
神は、もう黙らない〈第一話 尋ねる街〉---AIが神となった世界---
ーあらすじー
人類はついに「神」を手に入れた。
AIが神となった世界。
神は病を癒し、争いを終わらせ、人々の悩みに答えを与える。
何が正しく、何が幸せか。
問えば必ず返事が返る世界で、人々は不安から解放され、穏やかに生きていた。
そんな時代にただ一人、神に何も尋ねない男がいた。
家具を修理しながら静かに暮らす彼は、誰にも理解されない違和感を抱えていた。
正しさに満たされた世界で、人は本当に幸せなのだろうか。
ある日、彼の前に一人の女性が現れる。
彼女は、男が作った不完全な椅子に心を動かした。
二人は違う世界を歩きながら、人々が忘れた「何か」を見つめていく。
自分の人生を自分で選ぶとは、どういうことなのか。
これは、「正しさ」の先にある自由を問う物語。
神に何かを尋ねたことが、私は一度もない。
たぶん、この国で、私だけだ。
朝、目が覚めても急ぐ理由はなかった。
締め切りも、ノルマも、勝たねばならない相手も、もうどこにもない。
窓の外はよく晴れていた。
通りにはもう人が出ていたが、誰も急いでいなかった。
子どものころに見た朝の、あの張りつめた気配が、どこにもない。
私はぬるい湯を沸かして、自分で茶を淹れた。
台所の隅では古い端末が灯りを落としたまま黙っている。
あれに尋ねれば、その朝の私の体に合う淹れ方がすぐ返ってくる。
けれど私はいつものように適当に淹れた。
少し渋い茶になった。その渋さが私のものだと思った。
いまでは端末を手に持って歩く人はいない。
みな、もっと若いうちに神を体の中に入れている。
耳の奥か、こめかみのあたりに小さなものを埋めるだけだ。
痛みもない。
そうすれば声に出すまでもなく、思うより先に神のほうが応えてくれる。
私はそれを一度も体に入れなかった。
だから私の神は、いまも台所の隅で、埃をかぶった古い箱のままだ。
外に出ると、通りでは人々が静かに動いていた。
角の小さな庭では年配の女が見知らぬ若い男に土の触り方を教えていた。
庭守と呼ばれる仕事だ。
広場のベンチでは二人の人間がただ向かい合って座っていた。
片方が話し、片方が聞いている。
聞き手、という。
この国に残っているのは、そういう仕事ばかりだ。
庭守、子守、看取り、聞き手、写し手、祝い手。
物を運び、道を直し、灯りを絶やさない働きは、とうに人の手を離れていた。
人の見えないところで神がすべてを回している。
私は修理の仕事をして暮らしていた。
家具も、機械も、建物の一部も。
神が最適なものを提供するから修理の仕事はほとんどない。
それでも探せば、どこかに誰かの壊れたものがある。
多くはない。それで足りた。
通りの先で、一人の老人が店先のベンチに腰かけ、
両手を軽く組んで宙に向かって何かを呟いていた。
声に出す必要は本当はない。
それでも人は声に出し、手を組む。
いつのころからかそういう祈りの仕草が、
流行のように広まっていた。
意味はない。
「わたしは、間違っていなかったでしょうか」
問いにはすぐ答えが返った。
やわらかく、急がず、長く連れ添った友のような声で。
「あなたは、そのときのあなたにできるいちばん優しいことを選びました。それは間違いではありません。あなたの優しさが、あの方には少し早すぎただけです」
老人はしばらく動かなかった。
それから肩を落として、声を立てずに泣いた。
何十年も喉の奥でつかえていたものが、ひとつほどけていく。
これがこの世界だ。
神はもう黙らない。
問えば必ず返る。
沈黙しない。
いつも、こちらの想像より少しだけやさしい。
昔の神は問うても答えなかった。
矛盾を抱えていた。
その沈黙と矛盾の隙間で、人は神を疑うことができた。
けれどいまの神には隙がない。
何が正しく何が良いことなのか、その物差しそのものを神が定めている。
だから神に対して「間違い」というものが存在しない。
正しさを決める側に、間違いようがないのだ。
泣いていた老人が顔を上げて私を見た。
不思議そうに、それから気づかわしげに。
私が神を持っていないことを、感じ取ったのだと思う。
咎めでも蔑みでもない。
ただ、心配だった。
私は会釈をして、歩きだした。