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物語ハンター (羅生門の老婆と走れメロス)【創作大賞2026】

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門
    #創作大賞2026

    あらすじ

     古いお守りを手放した途端、不可解な出来事に見舞われるようになった戦えるタイプの図書館司書・春山このは。勤務先の書庫で幽霊を目撃し、霊能者が書いた同人誌「私の推し文学」に触れたことで、封印されていた「物語」たちを現実世界へ解き放ってしまった。『羅生門』の老婆、『走れメロス』のメロス――本から抜け出した登場人物たちは、街に災いをもたらす怪異と化していた。責任を感じたこのはは、霊能者の孫・草太と、その式である幽霊の少年・銅《あかがね》と協力し、物語の回収に乗り出す。文学から生まれた怪異を追う、文学×オカルトの現代ファンタジー。

    参考文献

    「羅生門」 芥川龍之介 (青空文庫)
    「走れメロス」 太宰治 (青空文庫)


    序章



    「今までありがとうございました」

     初詣の客で賑わう参道。いつもは日が落ちれば閑散としている神社も、この日ばかりはこの時間でも賑わっている。
     新しい年の初め、春山このはは頭上に張り巡らされた提灯の灯りに照らされながら、納札所に頭を下げた。お参りした帰り、納札所にお守りを納めたのである。

     思い返せば、そのお守りは幼稚園のころにどこかのお婆さんにもらったもので、かれこれ十五年以上持ち歩いていた。鮮やかな赤だったお守り袋は色褪せて所々オレンジにも変色し、白い紐は汚れて今にもすり切れそうだった。

     さすがにもういいだろう。そうこのはは判断したのだ。

     お守りなんてのは所詮気休めで、持っていたって特別いいこともなかったし、悪いことも普通にあった。だいぶ古くなってしまったし、もう手放しても罰は当たらないはずだ。

     下げていた頭を上げたこのはは、新年で浮き足立つ参拝客の間を、同じように軽い歩調で歩いて行った。

     数日後、お守りを手放したことで騒動に巻き込まれることになろうとは、このときのこのはは、まだ微塵も思っていなかった。

    第一章 羅生門の老婆


     新年初勤務から、このはは難儀していた。
     年末年始の休みを終えて久々に出勤した紙枝《かみえだ》市立図書館にて、厄介な利用客の対応をしなければならなかったのだ。

     なんでも、探している本があるらしい。普通の本探しならまだよかったものの、書庫にしまい込まれているから取り出しに行く手間がある上に、客はその本を借りたいのではなく引き取りたいのだという。意味がわからなかった。ここは図書館ですよ? と言いたかったのを我慢できた自分を誰か褒めてくれないか。

     このはが困惑していたところに先輩司書が割って入り、その利用客に詳しく話を聞いてくれた。

     それによると、その利用客の祖母が作った本、いわゆる同人誌が、寄贈書としてこの図書館にあるはずだというのだ。それを返してほしいらしい。
     本には作者名として祖母の名前が書いてある、と言って、なんとその利用客は自分と祖母の繋がりを示す戸籍謄本まで持参してきていた。なんとしても本を引き取りたいという強い意志を感じる。

     戸籍謄本の名前によると本を書いた祖母は色紙山《いろかみやま》草子。本を引き取りに来たのが孫の草太というらしい。そちらは免許証も提示してきて本人で間違いないことを確認している。

     先輩司書がどこかに電話をして確認を取り、その結果本は孫の草太に引き取られることになった。
     この図書館では古くなった本やあまり借り手のいない本を「ご自由にどうぞ」の札とともにカートに載せて、利用者に無料配布することもある。だから、書庫にしまい込まれているような寄贈書が元の持ち主家族に戻ることもそう問題ではないのだろう。

    「とはいえ、ここの書庫って不気味なのよね……」

     件の本を取りに第二書庫とプレートのある部屋の前まできて、このはは呟いた。この書庫は図書館の中でも北向きで日当たりの悪い部屋だからかもしれない。空気がどんよりしているというか、暗いし寒いのだ。夏場でもなんとなく嫌な感じに寒かったことを思い出して、この寒い冬に入らなければならないことを恨めしく思う。

    「よし」
     自分の中で気合いを入れてドアを開けた。
     普段使わない書庫は、エアコンもついていなくて開けただけで冷気が漂ってくる。外は曇っているのか、白いカーテンの引かれた窓から入る光はあまりにも弱々しかった。
    「えっと電気は……」

     入り口付近にあるはずのスイッチを手探りでつけた。しかしパチリ、と音も感触もしたのに、電気がつかない。何度か試してみたが、やはりつかなかった。

    「嘘ぉ……」

     本当についてない。がっくりと肩を落としながら、このはは室内に入った。居並ぶ書架の間をすり抜けるように歩いて、一つしかない窓のカーテンを開ける。それでも外はどんよりと曇っていて、部屋の薄暗さはそんなに変わっていなかった。

     早く本を探して戻ろう。そう考えて目的の書架に近づく。タイトルと場所を書き写したメモによれば探している本は「2―E―3」で、第二書庫のEの書架の三段目にあるということだ。

     Eとラベリングされた棚に目を向けたとき、ほんの一瞬、視界の端を何かがかすめたような気がした。何だろう? 何か黒いものがいたような、と、窓からの光が届かない部屋の奥に目を向ける。そこには、どういうわけか見たこともないおじさんがいた。

    「ひっ……」

     最初は不審者、と思ったが違った。その男はどよどよと黒い靄のような空気をまとっていて、小太りな体に着ているのは襟元がぽたぽたと赤茶色に変色したワイシャツと紺色のチノパンだった。鼻血が出ていて、顔色は真っ青。眼鏡をかけているが、壁のほうを見ているその瞳は焦点が合っていないように見える。

     直感的に、生きている人間ではないと悟る。横を向いていたその顔が、ぐりんと向きを変えてこのはを見た。大仏のようにふっくらした顔立ちに、眉間にイボまで出来ている。その血走った目に睨まれて、

    「きゃあ!」

     驚いて下がろうとしガシャンと背後の何かにぶつかる。脚立だった。高いところの本を取り出すために置いてあったそれにしたたかに体を打って顔をしかめる。それでも目を開けてみると、今度はさっきまでいたおじさんはいつの間にか姿を消していたのだった。ついでに、まるで今電気が通ったかのように、部屋の灯りがついた。

     ぱっと明るくなった書庫の中には、見える範囲にあのおじさんはいなかった。

    「な、何?」

     今見たものが信じられずに、このはは立ち尽くした。夢にしてはリアルだったし、第一意識がはっきりしているから夢ではない。打ちつけた体もちゃんと痛い。見間違い、とも思ったが、何をどう見間違えたら等身大の男性になるのだというほど、書庫にそれらしい物体はなかった。

     まさか隠れているのではとも思ったが、今のは絶対生きている人間ではなかった。つまり幽霊やお化けの類いだ。

    「信じられない……でもお化けがいたから本取ってこれませんでしたとも言えないし……お化けにキックボクシングって通用するかな……」

     どくどくと騒がしい胸を押さえつつ、このはは再び書架に向き合う。電気がついたことによって、さっきより探し物はしやすくなった。

     春山このはは去年の春に文系の短大を出たばかりの図書館司書だ。体格は華奢だが、趣味はキックボクシングである。ただの不審者だったらある程度どうにでもなる自信はあった。でもそれは物理攻撃が有効の場合で、幽霊に通じるのかはわからない。

     それでも社会人として「書庫に幽霊がいて本を取ってこれませんでした」というのは絶対におかしいと思っている。ざわざわする気持ちを抑えながら、このははメモを握りしめて本探しを続けた。

    「Eの三段目……えっとタイトルは……『私の推し文学』?」

     同人誌と言っていたし、ちゃんとした売り物のように背表紙にタイトルが入っているかもわからないが、このはは目的の棚の段の右から順に目を向けていった。一刻も早く本を取り出して部屋を出たい。

     何度もタイトル名を口にしながら探していると、白い背表紙にそのタイトルと、その下に色紙山草子と名前が書かれた本を見つける。

    「あった」

     これでやっとこの書庫を出られる。はずんだ声を上げて、このはは本を取ろうと手を伸ばした。

     その手が本に触れた、直後だった。

    「きゃ⁉」

     急に強烈な静電気が発生したかのような痛みが走って、青白い火花が散った。しかしその痛みも火花も静電気というにはひどいもので、触れた指どころか手首まで痛み、視界は青くスパークした。爆発したかのような衝撃に吹き飛ばされて尻餅をつく。慌てて書架を見上げれば、Eの三段目から一冊の本が抜け出てくるところだった。

     まるで魔法のように独りでに棚から出て宙に浮いた本は、青い光を放ちながらバッとページを開いた。ものすごい勢いで端から端までページがめくられていく。閉め切っているはずの書庫の中に、巨大扇風機を回したかのような風が吹き荒れた。

     埃が舞う中、このはは薄く目を開けてさらに信じられないものを見た。宙に浮いた本がめくられるごとに、黒い何かが本からはじき出されるようにして出て行ったのだ。それは一つではなくていくつも。しかしその黒いものは書庫にとどまらず閉まっているはずのドアや窓、さらには壁にぶち当たってもすり抜けるようにして消えてしまった。

     どれくらいの時間が経ったのだろう。青白い光が消えて、すべてのページを操《く》った本は空中で閉じられ、浮力を失ってばさっとこのはの目の前に落ちてきた。

     今起きた意味のわからない現象に、このはは驚きを通り越して茫然自失の状態だった。

    「何なの……今の……」

     やっと発した声はからからだ。ともかく本を拾って立ち上がろう。そう思い直して床に落ちた本に手を伸ばす。

     そこでふと、気がついた。暗い。
    「いつの間にっ」

     電気が消えていた。本の青い光に気を取られ過ぎていたのか、いつ消えたのか全然このはにはわからなかった。
     はあ、と、横でため息のような声が聞こえた気がして、薄暗い書庫の中、このはは泣きそうになりながら右隣を見る。
     部屋の窓からもれるわずかな光を背にして、先ほどの男がそこにいた。

    「きゃああ!」

     悲鳴を上げてこのはは、その顔面に拳を叩き込んだ。服についた虫を驚いて払うくらいの条件反射だった。そもそも相手が幽霊だったら物理攻撃は無効だろう。そう思ったのだが。

    「へぶしっ……」

     このはの拳を受けて、おじさんは吹き飛んでいった。それはもう見事に書庫の壁をすり抜けて窓の外、室外に飛んでいったのである。

    「本当に何⁉」

     わけがわからないことしか起こっていなくて、このははついにパニックになった。そんなところに、書庫の外から騒がしい足音が近づいてくる。およそ図書館で聞くとこのない荒々しい響きに、このはは立ち上がって思わずファイティングポーズで身構えた。

     次の瞬間、ドアが開いた。

     さっと吹き込んできたのは外の空気だった。書庫よりもあたたかい廊下の空気は、それだけでほっとした。ついでに電気も復旧して、降り注ぐ光に安心して構えを解く。ドアを開けたのは、このはが厄介な利用客だと思っていた色紙山草太だった。

     襟足が長めのウルフカットの黒髪の、右の襟足にだけ赤いメッシュを入れた若い男性。緑色の虹彩が強い鳶色の瞳が、このはを映した。そう思ったら、床に落ちている本にその視線は移っていった。

    「あー!」

     大声を上げて、黒いコートを翻して飛び込んできた草太は本を取り上げる。そして、忙しなくページを繰った。

    「いない。いないっ……」

     そんなふうに言った後、この世の終わりみたいな声で叫んだ。

    「いなくなってる……!」

     騒がしい人だ。かと思えば、草太は本の背表紙の上部を見る。何かに気づいたように「あっ」と叫んで、それから彼はこのはの手を取った。あたたかい手だ。その手に右手を握られて、手を開かされる。

     急に異性に手を握られて、このははこれがセクハラにあたるのかどうかを一瞬真面目に考えた。開いたこのはの右手には、人差し指に傷がついて血がにじんでいた。脚立にぶつかったときに切れたのだろう。

    「これ、お前の血だな」

     手を放して、草太が示したのは件の本だった。『私の推し文学』の背表紙上部に、赤いしみがついていた。このはが脚立にぶつかって傷ついた手で、そのまま本に触れてしまったから血がついたらしい。図書館司書の自分が本を汚してしまった。そのことに気がついて、このははとりあえず謝った。しかし草太は本を広げて、「謝ってすむ問題じゃない」と告げる。

    「見てみろ。『羅生門』からババアが抜けてるし、『走れメロス』のメロスもいない! お前が外に解き放ったんだ!」

     ぱらぱらとめくられた本はどうやら有名な物語の写しらしい。タイトル通りこの本を作った人の推し文学を詰め込んだように、作者も作品もばらばらだ。それって本として大丈夫なのかとも思ったが同人誌だし、本としての問題は一度脇に置いておく。

     問題は、本の中に虫食いのように白紙の部分が目立つことだ。数文字分の不自然な空白がページのあちこちに見られる。確かに人の名前や呼称程度の空白だ。

    「えーっと?」

     だから何だというのか。このはが首をかしげると、草太が大真面目に告げる。

    「回収。手伝ってもらうからな」



     このははため息をついた。
     あの後、草太は彼を追ってきた先輩司書によって書庫からつまみ出された。関係者以外立ち入り禁止のエリアに、草太が勝手に、そしてスタッフを押しのけて強引に侵入してしまったからである。ヒステリー気味に切れた先輩司書に出禁を言い渡され、出て行かないなら警備員を呼ぶとまで言われて、草太は渋々出て行ったのだ。その際彼はこのはに件の本を渡した。

    「退勤後でいい。下(しも)紙枝駅前のラルゴで待っている」

     そう言い残して。

     探していたのだから持って行けばいいのにと思ったが、図書館としては本の除籍処理をしなければならなかったし背表紙のラベルも剥がさなければならない。このはは渋々本を受け取った。

     草太は、どうしても邪魔のないところでこのはと話がしたいようだった。ちなみにラルゴというのは喫茶店の名前である。

     草太が出ていった後、このはは取りあえず汚してしまった本の背表紙はウェットティッシュで拭いてきれいにしたしラベルも剥がしたが、仕事が手につかなかった。除籍処理を済ませ通常業務も終えてようやく退勤時間になったものの、駅に向かう足取りは重い。でも本は返さなければならないし、となけなしの司書魂が逃げそうになる足を動かし持ち主への返却を促していた。いや、持ち主と呼んでいいのかわからないが。

     今日起こったことは不思議で不気味なことばかりだった。でも、このはは思い出したのだ。

     真っ青な顔の、すでにこの世のものとは思えない男。それに似たモノを、昔、遠い昔に見たことがあった。物心ついたころから、小学校に上がるくらいまでの間。何度も、何度も老若男女問わずそういった怖いものを見たのだ。

     でも、いつからかそれらが見えなくなって、大人になった今では見えていたこともすっかり忘れてしまっていた。

     ひょっとして、小さいころの自分には霊感があったのだろうか。それだけならまだしも、なぜ今になってまた見えるようになったのだろう。

     このはは「うーん」とうなりながら道を歩いた。

     三が日が明けたばかりの町はまだお祭り気分を残し、門松が出ていたり木々がイルミネーションで彩られていたりして賑わっている。地方都市である紙枝市は車社会で、駅前でも都会ほど人はいない。商売をやるなら駐車場を完備できる郊外でやるほうが成長できるのではと思うほどだ。

     歩いている途中、初詣はどこに行ったと話をしている若い男女の集団とすれ違った。

     初詣。

     もしかして、と、このはは思わず立ち止まった。

     今年の初詣、このはは神社にお守りを納めてきた。いつから持っていたのか不確かなくらい、ずっと前から持っていたお守りだった。しかし子供のころにそのお守りを手にした時期と、おかしなものが見えなくなった時期は、同じくらいではなかっただろうか。

     もしかしてお守りを手放してしまったから、また見えるようになったとか。

    「いやいやそんなわけ……」

     そんなわけないと、また歩き出す。

     図書館の最寄り駅である下紙枝駅まできて、駅向かいの店舗を見た。喫茶店ラルゴである。

     入り口のひさしは淡いオレンジの瓦で覆われていて、通りに面した窓際の席には何人かの客がいるのが見える。その中に草太の姿はなかったが、とりあえず入ることにする。

    「いらっしゃいませー」

     からん、と扉についていたベルが鳴った。迎えてくれたエプロン姿の女性に待ち合わせしていると告げると、彼女は「お二階へどうぞ」と手で階段を指した。レトロな雰囲気の一階にだってあまり人はいないのに、草太はわざわざ二階に席を取ったのか。そう思いながら、茶色い木製の階段を上る。

     着てきた灰色のコートの裾に気をつけながら、本を入れたビジネスバッグが手すりに当たらないよう抱えて上る。古いのか、足を進める度階段がぎしぎし鳴った。

     二階に着くと、そこは階段付近に三席ほどのテーブル席がある以外はがらんどうの空間だった。それより奥には何も物が置かれていないのだ。板張りの床と漆喰の壁が広がるばかりの空間に、二階どころかこの喫茶店にさえ初めてきたこのははびっくりした。三席だけある席の一番階段に近いテーブル席に、色紙山草太はこのはの方を向いて座っていた。

     丸い木のテーブルに黒くて四角いクロスを広げて、何やら並べたカードを前に一人で話をしている。今の彼はコートを脱いでいて、厚手のタートルネック姿だった。下は細身の黒いチノパンで、足元は黒い編み上げブーツで固めている。カジュアルさは置いておいて、真っ黒ないで立ちはまるで葬式を連想させた。

    「……そうだね。大丈夫。今はどん底かもしれないけど、未来の位置にいいカードが出てるから、運気は上向く。対策の位置に皇帝のカードが出てるから、そうだな……誰か年上の男性を味方につけるのもありだね。心当たり、ない?」

     このはがテーブルの前までくると、彼は髪を耳にかけてそこにつけている黒いワイヤレスイヤホンを指さした。電話中らしい。机の上に並べられたカードは、初めて見るがタロットだろう。彼は電話占い師なのだろうか。それはいいが、なぜここで。

     疑問に思っている間にも、彼は優しい声で電話の向こうの人物に語りかける。

    「そうか。他部署に行っちゃった前の部長に相談してみるか。それもいいね」

     図書館でやり取りした粗雑な口調や書庫での振る舞いしか見ていなかったため、こんなに優しく人に寄り添うような、励ますような草太の声を初めて聞いた。本当は人に寄り添える善人なのではないかと、このはは印象を改める。

    「その職場自体は君に合ってると思うから、辞めるのはもったいない。周りを味方にしてパワハラ上司の方を追い出しちゃおう」

     冗談ぽく、電話の向こうの相手に笑いかける。このはより少し年上なだけで世間から見たら若輩だろうに、彼は親身に、そして堂々と相談者とやり取りをしていた。カードを見ながら、その緑がかった鳶色の瞳は優しく笑んでいる。草太は顔立ちも肌もきれいな人で、もし対面でのやりとりだったら、うっかり見とれる依頼人もいるのではないだろうか。

    「うまくいくことを願ってるよ。それじゃ」

     電話が終わったのだろうか、草太が両耳からイヤホンを外した。カードの下に敷かれている黒い布に同化して気づかなかったが、その布の端に置かれていた黒いイヤホンケースに外したそれらを収納する。それからスマホを操作した。

    「今日は閉店っと……はあ、つっかれた~」

     座ったまま天井に向かって腕を突き出す草太に、このははやっと声をかけた。

    「お疲れ様です。あの、本……」

     バッグから出して件の本を見せると、草太は「座ってくれ」と自分の向かいにある椅子を指す。草太のいる丸いテーブル席にはそれを囲むように椅子が四脚あって、奥に草太。彼の右手の椅子には黒いショルダーバッグが置いてある。その背もたれには黒いコートがかけてあった。

     このはは階段を背にして草太の正面に座った。草太が手慣れた様子でカードもクロスもバッグの中のケースに片付けたので、開けたテーブルの上に本を置いた。装丁はハードカバーだが、表紙にさえ絵はなく、ただ『私の推し文学』というタイトルと、『色紙山草子』という作者名が縦書きで記されているだけだった。

    「お前、この本見たか」
    「空白が多い本ですね」
    「それが問題なんだ」

     がっくりと、草太が頭を抱える。

    「お前霊感どころか霊力あるだろ」
    「はい?」
    「そういうやつの血がトリガーだったんだよ。本の封印を解く。おかげで中のやつらが抜け出しちまった」
    「アニメの観すぎでは?」

     思わずこのはが言った途端、草太の視線が冷たくなった。体感で、部屋の気温が急激に下がった気がする。このははぶるりと灰色のコートの前をかき合わせた。その中にはカーディガンとブラウスも着ているしスカートは膝丈でもタイツは驚異の120デニールだ。ブーツだって履いていて、それなのに室内でこんなに寒いことがあるだろうか。

    「銅《あかがね》」

     草太がつぶやいた途端、このはの左の耳元で声が上がった。

    「なあに?」

     高めだったが男性の声が近くでして、このはは仰天しながら左脚を軸足に右脚を開いて床を踏みしめ拳を握り、腰をひねって声のした自分の左側に右ストレートを叩き込んだ。

    「ふごぁっ」
    「銅ー⁉」

     短い悲鳴の後に拳の先で何かが吹っ飛んでいく。同時に草太も驚いたように叫んだ。飛んで行ったものは、高校生くらいの少年の形をしていた。それは喫茶店の壁をすり抜けるようにして見えなくなってしまった。昼間の男性と同じだった。

    「何してくれてんのお前。銅は俺の大事な式だぞ!」
    「足音もなく私の横に立つのが悪いです」
    「なんだその馬に背後から近づいたら蹴られるのは当前みたいな理論は」
    「私を動物と仰る?」
    「人間ならもうちょっと理性的になってくれませんかね!」

     やいのやいのやり合っているうちに、壁をすり抜けて少年が戻ってきた。ふわふわと浮きながら、このはに殴られた頬を押さえている。

    「草太ひどいや……呼ばれて飛び出たら殴られるなんて」
    「こいつに霊感あることを確かめようと呼び出しただけだ。お前をぶっ飛ばせたなら霊感どころか霊力持ちってことだな」

     ふわふわと漂いながら草太の隣に移動して、銅というらしい少年はしょぼくれた顔をする。柔らかそうな短い髪と顔にはあどけなさと愛嬌があり、身につけているのは白いパーカーに、チャコールグレーのアンクルパンツと汚れた白いスニーカーだった。顔色は生きてる人間と変わらなくて、でも人間ではありえないことに浮いているのだ。

    「なんですか。その子」

     地に足がついていない銅を見ながら言うと、草太は銅からこのはに視線を戻した。

    「俺の式だよ。アニメや漫画で使われる式神って言葉知ってるか? そっちの定義ってどうなってんのかわかんねえけど、俺の理論では神様を従えるんじゃなければそいつは式『神』とは言わない、ただの式だ。こいつもそう。こいつは俺が従えるただの浮遊霊さ」
    「どもー」

     にこにこと、銅が片手を上げた。幽霊になっても痛覚があるのか、このはに殴られた頬を押さえる手はそのままだ。

    「やー、腰の入ったいいパンチだったよ。俺クラスじゃなかったら消されてたね」
    「そんなにか。想定外に霊力強い上に、素人の動きじゃなかったな。お前、何か格闘技やってるだろう」

     無遠慮にずけずけくる草太にいらっとして、このはは鞄をテーブルに置き、席を立ってファイティングポーズをとった。

    「何の格闘技か実際にくらって確かめてみますか?」
    「体験型効き格闘技かな? やだよ」

     顔を引きつらせて拒否する草太に溜飲が下りて、このはは構えを解いた。そのこのはに、草太が告げる。

    「冗談はこれくらいにして、本の空白について話があるんだ。座ってくれ」



     その本が出来たのは平成の時代。
     草太の祖母である色紙山草子は物語が好きだった。好きで好きで、自分の気に入った物語たちを模写して『私の推し文学』という一冊の本にまとめた。それは自費で作った同人誌で、あくまで自分が楽しむための自己満足の本だった。

     色紙山は男だろうが女だろうが長子が家を継ぐ特殊な、霊能者の家だった。草子も長子として家を継ぎ、好きな本を読みながら心霊スポットを掃除して回る一端の霊能者であった。

     今から二年前の話だ。草子が病気になった。高齢で体力も落ちていたため、助かる見込みはほぼなかった。彼女は見舞いの品としてかつて自分が作った本を所望して、草太が持って行った。

     それからの草子は病院のベッドの上で、ほとんどの時間を本を読みながら過ごしていた。そのうちにうつらうつらすることが増えていって、本を読める状態でもなくなっていった。ページを繰ることすらできなくなっても、草子はその本を文字通り手放さなかった。

     ある日草太は見舞いに行って愕然とした。草子は本を胸に抱いて横になっていた。よくよく見ると、本には草子の膨大な霊力まで込められていた。何してんだ、と取り上げたら、ふっと草子は意識を失ってしまった。

     草子はそれからまるで本に意識を吸い取られたかのように眠り続け、そのまま亡くなってしまった。

     逆に、本には草子の霊力が残り続けた。葬儀の後、草太が不思議に思って本を開くと、爆発するように風が吹き、青白い光に吹き飛ばされた。
     それから数個黒い影が本から抜け出てしまったところで、我に返った草太は飛びつくようにして本を抱え、力ずくで閉じた。
     もとはただの本だったはずなのに、注意深く観察すると草子の霊力が形をなしたのか内側にいくつもの気配が存在していた。
     草太は、開いても中のモノが飛び出さないように封印を施してから本を開けてみた。
     すると物語の中に虫食いのような空白がちらほらと見受けられたのである。

     それから、紙枝市内で異変が起こり始めた。長髪の人間ばかりを狙う追いはぎならぬ髪はぎが現れたり、山の中で道に迷ったと思えば不思議な家に行きついてその後幸せになるマヨイガ的な家に行った話が噂になったり、市内の大きな公園につむじ風をまとった昔のギリシャ人のような格好をしたランナーが現れるという噂が流れ始めるなど、そんな異変だった。

     もともと霊能の家系だ。草太は依頼を受け、それらのおかしな現象への調査に向かった。老婆もギリシャ人も不審者として扱われていたが、防犯カメラの映像はその瞬間ジャミングでも起こったかのように途切れていて、警察はお手上げ状態。実際に見た人の中にあれは本当に人間なのかと疑問視する者もいた。そこからの依頼だった。
     草太の持つ本から、虫食いのように消えた文字がある。羅生門の老婆を指す文言。遠野物語のマヨイガの一文。そして走れメロスのメロスである。
     草太が行った先で見たのは羅生門の、老婆の描写にぴったりな老婆だった。草太の持つ本では描写がこうなっていた。

    『檜皮色《ひわだいろ》の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような  である』
     見事に「老婆」の部分だけ空白だった。代わりに本の描写を体現したような背格好の老婆が目の前にいて、草太は半ばやけくそに「ああそういうことね」と納得した。
     草子の膨大な霊力と思い入れのせいで、本の中の登場人物や物が形をなしてしまったのだ。それが抜け出してしまった。
     その老婆は、右の手に火をともした松の木片《きぎれ》を持っていた。不幸中の幸いは下人に着物を奪われた姿ではなかったことか。

     さて、草太はそのとき直感的に戻さなければと思った。本に、登場人物を。
     後はその直感のまま、どうにかこうにか羅生門の老婆を本に戻すことに成功した。同じ調子でマヨイガやメロスも戻していった。三つの物語の空白をうめて、もう空白の文字はないと確認した後で改めて封印を施してから草太は本を閉じたのだ。

     それが、いつの間にか本自体が家からなくなっていて、散々方々を探し回った。一縷の望みをかけて図書館の蔵書を検索したら紙枝市立図書館にあることがわかってようやく回収しに行ったのだという。



    「それが行ってみたら三体どころか全部の物語から登場人物や物が抜け出てるなんてな。ほんとどうしてくれるんだお前」

     本について話し終えた草太は、机に片肘をついた。向かいの席に座ったこのはは、頬杖をつく彼の緑がかった鳶色の瞳を見返す。霊能者という肩書を無条件に信じてしまえそうな、ミステリアスな瞳だった。

     草太が冗談を言っているようには見えなかったし、どう考えても人間の枠から外れてしまっている銅を前に幽霊や霊感を否定することも難しい。拭いてきれいにしたとはいえ自分の不注意で血のついた手で触って本を汚してしまった負い目もある。それが原因で本の中のモノが出てしまったというなら、知らなかったとはいえ原因はこのはにあるのだ。

    「どうしてくれると言われても、物語の空白を回収するしかないのでは? 私で協力できるなら、します」

     こうしてこのはは、物語回収のために草太と行動することになったのだった。



     物語を回収するといっても、闇雲に探すのでは効率が悪い。草太が情報を集める間、このはは待機を命じられた。待機と言われても、いつも通りの日常を送るだけだが。

    「こんばんは。このはちゃん」
    「わあ⁉」

     いつも通りの日常に、突然向かっていた机から頭が生えてきて、このはは思わずモグラ叩きのようにその頭を拳骨で潰しにかかった。
     しかし潰そうとした頭はわっと声を上げて机の中に引っ込んで、このはの拳は机を殴っただけになる。一人暮らしのワンルームに、ごんっという音が響いた。

    「危ないじゃないかあ……」

     机の横から抜け出て空中を浮遊するのは、柔らかそうな短髪の、あどけなさの残る顔をした少年だった。

    「危なかったのはこっちよ。もう少しでノートパソコン叩き割るところだったわ」

     やってきたのは色紙山草太の式、銅である。ついさっきちょっと休憩と思ってパソコンを机の奥側に押しやっていなかったら、危うくキーボードがこのはの拳を受けているところだった。神出鬼没にもほどがある。今は外から帰ってきてコートを脱いだだけの格好だからいいが、着替え中や入浴中に来られてはたまらない。

    「いくら幽霊でも、日が落ちてから一人暮らしの女の家にくるのはやめて」
    「幽霊にそれ言っちゃう? 夜の方が活動しやすいんだよ俺は」

     そういう問題ではないのに茶化すように笑ってから、銅は空中で部屋を見回した。

    「ミニマリストってやつ? 物がないね」

     このはの借りているアパートの部屋はワンルームだが、クローゼットが大きいので必要な物はそこにしまってある。部屋にある家具はベッドと机と椅子くらいだ。一人暮らしなのだからそれで足りる。キッチンのほうには一人暮らし用の小さな冷蔵庫とカラーボックスが置いてある。褒められた使い方ではないだろうが冷蔵庫の上に電子レンジとトースターを重ねて載せていて、炊飯器はカラーボックスの上、食器はカラーボックスの中だ。その横に用途別のゴミ箱を並べている。

    「興味を持つのは勝手だけど、勝手に部屋の物色をしたら怒るわ」
    「当たりきついなあ。草太には敬語なのに」
    「一応、あの人は年上だから」

     このはが答えると、銅は不満顔になった。

    「そういうの気にするタイプ? なら俺だって年上だよ。死んでから今年でもう……」

     そう言いながら指を折り始めた銅だったが、途中で数えるのをやめてしまった。このはのせいではないが、なんとなく気まずい沈黙が下りる。

    「うん、とにかくこのはちゃんよりは年上だ!」

     そう言い張る銅はどう見ても十代半ばの少年の姿だ。こんなに若くして亡くなったと思うと気の毒ではあるが。

    「……年上というならなおさらちゃんとして」

    「はいはい」

     調子のいい返事をして、銅はふわふわと部屋を漂う。何か用があってきたのではないかと問うと、彼は思い出したように言った。

    「そうだ。前回の羅生門ババアのスレッドがあるんだよ。俺としては見てもらいたくて」
    「草太さんの指示ではなく?」
    「俺の独断。俺は草太の霊力もらって過ごしてるけど、草太の命令がない限り基本自由だから。言論も含めてね」

     からからと笑いながら、銅は指示を出した。

     彼の指示でパソコンに向かい、この街のことが書き込まれているネット掲示板を開いた。いわゆる○ちゃんねるというやつである。多分出てくるはず、と言って銅が検索ワードに指定したのは、紙枝市や市内の地名と、お化けや幽霊、心霊スポットといったワードだった。

     初めてネット掲示板というものに触れてみたが、このはは驚いた。紙枝市には意外と幽霊の目撃情報や心霊スポットが多かったのである。あそこは出るらしい、とか、どこそこでポルターガイスト現象が起きたとか、中には「心霊スポットに凸してみた」というようなタイトルのスレッドまであった。

     このはが短大を出てこの街に引っ越してから、まだ一年も経っていない。気づかなかっただけで、この街は心霊スポットだらけだったようだ。図書館の書庫で見た幽霊を思い出し、あんなのがたくさんいるのかと身震いする。しかし見た目が怖いだけで、培ってきたキックボクシングが通用すると思えばまだ気楽に考えられた。

    「あった。このスレだよ」

     銅に言われてこのはが開いたのは、『怪奇、紙枝市に毛抜きババア現る⁉』というタイトルのスレッドだった。これは前回、草太が羅生門の老婆を解き放ってしまったころのスレッドだろう。読んでいくと紙枝市に長い髪の女性ばかりを狙う老婆が現れ、数日おきに被害者が出ているとのことだった。被害の内容は、夜道で着物姿の猿のような老婆に襲われて髪を抜かれる。ひどいときは勢い余って頭皮まで持って行かれ流血沙汰になったとの書き込みもあった。誰かが『アグレッシブ羅生門婆さん』と投稿するなり『そうじゃんまるで羅生門の婆さんじゃん』とスレッドが盛り上がっていた。

    「……羅生門の老婆って、死体から髪の毛抜くんじゃ……」
    「今じゃうち捨てられる死体もないからねー」
    「だからって生きてる人間から持ってかないでちょうだい」

     銅と話しつつスレを追うと、『俺には関係ない話だな』『ようハゲ』『ハゲじゃねえし』というギャグのようなやり取りを見つけ、このはは思わず笑ってしまった。スレッドを追っていくと、老婆の目的は何だろうかと考察する者も現れ、最初がどこの町に出て、次はあそこの町に出たから、次に出るのはあの町ではないか、と予測し始める者まで現れる。

     その考察や予測がスレッド内に書き込む様々な人によって練られていき、やがて彼は現れた。

    『話は聞かせてもらった! 考察ありがとうな。逝ってくる!』

     名無しのユーザーとして書き込まれたその言葉が、なぜかこのはの頭の中では草太の声で再生された。『逝ってくるってなんだ』『縁起でもない誤字……誤字だよね?』と、書き込まれた当初のスレッドは困惑する。

    「これ、草太さん?」
    「ああ。スレ民の考察を頼りに次に羅生門の老婆が現れると踏んだ町に行ったんだ。長い人毛のウィッグをかぶってね」

     自分を囮にしたのだろうか。ウィッグであればむしり取られてもダメージはないだろうが、封印に対してのかなりの本気が伺える。
     読み進めていくと、その後スレッドは停滞した。羅生門の老婆が現れなくなったのだ。ちょうど草太が『逝ってくる』と残した辺りから。しかしろくな書き込みもなくなったころ、気になる投稿があった。

    『ありがとう。どうにかなった!』

     その書き込みをした人のIDは『逝ってくる』と書き込んだ人物と同じだった。気づいたスレ民たちの一部も『意味深発言して消えたやつじゃん』『お前は何を知ってるんだ』とざわついた。それに対し、次に草太が投稿したのは動画だった。
    『これが見えたやつにだけ真相を話す』
     その一文とともに載せられていた動画を開いてみて、このはは驚いた。そこに映っていたのは銅だ。

    『やあ。俺が見えるってことは君には霊感があるってこと。もしよければ今から言うアプリを開いて、俺たちに協力してくれない?』

     どこかの夜の森を背景に動画に映った銅が、不特定多数が参加できるアプリの、『赤い尻尾』と名乗る人物が運営するサーバーを口頭で伝えた。

    『この街に住む霊感のある人だけが入れる鍵スレを作りたいんだ。協力待ってるよ』

     そう銅がはらりと手を振ったところで、動画は終わった。スレッドにいた多くの人間には何も見えないし聞こえない、ただの森の映像だっただろう。困惑が広がっていたがそれ以降草太からの書き込みはなく、話も尻すぼみになってそのスレは終了してしまった。

    「こうして俺と草太の集めた人たちが今回も協力してくれる予定だ。このはちゃんも俺たちのグループに入っておいでよ。面白いから」

     銅は愉快そうにこのはを誘《いざな》う。

    「この街はね、多くの霊道が通ってる。その影響か見える人も多いからさ、鍵スレで新しい幽霊の噂には事欠かないよ」

     ふわふわと掴みどころがない顔で言ってから、しかし突然笑みを消した。

    「ただし、これから物語が原因で何が起こっても、スレに入ったら自分が本の封印を解いた張本人だってことは言わないこと。いいね?」

     幽霊の少年の真顔はそれだけで恐ろしくもあり、室温が体感で五度は下がった気さえした。
     これから、物語が原因で傷つく人がいるかもしれない。そんなときに名乗り出てしまったら、集中砲火を浴びることは間違いないだろう。口は禍のもとだ。
     了承してから、このはは言われるままチャットアプリを開いた。鍵スレに入るには運営の草太の許可がいる。メッセージを送ると了承されて、スレッドに招待された。

     霊感のある人間限定のスレッドだけあって、読んでみればどこに出るとかあそこはやばいなどの内容が多かった。最近の投稿もちらほら見られる。

    「こんなに幽霊がいるのに、草太さんは動かないの?」
    「ボランティアで除霊やってるわけじゃないからね。正式な依頼がないとやらないよ。本気でやばいのとか、身内が作った本から抜け出たやつは別だけど」

     ただの目撃情報や、近づかなければ悪さをしないものなどは基本放置だそうだ。このスレにいる霊感がある人なら、そういった場所は避ければいいだけだ。霊感があるがゆえに、彼らは霊の恐ろしさを知っている。一般人のように無用な肝試しや心霊スポット巡りもしない。近寄らないという最低限の自衛はできるのだ。

    「正式な依頼はここから?」
    「いや。紙枝神社か竜鳴寺が窓口になってる。神主でも坊主でもどうにもならないモノが草太に回ってくるのさ」

     紙枝神社は山の上にある大きめの神社で、正月にこのはが詣でた場所だ。竜鳴寺は行ったことはないが、確か街中にあったはずだ。歴史があってそれなりに大きい寺社が除霊の窓口となり、彼らでもどうにもならないモノが草太に回ってくる。それは結構すごいことなのではないだろうか。

    「草太さんて優秀なの?」
    「まあね」

     軽い感じで答える銅は、かいつまんでスレッドの説明をしてくれた。

    「さて、このスレは紙枝市に住む霊感のある人間のためのスレだ。霊の目撃情報や、注意喚起をする。たまに草太が別スレをたてて除霊の実況もする」
    「実況?」
    「音声チャットのほうでね。かなり人気だよ。除霊の過程で草太が真言唱えたりお経や祝詞あげたりすると、その音声を流してるスレ民の部屋の空気まで浄化されるんだって」
    「そんな空気清浄機みたいな」

     呆れながら読んでいると、新しい投稿があった。

    『大変。また羅生門ババアがでたみたい!』

     ネットニュースのURLが貼られて、飛んでみれば少し前、帰宅途中の女性が背後から老婆に襲われて髪をむしり取られたという記事だった。二年前と同じ犯人か、とも書かれている。

     二年前、草太が羅生門の老婆を解き放ってしまったころの話だ。髪の毛をむしり取るというのは立派な暴行事件であるため、当然警察も動いた。しかし犯人を捕まえられないまま迷宮入りしたのだ。そもそも人間ではないし警察に捕まえられるような存在ではないだろうが、世間はまたその老婆が罪を重ねたと見るだろう。

     記事を読み終えてスレに戻ってみると、

    『こいつはやばいな。このスレを覗いている霊感持ちの諸君。特に髪の長いお嬢さんがたは気をつけてくれ。あ、もちろん男性で長髪の人もな』

     赤い狐のイラストのアイコンに、赤い尻尾というハンドルネーム。草太からの書き込みがあった。スレ主の降臨で、スレッドが盛り上がる。

    『赤さーん!』
    『赤さん! 下紙枝町三丁目の幽霊こええよ助けてよ!』
    『赤さん。この前教えてもらった魔除け効きましたありがとうございます』
    『二年前退治したはずじゃなかったのか。なんでまたババアが出てくるんだよ』

     次々と草太に対するコメントが浮かぶ。このはの隣で銅が説明した。

    「ちなみに二年前の件は、紙枝市に封印されていた妖怪毛抜きババアが解き放たれたので草太が退治した、とこのチャンネルでは発表したよ。複数の霊道が通る街だということはここのスレ民たちも理解しているから、実は妖怪が封じられていたと聞いてもほとんどの人が驚かなかった」

     霊障が日常になると感覚もバグるのだろうか。そんなことを考えていると、草太が連続でコメントを返した。

    『このスレで何度も言うが正式な依頼は神社か寺を通してくれ』
    『二年前のは俺の言葉の綾だ。退治じゃなくて封印し直したが正解だ。今その封印が不慮の事故によって解けてしまった。昔々のこの街に封じられた妖怪は一匹や二匹じゃなくてな。実は最近になって年代物の封印がぼろぼろと解け始めている。これから百鬼夜行ばりに妖怪を見かけることになるだろう』

     本の中から物語が抜け出したことをあたかも昔から封じられていた妖怪の封印が現代になって解かれたせい、と草太は誘導する。なんという嘘八百を並べるのか。
     そう呆れても、今回封印を解いてしまったのはこのはだ。何も言えず、ただ文字を追う。スレ民たちからは百鬼夜行という言葉におののいたりする声や、封印ではなくてやっつけられないのか、と当然の疑問が上がった。確かに、本に戻すのではなく各個撃破してしまえば二度と面倒も起きないのではないだろうか。

    『そんなに簡単な話じゃないんだ。ともかく封印が優先。おかしなものを目撃したら教えてくれ。幽霊はともかく、妖怪は放っておけないからな』

     草太からの書き込みはそれだけだった。その後に続くスレ民の疑問には答えてくれない。

    「倒すのではだめなの?」

     隣で一緒にスレを見ていた銅に聞けば、彼は答えた。

    「やったことはあるよ。でもあれは幽霊でも妖怪でもなく物語だからね。本がある限り存在は消えない。倒しても倒してもゾンビのように起き上がってくる。いやー、あれはホラーだったね」
    「幽霊が何言ってるの」

     それはそう、とけらけら笑う銅に、このはは当然の質問をしてみた。

    「元凶である本を燃やしてしまったら?」
    「物語が抜け出ているのに?」
    「その上で各個撃破すればいいじゃない」

     そうすれば帰る場所のない物語の亡霊たちは消えるのではないかと、このはは銅に聞いてみた。彼は「あはっ」と小馬鹿にしたように笑う。

    「このはちゃんひどいなあ。それ、草太のおばあさんの形見を燃やせって言ってる?」
    「  」

     笑顔のくせに底冷えするような眼差しを向けられて、このははぞっとした。あどけなさの残る少年の顔をして、なんて冷たい目をするのか。彼がもう人間ではないことを肌で感じながら、同時に自分も人でなしだと思った。

    「合理的な思考は嫌いじゃないよ。でも、君はまだ人間なんだから、人の感情を忘れるには早いんじゃないかな?」

     ふわふわと自由なようでいて、銅はしっかりと草太の式なのだ。主人を傷つける者を許さない。

    「……ごめんなさい」
    「よし」

     ばつが悪くなって謝れば、彼はにこりと本当の笑顔になった。

     結局その後、羅生門の老婆の目撃情報はなかった。その日のうちにもう一度現れることは過去にもなかったらしく、また明日と言い置いて銅も帰ってしまった。



     一夜明け、このはは長い髪をまとめてクリップで留め、身支度を整えて出勤した。昨日は草太が図書館にきたところからいいことがない。今日は普通の日でありますように。

     そんなことを願いながらカウンターにいたのだが、何の因果か来館者の探している本が第二書庫にあり、再びあの書庫に行くことになってしまった。

    「行きたくないわー」

     誰もいない廊下でぼやいた。しかし仕事は仕事である。たかが一冊の本を書庫に取りに行くだけだ。

     よし、と気合いを入れて書庫のドアを開けた。

     さあ、と、部屋から廊下に向かって冷たい風が吹き込んでくるようだった。日当たりの悪い、この一月にエアコンもついていない部屋。寒いのはわかるが、気温だけではない嫌な寒さを感じてしまうのだ。ドアを開けたまま部屋には入らず、電気がつくかを確かめる。手探りでスイッチを押すと、明かりがともった。メモにある書架と、何段目にあるかと、タイトルを頭に入れてから室内に入る。

    「あった」

     目的の書架で目的の本を手に取った。そのときだ。お約束のように電気が消える。想定の範囲内ではあったため、本を抱えてこのはは脱兎のごとく出口を目指す。すると正面に、あの男が現れた。

     どよどよと黒い靄のような空気をまとった、もはや人ではない男だった。彼は大仏のようなふっくらした顔に眼鏡をかけていて、眉間に丸いイボがある。鼻血が出ていて、顔色は真っ青。彼が着ているのは鼻血のせいか襟元が赤茶色に変色したワイシャツと紺色のチノパンだ。そんな姿の男が道を塞ぐように目の前に現れる。ホラー映画だったら登場人物たちが悲鳴を上げて室内を逃げ回ったりするのだろうが、このはは違った。

    「失礼っ」

     物理攻撃が有効なことはわかっている。駆けだした勢いのまま大きく膝を繰り出した。

    「んご……!」

     このはの膝蹴りをみぞおちにくらった男は濁った声を残し、ドアを突き抜けて消えていった。少しもしないうちに電気が復旧し、書庫が明るくなる。あまり気分のいいものではないが、物理攻撃が有効ならなんとでもなる気がした。

     草太と初めて待ち合わせした喫茶店、ラルゴは、草太の親戚が切り盛りしているらしい。頼んでもいないのにしゃべりだした銅からそんな話を聞きながら、帰宅したこのはは今日もスレッドを見ていた。

     今日も遊びにやって来た銅は、ふわふわと漂いながら気ままに話をしていた。それによると、ラルゴの二階は客席としてはまだ準備中らしい。草太は、長居したいときは二階に腰を落ちつけるそうだ。もちろんただでいさせてもらうわけではなくて、ちゃんと注文をする。昨日も、このはが物語収集の協力に同意したあとで草太はコーヒーを注文していたし、このはは紅茶を注文した。美味しかったし雰囲気もよかったので、草太が関わってなければ行きつけにしてもいいくらいだ。

     そんなことを思いながら銅とスレを見ていたときだ。新しい書き込みがあった。

    『今河口付近、橋で変なおばあさん!』

     ゆず、という名前に、真っ二つに切った柚子のみずみずしい断面が写るアイコンのスレ民が、次に「助けて」と書いて位置情報のスクリーンショットを載せてきた。ネットに個人情報を載せるなんて物騒なと思ったが、今はそれどころではなさそうだ。

    『すぐに行く。銅、見てるなら助手を連れてさっさとこい』

     助手、というのはもしかしなくてもこのはのことだろう。銅は「あいあいさー」と愛嬌たっぷりに敬礼した。

    「ってわけで、一緒に来てもらうよ」

     にこにこと微笑まれ、このはは覚悟を決めたのだった。コートを着て、外へ出る。一月の夜はとても寒いが、それを言っている暇はない。アパートを出て駆け出すこのはに、銅が浮遊しながらついてきた。
    「えっ、車持ってないの?」
     車社会の地方では当たり前の質問だった。このはは前だけを見据えて答える。

    「ほとんど職場と部屋の往復だから」

     幸い、目的地はさほど遠くなかった。タクシーの配車を待ってその場所へ向かうより、走って行ったほうが早い。

    「そっかー。ちなみに草太は先月廃車にしちゃったから持ってないよ」

     どうしてそうなったの、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、このはは夜の街を駆けた。
     銅は隣を浮遊しながら、河口付近に着くまでに教えてくれた。それによると海に面したこの街は潮の流れのせいか、昔はよく水死体が打ち上げられていたらしい。今でも海の事故があると、海流に乗って遺留品が流れ着いたりするそうだ。弔いや安全祈願の意味も込めてか、海の近くには小さな社や寺などもいくつか建っている。

     紙枝市の霊道は、そんな海から山に向かって何本か通っていた。前回出没した物語の住民たちは、その霊道近くで発見されることが多かったようだ。

     それは今回も、であるらしい。昨日は海沿いだったがスレに載せられた位置情報は河口に近い橋の脇だった。

     このははまとめていた髪をほどいて走った。長髪が狙われるというなら、関係ない人を巻き込むよりは自分に食いついてくれたらと思ったのだ。「意外と長いんだね」と銅は驚いて、それから「その心意気やよし!」と親指を立てた。走るこのはの横を、彼はふわふわとついてくる。

     このはがいる位置から見て、スレ民のゆずがいるのは橋を渡りきった先だ。高速道路の橋脚じみた脚に支えられた平坦で面白みのない片側一車線ずつの橋。それに差しかかったとき、横道から長髪の人物が飛び出してきて合流した。
     わっと驚いて声を上げたが、その人はよく見れば黒髪ロングのウィッグをかぶった草太だった。間に銅をはさみ、車道とは柵で分けられたせまい歩道で、二人並んで対岸を目指す。

    「草太お疲れ。そのウィッグまだ持ってたの? 二年前女と間違われてナンパされてから、二度とつけねー、って怒ってたのに」

    「うるせえ!」

     からかう銅に草太が怒声を返した。このはが走りながら横目で見ると、月明かりの中黒いコートと長い髪を翻して駆ける草太は、大柄な美女に見えなくもなかった。もとの顔立ちが整っているからか、角度によっては中性的に見えて性別がどちらだかわからなくなる。とはいえ身長は百七十を超えているだろうし、日本人女性にしては大柄だ。
     草太は、コートの上から斜めがけにした黒いショルダーバッグからあの本を取り出す。それを走りながらこのはに渡してきた。受け取ると、ピンク色の付箋紙が一枚はさまっている。

    「俺がババアを引きつける。その隙に、羅生門のページを開いてババアに叩きつけてくれ」

     どうやらそれが封印方法らしい。もとのページにお帰りいただくということだろう。加速した草太が先に橋を渡りきった。ゆずが送ってきた位置情報の通りに、川岸の遊歩道へと向かう。しかし彼は、そこで足を止めてしまった。
     彼の背中越しに見えたのは、ハサミを握りしめたざんばらな髪の女性だった。

    「ゆず」

     半ば確認、半ば問いかけるような響きで草太が聞いた。
     グレーの分厚いパーカーの下に白っぽいセーターとシャツを重ね着して、寒そうな短いスカートとニーハイをはいた女性は、腰が抜けたように座り込んでいた。近くにはマスコットのついたバッグも落ちている。ハサミを握りしめた手を震わせながら、彼女は大粒の涙をこぼした。

    「あはっ……赤さん遅いよぉ……」

     いびつに口元をゆがめて笑いながら、ゆずは泣き出してしまった。彼女の衣服には不揃いな黒髪が何本もくっついている。

    「盗られる前に切っちゃった」

     握りしめられたハサミが、外灯の光を鈍く反射して光っていた。

     羅生門の老婆は本来、死体から髪の毛を抜いて売りさばこうとするだけの、下人にも簡単に着物を奪われてしまうような矮小な存在だったはずだ。それが生きている人間に飛びかかって強引に髪の毛を奪うようなアグレッシブさを持ってしまったのは、草太の祖母が作って霊力を込めた本の住人だからだろう。

     羅生門ババアが復活したと聞いてから、髪の長いゆずは護身用にハサミを持ち歩くようになったそうだ。いざ対面したら即自分の髪を切り落とせるように。

     長髪というだけでそんな悲壮な覚悟をもって生活しなければならなくなった現状に、このははつらい気持ちになった。

     大学一年生だというゆずは、今日は学校の後にバイトがあって帰宅がいつもより遅くなった。夜道で羅生門の老婆に追いかけられ、追いつかれると思った時点でハサミを使って髪を切った。走りながら闇雲に切ったに近いので、長さはひどく不揃いだった。切った髪を投げ捨てるとそれを老婆が拾っていたが、夢中で次々髪を切っているうちに老婆はいなくなっていたという。安堵して座り込んでいるところにこのはたちが駆けつけてきたのだ。

     そう話したゆずの髪は、このはがハサミを借りて整えた。形振り構わずハサミを入れたような状態で帰すわけにはいかなかったが、このはが彼女にしてやれたのは一番短い髪に合わせて切り揃えることだけだった。

     自分のせいで彼女が髪を失ったことに、このははだいぶ動揺した。知らなかったとは言え、羅生門の老婆を世に解き放ってしまったのは自分なのだ。
     動揺したと同時に、絶対に捕まえると誓った。



     気合いを入れてサンドバッグを殴り、蹴り、キックボクシングのジムでの時間はあっという間に過ぎた。
     今日のこのははシフトが休みだった。年末年始をはさんで久しぶりのジムで汗を流し、ジョギングしながら帰宅した。

    「やあ」

     アパートのドアを開けるなり、少年の幽霊に迎えられる。

    「銅……」

     なぜいるのかは今さら聞かない。彼は神出鬼没なのだ。

    「スレが軽く荒れちゃってさー。『お守りはハサミ』、『いざとなったら散髪』ってね」

     昨日スレ民のゆずが、羅生門の老婆に襲われたことを投稿した。持っていたハサミで自分の髪を切って難を逃れたことも書いていたため、長髪のスレ民の中ではいざとなったら自分もそうしようという強硬とも覚悟ともとれる声が上がっている。間に合わなかった草太への批判もあったが、数は多くなかった。みんな霊感のある人間だ。除霊どころか妖怪の封印なんてものが簡単なわけはないとわかっている。だから批判よりもどうやって自衛するかに話は転がっていった。

     今日はお団子にしていた髪を、このはは解いた。

    「その投稿は見たわ」

     ひら、と、長い髪が腰に届く。

    「シャワー浴びたいから、覗かないで」

    「はいはい」



     なるべく暗くなるな。陰気になっていいことはない。
     それがスレ主である草太とスレ民との約束だ。地方都市の、霊感がある者だけで構成されたスレッド。正直匿名性が守られていることが奇跡なほどだが、誰も通っている学校や素性を明かさないし、聞かないことがマナーになっている。

     知ったところで、悪さをしようという人間はこのスレッドにはいないだろうと草太は踏んでいた。霊感のある人間は苦労も多いし、人を思いやれる人間が多いのだ。だからといってさすがに羅生門の老婆やその他もろもろを解き放ったのが自分たちだとは話せないが。

     暗くなってから、草太はこのはにメッセージを送った。

    「二十時。中州橋の東側を当たってほしい。俺は西にいる」

     昨日ゆずが襲われた時間帯。場所は河口よりは少し内陸に入った辺りだ。このはからはすぐ、「了解」の二文字が届いた。
     普段は草太と銅の二人だけで動くことが多い分、このはという他人がいるのは新鮮だった。彼女を仲間に引き入れたのには、理由がある。

     ふう、と息を吐いて、草太は自分の周囲を見回した。何代も続く霊能の家、色紙山家の一室だ。木造二階建ての、屋敷とも呼べそうな瓦屋根の広い家。

     一階の南側の和室は、亡くなった祖母の部屋だった。角部屋で、窓は部屋の二面にある。部屋にある家具は壁際の本棚と窓際の文机しかない。空っぽな部屋の真ん中に座って、草太は祖母の残したノートを読んでいた。そのノートは壁際にあった本棚から取り出した。本棚にはもちろん本がぎっしりつまっていたが、その一角はノートで埋まっていた。

     それはこれまで色紙山草子が携わってきた除霊やお祓いの記録だった。ただし草太が見ているのは、草子があるお守りを渡した顧客のリストだ。どこの誰にいつあげたのかが書いてある。その中に名前があった。

    「春山このは」

     声に出して呟いた。名字と名前のアンバランスさが面白くて、遺品整理でこのノートを見つけた日から頭の片隅に残っていた名前だった。ノートによるとこのはの住所は東京ということになっていたので、地元の図書館でまったく同じ名前の名札をつけた図書館司書に出会ったときは驚いた。同姓同名の別人だと思ったのに、彼女は本の封印を打ち破ってしまった。たぶん、このノートのお守りを授けられた春山このはで合っているだろう。

     草太はぱたりとノートを閉じた。古びた大学ノートの表紙には、「霊力封じ守り授与者名簿」と書いてあった。

     それは余計なモノが見え過ぎて困っているような人間の、霊的な力を抑えるお守りだ。渡されたときに肌身離さず持つようにと念を押されたはずだが、ノートを見るに彼女がお守りを渡されたのはとても幼いころのようだ。なくしたか、お守りを持つ意味も忘れて手放してしまったのだろう。銅を見たときの反応を鑑みるに、ごく最近また見えるようになったようだ。

     書庫の段階でこのはに手伝ってもらう、と言い放ったのは、さすがに本に集約されていた物語すべてから何かが抜け出ていたら草太と銅だけでは回収が大変だからだ。

     でも、他の理由もあった。目の前の図書館司書が祖母からお守りを受け取った春山このは本人なら、これも何かの縁だと思ったのだ。その縁を手放すには惜しかった。だから、物語回収に巻き込んだのだ。
     
     

     二十時過ぎ、このはは草太に言われた中洲橋の東側に来ていた。少し歩けばスーパーや学校があるが、川の近くは閑静な住宅地だった。橋の向こう側も似たようなものだろう。

     民家は明かりを灯しているが、それぞれの窓のカーテンに阻まれている。最近は高性能な遮光カーテンも多い。民家の明かりはカーテンの四角いシルエットをくっきりと映し出しているが、光自体はその隙間から漏れる程度だ。今夜は曇っていて、等間隔に配置された外灯だけが煌々と地面を照らしている。

     羅生門の老婆は、以前出たときも川を遡るように移動していたそうだ。ゆずのときより内陸に出るだろうと予想して、橋二本分草太は場所を移した。橋をはさんで東にこのは、西に草太の配置である。

     今のこのはは冬の寒さに負けない裏起毛のウインドブレーカーで上下を固めている。足下はスニーカーだ。一月の気温と動きやすさを考えた結果の格好だった。上下地味な紺色だが腕や足の側面にはピンクのラインが入っていて、なんとなく気に入っている。スニーカーの色は白だ。やたらスポーティーな格好をしながら、いつもはまとめている長い髪は後ろに流していた。片耳にはワイヤレスイヤホン。何を話すでもないが、草太と通話を繋ぎっぱなしにしている。たまに異常はないかとお互いに確認し合う以外には、雑談もない。お互い沈黙が苦にならない質のようで、ある意味気が楽だ。

     このはは手にした本、『私の推し文学』に目を落とした。ちょっと分厚い単行本サイズのその本を開いて、外灯の下でめくる。物語の住人が抜け出て空白となった箇所を確認するが、結構な数だ。この本に模写されている物語自体が多いから、抜け出たモノも多い。

     これは気が遠くなりそう、とこのはが頭を抱えたときだ。イヤホン越しに草太が言った。

    『聞こえるか。空から偵察してる銅が老婆を見つけた。俺がそっちに向かう。お前は動くな』

     ということは川の東側に老婆が現れたということだろう。

    「草太さん。老婆はどこに?」

     ふせんの貼られた羅生門のページを開きながら問いかける。草太は走っているのかひどい風の音を立てながら口走った。

    『たぶんそっちに向かう。気をつけろ』

     そう言われて、取りあえず身構えた。今立っているのは住宅街の中の直線道路。見通しはいい。前と後ろ。どこから来るのか。
     そう思っていたのだが、突如、視界の端で道に面した民家の塀から何かがにょきっと生えたような気がした。そんなわけがと思ってよく見てみると、それは塀から頭を覗かせた老婆だった。このはと目が合うなり、それは塀を乗り越えてきた。

    「ちょっ……」

     大声を上げそうになったが、このはは口を閉じてバックステップで退避した。住宅地で目立つのは避けたい。

    「壁をよじ登って出てくるなんて聞いてないですよ」

     小声でイヤホン越しに訴える。草太は悪かったなと言い返した。

    『本を叩きつけられそうか?』

     聞かれて、このはは老婆を観察した。外灯に照らされたその姿はまさに、『檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆』である。羅生門の描写の通り、手には火を灯した木片を持っていた。それにしても、このはの身長くらいある塀を越えてくるとは思わなかった。もしかして『猿のような』という描写が見た目だけでなく身体能力にも影響を与えていないだろうか。

    「確認ですが老婆の動きって……」

     草太に確認しようとした直後、老婆が動いた。

    「っと……!」

     老婆は前のめりの姿勢で駆け出し襲いかかってきた。慌てて本を振りかぶるうちに懐に入られて、老婆は火のついた木片を持った手を本に突き出してくる。

    「熱っ……あ!」

     燃やされる前に手を引っ込めたが、勢い余って手から本がすっぽ抜けてしまった。老婆の俊敏さはもう猿というより妖怪の狒々《ひひ》ではないだろうか。取り落とした本はばさりと地面に落ちて、まずいことに閉じてしまった。

    『俊敏だ。気をつけろ』
    「先に言ってください! のろま!」

     思わず素で返してしまった。草太は風切り音を響かせながら、少しもはずんでいない声で言う。

    『俺を捕まえてそれ言う? 結構足速いほうなんだけど』
    「知りませんよ。てか本落ちました。髪狙われてるので拾う暇ないです!」

     老婆の手を回避しながら逃げ回る。うっかりすると捕まりそうでよそ見をしている暇もない。そのときに、強い風が吹いた。束ねていないこのはの長髪は滅茶苦茶に浮き上がり、そのうちの一房が老婆の手に捕まってしまった。

    「痛っ……」

     強引に引っ張られる。ぷつぷつと髪が抜けたり切れたりする感覚に悲鳴を上げて、それでも歯を食いしばった。引っ張られている髪の根元を掴んで押さえ、逆に引っ張り返した。髪の毛を使った綱引きのような状態に、何だこの状況と言いたくなる。封印よりも放してほしい一心で、このはは髪を押さえるのとは逆の手で拳を作った。

    「放しなさい」

     老婆の猿のような顔面に一発、容赦なくぶち込んだ。しかし、顔をへこませながらも老婆は手を放さなかった。このはの髪にかかる力がパンチ分引っ張られて増しただけだ。

    「くっ……」

     押さえていなかったら頭皮ごと持って行かれていただろう。髪がきしむ。

     そのときだ。

    「待たせたな」

     近くで、青い光が柱のように立ち上った。
     目を向ければ、まるで発光しているかのように青い光をまといながら、長髪の人物が歩いてくる。その隣には、幽霊の少年が浮遊していた。ウィッグをかぶった草太と、式の銅だ。彼らを見た途端、老婆はこのはの髪から手を放していた。綱引き状態だった緊張が急に緩んで、このはは尻餅をついた。老婆が草太に向かっていく。反対に、銅が浮遊してこのはの前に来た。

    「平気? 草太が引きつけてる間に本取って」
     草太を見ながら早口で言う。もう草太は発光していなかった。
    「さっきのは何?」
     本を拾いながら聞くと、銅は答えた。

    「物語ホイホイ」
    「何それ」
    「本の作者であるおばあさんの霊力に似た草太の霊力を外に放出させて、それを餌に物語を釣るんだ。それやってる間は草太の動きが鈍るし、全部の物語に寄ってこられても相手しきれないから、使いどころが難しいけど」

     言われればさっきの青い光とそのときの気配は、本の封印が解けたときの感じと似ていた。そして同時に、あれ、と思う。気配なんてそんなあやふやなもの、自分はいつから感じられるようになったのだろうと。

     しかし今は気にしている場合ではない。ふせんの貼られたページを開き、草太に駆け寄る。彼は鬼ごっこの天才のようにフェイントをかけまくり老婆から逃げ回っていた。

    「ちょ、狙いづらい。動かないでください」
    「無理だが?」

     草太が動くせいで老婆も動く。ものすごく動く。狙いが定まらない。思わず止まってくれと願うも確かに無理な話である。しかし道路に収まらず電柱に飛びついたり塀の上を走り出したりと、老婆を翻弄する草太の動きはもはやパルクールだった。彼を追う老婆を追うのも難しい。空中の銅はにこにこと追いかけっこを見守るだけだ。

     何か方法は。そう思ったとき、このははやっと考えついた。

    「私に向かって走ってください」
    「それはそう」

     納得の声を上げて草太が走る。その顔は笑っていて、この状況を楽しんでいるかのようだった。なんて不謹慎な。

     そう考える間に、草太がこのはの横を通り過ぎた。次にやって来た老婆に向かってこのははふせんのページを開いた本を叩きつける。それはもう思いっきり、至近距離でかます手加減皆無のパイ投げの気分だった。開かれた単行本サイズの本は向かってきた老婆の顔面にぶち当たって、前のめりだったはずの老婆の体が仰向けにひっくり返るほどの衝撃を与える。そんなつもりはなかったのに、このはは老婆を後頭部から地面に沈めてしまった。

     上空で銅がうわ、と声をもらし、草太がヒュウと口笛を吹く。顔の上に本を載せて仰向けに倒れた老婆を前に、やった本人であるこのはもなんだか気の毒になってしまった。

     そのときだ。本が青く光り始めた。書庫で見たのと同じ光で、先ほど草太がまとっていたのとそっくりの光だ。その光は本を顔に載せた老婆を包み込んだ。老婆は慌てて本を振り落とそうともがくが、まるで貼りついたかのように本はその顔面から落ちなかった。そうこうしている間に、光に包まれた老婆は吸い込まれるようにして本の中に入っていってしまった。

     老婆がいなくなったあとの路上には、白い表紙に『私の推し文学』と縦書きで書かれた本が一冊、残るのみだ。

     夜の住宅街での追いかけっこは、羅生門の老婆を封印出来たことで無事に終わった。

    第二章 第二書庫の幽霊



     羅生門の老婆は封印された。またいつ別な物語が動き出すかはわからないが、草太の管理するスレッドには『羅生門ババア封印宣言』が出され、スレ民たちは一つの危機が過ぎ去ったことに安堵した。警察は未だ不審者として老婆を追っているが、二年前と同じく何も出来ずに捜索は終わるだろう。

     封印から数日後。

     このははまた、第二書庫へ来ていた。最近この書庫に入る機会が多くないかと自問しそうになるが、今回は前回この書庫の本を借りた利用者が返却しにきたので、返却処理を終えたその本をこのはが書庫に戻しに行くだけだ。

     たまたまの巡り合わせとはいえ、幽霊のいる部屋に行くのは気が進まない。このはは、小さいころには確かに不思議なモノが見えていた。つい最近まで忘れていたが、つい最近また見えるようになったことで思い出した。

     ずっと見えないままでよかったのに、年が明けてからまた見えるようになってしまった。その第一発目に見たのが紙枝市立図書館第二書庫の幽霊だ。

     見えるようになる前から、不気味な部屋だとは思っていた。初めてその書庫に入ったのは夏だったのに、妙に、そして嫌な感じに涼しかったのだ。北側の、窓が一つしかない部屋だからだと思った。

     でも、初詣のときに古いお守りを手放したせいかまた見えるようになってしまって、このはは書庫で幽霊を見てしまった。驚いて脚立にぶつかって、指を切ったと知らずに草太の探していた本に触れた。まさかそれが本の封印を解く鍵だったとは知らずに。なんなら、自分に霊感や霊力があるなんて思ってもいなかったのに、本は棚から飛び出して、空中で青く光りながら猛烈な速さでページがめくられていった。中から何かが飛び出していって、それらは壁や窓を突き抜けるようにしていなくなってしまった。それから、物語回収が始まったのだ。

     思えば物語が飛び出たのは書庫の幽霊のせいではないか。

     ふう、と息を吐いて、このはは元凶のいる書庫のドアを開けた。
     窓が一つしかないこの部屋は今日も薄暗い。一歩も中に入らないまま壁にある電気のスイッチをつけると、今日は問題なくついた。ここ明かりは霊障でつかなかったり途中で消えたりするので、まず確かめるようになった。ところ狭しと書架が置かれているうちの、目的の棚を最初から見て場所を覚えておく。途中で電気が消えても慌てるものかと心構えもしておく。
     手に握りしめた本をあるべきところに返すために、このはは一歩を踏み出した。

     問題なく目的の棚にたどり着き、本を戻すこと自体には成功した。それでも部屋を出るまでは気は抜かない。気を抜いた瞬間正面に現れる、背後に立たれるなどはホラー映画の鉄板だからだ。

     部屋を出ようとドアを開けたときになって、電気が消えた。このはははじかれたようにドアを全開にして廊下に逃げ出す。幽霊はこの部屋でしか見たことがない。おそらくこの部屋から動けない地縛霊なのだ。廊下という安全圏に逃げてから、部屋の中を確認した。

     薄暗い書庫の中には、やはり男性の霊が立っていた。その男はどよどよと黒い靄のような空気をまとっていて、小太りの体に纏っているのは襟元がぽたぽたと赤茶色に変色したワイシャツと紺色のチノパンだった。大仏のようなふっくらした顔に眼鏡をかけていて、これまた大仏のように眉間に丸いイボがある。しかし鼻血が出ていて、顔色は真っ青だ。

     今回はこのはに近づくでもなく、彼は窓際の書架の下の棚を指さしていた。その顔だけは恨めしそうにこちらを向いている。
     あまり関わりたくなくて、このははそのままドアを閉めて廊下に出たのだった。

     電気が消えたのは幽霊が出てきた霊障のせいであって、スイッチを押したわけではない。それにこのはが気づいたのは、翌日先輩司書に消し忘れを指摘されてからだった。



    「ほんと意味わかんないわ」
     今朝は明け方に降った雨が止みかけたところに日が差して、とてもきれいな虹を見られたのだ。今日は絶対いい日に違いない。そう思って出勤したのに初っぱなから電気の消し忘れを指摘され、出鼻をくじかれたような気分だった。うちも予算があるわけじゃないのよと軽く小言まで言われてしまった。幽霊さえ出なければそんなミスもしなかったのに。

    「なんとかならない?」

     帰宅途中、このはは小声でつぶやいた。なんでこんな思いをしなければならないのかと、隣の相手に愚痴をこぼしているのだ。

    「それは困ったね」

     現在帰宅途中のこのはの隣には、幽霊の少年が浮遊していた。草太から銅と呼ばれている浮遊霊である。見た目の年齢は十五、六歳だろう。死んでからときが止まっているので、本人曰く生きていたらこのはより年上らしい。

     銅は何が気に入ったのかよくこのはのところに来る。短大卒業後縁もゆかりもないこの土地に来たこのはからすれば、急に出来た幽霊の知人というのはだいぶ変わった存在だ。

    「このはちゃんなら、そこらの浮遊霊くらいワンパンで消し去れそうだけど?」

     陽気に告げる銅は、当然のようにこのはについてくる。このはも今さら拒みはしない。変わった知人ではあるけれど、人間関係が希薄なこのはにとっては貴重な話し相手だ。銅の見た目も相まって、このはにとっては弟が出来たような気分である。慣れてしまえばつい気が緩んでしまう相手だった。

    「それがね、すでに殴ったことならあるのよ」
     それでもだめだったと伝えると、銅は驚いた。
    「このはちゃんに殴られて消えないって、それかなりやばい霊だよ」

     そんなに驚かれるとは思わなくて、思わず脚を止めてしまう。時刻は午後八時時過ぎ。遅番の帰り道だ。車移動が主体の地方では、歩いている人間はまばらだった。図書館の最寄りの下紙枝駅近くまで来たところで、このははそっと隣の銅を見た。

    「やばい霊?」
    「自覚ないと思うけど、このはちゃんの霊力は結構強い。俺みたいに誰かと契約してる幽霊じゃない限り、君に殴られたら消えちゃうやつがほとんどだと思う。殴られても出てくるそいつはただ者じゃないよ」

     よほど強い未練があるのだろうと銅は言う。そういうものだろうか。納得して歩き出したとき、近くの花屋から若い女性が出てきた。肩口で切り揃えられた髪がふわりと揺れる。
    「あ……」
     その髪に見覚えがあり過ぎて、このはは思わず声をかけた。
    「ゆず……」
     つぶやくようになってしまった声量でも届いたようで、彼女はこのはの方を向いた。
    「あ、梅さんっ。と、銅くん」
     大袈裟に飛び上がるようにして、ゆずは抱えた花束を揺らしながら駆け寄ってきた。
     ちなみに梅というのは、このはがチャット上で使っているハンドルネームだ。アイコンも梅の花にしている。

    「数日ぶり! 梅さんたち。羅生門ババアの封印ありがとうございました! マジ感謝です!」

     元気に礼を言って頭を下げてくる。彼女が羅生門の老婆に追われて自ら切り落とした黒髪は、本当はもっと長かったはずだ。このはたちが間に合いさえすれば、いいや、このはが本の封印を解かなければ、こうはならなかった。今のゆずの髪は、彼女が老婆から逃げながら自分で切り落としてざんばらになっていたのを、このはが整えた状態である。

    「……感謝されるようなことは、何も」

     後ろめたくてそう返すと、ゆずは謙遜と受け取ったのだろう、またまたー、と笑った。

    「あんなとんでもないのの封印なんてそうそう出来る人いないって。あたしみたいに見えるだけの人間からすれば、赤さんや梅さんはすごい人だよ」

     尊敬の眼差しで見上げられ、このはは居心地が悪かった。ゆずは大学一年生でこのはより年下だし、背も低くて丸いかわいらしい顔をしている。今日の彼女が着ているのはピンクのブラウスに白いカーディガン、その上に分厚いグレーのパーカーを羽織っている。下は丈の短い黒いスカートとニーハイだ。上着と合わせたのかスニーカーの色もグレーだった。もう正月も過ぎたというのに、彼女にはともすれば高校生にも見えそうな初々しさがある。

    「私たちみたいなのを尊敬されても……」

     なんなら数々の物語を解き放ってしまった戦犯である。いたたまれない。でもゆずは言った。

    「いいえ。何度も言うけど見えるだけのこっちからすれば対処できる人は本当にすごいんです。……ほんと、うらやましいな」
    「ゆず?」

     落ち込んだような声に、髪を失ったことを引きずっているのではと気にかかる。だがゆずは、抱えている花束に目を落とした。菊を中心に束ねられたその花束は、仏花だろう。

    「あたしね、見えるの。見えるはずなんです。なのに、パパだけが見えなかった」
     花束を見ながら、ゆずが言った。

    「あたし、自分で言うのもなんだけど反抗期がすごくて、きっと嫌な娘だったと思う。その日もパパにものすごく怒っちゃって……さすがに学校から帰ったら謝ろうって思ったんです。でもその日、パパは……職場で脳梗塞で倒れて、死んじゃった」

     そうゆずは語った。

    「悲しかった。でもあたし見えるから、最悪謝ることくらいはできるかなって思ったの。幽霊にさえなってくれれば。でもパパは、あっさり成仏しちゃったのか、どこにも見えなくてそれっきり」

     抱えられた花束の包装紙が軋む音がする。それはまるでゆずの心の悲鳴のように聞こえた。

    「赤さんくらい強い力があったら見えたのかもしれない。そう思ったりして、自分が情けなくなったり。かと思えばさっさと成仏しちゃったパパを、根性なしって心の中で罵倒しちゃったり……あたし、ほんとにひどい子ですよね」
    「そんなこと……」

     反抗期は誰にでもあるものだ。特に年ごろの少女が父親に厳しくなるのはよくある。

     それでも、喧嘩した後に亡くなられたのでは引きずるのも仕方ない。
     なんと声をかけるべきか迷ううちに、ゆずはそうだ、と言ってスマホを操作した。

    「見える人に会ったらだめ元で聞いてるんだった。これがあたしのパパ。もしこのおじさんの幽霊がさ迷ってるのが見えたら、教えてくれませんか?」

     そう言って差し出された画面を見て、このははえっと声を上げた。

    「この人が?」

     見せられたのは無理矢理引き延ばされたのか粗い写真だった。元は何人かと一緒に写っている写真なのだろう。その内の一人をズームしているらしい。写っていたのはワイシャツ姿の小太りの中年男性がテーブル越しに笑っている姿だった。大仏のようにふっくらした顔に眼鏡をかけていて、眉間にイボが一つある。

     思わず画面に触ると、引き延ばされていた写真が元のサイズに戻る。このははさらに驚いた。テーブル越しにその男性が座っている写真だと思っていたら、そのテーブルは図書館の返却カウンターだった。その中の椅子に座って彼は、このはも知る職員たちと並びカメラに笑顔を向けていたのだ。カウンターの外側には、『紙枝市立図書館二十周年』と書かれた紙が貼られていた。

    「で、俺に何をしろって?」
     ゆずと別れた翌日。このはは草太に会う約束を取りつけた。遅番のあとで喫茶店ラルゴは閉まっている時間のため、待ち合わせて現在いるのは遅くまでやっているファミレスだ。時刻が二十一時近いせいか、家族連れはほとんどいない。近くの席では、くたびれたスーツ姿の男性がコーヒー片手にぼーっとしている。

     テーブル席で向き合った草太は、ウルフカットの髪の毛先をくるくると指に巻きつけて手慰みをしていた。赤いメッシュが入った右側の襟足は、彼の黒髪の中で一等目立つアクセントになっている。

     お互い夕食がまだだったので、このファミレスで食事をすることにした。今は注文の品を待ちながら、ゆずの父親の霊が度々図書館の第二書庫に現れるという話をしたところだった。

    「今日職場で話を聞いてみたら、二年前亡くなった図書館長だとわかったんです」
     小仏寛慈《こぼとけかんじ》。人気のある図書館長だったようだ。館長と肩書きがつこうが、余裕のない図書館では普通にカウンターで貸出業務や返却された本を棚に戻す作業なども行っていた。大らかな人柄で冗談も面白く、誰からも好かれていた。

     二年前の一月。彼は珍しく大量の菓子を持って職場に現れた。
    「娘と喧嘩してしまって」
     仲直りのために、娘の推しのキャラクターカードを引き当ててやろうと思ったのだという。それは菓子のおまけとしてランダムに封入されているカードで、種類もあった。狙ったキャラクターのカードを引き当てるのにいったい何個買ったらいいのかわからず、寛慈は立ち寄ったコンビニの棚にあったものを全部購入したのだという。菓子のほうはお裾分けとして、その日出勤していた職員たちに配られた。

     図書館の仕事は忙しい。カウンターだけではなく裏方も。新しい本が入ればラベリングのシールを貼ったり貸し出しのための登録をしなければならないし、古い本はきれいにラベルを剥がして除籍の処理をしなければならない。重たい本を動かす配置換えも一苦労だ。

     その日寛慈は第二書庫の本の処分をしていた。彼が昼休みになっても休憩室に現れないことを不審に思った職員が第二書庫に確認に行くと、鼻から血を流した小仏が倒れていた。倒れたときに書架に顔をぶつけたのか、窓際の書架、上から二段目の棚に血がついていたらしい。病院に運ばれたが、死亡が確認された。脳梗塞だった。

    「幽霊の身元と死んだ場所に縛られてる地縛霊だってことはわかった。で、俺に何をしろと?」

     このはが話している間に、注文した料理が運ばれてきた。左手で髪を耳にかけながら、草太はきれいに巻いたミートソーススパゲッティを頬張る。巻き方がうまいのか一口が大きいのか、その唇にソースはついていなかった。
     このはは全然話を聞く気を見せない草太に苛立って、自分の前に運ばれてきたステーキをフォークでどすっと突き刺した。

    「だから、羅生門の老婆のせいで髪を切ったゆずのために、彼女のお父さんを家に帰してあげられないかって話です」
    「お、おう」

     決して声を荒げたわけではないが本気が伝わったらしく、草太は静かにフォークを置いた。
    「わかった。話はわかった」
     落ち着けとでも言うように両手を上げて、草太はうなずいた。

    「話はわかったけど一つ問題がある」

    「この後に及んで正式な依頼を出せとか言いませんよね」

     草太に除霊関係の依頼をするには神社や寺を通さねばならないという。しかし今回のは物語のせいで傷ついてしまった子へ自分たちができるせめてもの罪滅ぼしだ。依頼だの、ましてや依頼料だのという話ではないはずだ。
     そう主張するこのはに、草太は落ち着いてくれと言った。

    「現実的な問題だ。俺は図書館から出禁をくらっている」

    「あ」

     そうだった。初めてこのはが草太と会った日、彼はこのはが本の封印を解いてしまったのを察知して、関係者以外立ち入り禁止の書庫に強引にやって来てしまったのだ。
     後で先輩司書に聞いた話だが、草太はカウンターを飛び越え制止する職員を振り切り、ゴミ箱を蹴飛ばして『STAFF ONLY』のドアを開け放って通路を爆走してきたというのだ。傍目からは相当な「やばい人」に見えただろう。出禁は仕方ないのかもしれない。

    「というわけで俺は行けない」

     きっぱりと言って、草太は食事を再開する。
    「そんな……」
     唯一の頼りを失った気分になっていると、草太は空中を見上げた。ファミレスの天井付近を、銅が浮遊している。

    「銅。行ってくれるか」

     周りの客に気づかれない程度の声で呼ばれても、銅は返事をして下りてきた。

    「いいよー。強い幽霊みたいだから、荒事になった場合を考えて多めに霊力くれる?」

     ふわりと草太の左隣に腰を下ろして、銅は微笑んだ。草太は右手に持ったフォークでスパゲッティをくるくる巻きつけながら、左手をテーブルの上に上を向けて無防備に置く。その手に、銅が右手を重ねた。重なった手から、青い光が生じて銅を包んだ。

    「くうぅっ……草太の霊力、ほんと良いよっ。みなぎるーっ」

     右手で草太の手を握りしめながら、銅はばたばたと両足と左手を動かしている。このはは正直引いたが、草太は表情一つ変えず食事を続けている。
     青い光が収まると、銅は草太に寄りかかった。

    「酔っちゃったー」
    「めんどくさ」

     草太は銅の手を払った。それでも寄りかからせたまま、銅の好きにさせている。二十四歳だという草太と少年の姿の銅が並ぶと、体格差が結構あった。身長もだが、草太は細身だけれど大人の男の厚みがあり、銅には少年特有の華奢さがある。
     銅が少年の姿だと思い知るたびに、どうしてこんなに若くして亡くなったのか嫌でも気になってしまう。さすがにそれを問う勇気はないけれど。

     その後は銅を交えて雑談をして、女子の反抗期についての話になった。年ごろの女子に父親が嫌われるパターンは世間的にもよくあるが、なぜなんだろうと銅が不思議がったのだ。その上で、このはの反抗期はどうだったのかという話になった。

    「私の反抗期……?」

     過去を振り返ろうとして、思わず、食べかけのステーキにフォークをドッと突き刺した。草太と銅がぎょっとする。触れてはいけない話だと思ったのか、銅が「あー、えーっとぉ」と目を泳がせて別な話題を探した。

    「そういえば時間。図書館での待ち合わせ時間決めよう。まだ話してなかったよね」

     そう言われて、このはは大人しくステーキを口に運んだ。それを飲み込んでから、ようやく答える。

    「明日私は休みなの。だから待ち合わせは明後日の午後一時。お昼休みを使って書庫に行くわ」

    「おっけー。ならそれくらいに図書館行くね」

     その後は特に何事もなく当たり障りのない話をして、このはは草太たちと別れた。



     反抗期、というのは、だいたい中学生から高校生の間に来るものだと思う。
     このはの場合、その時分は大層荒れに荒れていた。親にとってはさぞ面倒くさい娘だったはずだ。
     あの日までは、特にこれといった才能もなく、東京の普通の中学校に通う平凡な子供だった。

     中二の夏休み、すべてが変わってしまったのだ。

     友達と時間を忘れて遊んで、気がついたら午後八時だった。いつまで遊んでいるのという親からの電話で慌てていた帰り道。途中まで一緒だった友達と別れた直後に、このはは不審者に襲われた。

     住宅地の中にぽっかりと、闇のような穴が空いていた。丸い外灯が一つだけ砂場近くに建てられていて、それはまるで獲物を誘う提灯アンコウの光に見えた。その場所はなんのことはない、夜の利用者を想定していないただの児童公園だ。背後から不審な男に抱きつかれたこのはは、そこに連れ込まれそうになった。

     怖くて声が出なかった。体が動かなかった。バグった頭が、自分は砂場に隠れた提灯アンコウに食べられてしまうんじゃないかと妙な想像をしてしまった。

     固まっている間に、自分を公園に連れ込もうとする男の手が体を這った。

     考えるより先に、このははその男の顎に向かって拳を振り上げていた。無我夢中で放ったアッパーは、小さいころに憧れていた女児向けアニメの主人公の技だった。小柄な主人公が大きな怪物に繰り出す必殺の一撃だ。

     人生、何が役に立つかわからない。幼いころ憧れて散々真似したその一撃を体が覚えていたおかげで、このはは不審者の手から逃れることができた。
     男がひるんだ隙に全力で公園から逃げ出して、このはは家へと逃げ帰った。慌ただしく帰宅した娘を両親は心配してくれたが、布団をかぶったこのはは何でもないを繰り返して一切の質問に答えなかった。

     布団にもぐっても、このはは寝られなかった。最初のうちはただただベッドの中で震えていた。怖かった。殺されるかと思った。でもそのうちに、肌を這った手の感触を思い出して、ある意味殺されるよりひどいことをされたかもしれないという考えに行きついた。

     布団の後は風呂場にこもった。触られた感触が気持ち悪くて、まるで自分の体ではないようで、爪を立てるようにして体を洗った。

     それから、着ていた服をゴミ袋に詰めた。おかしな男に抱きつかれた服なんて、たとえ洗濯しても着る気にはなれなかったのだ。それによく見たら、服の右袖には血がついていた。このははどこも怪我などしていないから、おそらくあの男の血だと思う。殴り上げたときに、舌か唇でも噛んだのだろう。その血がついてしまったのだ。よけい気味が悪くて、手元に置いておくわけにはいかなかった。

     部屋に戻っても、結局このはは寝られなかった。

     怖くて、恥ずかしくて、おぞましくて、誰にも言うことができなかった。

     それからしばらくは、小さいころから持っているお守りを握りしめて、大丈夫と唱えながら深呼吸するのが日課になっていた。いつから持っているのかわからない、でもずっと持っているようにと母親から言われているお守りだ。不審者に抱きつかれた日も、もちろん持っていた。効かないじゃないか、と思ったけれど、今生きているのはこれのおかげかもしれないとも思う。心のよりどころが必要だった。

     大丈夫。私は大丈夫。

     あの夜のことを思い出す度にお守りを握りしめ、このはは毎日のようにそうつぶやいていた。
     しばらくして、夏休み中だというのに緊急の保護者会と、次いで全校集会が行われた。内容は、女子生徒が不審者に襲われたというものだった。教師は頑張って言葉を濁していたが要するに性的な暴行を受けたという話で、犯人はまだ捕まっていない。女子生徒は特に気をつけてほしいということだった。

     誰とは言われなかったし急な夏休み中の集会に集まれない生徒も多い。一年から三年までいない女子生徒はちらほらいて、体育館はざわついた。

     そのざわめきの中で、このはは震えが止まらなかった。

     誰が被害に遭ったのかはわからない。でも、犯人は『あいつ』だとこのはの直感が告げていた。暗かったし夢中だったから顔はわからなかったけれど、他に思い当たらなかった。

     このはは、怖くて、恥ずかしくて、おぞましくて、あの夜のことは誰にも話せていなかった。不審者とはいえ人を思い切り殴って怪我をさせた負い目もある。前にネットで、痴漢に遭った女性がその男を殴ったら、過剰防衛というやつで警察から叱られた、という投稿を見たことがあった。それを覚えていたから、警察沙汰になった上に自分も叱られたら嫌だと思って言えなかったのもある。

     黙ってやり過ごそう。忘れてしまおう。自分さえ黙っていれば、このまま何もなかったことにできる。これまで通りの普通の暮らしが送れる。

     そう、思っていたのに。

       なんてことだろうと、思った。

     夏休みが明けたのに、親友が登校してこなかった。あの日、時間を忘れて遊んだ友達だ。小学校から一緒の幼馴染。どうしたのとメッセージを送っても返事が来ない。不登校になるような原因も思い浮かばない。でも。そういえば彼女は、全校集会にも来ていなかった。

     嘘だ。嘘だ。嘘だ。

     まさかそんなことと思うのに、嫌な予感は消えてくれない。このはと同じことに思い当たったのか、あの子が被害に遭った女子生徒ではないかと噂する声も大きくなり始めた。噂好きな女子が部活の先輩後輩からよその学年の様子も聞いてきて、夏休みが明けても特に思い当たることもないのに欠席している女子生徒を調べ上げてきたのだ。よけいなお世話だった。被害をものともせず普通に登校している女子生徒がいる可能性もあるではないか。まだ、被害者があの子と決まったわけではない。

     九月の半ばになって、犯人が捕まった。

     ニュースで警察の車に乗せられる男の顔が流れたとき、このはは愕然とした。あの日は暗くて顔がほぼ見えなかったけれど、白日の下でカメラのフラッシュにも照らされたその顔は、確かに『あいつ』だと思ったのだ。それに、その下唇の左側にひどい傷跡があった。このはが殴り上げて噛んだ傷ではないかと思った。
     その事件に関するニュースを追うこと数日で、それらしき情報が出てきた。犯人は以前にも少女に暴行を働こうとしたところ、殴られて逃げられたと供述しているというのだ。もう間違いなかった。
     このはが殴って逃げた男が、次に誰かを手にかけたのだ。翌日にはそれを裏づけるニュースも流れた。

     男は調べに対して、以前殴られてしくじったときの事件がニュースにならないので通報されていないのだと思い、ほとぼりが冷めたころを見計らって犯行に及んだ、と供述しているという。
     このははそのネット記事を見て、居ても立ってもいられず親友に電話をかけた。西日が差し込む自分の部屋から、そわそわと視線だけで親友の家の方角を見る。

     せめて確かめたかった。あなたじゃないよねと聞きたかった。
     何度目かのコール音のあと、電話は通じた。

    「明美、大丈夫⁉ 怪我してない? 平気?」

     今思えば、もっとましな言葉は出なかったのかと過去の自分を殴りたくなる。
     でも当時のこのははいっぱいいっぱいで、自分のことしか考えられない追い詰められた子供だったのだ。
     明美は少しの沈黙の後で言った。

    『……大丈夫なわけなくない?』

     ひどく投げやりで、ぶっきらぼうな言葉だった。その返答で、嫌な予感は加速する。
    『そんなこと聞くってことはさ、わかってるんでしょう?』
     全身から血の気が引くようだった。
    『わかってて、よく『大丈夫』なんて聞けたよね』

     責める口調で言われて、このはの目からは大粒の涙が零れた。ほとんど間違いなかったのに、自分はなんて言葉を並べたのだろう。大丈夫だの、平気だの。そんなの、自分が言ってほしいだけの言葉じゃないか。

    『何? 泣いてんの? 泣きたいのはこっちだよ!』

     怒鳴る明美の声の方が、とっくに涙声になっていた。

    『あたしがっ……どんなひどいこと、されたかっ……このはにあたしの気持ちがわかる⁉』

     泣きながら、しゃくりあげながら言われて、このはも泣きながら謝った。

    「ごめん、本当にっ……ごめん」

     どれだけ泣いて謝っても、許されないことをしたと思った。
     自分一人黙っていれば、いつも通りの生活が送れる。
     そんな甘いことを考えて、このはは沈黙を選んだ。
     黙っていたせいで、通報しなかったせいで、犯人が犯行を繰り返した。その手が、友達を傷つけたのだ。

    「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」

    『だから、泣きたいのはこっちだって言ってるでしょ!』

     かつてないくらいに怒鳴られた。明美は情緒不安定らしい。生きてる意味が分からないだの、死にたいだの、泣きながら投げやりな言葉をぶつけてくる。
     その明美に自分が通報を怠ったことを言う勇気もなくて、このはは聞き役に回るしかなかった。電話の向こうの明美は錯乱したかのように喚き散らして暴れているような物音を立てていた。そのうちに『何してるの』という明美の母親の声が聞こえて、それを最後に電話は切れてしまった。

     一週間後だった。明美が死んだ。

     死因は自殺で、真夜中に風呂場で手首を切っていたらしい。翌日発見されたときには、もう遅かったそうだ。

     明美は元は明るい性格の子だった。学校でまさかと噂されていてもそれは悪い意味ではなく心配から来るもので、みんなずっと空っぽの席を見ては彼女がいつか登校してくるのを待っていた。クラスの女子たちはほとんどが泣き崩れた。男子も悲しそうだった。
     このはも散々に泣いた。あのとき自分がもっと強かったら、あの男を殴って逃げるんじゃなくて取り押さえるくらいの強さがあったなら、きっと全部が違っていたはずだと思った。
     自分が強ければ、明美が襲われなくてすんだ。明美が亡くなることもなかった。明美の家族やクラスのみんなを、泣かせずにすんだ。悲しませずにすんだ。
     今自分がこんなに悲しいのは、悔しいのは、あのときの自分が弱かったからだ。
     事なかれ主義と言ってしまえばそれまでだが、基本このはは争いを好まなかった。自分がちょっと我慢してそれで周りが丸く収まるならそれでいいと、思っていたのだ。
     でもそれは、嫌われたくないから、今の環境に波風を立てる勇気がないからだ。

     その結果、明美は死んだ。

     被害者の自殺が知れ渡り、世間は大いに騒ぎ立てた。ニュースのコメンテーターやネット民たちは明美に多大な同情をし、そして「通報を怠った少女」についても言及した。
    『どうして通報しなかったのか』
    『次の被害を防げたかもしれないのに』
    『通報さえしてくれれば』
    『次の被害が出ることはなかった』
    『被害がなければその子が自殺することもなかったのに』
     このはは大いに傷ついて、親友の死は自分のせいだと泣きじゃくった。

     沈黙は、悪だ。

     ドスッ、と音を立ててサンドバッグを殴った。泣いて泣いてそれからこのはは、親にキックボクシングのジムに通わせてほしいと言ったのだ。
     何かしていないと気がすまなかった。強くなりたい。そう願った。あのときの自分には強さが足りなかった。

     鬼気迫る勢いで練習に励むこのはは、気づけばジムでも浮いていた。

     それどころか、学校でも浮き始めた。黙るのをやめたからだ。

     ちょっとでもおかしいと思ったことは、我慢せずに言うようになった。自分さえ我慢すればという我慢をやめたのだ。今までこれくらい大丈夫だよねというノリでされていたちょっとした嫌なことを、きっぱり嫌と言ってやめてもらった。給食を分けるのが下手でいつも椀の縁にごはん粒をつけてくる男子に、その分け方は改めたほうがいいとはっきり意見した。それまでこのはと話したこともない男子は突然の指摘に面食らっていた。

     思うに、自分がされて嫌なことは、他人もだいたい嫌だと思う。それを我慢してしまったら、このはが沈黙してしまったせいで次の人も嫌な目に遭うかもしれない。

     沈黙は悪だ。次の人のためにならない。黙り込んだ自分の次の人がまた、もっと嫌な思いをするかもしれないのだ。

     黙るのをやめたこのはは、いつしか細かいことにもマジレスする面倒なやつという扱いになって、孤立した。
     中学生なんて、まだ子供だ。ごはんの分けかた一つで話したこともない女子から指摘されたら、面白くないだろう。それを見た周りも、お母さんみたい、とこのはを遠巻きにしたのだ。ちょうど反抗期の時分だ。母親の小言を思い出させたのだろう。家事を覚えたての子供に、やる気を認めるより先に完成度を要求する小言が飛んできて、子供がやる気をなくすあれだ。そんな指摘を同級生にまでされてはたまらない。

     それでもこのはは黙るのをやめた。スマホを操作しながら自転車に乗っていた子を先生に突き出すということもした。それこそ黙っていたら次は誰かを傷つける事故になりかねないからだ。

     それは世間的には正しいことだが、クラスの中では見て見ぬふりが暗黙のルールだったので、このはの行いはとんだルール違反だった。
     村八分のようないじめにあったが当然黙っているわけもなく、自分に対する暴言は全部録音して担任に提出したし、靴に画鋲が入っていたときはこれ幸いと警察に持って行った。
     担任から逆問題児という不名誉な称号をもらったものの、中学は無事に卒業できた。
     しかし高校でも、もめごとは絶えなかった。我慢するのをやめて、当たり前のことを指摘しているだけなのに。



     高校二年生のある日、通っていたキックボクシングのジムに、新しい男性のインストラクターがやって来た。

     当時、隣町で女性が殺される事件があった。見ず知らずの男に「好みのタイプだから」という勝手な理由で後をつけられ、自宅近くで殺されたのだ。さらに最近は別な県で、「誰でもよかった」という理由で老婆が殺害される事件もあった。年代は異なっていても、被害者は女性ばかりだ。犯罪に流行りでもあるのかと疑いたくなるほど、近頃は女性が害される事件が目立ってニュースになっていた。しかも通り魔的に、理由らしい理由なく見ず知らずの男に襲われている。自衛のためにキックボクシングを習う人が急激に増えたのだ。それによるインストラクター増員である。キックボクシングだけではない。空手や護身術の道場も生徒が増えたと聞いていた。

     新しく来たインストラクターの斎藤は女子の入門者が増えたジム内を見回して、悲しそうに言った。

    「なんでだろうねえ。こんなかわいい子たちが悲壮な危機感を持って、あるいは親御さんがそういう気持ちでここに通わせるなんて」

     当時こぞって入門してきたのは多くが少女から若い女性の層だった。彼女たちは、確かに悲壮な危機感を漂わせていた。誰にも守ってもらえないなら、自分のことは自分が守るしかないのだ。平和なはずのこの国で、なんでこんな思いをしなければならないのか。ほとんどの新規入門者が、不安と怒りの混じった不満の表情を浮かべていた。
     このはには、今さらの感情だ。平和ボケしている暇はない。

    「お茶だのお花だのに、現を抜かせる世の中になるといいのにね」

     斎藤は心からそう思っているような声で言って、それからてきぱきと指導してくれた。初めてミット打ちをしたときは、彼はこのはの強さに一瞬ひるんだようだった。

    「春山さん」

     練習が終わり、汗を拭って帰り支度をしていると、斎藤が声をかけてきた。彼は筋肉質ではあるが体に丸みがあって、どことなくしゃべり方が女性っぽい人だった。着ているのもピンクのTシャツに黒いハーフパンツで、髪は茶髪だがこざっぱりしている。髭はまったくないし肌はつやつやで、偏見かもしれないがぱっと見オネエのようだった。
     なんですかとこのはが聞くと、斎藤は少しもじもじした後、思い切ったように口を開いた。

    「あなた、誰かに親でも殺されたの?」

     直球だな、と思った。
    「どうしてですか」
    「あなたがミットに打ち込んできたときの目。やばかったわよ。殺す気で打ってきてるって思った」

    「……友達なら、殺されました」

     どうしてそんなことを言ったのだろうか。ぽろりと、言葉が転がり落ちた。斎藤は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
     ジムとはいうが、ここはリングがあるわけではなくて、トレーニング用のフロアマットが敷かれただけの四角い部屋だ。見回しても残っているのはこのはと斎藤だけだった。
     会ったばかりの他人という距離感が口を滑らせたのだと思う。話してしまったら、止まらなかった。たぶんずっと、明美のことを誰かに打ち明けたかったのかもしれない。正しいことを言っているのに誰からも遠巻きにされて、心がすり減って限界だったのかもしれない。

    「私が弱かったから、友達が死んだんです」

     気がついたら泣いていた。明美のことを思い出して泣くのは、久しぶりだった。
     斎藤は驚きはしたものの、濁流のように吐き出されるこのはの話を聞いてくれた。仲のいい友達がいたこと、その子と別れた帰り道で不審者に襲われて、殴って逃げたこと。それを誰にも言えずにいるうちに、同じ男にその友達が襲われてしまって、情緒不安定になった彼女が自ら命を絶ったこと。
     さっそく懺悔といっていい独白も、斎藤は「そう。それは辛かったね」と相槌を打って聞いてくれた。
     責めることなくそう言ってくれたことが嬉しくて、このははぼろぼろ泣いた。

    「私が強かったら、そいつを取り押さえることができていたら、あんなことには……」
    「そう。それでキックボクシングを始めたの」
     このははタオルで顔を押さえながらうなずいた。
    「それに、黙ってちゃだめだったんだ……言わなきゃいけないことをちゃんと言えなかったからっ……」
    「うん。うん……」

     斎藤は否定せずに聞いてくれた。だからこのはは、全部を吐き出した。黙ってちゃだめだったことは、全部言うようにしたと。嫌なことがあったときは全部、次の人が同じ思いをしないように伝えることにしたのだと、言った。

    「でも……最近何もかもうまくいかなくて……」
    「そう。それは困ったわね」

     思った通り女性のようなしゃべり方で、斎藤は相槌を打ちながら聞いてくれた。
     そんな大人はこれまでいなかった。些細なことでクラスメイトを注意したり、校則違反を教師に告げ口したりしていたこのはは、大人からはもう少し寛容になれないのかと諭されることが多かったからだ。両親も、ある意味問題児となったこのはのことを担任から聞いたり、このはが近所の人ともトラブルになったと知るなり、もう少し協調性を持ちなさい、赤の他人なら放っておきなさいと口うるさく言ってきた。規則を守らないやつらと同調するつもりはないし、燃えるゴミの中に空き缶を入れているやつに注意して何が悪いのだと言い返して、それからは親ともうまくいっていない。
     正しいことをしているのに、なんで自分が𠮟られるのだろう。理不尽を感じて憤って、それをキックボクシングで発散している。

    「そっか……」
     話を聞き終えた斎藤は、そうつぶやいた。
    「水清ければ不魚住《うおすまず》ってやつね。あまりにも正しさを追及されると、居心地が悪いのよ」
    「正しいことの何が悪いんです」
     思わず反抗的に聞くと、斎藤は言った。
    「悪いわよ。だってあなたが傷ついてるじゃない」
     言葉に詰まった。

    「正しいことしていじめられて、今は一人ぼっちになって。きっとすごく傷ついたでしょ。それで何か得したことあるの?」
    「と、得はしてないけど、徳は積んでます」
    「あらま。頓智の効いた返しね」

     思わぬことを言われたとばかりに口を覆って驚いたようにしながら、斎藤は目を細めた。

    「あのね、あなたの生き方は立派だよ。自分が嫌な思いをしたら、次の人も同じ思いをしないように受け流すんじゃなくて指摘するっていう心がけ。でも心がけが立派なだけで、はたから見たらクレーマーと変わらないからね」
    「なっ……」

     失礼な、と言いかけたが、それより先にびしっと指を刺された。

    「心は他人から見えない。人から見えるのは行いだけだ」
     それは、そうなのだと思う。でもこのはは、クレーマーなどではない。
    「あのさ、人にはたまたまってあるでしょう?」

     手を下ろして、斎藤が言った。

    「その日に限って寝坊したとか、ハンカチ持ってくるの忘れたとか。そのときに限ってやらかしたとか。そんな感じのたまたまの失敗をガチで指摘されたら、いつもはちゃんとしてる人ほど傷つくじゃない。あるいは本人も自覚してない発達障害とかがあって、ちゃんとしたくてもできない人もいるかもしれない。あなたがこれまで注意してきた人の中に、そういう人がいなかった保障ある? 人を深く傷つけなかった自信ある?」

    「……」

     そう言われてしまうと、いなかったとは言い切れない。自信なんてない。

     思い出したのは給食の分け方が下手くそで、いつも食器の縁にごはん粒をつけてきていた中学のクラスメイトだ。彼は忘れ物も多くて、宿題もよく忘れていて、勉強もあまりできない男子だった。落ち着きもなくて、クラスの男子と話している様子を見ても脈絡のないことをしゃべっているようにも聞こえた。ただの個性的な怠け者だと思っていたけれど、そういえばその言動は最近見つけた発達障害の動画で並べられていた特徴に、当てはまっていないだろうか。

     斎藤からの指摘で思い出したあのクラスメイトと発達障害が急に結びついて、胸が苦しくなった。養護学校ではない普通の学校の教室に、そういった障害のある子がいるとは考えたこともなかった。でも、最近見た動画によると、発達障害は本人も周りも気づかないことも多いという。彼に限らず、このはが今まで正しさを振りかざして理詰めで注意してきた人の中に、そういった人がいなかった保障はどこにもないのだ。もちろん、たまたまの失敗を指摘して、深く傷つけなかった自信もない。

    「私は、今まで何を……」

     明美の件があってから、沈黙は悪だと思ってきた。間違っていると思ったら、相手が誰だろうが次の人のために注意すべきだと思っていた。でもそれは、間違っていたのだろうか。
     信念が揺らぐようだった。地面が揺れているような心地がして、このはは膝をついた。敷き詰められたトレーニングマットの弾力を感じながら、タオルで顔を覆う。泣いているこのはの前に、斎藤が片膝をついて目線を合わせてきた。

    「思うに、友達の死に責任を感じて、あなたはいばらの道を選んだんだと思う」

     優しく、斎藤はこのはの肩に手を置いた。

    「どんな些細なことにも声を上げるっていうのは、立派であると同時に疲れることだし、人を傷つける可能性もある行いで、何より孤立して自分も傷つくでしょう。その道をあえて選んだのは、亡くなった子への贖罪の気持ちだったんじゃないの?」

     それはそうだ。明美は、自分が黙っていたせいであんなことになってしまった。だから、声を上げ続けた。

    「これまでの指摘のすべてが間違っているとは言わない。でもどうでもいいことで他人も自分も傷つくようなやり方は、誰も幸せにならないわ」

     一所懸命、斎藤は言葉を尽くしてくれた。

    「会ったばかりだけどね、執念だろうとキックボクシングを続けてくれてる生徒さんだもの。あたしは春山さんには幸せでいてほしいよ」

     肩に載せられた斎藤の手から、思いの丈が伝わって来るようだった。この人は本気でそう思っているんだなとわかる。

    「何かを伝えるなら伝え方ってものがあるし、自分じゃなくて適任の誰かを通してやんわり注意してもらう方法もあるでしょう。真っ向からぶつかってお互い傷つくようなやり方は、もうやめましょうよ」
     やわらかい声で、斎藤は言った。

    「春山さん。本を読みなさい。まずは人づき合いの本がいい。それから、エッセーや小説。世の中には色んな立場や年齢や、考えの人がいるんだと学びなさい。そうすればきっと、もっと生きやすくなるから」

     そう言われて、このはは泣きながら問いかけた。
    「生きやすく……なっていいんですか?」
     自分は明美を死なせる原因を作ってしまったのに。
    「私なんかが、幸せになっていいんですか?」
     ぼろぼろと涙をこぼしての問いかけに、斎藤は笑って答えてくれた。

    「それはあなたが決めること。でもあたしは、あなたの幸せを願っているわ」

     優しい声で言われて、このははとうとう声を上げて泣いたのだった。



     それから、このはは本を読んだ。言われた通りたくさんの本を読んで、世の中には色々な立場や年齢や考え方の人がいるのだと学んだ。
     学んでいくうちに本が好きになって、図書室や図書館に居心地のよさを覚えるようになった。そして目指すようになったのが、図書館司書だった。
     その資格が取れる短大に進んで、それから司書を募集していた紙枝市にやって来た。

     司書になりたいという気持ちだけで縁もゆかりもない土地に来たのだが、まさか本から飛び出した物語を追いかけるような体験をすることになるとは夢にも思っていなかった。

     まさに夢のようではあるのだが、悪い意味でだろう。無関係の女子大生を巻き込んでしまったことに、どうしようもない罪悪感を覚える。
     そのゆずが気にしている父親の霊が図書館にいるなら、せめて会わせてやりたいと、このはは思った。
     このはの場合、反抗期はすさまじかった。正しいことばかりを突き詰めて、協調性などないに等しかった。斎藤に出会うまで、中二から高二までの間親にも猛烈に反発した記憶がある。
     そんなこのはでも、短大に行くために実家を離れるころには和解出来ていたのだ。最終的にこのはの気のすむまで、両親はそっとしておいてくれた。そこに、落ち着きを取り戻したこのはから歩み寄った。照れくさくて、ごめんとも伝えられなかったけれど。少しずつ元の位置に戻ってきた娘を、両親はあたたかく迎えてくれたし送り出してくれた。
     こんな自分でも、反抗期の後には両親と元通りの家族に戻れたのだ。だからこそ、すれ違ったまま父親が死んでしまったゆずのことは気の毒でならない。

     約束の日、一時をちょっと過ぎたころに銅が図書館にやってきた。

    「ごめーん待ったー?」

     彼にわかりやすいよう貸出カウンターに座っていたこのははため息を飲み込んで、近くの先輩司書に「お昼休憩入ります」と伝えて席を立った。奥にある『STAFF ONLY』の扉を開けて中に入る。通路の左右にあるロッカールームや休憩室をすっ飛ばして、一番奥の部屋を目指した。そこが第二書庫だ。

    「わー。廊下まで霊気びんびん来てるっ」

     半分面白がるように銅が騒ぎ立てる。

    「銅は、強いの?」

     第二書庫の扉の前まで来て、このはは聞いた。どうやらこの書庫の霊は強いらしいのだ。銅で対処できるのだろうか。隣に浮遊しながら並んだ銅は、このはの疑問にまーねと笑った。

    「普通の幽霊よりは強いよ。まあいざとなったらここの幽霊の襟首引っ掴んで飛び降りて、図書館の外で待機してる草太に引き渡すから、大丈夫」

     にこにこと笑って、彼は手を振る。草太は図書館を出禁になっているせいで入って来られないが、近くにはいるらしい。

    「まずは対話を試みてみるよ。開けちゃって」

     準備運動のように伸びをした銅に言われて、このはは第二書庫のドアを開けた。
     さあ、と、風が吹いたようだった。室内の霊気が廊下へもれ出てくる。このはよりも先に、銅が中に入った。いくつもの書架が並べられた薄暗い部屋。唯一の窓は白いカーテンにおおわれて、あまり光が入ってこない。
     その窓際に、どよどよした気をまとった男の幽霊が佇んでいた。仏様のように丸い顔をして眉間にイボのある中年の男性だ。かけているメガネは無事だが、鼻から出た血がワイシャツの襟まで染めている。紺色のスラックスに包まれた足は、よく見れば下に行くほど透けているように見えた。

    「やあ」

     まるで昔からの知り合いに話しかけるように、銅が声をかけた。相手は驚いたような顔になる。

    「おじさんだめだよ。家に帰らないと」

     人懐っこく近寄って銅が言うが、幽霊の男性は首を横に振った。しかしこのはを見ると、急にわたわたと慌てて隠れる場所を探すそぶりをする。殴ったり蹴ったりされたことを覚えているのだろう。

    「えっと、小仏寛慈さんですよね」

     いよいよ消えてなくなりそうに影を薄くし始めた霊を前に焦って、このはは言った。

    「今日は殴ったり蹴ったりしないので話を聞いてください」

     ぶっ、と銅が噴き出した。そのまま笑い出す銅を放っておいて、このはは紡いだ。

    「ゆず……娘さんが会いたがっています」

     ゆず、というのはネット上での名前だ。本名を知らないことに気づいて娘さんと言い直した。寛慈は消え入りそうだったのが嘘のようにぱっと表情を変え存在感を表す。

     このははゆずのことを話した。花屋から仏花を買って出てきたこと、亡くなった父親と喧嘩別れしたままで辛そうだったこと。霊感があるはずなのに父の霊が見えなくて落ち込んだり憤ったりしていたこと。
     その話をしている間、寛慈はただただ申し訳なさそうだった。

    「こんなところにいる場合じゃないですよ」

     このはが言うと、彼はうなずく。しかし、ここから動く様子がない。

    「ここに何か心残りがあるなら言いなよ」

     銅が隣に寄って、ぽんと寛慈の肩を叩いた。すると寛慈はぼそぼそと、銅に何かを耳打ちする。

    「うん? うんうん。あーそういうことね」

     話を聞いた銅はこのはに向き直った。そして、ある書架の下を指さす。

    「その棚の下にね、ゆずちゃんとの仲直りのためのカードが落ちてるんだって」



     図書館の建物の外で、草太は銅を待っていた。

     この建物は白い四角い箱型で、どこか豆腐を連想させるが面白味のないデザインだった。入り口だけはアーチ状の屋根が外に向かってせり出していて、傘を差したり閉じたりするには便利だろうと思う。二階建てだが、天井が高く取られているのか建物はかなり大きく感じられた。

     出禁を食らっている手前正面にいるのも憚られて、草太は裏に回っていた。幽霊が出る書庫も北側だと言っていたから、この辺りで待っていればいいと思ったのだ。しかし建物に日がさえぎられて、一月の日陰は凍えるような寒さだった。図書館の裏には隣の民家との間に塀があって、ここなら草太は誰の目にも触れないだろう。

     それにしても寒い。まだだろうか、と二階の窓を見上げていると、壁からにゅっと、銅が突き抜けてきた。そのまま両手を広げて、落ちてくる。

    「っ……!」

     考えるより先に落下地点に全力で先回りして、その体を受け止めた。重さはない。ただ、霊力のある草太には、銅に触れることだけが出来ていた。
     重さのないその体を受け止めて、草太はばくばくと鳴る自身の鼓動を感じていた。

     建物から、落ちてくる銅。それは草太にとってのトラウマだった。それを刺激したと気づいた銅が謝ってくる。

    「草太。紛らわしい降り方した。ごめん。ごめんてば!」

     呼吸がおかしい。過呼吸になりかけている。立っていられなくて、草太は銅を抱えたまま芝生の上に膝をついた。慌てた銅が体内の霊力を操って実体化し、草太の背をさする。

    「草太息して。お願いだよ。悪かった……本当に、ごめん……」
    「っ、ざけるな……」

     気力で、呼吸を元に戻す。震える指先で、重さのない体をかき抱いた。

    「俺がどんな思いで、お前を式にしたかっ……」
    「ごめんて。悪かった。次はちゃんと足から着地するよ。浮いてるからってあの日みたいなダイブの体勢はいけなかった。ごめんてば」
    「っ、このっ……」

     いい加減にしろ、と言いたかったのに、言葉は咳に変わった。それは少しして治まったけれど、過呼吸じみた息はしばらく整わなかった。

    「草太ごめん。ごめん……俺はここにいるよ。もういなくならないよ」

     泣きそうな声で銅が言う。草太の注いだ霊力を基に実体化した彼の指が、草太の頭を優しく撫でた。

    「当たり前だろ……俺とお前の主従契約は、俺が死ぬまで有効だ」

     ようやく落ち着いた草太は銅の体を解放して立ち上がる。銅は同じ目線まで浮上した。

    「そうだね。草太は死ぬまで俺と一緒。一緒に川を渡ってくれるんだものね」

     遠い昔に、同じ意味の違う約束をした。
     ずっと一緒にいようねと、子供のころに交わした約束だ。ただただ一緒にいて楽しい相手と、この先もずっとずっと遊んでいたかった。そんな幼心で交わした約束だ。
     それがまさかこんなことになるとは、当時は思いもしなかった。

    「草太と添い遂げるの、楽しみだなあ」
    「その言い方やめろ」

     草太が頭を小突くと、銅はいててと笑う。その銅の背後にいつの間にか男性の霊がいるのが見えて、草太は軽く驚いた。

    「いつからいた」
    「え、多分俺が外に出た直後におじさんも降りてきたと思うけど」
     疑問に答えた銅に続いて、男の幽霊、小仏寛慈もおろおろしながらうなずいた。今の光景を幽霊とはいえ他人に見られていた。そう認識した草太は羞恥に襲われた。

    「今すぐ除霊してえ……」
    「こらこらだめでしょう」

     本当にやりかねない草太を前に小仏は震え上がって、銅が彼と草太の間に入った。
     だめなことは理性ではわかっているが、草太は羞恥に堪えかねて髪をぐしゃぐしゃとかき回した。右の襟足だけ赤いメッシュが入っているウルフカットの髪が乱れる。

    「草太ー。このおじさん今年に入ってからこのはちゃんに殴られたり蹴られたりして霊力少ないみたい。見た目も鼻血出てて怖いし修復してやって」

     銅に声をかけられて、草太は特大のため息を吐き出した。

    「おっさん。さっき見たことは誰にも言うなよ」

     一応の口止めをすると、寛慈はこくこくとうなずくのだった。



     喫茶店ラルゴ。草太の親戚が経営するそこには、未完成の二階部分がある。
     二階建ての物件に喫茶店を構えたはいいが、開業してみれば思ったより費用がかかって、二階を埋めるほどには机や椅子が揃わなかった。それにやってみれば二階を解放するほど客入りも多くなかったのだ。結果、いつもは二階に続く階段はプラスチックの黄色いチェーンで塞がれている。

     今日はそこを解放して、二階にこのはたちが集まっていた。三席分のテーブルと椅子が階段近くに用意されているその向こうはがらんとして何もない。

     そこを、男性の幽霊が右往左往している。小仏寛慈の霊だった。現在は、父親の幽霊が見つかったとゆずに連絡して、彼女の到着を待っているところだ。久しぶりの娘との対面を前に、寛慈は意味もなくうろうろしている。

    「小仏さん落ち着いてください」

     図書館の早番を終えてそのままやって来たこのはが言うと、寛慈は飛び上がらんばかりに反応した。

    「いやそんなにびっくりしなくても」
    「そーだよおじさん。いくらこのはちゃんでも今は殴ったり蹴ったりしないから」
    「銅」

     思わず拳を握りしめると、今度は銅が飛び上がった。寛慈と一緒になって「わーこわーい」と震えている。
     椅子に座っていた草太が、くっと笑い声を上げた。

    「すっかり恐れられてるな。霊に舐められないのはいいことだ」

     にっと不敵に唇を釣り上げる彼は、今日も黒いコートに、タートルネックと黒いパンツとブーツ姿だった。冬だということを差し引いても、あまりにも彼の服には色彩というものがない。

    「そいつを殴るのはやめてくれよ。せっかく鼻血や汚れを修復したのに、化けの皮がはがれちまう」

     草太が顎で指した寛慈の霊は、昼までは鼻血をたらしてワイシャツの襟元を汚していたのだが、今はその鼻血も汚れもすっかりなくなっている。肌の色は悪いがどこにも傷がない、ほとんど生きている人間と変わらない様子だった。おまけに消えていた足までくっきり見える。草太の修復技術はすごいのだなと、このはは妙な感心をした。

    「エンバーミングみたいですね」
    「化粧というより霊力での修復術だ。はがすなよ。フリじゃねえからな」

     どれだけ信用がないのだ。これからゆずと対面させるのに、はいでしまったら台なしではないか。そう思いながら「はがしませんよ」と答えると、そのタイミングで階段を上ってくる足音が聞こえてきた。

     現れたのは、ゆずだった。今日も分厚いパーカーを着ているが、その中は紺色のセーターだった。落ち着いたブラウンのロングスカートが立ち止まる動きに合わせてひらりと揺れる。提げているショルダーバッグには、マスコットがついていた。
     目を見開いて、彼女は二階の奥にいる父親の霊を見ていた。どうやらちゃんと視認出来ているらしい。そうとわかって、草太は席を立った。

    「後は任せた」

     ひらりと手を振って階下に降りる。邪魔をしないようにとの配慮だろう。銅は「任された」と胸を張って、ゆずの前に進み出た。
    「君のお父さんで合ってるね?」
     一応の確認をすると、ゆずは父親から目を離さないままうなずいた。
    「今までどこに……」
     目を潤ませながら聞くゆずに、このはからカードを手渡した。
    「これを」

     それは、ゆずの推しのキャラクターカードだった。二年前、寛慈がゆずに渡そうとして出来なかったものだった。



     十代の女子は忙しい。
     おしゃれを覚え、流行りのメイクを習得しようと努力し、体重計と睨めっこしてダイエットに励む。
     見た目に気を遣う女子が多くなる中、父親がずぼらだったら軋轢が生まれるのはよくあることだ。自分がこれだけの努力をしている横で仕事から帰ってきた父親が靴下を脱ぎっぱなしにしてソファーにふんぞり返り、ビール片手にスナック菓子を頬ばっていたら、少なくとも良くは思わないだろう。

     その上、綺羅綺羅しい自分の推しキャラと自分の父親が、同じ『男』という生き物だというギャップのおまけつきだ。

     もちろんそこを同列に考えてはいけないのだが、「もうちょっとちゃんとして!」と怒鳴ってしまうのも無理はない。

     高校生のころの小仏柚香《ゆか》は、クラスでもかわいい部類の女子たちと同じグループにいて、彼女たちに見劣りしないよう必死だったのだ。似なくていいのにまん丸体型の父親に似たらしく、うっかり食べ過ぎるとすぐ肉がついてしまう。それを防ぐために食事制限もしてダイエットに励んでいるのに、家で父親が制限なく好きに飲み食いしているのが気に食わなかった。誰に似たせいで自分が太りやすい子になったと思っているのかと、なんなら父親の遺伝子を憎んですらいた。それに、柚香には憧れているゲームの男性キャラがいて、彼ならこんなだらしない行いはしないのにと考えてはため息をついていたのだ。

     とはいえ、夕飯前にスナック菓子とビールを飲み食いしている父親に物申すのは、悪いことでもないだろう。子供のころに夕飯前にお菓子を食べてはいけないと注意してきたのは父のほうなのだから。それを告げても父は一笑にふした。

    「大丈夫。お菓子を食べても夕飯は入るから」

     その言葉通り、父は本当に夕飯も平らげてしまった。その上お代わりまでしようとする。それはそれで問題ではないか?

    「あなた、食べ過ぎよ」

     柚香が思ったことを母が言ってくれた。家族で囲む夕飯の席。茶碗を持ってキッチンの炊飯器に歩み寄っていた父は、構わず炊飯器の蓋を開ける。

    「大丈夫大丈夫」

     柚香はここで頭にきた。

    「パパの豚!」

     締まりのない体型に危機感を抱くどころか悪化させようとしている姿に激怒した。

    「親に向かって豚とはなんだ」

    「うるさい。ご馳走様」

     ほとんど食べかけの夕飯を置き去りに席を立った。もう食べないのかと聞いてくる母親に、
    「これ以上食べたらパパみたいな豚になっちゃうから」
     そう厭味ったらしく言って自室にこもる。それが柚香の日常だった。

     ある冬の朝だった。

     柚香は出勤前の父親に小遣いをねだった。推しのカードが入ったお菓子が発売されるのに最近出費がかさんで、手持ちのお金が少なかったからだ。これでは推しを引き当てられない。

    「ね、お願い」

     両手を合わせて頼み込んでも、父親は駄目だと言った。
     これに柚香はまたしても激怒して、玄関で散々父を罵倒した。

    「自分は丸々太ってるくせに娘のお菓子を買うお金は渡せないわけ?」

     またしても父親の肥満体系を詰り、豚と言って罵った。

    「関係ないだろう。決められた収入の中で支出を管理できないのが悪い。バイトでもしろ」
    「うちの学校バイト禁止だよ。そんなこともわかんないの?」
    「知るわけないだろう!」

     出勤時間が迫っていたのだと思う。めずらしく声を荒げた父に、柚香はびっくりしてしまった。だが同時に、悲しくなってしまった。

    「……何それ。娘の学校のことなのに知らないの?」

     柚香にとっては一番身近な校則だ。今まで何人もの生徒が破っては説教されている。ときどきプリントだって回ってくる。各家庭に広く周知するため、家族全員が見られるようにメールではなく紙の書面で来るのだ。最後の通知は一か月前で、それだってちゃんとテーブルの上に出して親に見えるようにしていたはずだ。

     それなのに、知らないという。

    「パパはあたしのことなんてどうでもいいんだ! 最低! 大っ嫌い!」

     一方的に決めつけてそう怒鳴って、柚香は玄関からリビングに駆け戻ってドアを閉めた。
     何かの事情で見ていないだけだとかうっかり忘れていただけかもしれない、などということは、全然考えてもいなかった。

     それでも、学校に行く途中にはその可能性に気づき始めた。それに、さすがに大っ嫌いはいくらなんでも言い過ぎた。収入に見合う支出を管理できないから悪いというのはその通りではある。悔しいが理に適っている説教だ。

     それを言うなら柚香の豚発言だって一応、健康のために食べ過ぎを控えてほしいというメッセージなのだ。それを「豚」の一言に凝縮してしまったせいで伝わっていないようだったが、これでも父親の健康を心配しているのである。

     授業中、朝のことを思い出しては自分に言い訳を繰り返した。
     それでもやっぱり、大っ嫌いは言い過ぎた。謝ろうと思った。

     けれどその日に、父は亡くなってしまったのだ。

     本当に、どうしてと思った。見えるはずの自分に父の霊が見えない。自分の霊感が父を見出すには弱いからかと自分を責めたり、あっさり成仏してしまったのかと父親を責めたり。そう思ったら悲しいやら憎らしいやらで、葬儀の最中、柚香はぼろぼろと泣き続けた。


     このはから差し出されたカードを前にして、ゆずは声を失っていた。

    「この、カード……」

     やっと、彼女がカードを受け取った。花婿を連想させる白いタキシード姿の黒髪のキャラクターが描かれたカードだ。確か若い女性に人気の乙女ゲームの攻略対象だったと思う。ちょうど今、ゆずがバッグにつけているマスコットと同じキャラクターだ。

    「あの日はごめんな。柚香」

     始めて、幽霊の寛慈自身が言葉を発した。久しぶりに聞いただろうその声に、柚香がぴくりと肩を揺らす。その柚香に、寛慈は語った。あのころは図書館の二十周年記念で色々なことが忙しく、つい暴飲暴食に走ってしまっていたこと。アルバイト禁止の学校だということは失念していただけで、ちゃんとプリントは読んでいたことを、寛慈は伝えた。

    「すまなかった」

     本当にすまなそうにする寛慈に、カードを握りしめた柚香が歩み寄った。
    「なんで、なんで今まで出てきてくれなかったの」
     その疑問に答えたのは銅だった。

    「ようやくゲットした君の推しキャラのカードをにやにや見つめてるときに頭の血管がパアンしちゃってね。本棚に顔面からいったときにカードをその下の隙間に落としちゃったんだって。これがないと君と仲直りできないーって感情から、書庫で地縛霊になっちゃったらしいよ」

     銅に言われて、寛慈は「言いかたっ」と抗議したが大筋はその通りだ。とはいえ幽体ではカードを取り出すことも出来ず、時間だけが過ぎていったのだ。

    「ば、ばっかじゃないの?」
     目を潤ませながら、柚香が言う。
    「そんなの……こんなカード、なくたって……」
     ぼろ、と、大粒の涙がこぼれ落ちた。

    「仲直り、したかったよっ……言い過ぎた、ごめん、て、伝えたかったよ……!」

     袖で涙を拭いながら、柚香が告げる。
    「ひどいこと言った。ずっとつらく当たってた……ごめんね。パパ」
     泣きじゃくる柚香の頭に、寛慈が手を載せる。

    「反抗期は、誰にでもある」

     自分も昔は悪ガキだったと、寛慈は穏やかに笑った。

    「反抗期というのは本当は、喧嘩したり、仲直りしたりしながら、家族がより家族になっていく時間だったんだと、思う。ぶつかって、謝って、あるいはごめんが言えなくても時間が過ぎれば自然と歩み寄ったりして……以前と形は違っても、また家族になる。そんな時間だったはずだ」

     寛慈の言葉で、このはも自分の反抗期を思い返した。このはの場合、特に謝ったりはしていない。それでも見守ってくれていた両親に少しずつ歩み寄って、普通の家庭のようにあたたかい食卓を囲めるようになった。

    「その時間が、父さんのせいでなくなってしまっただけだ」

     申し訳なさそうな優しい声に、柚香は嗚咽しながら「ほんとだよ」と愚痴をこぼす。
    「もっと、ずっと長い時間、パパと家族でいたかったよ」
     そう告げてから、ぐいと袖で涙を拭った。

    「家に帰ろう、パパ」

     泣き笑いの顔で言う娘を前に、寛慈も泣きそうな顔でうなずいた。


    第三章 夕暮れの友達


     二月に入り、梅の花がほころび始めた。
     先月、父親の幽霊と家に帰ったゆずからのメッセージによれば、寛慈はお盆が終わるまでは現世にとどまるらしく、今は一緒に暮らしているという。見えないがゆずの母親も「聞こえる」ほどには霊感があり、幽霊になってしまった夫を驚きながらも迎えてくれたそうだ。今は家族三人で穏やかに過ごしているという。

     盆が終わったらというのは、喫茶店ラルゴからの帰り、「盆を過ぎてもとどまるつもりなら除霊するからな」と草太に言われたからだそうだ。草太と銅のように決まった契約のない幽霊は、あまり長くとどまるのは良くないらしい。

     期限つきでも別れを惜しむには充分な時間をもらったと、ゆずは喜んでいた。
     よかったと言っていいのかわからないが、寛慈が職場で地縛霊になっていたこれまでの状態よりはいいはずだ。このはは「仲良くね」とメッセージを送ったのだ。

     ゆずの家には穏やかな時間が流れたが、紙枝市内は今夕方に起こる謎のつむじ風に悩まされていた。このはは遭遇したことはないのだが、砂を巻き上げて黒いつむじ風が道を駆け抜けていくのだという。黒いつむじ風。霊感のない人間たちにはそう見えていたが、見える人間にはその中心に人がいるように見えたという。

     草太の開いているスレッドでもその話で持ち切りだった。
    『これって二年前もなかった?』
    『あったあった』
    『つむじ風の中に古代ギリシャ人みたいな格好した男の人がいるんでしょう?』

     スレ主であるはずの草太はたまにしか降臨しない。この話の最中も特に書き込みなどはしてこないが、見てはいるのだろう。草太からこのはに連絡がきた。

    『夕方、時間作れるか』

     それはおそらく夕方に発生する謎のつむじ風について話があるということなのだろう。しかし二月の日の入りはまだ早い。このはが早番で上がるころにはもう日が沈んでいるのである。休みの日にしか時間を作れそうにないことを説明して、次の休みを教えた。

    『わかった。じゃあおまえに預けてる本、返してもらえるか?』

     羅生門の老婆を封じ込めてからも、『私の推し文学』はこのはが預かっていた。今回の『物語』が夕方にしか出ないのなら、草太に渡しておいたほうがいいだろう。
     本を返すために以前も利用したことがあるファミレスで待ち合わせて、一緒に食事をすることになった。
     すっかり日も暮れた午後六時過ぎ、ファミレスに現れた色紙山草太は、今日も黒いコートを着ていた。その下は黒いシャツとチノパンに、黒いブーツ。相変わらずの黒づくめだが、中が黒シャツというだけでまるでホストのようだ。

     対面に座った草太がコートを脱ぐと、隠れて見えなかった黒いジャケットがあらわになる。

    「草太さんてホストなんですか?」
    「違うが? 自分に似合いそうな服を着たらときどきホストに間違われるだけだ」

     確かに、と思って笑ってしまった。草太はホストクラブにいてもおかしくないくらい顔もスタイルもいい。右の襟足にだけ赤いメッシュが入ったウルフカットの黒髪に、人とは異なるモノを映す緑がかった鳶色の瞳。肌もきれいで、遠目から顔だけ見たら男か女か判断に迷うかもしれない。

     店内は賑わっていて、夕食の時間帯だからか家族連れも多くいる。
     お互い注文をすませてから、このはは自分のビジネスバッグから本を取り出した。受け取った草太が本を開く。ざっとページをめくってから彼が開いて見せたのは、『走れ』というタイトルの物語だった。

    「『走れメロス』な。メロスが本から抜けてるせいで『走れ』のあとが空白になってるけど」
     黒いつむじ風の中に古代ギリシャ人ぽい格好の男の人がいるとスレ民が書き込んでいたところから予想はしていたが、夕暮れどきに発生するつむじ風の原因は走れメロスのメロスであるらしい。
    「なんというか、本から抜け出たのが暴君の王様じゃなくてよかったですね」

     励ましのつもりで言ったのだが草太は「全然よくない」と頭を抱えた。

    「暴君よりはましだけど、おまえ原作読んだか?」
    「学校で習いました。友情は尊いという話ですよね」
    「間違ってないがざっくり過ぎないか? あと問題なのはその友人を目指して走ってるメロスの描写だ」

     読んでみろと指さされた場所に目を移すと、文章からは相変わらず『メロス』の三文字だけが空白になっていた。

    『路行く人を押しのけ、跳ねとばし、   は黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った』

    「……いややばすぎるでしょう」
     学校で習った覚えはあるがこんな描写はまるで覚えていなかった。しかし現代社会では色々とアウトだろう。

    「なんですかこれ。犬は蹴っちゃだめでしょう」
    「こんだけ情報量の多い文章読んだ感想がそれかよ」

     草太は呆れるが、このはは大真面目だった。

    「私が実家を出たあと両親が犬を飼い始めて、家に帰ればかわいい柴犬がいるんです。犬は正義です」
     力説すると、ふっと草太が笑った。
    「そうか。犬はかわいいもんな」

     そう言って笑う草太の表情はなんだかあどけなく、そんな顔もするのかと思ってしまった。
     その後運ばれてきた料理を食べながら、話はまたメロスに戻る。

    「さっき問題なのは友人を目指して走るメロスの描写だと言ったのを覚えているか?」
     ハンバーグを切りながら問いかけてくる草太に、カルボナーラをフォークに巻きつけながらこのははうなずく。

    「犬を蹴飛ばすのはあり得ません」
    「そこじゃなくて」
    「人を押しのけたり跳ね飛ばしたりでしたっけ? ぶつかりおじさんじゃないですか」
    「そうだな。前に出たときも人やら犬やらがつむじ風に巻き込まれて大変だった」

     言い終えて、草太はハンバーグを口に運んだ。ふと天井を見上げると、銅が浮遊していた。
     この前まではちょくちょく遊びに来ていたのに、第二書庫に付き添ってもらって以来銅は、このはの家には来ていなかった。あっさり草太のところに戻ってしまうなんて、なんだか懐いていたと思ったらするりと腕から抜けてしまう気まぐれな猫のようだ。このはの視線に気づいた銅はにこりと笑って手を振った。それにうなずきを返してから、このはは草太に視線を戻す。

    「友情とか約束じゃなくて、メロスの物語としてピックアップされるとこ人を跳ね飛ばすつむじ風なんですか」
    「『走れメロス』だからな」

     それはそうなのだが。
     このはは細かい描写は忘れているが、かつて学校で習った『走れメロス』の概要を思い返してみた。
     人を信じることをやめて暴君となった王を、確かメロスは暗殺しようと王城に向かい、捕らえられた。そのままだったら処刑されるところを、メロスは妹の結婚式を理由に三日の猶予を望み、親友のセリヌンティウスを人質として王に預けた。三日後の日没までに戻らなければ親友が自分の代わりに処刑されてしまう。メロスは親友に必ず戻ると約束して村まで駆け戻り、妹に祝言を挙げさせ、そして王城のある町まで駆け戻る。途中氾濫した川を泳いで渡り切ったり、山賊に襲われたりしたはずだ。そして一度は、約束を諦めかけた。

    セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりはみじんもなかった。信じてくれ!

     このはの頭の中で断片的に覚えているその一文は、たぶんそのときのものだろう。橋が流されていて泳ぐことになったり山賊に襲われたりしたのだ。もう一歩も動けないという気持ちになってもしかたない。
     それでも、走っただけで間に合わなければ欺くのと同じだ。メロスは自分を奮い立たせてまた走り出した。おそらくそれが先ほどの人や犬を跳ね飛ばす描写に繋がるのだ。
     そしてセリヌンティウスが処刑される寸前に刑場にたどり着き、彼の処刑は取りやめになった。

     そこで印象的だったエピソードがある。二人がお互いを殴る話だ。メロスはセリヌンティウスに私を殴れと頼んだ。途中で自分は悪い夢を見たと白状し、殴ってくれなければ抱擁も出来ないと告げてセリヌンティウスに殴られる。次にセリヌンティウスが自分を殴れとメロスに言う。この三日の間にちらと君を疑った。殴ってくれなければ抱擁も出来ないと告げて、メロスに殴られる。きれいに拳で清算してから『ありがとう、友よ』と抱擁するシーンは読んでいて清々しかった。その二人を前に、暴君は改心して二人を許す。

     メロスが間に合わなかったり逃げれば処刑される条件で人質になったセリヌンティウスも、約束通り処刑されるつもりで戻ってきたメロスも、彼らの友情は命懸け過ぎる。というか今思えばそもそも、妹の結婚を控えているのに事件を起こそうとするなメロスとツッコミを入れたくなるが。

     回想しながら食事を続けていると、草太が息をついた。
    「不幸中の幸いは、『少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った』って描写がばあちゃんの本から抜け出たメロスには再現されなかったことだな」
    「太陽の十倍……」
    「太陽は動かないから自転する地球のスピードだろ。それの十倍」
    「えっと?」

     想像がつかなくてこのはが首をかしげると、草太は苦笑した。

    「ネットで調べたらメロスの舞台を視野に入れて速度を計算した人が複数いて。人によって答えは違うけど一番有名な説でマッハ十一」
    「マッハ⁉」
     マッハ十一って戦闘機より速いのではないか。

    「音速超えてますよね」
    「衝撃のあまりメロスを中心に半径二キロでガラスが割れるそうだ」

     いっそギャグのような速度に、おかしすぎて笑ってしまった。草太も苦笑を浮かべる。

    「草太さんそんなの捕まえるんですか」
    「さすがにマッハ十一だったら無理だ」
    「足速いって言ってなかったですか?」
    「メロスには負けるって」

     一しきり笑ってから、また食事を再開する。縁もゆかりもない土地に来たこのはには、この紙枝市で食事する相手はそういない。図書館の人づき合いを除けば、一緒に食事する相手は草太しかいなかった。物語を回収するという目的のために協力しているだけだが、草太と過ごす時間は嫌いではない。
     そんなこのはたちの様子を、銅が変わらず空中から眺めている。

    「銅は降りてこないの?」

     このはが周りの客に聞こえないよう小さく問いかけると、銅はゆっくり足から降りてきた。

    「人のいる場所で俺と話すと不審がられるから。俺に構わず若いモン同士でよろしくやってよ」

     おどけた調子でそう告げる。見た目高校生くらいの銅に言われるとからかわれているだけにしか見えない。幽霊である彼は、前回このファミレスで会ったときも、呼ばれるまでは降りてこなかった。彼なりの気遣いなのかもしれないが、いるのにいないように扱うのは、なんだか寂しい。

     そうこのはが伝えると、銅は目を見張った。それからくすぐったそうに言う。
    「いないように扱われるのが幽霊ってものだよ」
    「それは……そうだけど……」

     霊感のあるこのはには、銅の姿はくっきり見えるし言葉も交わせる。普通の人間とそう変わらないのだ。それをガン無視は心が痛む。

    「優しいね。じゃあお言葉に甘えて同席させてもらおうかな」

     そう言ったかと思えば、銅はこのはの隣に座った。彼なりの甘えだろうか。えへへと笑う銅はかわいいと言えなくもない。このはも自然と笑顔を返した。

    「それで、どうやってメロスを封印するんですか」

     ふと思って草太に疑問をぶつけると、彼は口に運んだハンバーグを飲み込んでから答えた。

    「まずは夕方前に歩き回って気配を探って目星をつける」
    「気配」

     思わず草太の言った言葉を繰り返した。そういえば羅生門の老婆を封印するとき、草太がとき放った青い光の霊力に、何やら『気配』と表現したくなる様子を感じたのだった。それは本の封印がとかれたときもであったし、もしかしたら抜け出た物語にも感じるものかもしれない。

    「その気配って、なんかこう、モヤッとするやつですか?」

     的確な表現が見つからなくて問いかけると、草太は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。

    「モヤッとって。ははっ。言いえて妙だな」

     おかしそうに笑っているが、言いえて妙というなら当たっているのではないか。草太はうなずいた。

    「そうだな。胸騒ぎ、虫の知らせみたいな、言い表せないもの。それがお前の場合はモヤッとする感覚なんだろう」

     そういうものなのか。何となく納得した。

    「しかし驚いたな。『物語』の気配がわかるのか。それは驚いた。今度俺のいないところでそれを感じたら教えてくれ」
    「それはいいですけど……ところでメロスはどうやって封じるんです?」

     途中だった話の続きをねだると、それに答えたのは銅だった。

    「後は草太の霊力を解放して物語ホイホイの状態で待ち構えれば向こうからやって来るよ」

     羅生門の老婆の気を一瞬でこのはから草太に向けさせた、前回の青い光の柱のことだろう。草太の祖母に似た霊力で、物語をおびき寄せることが出来るらしい。ただしその間草太の動きは鈍るし、他の物語まで呼び込んでしまっては厄介だ。使い勝手はよくないが、これと決めた物語の前で発動させるなら格好の餌だった。

    「前回メロスを封印したときは大変だったよね」

     のんびりと語った銅に、斜め向かいに座る草太はげんなりとした。

    「巻き上がる砂に小石に木の枝な」
    「うわあ」

     大変そうだ。あいにく図書館のシフトがあるときは草太を手伝えそうにないが、休みの日にはきっと手伝おう。そう伝えて、この日は草太と別れた。



     それから三日経つが、黒いつむじ風は相変わらず発生しているらしい。どうしたのだろう。物語回収がうまくいっていないのか。それとも封印する草太の身に何かあったのかもしれない。
     メッセージを送るも返事がなかった。「今日と明日はシフトが休みなので手伝いますよ」とこのはがメッセージを送ると、返事の代わりにやって来たのは銅だった。

     午前中、このはの住んでいるワンルームのアパートに久しぶりにやって来た銅は、苦笑に似た笑みを浮かべて「やあ」と片手を上げた。

    「心配ありがとね。草太はちょっと体調がアレで……」
    「アレ?」
     首をかしげると、銅が言った。
    「インフルで寝込んでる」
    「あら……」
     それはしかたない。

    「そう……それならあの、本を預かれれば、今日と明日なら私がメロスを封じに行けるけど」
     そう進言すると、銅は「いやその前に」と言ってこのはの前に降りてきた。

    「お願い! レトルトでいいから草太におかゆ買ってやって!」

     ぱん、と両手を合わせて悲壮な顔で頼まれて、このはは一瞬何のことかわからなかった。

    「え、っと?」
    「草太は十代のころにもう両親がいない状態で。一緒に暮らしてたおばあさんも二年前に亡くなって……」
    「待って。独りなの?」

     てっきり草太は実家暮らしで、祖母が亡くなったにしても親はいるものだと思っていた。それが、一人でインフルエンザで寝込んでいるだと。
     このはは慌てて立ち上がった。上着を着てスマホとハンカチをポケットに、財布を入れたエコバッグを片手に部屋を出る。
     移動しながら銅から話を聞くと、このはと会った翌日の夜、草太はもう様子がおかしかったらしい。その翌朝には発熱していて、銅が病院に行くよう説得し、ようやく草太は病院を受診した。インフルエンザと診断され薬を処方されて帰ってきたものの、草太は家に着くなり薬も飲まず力尽きるように寝てしまったという。

     夕方起きて薬だけ飲んでまた寝て、翌朝、つまり今朝になって家に何の買い置きもないことに気がついた。
     銅は焦ったが、草太はすべてが面倒くさくなったとばかりに、

    「断食の修行だと思えばいいや」

     と言ったという。
    「いやインフルのときにする修行じゃないでしょ」
     文句を言いながら、立ち寄ったスーパーの棚から手持ちのかごへレトルトのおかゆを放り込む。このはに医学的知識はないものの草太の考えが間違っていることくらいはわかる。ただのやけだ。

    「そんな状態ってことはお米すらないの?」
    「ない。そろそろ買いに行こうって話してた矢先だったから」

     小声で銅と会話しながら、このはは商品棚から五つ入りパックごはんの袋を引っ掴んでかごに入れた。そこではたと気がついた。

    「待って。喫茶店ラルゴって草太さんの親戚がやってるんじゃなかった?」
    「確かにマスターが親戚に当たるんだけど、高齢じゃん。万が一インフルうつしたら嫌だって草太が」

     それはそうか。このはは二回だけ、それも二階しか利用したことがないので一階のカウンターにいるマスターと直接の関りはない。それでもちらと見かけたマスターは老紳士といった佇まいだった。喫茶店の仕事もあるし頼るのは……。

    「……って私はいいの?」
     思わず問いかけると、「そこはごめん」と銅が手を合わせてくる。
    「でもちょうど休みだったでしょう?」
    「私にうつる可能性とかは」
    「そうなったら今度は草太がこのはちゃんの面倒見るから」
    「ちょっ……」

     それはさすがにと抗議しかけて、声が大きくなりそうだったのでやめた。スーパーの狭い通路で、はたから見たら一人で大声を上げている状態は避けたい。
     ごほんと咳払いをして、次に立ち寄った通路でマスクもかごに放り込んだ。

     買い物を終え、銅に言われるままバスに乗る。スーパーから四つ先の停留所が、草太の家の最寄りだった。とはいえ田舎のバス停の四つ先なので二キロは走っただろう。途中家々が少し途切れて田畑が広がっていた。たどり着いたのは一軒家ばかりの集落で、アパートなどは存在しない。家々も風格があって昔から建っているようだった。よそ者の存在しない昔ながらの集落なのだろう。

     銅にここだよと案内されたのは、集落の少し奥まったところにある、生垣に囲まれた武家屋敷のような二階建ての日本家屋だった。馴染みのない風格ある家を前に呆気に取られていると、銅がこっちと言って先を急がせてくる。『色紙山』と書かれた表札のある門を横を通り過ぎ、玄関にたどり着く。鍵は開いてるからと銅に言われて引き戸を開けると、かすかに線香のにおいがした。

    「お邪魔しまーす」

     買ったばかりのマスクをつけて、ふわふわと先に行く銅を追いかける。床はよくあるフローリングだったが、目につく部屋の入り口は障子ばかりだった。

    「草太。このはちゃん呼んで来たよ」
     突き当りの部屋から銅の声がした。障子は閉まっているが彼は幽霊だから開閉は関係ないのだろう。銅に対する草太の返事はよく聞こえなかった。
    「えっと、開けても?」

     問いかけると、銅の声で「どうぞ」と返事があった。
     障子を開けた先はまた八畳の和室で、角部屋なのか窓が壁の二面にあった。その窓を覆うのはカーテンではなく障子であるところに、改めて和室なんだなという風情を感じる。南向きの窓の前には古風な文机と座布団が置かれていた。壁のもう一面は押入れだ。その戸を避けるようにして本棚が置かれている。部屋に置いてある木の本棚には本がぎっしり詰まっていた。

     その部屋の中央に敷かれた布団に脚だけを入れて、草太は座っていた。着ていたのは黒いスウェットだ。重そうに片手で頭を抱える姿に思わず「大丈夫ですか」と尋ねるけれど、草太はうなずくだけだった。

    「草太昨日からほとんど水も飲んでなくて、喉枯れてるかも」

     彼の隣を低空浮遊する銅のほうが心配そうな声音で言うので、このははエコバッグからスーパーで買ったスポーツドリンクを取り出した。
    「これ、飲めますか?」
     キャップを開けて差し出すと、草太が受け取って飲み始めた。数度息を継ぐような休憩を入れながらも、一分もかからず飲み干してしまう。
    「……俺、喉乾いてたのか」
     空になったボトルを見下ろして、かすれた声で草太がつぶやく。
    「自分のことなのに自分でびっくりしないでください」
     そう呆れながら、エコバッグから他のペットボトルも取り出して枕元に置いた。スポーツドリンク一本と麦茶二本だ。

    「喚起のために窓開けますね。布団に入っててください」
     そう声をかけてから二つある窓を開け放った。二月だが、今日は日があるので暖かい陽気だ。
    「銅。キッチンはどこ?」
    「あ、案内する」

     案内されるまま部屋を出た。
    「さっきのが草太さんの部屋?」
    「いや。あれはおばあさんの部屋。今の草太に階段上らせたくないから、一階で寝るように俺が言った」

     本当の草太の部屋は二階なのだろう。銅はよく気の回る式だ。

     彼の案内でついていくと、たどり着いたそこはダイニングキッチンだった。リフォームしたのかこの部屋は何となく新しい。
     あまり人の家を引っ搔き回すのもどうかと思って、手作りのおかゆを振る舞うなどといった気の利いたことをするつもりは最初からない。銅の言う通り買ってきたレトルトのおかゆを温めるだけだ。

     一人暮らしとはいえ、もともと家族で住んでいたせいか食器棚の食器は多かった。銅にどれでも使っていいと言われて適当な大きさの器におかゆを入れて、ラップをしてレンジで温める。その間、エコバッグから今日買ってきたものをキッチンに並べた。五つ入りのパックごはんと、レトルトのおかゆ鮭と卵だ。もう少し何か買えばよかった気がしなくもないが、正直他人であるこのはがどこまでしていいのかわからなかった。

     温まったおかゆと匙と水を注いだコップをトレーに載せて、中身が財布と自分のために買ったマスクだけになったエコバッグを手首に通す。トレーを持って、このは草太のいる部屋に戻った。
     草太は最初と同じく座ったままだった。ただし、手元にはノートがあって、それに目を向けている。

    「ごはんですよ」
     声をかけると、彼は初めてこのはに気づいたように目を向けてきた。ノートを布団の端にどける草太の近くにおかゆを置いて、このはは窓を閉める。
    「……梅」
    「あ、はい。梅がゆです。レトルトですけど」

     食の好みは銅から聞いた。何も入っていないおかゆは好みじゃないみたいだと聞いたのだ。
    「キッチンに鮭と卵のおかゆも置いて置きましたよ。あとパックごはん」
    「悪いな。……いや、そうじゃなくて」

     何か言いたそうにこのはに向けられた目は、どうしてか窓の外にそらされた。視線を追ってみると、庭に木が生えている。枝ぶりからして梅だろうか。

    「もうすぐ季節ですね」

     このはが言うと、草太は返事はせずかゆを食べ始めた。結局何が言いたかったのだろう。
     半分ほど食べたところで、彼は思い出したように言った。
    「そうだ。これ……」
     匙を入れた器を片手に、草太がもう一方の手でノートを渡してきた。後ろから五ページ目と言われてめくると、このノートは名簿のようだ。表紙を見ると「霊力封じ守り授与者名簿」と書いてある。その中に、見慣れた住所と名前があった。

    「これ……」
    「お前で合ってるか」

     言われたページで見つけたのは、東京の実家の住所と自分の名前、生年月日と、覚えのない日付だった。その日付はノートの上のほうの枠に書いてある名称を見ると、「授与日」ということだった。このは自身は正確に覚えてはいないが、この日がお守りをもらった日ということだろう。

    「私、です。あの、このお守りって」
    「悪いけどもうないぞ。俺には作れないし」
    「いや、そうじゃなくて……」

     このはが混乱している間に梅がゆを食べ終わり、薬を飲んでから草太は言った。
    「ばあちゃんが作った見え過ぎて困るって人向けのお守り。持ってたんだろう?」

     えっ、とこのはは声を上げた。

    「あのお守り、草太さんのおばあさんが作ったんですか?」
     問いかけると、草太の代わりに銅がうなずいた。
    「そうだよ。よく出来てたでしょう」

     まるで自分のことのように得意げな顔をする。胸を張る銅を草太が軽く小突いた。

    「持ってる限り霊感が封じられていたはずだが」
     なぜ手放したのかと聞かれて、このはは答えた。
    「小さいころにもらったから、すっかり持ってる意味もそのお守りが何なのかもわかんなくなって、神社に納めてきちゃいました」
     正直に言うと、草太は皮肉めいた笑みを浮かべた。
    「可哀想に。一生こっち側だな」

     はて、とこのはは首をかしげる。

    「可哀想なんてことないですよ。むしろ視野が広がりました」
     霊感、幽霊、大いに結構。今までこのはが読んで来た本の中にはお化けも妖怪も存在している。ホラー小説だって読んできた。それを現実に体験できるかもしれないというのは、少し怖いが悪いことばかりではないはずだ。見える世界が広がっただけ。それよりは制限をとかれたに等しい。

    「もともとの自分の視界に戻っただけです」
     何も気にしていないとこのはが示すと、草太は呆気に取られた様子だった。それから穏やかに笑う。

    「そうか。お前は、強いな」



     忘れ物に気づいたのは、日が傾き始めたころだった。すでに草太の家を出て、自宅まで帰ってきてしまった。

     今日は小さいころから持っていたお守りが彼の祖母が作った物とわかって、こんなことがあるのかと軽く混乱したし興奮もした。出会う前から奇妙な縁で繋がっていたことを知って嬉しくなって、少しだけ草太と、その祖母の草子の話をしたのだ。それが思いのほか楽しかったものだから、帰るころには本を預かることを忘れていた。

     明日でもいいような気もしたのだが、草太が動けない今、メロスを封印できるのは自分しかいない。今日もどこかで発生するだろう黒いつむじ風に、人や犬が跳ね飛ばされないとも限らないのだ。かわいい犬が巻き込まれては一大事である。このはは戻ることにした。

     一度行ったときに位置情報を記録したので、再び訪れるのは簡単だった。再びバスに乗ってしばらく揺られる。家々が途切れて田園風景が広がった。さらに進んで集落に差しかかった辺りで、このはの胸に突然モヤッとした感覚がした。うん? と思って周囲を見る。

     辺りは夕焼け色に染まり始めていた。草太のいる集落にいたるまでの間に広がる田園地帯に、『走れメロス』の描写にあった野原を思わず重ねてしまう。酒宴をしている人たちはさすがにいないが、なんだか嫌な心地がする。そこまで考えて、これが『気配』というものではなかったかと思い至った。メロスかはわからない。ただ、何かしらの『物語』がいる。

     集落のバス停でバスを降りる。集落を抜ければまた田園が広がっていて、このはを降ろしたバスはそちらに向かって走り出していた。この先にある集落まで行くのだろう。バスの行く先の道端に、銅を連れた草太がいた。バスが彼らを追い越して集落を出て行った。そのバスが通り過ぎた辺りから、突如黒いつむじ風が立ち上った。よく見れば、その中心に古代ギリシャを思わせる格好の青年がいる。メロスだ。

     それに対し黒いスウェットにブーツという格好の草太は、迎え撃つように本を広げて道路の真ん中に立った。その背を銅が支えている。

    「草太さん!」

     普段の草太ならともかく、今はインフルエンザでボロボロなのだ。無茶だという暇もなく、つむじ風が草太に迫る。その風圧のせいだろうか、次の瞬間、草太の手から本がすっぽ抜けて宙を舞った。

     あっ、と思ったときには、草太は銅に突き飛ばされていた。そこに、黒いつむじ風が激突する。「ああっ」と短い銅の悲鳴が上がった。幽霊であることも相まってか、銅の体は高々と宙に跳ね上げられてしまう。

     メロスはその下を何事もなかったかのように、このはの横も通り過ぎる。通過するだけで叩きつけられた強風に、一瞬だけ息が出来なくなった。そのままメロスは、市街地のほうへと走り去ってしまった。速すぎて、さすがに追いかけることは出来そうにない。

     空に放られた銅に目を向けると、今は自分の意思で浮遊しているように思えた。そちらは大丈夫と判断して、このはは道端に倒れたままの草太に駆け寄る。
    「草太さん。大丈夫ですか」
     触れた体はやはり熱くて、熱が下がっていなかった。こんな状態であんな物語に立ち向かうのは無理だったのだ。

    「俺はいい。銅と本は……」

     発熱して倒れこんでいるというのに彼の心配は自分自身には向かないらしい。そんな草太を抱き起こしながら視線で銅と本を探すと、先に本を発見した。集落の出口に生えている柳の木の根元に、広がった状態で落ちていた。風に煽られて引っかかったのだろう。

    「あ、ああっ……」

     悲鳴が上がった。目を向ければ、銅が道端で頭を抱えるようにして座り込んでいる。

    「銅!」

     叫んだ草太が駆け寄ろうとして倒れかける。危なっかしいので「私が見てきます」と言って、このはは銅に近づいて行った。

    「来ないでっ」

     泣きそうな声に拒絶されたが、ますます確かめなければならないという気が増しただけだ。構わず距離を詰め肩を掴んで振り向かせると銅には、顔がなかった。

    「見ないで……!」

     赤い、ひたすらに赤い血に染められ鼻がつぶれ歯も砕けたような口だった場所から辛そうな声が響いた。このはが絶句したのがわかったのか、銅はパニックになったように顔を隠す。

    「やだ。見ないでっ……」

     顔だけでなく白いパーカーは真っ赤に染まり、チャコールグレーのアンクルパンツもじっとりと染まっていた。元は白かったスニーカーも、今は一部を残して真っ赤に染まっている。

    「銅!」

     草太が叫んだ。

    「術がとけたのか。来い。すぐにっ……」

     そこまで言ったところで、彼はむせるように咳をした。激しくむせる彼を見て、パニックになっていた銅が逆に落ち着きを取り戻す。
     彼は立ち上がって、くるりと背を向けた。

    「……今の草太には負担でしょ。しばらく消えるよ」

     そう告げると、このはに「草太を頼むね」と言い残して、銅はふっと姿を消してしまった。



     銅優太は、物心ついたときには草太の友達だった。

     人のことを言えたものではないが、銅という珍しい苗字が格好よく思えて、草太は小さいうちから銅のことを苗字で呼んでいた。同い年の彼らはいつも一緒で、ずっと一緒にいようねと、無邪気な約束を交わしたものだ。たとえクラスが違っても、二人はクラスをまたいで仲良くしていた。

     でも中学一年生の冬、銅の両親が離婚した。銅は母親に連れられて県外に行くことになってしまった。別れるときには泣いたけれど、お互いの連絡先を登録したスマホをお守りのように持って、いつでも連絡出来るのだからと自分を納得させるしかなかった。

     それでも別れてみれば不思議なもので、連絡の頻度は減っていった。SNSはお互い見る専だから更新もほとんどない。
     嫌いになったわけでもないのに連絡頻度が減るのは不思議なことだ。離れてしまうとこんなものなのだろうか。そう思っていたある日だった。

     高校一年生の六月、銅から突然電話がきた。
     懐かしく思いながら出てみれば、聞こえてきたのはひどく弱々しい声だった。
    『ねえ草太。草太は今でも、俺の友達?』
     当たり前だろうと返事をした。すると電話口の銅は、なぜか泣き出してしまったようだった。嗚咽とこらえきれない泣き声が聞こえてきて、草太はぎょっとして訳を聞いた。

     聞けば銅は、信じられないような窮地に立たされていた。
     友人とネットに出した動画が炎上した。友人が企画して、友人のアカウントで上げたものだったが、映っていたのは銅だけだった。

     街頭でのドッキリ企画で、ランダムに通行人に声をかけてびっくり箱を開けてもらうようなものだった。リアクションを楽しんで、驚かせたお詫びに菓子を配るアフターフォローつきだ。最初はうまくいっていた。あまり高齢の人は選ばないように配慮もしたし、ネットにアップするときはその人たちが誰かわかりにくくするためにモザイクをかけるようにしていた。それなのに、最後に驚かせた人が驚き過ぎてよろけ、後ろを通りかかった小さい子供にぶつかって転倒させてしまったのだ。

     よせばいいのに銅の友人は、その部分まで含めてネットに載せた。オチとして面白いとでも思ったのだろうが、案の定、炎上した。

     それも、そのシーンまでの和気あいあいとしたドッキリの様子やアフターフォローに菓子を配る様子をすっ飛ばして、最後の一人の動画を切り抜いたものだけがネット上で出回ったのだ。多くの人間は高校生の悪ふざけ企画で、小さい子が巻き込まれて転倒したという部分だけを受け取った。

     友人は同じアカウントで学校の名前まで投稿したことがあったせいで、学校が特定されるのは速かった。

     小さい子が傷ついたという大義名分のもと、学校にも教育委員会にも怒りの電話が殺到した。登下校の時間、門の前で生徒たちを待ち構えるような部外者の姿も多かった。銅と友人は、校長に呼び出された。その先で銅は、友人に裏切られた。

     この動画を企画したのは銅だ、載せたのも銅だと、友人は言ったのだ。それからその友人とは校長と担任の前で散々泥試合の言い合いになったけれど、両方悪いと叱責された上で、やはり厳しく叱られたのは普段からお調子者だった銅だった。銅はノリがいい。今回はそれを日頃の行いと捉えられ、大人しいタイプの友人よりもさらに厳しい目を向けられてしまったのだ。どんなに違うと言っても誰も信じてくれなかった。クラスに戻ったら、二人の机は落書きをされた上で床に横倒しにされていた。

     学校側は、銅とその友人を謹慎処分にした。

     しかし家にいたら、今度は住所まで特定されたのか押しかけてくる人間が現れ始めた。何度も鳴らされるチャイム、叩かれるドア。静かになったと思って開けてみたら大量にドアに貼られた「死ね」や「クズ」といった悪口の貼り紙。ぞっとしながらそれらを剥がせば、下から出てきたのはスプレーで書かれた「死ね」の文字だったという。

     あまりの話に草太は言葉が出なかった。

     草太はその動画をSNSで見た覚えがあったが、親切な誰かが銅ごと画面の中の全員にモザイクをかけたものだった。だからどこかの馬鹿な高校生が炎上している、としか考えていなかったのだ。それがまさか銅だったなんて思いもしなかった。

     ぞっとしたのは草太が見たその動画だって切り抜きで、前半の和気あいあいとした部分は削られていたということだ。ああ、馬鹿なやつがいるなー、と鼻で笑って、その前にどんな場面があったかなんて考えもしなかった。

     びっくり箱で人を驚かせてリアクションを楽しんで、しかし驚かせたお詫びにお菓子を配る。そんなことをしていたなんて一つも知らなかった。リアクションがオーバーな人をターゲットにしなければ、そこに子供さえ通りかからなかったら、ぶつからなければ、普通にいい動画だったのではないか。

     でも、怖気づいた銅の友人は動画をアカウントごと消してしまったという。いま世間に多く出回っているのは、切り取られた部分だけ。そこだけが『真実』として一人歩きしてしまっていた。

    「銅?」

     銅はことの顛末を語りながら、ずっと泣いているようだった。でもその呼吸がおかしい。
     どうしたと聞くと、彼は目の前にいたら泣き笑いを浮かべただろう声で言った。

    『母さんに、殴られちゃって』
    「  」
     毎日のように家には人がやって来て、鉢合わせれば銅の母も、炎上するような息子を育てただめな母親として攻撃される。暴言だけでなく、空き缶やペットボトルといったゴミを投げられることもあったらしい。

     そんな日々が一週間以上続いたせいで、銅の母親は壊れてしまった。

    『水筒で、頭とかあちこち殴られて……はは、困ったな……』
    「銅!」

     いても立ってもいられずに、草太は財布を引っ掴んで家を飛び出した。

    「住所、前教えてくれたやつと変わってないか」
    『ない、けど……』

     今から行く、と走りながら答えれば、電話の向こうにいる銅の声が、また涙声になる。

    『来て、っくれる、の……?』

    「当たり前だ。友達だろう!」

     叫んだら、銅が号泣した。そうだった。小さいころの銅は、泣き虫だったのだ。
     銅は、草太の霊感を疑わなくて、最初から信じてくれた友達だった。人と違う草太を、「カッコいいじゃん」と笑顔で賞賛してくれた友達だ。妙に気が合って、ずっと二人で遊んでいたくて、ずっと一緒にいようなんて約束を、した仲だった。

    「俺はお前を見捨てたりしない」

     そう告げると、銅は声を上げて泣きながら「ありがとう」と答えた。
     草太は一人で県をまたぐような遠出をしたことはなかったが、スマホの画面と睨めっこし、ときには駅員に声をかけて道を聞き、電車を乗り継いで銅のいる団地を目指した。銅優太は今は母方の塩原の姓を名乗っていて、市営団地の五階に母子二人で暮らしている。

     たどり着く前にメッセージアプリで状況を知ったが、銅は壊れてしまった母親からここ数日精神的にも肉体的にも暴力を受けているらしい。ヒステリックにあんたなんか生まなきゃよかったと言われたときには凹んだが、元夫のところに置いてくれば良かったと言われたときには笑ったという。父親は前時代的考えの持ち主だったから、家事育児が集中した母には負担だったろう。けど、紙枝市にいれば少なくとも、自分は草太とはずっと一緒にいられたのにと。

    『銅優太だったころに戻りたい』
    『紙枝市が懐かしいよ』

     そう昔を懐かしむ銅に、どうしたらいいかなんてわからなかった。草太だってまだ高校生で、来たはいいけれどどう銅を助けたらいいかなんてわからない。
     それでも、来た。友達を見捨てるような卑怯者にはなりたくなかった。
     すっかり夏の熱気が漂う六月の下旬。長いはずの日が暮れかかっている夕暮れどき、目的地の最寄駅から走ってきた草太は、銅のいる団地を見上げた。

     五階のベランダに、白いパーカーを着た彼がいた。

    「草太!」

     スマホをお守りのように握りしめて、もう片方の手で、銅が手を振った。泣き笑いを浮かべた顔は母親に殴られたのか両頬ともひどく腫れて額には血がにじんでいたけれど、それでも元気そうだった。銅のほうはまだ、壊れていない。彼がどうにかなる前に間に合ったことが、草太には嬉しかった。
     でも。草太は手を振り返そうとして一瞬、おかしなものを見た。いや。正しくは女を見た。だいぶやつれて様変わりしていたけれど、銅の後ろに立つその女は彼の母親だと思った。ベランダの手すりに身を乗り出すようにしている銅の背後に、最近銅を虐待するようになってしまった母親が。

    「あ」

     銅、と呼ぶはずだった言葉は悲鳴に変わった。女が銅の後ろでしゃがんだのかふっと沈んだように見えなくなって、次の瞬間、銅は足元から押し出されるようにしてベランダから宙に放り出されたのだ。

    「銅!」

     空中に放り出された直後銅は信じられないという顔をして、でも、地面に落ちる前には、スカイダイビングをするように手足を伸ばして落ちてきた。すべてを受け入れるかのように、足から落ちようとも、頭をかばおうともしなかった。

     ひどく鈍い音を立てて地面に叩きつけられた銅の体は一度跳ね上がって、それからもう一度地面に叩きつけられた。
     草太はその光景を、目の前で見てしまった。

    「あか、がね……」

     うつぶせに倒れたその体からは、返事の代わりに血が流れてきた。

    「嘘だ! 嘘だ!」

     地面を照らす夕日よりも赤い水たまりが、銅を中心に広がっていく。ずっと一緒にいようと約束した友達が倒れている。

    「銅!」

     汚れることも考えず勢いで抱き起こした。その銅にはもう、顔と呼べるものがなかった。すべてが赤く染められていた。額が陥没して、鼻がつぶれて、顎が砕けたのか口が開いて、前歯はごっそり砕けて、口内を染める血の中に沈んでいる。

     さっきまで元気で、自分に手を振っていた友達。そのあまりの変わり果てた姿に草太も気が遠くなりかけた。それでも、腕に抱いた銅の体から魂が抜けていくのがわかって気力を振り絞った。

    「銅!」

     だめだ。このままでは死んでしまう。そんなこと、草太が許せるはずがない。

    「く、っそ!」

     これは自分のわがままだ。死者の魂をとどめるのは、気軽にやっていいことではない。それでも。紙枝市に帰りたいと伝えてきた銅を思うと、どうしようもなかった。

    「色紙山嫡子、草太の名において銅優太の魂に命ずる」

     草太は泣きながら、銅の魂を現世へと縛りつけた。

    「縛魂《ばくこん》!」

     腕に抱いた体の中から、抜けかかっている魂を確かな形に縛って抜き出した。きっとこの瞬間、塩原優太は肉体的に死んでしまった。草太は、生まれて初めて人を殺したことになった。それでも、この体はもう救えなくても、せめて魂だけは、心だけは救いたかった。

    「銅優太。俺を呼べ。俺に従え。俺が死ぬまで契約を結べ」

     抜け出た魂は腕に抱えた塩原優太と同じくひどい姿をしていた。その幽霊に手を伸ばす。幽霊は、縋るように草太の手を取った。

    「そう、た……色紙山、草太」

     契約は、成った。

     繋がった線から出来る限りの修復術をかけまくる。青く光る草太の霊力に包まれた幽霊は、それが消えたときには傷一つない少年の姿になっていた。
     片手で塩原優太の亡骸を抱き、片手で銅優太の幽霊の手を握ったまま、草太は泣き笑いを浮かべた。

    「帰ろう銅。俺たちの街へ」

     その後草太は駆けつけた警察に補導され、ぐちゃぐちゃになった銅の体は病院に運ばれていった。

     草太の修復術ですっかり生きている人間と同じくらいの見た目になった銅は自分の体を見送って草太につき従い、一緒に警察の聴取を受けていた。
     そこで銅は草太に言ったのだ。母親のことは言わないでほしい。自分がうっかり落ちたことにしてくれと。

     それをその通り証言するのに、ひどい抵抗を覚えた。草太は銅の母親があのベランダにいたのを見ているのに。
     でも銅は泣きながら言うのだ。

    「俺があの格好で落ちたのは、それまでの虐待の痕を消すためでもあったんだ」

    「  」

     足から落ちようとも、頭をかばおうともしなかった、銅。全身で衝撃を受けるような真似をしたのはまさか。

    「母さんにこれ以上迷惑かけたくないんだ。お願い。草太」

     事情を聞く警官たちの前で、草太はしばらく泣いて話が出来なかった。
     銅は優しい。こんなにも優しい善人なのだ。それがどうして世間からバッシングをくらって、裏切られて、母親に突き落とされるような最期を迎えなければならなかった。

     馬鹿なやつらが切り取られた情報を、これがこいつの本質だと勝手にわかった気になって誤解して、百パーセント悪だと決めつけた。カンダタのような悪党にだってわずかな善行で差し伸べられた蜘蛛の糸があるのに、どうして銅には救済の手が差し伸べられなかった。

     何が正義だ。気に食わない投稿者を叩いてストレスを発散したいだけだろう。正義を大義名分にすれば何をしても許されるのか。個人を特定して家まで押しかけて、くだらない貼り紙や落書きを残して。それどころか直接攻撃するなんて。それが何年もたった一人で子供を育ててきたシングルマザーの心を壊して、お前たちの正義は母親に子供を殺させた。銅は、そんな残酷な死をもって償わなければならないような罪を犯したのか。

     違う。違う。違うだろう。ふざけるな。

     警察の聴取が終わって、机とパイプ椅子だけのせまい個室で祖母の迎えを待つ間、椅子に座ったまま草太は苛立ちで爆発しそうだった。
     銅の言う通り、草太は彼が誤って落ちたと証言した。世間的に塩原優太の死は、事故ということになるだろう。

     血に染まっていた手は洗ったし、警察の計らいで借してもらったジャージに着替えた。それでも草太の両手には、銅を抱えた胸には、まだあの湿った感触と鉄のにおいがする。

    「呪おう。全部」

     両手を見下ろして言った草太に、銅は不思議そうに首をかしげた。その銅に草太はまくし立てた。

    「そうだ呪おう。まずはお前を裏切ったクズを呪い殺そう。次はお前を信じなかったクラスのやつを。校長や担任を。玄関に貼られてた紙を媒介にすれば貼ったやつも呪い殺せる。お前を蔑ろにしたやつ、全部俺が呪い殺して」

    「いらないよ」

     銅は、復讐を望まなかった。いくら草太が呪えば完全犯罪になると言っても応じない。

    「どうして」
    「草太。俺はもう疲れたんだ。草太が怒ってくれるだけで充分」
    「銅……わかってるのか。お前は世間に殺されたようなものだぞ。お前まだ、十六にもなってない」
    「俺の誕生日、覚えててくれたの?」
    「細かい日付は忘れた。でも秋だったのは覚えてる」

     今はまだ、六月だ。銅はまだまだ続くはずだった人生を、こんな形で終えてしまったのだ。

     享年、十五歳。

    「やり切れねえよ」
     拳を握りしめる草太の両手を、銅が包んだ。
    「うん。もう人間の人生は送れない。でも俺は、この姿になってやっと自由になれた気がしてるよ」
     ありがとうと、銅は笑った。

    「友達は草太だけでいい。だって、一生俺といてくれるんでしょう?」

     そう確認する銅の目は、不安そうに揺れていた。

    「俺は裏切らない。一生友達だ」

     銅を見つめると、彼は安心したようによかったと笑った。

    「帰ろう草太。俺たちの街へ」



     熱に浮かされながら草太が語った過去に、このはは絶句した。
     銅が消えたあと、このはは草太を支えて彼の家まで連れ帰った。そして布団に入った草太は、おもむろに昔話を始めたのだ。その内容に、このはは背筋の寒くなる思いだった。

    『あのさ、人にはたまたまってあるでしょう?』

     かつて、斎藤が言った言葉がよみがえる。

    『その日に限って寝坊したとか、ハンカチ持ってくるの忘れたとか。そのときに限ってやらかしたとか。そんな感じのたまたまの失敗をガチで指摘されたら、いつもはちゃんとしてる人ほど傷つくじゃない』

    『あなたがこれまで注意してきた人の中に、そういう人がいなかった保障ある? 人を深く傷つけなかった自信ある?』

     正義は、正しさはきっと人によって違う。それでも正しいと思って人が突き進んだ道の先で、傷つく人がいるかもしれない。失われる命があるかもしれない。斎藤が教えてくれなかったらこのはだって、銅のような善人を、一部分だけ見て悪人と思って攻撃してしまったのかもしれないのだ。

    「行き過ぎた正義は、人を殺す。銅は人が振りかざした正義に殺されたんだ」

     布団に横になった草太は投げやりに言う。

    「メロスはいいよな。ぎりぎりでも友達を助けられて」

     朦朧としながら紡がれた皮肉。草太は、日が沈む前に銅のもとを訪れた。でも、救うことは出来なかった。

    「マッハ十一とは言わねえ。でも俺がもっと、早く来ていれば……」

     ずっと、考えてしまうのだという。あそこで道に迷わなかったら。あの乗り換えでもたつかなかったら。もっと早く来れたのにと。

     泣きそうな声で言って腕で目元を覆う草太を前に、このはも泣きたい気持ちになった。

     大事な友達を亡くした。あのとき自分がもっとこうしていたらと、何千回も何万回も考えた。草太の後悔は、このはにだってあるものだ。
    「草太さんは、悪くないですよ」
     悔いる草太に、このははかける言葉を探した。
    「だって……今の銅は、ずっと楽しそうじゃないですか」

     このはの知る銅は神出鬼没で、掴みどころがなくて。でも、いつだって自由だった。笑っていることが多かった。

    「草太さんは、草太さんに出来ることをしました」
     だからこのはも、このはに出来ることをしよう。
    「本、借りますね」


     銅は消耗を抑えるために見えなくなっただけで、草太の近くにはいるらしい。ただ、草太が回復するまでは出てこないだろうということだ。銅のあの姿は、草太にとってのトラウマだろう。そうなってしまったから、姿を消してしまったのだ。銅は気遣いができる器量の持ち主だった。

     そんな銅が十五歳という若さで亡くなったことは本当に悲しいことだが、彼はたとえ幽霊としてでも、今を謳歌している。二人には決して言えないことだが、友人を亡くしたきりのこのはには、正直彼らがうらやましかった。

     草太を寝かせて本を預かったこのはは、そのままアパートに帰った。

    「あ、マスク」

     帰ったところで思い出した。最初に草太の家を訪れたときにはしていたが、一度帰ってきたときに外してそれっきりだったのだ。

    「うつったかも……」

     軽く凹んだが、もうどうしようもない。今日は夕飯を食べたらシャワーを浴びて早く寝てしまおう。

     そう決めてその通りにした翌朝。幸いすっきりと目覚めることができた。
     部屋着にしているパーカーとジャージのズボンまま物の少ないワンルームの部屋を軽く掃除して、それからパソコンを開いた。情報収集のためにスレッドを開くと、昨日のつむじ風の情報が出ている。それによると砂が目に入るなどして眼科に行く怪我人も出ているそうだ。

     昨日、草太のいる集落から発生したつむじ風は市街地のほうへ向かっていった。この街には王城などというものはないしどこに向かったのかと思ったが、中央公園の辺りで消えたという。スレを追ってみると、数日前もその辺りでつむじ風が消えるのを見たと答える人がいた。どうやらメロスは街の中心地を目指しているらしい。

     今日はそこで待ち構えるのもありかもしれない。一応、草太にもメッセージでその旨を報告した。
     すると返事が来て、もし体調が回復したら自分もそこに行くという。無理だけはしないでほしいとこのはが告げれば、それに対する返事は「寝てれば治る。夕方まで寝る」だったので呆れてしまった。

     睡眠の邪魔をしないように「おやすみなさい」とだけ送って、このははスレッドを見た。すると挙がった被害報告の中に犬が怪我をしたというのがあって、パソコンに向かっていたこのはは思わず席を立った。

     こうしている場合ではない。中心街で待っている場合ではないではないか。そこにたどり着くまでにつむじ風に巻き込まれる被害ワンコが今日も出てしまうかもしれない。確か草太は昼の間に気配を探って夕方出てきたところを捕まえると言っていた。出てきてからでは遅い。今から探そう。そうしよう。

     このははさっそく身支度を整えた。軽く化粧をして、動きやすさと外の寒さを考えてウィンドブレーカーに着替える。紙をまとめてクリップでとめ、手ごろなサイズのショルダーバッグに本と財布とスマホを突っ込んで、スニーカーを履いて部屋を出た。

    『物語』の気配はもう覚えた。あの急激に胸に飛来するモヤッとした気持ちだ。それを感じたら近くにいる。
     あてもなく、このはは街をさ迷い歩いた。しかし、午後三時半を過ぎても気配が見つからない。冬の日暮れは早い。もう陽光が黄色く色を変え始めていた。

     そんなときだ。草太から連絡が来た。

    『気配がする。今日も家の近くに出るかもしれねえ』

     結局草太の家に行くことになった。
     散々歩き回った足をバスに乗って休ませながら、座席に座ったこのはは『走れメロス』のページを開いた。序盤のメロスは暴君を討つために単身で王城に乗り込んだり、処刑されそうになったらセリヌンティウスを身代わりに置いていくなどいささか短絡的に思える。しかし数々の障害を乗り越えて、メロスは約束通り戻って来た。それを見て感動した王に命を狙った罪ごと許されて、物語はメロスもセリヌンティウスも死なないで暴君が改心したハッピーエンドを迎える。

     こんなに都合のいいことが起きる世の中だったなら、草太と銅は今も人間の普通の友達として生きていたのかもしれない。世の中は、ときに物語よりも残酷だ。

     考えているうちに、バスは市街地を抜けて田園地帯に入る。集落に近づくと、胸の内にモヤッとした感覚がした。いる。メロスかはわからないが『物語』の気配だ。

     草太から連絡をもらった時点でこのはは市街地をはさんでかなり遠くにいたため、ここまで来るのに時間がかかってしまった。辺りはもう夕暮れどきだ。

     夕日に照らされた集落にバスが入る。このはは集落の停留所で降りた。
     昨日と同じ場所、同じような時間だった。草太の姿は見えない。体調のこともあるし、来ないのならそれでもしかたがないと思う。

     バスが、集落の終わりに生えている柳の木の横を通過した。

     その直後だった。バスと入れ違いに、黒いつむじ風が発生する。昨日と同じく、それは市街地に向かって走り出した。このはは通せんぼするように道路の真ん中に立って本を広げる。

    「あっ……」

     メロスより先に吹いた風に煽られて、本が手から飛ばされてしまった。このままではぶつかる。そう思ったとき、このはは強い力でその場から移動させられていた。
    「えっ」
     このはの体を抱えるようにしてメロスの正面からどけたのは、草太だった。

    「大丈夫か」

     草太はこのはから離れると、道に落ちた本を拾った。

    「草太さん、メロスが行っちゃいました!」

     また取り逃がした。悔しく思いながら市街地に向かうつむじ風を見ていると、草太は去っていくメロスに向けて本を広げた。

    「大丈夫」

     次の瞬間、彼の体から青い光が柱のように立ち上った。これは草太の霊力だ。力を解放している間は満足に動けないが、物語はこの光に集まってくる。その間草太の動きは鈍るし複数の物語に集まって来られては対処が追いつかないから、滅多にやらないという物語ホイホイだ。

     過ぎ去っていったつむじ風は、急に進路を変えて舞い戻ってきた。迎え撃つ草太の額には汗がにじんでいる。本調子ではないのを察して、このはは飛びつくようにその背を支えた。草太は驚いた顔をしたものの、すぐに前を見つめた。

     やって来るつむじ風に本を突き出す。その中へ、草太の霊力目指してやって来た風が、吸い込まれた。

    「っ」

     風が強すぎて詰まっていた息を、ようやく吐き出せるようになった。草太も、その背中に抱きつくようにして支えていたこのはも荒い息を継ぐ。お互いの呼吸が重なるように響いた。
     はっとしてこのはが離れれば、夕日に照らされながら草太が笑う。

    「前髪滅茶苦茶だぞ」

     言われて反射的に前髪を押さえた。束ねた後ろの髪は無事だったと思う。むしろ草太のほうがひどい。

    「草太さんだって滅茶苦茶です」

     そう告げると、彼も手櫛で髪を直し始めた。なんとなくおかしくて、お互いに噴き出した。そして、草太が言う。

    「ありがとな」

     夕日に照らされたその笑顔が、どうしてか格好よく見えた。


    終章



     はた迷惑なメロスを封じて、二日が経っていた。
     午後七時、銅がこのはの部屋にやって来た。

    「お邪魔しまーす。見て見て。草太に直してもらったんだ」

     回復した草太に修復してもらってすっかり元通りになったのだと、銅が顔を見せに来たのだ。銅は確かに、傷一つない少年の姿になっていた。
     だがそれを喜べるだけの余裕は、今のこのはには残っていなかった。

    「そう、よかったわね……」

     こんな早い時間からベッドに寝ているこのはを、銅は不思議そうにどうしたのと見下ろしてきた。

    「実は、インフルエンザになっちゃって」

    「え!」

     メロスを封じた翌日にだるさと頭痛に襲われて、這うように仕事に行ったが限界を迎えて早退した。病院に行ってみればインフルエンザと診断されたのだ。

    「ごめん! 絶対草太だよね。ほんとごめんね!」

     元気よく謝って来る銅の声が頭に響く。悪いけど寝かせてほしいと告げると、彼は本当にごめんと謝りながら去っていった。
     昨日より熱は下がったが、節々の痛みがひどい。もちろん個人差はあるだろうがこんな体でメロスに立ち向かった草太は化け物かと今更疑ってしまった。

     そんなことを考えながらぐっすりと寝て、翌日には微熱程度に熱が引いていた。しかし体はまだあちこち痛い。晴れ渡った空を窓越しに見上げながら、このははため息をついた。
     今日になった直後から、数少ない友人たちからちらほらとスマホにメッセージが届いていた。朝になったら、両親からも。せっかく来たそれらにまともな返事を書く気力も、今はない。今日はある意味特別な日なのに、一人で部屋にこもっている。

     じめじめとしたみじめな気分で横になっていると、ふとチャイムの音が聞こえてきた。このアパートにはカメラつきのインターフォンなどというものはないため、やって来た相手の確認は覗き穴でするしかない。しかし今のこのはにはそれさえ面倒で確かめもせずドアを開けた。

    「えっ……」

     そこに立っていたのは、銅を伴った草太だった。今日は黒いコートにタートルネック。黒いテーパードパンツとブーツという装いだった。なぜか段ボール箱を抱えている。

     銅はともかく草太が来るのは初めてだったため、びっくりしてしまった。固まるこのはに、草太は長居はしないから入ってもいいかと聞いてくる。戸惑いながら招き入れて、箱を置きたそうにしている彼にキッチンを示した。空いている調理スペースに箱を置くと、草太はその中からレトルトのおかゆや飲み物のペットボトルを取り出した。

    「これ。この前のお返し。本当に悪かった」

     このはにうつしたことに責任を感じているのか、草太はすまなそうに頭を下げる。このはを呼んだ張本人である銅も、その隣で頭を下げた。
    「気にしてません。マスクし忘れた私も悪いので」

     誰からうつったかはほぼ確実だが、だからといって責めるつもりはないのだ。草太がインフルエンザとわかった上で行くと決めたのはこのはだし、行くとなった時点でマスクがあってもうつる可能性は考えていた。あまつさえそのマスクをし忘れて行ったのだ。自業自得に近かった。
     草太は段ボール箱の中から、また箱を取り出した。それは、ケーキの箱だった。

    「のど痛めてたら普通のは食べるの辛いかと思って、アイスケーキにした」

     これは偶然だろうか。そう思っていると、草太が言う。

    「誕生日おめでとう」
    「おめでとう、このはちゃん」

     草太と銅に言われて、このはは自分の胸が暖かくなるのを感じた。

    「ありがとう……でも、どうして」

     そう聞くと、名簿に書いてあっただろうと草太が言った。お守りの授与者名簿にそういえば生年月日まで書いてあったのを思い出して、このはは納得した。

    「誕生日の日付を見てやっとわかったよ。このは」

     初めて、草太に名前を呼ばれた。今までずっとお前呼びだった分、急に呼ばれるとドキリとしてしまう。

     草太は段ボールから、花を咲かせた梅の枝を取り出した。

    「『このは』は『木《こ》の花』。梅のことだったんだな」

     そう言って差し出された白い梅の枝は、春の香りを漂わせていた。買ったものではない。おそらく彼の家の庭に生えていた、あの梅の木だろう。

    「春山このは。いい名前だ」

     このは自身は気に入っている自分の名前。でも、紛らわしくて、説明しなければほぼ確実に誤解されてしまう名前。苗字との組み合わせもあって、子供のころはよく変な名前と言われていた。でもそれは逆に、訂正して意味を覚え直してもらう機会でもあった。けれど、大人になってからは正面から変と言われることもなくなってしまった、意味を訂正する機会のなくなった名前。
     それを、草太は言われなくても誕生日の時期だけでわかってくれた。
     白梅を差し出す彼を前に、このはは嬉しくてにやけそうになる口元を押さえた。
    「ありがとうございます」
     春はもう、すぐそこだ。

    了

     
     
    コスプレイヤーが登場人物のコスプレをして自撮りしただけのプロフ画! 初めまして鈴里華るんです 20260625公開の「物語ハンター」に出てくる草太イメージのコスをしたプロフ画(重加工) JK時代に福島県文学賞青少年奨励賞受賞してます よろしくお願いします!

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