
あらすじ
中学生のハルトは、ある日突然、自分の居場所を失った。
家へ帰ると、家族は自分を他人として扱い、自分と同じ名前を持つ「もう一人のハルト」が当たり前のように暮らしている。
逃げ込んだ夜の公園で出会った少女・アサミは、「まだ間に合う」と告げる。しかし、ランドセルを背負った謎の子ども、勝手に送信されるLINE、増え続ける既読、そして「確認だけ」という言葉が、少しずつハルトの日常を侵食していく。
やがて世界そのものが記録へと書き換えられ、自分という存在さえ曖昧になっていく。
消えるのは記憶か、それとも人間か。
これは、測ることのできない「島」の、生存の物語。
第1章:『いつもの朝、片方の靴』
「ハルト! 早く起きなさい、学校に遅れるわよ!」
階下から響く母親のいつも通りの声で、ハルトは目を覚ました。 ベッドから起き上がり、大きくあくびをして制服に着替える。代わり映えのしない朝の街の音が窓の外から聞こえていた。
階段を駆け下り、リビングでトーストを口に押し込む。
「今日も部活?遅くなる時はちゃんと連絡しなさいよ!
「わかってるって。行ってきます」
母親の小言を背中で受け流しながら、ハルトは玄関に向かった。 お気に入りのスニーカーに足を突っ込もうとした、その時だった。
「……うわ、何これ」
右足を入れた瞬間、不快な湿り気が足の裏を襲った。 思わず足を抜き、スニーカーを手に取って中を覗き込む。
――濡れている。
昨日は雨なんか降っていないし、水たまりを踏んだ記憶もない。
なのに、右足の靴の中だけが、まるで内側からじわじわと水分が染み出してきたかのように、ぐっしょりと濡れていた。左足の靴は、カラカラに乾いているのに。
「お母さん、俺の靴がさぁ…」
「は? 何言ってるの、触ってもいないわよ。早く行きなさい!」
「……ちぇ、なんだよ」
ハルトは顔をしかめると、その気味の悪いスニーカーを玄関の三和土にぽつんと置き去りにして、下駄箱から別の古い靴を引っ張り出して履いた。
「行ってきます」
勢いよくドアを閉め、ハルトは駅へと走り出す。
片方だけが異常に濡れたスニーカーは、静かにそこに佇んでいた。
一時間目は昨日と同じだった。
先生は同じ板書を書き、同じ場所でチョークを落としかけ、同じように笑った。
二時間目も同じ。
昼休み。
「今日さ、部活サボる?」
「やめとけよ」
昨日と同じ間で笑い声が起きた。
彼は途中で数えるのをやめた。
数えるほど一致した。
放課後、彼は家へ帰った。
玄関を開けると母親がいた。見上げる目は冷たかった。
「あんた誰」
「え?」
「誰。うちに何しに来たの」
彼は靴を脱ぎかけて止まった。息の吸い方を忘れた。
「俺だよ!ハルト」
母親は顔をしかめた。
「うちの息子なら、もう帰ってる。台所にいる」
彼は台所のほうを見た。背中が見えた。制服。髪型。肩の丸まり方。
自分だった。
背中の自分が、振り向きかけて止まった。
振り向けば終わる。
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。
「冗談だろ」
母親は声を荒げない。荒げる必要がない。不要なことをしないのが、一番怖い。
「出てって。警察呼ぶよ」
彼は靴を履いた。
右足だけ濡れていた。
第2章:『世界の隙間の、細い廊下』
夕暮れの街は、驚くほどいつも通りだった。
カラスが遠くで鳴き、近所の家からは夕飯のカレーの匂いが漂ってくる。たった数分前、自分の家だったはずの玄関のドアが、目の前でピシャリと閉まった。
「……なんでだよ」
ぽつりとこぼした声が、冷え始めたアスファルトに吸い込まれていく。 リビングの窓の隙間から、楽しそうな笑い声が聞こえた。
父親と母親。
そして、自分の声で笑う誰か。
あそこに、自分の居場所はもうなかった。
頭が真っ白になり、足の感覚がないまま、ただ引きずられるようにして夕闇の公園へと歩いていた。
ブランコに腰掛け、地面の砂をじっと見つめる。
これからどうすればいい。警察に行くか? でも、偽物が自分として完璧に振る舞っているなんて、誰が信じてくれる。
ポケットのスマホを出した。連絡先を開く。母。父。友達。先生。
どれも見慣れた名前で、どれも遠い。
母に電話をかけた。
呼び出し音のあと、母の声がした。
「もしもし」
「俺だよ」
「間違い電話です」
プツッ。
声は同じだった。だけど、凍るほど冷たかった。
彼は切った。
「ねえ、困ってる?」
突然、上から降ってきた声に肩が跳ねた。
見上げると、いつの間に近づいたのか、一人の女の子が立っていた。
街灯の光が逆光になって顔はよく見えないが、その瞳だけがこちらを見ていた。
「あ……」
声にならなかった。
困っている、なんてレベルじゃない。
世界から丸ごと弾き出されたのだ。
彼女は俺の様子をじっと見つめていたが何も聞こうとはしなかった。
そして、小さく息を吐いた。
「遅かったね。」
彼女はひらりと身を翻し、公園の隅、自販機の裏手にある暗い隙間へと歩き出す。 普段なら怪しんで立ち止まったかもしれない。
だけど今の俺には、行くあても、失うものもなかった。誘われるように、彼女の後を追って自販機の裏へ足を踏み入れる。
ブロック塀の狭い隙間。行き止まりのはずだった。 しかし、彼女がすっと手を伸ばすと、そこには本来あるはずのない空間が、闇を切り裂くようにして口を開けていた。
――細長い、廊下だった。
奥が見えない。
一本道なのに、終わりがなかった。
第3章:『夜の教室のミッション』
学校の校舎にあるような、けれどどこか現実味のない、果てしなく奥へと続く廊下。床のリノリウムは街灯とも月光とも違う、淡い光を吸い込んで鈍く光っている。
「ここは……?」
「世界の隙間」
女の子は振り返らずに言った。
「居場所をなくした人が、最初に通る場所だよ」
細長い廊下を抜けた先は、見慣れた、けれど異質な場所だった。
夜の学校。 静まり返った校舎の窓からハルトがふと校庭を見下ろすと、全身の血の気が引いた。
「……嘘だろ」
暗い校庭の隅に、誰かが立っている。学生服を着た、中学生の男の子だ。街灯の光に照らされたその横顔は、まぎれもなくハルト自身だった。
校庭にいる「もう一人の自分」は、まるで何かに怯えるように周囲を警戒しながら、静かに校舎を見上げている。
「驚くのは無理もない。でも、時間がないの」
案内してくれた女の子が、ハルトの袖をぐっと引っ張った。
「ハルト。元の世界に戻りたいでしょ? 戻れるから、今から私が言うことをやって。大丈夫、これで絶対に元に戻れるから」
彼女の強い瞳に圧され、ハルトはこくりと息を呑んで頷いた。 彼女の指示は、奇妙なものばかりだった。
『3階の理科室に行って、顕微鏡の向きを真東に変えてきて』
『次は職員室の黒板の隅に、チョークで小さな丸を3つ描いて』
夜の静寂を破らないよう、ハルトは心臓の鼓動を抑えながら校舎を駆け回った。一つミッションを終えて彼女のもとに戻るたび、ハルトは息を切らせて尋ねる。
「これで……これで本当に戻れるんだよな?」
「うん。大丈夫、これで戻れる。次は、ハルトがいつも使っている教室の、自分の机の引き出しを見て」
彼女は祈るように両手を握りしめ、何度も「大丈夫」と繰り返した。
その声は、ハルトを安心させるためというより、彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
最後のミッションは、自分の教室の教卓に、1枚の青い付箋を貼ることだった。 ペタ、と軽い音が夜の教室に響く。その瞬間、窓の外の空気がかすかに震えたような気がした。
ハルトは嫌な気がして、青い付箋を見た。
そこには「つぎはあなた」、と書いてあった。
ハルトが振り返ると、女の子の輪郭が、紙を水に落としたようにほどけ始めた。
「おい、お前……!」
慌てて駆け寄ろうとするハルトの足元に白い線が残った。
教室には、誰も残っていなかった。
ハルトは胸に手を当てた。
鼓動だけが、まだ自分のものだった。
ハルトは走った。
帰る場所があると思って。
第4章:『二人のハルトと、届いたメール』
息を切らせて我が家の前に辿り着いた。見慣れた表札、窓から漏れる温かい明かり。 ハルトは祈るような気持ちで玄関のドアノブを回した。鍵はかかっていない。
「ただいま……」
消え入りそうな声でドアを開ける。 真っ先に目に飛び込んできたのは、見覚えのあるスニーカーだった。片方だけが、ぐっしょりと濡れている。
その時、ドンドンドン! と、ハルトのすぐ真後ろから激しく玄関のドアを叩く音が響いた。 ハルトはビクッと肩を震わせ、振り返ろうとした。
「もう、うるさいわねぇ。ハルト、鍵持っていきなさいっていつも言ってるでしょ」
奥の廊下から、母親が小言を言いながら歩いてくる。
ハルトは「母さん!」と声を上げようとしたが、母親はハルトの体をまるですり抜けるように、あるいは最初からそこに誰もいないかのように完全に無視して、横を通り過ぎた。
「まったく、またこんなに汚して……」
母親はため息をつきながら、玄関にあった片方だけ濡れたスニーカーを拾い上げ、下駄箱へと片付け始める。ハルトは避けなかった。
母親も避けなかった。
二人は重ならなかった。
母親がカチャリと玄関の鍵を開け、ドアを押し開けた。
ドアの向こうに立っていた。
息を切らし、泥で汚れた制服。
数分前までの自分だった。
母親は小言を続けながら、その「外のハルト」に向かって言う。
「こんな時間までどうしたの? 遅いじゃない! 連絡くらいしなさい。とりあえず、手を洗ってご飯食べてなさい」
「……うん、ごめん」
外にいたハルトは小さく俯いて、案内されるまま家の中へと入っていく。 家族の温かい日常の空間へ入っていく「自分」と、それを迎える母親。本物のハルトは、開いたままの玄関の隅で、ただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。自分はここにいるのに、誰も自分を見てくれない。
その時、ハルトのズボンのポケットの中で、ブルッとスマホが震えた。
誰も自分を認識できないはずの世界で、確かに届いた通知。 ハルトは震える手でスマホを取り出し、画面に触れた。ロック画面に表示されていたのは、担任の先生からのメールだった。
第5章:『乗っ取られたアカウント』
液晶の冷たい光が、暗い玄関の片隅でハルトの顔を照らしていた。 届いたのは、担任からのメールだった。
『今どこだ? お母さんから学校に、ハルトがまだ帰ってないって心配して電話があったぞ。何かあったのか?』
ハルトの指が画面の上で凍りつく。打ち返そうとした、その時だった。 画面がパッと切り替わり、2通目のメールが滑り込んでくる。
『帰ったんだな。よかった。今お母さんから、たった今帰ってきたって連絡をもらったから。これからは遅くなる時はちゃんと家に連絡しなさい』
視線を画面から上げると、目の前では母親が、
「もう、お父さんにラインしとかなきゃ」とスマホを操作しながら、偽物のハルトをリビングへと促しているところだった。
――じゃあ、俺は? ここにいる俺は、一体誰なんだ?
恐怖で息が詰まりそうになったその瞬間、ハルトの目の前で、スマホの画面が奇妙な挙動を始めた。
入力欄に、一文字ずつ文字が現れた。
『す』
止まった。
『み』
『ま』
『せ』
『ん』
『すみませんでした。寄り道していました。もう家についたので大丈夫です』
「うわっ……!」
ハルトは思わずスマホを床に落としそうになった。 画面の中で、文章が勝手に送信される。
そして次の瞬間、画面の隅に小さな文字が表示された。
――既読。
先生が今、そのメールを読んだのだ。
ハルトは、自分のスマホを見た。
名前だけが残っていた。
第6章:『選ぶ余地のない、薄暗い廊下』
――既読。
画面に浮かんだその二文字が、ハルトにトドメを刺した。
返信をしたのは俺じゃない。なのに、世界はそれを俺の言葉として受け入れた。 リビングからは、母親が「ほら、早く手を洗ってきなさい」と偽物に声をかけるのが聞こえる。
俺の居場所は、この世界のどこにも残されていないのだ。
スマホを握りしめたまま、ハルトは一歩、また一歩と、我が家の玄関から後ずさりした。 夜の冷たい空気が、嫌みなほど優しくハルトの頬を撫でる。涙さえ出てこなかった。ただ、底の抜けたような虚無感が身体を支配していく。
その時だった。
ハルトのすぐ足元、我が家の敷地と公道を分ける境界線の闇が、不自然にぐにゃりと歪んだ。 アスファルトが音もなく沈み込み、そこに新たな空間が口を開ける。
――廊下だった。
学校で見た、あの淡く光る廊下とは違う。 今度の廊下は、まるで光を拒絶するように薄暗かった。壁の色も床の質感も定かではないほどに深い闇がよどんでいて、ずっと奥の方から、ひやりとした冷気が足元を這い上がってくる。
ハルトは息を呑み、その薄暗い廊下を見つめた。 不気味だった。恐ろしかった。入れば二度と戻ってこられないかもしれない、という本能的な警告が頭の中で鳴り響く。
しかし、ハルトは前を向いた。
温かい我が家。あそこに戻る道は、もう完全に閉ざされている。スマホの画面は、勝手に動き続けている。
「……行くしかない、か」
ハルトは一歩、廊下へ足を踏み入れた。
後ろで、玄関のドアが閉まる音がした。
振り返らなかった。
第7話:『二度目の、困ってる?』
背後の日常を振り切るように、ハルトは薄暗い廊下へと激しく走り込んだ。
一歩足を踏み入れた瞬間、我が家から漏れていた光も、母親の声も、夜の空気さえも、すべてが嘘のように消え去った。
あるのは、ただどこまでも続く薄暗い静寂だけだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
自分の荒い呼吸の音だけが、コンクリートともリノリウムともつかない壁に反響する。 暗闇に目が慣れてくるにつれ、少し前方に、ぽつんと佇む小さな影があることに気がついた。
ハルトは思わず足を止める。
そこにいたのは、小さな男の子だった。
ハルトよりずっと背が低く、まだ幼さの残る顔立ち。そしてその背中には、不釣り合いなほどピカピカとした、真新しい黒いランドセルが背負われていた。
なぜ、こんな場所に小学生が。
ハルトが戸惑い、声をかけようと口を開けかけた、その時だった。 男の子が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、さっき学校の校舎で消えていった、あの制服の女の子と全く同じ――夜の始まりの空みたいに、静かに澄んでいた。
男の子は、ハルトをじっと見つめ、小さく首を傾げて言った。
「ねえ、困ってる?」
聞き覚えのある言葉だった。
ただ、声だけは幼かった。
第8章:『だよね』
「……元の世界に戻りたい」
ハルトは、絞り出すようにそう言った。
「……元の世界に戻りたい」
それしか残っていなかった。
黒いランドセルを背負った男の子は、ハルトの悲痛な訴えをじっと聞いていた。 怒るでもなく、面白がるでもなく、ただその澄んだ瞳を少しだけ細めて、ぽつりと言った。
「だよね」
その一言が、薄暗い廊下の闇に妙に響いた。
男の子が小さく微笑んだような気がした瞬間、ハルトの視界が、急激にめまいとともにぐにゃりと歪んだ。
足元の感覚が消え、果てしない深淵へと真っ逆さまに落ちていくような感覚に襲われる。
――ハッと息を吸い込んで、ハルトは跳ね起きた。
目に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井だった。
「夢……だったのか?」
背中には、いつものマットレス。
朝の光。
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
本当に、夢だったのか。
第9章:『確かめられない朝』
「ハルト! 早く起きなさい、学校に遅れるわよ!」
階下から響いてきたのは、聞き慣れた母親の声だった。 ハルトはベッドの上で、息を詰めてその声をじっと聞いた。
「遅くなる時はちゃんと電話しなさいって言ってるでしょ。それから靴! 汚れたなら先に言ってもらわないと、分からないじゃない」
心臓がドクンと大きく波打った。
靴。 お母さんは今、靴と言った。それは、片方だけ濡れたスニーカーのことだろうか。それとも、自分が過去に何度も聞いた小言の一つに過ぎないのだろうか。
リビングへ行けば分かる。
戻れたのか。
戻れなかったのか。
(……確かめたくない)
恐ろしかった。お母さんの顔を見るのが、その口から出る言葉を聞くのが、今のハルトにはどうしてもできなかった。
答えを知るのが怖くて、身体がすくむ。
ハルトは音を立てないように素早く制服に着替えると、カバンを掴んだ。リビングには向かわず、そのまま足早に玄関へと向かう。たたきには、乾いた自分の靴がいつも通り並んでいた。それをひったくるようにして履き、ドアを開ける。
「行ってきます」
返事は聞かなかった。
ハルトは振り返ることなく我が家を飛び出し、いつもの通学路を、ただ学校に向かって走り出した。
第10章:『異質な転校生』
教室のドアを開けると、いつもと変わらない喧騒がハルトを包み込んだ。 「おー、ハルト、おはよー!」
後ろの席の奴が、いつもの軽い調子で声をかけてくる。
「あ、あぁ……おはよ」
心臓のバクバクが、ようやく少しだけ収まっていく。
お母さんの小言はただのいつもの小言で、クラスメイトも俺を俺として認識している。偽物に居場所を奪われたあの夜は、やっぱり悪い夢だったんだ。ハルトは自分の席に座り、深く安堵の息を吐き出した。
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴り、前方のドアが開いて担任が入ってきた。
「よし、みんな席につけー。今日はホームルームの前に、お前らに転校生を紹介するぞ」
転校生?
こんな中途半端な時期に?
クラスがにわかにざわつくなか、担任に促されて、一人の人影が教室に入ってきた。
その姿を見た瞬間、ハルトは息を吸ったまま凍りついた。
入ってきたのは、小さな男の子だった。
周りの生徒たちより二回りも背が低く、まだ幼さの残る顔立ち。
そしてその背中には、昨日、あの薄暗い廊下で見たのと同じ、ピカピカの黒いランドセルがしっかりと背負われていた。
(なんで……なんでアイツがここに……!?)
ハルトは叫び出しそうになるのを必死で堪え、周囲を見回した。
だが、おかしかった。 クラスの誰も、その子が「ランドセルを背負った小学生」であることに疑問を抱いていないのだ。
「可愛い転校生だな」とか「なんでランドセルなんだ?」というヒソヒソ声すら上がらない。
みんな、ただ普通の同級生を見るような目で、その男の子を見つめている。
担任はそんな教室の空気を気にも留めず、出席簿を開いた。
「じゃあ、出席をとるぞ。――白石、白石ハルト」
「はい」
ハルトは条件反射で返事をした。
しかし、その声にぴったりと重なるように、教卓の横からも、高くて幼い声が響いた。
「はい」
ハルトと、そのランドセルの子供が、同時に手を挙げていた。
担任は出席簿から顔を上げ、ハハハと呑気に笑った。
「あれっ、ハルトが2人いるなぁ。字まで同じか。こりゃあ、これからの呼び方を考えないとな」
クラス中から、ドッと温かい笑い声が沸き起こる。
「同姓同名かよー!」
「ややこしいな!」
と口々に茶化す声が聞こえる。
ハルトの視界が、恐怖でぐにゃりと歪んだ。
違う。
あいつはランドセルを背負っている。
なんで誰も見ない。
なんで誰もおかしいと思わないんだ!?
笑い合うクラスメイトたちの中心で、ランドセルを背負った子供が、ゆっくりとハルトの方を振り向いた。 あの、夜の始まりの空みたいに澄んだ瞳が、ハルトをじっと見つめる。 そして、周りには聞こえないほどの小さな声で、ほとんど唇を動かさずに言った。
(……だよね)
ハルトの背中を、冷たい汗が伝った。
第11章:『二階の床から響く声』
その日の学校は、終始、転校生の「ハルト」の話題で持ちきりだった。 休み時間になるたび、クラスメイトたちはランドセルを背負った彼を囲み、楽しそうに談笑している。
その輪の中に制服を着た俺の居場所はなかった。みんな、あいつの異質さに微塵も気づいていない。
(家は……家はどうなってるんだ……?)
授業の内容なんて、全く頭に入らなかった。
放課後のチャイムが鳴ると同時、ハルトは逃げるように教室を飛び出し、我が家へと向かって夢中で走った。
「ただいま……っ!」 勢いよく玄関のドアを開ける。
片方だけ濡れた靴はない。
「おかえり。今日は早かったじゃない」
廊下の奥から、エプロン姿の母親が顔を出した。
その目は、真っ直ぐにハルトを見つめている。すり抜けることも、不審者を見るような目をされることもない。
「あ……あぁ。ちょっと、疲れたから部屋にいるわ」
「そう? ちゃんと手を洗うのよ」
いつもの母親だ。俺を、俺として認識している。 ハルトは激しく波打つ胸をなだめながら、階段を駆け上がって2階の自分の部屋へと滑り込んだ。
ドアを閉め、そのままベッドへ倒れ込む。
混乱する頭を整理しようと、ハルトが天井を見つめて深く息を吐き出した。その瞬間だった。
1階の玄関のドアが開く音が、床を伝って微かに聞こえた。
『ただいま! 母さん、今日のご飯なに?』
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
『えー? 今帰ってきたばかりじゃない。何言ってるのよ』
階段の下から、母親の呆れたような、だけど嬉しそうな声が響いてくる。
『あ、そうだ。冷蔵庫にプリンがあるわよ。ほら、あんたの好きな、駅前のあのお店のやつ』
『やったー! 母さん大好き!』
『なに子どもみたいなこと言ってるの?』
楽しそうな親子の笑い声が、2階の床を、壁を伝って、ハルトの耳に容赦なく飛び込んでくる。
ハルトはベッドの上で身動きが取れなくなった。 さっき、お母さんは俺を迎えてくれた。だけど今、下にいる「もう一人の俺」とも、全く同じように会話をしている。
1階では笑い声が続いていた。
2階では、自分の息遣いだけが聞こえた。
第12章:『首だけを回す子供』
ハルトはベッドから音を立てずに這い出し、部屋のドアを数センチだけ開けた。 階下からは、まだ楽しそうな会話が続いている。
何かの聞き間違いだ。
自分に言い聞かせながら、ハルトはすり足で階段を降りた。一段降りるたびに、心臓が肋骨の内側を激しく叩く。 リビングの引き戸の隙間から、恐る恐る中を覗き込んだ。
ハルトがいつも座っている席に、それはいた。
椅子のすぐ横には、あのピカピカの黒いランドセルが置かれている。 男の子はスプーンを握り、駅前の店のプリンを、実においしそうに口に運んでいた。
お母さんはハルトに背中を向け、鼻歌を交じりにシンクで洗い物をしている。お母さんにとっては、あのランドセルの子供こそが、たった今学校から帰ってきた最愛の息子「ハルト」なのだ。
「ひっ……」
小さく息が漏れた。
その瞬間、プリンを食べていた子供の手が、ピタリと止まった。
子供は、身体を一切動かさなかった。
スプーンを握ったまま、ただ、くるりと首だけを真後ろに向けて、引き戸の隙間にいるハルトをじっと見つめた。
その顔には、先ほどまでの無邪気さは微塵もない。子供は笑っていなかった。
「う、わああああああ!」
恐怖が限界を突破し、ハルトは叫び声を上げながら玄関へと走った。ドアを乱暴に押し開け、我が家から飛び出す。
あの子供の、甲高い声が夜の街に響き渡る。
『母さん! なんか外で大きな音がしたよー!』
『あら、野良猫でも通ったのかしらねぇ』
バタン、と小気味いい音を立てて、我が家の玄関のドアが閉まった。
第13章:『夜の公園と、再会の調律』
どれだけ走っただろうか。
ハルトは夜の公園のジャングルジムの陰に身を潜め、激しい呼吸を必死に抑えていた。 遠くを走る車の音さえ、自分を捕まえにくる追手の足音に聞こえて身体がすくむ。
ピコン。ピコン。ピコン――。
静まり返ったポケットの中で、スマホがひっきりなしに通知音を鳴らし始めた。 ハルトは震える手で液晶画面を見る。クラスのグループLINEや、親友からの個別のメッセージが次々と滑り込んでいた。
『ハルト、さっきの転校生とめっちゃ仲良くなってたじゃん!』
『明日みんなで遊びに行くの、あいつ(ランドセルのハルト)も誘っていい?』
ハルトが画面を見つめている、まさにその瞬間だった。
既読のマークがつき、メッセージの入力欄が勝手に動き出す。
『うん、いいよ! 楽しそうだね、みんなでどこ行く?』
「やめろ……頼むから、やめてくれ……!」
画面を狂ったようにタップしても、送信は止まらない。液晶の向こう側にいる『ハルト』が、友達と楽しそうに予定を立てている。スマホの中にいる自分が、本物の自分をじわじわと消去していく。
ハルトはスマホを地面に投げ捨て、両膝に顔を埋めて震えた。冷たい暗闇が、自分を飲み込んでいくようだった。
「ねえ、困ってる?」
不意に、上から静かな声が降ってきた。
ハルトは弾かれたように顔を上げた。
街灯の薄薄暗い光の中に立っていたのは――あの女の子だった。 夜の学校の教室で、ありがとう、と泣きながら光の粒子になって消えていった、あの制服の女の子。
「お前……なんで……消えたはずじゃ……!」
ハルトは声を荒らげ、後ずさりした。 彼女の瞳は、やはりあの時と同じように、夜の始まりの空みたいに静かに澄んでいる。しかし、その表情には、学校で見せたような必死さはなく、どこか哀しげな諦めが漂っていた。
「私は消えてないよ。ただ、君の『昨日』から、君の『明日』に移動しただけ」
彼女は地面に落ちて光り続けているハルトのスマホを一瞬だけ見つめ、それからハルトにそっと手を差し伸べた。
「間に合わなかったんだ。」
第14章:『身代わりのルール』
「……よかった。まだ、ここにいて」
「来たんだ」
女の子は視線を外した。言い訳を探す視線だった。
「……見に来ただけ。」
「ごめん。」
ハルトは立ち上がった。
「お前、誰なんだよ」
「なんで俺のことを知ってるんだ」
女の子は、少し笑って言った。
「サッカー部だったよね」
「私は、アサミ」
「アサミ、お前今までどこにいたの?」
アサミの肩が小さく揺れた。逃げるか、話すか迷う揺れだった。
「わたしも……戻った人間だから」
ハルトの胸が冷えた。
「リターンした?」
アサミは頷いた。
迷いが混じっている。
「体験した人は、わかる。」
ハルトは言った。
「じゃあ、なんで君は俺を見られる」
女の子は口を開きかけて閉じた。閉じたほうが正しい答えみたいだった。
「完全には、戻ってないの。だから気づく」
「俺も?」
アサミは答えなかった。答えると確定するからだ。
遠くで、ボールが地面を叩く音がした。
公園の隅で誰かが遊んでいる音ではない。
音だけが弾んで、戻ってくる。
ハルトはその音を追うように言った。
「ランドセルのやつ」
アサミの表情が固まった。
「……知ってるんだ」
「家にいる。学校でも、ハルト扱いされてる」
アサミは首を横に振った。
否定ではない。拒否に近い振り方だった。
「学校に来てるのは知らなかった」
「じゃあ、あれは何」
アサミは一歩だけ後ろへ下がった。
「いるのは知ってた。ランドセルの子は……最初からいた。裂け目の近くに」
「俺たちと同じ? リターンした人間?」
アサミははっきり首を振った。
「違う」
その言い方だけが、確定だった。
「人じゃない。もっと別の」
ハルトは詰め寄った。
「別のって何だよ」
アサミは目を逸らした。言えないときの目だった。
「今は言えない」
「でも、気をつけて。あれに名前を渡すと、戻れなくなる」
アサミはそれ以上言わなかった。
公園の奥で、砂利がもう一度鳴った。
アサミの顔色が変わった。恐怖じゃない。
焦りだ。手順を急がせる焦りだ。
「……来る」
ハルトが振り返ったとき、アサミはもう走り出していた。
「待て!」
第15章: 『走る』
ハルトは追いかけた。
足音が二つ、公園の外へ流れていく。
外灯の下に、ランドセルがひとつだけ残った。
さっきまで、そこに持ち主がいたみたいに。
誰も取りに来なかった。
ハルトはアサミを追いかけた。
公園を出て、住宅の間を抜けて、暗い道を曲がって、もう一度曲がった。
アサミの足音は確かにあった。
息も聞こえた。影も見えた。だから追えた。
なのに、最後の角を曲がった瞬間、音が切れた。
そこには、暗い空間があるだけだった。
道ではない。行き止まりでもない。壁でもない。
ただ、暗さが溜まっている場所。
街灯の光が届かないのではなく、届こうとして途中で吸われる。
光のほうが負ける暗さだった。
ハルトは一歩踏み出しかけて止まった。
踏み出したら、確定する。
確定したら、ここが“行き先”になる。
息を吸うと、白い廊下の匂いがした。
ハルトは喉の奥で名前を呼んだ。
「……アサミ」
返事はなかった。
返事がないのが、まだ救いだった。
返事があると、そこにいることが確定する。
背後で、砂利が鳴った。
振り向く前に、声がした。
第16章: 『ランドセル小僧』
「早いね」
偽物のハルトが、すぐ後ろに立っていた。
いつからいたのかわからない。
足音がなかった。
気配もなかった。
ランドセルは背負っていない。なのに、肩に紐の跡だけがある。
暗い空間を見て、当たり前みたいに言った。
「戻ったんだ。あの子」
ハルトはやっと絞り出した声で聞いた。
「お前、誰だよ」
「返せよ、俺の名前」
小僧が続けた。
「帰ったよ」
その言い方が、担任の「確認だけ」と同じだった。
事務的で、優しくて、遅い。
小僧はハルトの横をすり抜けて、暗い空間の前に立った。
そして、振り返らずに言った。
「名前、呼んじゃだめ」
「……誰の?」
小僧は首をかしげた。
「君の。それと、アサミの」
一拍置いて付け足す。
「どっちも、もう同じ音だから」
ハルトの背中が冷えた。
冷えは、怖さより先に来る。
ハルトは、もう一度聞いた。
「お前、誰なんだ」
小僧は答えなかった。答える必要がない顔だった。
小僧の輪郭が、一瞬だけ揺れた。
揺れは風じゃない。皮膚の下で何かが動く揺れだった。
砂粒みたいな、細かいざわめき。
次の瞬間、小僧の体がほどけた。
落ちるのではない。崩れるのでもない。散る。
黒い点が集まって、線になった。
線が文字になった。文字が空中に貼り付いた。
白い文字が浮いた。
確認だけ
第17章: 『ランドセル小僧の正体』
文字は、誰かの声より確かだった。声は消えるが、文字は残る。
文字が剥がれて、また集まった。
今度は人の形になった。小僧の形に戻った。
戻り方が滑らかすぎて、そこに骨がある気がしなかった。
「……何だよ、それ」
背後で、砂利が鳴った。
アサミが立っていた。
さっき追いかけたはずのアサミだった。
息が荒い。生きている。
「見ちゃったんだ」
アサミはハルトの顔を見た。
見られるだけで、少しだけ自分が確かになる。
「知ってたのか」
アサミは頷いた。
「全部は知らない。」
ハルトは暗い空間を見た。光が吸われていく場所。
「じゃあ何なんだ」
アサミは言葉を選んだ。選ぶときの沈黙は、本物に見える。
「集まってるだけ」
「何が」
「小さいもの。目に見えないもの」
ハルトは笑いかけてやめた。笑うと世界が整う。
整った世界は、あれに都合がいい。
アサミが淡々と言った。
「帰る場所がある。」
背中をぞこぞこと、悪寒が走る。
アサミは続けた。
「形は借り物。だから変わる。文字にもなる。名簿にも入れる。既読にもなれる」
「既読……」
「うん。記録のほうが強いから。記録に入ったら、そこが家になる」
ハルトは息を止めた。母の「おかえり」が頭の中で鳴った。
「じゃあ、俺は何なんだ」
アサミは答えなかった。
答えたくないのではなく、答えられない顔だった。
第18章: 『文字』
小僧が、二人の間をすり抜けた。
すり抜けるとき、匂いがしなかった。温度もなかった。
小僧は暗い空間の前に立った。
そして、こちらを見た瞬間
小僧の足元に、黒い点が落ちた。
それは、文字を作った。
『ア』
そこで止まった。
次の字を作ろうとして、作れないみたいに揺れた。
アサミが言った。
「見ないで。読まないで」
ハルトは目を逸らせなかった。
読むなと言われるほど、読む行為が確定になる。
小僧が言った。
「でも、音なら簡単」
そして、ハルトの声で言った。
「アサミ」
呼ばれたのに、誰も返事をしなかった。
暗い空間の中で、何かがひとつだけ、確かに動いた。
アサミが振り向いて叫んだ。
「聞いて、ハルト。私たちだけじゃない!」
言い終わる前に、足音がした。
第19章:『担任』
暗い空間の手前、街灯の境目に人影が立った。
担任だった。
いつものジャージ。いつもの姿勢。
夜の公園にいるのが不自然なのに、不自然さが感じられない。
ハルトは思わず安堵の息を漏らした。
「せ、先生……っ!」
「先生、助けてくれ! 俺、わけが分からなくて……」
ハルトは一歩前に出かけて止まった。声だけは先に出た。
アサミがひゅと息を吸った。
止めようとしたが合わない。
「いまそこに!」
担任は返事をしなかった。
その代わり、スマホが鳴った。
ピコン――。
その時、ハルトの手の中でスマホが短く鳴った。 視線を落とすと、液晶画面にポップアップが表示されている。
差出人は『担任』。
『お前今どこだ? お母さんから、ハルトがまだ帰ってないって学校に電話があったぞ。何かあったのか?』
「え……?」
ハルトの思考が、一瞬でフリーズした。 メールの文面を、何度も何度も頭の中でなぞる。
いま、お母さんから学校に電話があった?
先生は、学校の職員室からこれを打っている……?
ハルトは、ゆっくりと、恐る恐る顔を上げた。
目の前に立つ担任は、ポケットに両手を入れたまま、微動だにしていなかった。
スマホを取り出す素振りはおろか、指一本、髪の毛一筋さえも動かしていない。 そしてその顔は、昼間の職員室で見せるような快活なものではなかった。
笑っていなかった。
液晶画面の向こうにいる本物の先生は、今も学校で俺を探している。
目の前の担任は、一度も瞬きをしなかった。
第20章:『確認だけ』
『はい。確認しました。』
担任のメールはそこで終わった。
それが誰に向けたものかわからないままだった。
ハルトは後ずさった。
アサミが小さく言った。
「…見ないで」
担任の輪郭が、一瞬だけ揺れた。
揺れは目の錯覚じゃなかった。
服の縫い目がほどけるみたいに、肩の線がずれた。顔の影が粒になった。
担任の表情が、紙に印刷された表情みたいに平らになった。
次の瞬間、担任の形が崩れた。
崩れた。
倒れない。
黒い点だった。
人の形を作る途中で、文字になりかける。
空中に、白い文字が浮いた。
『確認だけ』
ハルトが声を出そうとした瞬間、目の前の「担任」がもう一度形を整えた。
今度は担任ではない顔だった。
小僧の顔だった。
ランドセルの肩紐の跡だけを残した、小さな肩。
小僧はアサミの声で静かに言った。
「そういうこと」
アサミが息を呑んだ。
小僧はハルトの声で言った。
「帰れ」
どこへ、とは言わなかった。
言わなくても、帰り先は用意される。
ハルトのポケットで、またスマホが震えた。
画面には担任の名前。
アサミが息だけで言った。
「……取って」
ハルトはおそるおそる通話を取った。
担任の声がした。
いつもの声。
いつもの温度。
確認の声。
「お前、今どこだ?」
ハルトは答えようとして、声が出なかった。
担任は返事を待たずに続けた。
「学校から帰ってないって、お母さんから電話がかかってるぞ」
間があった。紙をめくる音がした。職員室の匂いが混じった。
「……えっ? 帰ってきた?」
誰に聞いているのかはわからなかった。
わからないまま、話は進む。
担任の声が少しだけ柔らかくなった。
「あー、お前、今、玄関か」
ハルトの胃が沈んだ。
玄関。
“帰っている”はずの場所が、電話の中で先に特定される。
「ああ、よかった。じゃあ明日な」
切る音。
ハルトはまだ、一言も話していなかった。
第21章:『通話』
担任は、再びそこに立っていた。
電話は持っていない。
ポケットも探らない。
無表情のまま、じっとこちらを見ている。
時々、輪郭が動いた。
肩の線が、ほんの少しずれる。
顔の影が粒になる。
粒がまた並んで、表情を作ろうとして失敗する。
失敗した表情は無表情に戻る。
アサミが小さく言った。
「……それ、担任じゃない」
ハルトは息を吸った。吸った息が冷たい。
担任の形がほどけ始めた。
黒い点がばらばらになり、空中に薄く広がった。
『確認だけ』
文字が一瞬で消えて、また点に戻った。
点が集まって、また担任の形になった。
同時に、また同じ声がした。
担任の声で、さっきと同じ調子で。
「お前、今どこだ?」
少し間があいた。
「お前、今どこだ?」
また同じ声だった。
目の前の担任は電話も持たないまま、無表情で立っている。
輪郭だけが、小さく揺れ続けていた。
そして、またばらばらになった。
同時に、また再生した。
「お前、今どこだ?」
揺れが止まる。
通話が切れても、ハルトの耳には担任の声が残っていた。
「玄関か。じゃあ明日な」
目の前の担任は、無表情で立っている。
輪郭だけがときどき揺れる。
崩れて、点になって、また形になる。
同時に、また同じ声が再生された。
「お前、今どこだ?」
第22章:『既読』
ハルトはスマホを握り直した。
画面には、母からのライン。
「どこ? まだ?」
返事は打たない。打てば場所が確定する。
その瞬間、表示が変わった。
既読 2
ハルトの指が止まった。
次の瞬間。
既読 3
誰かが読んでいる。
母でも自分でもない誰かが、このやり取りを“確認”している。
目の前の担任の輪郭が、少しだけ笑う形になった気がした。
気がしただけだ。
でも、その「気がした」だけで十分だった。
ハルトはスマホを伏せた。
伏せても、通知音だけが続いた。
日常だけが、進んでいった。
第23章: 『取り残される』
「ひっ……」
アサミは、顔を引きつらせ身をひるがえし、夜の闇に向こうへ走った。
「待って」
ハルトは、再び一人になるのを嫌った。
アサミは走った。追いつけない速さではなかった。
それでも、追いつけなかった。
戻ることを選んだように見えた。
追うのをやめたとき、ハルトは気づいた。
アサミは戻った。
戻ることを選んだ。
見えるものに目をつぶれば、生活は回る。
呼ばれる名前に頷けば、席は埋まる。
誰かが代わりに返事をしても、日常は成立する。
成立する日常のほうが強い。
アサミはそれを知っていて、知っているから逃げた。
罪悪感と不安を抱えたまま、日常へ戻った。
戻れば、周囲は「助かったね」で終える。終えたものは確定する。
残るのは、言えなかったことだけだ。
ハルトは暗い空間の前に立っていた。
そこは道でも壁でもなく、暗さだけが溜まっている場所だった。
光が届かないのではない。届こうとして途中で吸われる。
暗さの中に、白い廊下の匂いが混じっている。
背後に気配があった。
ランドセル小僧が立っていた。
さっきからそこにいるみたいに、当然の顔で。
小僧はニコニコしていた。
口が動いた。
何か言った。
ハルトには聞こえなかった。
聞こえなかったのに、その言葉だけは、すでに誰かに届いている気がした。
スマホが伏せたまま震えた。
通知音が鳴った。
日常が、勝手に続いていく。
ハルトはそれを止める方法を知らなかった。
止めた瞬間に、自分が消える気がした。
暗い空間は、何も言わずにそこにあった。
測れないまま、形を変えながら。
ただ、生存を淡々と繰り返していた。
第24章: 『分解』
ハルトは暗い空間の前に立っていた。
ランドセル小僧が背後でニコニコしている。
ハルトはスマホを見なかった。
見れば日常が動いているのがわかる。
わかれば自分がいらないのとわかる。
足元の影が薄かった。
外灯は点いているのに、影が出ない。
影が出ないものは、そこに立っていないのと同じだ。
手を握った。
握れた。
指は動いた。
皮膚もある。
痛みもある。
だから、自分はまだ消えていない。
そう思った瞬間、爪の先だけが白くなった。
白い粉の白さだった。骨の白さではない。紙の白さに近い。
ハルトは爪を見つめた。
爪の白さが、少しずつ粒になっていく。
粒は落ちない。空気に散らばっていく。
黒い点が集まって形になるのを、さっき見た。
同じことが自分に起きているのだと理解するのに、時間はかからなかった。
理解した瞬間、進行が速くなった。
皮膚の境目が曖昧になった。
指と空気の境目。
袖と腕の境目。
境目が測れない。
境目が測れない。
それだけで十分だった。
ハルトは自分の名前を心の中で言った。
言い切る前に、誰かの声が重なった。
同じ音で。
ハルト。
自分の音なのに、自分のものではない。
ランドセル小僧が近づいてきた。
小僧の顔は笑っている。笑いはずっと同じ形だった。
小僧が指を伸ばした。
触れられた瞬間、ハルトの腕の表面がざわっと揺れた。
皮膚の下で、細かいものが動く揺れ。
揺れが揃って、規則になった。
規則になったものは、並べられる。
並べられたものは、文字になる。
ハルトの腕に、薄い線が浮いた。
線は文字になりかけた。自分の名前の最初の一文字。
そこまでできて、止まった。
小僧は楽しそうに首をかしげた。
そして、口を動かした。
聞こえない。
ただ、ハルトの体のどこかが、その口の形を読んでしまった。
読んだ瞬間、ハルトの胸の奥が軽くなった。
軽くなるのは助かることじゃない。
軽くなるのは、減ることだ。
彼は気づいた。
分解が、始まった。
痛くないから止められない。
痛みがないものは、異常だと判定されない。
判定されないものは、処理されない。
処理されないまま、進む。
ハルトの指先が、ふっと消えた。
消えたのに、指先の感覚だけが残った。
残った感覚は、行き場がない。
行き場がないものは、どこかに貼り付く。
貼り付く先は、記録だ。
出席簿。
名簿。
連絡網。
当番表。
既読。
日常の紙。
日常の画面。
ランドセル小僧が、にこにこしたまま、何かを言った。
ハルトには聞こえなかった。
でも、その言葉が
『確認だけ』
だったことは、なぜか分かった。
分かった瞬間、ハルトの輪郭がまたひとつほどけた。
ほどけた粒が、暗い空間のほうへ吸われていった。
吸われるのではない。
帰るのだ。
測れない場所へ。
第25章: 『融合』
ハルトは最後に、自分が中学生だったのかどうかを思い出そうとした。
思い出す前に、名前だけが残った。
音だけが残った。
誰の音か、もう区別がつかなかった。
ハルトは分解の気持ちよさを知ってしまった。
痛みがない。
抵抗がない。
境目がほどける。
ほどけた分だけ、軽くなる。
軽くなると、考えが減る。
考えが減ると、怖さも減る。
暗い空間の前で、彼は自分の指先を見た。
指先は白い粒になって、風もないのに散っていく。散り方がきれいだった。花粉みたいに規則正しい。規則正しさが、安心に似ていた。
「……疲れた」
声にしたつもりだった。
声は空気に触れなかった。触れない声は、気持ちだけになる。
気持ちだけになったものは、曖昧で、楽だ。
背後でランドセル小僧がニコニコしていた。
小僧の輪郭が揺れた。
揺れが細かい点になり、点が線になり、線がまた人型に戻る。
形を選ぶのが遊びみたいだった。
小僧が近づいた。
距離が縮まると、ハルトの分解が速くなる。速くなるほど、心地よさが増える。
心地よさは許可に似ていた。
小僧が手を伸ばした。
ハルトは、その意味を知っていた。
“融合”という言葉は使わなかった。使わなくても、体が理解してしまう。
ハルトは頷いた。
頷いた瞬間、周りの音が止まった。
第26章: 『変形』
小僧の輪郭がほどけた。
黒い点が噴くように広がり、ハルトの粒と絡み合った。
粒と粒が混じる。
境目が消える。
境目が消えるのは、いつも気持ちよかった。
なのに。
混じり始めたところで、何かが引っかかった。
ザラ、と音がした。
音がしたのに、耳では聞こえない。体の内側で鳴る音だった。
粒が一斉に止まった。
止まった粒は、次の瞬間、逆向きに並び始めた。
並ぶ。並ぶという行為が、突然“苦しい”に変わった。
形を作るのは、楽なはずだった。
分解の反対は、ただ戻るだけのはずだった。
でも、これは戻りじゃない。
変形だ。
粒が勝手に組み替わっていく。
誰も指示していないのに、指示があるみたいに。
ハルトの中に、知らない記憶の断片が刺さった。
白い廊下の匂い。
名簿の紙。
既読の数字。
担任の声。
母の背中。
アサミの笑い。
全部が一緒に入ってきて、同じ場所に収まろうとする。
収まらない。
収まらないから、形が歪む。
歪んだまま、固まろうとする。
小僧の点が、ハルトの粒を押し広げた。
押し広げられた粒が、別の並び方を始めた。
指が増えた。
皮膚がない。
代わりに、薄い膜が張る。
膜の内側で、黒い点が流れている。
融合の途中で、彼は自分の名前を思い出した。
思い出した瞬間、名前が外へ漏れた。音にならずに漏れた。
漏れた名前に、暗い空間が反応した。
矛盾が起きた。
矛盾は、割れる。
暗い空間に亀裂が入った。ひびは光を吸わなかった。
逆に、光が漏れた
その光に触れた瞬間、黒い点が一斉に悲鳴みたいに散った。
散るのに音はない。音がないのに、痛みが来た。
痛みは久しぶりだった。
痛みが来た瞬間、ハルトは「自分」に戻った。
戻った、というより、戻される。
粒が勝手にほどけて、勝手に並び直されていく。
並び直される途中で、彼は見た。
小僧の点の群れが、光を嫌がっている。
光は記録じゃない。
あれは近づかなかった。
小僧の輪郭が崩れた。崩れながら、最後にひとつだけ形を作った。
文字。
『確認だけ』
そして文字も散った。
散りながら、点がハルトに絡みつこうとする。
融合を続けようとする。
続ければ気持ちいい。気持ちいいから許したくなる。
許した瞬間に、また変形が始まる。
そのとき、亀裂の向こうから、誰かの声がした。
名前を呼ぶ声だった。
どの名前かは、わからなかった。
わからないのに、体が反応した。
それだけで十分だった。
第27章: 『ライン』
小僧の輪郭がほどけた。
黒い点が空気に広がり、ハルトの輪郭に触れた。
触れたところから、ハルトのスマホが震えた。
画面が勝手に点いた。
母からのライン。
『どこ? まだ?』
返信欄に、勝手に文字が並んでいく。
『今、家の前』
送信。
ハルトは動いていない。
親指は画面に触れていない。
なのに会話は成立した。
母からすぐ返事が来た。
『おかえり。早く上がって』
それを読んだ瞬間、ハルトの喉が勝手に緩んだ。
帰る場所が用意されると、体が従ってしまう。
小僧の点が、さらにハルトに絡んだ。
今度は部活のグループが震えた。
『明日7時な。ハルト、来れる?』
返信が勝手に送られる。
『行ける』
既読が増える。
既読 6
増え方が滑らかすぎて、止めどころがない。
ハルトは理解した。
融合は、肉体じゃない。
“日常”と融合する。
自分がいなくても回る会話。
自分がいなくても埋まる名簿。
そこに混ざった瞬間、ハルトは「本人」である必要がなくなる。
くずれかけた小僧の顔がにこにこした。
口が動いた。
聞こえない。
でも、その言葉だけは読めた気がした。
ハルトの輪郭が、もう一段ほどけた。
ほどけた粒は暗い空間に吸われていった。
吸われた先で、文字になるのがわかった。
ハルトという音が、誰かの手続きになった。
第28章: 『帰宅』
ハルトは気づくと自分の部屋にいた。
机の上に教科書。
制服は椅子の背。
窓の外は朝の光。世
界はきちんと揃っていた。
揃いすぎていた。
昨夜の公園の暗さは、どこにも残っていない。
砂利の音も、外灯の白さも、担任の無表情も、アサミの息の荒さも。
残っているのは、自分の中の映像だけだった。
映像は薄い。触れない。匂いがない。温度がない。
夢みたいだった。
夢だと言い切れれば楽だった。
だが夢なら、心臓の重さまで思い出せないはずだ。
思い出せる。
思い出せるのに、証明できない。
スマホを見ると、通知が並んでいた。
サッカー部。
母。
担任。
いつもの連絡が、いつもの調子で続いている。
ハルトはラインを開いた。
昨夜の時間に、確かに送られている。
ハルトはその文を眺めた。
自分で打った記憶はない。でも、否定できない。
否定できないのに、肯定もできない。
記憶は曖昧だ。形がない。どこにも残らない。
残らないものは、採用されない。
一方で、残るものがある。
担任からの通話履歴。
同じ時刻に、同じ相手。
同じ内容。
何度も。
『確認だけ』
相手の名前がいつの間にか変わっていた。
『確認だけ』
ただ、その二文字だけが相手欄に収まっている。
ハルトは画面を閉じた。
「これで、生きられる」
そう判断された。
第29章: 『通学路』
――カチリ、と世界の歯車が噛み合う音が聞こえた気がした。
「ハルト! 早く起きなさい、学校に遅れるわよ!」
ハッと目を開けると、眩しい朝の光が視界に飛び込んできた。
天井を見上げる。
背中には、いつも使い慣れたベッドのマットレスの感触。
お母さんのいつもの小言を聞きながら、ハルトは家を出た。
すべては終わったのだ。
あの不気味な出来事が、事実だったのか、それともただの長い悪夢だったのかは分からない。
別の次元に迷い込んでいるのかもしれない。
いや、そんな馬鹿なことはない。
ハルトはそう自分に言い聞かせ、白い朝霧の中を学校へと歩み進めていた。
制服のポケットに手を入れると、何か小さな塊を感じた。
それは、青い付箋だった。
ハルトは背中に冷たいものを感じ、恐る恐る広げてみた。
『つぎはあなた』
ふと、足元から「ザザン」と、重い水の音が聞こえた。
ロープがきしむ音。潮の香り。冷たい風。
「……え?」
ハルトがハッと周囲を見回したとき、視界を覆っていた朝霧が、ゆっくりと晴れていった。 そこは通学路ではなかった。
ハルトは、小さな観測船のデッキに立っていた。船は今、波に揺られながら、見知らぬ無人島の砂浜へと接岸しようとしている。
なぜここにいるのか分からない。
それでも、歩く場所だけは知っていた。
「ハルト」
振り返ると、そこアサミが立っていた。 けれど、彼女の身体はすでに、朝の光に透けるほど薄くなっていた。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ハルト、やっぱり、ダメだった。ごめんなさい……!」
「お前……」
「あなたのせい……」
「違う」
「違うの」
「ごめん」
彼女は取り乱したように叫び、それからすぐに、自分の頭を抱えて激しく首を振った。
それが、彼女の最後の言葉だった。
次の瞬間には、数千、数万の細か黒い粒子となって、サラサラと島の潮風の中にほどけて消え去った。
ハルトは、一人残された。
静まり返った無人島の渚。
ふと、自分の両肩に、奇妙な違和感を覚えた。 手を伸ばし、制服の襟元のあたりを触ってみる。
そして、ハルトはゆっくりと自分の背中に手を回した。
そこにあったのは、あの教室で転校生が背負っていた、ピカピカに光る、黒いランドセルだった。
不思議と、もう恐怖はなかった。
ハルトは静かに、ゆっくりと目を瞑った。 自分の身体の輪郭が、足元からサラサラと解けていくのが分かる。
細胞のひとつひとつが、島を形作る無数の生命たちと同化し、砂の中に溶け込んでいく、身体は砂にほどけていった。
意識が完全に島の大地へと溶け去る間際。 ざあざあと鳴り響く波の音の向こうから、優しくて、どこか懐かしい声が聞こえた気がした。
『――おかえり』
プロローグ: 島の発見
海図に載らない島があった。
載せようとすると、こちらが狂う。
衛星写真には、海の上に白い帯だけが残る。
そこに島影は写らない。
だが、船は座礁した。
誰かがいるはずなのに、誰も見つからない。
それでも報告書には、一行だけ書き加えられた。
「新島です」
その報告を受けた会議室では、誰も笑わなかった。
第1章: 会議
図に載らない島がある。載せようとすると、こちらが狂う。
海図の外に、白い帯ができた。
衛星画像は輪郭を結ばない。そこに“何か”があるはずなのに、白い靄が海面に貼りついて、島影だけを消してしまう。
気象では説明がつかない。海流でも説明がつかない。
それでも報告書には、説明が書き込まれていく。
「新島です」
報告したのは、資源庁から来た若い官僚だった。
誰も笑わなかった。
会議室の空気だけが変わった。
「衛星には?」と誰かが訊いた。
「輪郭は出ません。しかし反射はある。海面と一致しない散乱が続いています」
「火山性の隆起か」
「気象班は否定。海流班も否定」
「なら、余計に価値がある」
資源庁の若い官僚が言った。
価値、という言葉が出た途端、卓上の資料が急に硬いものに見えた。
資源、基地、航路、そして“線”の話。海は海のままでそこにあるのに、言葉ひとつで地図が膨らむ。
私は末席で黙っていた。海洋観測が専門ということになっている。便利な肩書は、いつも誰かの都合のいい場所へ運ばれる。
「白石先生」
名を呼ばれて顔を上げると、長机の向こうで海保の制服がこちらを見ていた。
「観測船に乗っていただきます。一次観測です。科学的所見が必要だ」
「断る自由はあるのか?」
私が言うと、若い官僚が笑った。歯だけが白かった。
配られた写真には、海の上に白い靄が帯のように寝ていた。靄の下に島影があるはずなのに、そこだけが都合よく消されている。周囲の波紋も、光の粒も、雲の影も写っているのに、島だけがいない。
「おかしいですね」
思わずそう漏らすと、隣にいた老いた測量官がぽつりと言った。
「島とは限らん」
私はもう一度写真を見た。
島だけが、いなかった。
島だという証拠は、まだ一つもなかった。
会議は二十分で終わった。
第2章: 観測船
観測船が、港を出るころには空が晴れ、船腹を打つ波は穏やかで、遠くの貨物船はまっすぐに日常へ向かって進んでいく。
こちらだけが、その日常の外縁に向かっていた。
「先生、あれは島だと思いますか。」
甲板で声をかけてきたのは、神崎という若い官僚だった。
若さに似つかわしくない目の下のクマが、彼の忙しさを表していた。
「まだ何も見てない。」
「予報では明日から時化ます。」
「海は予報どおりには動かんよ。」
神崎はつまらなそうにその場を離れ、老いた測量官の隣に立った。
「島のことなんですが、」
老いた測官は返事をしなかった。
「何を見てるんです?」
「海だ。」
老いた測量官は、それだけを伝えた。
第3章: 白い帯
私は右舷の手すりに寄り、海を見下ろした。
波はほとんどなかった。
にもかかわらず、船の脇の海面だけがしきりに泡立っていた。
洗剤を垂らしたような白い泡ではない。もっと細かく、もっと静かに、
泡は細かく震えていた。笑うのをこらえているように。
「見えますか」
振り返ると老測量官。
「泡が」
「泡だけではないでしょう」
私は答えなかった。
泡の下、陽の反射だけが途切れていた。
海の下に、白い紙を一枚、誰かがゆっくり差し入れているようだった。
その夜、船は予定海域の縁に達した。
第4章: 計器異常
船内の観測室では、測深器のログが規則正しく流れていた。
磁気、塩分、潮位、風向、海底地形。
どれも最初の半日順調だった。
機器は穏やかな唸りを返していた。
しかし二日目の明け方、最初に磁気が躓いた。
「またか」
主任技師が眉を寄せる。方位磁針は東を指したまま、小刻みに震えている。まるで目に見えない歯車に噛まれているみたいだった。
「電源系?」
「見た。異常なし」
その直後、測深値が三百二十メートルから十八メートルへ跳ね、次の瞬間には“計測不能”に変わった。
レーダー画面には白い点が無数に現れては消えた。雨雲のノイズにも似ていたが、空は晴れている。点は海面すれすれに集まり、何かの輪郭を作りかけてやめる。
「鳥群?」
「この海域に?」
「浮遊物かもしれない」
「浮遊物が等間隔で瞬くか」
乗組員の声が重なり、誰もすぐに黙った。
「衛星には?」と誰かが訊いた。
神崎が受話器を耳から離した。
「衛星も駄目です。」
「輪郭は出ません。しかし反射はある。海面と一致しない散乱が続いています」
「火山性の隆起か」
「気象班は否定。海流班も否定」
近づくほど、機器は不機嫌になった。磁気が揺れる。測深が跳ねる。レーダーは海面に無数の点を吐き、消して、また吐いた。
乾いた音がした。
「パキン」、と。
音は霧の奥から、あるいは船底のさらに下から響いた。
「今の、聞きました?」と神崎。
「聞こえた。」
老測量官はそれだけ言った。
主任技師が小さく言った。
「何が割れた。」
誰も答えられなかった。
船窓の外では、いつのまにか霧が出ていた。
白いというより、色を忘れたものの集まりだった。
海面に薄く貼りつき、波ではなく呼吸のようにゆるく上下している。
その向こうにあるはずの水平線が、どこにもなかった。
世界の継ぎ目が、見えなくなっていた。
第5章: 観測
観測は続行された。
「投下します」
神崎の合図で、無人ブイが海へ下ろされた。
黄色い筒体は静かな水面に着水し、ふつうなら数秒で姿勢を立てる。だがそのブイは横倒しのまま、見えない棚の上に置かれたように動かなかった。
「ロープが張ってる?」
「いや、切ってある」
次の瞬間、ブイがひとりでに三メートルほど滑った。波も風もない方向へ、音もなく。
私は背中にぞくりとしたものを感じた。
「何かある。」
「なら映る。」
主任技師が言い返す。
誰も何も言えなかった。
昼過ぎ、霧の密度が急に変わった。窓の外が白くなるのではなく、近くのものから順に“薄く”なっていく。
手すり、クレーン、甲板の端。輪郭が削られ、空気へ混ざっていく。
「白石先生」
神崎が小声で呼んだ。
その時だった。
艦橋で警報が鳴る。
位置情報の逸脱アラームだった。
「そんなはずない!」
主任技師が叫ぶ。
「船位が二海里、いや三海里飛んでる!」
「GPSの異常だろ」
「全部です。GPSも慣性もバックアップも、別々の座標を返しています!」
別々の座標。
地図というものが、
急に頼りない紙切れに思えた
夕方、霧がわずかに裂けた。
「あれを見ろ」
主任技師の指差す先に、黒い影が見えた。
第6章: ポン
「あれが……島?」神崎が囁く。
「まだ、そう呼ぶな!」
白石は思わず言っていた。
呼んだ瞬間に、近づいてしまう気がした。
近づくほど、機器は不機嫌になった。磁気が揺れる。測深が跳ねる。レーダーは海面に無数の点を吐き、消して、また吐いた。波はないのに、海が泡立っている。霧の向こうで乾いた音がした。
ポン。
次は少し近くで。
ポン、ポン。
噴気かと思ったが、違った。
音の間隔が妙に規則的で、息をするみたいに繰り返される。白い靄の薄いところから、黒い岩肌がちらりと見えた。昨日より高い。写真の時間軸が否定した。確かに盛り上がっている。
「あれ、島が大きくなってませんか」
誰かが言った。
「島が育つわけないだろ」
笑い声のあとに、またポン。
白石は双眼鏡で海面を覗いた。
泡の縁に薄い膜がある。
膜の内側に、黒い点が見えた。点は砂ではなかった。動いた。というより、増えた。
その晩、船室で報告書を書いた。
未知のバイオフィルム。
局所的なガス発生。
析出する鉱物。つなぎ目が増えていく。固まる。膨らむ。割れる。固まる。膨らむ。割れる。
“微爆縫合”。
自分で書いて自分で笑った。だが他に言葉がなかった。
現象が先で、言葉が追いつかない。
翌朝、会議が開かれた。上の人間が増えていた。利権が近づくと、人は身だしなみを整える。
「上陸して確認する」
第7章: 上陸
技術者が止めた。地盤が不安定だ。ガスの成分が不明だ。
安全係数が取れない。正しい言葉が並んだ。
正しい言葉は、たいてい遅い。
三日後、靄は消えた。
幕が上がるみたいに、海は青くなり、島はむき出しになった。黒い岩の塊。濡れたガラスのような光沢。風は穏やかで、波も穏やかだった。霧が消えたことで、逆に怖さが薄れた。
夜明け前、上陸班の編成が決まった。
「十五分だけだ」
白石は、言った。
「採取と目視確認。異常があれば即時撤収」
小型艇に乗ったのは、白石と神崎、隊員二名、そして老測量士だった。
型艇の船底が、石でも砂でもないものに触れた。
ざらり、と紙を重ねたような感触だった。
神崎は先に降りた。
靴底の下には、湿った白灰色の面が広がっている。
砂ではない。岩でもない。押すとわずかに沈み、すぐ戻る。乾ききらない漆喰の上を歩いているような感触だった。
足元を見ると、無数の細い線が走っていた。 自然の亀裂には見えなかった。線は互いに交わり、湾を作り、岬を作り、等高線のようなうねりを見せている。
白石はしゃがみ込み、その一本に指を触れた。
冷たい。
そして、かすかに脈を打っている気がした。
老測量士が膝をついた。老いた指が白い面を撫でる。
「これは……まるで写図紙の目だ。昔の海図に使った罫線だ……」
しかし、お構いなしに測量は始まった。
旗を立て、杭を打ち。無線の声が弾んでいる。所有の儀式。人間はまず、目印を置く。それが自分のものだと信じるために。
白石は浜の手前で足が止まった。砂の粒が軽い。表面に薄い膜が絡んでいる。
膜の中で、黒い点が脈打つ。呼吸ではない。反応だ。
ポン。
足元で鳴った。小さすぎて爆発と呼ぶのも恥ずかしい音。
だがそれは合図だった。岩肌のあちこちで、同じ音が立った。
ポン、ポン、ポン。島全体が同じ工程を繰り返している。
神崎が叫んだ。
「攻撃だ!」
白石は首を振った。
違う。
攻撃ではない。
意志を見ているのは、人間のほうだった。
次の瞬間、地面が内側から裂けた。
神崎は逃げる途中で転び、靴を泥だらけにして走った。
爆発ではない。熱と光と、硫黄の臭い。
白い粒が空に舞い、海へ落ちた。衝撃で鼓膜が揺れた。
世界が一瞬だけ無音になり、そのあと海の音が戻ってきた。
煙が晴れたとき、そこに島はなかった。
海面には薄い膜の切れ端が漂っていた。
ゼリーのようで、蜘蛛の巣のようで、
どこまでも繋がっていて、どこまでも切れている。
第8章: 帰港
私はそれを瓶に入れ、顕微鏡で覗いた。
無数の“つなぎ目”が見えた。
つなぎ目の中心に、黒い点があった。
点は分裂していた。
増えるたびに薄い膜を吐き、膜の縁に白い結晶が付く。
結晶が増える。膜が厚くなる。点がまた分裂する。
それだけだ。
最終章・結び:『潮目の向こう』
穏やかな波をかき分けて進む、一隻の小型船があった。
デッキには、一人の男と、その息子である男の子が並んで海を見つめている。
「海に白い線があるよ! あれは何?」
男の子が身を乗り出し、はるか前方の海面を指さした。
青い境界線に、不自然な白い帯が長く伸びている。
「あー、あれは潮目だ」
父親は目を細め、息子の頭を優しく撫でた。
「違う海流がぶつかり合う場所でね。プランクトンとか、目に見えない小さな微生物がたくさん集まっているんだよ」
「お父さん! この辺りが、お父さんが昔、観測隊で行ったところ?」 男の子が、無邪気な瞳を見上げて訊ねる。
「そうなんだよ」
父親は遠い海平線を見つめ、ぽつりと言った。
「……でも、何もなかったんだ。確か、何人かのチームで行ったはずなんだけどな。なぜか当時の記録が、データもノートも、何一つ残っていなくてね。おかしいな……。あれ? 確か、あそこには誰かがいたような――」
その時、船底を何かが激しくこすったように、船体がぐらりと大きく揺れた。
「うわっ!」 「危ない!」
父親は慌てて息子の身体を抱き寄せた。
波ひとつない穏やかな海だ。座礁するような浅瀬でもあるはずがない。 父親はハッとしたように瞬きをひとつすると、まるで今までの思考を綺麗に消去されたかのように、うつろな声で呟いた。
「……いや、やっぱり、何もなかったな」
「あれ? お父さん、いま、島が見えたよ! あっちの方に!」 男の子が再び海を指さす。朝霧の向こうに、一瞬だけ、ごつごつとした岩肌と原生林に覆われた不気味な島の影が浮かび上がった。
「え? 何もないじゃないか」 父親は怪訝そうにその方向を見るが、そこにはただ、どこまでも平坦な海が広がっているだけだった。
「何もなかったんだよ、あの時も。……おい、あまり身を乗り出したら危ないぞ! こら、ハルト!」
「はーい」
ハルトと呼ばれた男の子は、楽しそうに笑って父親の袖を掴んだ。
引き返していく親子。二人の笑い声が、穏やかな海原に溶けていく。
だが、彼らは気づいていなかった。
白い潮目は、何事もなかったように揺れていた。