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ケアとはなにか(エッセイ、あるいは『海の底に雨は降らない』宣伝)

    母が他界する半年前、新聞のインタビューを受けた。
    小説についてだけでなく、幼少期や中高生時代の思い出についても話さなければならない取材だった。高校時代の話をしているとき、ふいに記者に言われた。

    「お母さんを介護していた期間は、そんなに長くないんですね」

    罪を知らない少年のような、やわらかな表情をする記者だった。
    他意がないことはその目を見ていればわかった。わたしは顔を伏せ、「そうですね」と返事をした。それはたしかに、事実だった。
    母の闘病期間は6年間だったが、難病の症状は薬が効くと一時的に落ち着いた。長時間の歩行が難しくなっても、家の中は杖なしで歩けたし、文字が書けなくなっても、歯が磨けなくなっても、デジタルデバイスや電動歯ブラシでその都度補えた。だから、一般的な意味で「介護をしていた期間」は、長くない。

    わたしはそのことを、ずっと後ろめたく思っていた。

    その取材の時期、母は入院していた。何度目かの脳梗塞で倒れ、もう言葉を話すことはできなかった。回復の見込みはないように思われた。母の容体が急変するたび、わたしは暮らしている京都と九州の実家を新幹線で往復した。母が死んだ月の交通費は15万円を超えていた(!)。

    取材のあと、幼少期の写真や卒業アルバムを送ってほしいと連絡が来た。アルバムの在処を知っているのは母だけだった。母に尋ねることはできなかった。脳の損傷が激しく、言語を話すこと、左半身を動かすことは難しかった。

    ある日、一度だけ、母が病室で激しく腕を動かしてなにかを伝えようとしたことがある。棚の上の鞄を指しているようだった。

    「なにか欲しいの?」

    尋ねるわたしに、母はかすかに頷いた。その頃の母は、まだ頷いたり首を横に振ったりするくらいの動作はできた。わたしは鞄を取って、母に見せた。
    母は言葉にならない「あーあー」という声を必死に出しながら、口の形だけで、違うのだと訴えた。ベッドサイドテーブルの私物を鞄に入れようとする動作をした。そして、震える唇で確かにこう言った。

    「か、え、る」

    それが、わたしの記憶している母の最期の言葉だ。

    母は家には帰れなかった。
    病院で死んだ。
    わたしがその知らせを受けたのは、東京へ引っ越してきた翌日だった。

    わたしは小説を書いていた。

    小説を書くことが、わたしの仕事だった。小説の宣伝になるような取材に応じることも仕事だった。心臓の底がしんと冷えるようなことを言われても、笑みを浮かべながら「そうですね」と答えることも仕事だった。
    あの瞬間、わたしは「危篤ってそんなに何回も使っていい言葉なの?」と疑問に思うくらい実家に何度も何度も呼び戻され、心身ともに疲弊していく自分のことをゼロにした。介護の期間に含めないことにした。実際、面会に行ったところで、わたしが半身不随で胃管のチューブを鼻から挿された状態の母にできることなんて、なにひとつなかった。

    これは恨み言ではないし、傷つきの記録でもない。
    わたしはずっと後ろめたかった。
    デビュー作『救われてんじゃねえよ』がヤングケアラー当事者の書くリアルな小説として受け止められ、話題にもしていただいたからこそ、ずっと、後ろめたかった。5回も重版して30媒体くらい取材をしていただいて、本当に新人としては万々歳。ありがたかった。
    でも、わたしは(少なくとも自認として)だれもに認められる「ヤングケアラーの当事者」では、ないのだった。


    新刊『海の底に雨は降らない』は、そんな思いからはじまった。

    『救われてんじゃねえよ』についての取材はいつも「実体験ですか」と尋ねられるところからはじまった。「当事者小説の作家」として紹介されることも少なくなかった。
    当然、その見方は間違いではない。
    一度、「ヤングケアラーとしてデビューした新人作家の上村さん」と書かれてビックリしたことはあったけれど(ヤングケアラーとしてデビューしたわけではなく、新潮社の新人賞を獲ってデビューしてるので)。


    取材を受けながら、ずっと不思議だった。
    「当事者として書く」とは、本質的にはどういうことなのだろう。
    わたしが当事者でなければ『救われてんじゃねえよ』には価値がないのか?ケアの経験を言葉にすることには、どんな意味があるのだろう。
    わたしは実体験をもとにして『救われてんじゃねえよ』を書いて、それでなにを得た?

    大学院の2年間、そのことばかり考えていた。修士論文のテーマは直球で「日本近現代文学における家庭内のケア —ヤングケアラー小説の物語構造とケアを語ることの可能性—」だった。

    精神医学に、ナラティブ・アプローチという考え方がある。客観的事実や症状によって人間を捉えるのではなく、その体験の当事者がどのような物語を生き、どのように自己を語るかに注目する精神分析のあり方。

    ナラティブ、という言葉が、光って見えた。

    自分の経験を、自分自身の言葉で語り直すこと。
    それによって、人は他人から与えられた物語ではなく、自分自身の物語を生き直していくことができるのではないか。

    ケアを担う主体が「ケアについて語る言葉を持たない」「ケアラーとしてのスティグマを周囲の人々から背負わされる」などの困難を抱えている状況であっても、「書く/語る」ことで、オルタナティヴ・ストーリーとなり得る、現実と別個のナラティブを獲得できるのではないか。それは、現実に対抗する手段になり得るのではないか。
    それが、わたしの立てた仮説だった。

    その仮説を、小説という形で確かめたいと思った。
    そうして生まれたのが、『海の底に雨は降らない』に登場する2人の人物だった。
    最初に立ち上がってきたのは、日比谷ヒビという人物。
    関西弁の若い女性で、ヤングケアラーを題材にした小説が二十万部を超えるベストセラーになった人気作家だ。「当事者もの小説」でデビューした作家としてイベントに登壇したりしている。

    もうひとりは、光莉という人物。主人公だ。幼少期から十年間、学校にもほとんど通わず、北九州市の自宅で難病の母親をほぼ一人で介護してきた。光莉はある日、母の自殺を幇助した疑いで逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けてしまう。拘置所を出たあとは、叔母に引き取られて上京。二十歳の光莉は介護施設で働きながら中学の勉強をやり直すなど、青春を取り戻そうともがきながら生き別れた父を探し、母の最期の言葉を思い出そうとする。そして、作家の日比谷と出会い、自身の体験を小説にするよう勧められる。

    あらすじだけを書けば、いろいろな要素を詰め込みすぎた人物に見えるかもしれない。
    でも、わたしの中で光莉は、とてもシンプルな人だった。
    失ってしまったものを、自らの言葉によって、取り戻さなければならない人。
    失ってしまった人生を、自分だけのナラティブを手に入れることによって、生き直そうとする人。
    それだけだった。

    日比谷についてもそうだ。この小説は、どちらかというと日比谷からはじまった。日比谷が光莉に対して後ろめたさを吐露するシーンがある。
    日比谷の父親は施設に入っていて、急変して呼び出されて参ることもあるけれど、日比谷自身が介護をしているわけではない。元ヤングケアラーとして眼差されるけれど、自分は光莉のように長期間介護をしてきたわけではなく、親にしてあげられたことなんて印税で施設に入れたことくらいだ。それでも「当事者」としてその場にいなければいけないことへの苦しさ。それが日比谷の本質で、彼女を鏡にして光莉は生まれた。
    光莉は尋ねる。

    「全員に、ちゃんと、かわいそうって思われないと、本物じゃないの?」
    「日比谷のそれは、ケアじゃないの?」

    それは、わたしが言ってほしかったことだ。身体的な介護だけがケアじゃない、死に向かう人の傍にいることもまたケアなのだと、だれかに、言ってほしかった。
    だれも言ってくれないなら、自分で言うしかない。
    だから、この小説を書いた。

    そして、わたしと同じような思いを抱えている人、家族のケアを担っていても「ケアラー」という言葉を自分に当てはめることには違和感を抱えている人、生きることに困難を抱えていても「でももっと大変な人はいる」と我慢している人に、わたしが言うのだ。
    その苦しさはだれかにジャッジされるものではない、あなただけのものなのだ、と。

    (『海の底に雨は降らない』7月8日発売です。予約受付中です。おねがいします!)


     
     
     
    かみむら・ゆたか / 作家 / 『救われてんじゃねえよ』(新潮社)、『ほくほくおいも党』(小学館)、『ぼくには笑いがわからない』(KADOKAWA) / 新刊『海の底に雨は降らない』(幻冬舎)7/8発売

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