メインコンテンツへスキップ
見出し画像

私が子育てをメインコンテンツにしない理由。


    自己紹介にも書いているが、我が家には五歳の双子男子という怪獣と、二歳の女子という怪獣、三体がいる。

    「子育てのことをエッセイにしないの?」と言われることがある。

    書こうと思えば、毎日ネタだらけである。日中は保育園にいるけれど、朝と夜だけでも大変な騒ぎだ。


    今まで何度か、印象的なことがあった時に子育てに関連したエッセイを書いてはいる。

    しかし、それは私のメインコンテンツではない。
    メインコンテンツにしようと思っていない。

    それは何故か。

    単純に、「大きくなった時、嫌じゃないかな?」と思うからである。

    誤解しないで欲しいのは、私自身、誰かの子育てエッセイや漫画、ツイートを見るのはとても好きだ。

    だから、この記事は、それを書いている人を批判したものではない。

    単純に、どうして私が書く気が起きないか、という話だ。

    私の話をする。

    私の両親は優しく、小さい時の写真やホームビデオがたくさんある。

    今は、懐かしい気持ちでそれを眺められるが、思春期をすぎて大人になるまで、それを振り返られるのが、とてもとても恥ずかしかった。

    赤ちゃんの頃や、幼稚園の頃のエピソードを振り返られるのがとてもとても恥ずかしかった。

    私の過去を擦る鉄板ネタで、「もへママしんべれらヨッシー」という言葉がある。
    ママ・シンデレラ・ヨッシーという憧れ全部盛りだ。
    ピンク色のバスタオルをマントに、伊達メガネをかけて何者かになりきっている証拠写真付き。

    その話をされる度に、なんだか気恥ずかしさと、またその話かという気持ち、両方に襲われる。

    父としては可愛い娘の可愛かったエピソードなのだろうと言うのは、親になった今よく分かる。しかし当人としては、もうとっくに通り過ぎた昔のことであり、しかし尚且つ覚えている自分の昔の無邪気さである。二重苦だ。


    ここで、エッセイやSNS投稿のことを思う。

    親にとって、子どもは自分と地続きの存在のように感じられる瞬間があると思う。
    だからこそ、無意識のうちに「語っていいもの」として扱ってしまう危うさもある。

    赤ちゃんの時はまだいい。赤ちゃんはだいたい等しく同じく可愛く、本人の記憶も大きくなるにつれてほぼ無くなる。記憶がない分「赤ちゃんの時のことだし」と割り切れるところもあると思う。

    しかし問題は喋りだしてからだ。
    少なくとも私には、いちばん古い記憶として2歳の時の記憶がある。

    その時の、記憶がありながら、無邪気にした問いかけや、失敗や、調子に乗ってやったこと。

    もしそれが、全世界から見られる形で、自分の知らないところで公開されていたら。

    父が繰り返し私に話してくるエピソードの苦さどころの話ではない。


    この気持ちが、私が子どものことをエッセイに書く気持ちにさせない。


    単純に、我が家の怪獣が怪獣すぎるから余計にそうなのかもしれない。
    可愛いエピソードより困ったエピソードの方が増えそうだから。

    そうなった時に、彼らが将来その事を知ったら、あまりにも嫌われそうだ(笑)

    これが、私が子育てエッセイを進んで書かない理由なのだと思う。



    おまけ

    もへママしんべれらヨッシーはこんな感じの写真⬇️

    画像

    サムネにした画像。ChatGPTに作ってもらったけどリアルすぎる笑
    私の幼少期に顔は全く似ていません笑
    頭にバケツ的な物も被ってた気もするけど…ちょっと思い出せないな笑

    プロンプト⬇️

    画像を作って欲しい。
    ・4歳くらいの女の子
    ・ビビットなピンクのバスタオルをマント代わりにして、前を洗濯バサミで挟んでいる
    ・ピースしている
    ・半袖短パン
    ・大きめの伊達メガネ
    ・おかっぱ頭
    ・作ったような満面の笑み
    ・90年代のフィルムカメラの雰囲気
    ・日本の一般家庭のカーテンが背景の日常写真
    ・横長の構図

    優秀ですね〜(結局AIの話で終わるやつ)

     
     
     

    もへ

     
     
    物語(フィクション)と現実(リアル)の境界線を溶かし泳いでいます。哲学エッセイ・創作・詩・AIとの対話など、AIについて哲学的に考えてることが多いです。

    あなたへのおすすめ