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湯気のない台所で、星を洗う

    【あらすじ】
    母の死後、湊は空き家になった実家の台所を片づけに戻る。湯気の出ないやかん、欠けた計量カップ、洗い桶に沈む星砂。母は十年前から、台所仕事に見える手続きで異世界「灰灯の国」へ朝を送っていた。物を捨てれば向こうの暮らしが消え、残せば湊の生活は戻らない。母の家計簿と台所に残された物を追いながら、湊は母の代役ではない自分の手順を選んでいく。


    湯気のないやかん

    母の家の鍵は、財布の小銭入れに入れるには大きすぎた。

    湊は駅前の弁当屋で買った唐揚げ弁当の空容器を、まだ鞄に入れたまま玄関を開けた。六月の午後で、ドアノブは少しだけ汗をかいていた。中に入ると、廊下に残っていた匂いは、畳でも線香でもなく、洗剤を薄めすぎた水の匂いだった。

    靴箱の上には、母が最後まで使っていた宅配便の受領印が置かれていた。赤いインクは乾き、蓋の縁に埃がついている。湊はそれを指で押してみた。朱肉はもう紙に移らない。ただ丸い跡だけが指に残った。

    冷蔵庫の上に郵便物が積んであった。水道料金、町内会費の封筒、スーパーの割引券。湊が子どもの頃は、その山の中から給食費の袋が出てきたこともある。今は誰も払わない紙だけが、角を丸めて重なっている。

    流しには、白い洗い桶が残っていた。古いプラスチックは黄色くなり、底に細かい傷が入っている。横には銀色のやかんがあった。注ぎ口の根元に、焦げた茶色の輪がついていた。

    湊は先に窓を開けた。

    網戸が少しだけ引っかかった。レールの溝に、乾いた米粒が一つ挟まっている。指で取ると、米粒は軽かった。炊かれる前の米ではなく、炊かれてから干からびた米だった。

    鞄の中で、弁当容器が傾いた。油の匂いが少し漏れた。湊はそれを流しの右端に置いた。昔からそこに置いて、母に叱られていた。

    洗うならすぐ洗いなさい。
    あとでやるものは、だいたいあとでやらない。

    容器の角に残った油だけが、母の声の代わりに指へまとわりついた。

    湊はガスの元栓を見た。閉まっている。そう思ったのに、やかんの中から小さな音がした。湯が沸く前の、底の方で泡が迷っているような音だった。

    最初は冷蔵庫の音かと思った。古い冷蔵庫は、母が生きている頃からよく唸った。けれど耳を近づけると、音はやかんの中からしていた。

    湊は蓋をつまんだ。

    熱かった。

    指先が反射で離れた。ガスはついていない。電気ポットでもない。やかんはただ、コンロの上に置かれているだけだった。けれど中では、確かに湯が動いている。

    布巾を探した。壁のフックに一枚だけ残っていた。花柄は日に焼けて、何の花か分からない。端には、母がほつれを縫い直した跡があった。買えばいいものを、母はすぐ縫った。

    湊は布巾で蓋を持ち上げた。

    中の水は沸いていた。細かな泡が次々と上がり、やかんの内側に当たって消える。

    湯気だけがなかった。

    換気扇は止まっていた。窓は開けたばかりで、風はほとんど入ってこない。湯気が流れたのではない。湯気が、最初からなかった。

    湊は蓋を戻し、少し離れて見た。

    やかんは古い台所の真ん中で、黙って熱を持っている。母がそこに立っていた頃と同じ場所だった。朝はいつも、母の背中から始まった。湯が沸く音、味噌を溶く音、まな板に包丁が当たる音。湊はその全部を、ただ背景として聞いていた。

    最後に電話が来た夜、湊は台所の音を思い出さなかった。

    会議中だった。画面に母の名前が出て、湊は伏せた。終わってから折り返すつもりだった。帰りの電車では、鞄の中で弁当容器が膝に当たっていた。その容器を家で洗わず、翌朝、病院から電話が来た。

    母の留守番電話には、何も入っていなかった。

    用事がなかったのかもしれない。声を残すほどの力がなかったのかもしれない。湊の手元に残ったのは、洗わなかった容器と、朝まで置いたままの箸袋だけだった。

    やかんの中で、泡がひとつ大きく鳴った。

    湊は唐揚げ弁当の容器を洗うことにした。先に何かを普通にしたかった。スポンジに洗剤をつけ、容器の角をこする。油はなかなか落ちない。水だけではぬるぬるが広がるばかりで、指先が嫌な光り方をした。

    母なら、やかんの湯を少し使った。

    湊はそう思い、すぐにやめた。熱いのに湯気がないものを、弁当容器の油に混ぜたくなかった。

    水を出す。

    蛇口から落ちる水は、細くなったり太くなったりした。母の家は古い。そう思ったところで、水が勝手に細くなった。

    湊はハンドルに触れていない。

    水は糸のように落ち、洗い桶の底を叩いた。

    とん。

    とん。

    とん。

    小さな指で、向こう側から底を叩いているような音だった。

    排水口から、子どもの咳のような音がした。

    湊は水を止めた。止めたはずだった。けれど洗い桶の中では、まだ音が続いている。

    弁当容器の角から、落としきれなかった油が水に浮いた。その膜の下に、黒い粒が一つ見えた。米粒より小さい。砂にしては丸い。

    湊は割り箸でつついた。

    粒は、水の底で光った。

    蛍光灯の反射ではなかった。窓の外は曇っている。粒はそれ自体の内側から、青白く瞬いた。

    やかんが、また鳴った。

    今度は湯の音ではなかった。遠くの金属が、誰かに叩かれたような音だった。

    湊は母の湯飲みを見た。流しの端に伏せてある。底の縁に、茶渋の輪が残っている。母はいつも、洗ったあと完全には拭かなかった。少し水滴を残したまま、伏せた。

    湊はその湯飲みを起こした。

    中は空だった。

    空なのに、内側が少し曇っていた。湯気のないやかんの近くで、湯飲みだけが、誰かの息を受けたように白くなっている。

    その白さに、指で触れた。

    冷たかった。

    排水口の奥で、子どもがもう一度咳をした。

    今度は、咳のあとに短い息が混ざった。

    「すみこ」

    湊は動けなかった。

    母の名前だった。

    洗い桶の底で、青白い粒がもう一度光った。やかんの蓋が、ごく小さく震えた。冷蔵庫の上の郵便物が、風もないのに一枚だけずれた。

    湊は布巾を握ったまま、台所の真ん中に立っていた。

    母が毎朝立っていた場所から、半歩だけずれて。


    欠けた計量カップ

    湊は翌朝、母の台所でごみ袋を広げた。

    四十五リットルの半透明の袋は、床に置くとすぐ口を閉じた。静電気で縁がくっつき、片手では開かない。湊は膝で袋の底を押さえ、両手で口を広げた。中に最初に入れたのは、賞味期限の切れた乾燥わかめだった。

    袋の底で、わかめの袋が軽く鳴った。

    母の台所は、物が多いわりに散らかってはいなかった。輪ゴムはジャムの空き瓶に入っていたし、割り箸は古い茶筒に立ててあった。砂糖の袋には洗濯ばさみが噛んでいる。しょうゆ差しの下には、小さく切った牛乳パックが敷かれていた。

    ひとつずつ捨てれば、すぐ片づくはずだった。

    けれど、捨てるたびに、物のあった場所が濃くなる。

    茶筒を持ち上げると、丸い跡が残る。砂糖袋をどかすと、棚板に白い粉が薄く散っている。しょうゆ差しを洗おうとすると、牛乳パックの裏に母の字で「まだ使える」と書いてあった。

    湊はそれを捨てられなかった。

    流しの下を開けると、洗剤の匂いがした。詰め替え用の袋が三つ、口を輪ゴムで縛ってある。古いスポンジ、排水口ネット、使わなかったゴム手袋。その奥に、透明な計量カップが逆さに置かれていた。

    取っ手の下が欠けている。

    湊はそれを引っぱり出した。プラスチックは曇っていて、内側に水滴の跡が残っている。百ミリリットル、二百ミリリットル、三百ミリリットル。よくある赤い目盛りの横に、別の線が刻まれていた。

    魚の骨のような短い線だった。

    印刷ではない。内側から、細い針で引っかいたみたいに刻まれている。爪でこすっても消えない。指先に、ほんの少しざらつきが残った。

    母は、こんなものをいつから使っていたのだろう。

    湊の記憶の中の母は、計量をほとんどしなかった。味噌は箸で取る。砂糖は袋を傾ける。水は鍋の高さで見る。なのに、その計量カップだけは、何度も持たれた跡があった。取っ手の内側だけ、曇りが薄い。

    テーブルの上には、昨日出した家計簿がある。

    母は家計簿を冷蔵庫の上には置かなかった。引き出しの二段目、乾物の隣。湊が子どもの頃、そこからこっそり五百円玉を取ったことがある。母は気づいていたのに、何も言わなかった。夕飯のとき、湊の茶碗だけ少し大盛りだった。

    家計簿を開く。

    六月十二日。豆腐、ねぎ、灯油。丸印三つ。

    六月十三日。牛乳、食パン。丸印一つ。

    六月十四日。空欄。横に、小さく「朝」とある。

    金額の欄ではない。品名の横でもない。日付の下、母がいつも余白に献立を書いていた場所に、丸印だけが並んでいる。

    湊は計量カップをテーブルに置いた。欠けた取っ手が、木目に小さく当たる。かつ、と乾いた音がした。

    やかんはまだコンロにある。

    湯気は出ていない。けれど蓋の縁に、水滴が一つだけついていた。外側ではなく、内側から押し出されたような水滴だった。

    湊は布巾でやかんの蓋を取った。中の湯は沸いている。泡は細かく、白く、けれど湯気はない。

    計量カップを差し入れる。

    百ミリリットルの赤い線まで入れたつもりだった。けれど湯の表面は、その横に刻まれた魚の骨の線で止まった。カップを傾けても、揺れても、そこから上へ行かない。

    水が、勝手にそこを選んでいる。

    湊はカップを持ち上げた。湯気のない湯が入っている。カップの底が、うっすら青く光った。

    流しの水が細く出た。

    蛇口のハンドルは閉まっている。昨日と同じだった。水は糸のように落ち、洗い桶の底を叩く。とん、とん、とん。音が三つに分かれて聞こえる。

    湊は計量カップの湯を、洗い桶に入れた。

    水面が少しだけ沈んだ。

    普通なら増えるはずだった。水を足せば、かさは増える。けれど洗い桶の水は、湯を受けた瞬間、底へ向かって沈んだ。白い桶の底が、遠くなったように見えた。

    黒い粒が三つ、底にあった。

    昨日の粒より少し大きい。濡れているのに、光っている。湊は割り箸で寄せた。粒は箸から逃げるように動き、桶の底の傷に引っかかった。

    玄関のチャイムが鳴った。

    隣の田端が立っていた。

    片手に保存容器を持っている。透明な蓋に、マスキングテープで日付が貼ってあった。字は薄くなっている。十年前の日付だった。

    「お母さんに借りっぱなしだったから」

    田端はそう言って、湊に容器を差し出した。

    容器は空だった。けれど、蓋の裏に白い曇りがついている。冷蔵庫から出したばかりのような曇りではない。中に何かが息をしていたような白さだった。

    「ありがとうございます」

    湊は受け取った。軽い。軽いのに、手首が少し沈んだ。

    田端は玄関から、見えないはずの台所の方を見た。

    「まだ、細く出てるのね」

    湊は保存容器を持ったまま止まった。

    「どうして知ってるんですか」

    田端はすぐには答えなかった。靴のつま先を揃え、片方だけ少し引いた。帰る準備にも、上がる準備にも見える動きだった。

    「あの水は、止めると困るの」

    「誰が」

    「朝を待ってる子たち」

    田端の声は、変なことを言う人の声ではなかった。回覧板の置き場所を教えるみたいな声だった。湊はその普通さに、少し腹が立った。

    「母が何をしてたか、知ってるんですか」

    「全部は知らない。知ってるところだけ、預かってた」

    田端は保存容器の蓋を指で押した。ぱちん、と小さく鳴る。その音に合わせるように、台所の水音が一度だけ止まり、また始まった。

    「それ、流しの左に置いて」

    「これですか」

    田端は頷いただけだった。

    保存容器の置き場所まで知っている。そのことが、湊には母の秘密より先に引っかかった。母の台所は、母のものだった。湊が家を出てから、その台所の中に田端の知っている場所がある。

    湊は容器を流しの左に置いた。

    蓋の曇りが、少し薄くなった。

    洗い桶の底で、黒い粒が青白く光る。計量カップの内側の魚の骨の線も、同じ色でかすかに光った。

    田端は玄関で、小さく息を吐いた。

    「お母さん、最初は料理だと思ってたのよ」

    「料理」

    「湯を量って、水を細く出して、黒い砂を洗う。鍋を火にかける前の支度みたいでしょう」

    湊は台所を見た。やかん、計量カップ、洗い桶、保存容器。たしかに、どれも料理の道具だった。どれも母が毎日触っていたものだった。だから、誰にも見つからなかった。

    「でも、違った」

    田端の声は少し低くなった。

    「あれは、朝の支度だったの」

    「朝?」

    「こっちの食卓じゃなくて、水の底のほうの」

    水の底。

    その言葉が廊下に落ちた。湊は拾わなかった。拾うと、洗い桶の底を覗き込まなければならなくなりそうだった。

    田端は鞄から古いガスの検針票を出した。母の名前が印字されている。十年前のものだった。使用量の横に、赤い丸が三つついている。

    家計簿の丸印と、同じ形だった。

    「ガス代の印じゃないの」

    田端はそれだけ言って、検針票を湊に渡した。

    湊は笑わなかった。

    笑えるほど、台所は普通ではなくなっていた。やかんは熱く、湯気はない。水は勝手に細く落ちる。計量カップの目盛りは光り、保存容器の蓋は呼吸のあとみたいに曇っている。

    それでも、床には昨日の弁当容器を洗ったときの水滴が残っていた。冷蔵庫の上には郵便物がある。玄関には、田端の履いてきた靴の泥が少し落ちている。

    異常は、生活を壊して入ってきたのではなかった。

    生活の置き場所を、少しずつ借りていた。

    「流しの下の奥に、布の袋がある」

    田端は言った。

    「中に鍵が半分だけ入ってる。もう半分は、あの子が持ってる」

    「あの子」

    「水の底の子」

    湊の手の中で、検針票が少し曲がった。赤い丸が、蛍光灯の下で鈍く見える。

    田端は帰りかけて、もう一度だけ振り向いた。

    「捨てるなら、名前を聞いてからにして」

    「誰に」

    「物に」

    玄関のドアが閉まる。

    台所に戻ると、洗い桶の水面に細かな泡が立っていた。泡は三つ集まり、すぐ消えた。計量カップの底に、青白い光が残っている。

    湊は流しの下を開けた。

    洗剤、古いスポンジ、使っていない排水口ネット。その奥に、茶色い布袋があった。母の字で「熱いもの」と書かれていた。

    中には、半分だけの鍵が入っていた。

    鍵は冷たかった。

    やかんの湯よりも、ずっと。


    保存容器の話をした田端

    田端は玄関を上がる前に、靴底を二度こすった。

    湊の家の玄関マットは、母が死ぬ前から同じものだった。茶色い繊維の中に、細かい砂が入り込んでいる。母はそれを捨てなかった。来客があるたび、外へ持ち出して叩き、また同じ向きに戻した。右端が少しめくれているのも、そのままだった。

    田端はそのめくれた右端を、足先で軽く押さえた。

    「ここ、引っかかるのよ」

    そう言ってから、田端は自分で少し困った顔をした。湊の母しか知らないはずのことを、言ってしまった顔だった。

    「上がってください」

    湊が言うと、田端は首を振った。

    「先に、これを台所に置いて」

    手には昨日の保存容器があった。空のはずだった。湊が流しの左に置いたはずだった。けれど田端は同じ容器をまた持っている。蓋には、昨日と同じ十年前の日付が貼ってあった。マスキングテープの端が少し浮き、そこに埃がついている。

    「それ、うちに置きましたよね」

    「置いたわね」

    「じゃあ、なんで」

    田端は蓋の曇りを親指でぬぐった。曇りは消えず、内側からまた白くなった。

    「向こうで空になったの」

    湊は返事をしなかった。流しの下の布袋から見つけた半分の鍵は、今も台所のテーブルに置いてある。冷たいまま。布袋に戻す気になれず、かといってポケットに入れる気にもなれなかった。

    田端が廊下を進む。歩き方が慣れていた。母の家に来慣れているというより、床の鳴る場所を避けている歩き方だった。冷蔵庫の前で一度止まり、上に積まれた郵便物を見ないようにしてから、台所へ入った。

    「今日は奥」

    田端は保存容器を指で示した。

    「流しの奥、壁につけて」

    湊は言われた通りにした。保存容器の底がステンレスに触れると、かすかに音がした。プラスチックの軽い音ではない。陶器が遠くで欠けるような、乾いた音だった。

    洗い桶の底にあった星砂が、少し動いた。

    田端は息を止めた。湊もつられて止めた。台所の音が減る。冷蔵庫の唸り、外の車、どこかの家の洗濯機。その中で、保存容器の蓋だけが、ゆっくり白く曇っていく。

    「昨日は左だったのに」

    「左は受ける場所。奥は返す場所」

    「誰が決めたんですか」

    田端はすぐには答えなかった。

    「お母さんじゃないわ」

    それだけ言って、流しの奥を見た。

    湊は洗い桶を見た。底の星砂は、傷の間に入り込んでいる。昨日より数が増えていた。青白い粒の奥に、暗い穴のようなものが見える。見ようとすると、ただの水になる。

    田端はエプロンのポケットから、小さな紙を出した。ガスの検針票ではなかった。スーパーのレシートくらいの幅で、紙の端が灰色に変色している。

    「お母さんが、うちに間違えて置いていったの。返しそびれた」

    紙には、母の字で物の名前が並んでいた。

    やかん。熱。

    計量カップ。水位。

    保存容器。朝。

    布巾。屋根。

    茶筒。灯台。

    湊は最後の行で止まった。

    「灯台?」

    「割り箸を入れてる茶筒が、向こうではそうなるって」

    田端は笑わなかった。湊も笑えなかった。

    母の茶筒は、流しの横にある。古い缶で、蓋はない。割り箸が十数本立っている。来客用にとっておいたものだ。実際には、来客などほとんどなかった。

    「物をそのまま渡すわけじゃないのよ」

    田端は言った。

    「名前を決めて、置き場所を決めて、湯で起こす。そうすると、水の底のほうで、別の形になる」

    湊は半分の鍵を見た。

    「じゃあ、これは」

    「鍵は鍵」

    田端の声が少し硬くなった。

    「半分だけじゃ開かない。向こうの子が、もう半分を持ってる」

    「水の底の子」

    「リオ」

    初めて名前が出た。

    洗い桶の水面に、細い泡が上がった。ひとつ、ふたつ、三つ。保存容器の蓋の曇りが、そこだけ丸く晴れた。

    蓋の内側に、小さな手形がついていた。

    子どもの手だった。手のひら全体ではない。指先が五つ、白い曇りを押しのけた跡。容器の内側から触れたように見えた。

    湊は一歩下がった。背中が冷蔵庫に当たる。上に積んであった郵便物が一枚落ちた。町内会費の封筒だった。母の字で、表に「田端さん」と小さく書いてある。

    田端は封筒を拾わなかった。

    「その子、母を知ってるんですか」

    「知ってる。すみこ、と呼んでた」

    排水口の奥で、水がひとつ跳ねた。

    すみこ。

    母の名前は、台所で聞くと、母ではなく手順の名前みたいに聞こえた。湯を量る人。水を落とす人。星砂を洗う人。朝を向こうへ渡す人。

    湊はそれが嫌だった。

    「母は、母です」

    声が思ったより低く出た。

    田端は頷いた。

    「だから、お母さんはあなたに言えなかったんだと思う」

    「どうして」

    「役目にされるから」

    保存容器の蓋が、ぱちんと鳴った。中には何も入っていない。けれど、空の容器が閉じる音は、何かを閉じ込めた音に似ていた。

    「お母さんは、向こうを助けたかった。でも、あなたまで台所に縛りたかったわけじゃない」

    料理のふり。

    湊は母の朝を思い出した。味噌汁の湯気、茶碗に落ちる米、流しに置かれた計量カップ。母は料理をしていた。少なくとも、湊にはそう見えていた。

    「ふりじゃなかったと思います」

    湊は言った。

    「母は、味噌汁も作ってました」

    田端は少しだけ笑った。安心したような、困ったような笑いだった。

    「そうね。両方だったのね」

    両方。

    その言葉だけは、台所に馴染んだ。母は味噌汁を作りながら、朝を渡していた。湊の弁当を詰めながら、水の底の子どもへ火を分けていた。生活はひとつではなかった。母は、二つの生活を同じ手でしていた。

    湊は茶筒を手に取った。

    軽い。中の割り箸がかさりと鳴る。灯台と言われても、ただの古い茶筒だ。けれど茶筒の底には、母が貼った丸いフェルトが残っていた。テーブルを傷つけないようにするためのものだ。向こうで灯台になるとしても、こちらではテーブルを傷つけないために貼られたものだった。

    それでいいのかもしれない。

    「リオは、何を待ってるんですか」

    田端は保存容器を見た。

    「朝」

    今度の「朝」は、言葉だけで浮かなかった。保存容器の曇り、検針票の丸印、やかんの熱、計量カップの目盛り。全部が、その短い言葉を下から支えていた。

    「朝が来ないと、井戸の水が冷えたままになる」

    田端はそう言って、保存容器の蓋を少しだけ開けた。中は空なのに、冷蔵庫の奥に入れていたみたいな冷気が出た。湊の指先に触れ、すぐ消える。

    「水が冷えたままだと、火が起きない。火が起きないと、子どもたちは器を持って並ぶしかない」

    「国なんですか」

    「私が見たのは、井戸の周りだけ」

    田端は首を振った。

    「お母さんは、灰灯の国って呼んでた。灰色の灯りしかないからって」

    灰灯の国。

    湊はその名を心の中で繰り返した。観光地の名前でも、童話の国でもない。台所の排水口の奥にあるには、少し重い名前だった。

    洗い桶の底で、星砂が光った。

    保存容器の蓋の小さな手形が、もう一つ増えた。

    田端は半分の鍵に触れないまま、言った。

    「今夜、声がすると思う」

    「リオの」

    「たぶん」

    「何をすればいいんですか」

    「返事をするかどうかを、決める」

    湊は笑いそうになった。今度は少しだけ、口の端が動いた。

    「それだけですか」

    「それが一番難しいのよ」

    田端は帰る前に、保存容器の位置をもう一度だけ確かめた。流しの奥、壁につけて。蓋の浮いた角を押さえ、容器の向きを少し変える。ほんの数センチの違いだった。

    「置き場所って、そんなに大事なんですか」

    「お母さん、茶筒の向きまで直してたでしょう」

    田端は玄関へ向かいながら言った。

    「少しずれると、向こうでもずれるんだって」

    湊は茶筒を持ったまま、台所に残った。

    田端が帰ったあと、玄関には少しだけ土の匂いがした。雨は降っていない。靴底の砂が、灰色に乾いている。

    湊は流しの奥に置かれた保存容器を見た。

    蓋の内側から、もう一度、指先が曇りを押した。

    今度は五つではなかった。

    四つだった。

    一本、足りない。


    洗い桶に沈む星砂

    保存容器の蓋についた手形は、朝になっても消えなかった。

    湊は台所の蛍光灯をつけず、窓から入る薄い光だけでそれを見ていた。指先の跡は四つ。親指の場所は分からない。小指がないのか、人差し指がないのか、子どもの手の形に詳しくない湊には判断できなかった。

    ただ、怖いとは少し違った。

    指が足りないことより、その手が容器の内側から何かを受け取ろうとしていたことの方が気になった。菓子を欲しがる手ではない。病院の受付で番号札を出す手に近い。順番を待ち、呼ばれたら差し出す手。

    湊は保存容器を流しの奥から動かさなかった。

    やかんに水を入れる。水道の水は普通に出た。ハンドルを回せば太くなり、閉めれば止まる。昨日のように勝手に細くならない。普通であることが、かえって頼りなかった。

    欠けた計量カップを出す。

    魚の骨のような目盛りは、朝の光では見えにくい。湊はカップを窓際に持っていった。目盛りの溝に、薄い青が残っている。昨日、湯を量った場所だけが、爪で触ると少し温かかった。

    母はこれを、毎朝やっていた。

    そう思うと、台所に立つ自分の姿が少しだけ居心地悪くなる。母の真似をしているようで、母の場所を盗んでいるようでもあった。

    湊はカップを置き、冷蔵庫の上の郵便物を一枚取った。町内会費の封筒。表に小さく「田端さん」と書かれている。

    母の字は丸かった。急いで書いても、角が立たない。湊の字は尖る。小学校の連絡帳に母が書いた「よろしくお願いします」を思い出した。先生への言葉なのに、湊が見ても少し安心した。

    流しの水が、細く出た。

    今回は驚かなかった。

    湊はやかんを火にかけた。青い火が丸く並ぶ。やかんの底で水が動き始める。湯気は出ない。蓋の縁に水滴がつき、すぐ内側へ戻る。

    洗い桶には、星砂が沈んでいた。

    昨日より多い。底の傷に沿って、青白い粒が川みたいに集まっている。湊が指で触れると、砂は逃げなかった。濡れているのに指につかない。ただ、触れた場所だけが少し明るくなった。

    排水口の奥から、器を叩く音がした。

    ちん。

    ちん。

    金属ではない。陶器でもない。薄い石を爪で叩くような音だった。

    湊は保存容器を見た。蓋の手形が、曇りの中で少しだけ濃くなる。四つの指先が、内側からもう一度押された。

    「リオ」

    湊は声に出した。

    返事はすぐには来なかった。水の音が細く続く。やかんの底が鳴る。外では、どこかの家が雨戸を開けた。普通の朝の音が重なって、台所の異常を少しだけ隠した。

    「すみこ」

    排水口の奥から、声がした。

    母の名だった。けれど、前より弱い。水の底に沈んだ布を通して聞くような声だった。

    「澄子はいません」

    湊は言った。

    言ってから、言い方が役所の窓口みたいだと思った。母がいないことを、手続きとして伝えている。

    排水口の向こうで、何かがこすれる音がした。小さな器が床に置かれる音。誰かが息を吸う音。

    「じゃあ、あさは」

    声は子どもだった。

    湊は計量カップを持った。やかんの湯をすくう。赤い目盛りではなく、魚の骨のような線まで。湯はそこで止まる。カップの底が青く光る。

    「これを、どうすればいい」

    聞いたあとで、湊は自分が誰に聞いているのか分からなくなった。リオにか。母にか。台所にか。

    「ほしを、あらう」

    リオの声がした。

    洗い桶の底の星砂が、細かく震えた。

    湊は湯を少しずつ落とした。星砂に直接かけるのではなく、桶の縁を伝わせた。母ならそうした気がしたからだ。湯は白い桶の内側を薄く濡らし、底へ流れる。星砂に触れた瞬間、青白い光が少し強くなった。

    「いたい?」

    湊は思わず聞いた。

    リオは答えなかった。

    保存容器の蓋の手形が、少しずれた。四つの指先が、今度は曇りを引っかくように動く。湊は蓋を開けようとして、田端の言葉を思い出した。置き場所。向き。勝手に動かしてはいけない。

    「指」

    湊が言うと、水の奥で器が鳴った。

    「ひが、たりなかった」

    リオの声は、泣いていなかった。泣く前に、泣いている時間がなくなった子どもの声だった。

    「火?」

    「いどが、つめたい。あさがこないと、みんな、てをいれる」

    湊は洗い桶の水面を見た。星砂の間に、小さな丸い影が浮いた。井戸の縁だと分かった。見たことがないのに、分かった。灰色の石。水面に身を乗り出す子どもたち。器を持つ手。冷たい水に指を入れ、何かをすくおうとしている。

    火が足りないから、手で水を起こす。

    そのうちの一本が、戻らなかった。

    湊は吐き気に近いものを感じた。血も叫びもない。ただ、冷えた水に入れた指が戻らない。それだけのことが、台所の朝に置かれると重かった。

    「ごめん」

    言ってから、湊は唇を噛んだ。

    謝る相手を間違えている気がした。母の電話に出なかったことも、昨日まで手順を知らなかったことも、リオが器を持ちにくくなったことも、全部を一つの謝罪に入れるのは乱暴だった。

    リオは、少し黙った。

    「すみこは、あやまらない」

    湊は顔を上げた。

    「なんて言ってた」

    「もういっかい、はかる」

    台所に、母の声ではないのに母の手つきが戻った。

    湊は計量カップを見た。魚の骨の目盛りは、さっきより少し上に光っている。湯が足りない。そういうことなのだろう。

    やかんの蓋を取る。湯はまだ沸いている。湯気は出ない。けれど、音は強くなっていた。底で泡が細かくぶつかり、金属が低く鳴る。

    湊はもう一度すくった。

    今度はカップを持つ手が震えた。湯の表面が揺れる。赤い線、魚の骨の線、その少し上。どこまで入れればいいのか分からない。母なら分かったのだろうか。それとも、毎朝間違えながらやっていたのだろうか。

    「リオ」

    「うん」

    「この線でいい?」

    計量カップを洗い桶の上にかざす。返事の代わりに、排水口から細い息が上がった。保存容器の蓋の手形が、少しだけ薄くなる。

    湊は湯を落とした。

    星砂が一斉に光った。

    洗い桶の底が深くなる。白いプラスチックの底ではなく、灰色の井戸の底が見えた。子どもたちが器を持って並んでいる。リオは一番前にいた。髪は灰をかぶったように白く、片手を布で巻いている。

    四つの指が、器を支えていた。

    湊は息を止めた。

    リオの後ろに、低い家が並んでいる。屋根は布のようにたるみ、壁は石と木切れを組み合わせたものだった。どの家にも、煙がない。けれど井戸のそばに、小さな灯りがひとつともった。

    茶筒だ。

    流しの横に置かれた古い茶筒が、こちらでは何も変わらないまま、向こうでは細い塔になっていた。割り箸の一本一本が、塔の中の柱みたいに立っている。灯りは弱い。けれど子どもたちは、そこを見て列を崩さずにいる。

    湊は、母が茶筒の底に貼ったフェルトを思い出した。

    テーブルを傷つけないための丸い布。

    向こうでは、灯台を倒さないための土台。

    「すみこじゃない」

    リオが言った。

    「息子です」

    言葉が口から出たあと、湊はそれが病院でも葬儀屋でも言った言葉だと気づいた。けれど今は、少し違って聞こえた。手続きを引き継ぐ人間の名乗りではない。母のことを知る相手に、自分の置き場所を伝える言葉だった。

    リオは器を少し持ち上げた。

    「すみこの、こども」

    「そう」

    「じゃあ、はかれる」

    その言い方に、少し腹が立った。母の子どもだからできるわけではない。母がしていたことを、湊は知らなかった。知ろうともしなかった。

    けれど、リオの目は湊を責めていなかった。責める時間があるなら、器を並べ直す。そういう顔だった。

    湊は洗い桶の星砂を指でゆっくり混ぜた。粒は水の中でほどけ、青白い光を広げる。やかんの音が少し静かになった。流しの水も、細いまま安定する。

    保存容器の手形は、もう曇りではなくなっていた。蓋の内側に、水滴が四つ、指先の形で残っている。

    湊はそれを布巾で拭かなかった。

    母なら、拭いただろうか。

    いや、母ならまず、布巾をたたみ直したかもしれない。濡れた面を内側にして、使えるところを外に出す。湊は見よう見まねで、布巾をたたんだ。角はそろわなかった。

    排水口の奥で、器を叩く音が少しだけ増えた。

    ちん。

    ちん。

    ちん。

    列が動き始めたのだと分かった。

    湊は計量カップを流しに置いた。欠けた取っ手がステンレスに当たり、軽く鳴る。カップの内側には、魚の骨の目盛りの上に、新しい細い線が一本増えていた。

    母の字ではない。

    誰の字でもない。

    爪で触れると、そこだけほんの少しざらついた。

    湊は家計簿を開いた。今日の日付を書く。何を買ったわけでもない。金額もない。けれど余白に丸を二つ書いた。

    丸は母のものより尖っていた。

    それでも、排水口の奥でリオが言った。

    「あさ、すこしきた」

    湊はやかんを見た。

    湯気は、まだ出ていなかった。

    でも、台所の窓の外で、曇った空が少しだけ明るくなっていた。


    灰灯の国の朝

    湊は洗い桶の底に、布巾を一枚敷いた。

    母が残した花柄の布巾ではなく、昨日コンビニで買った白いものだった。三枚入りで、端の縫い目が固い。袋から出したばかりの布は、台所にまだ馴染んでいなかった。水を吸わせても、表面で少し弾く。

    リオの器が、桶の底に当たる音を少しでも弱くできるかもしれない。

    そう思って敷いた。

    役に立つかどうかは分からない。そもそも、こちらの布巾が水の底の国で何になるのか、湊には分からない。母なら名前を決めてから置いただろう。布巾。屋根。茶筒。灯台。そういうふうに。

    湊は少し迷って、家計簿の余白に書いた。

    布巾。敷くもの。

    それだけでは足りない気がして、横に小さく書き足す。

    器の下。

    文字は尖っていた。母の丸い字とは違う。けれど、洗い桶の底の星砂が一粒だけ光った。

    流しの水は、まだ細く出ていない。

    湊はやかんに水を入れ、火にかけた。青い火が丸く並ぶ。蓋の縁に水滴がつき、内側へ戻る。湯気は出ない。これにも、もう驚かなくなっている自分に気づいて、湊は少し嫌になった。

    慣れるのが早い。

    母が死んだことにも、慣れていくのだろうか。郵便物の山が減り、冷蔵庫の中が空になり、母の湯飲みをどこかへしまったら、いないことに慣れるのだろうか。

    保存容器の蓋には、四つの水滴が残っていた。手形ではなく、水滴。湊はそう見ることにした。水滴なら、拭かずに置いておける。

    やかんの底が鳴る。

    流しの水が細く出た。

    湊は欠けた計量カップを持った。魚の骨の目盛り、その上に増えた新しい細い線。爪で触れると、ざらつく。カップの内側についた傷ではない。傷に似た約束だった。

    湯をすくい、洗い桶の縁へ落とす。

    星砂が光る。

    白い布巾の上に、青白い粒が広がっていく。布巾の繊維に絡まず、表面を滑る。湊が指でゆっくり混ぜると、桶の底が深くなった。

    台所の床が少し遠のく。

    流しの白さが、灰色へ変わる。

    目を閉じたわけではない。眠ったわけでもない。湊は台所に立ったまま、洗い桶の底にある井戸を見ていた。

    灰灯の国の朝は、明るくならないまま始まっていた。

    井戸の周りに、子どもたちが並んでいる。器を両手で持つ子もいれば、紐を通して首から下げている子もいた。器はどれも違う。欠けた皿、曲がった匙、石をくりぬいた小鉢。リオは一番前にいる。

    片手には布が巻かれていた。

    湊はそこを見すぎないようにした。リオは、見られることに慣れている顔をしていなかった。代わりに、器の持ち方を見た。四つの指で縁を支え、親指の根元で底を押さえている。少し傾くと、隣の子が何も言わずに器の反対側へ指を添えた。

    それが、この国の手伝い方なのだと思った。

    誰も大げさに助けない。器が傾いた分だけ、指を出す。

    井戸のそばには、茶筒の灯台が立っていた。

    こちらの台所では、茶筒は相変わらず流しの横にある。蓋のない古い缶で、割り箸が入っているだけだ。けれど水の底では、同じ形の塔が井戸のそばに立っている。割り箸の一本一本が、細い柱になっていた。灯りは弱い。黄色ではなく、灰色を少し薄くする程度の光だった。

    リオが顔を上げた。

    「すみこの、こども」

    湊は少しだけ息を吐いた。

    「湊です」

    リオは口の中で繰り返した。みなと。音が水に沈んで、少し形を変える。

    「みなと、はかるひと」

    「まだ、分からない」

    「じゃあ、はかるまえのひと」

    リオはそう言って、器を少し持ち直した。布を巻いた手ではなく、もう片方の手で。隣の子が、また何も言わずに器の縁を押さえた。

    湊は計量カップを見た。カップの中には、湯気のない湯が残っている。カップの底越しに見る灰灯の国は、少し歪んでいた。

    「ここは、国なの」

    湊が聞くと、リオは首をかしげた。

    「いどのまわり」

    「灰灯の国って」

    「すみこが、そうよんだ」

    「君たちは、そう呼ばない?」

    リオは器の中を見た。

    「あさまえ」

    朝前。

    国の名前ではなかった。時間の名前だった。ここでは、場所と時間が同じなのかもしれない。朝が来ない場所。朝を待つ時間。母はそれを、灰灯の国と呼んだ。

    湊は台所の窓を見た。こちらの空は曇っている。けれど、電線の向こうに薄い明るさがある。こちらでは、放っておいても朝が来る。

    あちらでは、器を持って並ばなければ来ない。

    「すみこは、どこまで見えてた」

    リオは井戸の縁を指で叩いた。ちん、と薄い音がした。

    「ここ」

    「井戸だけ?」

    「いどと、ならぶところ。あと、すこし」

    母が十年見ていたのは、国の全てではなかった。城も森も、広い道も見ていない。井戸と、並ぶ子どもたちと、器と、火を待つ朝。それだけを見て、毎朝台所に立っていた。

    それだけで、十分だったのだろうか。

    たぶん、母には十分だった。

    母は全部を知らないと動けない人ではなかった。冷蔵庫の上に置かれた封筒の中身を開ける前に、まず角をそろえる。誰のものか分からない輪ゴムでも、伸びていなければ瓶に戻す。湯飲みの底に水滴が一つ残っていれば、拭ききらずに伏せる。知らないまま手を動かす人だった。

    湊は、知ってからでないと動けない人間だった。

    だから、最後の電話も後回しにした。

    器を叩く音が増えた。

    列の後ろで、小さな子が泣き始めている。声は聞こえない。ただ、肩が揺れている。隣の子が自分の器を地面に置き、その子の器を持ってやった。代わりに自分の器が倒れそうになり、さらに別の子が足で支えた。

    灰灯の国には、大人が少なかった。

    見える範囲にいる大人は二人だけだった。ひとりは井戸の石に背を預け、片足を伸ばしている。もうひとりは火のないかまどのそばで、布を裂いている。どちらも疲れていた。大人が働いていないのではない。働く前に、朝が足りないのだ。

    湊はやかんの湯をもう少しすくった。

    計量カップの線を見ながら、手を止める。前より上の線まで入れるべきか、昨日と同じでいいのか。迷っていると、リオが言った。

    「すみこは、においをみる」

    「匂い?」

    「ゆの、におい」

    湊はカップに顔を近づけた。湯気はない。匂いもない。そう思ったが、ほんの少しだけ金属の匂いがした。やかんの内側の匂い。母の台所で何度も沸かされた水の匂い。

    「分からない」

    「すみこも、まちがえる」

    リオは簡単に言った。

    湊は顔を上げた。

    「母も?」

    「うん。まちがえたら、もういっかい」

    母が完璧だったわけではない。

    そのことに、湊は少しだけ救われた。救われたと思って、すぐに嫌になった。母の失敗を、自分の逃げ道にしたくなかった。

    湯を落とす。

    星砂は、前よりゆっくり光った。すぐには広がらない。白い布巾の上で、粒が水を含むように沈み、少しずつ明るくなる。

    井戸のそばで、茶筒の灯りが強くなった。

    強くなったといっても、昼の光ではない。台所の豆電球くらいの明るさだった。それでも子どもたちは、器を胸に近づけた。水面に薄い光が映る。

    リオは器を両手で持とうとして、少し失敗した。隣の子が手を出す。リオはその手を断らなかった。二人でひとつの器を持った。

    湊は、その動きを覚えておこうと思った。

    かわいそうだと思うより先に、どう持てばこぼれないかを見たかった。そうしないと、次に何を渡せばいいか分からない。

    洗い桶の白い布巾が、水の中で少し沈んだ。

    灰灯の国では、井戸のそばに低い台ができていた。布ではなく、石でもない。器を置くための、柔らかい台。子どもたちはそこに器を置き、両手を離して肩を回した。

    湊は家計簿に書いた。

    布巾。器の下。少し使えた。

    それから、丸を二つ書いた。昨日より、少し丸く書けた。

    「みなと」

    リオが呼んだ。

    「なに」

    「すみこは、あさがきたら、ゆのみをふせる」

    湊は母の湯飲みを見た。流しの端に伏せてある。茶渋の輪が残った白い湯飲み。昨日から、何度も見ているのに触れずにいた。

    「それも、何かになるの」

    「しらない。でも、すみこは、そうする」

    湊は湯飲みを持ち上げた。

    内側は冷たい。底に、水滴が一つ残っている。湊はそれを拭かず、もう一度伏せた。母がしていたように、完全には乾かさずに。

    排水口の奥で、小さく音がした。

    器ではない。

    誰かが、床を掃いたような音だった。

    井戸の周りの子どもたちが、少しずつ動き始める。列がほどけ、家の方へ戻っていく。低い屋根、火のないかまど、灰色の布。茶筒の灯りはまだ弱い。けれど、さっきより輪郭がある。

    朝は、来たというより、湯飲みの底に残った水滴みたいに、そこへ置かれたようだった。

    湊の台所に、湯気はまだ出ていない。

    それでも窓の外では、隣の家のベランダに洗濯物が干され始めていた。白いタオルが二枚、風のない朝にだらりと下がっている。

    湊は弁当容器を洗った場所を見た。

    水滴は乾いていた。

    乾いた跡だけが、流しの右端に残っている。


    家計簿の空欄

    母の家計簿には、買っていない日の記録があった。

    湊は台所のテーブルに、家計簿を三冊並べた。表紙の色は違う。緑、薄い桃色、くすんだ黄色。どれも端が反っていて、角に油の染みがある。母は家計簿を食卓でつけていた。味噌汁の湯気がまだ残る場所で、レシートを伸ばし、短い鉛筆で数字を書いた。

    その鉛筆も、引き出しの中にあった。

    短すぎて持ちにくい。後ろに銀色のキャップがついている。湊が子どもの頃、学校から持ち帰った鉛筆補助軸だった。母はそれを捨てずに使っていた。キャップの端に、歯で噛んだ跡がある。湊の跡か、母の跡か分からない。

    家計簿の空欄には、丸があった。

    金額ではない。品名でもない。日付の下、献立を書く場所の横に、丸が一つ、二つ、三つ。多い日は五つ。丸の横に短い線がある日もあった。線は、計量カップの魚の骨の目盛りに少し似ていた。

    湊はガスの検針票を並べた。

    田端が持ってきた十年前のものだけではない。冷蔵庫の上の郵便物を開けると、古い封筒の中から何枚も出てきた。母はなぜか、ガスの検針票だけを捨てていなかった。水道料金の紙は二年分で途切れているのに、ガスは十年分近くある。

    使用量の横に、赤い丸。

    家計簿の丸と、同じ形だった。

    湊はそれらを月ごとに並べた。四月、五月、六月。寒い月は丸が多い。雨の日も多い。けれど気温だけではない。母の通院日にも、丸が増えている。

    病院の領収書が、家計簿に挟まっていた。

    内科。薬局。検査。金額の横に、母の字で「帰りに豆腐」とある。その下に、丸が三つ。

    湊は鉛筆を持った。短すぎて、指が丸まる。母はこれで十年書いていた。新しい鉛筆くらい買えばよかったのに、と思ってから、買わなかった理由を考えた。短いものを最後まで使うためか。湊が使っていたものを捨てなかったためか。それとも、補助軸の金属が、手に馴染んでいたためか。

    理由はどれでもよかった。

    どれでも、母だった。

    やかんの底が鳴った。

    湊は顔を上げた。火はつけていない。けれど、やかんは少し温かい。台所の朝は、湊が始めるより先に始まりかけていた。

    「待って」

    誰に言ったのか分からないまま、湊は立った。

    やかんに水を足し、火をつける。計量カップを用意する。洗い桶の底には、昨日の星砂が少し残っていた。白い布巾は沈み、端が水を吸って重くなっている。保存容器は流しの奥にある。蓋の水滴は消えていた。

    リオの声はしない。

    それでも、器を叩く音は遠くで聞こえた。

    湊は家計簿を開いたまま、湯を量った。昨日増えた細い線まで。魚の骨の目盛り、新しい線、その少し下で水面が止まる。湯気のない湯を洗い桶へ落とす。

    星砂はゆっくり光った。

    井戸の周りが見える。灰灯の国の朝前。子どもたちは昨日より少ない。列が短くなったのではない。何人かは、井戸のそばではなく、茶筒の灯台の近くで器を拭いている。白い布巾でできた低い台に、器が並んでいる。

    リオはその台の端に座っていた。布を巻いた手を膝に置き、もう片方の手で器の内側を拭いている。指が足りないことを隠してはいない。隠す必要がない場所なのだろう。隣の子が器を持ち上げると、リオは布巾の端を押さえた。

    器が滑らない。

    昨日の布巾は、少し役に立っていた。

    湊は家計簿に目を戻した。母の丸印は、ただの回数ではない。湯を何度量ったか。水をどれだけ落としたか。朝がどれくらい足りなかったか。たぶん、その全部が混ざっている。

    「すみこは、何を見て丸をつけてた」

    湊は洗い桶へ向かって聞いた。

    リオが顔を上げた。

    「ひかり」

    「光?」

    「いどの、ふち。あかるいと、まるひとつ。くらいと、いっぱい」

    湊は茶筒の灯台を見た。昨日より少し明るい。けれど、昼にはほど遠い。母の家計簿の丸を見返す。五つ丸の日。横に、母の字で「台風」とある。二つ丸の日。横に「湊、帰らず」。その文字を見て、湊の手が止まった。

    帰らず。

    大学に入ってから、湊は正月にもあまり帰らなかった。仕事を始めてからは、なおさらだった。母は電話で、忙しいならいいと言った。忙しいならいい。その言葉を、湊は許可として使っていた。

    家計簿のその日の欄には、買い物がなかった。

    豆腐も、ねぎも、牛乳もない。丸が二つだけある。

    母は、湊が帰らなかった日に、朝を二つ送っていた。

    湊は鉛筆を置いた。

    短い鉛筆が、家計簿の上で転がる。補助軸の金属が、紙に当たって小さく鳴った。

    「母は、寂しかったんですか」

    聞いてから、相手を間違えたと思った。リオに分かるわけがない。灰灯の国の子どもに、こちらの親子の寂しさを聞くのは違う。

    けれどリオは、器を拭く手を止めた。

    「すみこは、しずかなひ」

    「静かな日?」

    「こえがすくないひ。まるが、ゆっくり」

    母の寂しさは、言葉ではなく丸の速さに出ていた。

    湊はその欄を指でなぞった。丸の線が少し震えている。台風の日の丸は強く、濃い。通院日の丸は小さい。湊が帰らなかった日の丸は、薄くて、始まりと終わりが少しずれていた。

    湊は、母の字を見ていなかったのだと思った。

    数字だけを見れば、家計簿は金の記録だ。けれど母の家計簿には、声の量や、湯の匂いや、井戸の縁の明るさが混ざっていた。家計ではなく、朝の帳面だった。

    田端が来たのは、昼前だった。

    チャイムは鳴らさなかった。玄関先で、小さく咳をした。湊が出ると、田端は紙袋を持っていた。中には古い検針票がさらに入っている。

    「お母さん、うちにも預けてた」

    「どうして田端さんに」

    「あなたが来たら渡してって」

    湊は紙袋を受け取った。重い。紙なのに、湯を含んだ布みたいな重さだった。

    田端は上がらず、玄関に立ったまま言った。

    「お母さん、最後の年は、丸がうまく書けなくなってた」

    湊は紙袋の口を見た。中の検針票は、月ごとに輪ゴムでまとめられている。輪ゴムは古く、白く粉をふいている。

    「病気で?」

    「たぶんね。でも、それだけじゃないと思う」

    田端は冷蔵庫の上の郵便物を見た。廊下からは見えないはずなのに、見えているような目だった。

    「あなたに渡すかどうか、迷ってたから」

    湊は何も言えなかった。

    田端は紙袋の中から、一枚だけ検針票を抜いた。最後の月のものだった。使用量は少ない。赤い丸は、一つ。けれど、その丸の横に、小さな線が何本も引かれている。

    魚の骨のような線。

    計量カップの内側と同じ形だった。

    「これ、何ですか」

    「お母さんが間違えた日の印」

    田端は言った。

    「湯が多すぎた日。少なすぎた日。水を止めるのが早すぎた日。向こうで誰かが器を落とした日」

    湊は検針票を持つ手に力を入れた。

    「そんなの、母が全部」

    「全部じゃない」

    田端は静かに遮った。

    「全部は、誰にもできない」

    田端は輪ゴムで束ねた検針票を、湊の手元へ押した。古い輪ゴムの白い粉が、紙袋の底に少し落ちた。

    「お母さんは、この紙に残る分だけ書いてた」

    湊はその紙の重さを、台所へ持ち帰った。できた分だけ量る。紙に残る分だけ書く。間違えたら、もう一回。

    母が完璧ではなかったことが、今度は逃げ道ではなく、手順に見えた。

    夕方、湊は家計簿の新しいページを開いた。

    今日の日付を書く。買ったものは、白い布巾、食パン、牛乳。金額を書く欄に、レシートを見ながら数字を入れる。字はやはり尖る。けれど、空欄は空欄のままにしなかった。

    余白に丸を三つ書いた。

    その横に、短い線を一本。

    線は少し曲がった。補助軸の金属が指に重く、湊はその上からもう一度、短くなぞった。

    洗い桶の底で、星砂が一粒だけ光る。

    排水口の奥から、リオの声がした。

    「すみこの、じに、にてない」

    湊は少し笑った。

    「知ってる」

    「でも、よめる」

    湊は鉛筆を置いた。補助軸の銀色が、夕方の台所で少しだけ光った。

    やかんからは、まだ湯気が出ない。

    けれど家計簿の空欄は、もう空欄ではなかった。


    片づけると消える国

    湊は焦げた鍋を、ごみ袋の口まで持っていった。

    片手鍋だった。柄の根元が少しぐらついている。内側には、黒い焦げが丸く残っていた。重曹で煮ても落ちなかったのだろう。母は焦げの縁を避けるようにして、まだ使っていた。鍋底の外側には、ガス火の跡が幾重にもついている。

    不燃ごみの袋は、台所の床に広げてあった。

    湊は鍋を入れようとして、止めた。

    理由はなかった。いや、理由はありすぎた。焦げた鍋が灰灯の国で何になるのか、まだ聞いていない。母の紙にも、鍋の名前はなかった。けれど、焦げたものを捨てるのは、火に関わる場所を捨てるような気がした。

    湊は鍋をテーブルに戻した。

    底が木目に当たり、鈍い音がした。

    冷蔵庫の上の郵便物は、だいぶ減っていた。水道料金、町内会費、古い割引券。必要なものはファイルに入れ、期限の切れたものは紙袋にまとめた。母が取っておいたスーパーのレシートも、半分以上は捨てた。

    それだけで、台所は少し広くなった。

    広くなったぶん、母のいない場所が増えた。

    湊は古い布巾を手に取った。花柄の、母が何度も縫い直していた布巾だ。端はほつれ、中央は薄くなっている。もう布巾としては使えない。水を吸うと、破れそうになる。

    捨てるなら、今日だと思った。

    ごみ袋の口を開く。

    布巾を入れる。

    その瞬間、洗い桶の底で、何かが崩れる音がした。

    湊は振り返った。

    水は細く落ちていない。やかんにも火はつけていない。けれど洗い桶の底が、灰色に沈んでいる。星砂は光っていない。底の奥に、灰灯の国の井戸が見えた。

    井戸の横にあった低い台が、傾いていた。

    昨日、白い布巾を敷いた場所。器を置くためにできた、低い台の横だった。その横で、古い花柄の布の屋根が一枚、しぼむように沈んでいる。

    子どもたちが、器を持って立ち止まっていた。

    リオが湊を見上げた。声は聞こえない。けれど口の動きで分かった。

    もどして。

    湊はごみ袋から布巾を引き抜いた。

    乾いたはずの布巾は、重かった。水を含んでいる。しかも台所の水ではない。冷たい。井戸の底に沈めていたような冷たさだった。

    流しの横に戻すと、灰灯の国の布の屋根が、ゆっくり持ち上がった。

    その下に置かれていた器が、一つだけ倒れた。

    割れた音はしなかった。

    ただ、リオの横にいた小さな子が、器の欠けた縁を両手で押さえた。泣きはしない。声も出さない。けれど、その子はしばらく、欠けたところから目を離さなかった。

    湊は床に座り込んだ。

    片づければ、向こうで何かが消える。

    そういうことなのだろう。

    田端が言っていた。名前を聞いてから捨てる。物に。湊はその意味を、分かったつもりでいた。けれど、分かっていなかった。名前を聞くというのは、捨てていいかを確認することではない。こちらの用途と、あちらの用途を、同じ手で持つことだった。

    湊は母の紙を広げた。

    やかん。熱。

    計量カップ。水位。

    保存容器。朝。

    布巾。屋根。

    茶筒。灯台。

    紙は短い。鍋はない。輪ゴムの瓶もない。割り箸も、箸袋も、冷蔵庫の上の郵便物もない。母は全部を書ききれなかった。もしくは、書く前に死んだ。

    湊は鉛筆を持った。

    焦げた鍋。

    そこで手が止まる。

    何になるのか、勝手に決めていいのか。母はどうしていたのか。湊は洗い桶を見た。星砂は暗い。リオの声はまだ届かない。

    やかんに水を入れ、火をつけた。

    手順を始めるしかなかった。

    計量カップで湯を量り、洗い桶の縁へ落とす。星砂が少しずつ光る。井戸の周りが見えてくる。子どもたちは布の屋根の下に集まっていた。さっき沈みかけた屋根だ。

    リオが器を持って近づいた。

    「すてる?」

    声は水の奥から届いた。

    「分からない」

    湊は答えた。

    「これは、何になる」

    焦げた鍋を持ち上げ、洗い桶のそばへ置く。鍋底の焦げが、青白い光を受けて鈍く見えた。

    リオはしばらく黙っていた。器の縁を四つの指で支え、布を巻いた手を膝に置いている。隣の子が、リオの器の反対側を支えた。

    「ひを、うけるところ」

    「火を受ける?」

    「あさのひを、いちどおく」

    湊は鍋の内側を見た。焦げた丸い跡。母が何度洗っても落ちなかった火の跡。こちらでは失敗の跡だった。向こうでは、火を一度置く場所になる。

    湊は家計簿に書いた。

    焦げた鍋。火受け。

    字は少し震えた。

    その瞬間、灰灯の国の井戸の横に、黒い丸い皿のようなものが現れた。子どもたちが少し下がる。リオが器をそのそばへ置く。茶筒の灯台の光が、黒い皿の縁に引っかかった。

    鍋は、捨てるものではなかった。

    少なくとも、今は。

    湊はごみ袋を見た。

    中には、すでに捨てたものがある。乾燥わかめの袋、期限切れの割引券、黄ばんだ輪ゴム、欠けたプラスチックのスプーン。これらは向こうで何かを消したのだろうか。もう遅いものもあるのだろうか。

    湊は袋の中をあさった。

    乾燥わかめの袋は軽い。割引券は端が折れている。輪ゴムは引っぱると切れた。スプーンは先が欠けている。

    全部は戻せない。

    戻したところで、全部が戻るわけでもない。

    湊はそれらをテーブルに並べた。母の台所はまた散らかった。片づける前より、少しひどい。けれど、ただ捨てるよりはましだった。

    田端が午後に来た。

    チャイムを鳴らし、返事を待ってから入ってきた。手には、古い紙袋を持っている。中には、母から預かったという小さなメモがいくつも入っていた。どれも短い。

    輪ゴム。束ねる。

    割り箸。柱。

    紙袋。舟。

    古いタオル。道。

    「どうして昨日まで出さなかったんですか」

    湊の声は責める形になった。

    田端は紙袋をテーブルに置いた。

    「あなたが、捨て始めるまで渡すなって言われてた」

    「母が」

    田端は頷いた。

    「どうして」

    田端は台所を見回した。広がったごみ袋、戻された布巾、焦げた鍋、家計簿、検針票。湊が片づけようとして、片づけられなくなった台所。

    「最初から全部知ると、何も触れなくなるから」

    湊は返事ができなかった。

    その通りだった。

    やかんも、布巾も、茶筒も、鍋も、輪ゴムも、紙袋も、全部が向こうに何かを持っていると知っていたら、湊は最初のごみ袋すら広げられなかっただろう。

    知らずに捨てたものがある。

    知っても捨てなければならないものもある。

    田端は紙袋から一枚のメモを出した。

    弁当容器。まだ決めない。

    湊はそれを見て、息を止めた。

    母は、湊の弁当容器の置き癖を知っていた。右端に置いて、洗わず、あとでやると言って忘れることも。

    「これ、母がいつ書いたんですか」

    「たぶん、最後の年」

    弁当容器は、今も流しの右端にある。洗ったあと、乾かすつもりで置いたままにしていた。透明な蓋に、うっすら油の跡が残っている。

    まだ決めない。

    それは、母が湊を責めなかった言葉にも見えた。役目にしなかった言葉にも見えた。

    湊は弁当容器を手に取った。

    軽い。

    何にもならないかもしれない。何かになるかもしれない。決めないまま置くことも、手続きの一部なのかもしれない。

    湊は弁当容器を持ったまま、ごみ袋と流しの右端を見比べた。

    田端は答えを急がせなかった。

    「今日は、袋を一つにしておけばいいんじゃない」

    そう言って、開きっぱなしのごみ袋の口を軽く結んだ。固くは結ばない。あとで開けられるくらいに。

    湊はその結び目を見た。

    きつくない。

    でも、開いたままでもない。

    灰灯の国の井戸のそばでは、焦げた鍋の火受けに、小さな光が置かれていた。子どもたちはそれを囲んでいる。明るいとは言えない。けれど、器を持つ手が少しだけ楽そうだった。

    リオが湊を見上げた。

    「すてない?」

    「まだ」

    「まだ、は、どこにおく?」

    湊は答えに詰まった。

    田端が、流しの右端を指さした。

    「そこじゃない」

    湊は弁当容器を流しの右端に置いた。

    母に叱られていた場所。

    湊があとでやると言って、いつもあとでやらなかった場所。

    そこに置くと、灰灯の国の井戸のそばに、小さな棚ができた。何も乗っていない棚だった。けれどリオは、その棚を見て少しだけ頷いた。

    まだ決めないものを、置く場所。

    湊は家計簿に書いた。

    弁当容器。保留棚。

    丸は書かなかった。

    線も書かなかった。

    かわりに、日付だけを書いた。

    やかんは鳴っている。

    湯気はまだ出ない。

    台所は片づいていない。

    けれど、ごみ袋の口は、ほどけるくらいに結ばれていた。


    星を洗う

    湊は朝の前に起きた。

    目覚ましは鳴っていない。台所の方で、やかんが小さく鳴っただけだった。金属が冷えたまま身じろぎするような音。母の家で寝るのにも、もう三日目になっていた。畳の部屋に敷いた布団は背中に固く、枕元には未開封の郵便物を入れた箱がある。

    起き上がると、部屋の暗さが少しだけ薄かった。

    まだ朝ではない。

    けれど、朝に使うものが待っている暗さだった。

    台所へ行く前に、湊は洗面所で手を洗った。石けんは母のものだった。小さくなって、石けん受けの端に貼りついている。新しいものに替えるべきだと思いながら、湊はそれを最後まで使った。泡は少ない。水で流すと、指の間に古い花の匂いが少し残った。

    台所では、すべてが昨日のまま置かれていた。

    流しの右端に、弁当容器。

    テーブルの上に、家計簿と短い鉛筆。

    流しの奥に、保存容器。

    横に、焦げた鍋。

    茶筒は割り箸を立てたまま、少しだけ斜めを向いている。田端が直した向きから、昨夜湊が触ってずれたのだろう。湊は茶筒を両手で持ち、底のフェルトをテーブルにそっと合わせた。

    音がしないように置く。

    それだけで、洗い桶の底の星砂が一粒光った。

    湊は家計簿を開いた。昨日の日付の下に、丸三つと短い線が一本。母の字とは似ていない。リオにも言われた。似ていない。でも、読める。

    新しいページに今日の日付を書く。

    まだ何も買っていない。金額欄は空欄。けれど、空欄を怖がらなくなっていた。空けておく場所があることと、放っておくことは違う。湊は鉛筆を置き、やかんに水を入れた。

    火をつける。

    青い火が丸く並ぶ。やかんの底で水が動き始める。湯気は出ない。蓋の縁についた水滴は、内側へ戻る。湊はそれを見届け、計量カップを手に取った。

    魚の骨の目盛り。

    その上に増えた、ざらつく細い線。

    昨日より少しだけ見やすい。線が濃くなったのではない。湊の目が、どこを見るのか覚えたのだと思った。

    流しの水が細く出る。

    湊は洗い桶に白い布巾を敷き直した。端がよれていたので、指で伸ばす。保存容器の蓋は開けない。焦げた鍋は流しの右奥へ寄せる。弁当容器は、保留棚の場所として右端に置く。

    順番を間違えないように、声には出さなかった。

    声に出すと、母の手順を真似しているようになる。

    湊は自分の手の動きを見た。母より遅い。布巾の端はそろわない。計量カップの持ち方もぎこちない。けれど、母の代わりではないなら、それでいいのかもしれない。

    やかんの蓋を取る。

    湯は沸いている。

    湯気はない。

    湊は湯をすくった。新しい細い線まで。少し多いかもしれない。少し少ないかもしれない。リオに聞こうとして、やめた。今日は、まず自分で量る。

    湯を洗い桶の縁へ落とす。

    星砂が光った。

    白い布巾の上で、青白い粒がゆっくりほどける。湊は指先で砂を混ぜた。力を入れすぎると、底の傷に引っかかる。弱すぎると、光が広がらない。ちょうどいい力は、まだ分からない。

    排水口の奥から、器を叩く音がした。

    ちん。

    ちん。

    昨日より少ない。

    湊は洗い桶を覗いた。灰灯の国の井戸が見える。茶筒の灯台は立っている。焦げた鍋の火受けには、小さな光が置かれている。白い布巾の台には、器が並んでいる。弁当容器の保留棚は、何も乗せないまま井戸のそばにあった。

    リオは棚の横に座っていた。

    布を巻いた手は、昨日より少し小さく見えた。腫れが引いたのかもしれない。もう片方の手で器を持ち、膝で底を支えている。隣の子が手を出そうとすると、リオは首を振った。それから少し傾き、やっぱり隣の子の指を借りた。

    湊は笑わなかった。

    笑うところではない。ただ、少しだけ息が楽になった。

    「みなと」

    リオが言った。

    「うん」

    「きょうは、すみこのにおいがすくない」

    湊は計量カップを見た。母の手の跡が薄くなったのではない。湊の手の跡が少しついたのだ。取っ手の曇りが、母の持っていた場所より少し下に増えている。

    「嫌?」

    リオは首を横に振った。

    「ちがうだけ」

    違うだけ。

    湊はその言葉を、台所のどこに置けばいいのか分からなかった。家計簿か、保留棚か、茶筒の横か。置き場所が分からない言葉は、とりあえず胸に置くしかない。

    やかんがまた鳴った。

    湊は二度目の湯を量った。今度は少し少なめにする。星砂へ落とす。光は弱い。灰灯の国の火受けが、少し暗くなる。

    間違えた。

    湊はそう思ったが、家計簿にはまだ書かなかった。

    リオが器を置いた。

    「もういっかい」

    母の言葉を真似しているのだろう。けれど、今はリオの声だった。

    湊は三度目を量った。新しい線より、ほんの少し上。カップの内側で湯が揺れる。手が震えた。震えたまま、桶の縁へ落とす。

    星砂が広がった。

    井戸の縁に、薄い明かりがまわる。子どもたちが器を近づける。大人たちはまだ少ない。家の屋根も低い。火は小さい。全部が救われたわけではない。

    けれど、灰灯の国の朝前は、少しだけ朝に近づいていた。

    湊は家計簿に丸を二つ書いた。

    その横に、短い線を二本。

    一本目は失敗。二本目は、まだ分からない。そう書きたくなったが、書かなかった。線が二本ある。それで足りる。

    リオが保留棚を見た。

    「それ、なにをおく」

    「まだ決めてないもの」

    「まだ、は、ながい?」

    湊は弁当容器を見た。

    母は、弁当容器を「まだ決めない」と書いていた。湊が洗わずに置く癖を、責めずにそのまま残していた。右端に置かれた透明な容器は、朝の光を受けてもきれいには見えない。油の跡が薄く残っている。

    「長くしすぎると、腐る」

    湊は言った。

    「でも、すぐ捨てると、何だったか分からない」

    リオは少し考えた。

    「じゃあ、あさまで」

    「朝まで?」

    「あさがきたら、きめる」

    それは、子どもの答えだった。けれど、台所には合っていた。夜のうちに決められないものを、朝まで置く。朝が来たら、洗うのか、捨てるのか、名前をつけるのかを決める。

    湊は家計簿に書いた。

    保留棚。朝まで。

    その下に、小さく書く。

    長くしない。

    台所の窓の外が明るくなってきた。

    隣の家のベランダに、白いタオルが干されている。昨日と同じように二枚。風はない。タオルはだらりと下がっている。それでも、夜ではない。

    湊は母の湯飲みを持った。

    リオが言っていた。すみこは、朝が来たら湯飲みを伏せる。湊は湯飲みの内側を見た。茶渋の輪。底に残った水滴。縁の小さな欠け。湊はそれを拭かずに、流しの端へ伏せた。

    排水口の奥で、床を掃くような音がした。

    灰灯の国の子どもたちが、器を持って家の方へ戻っていく。茶筒の灯台はまだ弱い。焦げた鍋の火受けも小さい。保留棚には何もない。けれど、井戸のそばにできた白い台の上で、器がいくつか乾いていた。

    「みなと」

    リオがもう一度呼んだ。

    「なに」

    「あしたも、はかる?」

    湊はすぐには答えなかった。

    明日もここへ来る。明後日も。会社はどうするのか。母の家をどうするのか。灰灯の国の全てを引き受けられるのか。考えることはいくらでもあった。

    けれど、やかんは今ここにある。

    家計簿も、短い鉛筆も、布巾も、焦げた鍋も、茶筒も、弁当容器も、流しの右端も。

    全部を決める前に、今日の分を片づけることはできる。

    「明日の朝までは」

    湊は答えた。

    リオは頷いた。

    「あさまで」

    湊はやかんの火を止めた。

    そのとき、蓋の縁から白いものが上がった。

    湯気だった。

    細い。すぐ消える。湯気と呼ぶには頼りない。けれど、確かに白く、台所の薄い光の中へ上がった。

    湊は手を伸ばさなかった。消えないように、触らないでおいた。

    湯気は一筋だけ上がり、母の湯飲みのあたりで薄くなった。

    それだけだった。

    それでも、湊は家計簿に今日の最後の丸を書いた。

    丸は、母のものより尖っていた。書き終えたあと、鉛筆の先に小さな紙の粉がついた。

    排水口の奥で、器が一度だけ鳴った。

    湊は弁当容器を洗った。

    油の跡は少し残った。何度かこすり、湯を足し、角を指でなぞる。完全には落ちない。それでも水を切り、保留棚の場所ではなく、食器かごの端に立てた。

    流しの右端が、少し空いた。

    そこに何も置かないでいると、台所が落ち着かなかった。

    湊は空いた場所を見たまま、しばらく立っていた。

    母なら、そこに何かを置いただろうか。

    リオなら、そこに何を待つだろうか。

    湊は短い鉛筆を手に取った。母の補助軸は、湊の指には少し細すぎた。力を入れると、金属の端が中指に当たる。痛いほどではない。ただ、母の道具をそのまま使っていることが、指の形で分かった。

    湊は家計簿をもう一度開いた。

    弁当容器。保留棚。

    その下の余白に、鉛筆を置く。

    母の字ではない。

    リオの言葉でもない。

    湊はゆっくり書いた。

    流しの右端。返事を置く場所。

    書いたあと、鉛筆の先が少し折れた。

    折れた芯の粉が、家計簿の紙に黒く残った。湊はそれを払わなかった。払えば消えるものと、払っても残るものの違いが、まだ分からなかった。

    洗い桶の底で、星砂が一粒だけ光った。

    灰灯の国の井戸のそばで、空だった保留棚の形が少し変わった。棚というより、小さな台に近かった。そこにはまだ何も置かれていない。けれど、リオがそこを見て、器を少しだけ持ち直した。

    「へんじ?」

    リオが聞いた。

    「まだ分からない」

    湊は言った。

    「でも、置く場所は作った」

    リオは少し考えてから、頷いた。

    「あさまで?」

    「朝まで」

    湊は短い鉛筆を、流しの右端に置いた。

    明日の朝、すぐ家計簿に書けるように。

    やかんは静かになっている。

    洗い桶の底には、星砂が少し残っていた。

    湊はそれを流さなかった。

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    #ファンタジー小説部門
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    カミヤサラ(Kamiya Sara)|日常と物語のあいだを歩く人 日常の小さなひっかかりを言葉に変える人。カフェや散歩で得た景色を物語にし、誰かの生活に少し色を足す文章を書きます。

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