた。

    本体だけだった。

    キャップのない先は黒ずんでいて、紙に押しつけても、もう線にはならない。封筒の端に残ったかすれた赤だけが、前に使われていたことをまだ言っていた。

    澪はペンを持ったまま、返却物リストを開いた。

    赤い字で足された行は、黒い字より少し細かった。線の終わりが跳ねている。似せようとしたというより、何度も見ていた字が、手の中に残ってしまったような書き方だった。

    制服 田端。

    その下に、小さく点が一つ落ちている。書いたあと、ペン先が紙の上で止まった跡だった。

    澪は棚の上を探した。

    白いマスキングテープ。輪ゴムの缶。役所の付箋。古いレシート。ペンのキャップだけが、どこにもなかった。

    勝手口の外で、自転車のブレーキが鳴った。

    澪は顔を上げた。

    音は、すぐ近くだった。玄関ではなく、勝手口の細い通路。いつもの郵便受けのあたり。金属のふたが一度持ち上がり、戻る音がした。

    澪はペンを棚に置いた。

    急いで勝手口へ行くと、すりガラスの向こうに白い袖が見えた。前に見た袖と同じだった。胸の前に、小さな袋を抱えている。

    澪は鍵を開けた。

    外に出ると、制服の中学生が通路の途中で止まっていた。細い肩に学校指定のサブバッグをかけている。髪は短く、前髪が少し濡れていた。雨は降っていないのに、額のあたりだけ水を含んだように重い。

    中学生は逃げなかった。

    ただ、コンビニ袋を胸の前で少し強く握った。

    「それ」

    澪の声は、自分で思ったより小さかった。

    中学生は袋を見た。

    「入れちゃだめでしたか」

    言い方は謝っているようで、少し違った。怒られる準備を先にしている声だった。

    澪は郵便受けを見た。

    内側には、まだ何も落ちていなかった。中学生は袋を入れる前に止まったらしい。袋の底には、丸い形が透けている。プリンのカップではなかった。もっと小さい。缶詰のふたのような丸さだった。

    「あなたが、入れてたの」

    中学生は答えなかった。

    視線を落として、制服の袖口を握った。袖口の布は少し伸びている。何度もつまんでいる場所だけ、白が薄くなっていた。

    「名前、聞いてもいい?」

    「森下です」

    「森下さん」

    「梨央です」

    梨央はそこで初めて、澪を見た。目を合わせたというより、澪の顔の位置を確認しただけだった。

    「瀬川さんの、娘さんですか」

    澪はうなずいた。

    梨央は、少しだけ口を閉じた。何かを飲み込むように、喉が小さく動いた。

    「おばさん、いないんですよね」

    「うん」

    それ以上の言葉は出なかった。

    梨央はうなずきもせず、勝手口の横に立ったままだった。通路の奥では、隣の家の室外機が回っている。塀の上に置かれた植木鉢の土が乾いて、ひびが入っていた。

    「袋、見てもいい?」

    澪が言うと、梨央はすぐには渡さなかった。

    袋の結び目に親指をかけて、ほどこうとして、やめた。それから結び目ごと澪に差し出した。

    中には、小さな金属のふたが入っていた。

    缶詰のふたではなかった。古い水筒の内ぶたのようなものだった。よく洗われていて、縁に水の跡が残っている。袋の底には、薄く丸い湿りができていた。

    「これも、リストに書くの?」

    澪が聞くと、梨央は肩を少し上げた。

    「書くときもあります」

    梨央は、勝手口の中を見た。

    澪は少し迷ってから、ドアを開けたままにした。

    梨央は靴を脱がず、通路に立ったまま台所を見ていた。冷蔵庫、テーブル、三つの椅子、棚の上の赤い油性ペン。視線の動きが、初めて来た人のものではなかった。

    「入る?」

    梨央は首を振った。

    「靴、汚いんで」

    靴は汚れていなかった。学校指定の白いスニーカーで、つま先だけ少し擦れていた。

    澪は台所に戻り、棚の上から返却物リストを持ってきた。

    梨央はそれを見ても、驚かなかった。

    リストの赤い字を見て、袖口を握る手が少しだけ強くなった。

    「これ、あなたが書いた?」

    梨央は黙っていた。

    ポーチのファスナーに指をかけて、開ける前に一度止めた。

    「怒ってるわけじゃない」

    澪が言うと、梨央は首を横に振った。

    「怒ってもいいです」

    梨央はサブバッグを前に回した。ファスナーを開ける音が、通路に細く響いた。中から、小さなポーチを出す。白地に、薄い水色の花柄。中学生が持つには少し古い柄だった。

    ポーチを開けたとき、何かが落ちた。

    赤いキャップだった。

    油性ペンのキャップ。

    床に当たって、軽く跳ねた。転がって、勝手口の段差のところで止まった。

    澪はそれを拾わなかった。

    梨央も、すぐには拾わなかった。

    赤いキャップだけが、二人の間にあった。

    「それ」

    澪が言うと、梨央は小さくうなずいた。

    「本体、そっちにあると思って」

    梨央はポーチを閉じた。

    「ポケットに入ってました」

    梨央は、そこで言葉を切った。

    説明しようとして、やめたようだった。代わりに、落ちたキャップを拾って、手の中で転がした。赤いプラスチックに、爪でつけたような白い傷がある。

    「おばさん、ここに書いてって言ってたの?」

    梨央は首を振った。

    「言ってないです」

    梨央はリストの赤い字を見た。

    キャップを持った手で、制服の袖口をもう一度握った。

    「書かないと、わかんなくなるから」

    梨央はそれだけ言った。

    澪はリストを見た。

    赤い字の行。制服。田端。日付。母が亡くなったあと。

    その横で、ペン先が止まった小さな点だけが残っていた。

    台所の中で、冷蔵庫が一度止まった。急に、棚の上のものが全部見えるような静けさになった。マスキングテープ。輪ゴムの缶。付箋。キャップのない赤い油性ペン。

    梨央は勝手口の段差に片足だけ乗せた。

    靴は脱がなかった。

    「冷蔵庫、まだ開けていいですか」

    澪は返事に詰まった。

    梨央はすぐに言い直した。

    「だめなら、いいです」

    澪は冷蔵庫を見た。中に、まだ名前のないプリンが一つ残っている。封筒の横には未記入の用紙が置かれている。椅子は三つとも、少しずつ違う方向を向いていた。

    「開けていいよ」

    梨央は、その声を聞いてから靴を脱いだ。

    脱いだ靴を、まっすぐそろえた。そろえすぎるくらい、かかとの位置を合わせた。それから台所に入って、迷わず冷蔵庫の前へ行った。

    どこに何があるか、知っている足取りだった。

    梨央は冷蔵庫を開けた。名前のないプリンを見て、少しだけ目を細めた。

    「これ、まだありましたか」

    「あなたの?」

    「買ったのは、わたしです」

    梨央はプリンを出さなかった。代わりに、冷蔵庫の扉を閉めた。振り返ると、テーブルの横に立ったまま、椅子を見ていた。

    澪は、椅子を一つ引いた。

    床が小さく鳴った。

    梨央は、手の中の赤いキャップを握ったまま言った。

    「ここ、まだ使っていいと思ってた」

    澪は答えられなかった。

    引いた椅子に、先に座ったのは梨央だった。


    第7話「勝手口の郵便受け」

    郵便受けの金属板は、指で持ち上げると少し遅れて戻った。

    ぱたん、というより、かしゃん、に近い音だった。

    澪は勝手口の内側にしゃがんだまま、その音を何度か聞いた。外から入れられたものが、ここに落ちる。小さな袋なら入る。封筒も入る。プリンの空きカップも、角度を変えれば入る。

    内側の受け口には、紙の粉のようなものが残っていた。

    茶封筒の角か、コンビニ袋の結び目か、保存容器のふたの縁か。何度も同じところをこすった細い線が、金属の内側に残っている。

    澪は乾いた布巾を持ってきた。

    母の台所にあった古い布巾だった。端が少しほつれていて、青い線が一本入っている。水に濡らす前から、洗剤と日なたの混ざったような匂いがした。

    郵便受けの底を拭くと、灰色の粉が布に移った。

    思っていたより汚れていた。

    使われていないものだと思っていたのに、使われた跡だけが溜まっていた。

    勝手口の外で、自転車のスタンドが鳴った。

    澪は顔を上げた。

    梨央が立っていた。

    制服ではなかった。薄いグレーのパーカーに、学校指定のサブバッグだけを肩にかけている。靴は同じ白いスニーカーだった。つま先の擦れたところが、前より少し黒く見えた。

    「入れてないです」

    梨央は先に言った。

    澪は郵便受けの中を見た。

    たしかに、何も入っていなかった。

    「今日は」

    梨央はそう付け足した。

    澪は布巾を握ったまま、少しだけ笑いそうになった。笑うところではない気がして、やめた。

    「これ、前から使ってたの」

    梨央は郵便受けを見た。

    「たぶん」

    「たぶん?」

    「わたしが来たときには、もうそうでした」

    梨央は勝手口の段差に片足だけ乗せた。靴は脱がない。郵便受けを見る目つきは、古い物を見る目ではなかった。場所を確認している目だった。

    「ここ、開けると音がするから」

    梨央は金属板に触れた。

    そっと持ち上げて、手を離す。

    かしゃん。

    台所の中で、その音だけが小さく残った。

    「鳴ると、奥の椅子が動く音がしました」

    梨央はそれ以上言わなかった。

    澪は、台所の奥を見た。

    冷蔵庫。三つの椅子。テーブル。棚の上の赤い油性ペン。茶封筒。未記入の用紙。名前のないプリン。

    澪は布巾をもう一度郵便受けの底に当てた。

    「袋は、ここから入れてた?」

    梨央はうなずいた。

    「入るやつだけ」

    「入らないやつは?」

    「置いとく」

    「どこに」

    梨央は勝手口の横を指した。

    古い室外機の上に、小さなプラスチックの皿があった。植木鉢の受け皿のようなものだった。土の跡が残っている。隅に、白い輪ゴムが一本くっついていた。

    澪はそれを初めて見た。

    今まで何度も勝手口を開けていたのに、見ていなかった。

    梨央はサブバッグのひもを握り直した。

    「おばさん、そこに置いとくと、夜に中に入れてました」

    「夜?」

    「わたしが見たのは、夜じゃないです」

    言ってから、梨央は少し口を閉じた。

    説明が増えそうになると、自分で止めるような閉じ方だった。

    澪はそれ以上聞かなかった。

    梨央は靴を脱いだ。

    今日は、澪が何も言う前に脱いだ。かかとをそろえ、つま先をまっすぐに直す。そろえすぎるくらい、白い靴が並んだ。

    台所に入ると、梨央は冷蔵庫を開けなかった。

    代わりに、郵便受けの内側を覗き込んだ。

    「まだ汚れてます」

    「うん」

    「ここ、拭くと黒くなります」

    「知ってるんだ」

    梨央はうなずいた。

    「おばさん、指で拭くから」

    梨央は自分の人差し指を見た。爪の端に、小さな赤い跡があった。油性ペンの色ではなかった。さかむけを触ったあとみたいな赤だった。

    澪は布巾を水で濡らした。

    流しで絞ると、水が細く落ちた。梨央はその音を聞いて、棚から湯呑みを一つ取った。花柄の小さい湯呑みだった。

    「使っていい?」

    「うん」

    梨央は水を入れなかった。

    ただ、湯呑みをテーブルに置いた。いつもそこに置いていたような場所だった。テーブルの端から少し内側。椅子に座った人の右手が届くところ。

    澪はその位置を見た。

    湯呑みの底に、薄い丸い跡があった。テーブルにも、似た丸い跡がいくつか残っている。母が拭いても落ちなかったのか、拭き残したのか、わからない。

    「誰の湯呑み?」

    澪が聞くと、梨央は肩を少し上げた。

    「決まってないです」

    「決まってない?」

    「空いてるやつ」

    梨央はそれだけ言った。

    澪は布巾を郵便受けに戻した。

    金属の内側を拭く。手前は拭ける。奥は指が入りにくい。何度も同じ幅で何かが通ったせいで、端だけが少し削れている。

    外から入れるものには、大きさがあった。

    小さな袋。封筒。プリンのカップ。水筒の内ぶた。折りたたんだ紙。

    どれも、角や結び目の幅だけが少しずつ違っていた。

    澪は布巾を取り替えた。

    梨央はテーブルの横に立ったまま、赤い油性ペンの本体を見ていた。

    「キャップ」

    澪が言うと、梨央はポーチから赤いキャップを出した。

    今日は落とさなかった。

    手のひらに乗せて、澪へ見せる。赤いプラスチックの表面に、細い白い傷がある。キャップの内側は少し黒ずんでいた。乾いたペン先を何度も受け止めた跡だった。

    「つける?」

    梨央は少し迷った。

    それから、棚の上の本体を取って、キャップをはめた。

    かちり。

    小さな音がした。

    赤い油性ペンは、久しぶりに一本の形になった。

    梨央はそれを棚に戻さず、リストの横に置いた。

    「書かないの?」

    澪が聞くと、梨央は首を振った。

    「今日はないです」

    「今日は」

    梨央はポーチを閉じた。

    そのファスナー音が、台所の中で妙に短く聞こえた。

    勝手口の外で、誰かが通る音がした。

    二人とも振り向いた。

    田端だった。

    手には、ビニールに包まれた小さな袋を持っていた。店の名前が薄く印刷されている袋だった。田端は勝手口の前で足を止め、郵便受けを見た。

    「そこ、まだ使えるんですね」

    田端は言った。

    澪は何も返せなかった。

    梨央は少し後ろに下がった。隠れるほどではない。けれど、テーブルの端に手を置いた。

    田端は袋を郵便受けには入れなかった。

    勝手口の横のプラスチックの皿に置いた。袋の中身は薄かった。布なのか、紙なのか、澪にはわからなかった。

    「すみません」

    田端は誰に向けたのかわからない声で言った。

    そして、すぐに帰っていった。

    シャッターの閉まった店の前を歩くときのような、足音の少ない歩き方だった。

    梨央はプラスチックの皿を見た。

    「入らないやつです」

    そう言って、袋を手に取った。

    「開ける?」

    澪が聞くと、梨央は首を振った。

    「中で」

    梨央は台所に入った。

    袋をテーブルに置く。ビニールの上に、うっすら水滴がついていた。手で結び目をほどこうとして、途中でやめる。

    「おばさんなら、あとでやる」

    梨央はそう言って、手を離した。

    澪はその袋を見た。

    茶封筒。未記入の用紙。水筒の内ぶた。保存容器のふた。名前のないプリン。返却物リスト。キャップを戻した赤い油性ペン。

    冷蔵庫が低く鳴った。

    澪は布巾をもう一度濡らした。

    郵便受けの内側を、奥まで拭く。指を入れる角度を変えると、底の端に硬い出っ張りが触れた。汚れかと思ってこすったが、落ちなかった。

    金属が削れていた。

    澪は布巾を外し、指先でなぞった。

    細い傷ではなかった。

    小さな鍵の先が、何度も同じところに当たったような形だった。丸い輪の跡ではない。鍵の歯の、ぎざぎざした部分が少しだけずれて重なったような跡。

    澪は息を止めた。

    母の合鍵を思い出した。

    バッグは、テーブルの横に置いたままだった。

    澪は郵便受けの前にしゃがんだまま、自分のバッグの内ポケットを探った。


    第8話「合鍵を戻す」

    合鍵は、バッグの内ポケットに入っていた。

    いつもの場所だった。

    澪は郵便受けの前にしゃがんだまま、指先でそれをつまんだ。薄い金属の輪が、内布に引っかかって小さく鳴った。取り出すと、鍵には細かな傷がいくつもついていた。

    使った傷ではなかった。

    財布の角や、スマホケースの金具や、家の鍵と一緒に揺れてできた傷だった。鍵穴に入れられた回数より、バッグの中で持ち歩かれた時間のほうが長い傷だった。

    郵便受けの底に残った擦れ跡と、鍵の先を並べてみる。

    ぴたりとは合わなかった。

    けれど、ぎざぎざの一部が同じ形をしていた。何度も外から入れようとして、少しずつ角度を変えたような跡だった。郵便受けに鍵を入れた人がいたのか、鍵を入れようとして入らなかった人がいたのか、そこまではわからなかった。

    澪は鍵を握った。

    握っても、何も変わらなかった。

    勝手口の外には、もう梨央はいなかった。テーブルの上には、田端が置いていった小さな袋がある。結び目はそのままだった。袋の横には、キャップを戻された赤い油性ペン。一本の形になったのに、まだ使われないまま横たわっている。

    冷蔵庫が低く鳴った。

    名前のないプリンは、まだ中にある。

    澪は立ち上がった。膝が少し鳴った。郵便受けの前にしゃがんでいた時間が、思っていたより長かった。

    台所の椅子は三つあった。

    ひとつはテーブルにきちんと入っている。ひとつは少し斜めを向いている。もうひとつは、梨央が座ったあと、わずかに引かれたままだった。座面には何も残っていない。ただ、そこだけ床のほこりが薄くなっていた。

    澪は椅子を戻さなかった。

    流しに行き、布巾を洗った。

    郵便受けの灰色の粉が、水にほどけて流れていく。布巾の青い線は、濡れると少し濃くなった。絞ると、手のひらに冷たい水が残った。

    その水を見て、澪は母の留守電を思い出した。

    スマホには、まだ残っている。

    聞けないまま、残してある。

    澪はバッグからスマホを出した。画面をつける。通知がいくつか並んでいた。役所。不動産会社。派遣先。どれも開かなかった。

    留守電の一覧を開く。

    母の名前があった。

    日付は、母が亡くなる四日前だった。

    澪は再生ボタンに指を置いた。

    押さなかった。

    かわりに、画面を伏せた。

    スマホの角が、テーブルに小さく当たった。台所の中では、その音も少し大きかった。

    澪は合鍵をもう一度見た。

    鍵の頭には、小さな丸い穴がある。そこに通したリングが、わずかに歪んでいた。母から渡されたとき、リングには赤い小さなタグがついていたはずだった。今はもうない。いつ外れたのかも覚えていない。

    鍵の先には、深い傷が少なかった。

    輪のほうばかりが、白っぽく擦れていた。

    鍵だけが残っていた。

    台所の引き出しを開けた。

    一段目には、箸、スプーン、輪ゴム、割り箸の袋。二段目には、乾電池、古いレシート、未使用のごみ袋。三段目には、返却物リストが入っている。

    澪は三段目を引いた。

    紙がこすれる音がした。

    返却物リストを出すと、最後のほうのページが少し浮いていた。赤い字、黒い字、丸、斜線。傘、制服、保存容器、茶封筒、水筒の内ぶた。どれも誰かのところへ向かう途中で、いったん母の台所に置かれていた。

    澪はページをめくった。

    最後のページに、空白があった。

    そこに自分の名前はなかった。

    ないのに、鍵だけが手の中にあった。

    澪はペンを取らなかった。赤い油性ペンも、黒いボールペンも取らなかった。自分の名前を書けば、処理できる気がしてしまう。丸も斜線もつけられないものまで、リストの中に入れてしまう気がした。

    鍵を、引き出しの中に置いた。

    最初は、返却物リストの上に置こうとした。

    やめた。

    リストの上では、鍵が誰かに返すもののように見えた。

    澪は引き出しの奥を少し空けた。古いレシートを横に寄せ、未使用のごみ袋の端をたたむ。その隙間に、合鍵を置いた。

    金属が木の底に触れた。

    軽い音だった。

    ずっとバッグの中にあったものが、台所の引き出しに移った音だった。

    澪はしばらく引き出しを開けたままにした。

    鍵は、奥のほうで少し斜めになっていた。直そうとして、やめた。まっすぐ置くと、置いた人の都合が強く出る気がした。

    引き出しを閉める。

    途中で少し引っかかった。いつもの引っかかりだった。澪は力を入れず、少し戻してから、もう一度押した。

    閉まった。

    テーブルも、椅子も、冷蔵庫も、流しも、何も減っていない。田端の袋も、茶封筒も、未記入の用紙も残っている。名前のないプリンも、赤い油性ペンも、花柄の湯呑みもある。

    澪は、花柄の湯呑みを棚に戻した。

    戻す場所がわからず、一度手を止めた。白い湯呑みの隣に置く。少し似合わなかった。でも、そこに置いた。

    冷蔵庫を開けた。

    プリンを見た。

    出さなかった。

    扉を閉める。

    低い音が止まり、また始まった。

    澪は台所の椅子を一つ引いた。

    梨央が座った椅子ではなかった。色の少し違う、三つ目の椅子だった。脚の下のフェルトが新しい椅子。誰かのために増えたのか、どこかから余ってきたのか、澪にはわからない椅子。

    引くと、床が小さく鳴った。

    澪は座らなかった。

    椅子を引いたまま、テーブルの横に立った。

    スマホが震えた。

    画面は見なかった。

    バッグを持つ。中が少し軽い。内ポケットに手を入れると、いつもの硬さがなかった。指先は布の底に触れただけだった。

    澪は玄関へ向かった。

    靴箱の上の陶器の皿には、輪ゴム、古い安全ピン、どこのものかわからない小さな鍵が二つ残っている。母の合鍵は、そこにはない。

    靴を履く。

    「おじゃましました」

    声には出さなかった。

    玄関の鍵を閉める。

    外の光は、朝より薄くなっていた。階段の下で、自転車のベルが一度だけ鳴った。誰かが通ったのか、風で鳴ったのかはわからなかった。

    澪はバッグを肩にかけ直した。

    閉めた玄関の向こうで、郵便受けの金属板が一度だけ鳴った。


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    カミヤサラ(Kamiya Sara)|日常と物語のあいだを歩く人 日常の小さなひっかかりを言葉に変える人。カフェや散歩で得た景色を物語にし、誰かの生活に少し色を足す文章を書きます。

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