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政治家もメディアも人々と「対話」しなくなった

    (ヘッダー画像はYouTube「まなびばLIVE 【深田萌絵】これが民意だ! 街頭演説 2025/6/1 八王子駅」より)


    山尾しおり問題で、山尾も、不倫相手とされる倉持も、人々の前に出てきて説明しようとしない。

    人々との対話を拒絶し、いつも話が一方通行だ。それが政治家としてダメで、嫌われるところですね。


    でも、それは山尾だけじゃなくて、たとえば今ネットを騒がせている萩生田光一VS深田萌絵でも、萩生田本人は前面に出て来ず、つねに「事務所秘書」がXにポストしたりしている。

    お前は皇族か、と。政治家なら本人が直接、選挙民に説明するべきです。


    以前も書いたけど、私が小沢一郎が嫌いなのも、そういうところでね。

    本人が出てこない。国会もサボっているらしい。


    安倍晋三とか、トランプとかは、もう少し前に出てきていた。

    それでマイナスイメージが広がろうが、狙撃されようが、「選挙民と接するのが政治家の仕事」という本能のようなものがある。


    それなのに、今は多くの政治家が、「メディアを介して」選挙民に接触しようとする。

    とくに、自分に都合のいいメディアを選り好みして露出する傾向が強まっている。

    その結果、政治家本人の実像がよくわからないまま、人々は投票しなければならなくなっている。


    *


    そして、その「メディア」も、ますます読者や視聴者との接触を避けようとしています。

    昔はーー少なくとも私が就職した昭和の末期ごろはーー新聞社は一般人でも編集局まで自由に出入りできていました。

    まあ役所なんかもそうで、そういう場所は社会の公共スペースという感覚だった。ふらっと入って行けるところだったのだ。

    報道に不満があれば、読者が普通に編集部に電話をかけて文句を言っていた。それを記者が受けていた。

    「セキュリティ」を理由に、選挙民や読者との距離は遠くなるばかり。「セキュリティ」への配慮がわからないではないが、都合のいい言い訳に過ぎないようにも思えます。


    +


    テクノロジー的には、人々のコミュニケーションは以前より格段に簡便になったはずだが、「対話」はむしろなくなってしまった。

    便利になったメディアで、一方的に情報が垂れ流されている。

    そういえば小泉進次郎もXのコメント欄を閉じたそうだけど。

    そういう形で、政治家も、メディアも、自分の都合のいい話だけを流して、反論は受け付けない。

    そういうふうになってしまっている。


    ネットの情報は玉石混交で、真偽不明の陰謀論が多いのは事実だけど、たとえば深田萌絵のような人が、人々の前面に出て人々に語り掛ければ、人々が彼女になびくのはわかる。

    人々は、そういう「直接的な」接触や対話に飢えているのだと思う。話している内容の問題ではない。


    逆に、「対話」を拒絶した政治家やメディアが、仮に正しいことをしたり言ったりしてたとしても、人々は信じなくなっている。

    ここでも、問題は話の内容より、その姿勢だ。


    *


    私はメディアの中にいて、そういう「壁」が読者や視聴者とのあいだに築かれていく過程をイライラしながら見ていた。

    でも、どうしようもなかったのも事実です。

    どうもすみません。


    いまメディアの外から社会を眺めると、政治や、メディアの中の情報といった公的な「現実」が、身近ではなく、何か遠いところで起こっている絵空事に思えている。

    それによって、何か「現実感」がゆがみ、人々がものごとに対処できなくなっている。

    うまく言えないけど、そんな気がする。


    *


    でも、こういうこと、以前にも言った人がいたな、と思った。

    中島梓(栗本薫)だ。

    彼女にはその名も『コミュニケーション不全症候群』(1991)という著作があるが、いま私の書棚にない。

    その前に彼女が書いた『ベストセラーの構造』(1988)は書棚に残っていた。そこに、以下のように書かれています。


    人はいまや、どこへ行っても「衆愚」政策の対象としてしか扱われず、そのレベルのものをしかあてがわれていないかもしれないのだ。(中略)

    われわれには本来、より高いもの、より自らをひきあげてくれるもの、より深い世界への洞察を与えてくれるものを欲し望む権利、あるいはその性向がそなわっているはずである。

    しかし(中略)いまやマスメディアがやっきになって供給しつづけるのは、世界への洞察ではなくイメージ化であり、卑近で表面的な「同じようなケース」の呈示であり、表層的で皮相な価値のむやみやたらの情報であるにすぎない。

    それによって、マスメディアは、もはやマスメディアそのものにも見とおすことができなくなった。

    『ベストセラーの構造』(講談社文庫版 p202)


    ここでの「マスメディア」に、今は「ネットメディア」を含めてもいいのではないでしょうか。

    ここで言われているのは、メディアが結局「低いもの」「見慣れたわかりやすいもの」「表層的でイメージ的なもの」に低落していく傾向です。

    ネットにも、高級な内容を目指している送り手はもちろんいる。でも、少しやってみると、「低落傾向」におちいっていくのを自ら感じるはずです。

    まして、それで「収益」を得ようとすると、ますますそうなる。

    マスメディアのカウンターであったはずのものが、マスメディアと同じ轍を踏むことになる。


    だから、上述したような「対話」の不足、あるいは拒絶は、政治家やメディアだけの問題ではなく、受け手である選挙民や視聴者の問題でもある。

    生活の質や文化が、高いほうではなく、低いほうに流れていく。

    突き詰めて考えれば、これは民主制一般に内在する問題なのかもしれない。


    でもメディアは、その民主制の中で、社会の各層を結びつける接着剤のはずだった。

    それが、今や各層を隔てる「壁」になっている。

    なぜ、こうなってしまったのかーー。

    まとまらない話ですみません。


    <参考>


     
     
     
    会社を定年退職し、神奈川県は柿生の里に隠棲する。新聞社、出版社に勤め、記者や編集者をやっていた。独身、孤独を愛する。老人であることを自覚し、記憶力もあやしくなりつつあるので、ここに書き残したいことを書き残しておく。世間から引退したので、社交は望みません。

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