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地獄からやってきたひと皿

ギリシャ神話の神々は、おそろしく気が短く、そして冷徹だ。

彼らの領域で、最大の反逆者や大罪人たちが行き着く場所は、「火の海」ではない。

「タルタロス」と呼ばれる、大地の遥か地下にある奈落の深淵である。

古典の記述によれば、天から青銅の金床を落とすと、9日9晩かけて大地に届き、そこからさらに9日9晩かけてようやく辿り着くのが、このタルタロスだという。

そこは三重の青銅の壁と夜の闇に包まれた、脱出不能な監獄だ。後世の文学、たとえばダンテの『神曲』が描く地獄の最下層も、やはり火ではなく冷徹な氷の闇に閉ざされている。

神に逆らい、愛を裏切った者が落とされる最果ての地は、業火の世界ではない。

すべての感情や命の瞬きが分厚い氷に閉ざされた極寒の地だ。

誰の祈りも届かず、更生の猶予もない。容赦のないシステムとしての空間。それこそが、西洋における根源的な恐怖の記憶であった。

一方、東洋、とりわけ我が国における地獄のイメージには、もう少し血の通った熱がある。閻魔大王に舌を抜かれ、針の山を歩かされ、血の池に投げ込まれる。罪人は叫び、鬼は怒る。

実にもてなしが手厚い。

日本の地獄には、長い刑期の果てに、いつかは生まれ変われるという輪廻の「情」が残されている。現世の家族が熱心に供養を行えば、閻魔の心も動き、刑期が前倒しで短縮される仕組みすらある。

仏教のサンスクリット語「ナラカ」を語源とする「奈落」という言葉も、現代では劇場の舞台裏、煌びやかな表舞台の真下に隠された暗い地下スペースの専門用語となっている。日本のそれはどこか泥臭く、人間らしく、熱い。 

これほどまでに異なる東西の「奈落」解釈であるが、歴史は思わぬ展開を見せる。

中世ヨーロッパを恐怖させたあの暗く冷たい「タルタロス」の響きが、数百年をかけて、現代の私たちの食卓へと着地している。

13世紀のユーラシア大陸。当時、世界を席巻していたのはモンゴル帝国の強大な騎馬民族であった。西欧の人々は彼らを「タタール人」と呼び、その圧倒的な強さと異質な風習を前に、ヨーロッパのキリスト教徒たちは神話のあの言葉を引っ張り出してきた。

「彼らは地獄(タルタロス)から湧き出てきた悪魔だ」

そうして、タタールという名は地獄の響きと混ざり合い、いつしか彼らは「タルタル人」と呼ばれるようになった。ヨーロッパの知識人たちは、この未知の脅威を前に、奇妙な都市伝説を記録に残した。

「彼らは馬の鞍の下に生肉を敷き、乗馬時の摩擦と体重で肉を柔らかくして、生のままスパイスを振って食べている」

実際には馬の背の傷を癒やす民間療法に過ぎなかったとされるが、「生肉を細かく刻んで食べる文化」というイメージだけが、言葉とともにヨーロッパへと定着していった。

この地獄の名を冠した生肉料理は、ドイツの港町ハンブルクで火を通され、やがて世界中が愛する「ハンバーグ」へと進化を遂げることになる。

本家フレンチの厨房では、肉の表面の雑菌を削ぎ落とし、中心の肉だけを包丁で細かく切り揃える職人技によって、生のまま食べる前菜として不動の地位を築いた。

「タルタルステーキ」

奈落の底の冷たさと、完璧にコントロールされた衛生管理というルールによって成り立つ、どこかスリリングな美しさを秘めた料理である。

歴史を紐解くと、料理よりもソースの誕生が先であった。18世紀のフランスにおいて、マスタードやピクルスを効かせた野性的で刺激的な冷製ソースを添える料理が「タタール風(タルタル)」と呼ばれ、それがのちに、調味料を最初から生肉に混ぜ込む「タルタルステーキ」へと姿を変えた。

料理からソースが離れたことで、言葉自体が「素材を細かく刻む技法名」へと転じていく。単体で歩き回り始めたソースもまた現代にいたるまで世界中で広く愛され続けている。

さらに時代が下った20世紀後半のパリ。クラシックな宮廷料理の様式から脱却を図ろうとしていたモダンフレンチのシェフたちは、海を渡ってきた日本の「寿司・刺身」の美学に出会い、その手法を貪欲に吸収した。

魚を生で食べる。その繊細な味覚を、自国の伝統と掛け合わせることはできないか。彼らが目をつけたのがタルタルの技法であった。新鮮な魚介の身を丁寧に刻み、ハーブやオリーブオイルと和えて、丸い型に詰めて成形する。

こうして、元々は肉限定であったその名に、「魚介」という新しい顔が加わった。西洋の肉文化と日本の魚食文化が交差した結果、私たちは新鮮な魚の冷たさを、「タルタル」として楽しんでいる。

Rは自称「タルタラー」だ。過日「赤提灯 海遊魚」で鯵フライに添えたタルタルが瞬く間に消え、補充に大忙しだった。彼が信奉するそれは、マヨネーズに茹で卵をたっぷり加えた日本独自の進化系ソースのことである。

「鮃のタルタル、お口に合わないようでしたら、お下げしますね」と私が皿に手を掛けるとRが子どもの顔に戻って泣き真似をし始めた。

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