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風雲!小沢城[後半戦] 柿生中心の日本史

    鎌倉時代から戦国時代にかけて、私が住む柿生(川崎市麻生区)近辺で最も重要な戦場だった「小沢城」。

    小沢城についての川崎市教育委員会の解説はこちら↓


    私のこの記事は、小沢城を舞台にした合戦史(8回戦)の後半です。

    前半はこちら↓


    *

    時代は、室町時代に入っていきます。

    室町時代って、わかりにくい。

    日本史素人の私が思うに、ナンバー1が常に弱くて、ナンバー2が常に強い構造がよくないんだと思う。

    会社で言えば、会長派と社長派、または社長派と副社長派が常に争っている感じ。

    もともと、創業者の足利尊氏に、会社経営のやる気がないというか、いい意味でのワンマン気質がなかった。それで、弟の直義との二頭体制になる。それがグチャグチャの出発点のような気がする。

    その二頭体制のようなものはその後も存続していて、ナンバー1(将軍)を補佐する強力なナンバー2「管領(執事)」という役職を常に置くようになる。

    さらにそれが、京都と、関東と、その両方で「二頭立て」になる。

    つまり、京都の将軍とその管領、関東の鎌倉公方とその管領(関東管領)。「4頭立て」ですね。

    将軍と鎌倉公方は足利家が継ぎ、京都の管領は斯波・畠山・細川家が継ぎ、関東管領は上杉家が継ぐ。

    その4者がそれぞれ仲が悪いうえに、関東管領の上杉家が扇谷上杉家と山内上杉家の2つに別れて争い合う。

    もうわけがわかりません・・

    こういう時代を見ると、曲がりなりにも「国」というものが機能している近代国家のありがたさを感じますね。

    近くで合戦とかやられると迷惑ですからね。治安はどうなってる。うちの近所で戦国時代やってんじゃねえよ、という感じだったでしょう。


    *

    風雲!小沢城 8回勝負


    第1回戦

    「サヨナラ鎌倉合戦」(柿生命名)

    元弘3(1333)年 
    守り:鎌倉北条軍 VS 攻め:新田義貞(足利)軍
    Winner 新田義貞軍

    第2回戦

    「鎌倉ちょっとだけ復活合戦」(柿生命名)

    建武元〜2年(1334〜5)
    守り:足利軍 VS 攻め:北条時行軍
    Winner 北条時行軍(→だけど、すぐに負け)

    第3回戦

    「足利の兄弟喧嘩」(柿生命名)
    正平6(1351)年
    守り:足利直義軍 攻め:足利尊氏軍
    Winner 尊氏軍

    (ここまでが前回)


    後半戦


    この状況の中で、扇谷上杉家の重臣だった長尾景春が、「自分が関東管領になりたい!」と謀反を起こす。もう本当にグチャグチャですよ。秩序ってもんはないのか、と。

    この長尾景春と、同じ扇谷上杉家の重臣だった太田道灌との戦いが、ウチの近くの小沢城で展開されます。


    第4回戦

    「太田道灌が頑張った合戦」(柿生命名)
    文明9(1477)年
    守り:長尾景春軍 攻め:太田道灌(上杉)軍
    WInner 太田道灌軍

    長尾景春の本拠地は秩父の鉢形城でしたが、北関東の仲間を集めて南関東を攻めるべく、関戸、矢の口で多摩川を渡り、小沢城を前線としていました。

    太田道灌率いる上杉勢は、この裏切り者を討つために、丸子から井田、作延、桝形の各城を押さえたうえで、2回にわたり小沢城で激戦を戦いました。

    城にこもった長尾勢は石つぶてでこれに応戦。その時の石つぶてが今も発見されると言います。

    破れた長尾軍は、細山、高石、万福寺、麻生と鶴見川に沿って敗走、ウチの近所を逃げて行ったわけですね。

    そして最終的に、仲間の武将がいた小机城(現横浜市)にたてこもります。翌(1478)年、太田道灌が小机城を攻め落とし、長尾景春の乱は終わりました。

    柿生住人としては、えらい迷惑でしたよ、これは。

    太田道灌は文明12(1480)年、長く争っていた足利公方(この頃は公方は鎌倉から古河に移っていた)と関東管領の上杉家を和睦させ、一時の平和が訪れます。



    ところが、太田道灌が死んだとたん、今度は、扇谷上杉家と山内上杉家が本格的に争い始め、またまた小沢城が巻き込まれます。


    第5回戦

    「北条早雲デビュー戦」(柿生命名)
    永正元〜5(1504〜8)年
    守り:山内上杉軍 攻め:扇谷上杉軍(北条早雲)
    Winner 扇谷上杉軍(北条早雲)


    柿生近辺の地侍は、扇谷上杉軍についたそうですが、太田道灌亡き後の扇谷上杉は振るいませんでした。

    そこに現れたのが、駿河・伊豆に興った伊勢宗瑞(北条早雲)でした。駿河・伊豆の兵を引き連れて、小沢城から多摩川を渡り、立河原(現立川市)で山内上杉家を撃破しました。

    この立河原の戦が、北条早雲の関東進出の第一歩でしたが、その舞台の1つにされた柿生近辺の住人としては、いい迷惑です。

    ウチは代々サムライでなかったからよかったけれど、地元のサムライたちは、戦のたびに、どっちにつくべきか、と悩んだことでしょう。「その進退、去就には大変な苦労があった」と小島一也さんは『麻生の歴史を探る』に書いています。

    伊勢宗瑞(北条早雲)の関東支配の野心を知った上杉家は、内輪揉めしている場合ではない、と両家和睦します(1505年)。

    関東上杉家と、早雲の北条家(小田原北条家)の戦いが幕を開けます。


    武蔵国盗りを進めていた伊勢宗瑞は、永正15(1518)年ごろ、「鎌倉時代の相模、武蔵の守護は北条だったから」という理由で、伊勢から「北条」に改姓します(後北条氏)。


    伊勢宗瑞(北条早雲)は永正16(1519)年に亡くなりますが、その子、氏綱が関東に支配を広げ、江戸城、小机城などともに、小沢城も手中にします。上杉はかないません。


    第6回戦

    「早雲の息子が強い合戦」(柿生命名)
    大永3(1523)年
    守り:関東上杉軍 攻め:北条氏綱軍
    Winner 北条氏綱軍


    後北条氏が関東(相模と武蔵)をほぼ手中にしたのは大永4(1524)年とされますが、まだまだ完全ではありません。


    上杉軍は、まだ反撃します。


    第7回戦

    「上杉の意地合戦」(柿生命名)
    大永6(1526)年
    守り:北条氏綱軍 攻め:上杉憲寛・朝興軍
    Winner 上杉憲寛・朝興軍


    今度は、上杉軍が勝ちました。

    それに対して、相模と南武蔵を手中に収めていた北条氏綱は、息子で弱冠16歳の北条氏康を多摩川に派遣し、上杉と戦わせます。

    氏康の初陣として知られる、この両者の決戦には、「小沢原の戦い」という正式名称が付いています。


    第8回戦(小沢城最終戦)

    「小沢原の戦い」または、「早雲の孫が強い合戦」(柿生命名)
    享禄3(1530)
    守り:関東上杉軍 攻め:北条氏康軍
    Winner 北条氏康軍

    この戦いは小沢城から菅、稲城、金程、平尾など広範囲におよぶ激戦になりました。この地域の地侍はほとんど北条側についたようです。

    「勝利をおさめた氏康が「勝った、勝った」と喜びの声を発して、金程から細山へ通じる坂を駆け上がったことから、勝坂と呼ばれるようになった」(Wikipedia「小沢原の戦い」)という史跡・勝坂が麻生区千代ヶ丘にあります。

    こうして、わが麻生郷は、再び「北条氏」(でも、鎌倉時代とは違う北条氏)の領土となったのでした。

    北条氏は鶴見川下流の小机、左江戸、茅ヶ崎近辺を地域の拠点とし、麻生は小机庄となり、小沢城は八王子城傘下となりました。


    小田原北条は、扇谷上杉家を滅ぼし(1546)、永禄2(1559)年、氏康(3代)から氏政(4代)に代替わりしたころ、ようやく小田原城を中心とした関東支配を確立します。北条早雲の「デビュー戦」から、ほぼ50年たっています。

    その後、山内上杉家・上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の侵攻(1562)や、武田晴信の小田原城攻め(1576)も退け、室町体制の残滓をすべて片付けて、秀吉に滅ぼされるまで関東の覇者となるわけです。

    小沢城に関しては、「小沢原の合戦」以降、

    「小沢城のごとき城塁は忘れ去られ元の山塊に戻って行った」(小島一也『麻生の歴史を探る』)

    ということです。

    「それにしても、この城を持った小沢郷、菅や矢の口の村々は、幾度となく続く戦禍によく耐えたものと思います」

    と郷土史家の小島一也さんは記しています。


    参照:小島一也『麻生の歴史を探る』(自費出版 2016)











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    会社を定年退職し、神奈川県は柿生の里に隠棲する。新聞社、出版社に勤め、記者や編集者をやっていた。独身、孤独を愛する。老人であることを自覚し、記憶力もあやしくなりつつあるので、ここに書き残したいことを書き残しておく。世間から引退したので、社交は望みません。

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