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Photo bytokushimagoshuin

愛国心に右も左もないのに 私の80年談話

    参政党は、愛国心がない国民は「非国民」だ、と言っている。

    という噂を聞きました。


    憲法案で国民の要件を 『愛国心』にする参政党。愛国心がないと判断された国民は非国民となって人権消滅ですか。

    参政党『人権は国籍の有無で線引きされる』

    こんな事言いながら憲法案で国民の要件を
    『愛国心』にする参政党。愛国心がないと判断された国民は非国民となって人権消滅ですか。
    pic.twitter.com/sQJiCitAHH

    — 狐のエルフ (@wa_oen3707) August 9, 2025


    へえ、参政党はそんなこと言ってるんだ、と私は思っていましたが。

    でも、念のため参政党の憲法案を確認したところ、国民の要件を「愛国心」とする条項は見当たりませんでした。

    以下のように書いてあるだけです。


    参政党:新日本憲法
    (国民)
    第五条 国民の要件は、父または母が日本人であり、日本語を母語とし、日本を大切にする心を有することを基準として、法律で定める。


    そして、この「日本を大切にする心」には註が付いており、


    「規範的要件だが、我が国に対する害意がないことをもって足りると解すべきである。」


    と、「愛国心」よりは、かなり控えめに定義されています。


    だから、参政党は「愛国心を国民の要件としている」というのは、デマだと思います。

    でも、「参政党ならそういうことを言いそうだ」と思われているのでしょう。私だって、そう思ったくらい。


    右翼は日本人を「国民と非国民」に選別しようとしている、と左翼に批判されているわけです。


    では、左翼のほうはどうか。


    左翼だって、日本人を選別したいと思っている、というのが、昨日(14日)の朝日新聞の記事(安藤馨の論文)によって、あぶり出されていました。

    東京大学教授の本田由紀は、参政党の躍進に触れた安藤(一橋大教授)の論説へのコメントで、


    被選挙権すなわち立候補者に対して、最低限の知識や理解ーーたとえば日本国憲法などーーを確認するという仕組みを考えてみてはどうか、と想像した。


    と書いています。


    安藤の論文は、民主政における選挙権の危うさを指摘したものですが、本田はさらに議論を一歩進めて、被選挙権に条件を付けることを考えています。

    まあつまり「バカは選挙に出るな」と。

    これは、安藤馨氏が論文に仕掛けた「罠」ーー朝日読者のエリート意識を刺激するーーに、まんまとハマった形です。


    この本間教授の、ある意味「素直」な反応に、驚いている人のポストがありました。


    最近自称リベラルはこの欲望を隠さなくなってきたね。口に出すのもNGだと思ってたんですが。

    最近自称リベラルはこの欲望を隠さなくなってきたね。口に出すのもNGだと思ってたんですが。 pic.twitter.com/oxirXt0ijm

    — 人間の鑑🇺🇦 (@onshanow) August 13, 2025


    左翼リベラルが「民主主義」への憎しみを顕わにしているのは、世界的現象です。

    それについても、数日前に書きました。


    いずれにせよ、いま日本ではーー


    「右」は、「日本を大切にする心」を国民の要件にしたい。

    「左」は、「最低限の知識や理解」を国民の要件にしたい。


    でも、どっちも、国民の分断を恒常化したい、としか、私には思えません。

    同じようなことを感じている方は、多いのではないでしょうか。


    おそらく社会分断って「対話が存在しない」ことではなく、むしろ対話は活発に行われているんだけど前提となる認識が違い過ぎて、誤読・曲解・揶揄・誹謗なんかが起こりすぎてる現象なんでしょうね。 安藤さんの「憲法季評」に対するX上での反応見てて思った。

    おそらく社会分断って「対話が存在しない」ことではなく、むしろ対話は活発に行われているんだけど前提となる認識が違い過ぎて、誤読・曲解・揶揄・誹謗なんかが起こりすぎてる現象なんでしょうね。

    安藤さんの「憲法季評」に対するX上での反応見てて思った。

    — 大賀哲 / Toru Oga (@toruoga0916) August 14, 2025


    *


    本来、「愛国心」には、右も左もないはずです。

    いや、私なんかが、エラソーに言うことはないですが。

    でも、今日は8月15日だし、私も何か言いたい。


    愛国心には、右も左もない。

    むしろ、右と左を対話させる条件として、愛国心はあるべきですね。


    これはもちろん、愛国心の定義にもよります。

    数日前に、参政党が「愛国心」を求めるのは正しいと書いた時、zerateという方がコメントを寄せてくれました。


    私はその意味がよくわからないのだけど、

    「愛国心によって国民を動員しようとする思想はむしろ左翼だ」

    という意味なら、それもそうだな、と思いました。


    フランス革命によって生まれたフランス、独立戦争によって生まれたアメリカは、近代の「国民国家」のあけぼのとされます。

    どちらの建国も、国民を動員する「愛国心」によって導かれました。

    そして、どちらの国も、従来の伝統文化を断ち切ったという点では「左翼」であり、その後の保守派により批判されました。(というか、フランス革命を批判するところから、バークらの保守思想が生まれました)


    でも、ご承知のとおり、右翼と左翼は、フランス革命後の国民議会の座席の位置から生まれた言葉です。

    だから、ここには、右翼、左翼という用語法の、ちょっとした混乱があるように思えます。


    愛国心は、国民を革命や戦争に動員する強力な要因となり、事実上の強制力にもなる。

    愛国心という言葉を警戒する人は、それを恐れているのでしょう。


    でも、愛国心は、「同じ船に乗っている」という意識も意味するのではないでしょうか。

    私が、「愛国心が必要だ」と言う時、思い浮かべているのは、そういう「同じ船」意識です。


    そして、その「船」に乗ったのは、必ずしも自分の意思ではない。

    この国に生まれたのは、自然的な条件なのだから、人為的な要件とは別物に思えます。


    その「同じ船に乗っている」という意識さえ共有できれば、右と左は対話できるはずなんですね。


    *


    私がそれで思い出すのは、徳富蘆花の「謀叛(むほん)論」です。

    その解説などは朝っぱらからしません。専門家でもないし。

    ネットにいくらでも解説があります。私も、昔ちょっとだけ、それについて書いたことがあります。


    これは、簡単に言えば、大逆事件で12名が処刑された時(1911年=明治44年)、

    「幸徳秋水らを処刑したのは間違いだ」

    と、作家の徳富蘆花が抗議した演説です。

    抗議演説が行われたのは一高だったので、当時一高校長の新渡戸稲造が処分されました。


    徳富蘆花は、左翼ではなく、むしろ右翼でした。

    でも、彼は、天皇を殺そうとした幸徳秋水らを、赦すべきだったと主張したのでした。


    (私は)大逆罪の企てに万不同意であると同時に、その企ての失敗を喜ぶと同時に、彼ら12名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。(中略)

    陛下に仁慈の御心がなかったのか。御愛憎があったのか。断じてそうではない(中略)身をもって懇願する者があったならば、陛下も御頷きになって、我らは12名の革命家の墓を建てずにすんだであろう。

    (現代語訳 謀叛論 徳冨蘆花 著、上河内岳夫 現代語訳 より)


    つまり、極左だって、国を想ってやったことだ、天皇だって、その気持ちは理解できるはずだ、というわけです。

    そこには、天皇の前で、腹を割って誠意を尽くせば、右と左は対話できるはずだ、という信念があります。


    もちろん、今から見れば、徳富蘆花がナイーブに過ぎると思えるでしょう。

    でも戦前、しかも明治期に、こういう言説が一定の説得力を持ったのは、忘れ去るには惜しいことだと思います。


    それから約60年後、全共闘との対話集会での三島由紀夫の言葉、

    「君たちが安田講堂で一言、『天皇万歳』と言えば、私は喜んで君たちとともに戦った」

    に通じるところがあります。


    *


    「同じ船に乗っている」という意識は、戦前は「同じ天皇の赤子」という観念で表現されました。

    それが戦後は、「同じ憲法で権利が保障された国民」に変わったのかもしれません。

    でも、言いたいことは、ほとんど同じに私には思えます。


    「同じ船に乗っている」意識を支えるのは、天皇なのか、憲法なのか。

    現時点で、それがどうもはっきりしていない。


    「右」の立場から見れば、憲法はほとんど「左」に乗っ取られています。

    一字一句それを変えることは許さん、と「左」が言い張っている限り、それ以外の国民は、憲法を国民意識の根拠にすることができません。


    「左」の立場から見れば、天皇制は「右」に乗っ取られていると見えているかもしれない。

    女系天皇はもちろん、女性天皇もまかりならん、と「右」が言い張っている限り、それ以外の国民は、天皇性を自分たちのものと感じられないかもしれません。


    そうやって、右も左も、対話の前提になるべき土台を、いつまでも掘り崩しているだけに見えます。


    まず、右も左も、「土台」づくりのために、歩み寄るべきではないでしょうか。

    左は、改憲について、少し譲歩する。たとえば、表現に留意した上で、9条2項改正に同意する。

    右は、男系天皇論について、少し譲歩する。女性天皇を認めるとか、「双系」について議論する、とか。


    両派は、自分たちの主張を通すことより、こうした国民意識の土台づくりを、未来の世代のために優先させ、始めてほしい。

    という希望を申し上げて、私の「戦後80年談話」といたします。



    <参考>


     
     
     
    会社を定年退職し、神奈川県は柿生の里に隠棲する。新聞社、出版社に勤め、記者や編集者をやっていた。独身、孤独を愛する。老人であることを自覚し、記憶力もあやしくなりつつあるので、ここに書き残したいことを書き残しておく。世間から引退したので、社交は望みません。

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