
【完結】第6話 「鏡の新しい家族」【かがみの言伝】/創作大賞2026 ファンタジー小説部門応募作品
それから、何年かが、過ぎた。
あれから、いろんなことが、あった。いろんなことが、変わっていった。
——そのなかで、変わらず僕の手もとに残ったものは、たったひとつ。あの、古い鏡だけだった。
あの古鏡を、僕は、結局、捨てられなかった。
博多から帰ったあと、拾い集めた破片と、空っぽになった木の枠を、僕は、近所の古い鏡屋へ持ち込んだ。
白髪の主人は、ずいぶん年季の入ったもんだねえ、とつぶやきながら、割れたガラスをすっかり外し、飴色の枠を磨き直して、新しい鏡を、丁寧に嵌めてくれた。
ほんとうは、修理代のほうが、新しい鏡を一枚買うより、よっぽど高くついた。
我ながら、酔狂だと思う。それでも、あの木の枠だけは、どうしても、手放す気に、なれなかったのだ。
「これで、また何十年でも、使えますよ」

そう言われて受け取った鏡は——もう、ただの、鏡だった。
何度、前に立っても。何度、話しかけてみても。
返ってくるのは、僕自身の、間の抜けた顔だけ。
あの、しわがれた声は、二度と、しなかった。
あれは、ぜんぶ、夢だったんじゃないか。
引っ越しの疲れと、母とのことで、参っていた僕が見た、都合のいい幻だったんじゃ——
そう思うことも、正直、あった。
喋る鏡に、死んだ人の言伝だなんて。
今になって思い返すと、とても、現実だったとは、思えない。
けれど、福岡の娘さんには、たしかに、届いたのだ。
あの娘さんとは、それからも、ほそぼそと、年賀状のやりとりが続いている。去年もらった一枚には、こう、書き添えてあった。
「あれから、母の墓前で、手紙を読みました。遅すぎたけれど、やっと、親子になれた気がします」と。
たった一通の手紙が、墓前で読まれるまでに、いったい、どれだけの歳月が、かかったことだろう。
——それでも。
終わったことに、せずにすんだ。
繋ぎ直すことは、できたのだ。
——夢なんかじゃ、なかった。
そうして、月日は、静かに流れた。
僕は、あの部屋を出て、小さな所帯を、持った。
妻と、生まれて間もない、娘と。
妻とは、新しい職場で、出会った。
よく笑う人だ。あの古い鏡を寝室に掛けると言ったときも、「趣味が渋い
ね」と笑って、特に、嫌がりもしなかった。
娘には、葵、と名をつけた。ようやく寝返りを覚えたばかりの、小さな、小さな娘だ。
家賃の安い、あの訳あり物件は、結婚を機に、引き払った。
少しだけ広い、陽当たりのいい部屋へ。
鏡も、いっしょに、連れてきた。
荷物のいちばん最後に、毛布にくるんで——いつかの、あの日と、おなじように。
鏡は、新しい家の居間の壁に、相変わらず、黙ったまま、掛かっている。

母とは、あれから、ごく普通に、話すようになった。
半年の空白が嘘みたいに、あっけなく。
盆と正月には、孫の顔を見せに、実家へ帰る。
娘を抱いた母の、くしゃくしゃの笑顔を見るたび、
——間に合って、よかった、と、心の底から思うのだ。
あの電話の日、母は、最後まで、なぜ急に連絡してきたのか、
訊かなかった。ただ、「たまには、顔を見せなさいよ」と、それだけ。
——でも、それで、よかったのだと思う。
言葉にしなくたって、ちゃんと、伝わるものは、ある。
その夜も、僕は、ぐずる娘を、ようやく寝かしつけたところだった。
妻は、まだ、居間のほうで、片づけものをしている。
寝室には、僕と、寝息を立てはじめた娘と、だけ。
なんとなく、僕は、居間の壁から、あの鏡を外した。
手のひらに伝わる、飴色の枠の、角の取れた重み。
何年経っても、この感触だけは、ちっとも、変わらない。
膝に抱えた鏡を、僕は、眠りかけた娘のほうへ、そっと、向けた。
「なあ、葵。——この鏡はな」
我ながら、おかしなことをしている、と思う。
言葉もまだわからない赤ん坊に、こんな昔話を聞かせて、どうしようというのか。
それでも、その日の僕の口は、勝手に、動いていた。
「昔むかし、この鏡にはな、ひとりのおばあさんが、住んでたんだ。
——いや。おばあさんと、四十年もいっしょに暮らした、それはそれは、おしゃべりな鏡が、いてな。
その鏡はな、おばあさんが、どうしても渡せなかった、たったひとつの『ごめんね』を、遠い遠い町まで、届けに行ったんだよ。
父さんと、ふたりでね」
娘の、ちいさな瞼が、とろり、とろりと、落ちていく。
「そのおかげで、父さんもな……いや。この続きは、おまえが、もう少し、大きくなったら——」
そのときだった。
カタ、と。
膝の上で、鏡が、ひとりでに、小さく、鳴った。
「……?」
カタ、カタ、カタ。
それは、しだいに、大きくなっていく。
手のひらの中で、古い木枠が、まるで生き物みたいに、震えだす。
僕は、驚いて、それを、畳の上へ、そっと置いた。
鏡は、ガタガタと、いよいよ激しく、身を震わせた。
と思うと——曇っていたはずの鏡面の奥が、ぼう、と、明るんだ。
あの日、博多の門前で見た、あのときと、おなじ。
やわらかな、夕暮れ色の光だった。
光は、みるみる、強くなる。
暗い寝室の天井に、あたたかな色が、ゆらゆらと、揺れて、躍った。
「な、なん——」

「——よお、ご主人」
その光のなかから。
何年も、沈黙していたはずの、鏡の奥から。
あの、しわがれた、人を食ったような声が、たしかに、聞こえた。
「ずいぶん、所帯じみたじゃねえか」
胸の奥が、じん、と、熱くなった。会いたかった、なんて。
たかが鏡に向かって、そう思う日が、来るとは。
「お……おまえ……!」
「おわっ、声がでけえよ。せっかく寝た子が、起きちまうだろ」
光が、すうっと、引いていく。
あとに残ったのは、いつもの、見慣れた古鏡——けれど、もう、ただの古鏡では、なくなった鏡だった。
「なんで、今ごろ……。ずっと、黙ってたじゃないか。
……心配、したんだぞ。もう二度と、喋らないのかと、思った」
「ん? ああ。なんだろうねえ。
割れたっきり、しばらく、夢も見ないような心地でね。
気がついたら、また、こうして、口がきけるようになってた。
——鏡ってのはさ、長いこと、大事に可愛がられると、こうなるもんなのかもしれないな」
——大事に、か。
その言葉が、なんだか、くすぐったかった。
あんなに厄介がって、捨てようとまでした鏡を、結局、何年も手もとに置き続けたのは、ほかでもない、僕のほうだった。
鏡は、しみじみと、僕を眺めた。
「あんた、いい顔に、なったな。出会ったころは、ずいぶん、しけたツラを、してたのによ」
「……うるさいな」
「おっ母さんとは、どうなった」
「ちゃんと、やってるよ。この前も、娘を連れて、帰った」
「そうかい」
鏡は、心から満足げに、笑ったようだった。
「それで、いいのさ。それで」
「……あの、福岡のお嬢さんは、どうしてる」
「年賀状を、くれるよ。毎年」
「そうかい。それなら、あの人も、これで、ようやっと、浮かばれるってもんだ」
鏡は、どこか遠くを見るように、ふっと、声を、細めた。
「ねえ、あなた。さっきから、誰と、話してるの?」
寝室の戸が開いて、妻が、怪訝そうに顔を出した。
「……いや。なんでも、ないよ」
「もう。また、鏡に向かって、ぶつぶつ言って。変な人ねえ」
呆れたように笑って、妻は、また居間へ引っ込んでいった。
どうやら彼女には、この声は、聞こえないらしい。
——いつか打ち明けたら、信じて、くれるだろうか。
布団の中で、娘が、ちいさく寝返りを打った。
むにゃむにゃと、なにか言いながら、小さな手が、宙を、ふにゃりと掴む。
鏡の奥から、その寝顔を覗き込むように、やわらかな声が、した。
「——いい子だ。なあ、ご主人。この子の話、これから、たんと、聞かせておくれよ。オイラは、また、長いこと、ここに、いるからさ」
窓の外で、夜が、しんと、更けていく。
四十年を、ひとりの母と過ごした古い鏡は、こうして、新しい家族の、いちばん近くで、もう一度、静かに、時を刻みはじめた。
今度は、きっと。
すれ違うことの、ない時間を。
【完】