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『火曜だけ、スープあります』

    あらすじ

    住宅街の片隅に、
    火曜日だけ開く小さなスープ屋があります。

    メニューは、ありません。
    あるのは、その日、その人のためだけの一杯。

    店主自身も、かつて一杯のスープに救われた人間でした。
    だから今度は、その人の話を聞き、
    その人のための一杯を作っています。

    定年を前に立ち止まった女性。
    休めなくなった町工場の職人。
    愛猫を亡くした女性。
    自分を後回しにしていることにも、
    気づかなかった母親。

    一杯のスープで人生は変わりません。
    悩みが、なくなるわけでもありません。

    それでも、帰る頃には少しだけ景色の見え方が
    変わっていることがあります。

    これは、四季を巡る四人と、一人の店主の物語です。



    下ごしらえ

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    「火曜だけ、スープあります」

    住宅街の片隅にある、小さな店です。
    気をつけていないと、通り過ぎてしまいます。
    けれど、不思議と必要な人はたどり着きます。

    私も遠回りをして、ここへたどり着きました。

    どうぞ、お好きな席へ。
    今日は、どんな一日でしたか。

    温かいうちに、どうぞ。


    一杯目:【春】余白を残す

    足りないことが、許せなかった。
    料理も、自分も。
    だから、壊れた。
    今は、一杯のスープにも余白を残す。


    定年まで、あと二年。
    最近になって、その言葉を意識するようになった。

    堀川かなえ、58歳。

    広告代理店に勤めて35年。
    社内で、女性初の管理職にもなった。

    仕事に夢中だった。
    夫も応援してくれていると思っていた。
    その頃から、家で交わす言葉は少なくなっていた。

    離婚したのは十年前。子どもはいない。

    仕事は順調だ。
    少なくとも、周りからはそう見えている。

    最近、新しい町の賃貸マンションに引っ越した。
    一人暮らしにも、もう慣れている。

    朝はゆっくりコーヒーを飲み、身支度をして会社へ向かう。
    そんな毎日だった。

    それなのに、ときどき思う。
    会社がなくなったら、私は何をしているんだろう。

    「お疲れさまです」の声が聞こえた。
    社内が、ざわつき始めた。
    私も慌ててパソコンを閉じる。

    デスクの上を軽く整え、時計を見る。
    18時15分。
    昔なら、まだ帰らなかった時間だ。

    終電近くまで、会社にいることも珍しくなかったし、
    夜中に企画書を書き直すこともあった。

    でも最近は、早く帰れと言われる。
    残業には、うるさい時代になった。

    ジャケットを羽織って、エレベーターの鏡に映る自分を見る。
    疲れていないわけじゃない。
    でも、昔みたいに気を張ることは少なくなった。

    改札を抜け、電車に乗る。
    ドア横の席がひとつ空いて、そこに座った。

    スマホのスケジュール画面を開く。
    会議。定例。商談。

    予定はちゃんと埋まっている。
    なのに、その先がない。

    少し前、同期の一人が早期退職した。
    地方へ移住すると言っていた。

    送別会で、
    「自由になりたくてさ」と笑っていた顔を思い出す。

    自由。
    窓に映った自分の顔をぼんやり見る。

    私には、辞めたあとの自分が思い浮かばなかった。

    自由になったあと、
    自分が何をしているのか、うまく想像できなかった。

    旅行だろうか。習い事だろうか。
    昔は映画も好きだったし、本もたくさん読んだ。

    でも今は、何をしたいのかさえ、よくわからない。
    考えかけて、やめた。

    駅に着いて改札を出ると、空はまだ少し青かった。
    家までは、歩いて15分ほど。
    この町に引っ越してきて、まだ3ヶ月しか経っていない。

    駅前のスーパーとドラッグストアの場所は覚えた。
    でも、それ以外はまだ他人の町みたいだった。

    住宅街に入ると、急に静かになる。
    どこかの家から、夕飯の匂いがした。

    冷蔵庫には、水しかなかった。
    別に困っているわけじゃない。

    総菜を買うか、外で食べて帰ればいい。
    一人なら、それで済んでしまう。
    でも最近、食べること自体が面倒だった。

    交差点を曲がって、細い路地に入る。
    路地の角にある古い桜は、まだ花を残していた。
    いつもは、通らない道だった。

    小さな灯りが見えた。
    その下に、看板が立っていた。

    『火曜だけ、スープあります』

    気づけば、店の前に立っていた。
    店というより、誰かの家みたいだ。

    最近は、こういった店が流行っているのだろうか。
    気になって、ドアを少し開ける。

    「こんばんは、いらっしゃいませ」
    中から、やわらかい声が返ってきた。

    店の中を見渡した。
    カウンターが三席だけ。テーブルも一席ある。

    奥には、小さなキッチンがあった。
    白い壁と、木のカウンター。
    飾りらしい飾りは、ほとんどない。

    「ひとりなんですけど、入れますか?」

    「はい。お好きな席へどうぞ」
    グレーのエプロンの女性が、にっこり笑った。

    入口に近い席に腰を下ろす。
    少しして、レモンの入った水と温かいおしぼりが置かれた。

    「ありがとうございます。小さな店なんですね」
    私は、おしぼりで手をふく。

    「はい。四席だけなんです」
    カウンターを軽く拭きながら、女性が言った。

    「メニューは、ありますか」
    水を一口飲むと、レモンの香りが広がった。

    そう聞くと、女性は首を振った。
    「うちの店、メニューはないんです」

    「え?ないんですか?」
    私は、びっくりして声が大きくなった。

    「はい。お話を聞いて、その方に必要だと思うスープを一杯だけお出ししています」
    女性はこちらを見て、さらに続けた。
    「なので、少しだけお時間をいただきます。よろしいですか?」

    不思議な店だと思った。
    でも、不安ではなかった。
    むしろ、その説明がこの小さな店に合っている気がした。

    「あ、はい。大丈夫です」
    私は、急ぐ理由はなかった。
    家に帰っても、誰も待っていないし。

    女性はコンロの前に立ち、準備を始めた。
    棚から鍋を下ろそうとした拍子に、指先が滑った。

    ガシャン。
    大きな音が、店に響く。
    女性の身体が、一瞬だけ固まったように見えた。

    「失礼しました」

    「……大丈夫」
    女性は、そう小さくつぶやくと別の鍋を下ろした。

    「お仕事帰りですか?」
    そう言いながら、女性はエプロンの紐を結び直した。
    私はうなずいた。

    「すみません。白ワイン、ありますか?」
    いつものクセで、口から出ていた。

    「料理で使っている、安いものしかないのですが…」
    女性は、困っていた。

    「あ、それでいいです。一杯ください」
    グラスに少しだけ注がれたワインを、一口飲む。
    少しだけ、息がほどけた。

    静かな時間が流れていた。
    間が空くと、何か言わなければと思う。

    「広告代理店に勤めています。管理職もしていました。でも今は普通の社員です。定年も近いので」
    私は言ってから、少し笑った。

    「別に不満があるわけじゃないんです。仕事もありますし、生活にも困っていません」
    そこまでで、やめるつもりだった。
    でも、言葉が続いてしまった。

    「早期退職もできるんです。でも、辞めたところで何をしたいのか、自分でもよくわからなくて」
    カウンターの木目を見て、少し言うのをためらった。

    「一人暮らしも平気なんです。離婚して何年も経ちますし、子どももいないので、誰かに気をつかうこともないし」
    ワイングラスに視線を落とす。

    「ちゃんと、一人で生きていけるんです」
    白ワインを一口飲む。

    「でも最近、それが怖いなって思うことがあって」
    言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。

    初めて入った店で、
    こんな話をするつもりじゃなかった。

    「あ、ごめんなさい。なんか、つい話してしまって」
    苦笑いしながら言った。

    「大丈夫ですよ」
    女性は言った。

    少し間を置いてから、私を見た。
    「さっき、『怖い』って話してましたね」

    私は黙ってうなずく。

    「何が一番、怖いんでしょう」

    すぐには答えられなかった。
    会社を辞めることなのか。
    一人でいることなのか。それとも……。

    「……わからないです」
    自分でも、何が怖いのかわからなかった。

    女性はうなずいた。

    「今日は、余白スープです」

    「余白スープ?」
    思わず、繰り返してしまった。

    「はい」
    女性は、微笑んだ。

    「少し、余白があってもいいのかなと思いました」

    女性は、鍋に酒を注ぎ、昆布と干ししいたけを浸した。

    「酒に浸すんですか?」

    「乾物の臭みがやわらいで、旨味がきれいに出るんです」

    「昆布も干ししいたけも、一緒に使うんですね」

    「はい。別々に使うより、一緒に使うほうが、旨味がぐっと広がるので」
    女性は、少し悪戯っぽく笑った。

    「足し算じゃなくて、掛け算になるんです。このあと、玉ねぎも入るので、三つ揃うと、もっと奥行きが出ます」

    「へえ……」
    理屈はよくわからなかったけれど、
    なんだか面白いと思った。

    女性は、冷蔵庫を開けた。
    並んだ野菜をひとつずつ見て、玉ねぎとセロリを選ぶ。
    トントントンと切り始めた。

    リズムが心地良く、私は女性の手元をじっと見ていた。

    ボウルに切った玉ねぎとセロリを入れ、
    塩をひとつまみ、ふっていた。

    「その塩は、味付けですか?」

    「塩をふると野菜自身の水分が出てくるので。それがそのまま、出汁になるんです」
    指で、やさしく揉んでいく。

    しばらくすると野菜の表面に、じんわりと水分が滲み出てきた。

    「塩だけで、旨味って出るんですね」

    「炒めても旨味は出るんですけど。冷たいまま、ゆっくり引き出すほうが、春らしい軽さが残るので」

    女性はそのまま、水分ごと鍋に入れた。
    水とじゃがいもを加えて、火をつける。
    フタは、していない。

    「フタをしないほうが、余分な青臭さが飛んでいくんです」

    余分なもの。私にも、あるだろうか。

    「余白って、難しいですよね。空いている時間があると、不安になる人も多いので」
    女性は、鍋を見つめていた。

    「そうですね」
    胸が引っかかった。

    「でも不思議と、空いたところにしか入ってこないものもあるかなと思います」

    女性は、キャベツを手でちぎり始めた。
    その手元を見ていると、女性が顔を上げた。

    「キャベツは手でちぎると、出汁が染み込みやすくなるので」
    微笑みながら、鍋の中へパラパラと落としていく。

    「このスープは、あまり完成しすぎないように作ります」
    丁寧にアクをすくいながら、女性が続けた。

    「完成しないとダメでは?」

    「味を決めすぎないほうが、最後まで飲みたくなるんです」

    「へぇ…」
    正直、よくわからなかった。

    「野菜は、その日によって違うので。余白を残しておくと、野菜が最後のひとさじを決めてくれます。春のスープって、ちょっと曖昧なくらいがいいんです」

    白い湯気が、立ちのぼり始める。
    水をもう一口飲んだ。

    余白。
    そんなもの、ずっと無駄なことだと思っていた。

    予定が埋まっているほうが安心した。
    空いた時間があると、どこか落ち着かなかった。

    ちゃんと埋まっていることが、
    ちゃんと生きていることのような気がしていた。
    そういう毎日が、自分を支えてきた。

    でも、この店に入ったのは予定していたことじゃない。
    ただ、疲れていただけだった。

    それなのに今、
    私は知らない人の作った温かいスープを静かに待っている。

    こんな時間の過ごし方も、あるんだと思った。

    しばらくすると、
    店の中にやわらかい香りが広がり始めた。
    どこか洋風のスープみたいな香りがした。

    深く、息を吸う。

    女性は鍋の火を止めると、
    スプーンでひと口味見をした。
    少しだけ考えてから、塩をひとつまみ足した。

    静かにスープをよそった。
    最後にオリーブオイルを数滴、表面にそっと落とす。

    「オリーブオイルを入れるんですね」

    「出汁が軽いので、最後に少しだけ香りを重ねると、ちょうどよくまとまるんです」

    表面が、きらりと光った。

    「お待たせしました、どうぞ」
    器が、カウンターに置かれた。

    「ありがとうございます」
    器に顔を近づける。
    オリーブオイルの香りが、ふわっと先に届いた。

    玉ねぎは形が残っているのに、口に入れるとすぐほどけた。
    キャベツもやわらかい。
    じゃがいもは、ほくりと崩れる。

    やさしい味だった。
    でも、どこか物足りないわけじゃない。
    もうひと口飲む。

    オリーブオイルの香りのあとから、
    野菜の甘みがゆっくり追いかけてきた。

    コンソメみたい……?
    そう思ったけれど、やっぱり少し違う。

    どこか、ポトフみたい。
    でも、ベーコンは入っていない。

    知っている味なのに、初めて飲む味だった。

    「……おいしいです」
    気づくと、声に出ていた。

    「よかったです」
    女性は、ほっとしたようにうなずいた。

    それ以上は何も言わない。
    私も、何も聞かなかった。

    静かな店だった。
    外を誰かが歩く音がして、また遠ざかっていく。

    スープを飲むたび、
    体の奥に少しずつ温かさが落ちていく。

    家に帰れば、また静かな部屋が待っている。
    明日になれば、同じように会社へ行く。

    たぶん、急に何かが変わるわけじゃない。
    電気をつけても、「おかえり」は聞こえない。

    空になったワイングラスを見つめた。
    ふと、夫のことを思い出した。

    料理が苦手な私の代わりに、
    夕飯はいつも夫が作っていた。

    私は、それを当たり前だと思っていた。
    そんなことを、今になって気づいた。

    喉を通る温かさが、どこか夫が作ったスープに似ていた。

    私は、器の底に残った最後のひとさじを
    ゆっくり飲み干した。

    女性が言っていた『最後まで飲みたくなる』という意味が、
    少しわかった気がした。

    「ごちそうさまでした」
    私は、器をカウンターへそっと戻す。

    「ありがとうございました」
    女性は、にっこり笑った。

    会計を済ませ、バッグを肩に掛ける。
    店を出る前に、もう一度だけ振り返った。

    白い壁。木のカウンター。グレーのエプロン。
    立ち昇る湯気。

    特別なものは何もない。
    でも、不思議と落ち着く場所だった。

    「ありがとうございました」
    今度は私が言い、ドアを開けた。

    住宅街は、静かだった。

    私はずっと、空いた場所を埋めることばかり
    考えていたのかもしれない。

    でも今日は、何もしない時間を心地よく感じていた。

    家までは、あと五分。
    この帰り道も、余白なのかもしれない。

    春の夜風の中を、少しだけ遠回りして帰った。

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    二杯目:【夏】頑張りを止める

    あの頃は、倒れるまで休まなかった。
    今は、ひと息することで、
    一番いい味が出ることを知っている。


    首のタオルで汗をぬぐう。
    昔は、このくらいの暑さなら平気だった。

    高田こういち、52歳。

    壁の時計を見る。
    19時半を過ぎていた。
    「今日は、このくらいにしよう」
    親父がよく言っていた言葉が、口から出た。

    昔なら、まだ仕事していた時間だ。
    手袋を外すと、指先が少ししびれていた。
    無意識に、右手を握ったり開いたりする。

    目の前の旋盤が、唸るような音を立てている。
    親父の頃から使っている機械だ。

    若い頃は、音を聞くだけで調子がわかった。
    最近は、機械より先に自分の体のほうが気になる。

    昔は、仕事が終わっても元気だった。
    仲間と、安い居酒屋で汗だくの作業着のまま乾杯する。

    次の日も、朝から仕事はあった。
    それでも、なんとかなった。

    こんなこと、昔は考えもしなかった。
    親父も、そんなこと思っていたのだろうか。

    幼い頃、母親は家を出ていった。
    それからは、親父と二人。

    三年前に親父が亡くなってから、工場は自分一人になった。
    親父がいなくなって、もう終わりだと思った。
    正直、何度もやめようと思った。

    機械は古いし、人を雇う余裕もない。
    この先、どこまで続けられるかもわからなかった。

    親父の頃から付き合いのある取引先は、誰も離れなかった。
    そのおかげで、ここまで続けてこられた。

    工場を続けているのか。
    工場に続けさせてもらっているのか。
    最近は、その違いもよくわからなくなっていた。

    電気をひとつずつ、消していく。
    機械の音が止まると、急に静かになる。

    熱だけが、まだ工場の中に残っていた。
    シャッターの鍵を閉める。

    首のタオルで、もう一度汗をぬぐう。
    切削油の匂いが、作業着に染みついている。

    喉が、渇いていた。
    風呂に入って、ビールを飲む。
    それで一日が終わる。
    今日も、そのつもりだった。

    いつものようにポケットに手を入れて、車の鍵を探した。
    「あ、くそっ」

    車がない。
    昼間、工場の前でエンジンがかからなくなった。
    バッテリーだろうと整備屋に言われて、そのまま置いてきた。

    タクシーを呼ぼうとアプリを開いたが
    作業着のままか、と思ってやめた。

    仕方なく、歩いて帰ることにした。

    夜なのに、空気はまだぬるかった。
    アスファルトが、昼の熱を残している。

    歩くだけで、じわっと汗がにじんだ。
    首のタオルで汗をぬぐう。

    遠くで、室外機の音が鳴っている。
    どこかの家の窓から、テレビの笑い声が漏れていた。

    首の後ろにまとわりつくような風が、不快だった。
    昔の夏は、もう少し涼しかった気がする。

    普段は車で通り過ぎるだけの道を、今日はゆっくり歩いている。

    この町に、こんな細い路地があったのかと思った。
    古いアパート。閉まったクリーニング屋。
    軒先にぶら下がった風鈴が、弱く鳴っている。

    どこからか、出汁みたいな匂いが流れてきた。
    小さな灯りが見えて、立ち止まる。

    「なんだ、ここ」
    ガラス戸の向こうを覗くと、やわらかい灯りが見えた。

    中にいた女性と、ふと目が合ってしまった。
    女性は、小さく会釈した。

    自分も小さく頭を下げる。
    そのまま帰るわけにもいかず、引き戸を開けた。

    「いらっしゃいませ」
    声がやわらかくて、不思議と耳に残った。

    テーブル席に、先客がいた。
    スーツ姿の女性が一人、静かにスープを飲んでいる。

    「こんな汚い格好でも、大丈夫ですか」
    ぼそっと言う。

    「もちろんです。お好きな席へどうぞ」
    グレーのエプロンの女性は、にっこり笑った。

    「あ、はい」
    カウンターの端に腰を下ろす。
    椅子を引く音が、小さく響いた。

    女性は、冷えた水とおしぼりを目の前に置く。
    「どうぞ」

    「すみません」
    おしぼりを広げると、手より先に顔を拭いた。

    自分でも、よっぽど暑かったんだなと思う。
    水を一気に飲む。
    冷えた水が、喉を通っていく。レモンの香りがした。

    女性は空いたグラスに、もう一度水を注いだ。
    「毎日暑いですよね。今日はお仕事帰りですか?」

    「ありがとうございます。ああ、まあ」
    水をもう一口飲む。
    「工場やってるんです。ネジ加工の」

    「そうなんですね」
    女性は、うなずいた。

    エアコンの風が、ゆっくり流れていた。

    「うちは変わった店でして、メニューがないんです」
    女性はそう言いながら、台ふきんをきれいにたたんだ。

    「ない?」
    思わず、聞き返す。

    「はい。お話を聞きながら、その方に合わせて、一杯だけスープを作ってます」

    自分で選べないのも、何を出されるかわからないのも、
    なんだか腹立たしかった。

    「……そんな適当な店、ありますか。すみません、出ます」
    引き戸を開けて、外へ出た。
    女性は、また小さく会釈をしていた。

    夜の空気は、変わらずぬるかった。
    コンビニの灯りが見えた。
    いつものビールを買って帰ろう。

    「……結局、またいつもの夜か」
    言いながらも、足が止まった。
    出汁の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。

    振り返ると、あの灯りが見えた。
    息を吐いて、早歩きで戻った。

    そっと引き戸を開ける。
    「……やっぱり、一杯だけいいですか」

    さっきまでいたスーツ姿の客は、もういなかった。

    女性は、特に驚いた様子もなく笑った。
    「たまにいるんです。戻ってくる方。少しお時間いただきますが、よろしいですか」
    女性がこちらを見る。

    「大丈夫です。なんか今日は、あったかいもん食いたかったんですよね」
    そう言いながら、また同じ席に座った。

    女性は、微笑んだ。
    「それなら、よかったです。毎日こんなに暑いと、工場も大変そうですね」

    「そうですね」
    首の後ろを軽くさする。

    「若い時は、夏でも平気だったんですけど」
    無意識に右手をさする。
    「最近は手もしびれるし。もう年なのかな、と」

    女性は、うなずいていた。
    「お仕事、休めてないんですか?」

    「まあ、自分一人なんで。休めないんですよね」
    水をもう一口飲む。冷えた水が、体に落ちていく。

    「そうなんですね」

    「まあ、慣れました」
    慣れたというより、そうするしかなかっただけかもしれない。

    女性は、しばらく何も言わなかった。
    冷蔵庫を開け、中をひと通り見渡す。

    「今日は、ひと息のスープです」

    そう言いながら、エプロンの紐を結び直した。
    女性は、鍋に酒とみりんを注ぎ、昆布を浸した。

    「昆布って、先に浸けるんですか?」

    「はい。少し休ませてから火にかけると、旨味がきれいに出るので」

    「そうなんですね」
    料理って、火にかければいいものだと思っていた。

    女性は冬瓜を切り、塩をパラパラと振り始めた。
    「まず塩を振って、瓜の臭みを出します」
    言いながら、そのまま置く。

    「料理って、そんなとこからやるんですか」

    「下準備が大事です。味の8割を決めるので」
    女性は、ペーパーで冬瓜の水分を丁寧に拭き取った。

    それから鍋に入れ、火をつけた。
    鍋の中には、ネギの頭と生姜と昆布が入っていた。

    「豚肉も先にさっと湯通しします。最初にアクを落としておくと、出汁が最後まできれいなんです」
    次に、ミニトマトを横半分に切る。

    「そんな風に切るんですね」

    「横に切ると、旨味が詰まった部分が全部出るんです。 このトマトも、出汁の一つなんですよ」

    女性は続けた。
    「昆布と豚肉だけでも、おいしいんですが、トマトが入ると、味に奥行きが出るんです」

    女性は、ミニトマトを鍋へ入れた。
    赤い色が、ゆっくり広がっていく。

    「どれか一つが主役じゃないんです。それぞれが、お互いを引き立ててくれるので」
    続けて、 醤油と塩を入れた。

    「夏は汗で塩分が出るので、体が自然と欲しくなる味にしておくんです」
    女性は味見をして、小さくうなずいた。

    しばらくして、大根をおろし始めた。
    「これは最後に入れて、少しだけ温めて、食感を残します」

    「夏は、気づかないうちに体に熱が残るんです。頑張りすぎる人ほど」
    女性は、静かにアクを取っていた。
    店の中に、出汁の匂いがゆっくり広がっていく。

    「そういうもんですかね」
    正直、そんなこと考えたこともなかった。

    でも最近は、仕事が終わっても、どこか体の力が抜けない。

    休んでしまうと、そのまま戻れなくなる気がしていた。
    若い頃から、ずっとそうだった。

    気づけば、止まらずここまで来た。
    でも最近は、このまま動き続けて、
    自分はどこへ行くんだろうと思う時がある。

    水を飲みながら、ぼんやり湯気を見ていた。

    女性は鍋の火を弱めると、大根おろしを加えた。
    「お待たせしました」

    大きめの器が、そっとカウンターに置かれた。
    湯気の向こうに、赤いミニトマトが見える。
    生姜の匂いが、ふわっと立った。

    「うまそう」
    声が漏れる。

    「熱いので、ゆっくりどうぞ」
    女性は笑った。

    スプーンで、そっとスープをすくう。
    熱い出汁が、喉を通っていく。

    豚肉の脂が、うまい。
    でも大根おろしのおかげか、まったく重くない。

    冬瓜は、口に入れると静かに崩れる。
    ミニトマトの酸味が、またいい。

    「……うまい」
    息が漏れた。

    店の中には、エアコンの低い音だけが流れていた。

    「なんか、久しぶりですね。ちゃんと飯食ったの」
    スプーンを持ったまま、小さくつぶやく。

    もう一口、飲む。
    さっきまで体の奥に残っていた熱が、
    少しずつ、ほどけていく気がした。

    女性は顔を上げる。
    「忙しかったんですね」

    「まあ、ずっとこんな感じなんですけどね」
    笑ってから、またスープを飲む。

    食事は、コンビニで済ませる日も多い。
    一人になってからは、余計そうなった。

    食うことより、先に仕事があった。
    仕事してるほうが楽だったのかもしれない。

    家に帰っても、誰もいない。
    昔は、親父がテレビを見ながら笑っている声が聞こえた。

    今は、鍵を開けても返事はない。
    それにも慣れたはずだった。

    「たぶん。止まり方、わかんなくなってたんでしょうね」
    言ってから笑った。

    女性は何も言わず、そのまま聞いていた。
    その静けさが、妙にありがたかった。
    店の外で、風鈴が小さく鳴った。

    もう一口、スープを飲む。
    気づけば、器は空になっていた。

    「ごちそうさまでした」

    女性は、空いた器を静かに下げる。
    「ありがとうございました」
    その声も、どこか急かさない。

    財布を取り出しながら、店の中をもう一度見渡した。
    小さな店は静かで、少し変わっていて。
    でも、不思議と居づらくなかった。
    会計を済ませる。

    「また、暑くなりそうですね」
    女性はそう言って、小さく笑った。

    「ですね」
    自分でも驚くくらい、素直に返事をしていた。

    家までの道を歩く。
    古いシャッターの前で、足が止まった。

    『今日は、このくらいにしよう』
    親父の声が、耳の奥で聞こえた気がした。

    そうか。親父も、ちゃんと止まってたのかもな。

    首のタオルで汗をぬぐう。
    さっきまで張っていた肩の力が、少し抜けていた。

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    三杯目:【秋】そのままでいい

    悲しみは、早く終わるほうがいいと思っていた。
    だから、大切な涙を止めてしまった。


    毎年、暑さが引くと思い出す。
    ライがうちに来たのは、こんな季節だった。

    川嶋ゆうこ、38歳。

    あの頃の私は、もう一人でいいと思っていた。
    結婚を前提に同棲していた彼と別れて、恋愛はもう十分。
    一人で生きていくほうが、楽だと思っていた。

    そんな時に、ライが来た。
    知り合いの知り合いが入院することになり、
    猫の引き取り手を探していた。

    猫なんて飼ったことがなかった。
    自分に世話ができるとも思えなかった。
    最初は、断るつもりだった。

    「写真だけでも見てくれない?」
    と友人に言われた。

    送られてきた写真を見てしまった。
    黒と白のハチワレ。

    その時すでに6歳。大人のオス猫だった。
    なのに、妙に目が離せなかった。

    一週間後には、うちにいた。
    名前はライ。
    前の飼い主さんがつけた名前だった。

    最初は、お互いぎこちなかった。
    名前を呼んでも、ベッドの下に隠れてばかりだった。

    でも気づけば、当たり前みたいに同じ部屋にいた。

    朝は、私が起きようとするタイミングで、いつも布団に入ってきた。
    あの温かさに負けて、遅刻しそうになったこともある。

    夜は、ソファの隣で丸くなる。
    テレビに夢中になると、いつも撫でてと甘えてきた。

    帰れば、ライがいた。
    それだけで、少し笑える日が増えた。

    毎日が、思ったより楽しかった。
    そんな日が、ずっと続くと思っていた。

    ライが10歳になった時だった。
    病気が見つかった。それからは、病院と薬の日々。

    少し良くなったり、また悪くなったりした。
    大丈夫だと思いたかった。

    でも、夏の終わりだった。
    ライは静かに逝った。

    あの日から、もう一年が過ぎていた。

    それでも、ライの食器はまだ片づけられない。
    お気に入りのおもちゃも。
    よく寝ていた毛布も。
    爪とぎも、まだいつもの場所にある。

    もう、帰ってこないことくらいわかっている。

    友人には、そろそろ片づけたらと言われる。
    そのたびに、「そうだよね」と言う。
    でも、休みの日になると結局そのままだった。

    気づけば、いつもの角を曲がり損ねていた。
    戻るのも面倒で、そのまま歩くことにした。

    少し先に、小さな看板が見えた。
    こんな店、あっただろうか。近づいてみる。

    『火曜だけ、スープあります』

    「火曜だけ?」

    週一でやっていけるんだろうか。
    店というより、誰かの趣味のようだ。
    それとも、副業だろうか。

    せっかくだし、入ってみるか。
    私は、引き戸に手をかけた。

    「いらっしゃいませ」
    グレーのエプロンの女性は、やさしい声をしていた。

    店は小さいが思ってたより、ちゃんとしていた。

    「お好きな席へどうぞ」
    女性が、にっこり笑った。

    軽く会釈して、テーブル席に腰を下ろした。
    カウンターは、なんとなく落ち着かなかった。

    「どうぞ」
    女性は、レモンの入った水と温かいおしぼりを運んできた。

    「ありがとうございます」
    水を一口飲む。レモンの香りが広がった。

    ふと、メニューを探す。
    テーブルの上にも、壁にも見当たらない。
    「あの、メニューいただけますか」

    「ないんです。…って言うと、みなさん必ず二度聞きするんですよ」
    と女性は笑う。

    「そうなんですね」

    「お話を聞いて、そのあと一杯のスープを作ります」
    女性は、当たり前のことのように言った。

    困った。そういう店だとは思っていなかった。
    別に相談したいことがあるわけでもない。
    知らない人に話したいことなんて、もっとない。

    女性はそんな様子に気づいたのか、微笑んだ。
    「もし今日は、そんな気分じゃなければ、また別の日でも大丈夫ですよ」

    その言い方が、不思議とやさしかった。
    追い返されているわけでもない。
    引き留められているわけでもない。

    少し考える。
    ここで帰るのも、なんだか変な気がした。
    せっかく入ったのに。
    「大丈夫です」

    女性は、うなずいた。
    「ありがとうございます」

    女性は、何も聞いてこなかった。
    冷蔵庫を開けたり、何かを確認したりしている。

    話を聞く店なのに、何も聞いてこない。
    その沈黙が、逃げ場のようにも感じた。

    口を開きかける。でも、言葉が見つからない。
    女性は気づいているのか、いないのか。
    ただ、静かにそこにいた。

    しばらくして、女性が言った。
    「急がなくて、いいですよ」

    話せとも、話すなとも言わない。
    ただ、それだけだった。
    なぜか、その一言で、口が動いた。

    「あの」

    「はい」
    女性が、振り向く。

    「道、間違えたんです」
    気づけば、口にしていた。

    「そうでしたか」
    女性は、それだけ言った。

    少し間が空く。

    「昔は、急いで帰ってたんです」
    そう答えてから、ふと腕時計を見る。
    17時を過ぎていた。

    帰れば、ライがいた。
    あの頃は、それが当たり前だった。

    女性は、何も言わなかった。
    静かにこちらを見ていた。

    「猫がいたんです。帰ると、いつも玄関まで来て」
    ひと息吸った。

    「もう、お空に行って一年なんですけど…」
    ライの顔が浮かんだ。

    「あの子のもの、まだ片づけられなくて。ひとつどころか、全部そのままなんです」
    小さく笑う。

    「もう帰ってこないって、わかってます。でも、片づけたら……本当にいなくなっちゃう気がして」

    女性は、うなずいていた。

    「このままじゃいけないとも、わかっているんです」
    そこで言葉が止まる。

    「新しい子を迎えたら、少しは変われるのかなとも思うんです。でも……あの子に悪い気がして」

    女性は、しばらく考えていた。
    「悪いことなんでしょうか。新しい子を迎えることは」

    私は答えられなかった。グラスの水を見る。

    「なんていうか……」
    言葉に詰まる。
    「あの子のことが、遠くなる気がして……」

    女性は、しばらく黙っていた。
    冷蔵庫から、きのことさつまいもを取り出した。
    エプロンの紐を結び直してから、こちらを見た。

    「今日は、そのままのスープです」

    思わず顔を上げる。

    「まだ、そのままでいいのかなと思いました」
    女性は、うなずいた。

    「秋は、ゆっくり味が出るものが多いんです」
    そう言いながら、さつまいもに包丁を入れる。

    トン、トン、トン。
    急がない音だった。

    どこの話で、スープが決まったんだろう。
    ライの話をしたから?それとも、その前から?
    正直、よくわからなかった。

    女性は鍋に水と酒を注ぎ、昆布と生姜とネギを入れた。
    「さつまいもは、最初から水と一緒に火にかけます」
    そう言いながら、鍋にさつまいもを入れた。

    「へぇ、そうなんですか」

    「弱火でゆっくり温度を上げると、 さつまいも自身の甘みが出てくるので。 急ぐと、この甘みは出ないんです」

    しめじと舞茸、エリンギを加えながら、女性は続けた。
    「じっくり弱火で、さつまいもの甘みときのこの旨味を限界まで引き出します」

    しばらくして、白味噌を溶き入れる。
    「味噌は普通、沸騰させないですよね」

    「今回は、一度だけ沸かします。そうすると、出汁としっかりなじんで、コクが深くなるんです」

    続けて、醤油を加えた。
    「醤油は、ほんの少しだけです。それだけで味に芯ができるので」

    次に、豆乳を注いだ。
    女性は、鍋から目を離さなかった。

    「豆乳は、沸騰させると分離してしまいます。 沸騰直前で止めないと、 あの白さが濁ってしまうので」

    鍋のふちが、わずかに揺れている。
    女性は、その揺れをじっと見ていた。
    店から、コトコトと小さな音が聞こえてくる。

    女性は味を確かめると、仕上げに白ごまを加えた。
    「豆乳のやさしい甘みも、ごまの香ばしさで、ちょうどよくまとまるんです」

    女性が器を運んできた。
    「お待たせしました」

    湯気が立ちのぼっている。
    丸いさつまいもと、たっぷりきのこが入った白いスープだった。

    「ありがとうございます。きのこは好きです」
    そっとスプーンを入れて、ひと口飲んだ。

    熱い。でも、不思議とやさしい。

    きのこの旨味が広がる。
    ごまの香りが重なると、豆乳がぐっと飲みやすくなった。
    さつまいもは、ほろりと崩れて、やさしい甘みが広がる。

    もうひと口飲む。
    白いスープなのに、思ったより味が深い。

    「おいしい」
    思わず頬がゆるむ。

    「よかったです」
    女性は、ほっとしたように笑った。

    しばらく、無心で食べた。

    「おいしいものを食べるの、久しぶりかもしれません」

    「そうなんですか?」
    女性は、目を丸くした。

    「猫のごはんは、すごくこだわっていたのに、自分のことは適当なんですよね」

    自分のごはんは、安ければそれでよかった。
    スーパーでは、自分のお惣菜は値引きシールを探すのに、
    ライのごはんだけは値段を見なかった。

    少し高くても、「今日はご褒美にしよう」と迷わず買っていた。
    自分のごはんは忘れても、ライのごはんだけは忘れなかった。

    「大事な子だったんですね」
    女性は、うなずいた。

    「はい、とても」

    女性はそれ以上、話しかけてこなかった。

    「ごちそうさまでした」
    気づけば器は、空になっていた。

    「ありがとうございました」
    女性が近づいてくる。

    会計を済ませて立ち上がる。
    軽く頭を下げると、女性も微笑んだ。
    そのまま店を出た。

    外は、もう薄暗くなっていた。
    昼間より、少し冷たい風が吹く。

    「そのままで、いいのかも」
    小さくつぶやき、ゆっくり歩き出す。

    その時だった。
    路地の向こうを、一匹の猫が横切った。
    一瞬、ハチワレに見えた。

    足が止まる。
    猫がちらりと、こちらを見た。

    その瞬間、私の口が勝手に動いていた。
    「ラ——」
    言いかけて、止まった。

    ちがう。 ライじゃない。
    黒猫だった。

    ライは、もういない。
    そんなこと、わかってる。一年も前から、わかってる。

    なのになんで今、呼ぼうとしたんだろう。
    黒猫は、動かない。
    ただ、じっと私を見ている。

    一年間出てこなかったものが、
    その知らない猫の前で、いきなりあふれた。

    「……っ、う」
    こらえる間も、なかった。

    私は、冷たい路地の真ん中で、しゃがみ込んで泣いた。
    みっともなく、声を上げて。

    ライが逝った日も、私はこんなふうには泣けなかった。

    気丈に淡々と、火葬の手配をして。
    「大丈夫」と、自分に言い聞かせて。

    ずっと、泣くのを後回しにしていた。
    自分のごはんを、後回しにしたみたいに。
    自分の悲しみも後回しにして、蓋をして。

    黒猫は、逃げなかった。
    少し離れたところに、ちょこんと座って
    私が泣きやむのを、待っているみたいだった。

    やがて猫は、ゆっくり立ち上がり
    何事もなかったように、路地の奥へ消えていった。

    「ありがとう」
    誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

    あの猫だろうか。ライだろうか。
    それとも、あの店の温かい一杯だろうか。

    涙で街灯が、にじんで見えた。
    家に帰っても、ライの食器は、まだそのままでいい。

    今日は、まだ。 でも、いつか。

    ちゃんと泣けた私なら、いつかあの子を
    ちゃんと見送れる日が来るのかもしれない。

    その『いつか』をはじめて、少しだけ思えた。

    次も、この道を歩いて帰ろう。
    あの猫に、また会えるかもしれない。

    冷たい風の中を私は、ゆっくり歩き出した。
    体の奥にはまだ、あのスープの温かさが残っていた。

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    四杯目:【冬】全部やらなくていい

    全部、自分でやることが当たり前だった。
    助けてもらうことは、弱さだと思っていた。
    一人で抱え続けて、何も見えなくなった。
    今は、頼ることもできる。


    「お母さん!」
    一日に何度、この言葉を聞くだろう。

    大原さとみ、41歳。

    春から、夫が単身赴任になった。
    まだ家を購入して二年というのに、夫に転勤辞令が出た。
    家を買うと転勤になるとは、よく言ったものだと思う。

    長女は中学一年生。
    受験が終わったと思ったら、新しい学校生活や部活で忙しい。

    次女は小学三年生。
    まだ手はかかるけれど、少しずつ親より友達の話をするようになった。

    私は時短勤務を終え、今年からフルタイムに戻った。

    フルタイムになるだけで、こんなにも疲れるものなのか。

    朝は5時半に起きる。
    朝食を作りながら、お弁当を詰める。

    長女はなかなか起きない。
    「あと5分」
    そう言って布団にもぐる。

    次女は次女で、
    「今日パンないの?」
    と不満そうな顔をする。

    私は、冷めた味噌汁をひと口飲み、洗濯機のスイッチを押した。
    子どもたちに朝食を食べさせ、バタバタと自分の支度をする。

    とりあえず日焼け止めを塗り、眉だけ整える。
    髪は適当にひとつに結んだ。
    鏡の前で、ゆっくり化粧をする時間もなかった。

    子どもたちを送り出してから、急いで仕事へ行く。
    職場は電車で三駅。
    通勤時間が短いことだけは助かっていた。

    通勤時間くらいは本を読もうと思って、
    文庫本をバッグに入れた。

    でも、スマホで学校からのお知らせを確認したり、
    夕飯の献立を考えたりしているうちに、
    あっという間に駅へ着いてしまう。

    たまには、自分へのご褒美に一人でランチでもしたいと思う。
    けれど、毎日のことを考えると結局は
    値段の安い社員食堂へ足が向く。

    文庫本は、気づけば何か月もバッグに入ったまま。
    同僚と他愛もない話をしているうちに、昼休みも終わってしまう。
    仕事に戻ると、午後もあっという間だった。

    仕事が終われば、帰宅途中に夕飯の買物。
    帰ってすぐ夕飯の支度。
    洗濯。宿題の確認。お風呂。台所の片付け。

    気づけば一日が終わっている。
    ちょっとSNSを見ようとしても、そのまま寝落ちしている。
    毎日そんな感じだ。

    先週末、夫が久しぶりに帰ってきた。
    金曜の夜から日曜まで。
    たった二泊三日なのに、少しだけ生活のリズムが変わる。

    洗濯物も増えるし、夕飯の時間も、お風呂の順番も、テレビの音量も。
    今まで当たり前だったことなのに、なぜか落ち着かなかった。

    娘たちは嬉しそうに夫のまわりに集まる。
    今では月に一度しか会えない夫に、くっついて話が止まらない。

    夫も、二人の話を笑いながら聞いていた。
    宿題を見たり、一緒にゲームをしたり。

    久しぶりの父親の時間を、楽しんでいるようだ。
    その姿を見ると、やっぱり帰ってきてくれてよかったと思う。

    日曜の夕方、夫を駅まで送った。
    「じゃあ、また来月」
    夫は手を振り、改札の向こうへ消えた。

    「うん。体に気をつけてね」
    私と子どもたちは、見えなくなるまで手を振った。

    帰りの車の中で、小さく息を吐いた。
    帰って来てくれるのは嬉しい。
    でも、三人の生活に慣れた家に四人目が戻るとどこか落ち着かない。

    明日からまた、いつもの三人の生活に戻る。
    ほっとしている自分がいた。
    そんなことを思う自分が、少し嫌だった。

    火曜日。
    事務仕事の私には珍しく、外部との打ち合わせがあった。

    予定より早く終わり、まだ明るいうちに最寄り駅へ着いた。
    スマホを見る。16時を過ぎていた。

    冷たい風が頬に当たる。
    次女が家に帰るまで、少し時間があった。

    ふと、同僚の言葉を思い出した。
    「火曜だけ開いてる、変わったスープ屋があるんだよね。メニューがなくて、話を聞いてくれる店」

    半分聞き流していた。
    でも、なぜか頭に残っていた。

    行ってみたい。

    住宅街に入る。冬の空は暗くなるのが早い。
    吐く息が少し白かった。

    遠くに小さな灯りが見えた。
    近づいてみると、小さな看板が出ていた。

    『火曜だけ、スープあります』

    「ここだ」
    思わず、声に出た。
    引き戸に手をかけた。

    「いらっしゃいませ」
    グレーのエプロン姿の女性は、自分と同じ歳くらいのように感じた。

    店の中は暖かかった。
    外の冷たい空気が、背中から少しずつ離れていく。

    「お好きな席へどうぞ」
    女性はにっこり笑った。

    誰もいない店内は、静かだった。
    どこに座るか迷ったが、カウンター席に腰を下ろした。

    スマホを見る。
    長女からの連絡はない。
    次女の下校時間までは、まだ少しある。
    夫からも、もちろん連絡は来ていなかった。

    朝はバタバタで、シンクに食器を置いたまま出てきた。
    洗濯物もたまっている。
    昨日は掃除機もかけていない。
    家に帰れば、やることはいくらでもあった。

    そんなことを考えていると、
    目の前に、レモンの入った水と温かいおしぼりが置かれた。

    「ありがとうございます」
    おしぼりを手に取る。思ったより指先が冷えていた。

    「お仕事帰りですか?」
    女性は、カウンターの向こうで微笑んだ。

    「はい。職場の人に教えてもらって」
    私はうなずく。

    「そうでしたか」
    女性は、にっこり笑った。

    「メニューがないって聞いていたので、どんな店かなと思って」
    水をひと口飲む。
    乾いた喉に、レモン水がゆっくり染み渡った。

    「そうなんです。一杯だけ、作らせてください」 
    女性は、やさしい声で言った。

    一人で外でご飯を食べるなんて、いつぶりだろう。
    夫が単身赴任になる前だったか。
    それとも、娘たちが生まれる前だったか。
    普段、外でランチもしないし。

    よく思い出せなかった。
    そう考えているうちに、お腹が空いてきた。

    娘たちの夕飯は、何にしよう。
    スーパーまで戻って、総菜を買って帰るか。
    作るのも、面倒だった。

    「あの、このスープって、テイクアウトできますか?」
    気づけば声をかけていた。

    「できますよ。ご家族の分ですか?」

    ほっとする。
    「子どもに。二人分お願いします」

    「はい。今日は、ゆっくりお一人なんですね」
    女性は、水を追加しながら言った。

    「でも、逆に落ち着かなくて。時間ができると、家のことばかり気になるんですよね」
    小さく息をつく。

    「夫が単身赴任になって、娘が二人いるので、毎日バタバタで。朝起きて、気づいたらもう夜で。毎日同じことの繰り返しですね」
    言葉が、そこでようやく止まった。

    「もう、それが当たり前になっちゃいましたけど」
    慣れたというより、そうするしかなかっただけかもしれない。

    女性は静かに聞いていた。
    「毎日すごいですね」

    その言葉に、少し困った。
    「いや、そんなことないです。みんな、そうですから」
    反射的にそう答えていた。

    でもなぜか、自分の言った言葉が胸に残った。
    本当に慣れただけなんだろうか。

    女性は、エプロンの紐を結び直すと、冷蔵庫を開けた。

    どんなスープが出てくるんだろう。
    好き嫌いも聞かれなかったけれど、大丈夫なんだろうか。
    私は窓の外に目を向けた。

    冷蔵庫から出てきたのは、里芋。
    それからカリフラワーとセロリ。

    「セロリは香りを、里芋はやさしいとろみを。カリフラワーは、ほろっとほどける食感を作ってくれます。それぞれ役目が違います」

    知ってる野菜なのに、不思議と何ができるのかわからない。
    女性はまな板の上に野菜を並べた。

    トン、トン、トン、トン。
    包丁の音がゆっくり響く。

    女性は、鍋にオリーブオイルを入れ、
    セロリ、里芋、カリフラワー、にんにくを加えた。
    直後に、塩を全量振った。

    「今、塩を入れるんですか?」

    「はい。先に塩を振ることで、浸透圧で細胞が壊れて、野菜の甘みとコクが出ます」

    弱火で、じっくり炒めていく。
    焼き色はつけない。
    にんにくが、丸ごと入っていた。

    「にんにく、刻まないんですね」
    ふわりと、にんにくの香りが漂う。

    「刻むと臭みが出てしまうので。丸ごと煮ると、まろやかな甘みだけが出るんです」

    白ワインを注いだ瞬間、香りが広がった。
    「強火でアルコールを飛ばして、ワインのコクを野菜の表面にコーティングさせます」

    最初のツンとした香りが、甘い香りになった。
    水とローリエを一枚入れ、火を弱めた。

    別の鍋で、タラを霜降りにしていた。
    熱湯にサッと潜らせて、すぐ冷水に取る。

    「そのひと手間、必要ですか?」

    「これをしないと、生臭さがスープ全体に広がるので。
    タラの旨味だけを、きれいに出したくて」

    丁寧に水気を拭き取ってから、鍋に加えた。
    「魚は、煮込みすぎるとパサパサになるので。霜降りで表面を固め、最後の3分で優しく火を入れ、ほろりと崩れる食感にします」

    女性は味見をすると、器によそい、パセリを散らした。

    「タラだけでも、おいしいんですけど。野菜と一緒に煮ると、それぞれの味がちゃんとひとつになるんです」

    最後に、黒こしょうを表面にパラリと落とす。

    「こしょうは、最後なんですね」

    「はい。煮ると香りが飛んでしまいます。最初の一口だけ、香りを届けたいんです」

    「お待たせしました」
    目の前に器が置かれる。

    「今日は、ほどけるスープです」

    器から、白い湯気が立ちのぼっていた。

    「いただきます」
    スプーンを入れて、ひと口飲むと熱い。
    思わず息を吐く。

    「あ、おいしい」
    自然と声が出た。

    最初に、黒こしょうがふわっと香る。
    タラは、口に入れるとほろりと崩れた。

    カリフラワーも、形が残っているのに、すっとほどける。
    里芋がスープにゆっくり溶けて、やさしいとろみを残していた。

    にんにくは主張せず、静かに溶け込んでいる。

    気づけば、急いで食べていなかった。
    誰かに作ってもらった温かいご飯。
    それだけで、胸の奥が少し温かくなった。

    しばらく夢中で食べる。
    「そういえば、なんで、ほどけるスープなんですか?」

    女性は、少し考えていた。
    「ずっと、家族のことを考えているように見えたので」

    私は、思わず笑った。

    「今日は、何もしないで少し休めるといいなと思って」
    そう言って女性は、にっこり微笑んだ。

    私は、もうひと口スープを飲む。

    何もしない日。
    そんな日があってもいいんだろうか。
    私が少しくらい休んでも、家はちゃんと回るんだろうか。

    そんなこと、考えたこともなかった。
    器は、空になっていた。

    バッグから財布を出そうとして、手が止まった。
    文庫本が、目に入る。

    何か月も、開いていない。
    そっとページをめくり、最初の一行を読んだ。

    次女が帰るまで、まだ少しある。

    「もう少し、ここにいてもいいですか」
    気づけば、そう口にしていた。

    「もちろんです」
    女性は、にっこり笑った。

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    おわりに

    二月のはじめ。
    関東では、めずらしい積雪だった。
    店の前は、あたり一面真っ白だ。

    こんな日だから、客は来ないだろうと思っていた。
    それでも、気づけば店に来ていた。

    このまま休みにしてしまおうかとも思った。
    けれど、来週まで食材はもたない。

    私は暖房をつけ、静かな店内を見渡した。
    こんな日は、誰かのためじゃなく、
    自分のために作ってもいい気がした。

    壁の時計を見る。まだ15時。
    私は手を洗った。
    水が、氷のように冷たい。
    22歳の冬の厨房も、こんな冷たさだった。

    昔はまだ、女性のパティシエはいても
    料理人として働くことは珍しかった。
    厨房は、男の世界だった。

    朝から仕込みをして、
    店を閉めて帰る頃には日付が変わっていた。
    家には寝に帰るだけだった。

    朝は食べない。営業中の味見と、夕方のまかない。
    それが一日の食事だった。

    休憩らしい休憩もない。
    店が暇になると、
    「お前も一服いくか」と先輩に声をかけられた。
    その数分だけが、厨房の外の空気を吸える時間だった。

    料理人にとって舌は大事。
    わかっていても、あの狭い厨房から少しでも離れたかった。
    だから、好きでもないたばこを吸うようになった。

    最初は楽しかった。
    知らない料理を覚えて、味を知って、自分の世界が広がっていく。

    でも、どこの店も結局は人だった。
    三件目のレストランの料理長は、昔気質の人だった。

    鍋が飛んできたのは、入って2ヶ月目だった。

    「仕込みが遅い」
    「返事が小さい」

    料理長の怒鳴り声が厨房に響く。
    身体が少しずつ縮こまっていく。
    いつしか、料理長の顔色ばかり見ていた。

    機嫌が悪そうなら先回りして動く。
    怒鳴られないように動く。失敗しないように動く。

    料理のためなのか、店のためなのか。
    それとも怒られないためなのか。
    だんだん分からなくなっていた。

    「夢もないのに店で働くな」
    何度もそう言われた。
    その言葉だけは、今でもはっきり覚えている。

    料理は好きだった。
    でも、自分の店を持ちたいわけじゃなかった。

    ただ、海外へ行ってみたかった。
    いろんな国をふらふら歩いて、その土地の料理を食べてみたかった。

    でも、それは夢じゃないと言われた。
    そこから、料理長の態度はさらに厳しくなった。

    今なら思う。
    どうして人に、夢の形を決められなければいけないんだろう。

    けれど、その頃の私は、
    自分の夢より料理長の言葉を信じかけていた。

    まかないを前にしても、箸が進まない日が増えた。
    疲れているだけだと思っていた。

    味見も、なめるだけで精一杯。
    いつの間にか、食べられなくなっていた。

    食べないまま働いていたら、身体はどんどん痩せていった。
    ベルトの穴が、ひとつ、またひとつと内側にずれていく。

    眠いから、後で。疲れたから、後で。
    休みたいから、後で。
    自分の番は、いつも後になった。

    ある朝。
    店へ向かう途中で、視界が白くなった。
    まるで、今日のような真っ白な雪一面に沈んでいくようだった。

    次に目を開けた時には、病院のベッドだった。
    腕には点滴が刺さっていた。

    レストランの仕事は辞めた。
    しばらくは、何もしていなかった。

    でも、不思議だった。
    料理は嫌いになれなかった。

    ある日、机の奥から世界一周のガイドブックが出てきた。
    昔、何度も読んでいたものだ。

    数日後には、飛行機のチケットを取っていた。
    バックパックひとつで、いろんな国を歩いた。

    気に入った街があれば、一週間でも二週間でも滞在した。
    おいしい店を見つけると、毎日のように通った。

    「また来たの?」
    店の人に笑われるくらい通うと、顔を覚えてもらえる。

    日本でシェフをしていると話すと、
    「ちょっと来る?」
    と厨房へ呼んでくれることもあった。

    鍋をのぞかせてもらったり、味見させてもらったり、
    作り方を教えてもらったり。
    ガイドブックには載っていない、そんな時間が好きだった。

    合わない街だと思えば、次の日には別の場所へ移った。
    気ままに、好きなように過ごした。

    ある国で、市場の中のスープ屋を営む女性に出会った。
    日に焼けた、ふくよかな女性だった。

    派手な花柄のエプロンをつけて、
    鍋をかき混ぜながら、ずっと笑っていた。

    毎日よく似たスープだった。
    でも、少しずつ違う。
    日替わりなのか、その日の気分で味を変えているのか。

    理由はわからなかったけれど、不思議とまた食べたくなる。
    気づけば、私は毎日のようにその店へ通っていた。

    そしてある日、私は聞いた。
    「毎日、同じ仕事で飽きませんか?」

    「毎日違うよ。毎日みんな顔が違うから」
    女性は、くしゃっと笑った。

    「顔?」

    「そう。今日は疲れてる人もいるし、旅行の途中の人もいる。ケンカしたばかりの人もいる」
    女性は鍋をかき混ぜながら続けた。

    「だから、まず話を聞くの。あなたは、これ。ちょっと冷えてそうだからね。自分じゃ気づいてないみたいだけど」
    そう言いながら、小鍋に生姜のスパイスをひとつまみ落とす。

    「え? なんでわかるんですか?」

    女性は、声を出して笑った。
    「だってさっき言ってたじゃない。ホテルの冷房のちょうどいい温度がないって」

    私は思わず苦笑いした。
    「そんなこと言いましたっけ」

    「言ったよ。みんな、自分が話したこと忘れるんだから」
    そう言いながら、おばちゃんは鍋を吹きこぼした。
    慌ててふきんで拭いて、また笑った。

    その後も、しばらく店に通った。
    おばちゃんは相変わらず同じ鍋でスープを作っていた。

    けれど、よく見ると少しずつ違った。
    ある人にはハーブを多めに。
    ある人には別のスパイスを足していた。

    「レシピを変えてるんですか?」
    そう聞くと、おばちゃんは首を振った。

    「変えてるんじゃないよ。その人に合わせてるだけ」
    そう言って、向こうの席を顎で示した。

    大きな荷物を抱えた旅行者が、眠そうな顔でスープを飲んでいる。
    「あの人は疲れてるから」
    おばちゃんは、当たり前のように言った。

    おばちゃんは、同じスープを作っているようで、
    毎日違う一杯を作っていた。

    相手の話を聞いて。相手の顔を見て。
    その人に合わせて、少しだけ変える。
    そのやり方が、ずっと心に残っていた。

    日本に帰ってからは、食品会社に入った。
    レストランへ戻る気には、まだなれなかった。
    店と違って、会社にはたくさんの人がいた。

    定時になると、誰より早く帰る男性がいた。
    最初は不思議だった。
    ある日話してみると、母親の介護をしていると言った。

    いろんな人がいた。
    話を聞いてみると、それぞれ事情があった。
    子どものこと。親のこと。体調のこと。将来のこと。
    同じように働いていても、みんな違う毎日を抱えていた。

    あのおばちゃんが言っていたことを、
    時々思い出した。
    「今日は疲れてる人もいるし、旅行の途中の人もいる」

    その人を見て、その人に合わせる。
    そんな場所が、あったらいいと思うようになった。

    店を開くようになったのは、そのずっと後だ。
    疲れた人が、ふらりと立ち寄れる場所を作りたかった。

    毎日は開けられなかった。
    それでも、一日なら続けられると思った。

    不思議なことに、いろんな人がこの店へたどり着いた。
    たくさん話す人もいた。ほとんど話さない人もいた。
    泣く人もいた。笑う人もいた。

    でも、最初からスープを飲みに来た人は
    ほとんどいなかった。

    道を間違えた人。時間が空いた人。
    誰かの話を聞いて来た人。

    ただ、ふらりとこの店へ入って来た。
    私も昔、あのおばちゃんの店へたどり着いたように。

    だから毎回、同じスープにはならなかった。
    相手の顔を見て、その日に合う一杯を考える。

    ふと、自分のことはどうなんだろうと思った。
    ケータイのカメラで自分の顔を見た。

    「ちょっと頑張りすぎかな」

    私は冷蔵庫を開けた。
    カブ、鶏手羽元、生姜もあった。

    今日はこれでいい。
    エプロンの紐を結び直し、カブを四つ割りにする。

    手羽元をさっと湯通しして、冷水で洗う。
    水気を拭き取ってから、鍋に入れた。

    水を張り、酒と昆布、ねぎの青い部分、生姜、
    カブを加えて火をつける。

    カブは、出汁を誰よりも吸い込む野菜。
    繊維の奥まで、じっくり染み込ませる。

    しばらくして、小さな湯気が立ちのぼり始めた。

    私は椅子に腰を下ろした。
    店の中には、鍋の音だけが響いている。
    雪はまだ降り続いていた。窓の外は真っ白だった。

    料理をしていると、自然と目の前のことだけを考える。

    食材に触れる。火加減を見る。鍋の音を聞く。
    湯気の香りを確かめる。味見をする。

    そうしているうちに、頭の中が少しずつ静かになっていく。
    昔から、それだけは変わらなかった。

    鍋から、生姜の香りがゆっくり広がり始めた。
    カブはやわらかく煮えていた。

    スプーンで、ひと口味見をする。
    火を止め、塩をひとつまみ。

    「今日はこれ」
    ふと、あのおばちゃんの声を思い出し、笑った。

    小さな器に、ごま油とクミン、コリアンダー、カルダモンを入れる。
    そこへ熱いスープをお玉一杯だけ注ぎ、静かに混ぜた。

    先に混ぜておくと、油だけ浮かずに、スパイスがスープ全体になじむ。
    鍋へ戻し、ひと混ぜする。
    器によそい、黒こしょうをひとふり。

    両手で器を持つと、じんわりと熱が伝わる。
    「いただきます」

    ひと口飲むと熱かった。口元に笑みが浮かぶ。
    最初に、スパイスの香りがふわりと広がる。

    そのあとから、鶏のやさしい出汁が追いかけてきた。
    カブは、力を入れなくても、すっとほどける。

    夢中になって食べているうちに、器は空になっていた。
    画面に映る自分を見る。
    さっきより、表情がやわらいでいた。

    ふいに、あの市場のおばちゃんの言葉を思い出す。
    「自分じゃ気づいてないみたいだけど」

    私は微笑んだ。
    そうか、客の顔は見ていたのに。
    自分の顔は、ちゃんと見ていなかった。

    自分を後回しにする日があってもいい。
    でも、自分の番までなくしてはいけなかった。

    たった一杯のスープで人生は変わらない。
    悩みだってなくならない。

    それでも、帰り道の景色が少しだけ変わることはある。
    そんな一杯があってもいいのかもしれない。

    火曜日は、少しだけ立ち止まるには、ちょうどいい曜日だった。

    その時だった。
    カラン。
    引き戸の音がした。

    私は立ち上がる。
    「いらっしゃいませ」

    雪はまだ降り続いていた。

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    本書はフィクションです。
    登場人物やエピソードはすべて創作であり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

     
     
    心とからだが壊れた私を救ったのは、一杯のスープでした🥣 食品業界20年以上。 その経験から生まれた『心とからだの回復スープ』はAmazon複数部門1位を獲得🏆 食材の魅力を引き出し、人と食材にやさしい循環を大切に。 スープで日本を元気に🥣✨ 保護猫2匹との暮らしが、私の癒やし😻

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